2018年09月23日

俳句日記 (424)


雲の峰と雷電 (12)

 ああ稀勢の里

 9月23日(日)お彼岸の中日、大相撲秋場所は横綱白鵬が15戦全勝の断然の強さと上手さで幕を閉じた。八場所連続休場で進退を賭けて臨んだ横綱稀勢の里は10勝5敗で見事難関を潜り抜けた。
 「横綱のくせに10勝5敗じゃ情けない」とか「星はともかく、横綱らしい堂々たる取り口が全く無かった」などという批判がある。それも至極もっともなのだが、水牛としては、ともかく10勝したのだから「長期欠席の後でよくやった」と褒めてやりたい。私は元々、稀勢の里を僅か一度の優勝で横綱にしてしまうなんてとんでもない、これでは吉葉山の二の舞になってしまう、と随分前にこの欄に書いた。結果としてそれが当たり、稀勢の里は引退寸前に追い込まれた。出ては負け、休み、また出ては負けの繰り返しで一年半の空白を作り、今回、正念場の秋場所を迎えた。
 学校でも職場でもそうだが、長いこと休むと、どうしても怖じ気づいたり、出て行くのが億劫になる。元々、稀勢の里には自閉症児のようなところがあり、土俵に上がってチリを切り、四股を踏んで相手とにらみ合い仕切に臨む段階を通じて、「あー、いやだいやだ、早く終わりたい」という顔つきである。軍配が引かれて両者立ち上がり、ぶつかり合う段階になってようやく目が覚めたような顔つきになる。こんな具合だから大概は中途半端に腰高のまま立ち上がることになり、先手を取られてしまう。今場所も何番かそういう相撲があった。
 相撲社会は今でも特別な雰囲気に包まれていて、昔ながらの仕来りや習慣が残っているようだ。「部屋」という、言葉は悪いがヤクザの何とか組と相通じる親方ー弟子(親分ー子分)という関係からなる組織の集合体である。形式的には文部科学省の監督下の公益財団法人日本相撲協会という法人組織になってはいるが、実態は有力な親方で作る理事会が全てを決めて運営している。だから、協会の人事をはじめ、部屋の運営、力士を統率することなど、すべてが「昔ながらのやり方」で流れて行く。だから、だれそれを大関にする、横綱にするといったことから、不甲斐ない横綱に引導を渡すことに至るまで、全てはこの親方連中からなる理事会の意向によって決まる。
 今回も稀勢の里の今後について「どうするか」が協会幹部の間であれこれあったらしい。稀勢の里は二所ノ関一門の田子ノ浦部屋所属だが、その二所一門には派閥争いがあり、元大関琴風をボスとした一派は稀勢の里の存命を言い、元横綱大乃国を擁する一派は引退を画策したといった噂が流れ、週刊誌ネタにもなった。それは噂に過ぎないかも知れないが、とにかくそんなことを言われる原因はふわふわ横綱稀勢の里にある。とにもかくにも10勝して、存命が決まったが、次の九州場所が厳しい。千秋楽の大関豪栄道との一番を見るにつけ、こりゃ前途暗澹たるものがあるなあと危惧せざるを得ない。
 稀勢の里は190センチ、180キロの堂々たる体躯の横綱である。雷電は伝説では6尺5寸(197センチ)、45貫(169キロ)と言われているが、『雷電日記』の著者小島貞二は「残されている足袋、着衣、手形などから、6尺3寸(191センチ)、40貫(150キロ)が全盛時代の肉体ではないか」と述べている。まさに稀勢の里は雷電そのものではないか。稀勢の里よ、雷電碑のかけらを煎じて飲んで、九州場所には大向こうを見返す相撲を取ってくれ。
  横綱の負けて溜息秋入日
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2018年09月21日

俳句にならない日記 (18)



次の年号は「安晋」とでも?

