2019年03月17日

俳句日記 (467)


難解季語 (9)

さおひめ(佐保姫)

 春を司る女神。平城京の東に今は運動場や公園になっている丘があり、それが佐保山。裾には桜並木の佐保川が流れる。四季を東西南北に配すると春は東に当たるので、奈良時代の人たちは佐保山の神を春の女神とした。文化5年(1808年)に刊行された季語辞典『改正月令博物筌』には、佐保姫について「春の造化の神なり かたちあるにあらず 天地の色をおりなすをかりに名づけたるなり」と解説している。つまり、あたりの景色が春の色を帯びて来るのを女神のたたずまいに仮託したというのである。なかなか洒落ている。
 これに対置して秋の女神は「竜田姫」という。これまた奈良の西部生駒郡の山々の神様で、麓を紅葉の名所竜田川が流れている。
 このように春と秋を司るのは女神だが、夏と冬は荒々しい男神である。夏は南で「炎帝」、冬はもちろん北で「冬帝」あるいは「冬将軍」ということになる。
 昔の俳句(俳諧)は四季それぞれを女神、男神になぞらえて詠むことが多かったが、現代俳句では「冬将軍」が時々使われるくらいで、ほとんど詠まれなくなってしまった。気象学の発達で、四季の移り変わりがどうして起こるのかなどを子供まで知るようになったせいで、神様にお出ましを乞うことも無くなったということなのだろうか。しかし現実には天気予報の的中率は未だ大したことはない。明日の天気ですら八割当たるかどうかである。ましてや長期予報などは極めていい加減。人間、まだまだ偉そうなことは言えないのだ。
 「春は佐保姫という女神が運んで来る」というのは何ともロマンチックな感じがしていい。佐保姫様はやせっぽちか、ふくよかに膨らんでいるのか、目はぱっちりか細いのか、白いお肌が透けて見えるような薄い衣をなびかせて出現するのか等々、あれこれ思い描きながら明日の天気を占うのも楽しい。

 佐保姫の春立ちながら尿をして   荒木田守武
 佐保姫は白き障子を隔かな     夏目 成美
 佐保姫の先触れや雨こまやかに   小澤満佐子

 ふくよかな佐保姫浮かべ吟醸酒   酒呑洞水牛
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2019年03月15日

俳句日記 (466)


難解季語 (8)

たかかしてはととなる(鷹化して鳩となる)

 二十四節気は一年を二十四分割して各月の前半十五日を「節」、後半十五日を「中」と呼んで、その半月の特徴的な季節現象を示し、暦の補助としたものである。この節気をさらに五日ずつに小分けして季節推移と気象変化をより細かく説こうと、それぞれに象徴的かつ印象的な短文を示したのが「七十二候」である。
 二十四節気や七十二候は古代中国殷・周の都があった黄河中流域、現在の河南省あたりの気候風土に基づいて作られたから、日本の季節変化とは少々異なるが、奈良の朝廷はほぼそのまま取り入れた。その後部分的に日本流に改良を加えたものの、「二十四節気七十二候」はなんと千数百年間、第二次大戦後まで用いられ続けた。今でも日めくりカレンダーにはそれが印刷されているが、さすがに理解する人が少なくなって来ているようだ。
 「鷹化して鳩となる」もその一つで、二十四節気の「啓蟄(けいちつ)」の最後の五日間(三候)の日和を述べたものである。今日のカレンダーで言えば、3月16日から20日頃である。うららかな日和に、猛禽の鷹もすっかり穏やかに、まるで鳩のようになるというのである。全くばかばかしいような喩えだが、俳諧などをやる人はこういうのが大好きで、季語に取り入れた。
 しかしこれだけで10音も取ってしまい、とても句が作りにくい。「鷹鳩と化し」と縮めたが、それでも7音。実作向きの季語ではないが、面白いから、はめ絵パズルでもやるように、これで句を作る人が今でもぽつぽつ居る。

  新鳩(あらばと)よ鷹気を出して憎まれな  小林 一茶
  鷹鳩に化して青天濁りけり         松根東洋城
  鷹鳩と化し神木は歩かれず         鷹羽 狩行