 結果が分かっている自民党総裁選など何の関心も無く、ただ、三選挨拶の記者会見でどんな事を言うのかだけにちょっと注目したが、ラジオで聞いて心底落胆した。表面おだやかな物言いではあったが、傲岸不遜が見え透いていた。特に時間切れすれすれで東京新聞の記者が、総裁選で反対に回った石破陣営の連中をどう遇するのかと聞いた事に対して、何も答えず、突如会見を閉じてしまったことに、今後の危うさを感じた。司会者が指名して質問を終えていながら、「時間です」と打ち切ってしまった。この不自然さに"アベトランプ化"の嫌な臭いがした。
 これから3年間、日本はかなりひどい状況に落ち込むのではないか、奈落の底に転げ落ちる第一歩を踏み出すのではないか。
 私はどちらかと言えば保守主義で、この国は自民党というぬるい温泉に浸かっているような政党に任せるのがいいのかな、そのチェック機関として社会党や共産党がそれなりの議席を占める形態が好ましいかなと思っていた。しかし、その自民党がぐずぐずになってしまい、自らこけた。その後に出て来たカンとかハトとかがどたばたする政治には冷や冷やしながらも、堕落しきった自民党にこれがお灸になるのならあながち悪いことではないと思っていた。ところが、民主党政権が予想以上にお粗末だったために、自民党がしっかりと禊を済ます時間の無いままに再び政権に復帰してしまった。日本の不幸はここから始まった。宰相には最もふさわしくない安倍晋三という人が成り上がり、なんと9年間もこの国の舵取りをすることになったのである。
 何を以て「宰相として最もふさわしくない人物」というか。それは「巧言を弄す」ことである。近年の首相の中で、安倍晋三という人は弁論の術だけを言えば最高である。しかし、その弁舌の中身を問えば如何。何も無いどころか、むしろ害毒を流すと言った方がいい。
 たとえばアベノミクスの「三本の矢」である。これは要するにデフレを解消するために日銀に札をどんどん刷らせて、金利をとことん下げて景気をあおろうという、極めて古典的で野蛮な方法である。この結果肥え太ったのは誰か。「ハゲタカファンド」などと言われる国際金融マフィアと、それにぶら下がる日本の金融、商社、一部の企業である。日本国民の大多数はアベノミクスの恩恵にはほとんど浴していない。ここをつつかれるとシンゾー氏は言う。「アベノミクスが無かったとすればどうなっていたと思いますか」と。
 これはテキ屋、つまり大道香具師の論理である。誰も答えられない設問を発して、相手の虚を突いて己の怪しげな「回答」を滔々とまくし立てる。半分くらいの人は「そうかも知れないな」と思ってしまうのである。効果が疑わしいアベノミクスの発動によって、日本は世界で最もすさまじい借金大国に陥ってしまった。トルコがどうだ、アルゼンチンが危ういなどと言われているが、冷静に考えれば今や日本が一番危ういのである。これに対する明確な発言は無く、「日銀にお委せしています」と言うばかりである。
 総裁選でもそうだったが、最近のシンゾー氏は二言目には「有効求人倍率の増加」を取り上げる。確かに7月現在の有効求人倍率は1.63倍という近来に無い高い数字だ。職を求める100人に対して、163人もの求人がある。好景気絶頂期にも見当たらないような数字である。これを以てシンゾー氏は「景気は回復」と言う。
 有効求人倍率は重要な景気指標だが、これが実態経済を正しく反映しているとみるのは大きな間違いだ。有効求人倍率とは、公共職業安定所(ハローワーク)に企業が求めてきた人数(求人)を、職を求めて登録した人(求職者)で割った数字である。これには新卒は入っておらず、また、正規雇用だけでなくいわゆるパートや派遣求職者が含まれている。だからこれが現在の日本の労働市場を正しく示す数字なのかどうかという疑義すら言われ始めているのだ。さらに、近ごろはハローワークなどに出向かず、リクルート雑誌などで適当な仕事を見つけて過ごす若者が多くなっている。そういう人たち、すなわちハローワークに出向かない人は有効求人倍率の「求職者」にならない。従って「求職者」という分母が減るから、必然的に有効求人倍率は高くなる。とにかく現在、一般国民に景気高揚感はほとんど無い。シンゾー氏の言う「景気は立ち直った」というのは、どう考えても偏頗な立ち直りと言わざるを得ない。
 まあとにかく、私たち日本国民はこういう人を国のリーダーとして選んでしまったのである。不幸なことに、朝貢国であるアメリカの国王が野蛮極まりない人物である。この意向に逆らわないように進んで行くのは容易ではなかろう。「平成」の次の年代はかなり危うい。天下太平を祈って付ける次の年号は果たしてどんなものになるのだろう。
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2018年09月18日

俳句日記 (423)



シバンムシ

 七月末頃から書斎の中を小さな甲虫が飛んだり這い回ったりするようになった。刺したりせず、大した害も無さそうなのでそのままにしておいたら、だんだん増えて来た。目の前をふわふわ飛んだり、パソコンモニターの画面に止まってもぞもぞ動いたりするようになった。こうなると気になって、目の前に来たヤツをパチンと両手で潰したり、モニター上を這っているのをツバつけた指先に貼り付けて捕まえる。
 一体、何と言う虫なのか。フマキラーをかけて仮死状態にしたのを白紙に乗せて虫眼鏡で覗く。横にモノサシを置く。体長3.5ミリ。米粒の半分くらいしかないのだが、足が六本、黒褐色の堅い艶やかな羽を持ち、コガネムシを百分の一くらいにした姿だ。極めて小さいけれど何かの幼虫ではなく、これで立派な成虫のようである。手元の昆虫図鑑ではなかなか特定できず、インターネットであれこれ探った。小さな虫をピンセットで引っ繰り返しながら、図版と比べ、それらしき虫に関する説明を読んで突き止めた結果、「シバンムシ」という虫であることが分かった。
 これに違いない。しかし、一体これがどこから出て来るのだろう。我が書斎には足の踏み場も無いほど本が乱雑に積まれ、猫のエサや状差しや筆立てや酒瓶を立てた箱や小物類を入れた抽出や、その他もろもろが一杯ある。一つ一つ引っ繰り返して点検して、遂にシバンムシの巣窟を突き止めた。本棚の隅に置いてある雑物入れの箱だった。その箱には、薬草や刻んだ生薬の根茎や種子、小石を入れて襟巻形にした袋が入れてあった。肩凝り・頭痛持ちの私を心配してくれた旧友がくれた治療用襟巻きである。そこに小さな虫と幼虫がうようよ這い回っていた。こんな情景が山の神に見つかったら大変なことになる。「だから、アナタは・・」と絶叫して、書斎ごと燃やしてしまえと言い出し兼ねない。急いでゴミ袋に入れ、次の収集日の金曜日まで裏庭の植え込みに隠し、付近に殺虫剤を撒いて、とにかく一件落着した。
 それにしても「シバンムシ」とはどういう意味だろう。初めて聞く名前である。広辞苑には「シバンムシ科の甲虫の総称。体長2〜6ミリ。主として乾燥した植物質を食い、建築材、菓子、古書などを食害する云々」と出ていた。ネットをさらに検索すると、この虫に関するいろいろが出ており、「ミントをはじめ薬草や香草に好んで巣くう」とある。何の事はない、わざわざシバンムシの宿所を用意してやっていたのだ。そして、「シバンムシ」とは「死番虫」のこととあった。
 しかし「死番」というのがよく分からない。ウイキペディアを引いてみるとちゃんと出ている。成虫が雌雄相呼ぶ際に建材などに頭部を打ち付けて出す音が、死神が臨終の時を告げる時計の音に似ているというので、この虫にdeathwatch-beetleという名前が付けられ、それを訳して「死の番をする虫」となったらしい。
 人体に直接害を為す虫ではないらしいが、本を食い荒らすというのが困る。さしたる稀覯本などは無いのだが、俳句関係の江戸時代の和綴本など食われては困るものが何冊かある。それに何と言ったって、死神のお使いのような名前が良くない。それでなくてもこのところ天候不順も重なって体調不良が続いている。思いが暗く暗く落ち込んで行く。
  死神の使ひの虫や秋黴雨
  死番虫警世の鐘夜半の秋
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2018年09月13日

俳句日記 (422)