  鷹鳩と化してたゆたふ日本国        酒呑洞水牛
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2019年03月14日

俳句日記 (465)


難解季語 (7)

きたまどひらく(北窓開く)・めばりはぐ(目貼剥ぐ)

 昔の日本家屋は通風を良くするため、東南向きあるいは南向きに建てるものとされていた。こうすると風が家の中を正面(南)から裏(北)へ吹き抜け、日本の夏の特徴である蒸し暑さが軽減される。加えて昔は油が高価だったから、出来るだけ朝早くから暮れるまで日の光を入れて行灯など照明の助けを借りずに済む時間を延ばそうとの考えもあったようだ。
 兼好法師は「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は堪へ難き事なり」(「徒然草」第五十五段)と言った。家は夏を主に考えて造るべきだ。冬はどのようにしても何とか過ごせるが、暑熱の頃に(風通しなどの)悪い住居はどうにも堪えられないというのだ。確かに京都の夏はひどいからこう述べたのだろう。
 しかしこうすると、冬場が問題である。北風が吹きつのる。木造家屋には隙間がたくさんある。建具と框(かまち)や敷居との間、柱と壁の間から冷たい隙間風がすーすー吹き込んで来る。暖房器具は囲炉裏と火鉢だけという家が多いから、隙間風が当たる背中や腰はたまらない。
 これを防ぐ為に冬を迎えるに当たって、どこの家も北窓をしっかり閉じて、外側から板や筵(むしろ)で覆う。家の内側からは窓と柱、柱と壁の隙間に紙を貼る。こうした作業が重要な冬支度の一つとされ、「北窓塞ぐ」「目貼」が冬の季語になった。
 さて春三月、関東地方以南は陽春、東北もぐんと春めいて来ると、北窓を塞いでいた板や筵をはずし、家中の目貼を剥ぐ。いままで日中でさえ暗かった部屋が急に明るくなり、家族皆が元気になったような感じがする。これが仲春の季語「北窓開く」と「目貼剥ぐ」である。
 いかにも「春が来たなあ」と感じさせるこの二つの季語も、近ごろはとんとお呼びで無くなった。一九六〇年代後半からアルミ製のサッシ建具や新建材の普及によって、一般の住宅も機密性が格段に高まった。隙間風なんて何処吹く風かということになっては、目貼の出番は無い。
 ただ近ごろでは、重く寒い冬空が明るい春の空に変わって、身も心も解き放たれるような感じになるという心の動きを表す材料として、「北窓開く」という季語が用いられるようになった。こうしてこの季語は細々と生きる場所を得ている。だが、「目貼剥ぐ」の出番はさすがに見つけにくくなってしまったようだ。
  目貼剥ぐや故里の川鳴りをらむ    村越 化石
  目貼剥ぐ海坂に藍もどりしと     成田智世子
  北窓を開けて身近き藪雀       田山 耕村
  白山の照る北窓を開きけり      小西 須麻

  北窓を開けてフィルム逆回し     酒呑洞水牛
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2019年03月12日

俳句日記 (464)


難解季語 (6)

やねがえ(屋根替)