竹伐る

 「木六竹八塀十郎」という言葉がある。建材や細工物に使う木は旧暦六月(現七月)以降、竹は八月(同九月)以降に切るのが良く、土塀を塗るのは湿度が低くなる旧十月以降が良いという言い伝えである。木も竹も春から夏には根から水分と栄養を吸い上げて枝葉を茂らせ成長する。秋になるとそれが終り、材質が締まってくる。それを見計らって伐採した木や竹は細工がしやすく、虫も付きにくいというのだ。というわけで、竹や筍の産地では九月から十一月頃にかけて盛んに竹林の間引き、伐採を行う。そうすることによって、翌年初夏にまた良い筍がにょきにょき生えて来るのだ。そんなことがあって、「竹伐る」という秋の季語が生まれた。
 我が家はそういう実用面とは関係無く、9月13日、本職の植木職人を呼んで裏庭に生い茂った竹を全て伐採した。後には長い青い竹竿が五十数本残った。
 もともとは竹の好きなところから、裏庭に竹を植えたいと思ってのことであった。住居の北側の裏庭は高さ約3メートルの崖を背負い、幅4メートル長さ10メートルほどの細長い空地になっていた。そこに物置を四つ建て並べ、その裏側の崖との合間が50センチほど空いた。そこに背丈の高い竹を植え並べれば、上の道から見下ろされても我が家はむき出しにはならない。あれこれ考えた末に大名竹という竹を植えた。
 幅が僅か50センチしか無いから孟宗竹のような大木になるのは無理だ。しかし、3メートル上に通る道路からの見下ろしを防ぐには、それなりに高く伸びる竹でなくてはならない。ということで、木刀ほどの太さの幹がすくすくと4メートルほど伸び、筍が伸び切ったところで頂点を切ると、枝葉を傘のように散開して優雅な姿になる大名竹を選んだ。この選択はまさに図星で、狙い通りに大名竹はすくすくと伸び、根を左右に広げて幅6間ほどの遮蔽林を作ってくれた。下から見上げても、上の道から眺めても緑爽やかに、夏は涼しげで、冬は雪が積もって風情を醸し、言うこと無しであった。
 ところがである。植えて5,6年は大満足だったのだが、実は竹というのはここいらからが恐ろしいということを初めて知った。初めのうちは北側の石垣と南側の側溝とに挟まれた狭い空間で、竹は自由に根を伸ばせる東西に根を生やして行き、こちらの希望通り東西横一列の竹の壁を作ってくれたのだが、勢いを蓄えた大名竹はやがて南側の側溝の隙間や土が被さったところを使って、南側の母屋の裏の歩道に根を伸ばし、筍を生やすようになった。
 毎年五月、生えて来る筍を見つけ次第に切り取った。しかし、次々に生えて来る。筍シーズンが終ると静かになり、ほっとするのだが、翌年は筍の生える面積が着実に増えている。かくて、二十数年たった今年、ついに音を上げた。
 植木屋と相談した結果、「皆伐、強力除草剤注入」という結論。作業は一日で終わったが、果たしてこれで一件落着となるかは本職の植木屋も分からないという。我が家の猫額の竹林などは甘い話で、今や全国的に竹の繁殖が凄いと言う。農業従事者の高齢化で手が回らない畑地にどんどん竹がはびこり出しているという。
  ざわざわと風巻起し竹伐らる
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2018年09月09日

俳句日記 (421)


雲の峰と雷電 (11)
 重労働

 「一年を廿日で暮らすいゝ男」という川柳がある。『誹風柳多留』巻四十四(文化五年、一八〇八)に載っている句だが、当時の力士がいかに格好がよくて人気上々だったかが分かる。文化五年と言えば雷電41歳、全盛期は過ぎていたが、まだまだ無敵大関として春場所は7勝1無勝負2休、冬場所は9勝1敗で連続優勝を決め、人気絶頂を極めていた(この3年後に引退)。雷電の通るところ、今で言う「追っかけ」がつきまとい大変な騒ぎだったようだ。それはさておき、当時の本場所は今のように期日がぴたっと定まってはいなかったものの、概ね3月と10月ないし11月にそれぞれ晴天十日間興行として開催されていた。つまり、一年をわずか二十日の勤務で暮らす良い男というわけだ。
 今の力士はそれに比べると大変だと言われる。何しろ本場所が一ヵ月おきに年6場所、合計九十日間もある。その合間には地方巡業がある。力士は過重労働で、一旦怪我をしたら治す暇が無い。これではあまりに苛酷ではないかという意見があちこちから出ている。私もその一人で、名古屋場所と九州場所は番付の変更をもたらさない準本場所にすべきだと思っている。あくまでも年六場所を続けるのなら、公傷制度を復活し、場所での怪我による休場では番付を下げないようにした方が良い。
 そうは言っても、今の力士に比べて雷電時代の力士が楽をしていたのかと言えば、実は全くそうではなかったことが「雷電日記」を読めば分かる。一年を僅か20日勤務で済ましていたわけではなかったのだ。まず、今の力士のように月給が保証されているわけではない。江戸と大坂の本場所、京都の準本場所はもとより地方場所(巡業)まで、出場してはじめて割り前(給金)を貰うのである。呼ばれなかったり、調子が悪くて出場出来なければ無収入。「江戸の華」と言われた力士も内実はなかなか大変だったのだ。実働日数もかなりになる。
 雷電が「大関」になって快進撃を始めた寛政三年(一七九一)の記録では、江戸、大坂の本場所各十日間を含め、各地を巡業して合計84日間相撲を取っている。巡業地から次の巡業地まで行くには全て徒歩、時には舟を利用しているが、早くて1日、遠隔地だと3日くらいかかる。この移動日を勘定すると、江戸時代のお相撲さんはとてもとても一年を20日で暮らすような優雅な状況ではなかったのだ。
 さて本日9月9日。大相撲秋場所が開幕。注目は八場所連続休場の横綱稀勢の里の初日。はらはらしていたのだが、相手がけれんの無い勢ということもあって、安心してぶつかれ、寄り倒すことができた。明日は最も厄介な曲者貴景勝。これを無事料理できれば、もしかしたら九場所ぶり出場で優勝という奇跡が生まれるかも知れない。
 しかし、雷電の話と比べると、何とまあスケールが縮こまってしまうことよ。
  秋場所や泥鰌の鍋も沸き返る
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2018年08月24日

俳句日記 (420)