 今日の住宅の屋根はコンクリート造は言わずもがなだが、木造モルタル造でもトタンや瓦などになっているから、その張替工事に季節性は無い。しかし、昔の住宅は藁葺き、茅葺き、板葺きが多かったから、この「葺き替え」が大仕事で、毎年、農作業が本格化する前の初春から仲春に行われるのが慣わしだった。そのために「屋根替」という春の季語が生まれた。
 屋根替は大事業で、とても自分の家一軒だけでは出来ない。膨大な量の茅や藁や竹材と、大勢の働き手が必要になる。そこで村には「結(ゆい)」という共同作業の組が生まれ、それが「今年は五兵衛の家と弥次衛門の家」というように順番を決めて、村中総掛かりで行った。茅の痛み具合にもよるが、普通10年で部分差し替え、20年から30年に一遍、総葺き替えの順番が回って来る。その家にとってはまさに一世一代の大事業である。屋根替えに必要な大量の萱(茅、薄)は晩秋から冬にかけて、これも共同作業で共用の萱場から刈り取り、集積場に溜めて置いたものでまかなう。
 村民の住居だけではなく、寺や神社、村の集会所、御堂といった公共施設の屋根の葺き替えも大仕事だった。こうした共同作業を通じて、地域共同体の一体感が醸され、村民同士の意思の疎通が図られた。それによって親しみが増すのと裏腹に、病弱故に皆と同じように働けずに逼塞する人、何らかの事情によって仲間に加われず結果的に除け者にされてしまう人も出て来る。そうした裏側のもろもろも出てきてしまうのが、「屋根替」という共同作業の一側面だった。
 とにかく、この「屋根替」はここからいよいよ春が始まると言っても良いくらいの、日本の山村の春先の一大イベントだったのである。
 一九八〇年代以降の高度経済成長時代、農村から若者が都会へどんどん出てしまい、過疎化した田舎の茅葺屋根は腐るにまかされ、辛うじて親世代が元気な家は屋根全体をトタンで覆ったり、新しい金属や軽い瓦で葺き替えたりして、茅葺は激減した。しかし、相変わらず茅葺屋根を残した豪農が各地に残っており、また各所の民家園には移築された重要文化財級の建物も多い。その他、由緒ある寺社建築の茅葺きもある。こうした貴重な建物の屋根替が今大変難しくなっている。熟練の屋根替職人が年々高齢化し、少なくなっているためだ。
  屋根替の萱つり上ぐる大伽藍     松本たかし
  屋根替の一人下りきて庭通る     高野 素十
  屋根替へて雨だれそろひ落つる朝   阿波野畝
  仏たち立ちのき給ひお屋根替     野島無量子
  葺替へて張り出し窓に灯の満ちて   香西 照雄

  屋根替ゆる老職人とアルバイト    酒呑洞水牛
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2019年03月10日

俳句日記 (463)


酔吟会第139回例会が開かれた
「麗らか」と「鰆」を詠む

 3月9日(土)午後1時から東京・千代田区内神田の日経広告研究所会議室で酔吟会の三月例会(通算139回)が開かれた。このところの天候不順による春の風邪や、法事その他あれこれの用事で欠席する人が多く、出席は13人とこじんまりとした句会になった。
 この日の兼題は「麗らか」と「鰆」の仲春句会にふさわしい二題。雑詠を含め投句は5句で、投句総数は95句だった。選句は投句参加者が多いため8句とした。その結果、最高点は「竿あまた並ぶ運河のうらうらと 可升」の6点。二席5点は「鰆焼く意固地に黙る背中かな 水兎」、「金髪にせし妻の背に春の風 光迷」、「地雷なき国のしあわせ土筆摘む 春陽子」、「涙目で笑ふあざらし花粉症 水馬」の4句だった。三席4点は「うららかや野点の席に盲導犬 春陽子」「鍋蓋のタップダンスや春の宵 同」、「麗らかや豆粒ほどの鶴を折る 水兎」の3句。以下、3点が6句、2点11句、1点25句ということになった。
 この日の水牛句はあまり評判が良くなくて、「猫と話し烏と話しうららけし」が2点、「鰆鮨瀬戸の島々見下ろしつ」に1点入っただけだった。数日前から恒例の花粉症が始まり、一日中ぼんやりして力が入らない。そこで「うらららかに窓を開ければ花粉症」「目薬し春のマスクを掛け直す」とやったのだが、あえなく零点。鰆の西京漬が大好物なので、時々奮発する。山の神は「私は焼くのが苦手」と逃げちゃうから、私が慎重に焼く。まさに「焦げぬよう鰆味噌漬たからもの」なのだが、これも点が入らなかった。
 上記高得点句以外で気に入った句を挙げておこう。
『麗らか』
人違ひしてもされてもうららけし   嵐田 双歩
麗らかや妻の御機嫌よろしき日    大沢 反平
『鰆』
鰆競る港の紀州訛りかな       廣田 可升
水槽の鰆回遊無伴奏         野田 冷峰
歯を剥いて睨む鰆の貌可笑し     久保田 操
お多幸の鰆定食七百円        星川 水兎
仰ぎ見る石鎚山や鰆飛ぶ       谷川 水馬
『当季雑詠』
東京の団地の土手に蕗の薹      片野 涸魚
墓までは日の当たる道すみれ草    高井 百子
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2019年03月08日