雲の峰と雷電 (10)
 なんで横綱になれなかったのか

 雷電はなんと44歳の引退まで最高位の大関を保っていた。しかも勝率96%という天下無双の成績を挙げた。横綱を張っていた谷風は自分の師匠だから本場所で対戦しなかったのは当然だが、同時期の横綱小野川とは4,5回戦って一度も負けていない。それなのに雷電は横綱に推挙されなかった。これが今日もなお解けない相撲史上の謎になっている。
 大相撲の「横綱」というのは発祥からしてまことにあやふやなものであった。そもそもは神前や将軍の御前で一番強い力士が白麻を綯った太い綱を締め化粧回しを付けた姿で土俵入りを行う「儀式」が先にあり、それを行う最強力士の名誉称号として「横綱」という呼称が生まれたようである。だから、力士の地位の最高位は大関で、関脇、小結と続き、それ以下は前頭筆頭、二枚目、三枚目と呼び十枚目あたりまでを「幕内」、それ以下は「幕下」。ただし幕下十枚目までは本場所で幕内力士の補欠のような形で本相撲(幕内取組)に出場した。
 ところが第十一代将軍徳川家斉の時代になって江戸相撲はがらりと変わった。家斉はなんと五十年も将軍の座にあり、前半は松平定信を老中として田沼時代の放漫財政で危うくなった財政立て直しや諸大名統率の弛みを引き締める「寛政の改革」を行った名君。しかし定信引退後は天下無敵の将軍として大らかすぎる政治に舞い戻った。このため、いわゆる化政期(文化文政)という江戸文化の華開く時代が訪れた。家斉は相撲が大好きで、寛政三年に江戸城内に相撲場を拵え、谷風、小野川、雷電以下を呼び集めて「天覧相撲」を開催した。この時に名を挙げたのが行司を勤めた吉田追風(よしだ・おいかぜ)であった。追風は将軍の目の前で谷風と小野川に横綱土俵入りを行わせ、自分が相撲の諸法度を司り横綱免許を与える権限を持った「司」であることをアピールしたのである。
 とにかくこれで横綱免許を与える宗家としての「吉田司家」は認知されたのだが、その後も長い間、「横綱」という呼び名は最高実力者に与えられる尊称であって、地位を示すものとは認知されなかった。横綱が地位として番付上にはっきりと示されたのは明治42年(1909)2月の相撲規約改正であった。その適用第一号は第十七代横綱小錦八十吉だった。その後、現代に至るまで大関として揺るぎない成績を収め、人格も上々の力士が「横綱」に推挙されると吉田司家が「横綱免許」を与える仕来りが続いてきた。しかし、昭和61年(1986)に吉田司家内部に野球賭博がらみの多額の借財や内紛が明るみに出て、間もなく宗教法人としての司家が倒産するといった事態に陥り、司家による横綱免許は第六十代横綱双羽黒のあたりで有耶無耶になってしまい、以後、相撲協会の推挙を受けた横綱審議委員会の承認による形になった。
 深川門前仲町の富岡八幡にある横綱碑には、初代明石志賀之助、二代綾川五郎次、三代丸山権太左衛門という生没年も定かでない伝説上の力士名が刻まれ、四代目として谷風、五代目小野川が刻まれている。この碑は相撲司家としての権威を吉田司家と張り合って来た五条家が、大政奉還の行われた慶応3年(1867)に横綱免許を与えた第十二代横綱陣幕久五郎が、吉田司家、五条家の融和の祈も込めて建立した碑である。五条家は相撲の神様野見宿禰を遠祖とする公家で、平安時代から宮中の相撲節会を司る相撲宗家だった。その点では相撲節会の行司などをやっていてその後、熊本藩士なった吉田司家よりは由緒正しい。しかし将軍家斉時代にがっちり足場を固めた吉田司家に江戸相撲では手も足も出ない、そこで大阪相撲、京都相撲で権威を振るった。それが幕末維新になると朝廷と公家の権威がぐんと高まる。さらに維新政府樹立、そして西南戦争では吉田司家が従った西郷軍が敗れてしまったために、五条家の相撲界における重みが一辺に高まった。しかし、五条家は横綱免許を乱発したり、規範があいまいだったりして自ら権威を失墜し、やがて明治末年。大阪相撲が衰退して東京相撲に吸収合併されるに及び、五条家の相撲界との縁は消滅した。こんないきさつもあり、横綱というものの重みも地位も、実際には明治末期まではかなりいい加減だったことが分かる。
 雷電時代は従って力士側もフアンも横綱というものに興味も重みも示さなかったようだ。それが証拠に寛政元年(1789)の谷風、小野川横綱同時昇進から次の横綱阿武松緑之助が生まれるまでなんと39年も間が開いているのだ(文政11年)。雷電が横綱にならなかった理由として、抱え主の雲州松平家と吉田司家の主家の肥後細川家との確執や、雷電があまりにも強くて相撲界の反感があったことなどが挙げられているがいずれも根拠が無い。むしろ雷電自身や松平不昧公が横綱称号に全く無関心だったというのが真因と言えそうだ。人気取りのために横綱を粗製濫造する今日の相撲協会に、このあたりを噛みしめてもらいたい。
  横綱の四股も軽しや虫の闇
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2018年08月16日

俳句日記 (419)