俳句日記 (462)


難解季語 (5)

かめなく(亀鳴く)

 亀には声帯が無いから鳴くことはないと云われている。しかし、春になり池から這い出した亀が石の上などに日向ぼっこしているのを眺めていると、時にはクウクウとくらいは鳴くかも知れないと思ったりする。句友の双歩さんは千葉県の印旛沼の畔に住んでいるから亀とは昵懇で、生態に詳しい。「呼吸の具合なのか、グウとかぎゅうぎゅうとか、鳴いてるように聞こえることがありますよ」と言う。とにかく、いかにものんびりした気分の季語である。
 この季語の出所は、『夫木和歌抄』(鎌倉後期の類題和歌集、一三一〇年頃成立)にある「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」(藤原為家)という歌のようである。瀧澤馬琴編の「俳諧歳時記栞草」にも春二月の項に「亀鳴」が揚げられ、この和歌が載せられている。
 秋の季語に「蚯蚓鳴く(みみずなく)」というのがある。ミミズもやはり鳴いたりはしないのだが、秋の夜長に地面の下でジージーと寂しげな虫の鳴き声がする。一説には螻蛄(けら)の鳴き声だともいう。
 春といい、秋といい、何となくあいまいな季節の移り変りに、時として何のものとも分からない、かすかな物音が聞こえて来ることがある。別に怖くなるような声ではないが、何モノが発する物音なのか分からないことにはどうにも落着かない。そこで、亀や蚯蚓が鳴いていることにしてしまったのであろう。
 「亀鳴く」は旧暦二月の季語とされているから、今の暦で言えば三月から四月頃にあたるだろう。草が萌え、水は温み、オタマジャクシがうじゃうじゃと湧き出る頃合いである。春眠暁を覚えずで、人間もすっかりのんびりした気分に浸る。のんびりと歩いていたら、誰かに声をかけられたような気がして、振り返ると誰もいない。おやおや空耳だったのか、それとも異次元世界からの呼びかけだったのか。それを昔の人は亀が鳴いたのだととらえた。何とも不思議の世界に誘われる季語である。ただ、こういう気分を抱くようになるのは、かなり年齢を重ねてからのようだ。歳時記にある例句を見てもそう思う。確かに亀は、前へ前へと進む意気盛んな若者を呼び止めたりはしない。

  亀鳴くや事と違ひし志          安住  敦
  こんな夜は亀も鳴くかや集ひ来よ     高木 晴子
  亀鳴くや独りとなれば意地も抜け     鈴木真砂女
  人生のうしろの方で亀鳴けり       山崎  聰
  年輪か単なる皺か亀鳴けり        宮崎 すみ

  すいぎゅうと鳴きしは亀か朦朧か     酒呑洞水牛
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2019年03月06日

俳句日記 (461)


難解季語 (4)

けいちつ(啓蟄)

 三月六日は二十四節気の「啓蟄」。啓蟄の蟄は「蟄居謹慎」などと言うように「閉じこもる」意味であり、啓は「ひらく」。寒い時期に地中に閉じこもっていた虫たちが出て来て活動し始める頃合いを示す。中国から伝わって来た暦の立春から数えて三つ目、旧暦で二月の半ば、今のカレンダーでは三月初め、春らしくなった時期である。
 しかし「啓蟄」という字はいかにも難しい。意味もよく分からない。そこで俳人たちはこれを「地虫穴を出づ」と大和言葉に言い換えて季語にした。
 ただ最近は「啓蟄」と詠むことの方が多いようである。「地虫穴を出づ」では長すぎて使いにくいというのが最大の理由であろう。そこで「地虫出づ」の短縮形でもよろしいとなったのだが、「地虫がもぞもぞ這い出すなんて気持悪くて詠みたくない」という人が多くなってきた。都会住まいでは実際に「地虫出づ」光景を目の当たりにする機会など滅多にないという事情もあろう。さらに、「ケイチツ」という言葉には硬質の響きと難解語の持つある種の面白さもある。
 そんなわけで「地虫穴を出づ」という季語は最近かなり旗色が悪くなっている。しかしこの言い方にはユーモアがあって、なかなか面白いと思う。
 啓蟄が「春もそろそろ本番」という時候に重心を置いた季語であるのに対して、「地虫出づ」は春の気分を濃厚に持ちながらも、活動し始めた虫たちに視線を這わせ、より具体的に自然界の動きをうたい、そこから自らの心情を述べるといった具合に用いられることが多い。歳時記でも「啓蟄」は「時候」の部に、「地虫出づ」は「動物」に分類されている。
 地虫とは地中に冬眠する虫の総称であり、幼虫(芋虫)、サナギ、成虫といろいろの形態で冬ごもりしていたのが、春になると一斉に地上に現れる。昔の人はこれを見て、躍動の時節になったと感じたのである。なかでも最も人の目につくのは蟻である。冬には全く姿を消していたのに、暖かみが増して来ると、どこからともなく現れて、せっせと歩き回る。これなら今でも団地の公園でもよく見られるだろう。そのほか注意して見れば、地面にはいろいろな虫たちが活動し始めているのが分かる。
 それらをねらって蜥蜴(とかげ)も這い出して来る。所によっては蛇まで出て来る。昔は蜥蜴も蛇も、蛙や蟇(ヒキガエル)まで「虫」の一種として、これらが活動し始めるのをひっくるめて「地虫出づ」と言った。その中でも特に目立つ蟻、蛇、蜥蜴をそれぞれ「蟻穴を出づ」「蛇穴を出づ」というように別立ての季語に仕立てた。
 三月初旬は虫たちもそうだが、人間どもも、人事異動などあってもぞもぞ動き出す時期であり、「啓蟄」や「地虫出づ」をこうした人の動き、心の動きにからめて詠んだ句も多い。

  啓蟄の雲にしたがふ一日かな     加藤 楸邨
  啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる     山口 邨
  水あふれゐて啓蟄の最上川      森  澄雄
  地虫出づふさぎの虫に後れつつ    相生垣瓜人
  蒲団叩く音を二階に地虫出づ     平本くらら
  蟻穴を出でておどろきやすきかな   山口 誓子
  けつこうな御代とや蛇も穴を出る   小林 一茶
  とかげ出て腹温めをり座禅石     邊見 京子

  啓蟄や地下ホームより百五段     酒呑洞水牛
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2019年03月05日

俳句日記 (460)