雲の峰と雷電 (9)
 火事と喧嘩は江戸の華

 文化二年(1805)二月、芝神明社(港区芝大門一丁目の芝大神宮)で晴天十日間の春場所が開幕した。もちろん大スター雷電を見ようと連日満員の盛況。ところが江戸っ子の人気を分け合うもう片方、火消「め組」の鳶の者たちと若い力士が大げんかして、場所をめちゃくちゃにしてしてしまう大事件が起こった。世に言う「め組の喧嘩」である。今回はその顛末を記した個所を読もう。
 「丑春江戸相撲 二月九日初日ニテ天気あいよろしくして十六日迄七日相撲取り申し候所 め組之者九龍山ト申す相撲人ト 神明地内之内ニ芝居之有り候テ 芝居之内ニテ少々之事ニ付き候 外茶や之前ニテちゃ屋の火ばち九龍山へうち付 それけんくわありし候申して 火の見ニテはん庄うち 町は 早ひやうしきを打ち鳶之者大勢二三百人も忍来リ 相撲場木戸前へ忍よせ家根之瓦ヲとつてなげちらし とび口をもつて木戸前へ忍よせ申し候 その内 四ツ車壱人参り候所 此者ヲ鳶口ニてふつてかかり申し候 四ツ車腰物ヲ抜ききってかかり 壱人きりたヲし其外二三人ニモきづヲ付候に付 あいてもあとへ引候ゆへ 相撲之小屋之内へ四ツ車ヲ引入れ申し候」
 この後すぐに、恐らく力士側の代表者たる雷電も加わって親方・年寄たちが相談し、奉行所に訴え出た。力士の管轄は寺社奉行、町人である火消し鳶職は町奉行。町奉行所から早速大勢の与力同心・取方が出動、乱暴を働いた鳶の者30数名と九龍山を逮捕した。しかし、官許を示す「蒙御免」の看板は壊され、木戸も滅茶滅茶にされ、春場所はやむなく休業、二ヶ月たった四月下旬に再開し残り三日間を行った。こんな大騒動があったにも拘わらず、雷電は十戦全勝だった。
 この大喧嘩は「め組の喧嘩」として語り継がれ、明治に入って「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)という歌舞伎狂言になって大当たりを取り、今日でも人気演目としてしばしば上演されている。しかし、喧嘩の発端は雷電も書いているように「少々之事」、つまりバカバカしくケチ臭い話だった。
 町火消「め組」は日本橋から芝浜松町辺を受持つ有力な組で、もちろん芝神明社も縄張内。火消・鳶の者は木戸御免だからめ組の辰五郎と長治郎は相撲の木戸を肩で風切って入ったが、一緒に連れていた地回りの富士松が木戸番に咎められた。辰五郎はオレの連れなんだから黙って通しなと言うが、木戸番は許さない。そこへ九龍山という幕下(十両)力士が通りかかり、規則通り木戸銭を払えと言って、その場は鳶職側は大人しく引き下がった。その夕方、場所がはねて、九龍山が境内に掛かっていた芝居小屋に入ったところ、そこに辰五郎一派がいた。互いに昼間のことがあるから、些細なことで言い合いになり、「表へ出ろ」ということに。鳶の者が芝居小屋の前の掛茶屋の火鉢をいきなり九龍山に投げ付け、ついに本当の喧嘩になってしまった。火消しの一人が火見櫓に上って半鐘を打ち鳴らしたから、たちまち2百人もの鳶職が集まり、鳶口や六尺棒などを振り上げて相撲小屋の木戸を打ち壊し始めた。そこへ応援に駆けつけたのが九龍山の兄弟子の四ツ車。幕内力士で武士の資格があるから帯刀している。打ちかかる富士松を腰の刀を一閃切り倒してしまった。さらに数人の鳶に負傷を負わせたところで、駆けつけた鳶の頭や相撲側の年寄連中が割って入り、捕方も出動して、ようやく大乱闘は鎮まった。
 さて騒動の決着だが、判決は一方的に鳶側に責めを負わせるものだった。そもそもの原因を作ったのが強引にタダで入場しようとした鳶側にあったこと、火事ではないのに早鐘を打ち鳴らして騒動を大きくした責任を取らされたのである。辰五郎は百叩きの上江戸払い、長治郎と早鐘を鳴らした長松が江戸払い、その他三十数名の鳶は説諭の上罰金。力士側は張本人の九龍山こそ江戸払いになったが、抜刀して数人を殺傷した四ツ車を始め全員お構いなし。伐られて死んだ富士松は数千円の入場料を惜しんだばかりに死に損ということになった。
 この判決で最も重い刑罰を受けたのは火の見櫓の半鐘で、遠島(島流し)になり、明治になってから芝大神宮に戻された。雷電は日記に「御上様ニても 相撲人をとなしきしかたニ候ニ付おほめになり 相撲人へはなんのおとがめも無之候」と書き、胸撫で下ろしている。ここから推測すると、江戸払いになった九龍山も実際には目こぼしになった感じである。
 鳶側がタネを蒔いた事件とは言え、こう一方的な判決では江戸っ子たちももやもやを抱えたのだろう、火消鳶への同情が集まったようだ。明治23年に上演された歌舞伎「め組の喧嘩」はそうした伝説をもとに、五代目菊五郎の辰五郎をやたらに恰好良く仕立て、鯔背な火消しをかなり持ち上げた話になっている。

  人気者同士の喧嘩江戸の春
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2018年08月14日

俳句日記 (418)



雲の峰と雷電 (8)
大酒吞み(その2)