番町喜楽会第159回例会

 3月4日(月)の夕方6時半から、九段下の千代田区生涯学習センターで番町喜楽会の第159回例会が開かれた。今冬の東京は氷が全く張らずに春になり、2月中に20℃を越えるなどバカ陽気にもなった。それが今日は朝からしょぼしょぼ雨が降り、最高気温10℃とぐんと冷え込んだ。これがこの時期の普通の気温だと言われても、急に寒さが戻ったから人体に与える影響度は甚だしい。そのせいか、急な風邪引きが2人出て、出席者15人、投句参加が6人、投句総数ちょうど100句の句会になった。
 この日の兼題は「彼岸」と「亀鳴く」。これに雑詠を交え投句5句、選句6句で進めた結果、最高は6点で番町喜楽会長高井百子さんの「亀鳴くやスーパームーンの跳ね兎」と、本日急な発熱で欠席した塩田命水さんの「的中の続く稽古や風光る」の2句が並んだ。このところ句会の成績上がらずもう一つ元気がなかった会長さんだが、春雨の中、颯爽たる足取りで懇親会場の九段下・丸屋に向かった。結構々々。
 次席5点は玉田春陽子さんの「入彼岸遺影は今も厳父慈母」と、命水さんの「旅芸人しゃぼんの玉に入りけり」の2句、三席4点は5句あり、この日から「俳号迷哲を名乗ります」と宣言した中村哲さんの「亡き友と昼酒を酌む彼岸かな」をはじめ、「すいぎゅうと鳴きしは亀か朦朧か 水牛」「春浅し位牌の父にチョコを分け 光迷」「噺家の羽織すべらし春の色 白山」「去る人の深きお辞儀や鳥曇り 命水」が続いた。命水さんはなんと「天・地・人」の三連弾であった。
 句会後の懇親会では水牛が毎回行っている全句評「結構ですなぁ」の披露、ブログ「みんなの俳句」に新執筆陣8人が加わることや、5月例会はゴールデンウイークの最終日6日(月・振替休日)になるが、「お休みにしましょうか、それとも強行開催しますか」との会長提案に、酒の勢いも多分に作用したに違いない、圧倒的多数で「開催」に決定するなど、大賑わいでお開き。
 上記高得点句以外に、水牛が「結構ですなぁ」で取り上げた「上々句」には次のようなものがある。
  彼岸入り擬製豆腐にこんにゃく煮   冷峰
  彼岸会や一族みんな孫世代      てる夫
  彼岸過ぎ最後となりぬ通勤路     的中
  四代の命集へり彼岸寺        而云
  気がつけば指揉んでいる彼岸冷え   斗詩子
  日時計に淡き光や彼岸過       双歩
  亀鳴くや五百羅漢の裏あたり     水兎
  亀鳴くや別れし人の数かぞへ     満智
  亀鳴くや見やう見まねのフラダンス  綾子
  人生のらせん階段亀の鳴く      二堂
  外来種みな駆除されて亀の鳴く    幻水
  育て上げしは男児三人雛あられ    可升
  朝練の櫂からこぼれ浅き春      水馬
  痒き眼や紛う方なく春来たる     木葉
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2019年03月01日

俳句日記 (459)


難解季語 (3)
じょうし(上巳)

 三月三日の「桃の節句」「雛祭」のことなのだが、今ではこの言葉は全くと言っていいほど使われなくなった。五月五日の「子供の日」を「端午の節供(節句)」と言うが、この方は今もよく言われている。
 上巳も端午も元は中国の祀りから出ている。古代中国では旧暦三月の最初の巳の日(上巳)には清らかな水辺に出て禊を行い、お神酒を飲んで汚れを祓い、健康長寿を願う風習があった。やがてその余興として、流れに盃を浮かべ、それが流れつくまでに詩を吟じたり作ったりする「曲水の宴」が加わった。これが奈良時代から平安時代に日本に伝わり、朝廷貴族の春の行事になった。端午は五月初めの午の日で、菖蒲や蓬を軒に挿して邪気を払い、やはりお神酒や菖蒲湯で健康を祈る祀りである。菖蒲は「勝負」に通じるので日本では武士階級の祀りになり、ことに男児の健康と武運長久を祈り祝す日となった。
 上巳の方は曲水の行事が廃れてしまったが、元々の禊の行事は残り、人体の形に切った紙で身体を撫で、それに汚れを移して川や海に流すことが行われた。この人形(ひとがた・「形代」とも)が、室町時代になると女の子のお人形遊びと一緒になり、上巳の日に人形を飾って女子の健やかな成長を祭る風習に変わっていった。今日でもこの形代流しが各地に残っており、神社では六月末に行う「夏越の祓(なごしのはらえ・「水無月祓」とも)では「茅の輪潜り」と共にこの「形代流し」あるいは「形代焚き上げ」が行われている。
 上巳と言い、端午といい、「月の最初の巳の日・午の日」では、毎年日にちが変わってしまう。そこで、上巳は「三月三日」に、端午は「五月五日」と定められた。この祭が奈良時代に日本に伝来した時にはもう巳の日、午の日関係無く、上巳は三月三日、端午は五月五日とされていた。だから辰の日であろうと丑の日であろうと、「上巳」「端午」という呼称だけが残った。上巳は三が重なる日ということから「重三(ちょうさん)」とも言われたが、この言葉はますます通じない。
 「上巳」を用いた俳句は戦前まではよく詠まれていたが、戦後も21世紀に入ると全く忘れられ、通じにくくなっている。「上巳」という季語は何となく曰くありげな雰囲気だが、難しすぎて見ただけでは意味が分からず、特に感慨を抱く言葉でもないから、消えてしまうのも仕方がないとも言えよう。
  茶碗あり銘は上巳としるしたり     高浜 虚子
  眼覚めけり上巳の餅を搗く音に     相生垣瓜人
  天日の上巳の節供を松青し       田平龍胆子
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2019年02月26日

俳句日記 (458)


難解季語 (2)

くわとく(桑解く)・しもくすべ(霜くすべ)

 蚕の餌となる桑は伸ばし放題にすればかなりの大木になるが、葉を摘むには人の背丈ほどに切り詰めて、根際からたくさんの枝(幹)が生えるようにした方が都合が良い、しかしそうした桑の木は真冬の強風や降雪に折れたり、傷んだりしてしまうから、晩秋に縄で枝を括る。春になってそれをほどき、枝を広げて芽吹きを促す。こうしていよいよ養蚕作業が始まる。
 シルクロードという言葉があるように、絹(その材料が生糸を採る蚕の繭)は中国の特産品で、中国からヨーロッパに至る絹輸出ルートが大昔に開けていた。日本にも奈良時代に絹や生糸、そして養蚕技術が伝えられた。しかし、中国の生糸の産出量は清朝末期の混乱で一挙に減少した。その時、日本の生糸が欧米商人の目に止まった。安政6年(1859)6月2日に横浜が開港されたが、早くも28日には横浜からイギリス向けに生糸が船積みされた。以後、第二次大戦中を除いて、昭和30年代初めまで、生糸は日本の外貨稼ぎの有力商品だった。明治から昭和初期まで、日本の輸出総額の5割から7割を生糸が占めていた。生糸で稼いだ外貨で欧米から機械や各種原材料を輸入し、それで拵えた雑貨や軽工業製品を輸出することによって、わが国はだんだんと力をつけていった。つまり、養蚕業が無ければ今の日本は無いと言ってもいい。
 養蚕はほぼ全国的に行われたが、生糸生産高が最も多かったのは群馬県、次いで長野、福島、埼玉、山梨だった。これら養蚕地帯で取れた生糸は八王子に集められ、現在の国道16号線を通って横浜港に運ばれた。
 生糸はこのように戦前の日本を豊かにしてくれた立役者だが、養蚕業は非常にデリケートで難しく、手間がかかった。「桑解く」で春先の作業が始まり、晩春、いよいよ蚕が卵から孵ると、出始めたばかりの柔らかい桑の葉を食べる。この頃、しばしば遅霜が降りて、桑の葉が真っ黒になって枯れてしまう。ことに最大の養蚕地帯である群馬長野では遅霜が頻繁に襲った。そうなると餌が無くなり、その年最初の蚕(春蚕・はるご)は全滅だ。養蚕農家にとって遅霜は死活問題である。そこで霜が降りそうな晴れた日の夕方から晩方、籾殻や杉の青い葉や松葉、一気に燃えない生木などをぶすぶす燻し、桑畑全体を煙で覆うようにして霜害を防いだ。これが「霜くすべ」である。
 「桑解く」も「霜くすべ」も昭和30年代までは関東甲信の田舎に行けばよく見られた光景で、春らしさを伝える季語だった。しかし、今や養蚕業は群馬県の一部などにごく少数残るだけで、ほとんど姿を消してしまい、この二つの季語も分かる人が年を追って少なくなって行く。この二つだけではない。養蚕は重要な産業だっただけに、米作りと並んで沢山の季語が生まれた。「蚕飼(こがい)」「毛蚕(けご・孵ったばかりの蚕)」「飼屋」「桑摘」「種紙(たねがみ・蚕が卵を産み付けた台紙)」などを始め数多い。

  桑解けば雪嶺春をかがやかす     西島 麦南
  道ばたに蚕の神や桑を解く      西本 一都
  解く桑におのが横づら打たれけり   武田無涯子
  桑へ星とびつくごとし霜くすべ    近藤喜太郎
  波うつて八ヶ岳立つ霜くすべ     澤田 緑生
  霜くすべ終へたる父の朝寝かな    皆川 盤水
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