 寛政10年(1798)、芝神明社での春場所で8勝1無勝負1休で優勝相当の成績を挙げた雷電は、6月に奥州巡業に出立した。師匠の横綱谷風が3年前の寛政7年1月にインフルエンザで急逝、そのライバルの小野川も前年十月場所で引退したから、名実共に31歳の雷電が江戸相撲の第一人者となっていた。
 奥州巡業は秋田湯沢を幕開けに、北上して横手、さらに佐竹氏20万石の城下町久保田城(現・秋田市千秋公園付近)下で晴天十日間(7月15日から29日まで)の秋田場所。その後、ぐんと北上し陸奥との境、大達(現大館市)、そこから西へ一直線、ぬしろ(現能代市)、さらに人市宿(現・八郎潟町)での興行で羽後巡業を終えた。そこから日本海沿いに由利本荘市、にかほ市(象潟)を通って庄内の酒田から鶴岡へ行った。このルートは6年後の文化元年(1804)、象潟大地震の直後にまた通ることになる。その時には家屋は全壊、道は割れ、象潟は隆起して陸地になるなど大変な惨状で、雷電日記につぶさに書かれている(「雲の峰と雷電」第4回)。しかし、この時は平和そのものの旅であった。
 今回巡業の締め括りとなる庄内・鶴岡城下の十日間興行は雷電にとって大繁盛の楽しい場所だったようで、ハメをはずした自身の行状をめずらしく正直に書いている。
 「(羽後秋田の記述の後)それより羽州靎ヶ岡(山形県鶴岡市。以下鶴岡と書く)にて晴天十日相撲 乗金(契約金)八十両取る 木戸百弐拾五文(のうち)三拾文は元方(座元)に遣わし、九拾五文・四分取り申し候 四分は七拾両程御座候 惣じて百五十両ばかり取り申し候 此の相撲はんぢやう致し(候) 其の節 坂田(山形県酒田市)の佐藤清左衛門と申す者 坂田よりちかくし致し 川舟にて鶴岡まで送りくれ候 鶴岡に逗留致し 相撲に参り 支度部屋にて毎日毎日酒肴大吞みにて御座候 夜に入りてハおばすと申して女郎ちゃ屋参リ 大酒吞人ニ御座候 此仁 其後江戸表に参リ 四月比ヨリ八月迄逗留被致候 私方ニをり候
 其節坂田ヨリ鶴岡迄川舟之節 川口ニテ鮭あみを引かせ候所 壱あみに三十本程宛かかり 二あみ引きて五十本ばかり取り申し候 其内大ヲ五本ばかり参らせ 舟ニテ上り候 又 八ッ目鰻を壱かごあげさせ五升ばかりもをり候 それをもつて其夜 黒森(酒田市黒森)と申す村の名主之方ニ泊り候所 又 酒中くみよ蕎麦よ 夜中ニ餅をつく 夜通し酒 そば もちニテ夜を明かし 朝五ツ時比 川舟ニ乗り候ヒテ又酒を吞む 壱里ばかりも参り候 それヨリ上り 馬ニテ鶴岡へ参り候 其日 初日 御座候
 庄内相撲相済みそれより清川(山形県東田川郡立川町清川)と申す所に泊まり候ところ 此所迄女郎見送りニ参リ又夜中酒肴ニテ御座候 それより川舟ヲ上リ天堂(天童市)と申す所ニテ三日興行三拾両ばかりニテ取り申し候 それより山形ニテ二日四拾五両ニテ興行仕り候 (略)それより江戸表ヘ十月下旬ニ罷り帰り申し候 其時熊のかわ壱まへニテ帰り申し候」
 鶴岡は譜代大名酒井氏の庄内藩城下町、酒田は最上川河口の港町で商業都市、庄内米や上流の天童一帯で生産する紅花の積出港として、北前船の寄港地として大いに賑わった。酒田には豪商、富裕層が沢山いて奥羽地方最大の繁盛都市だった。日記にある雷電をもてなした佐藤清左衛門もそういった一人であろう。雷電一行を酒田で迎えた清左衛門は雷電と意気投合したらしい。酒田と鶴岡を結ぶ最上川支流と堀割を伝う川舟を仕立てて雷電一行を鶴岡に運び、そのまま自分も鶴岡に泊まり込み、毎日毎日相撲見物に来ては支度部屋に酒肴を持ち込んでの宴会。夜になると「おばすて(おばんです)」とやって来ては雷電一行を女郎茶屋(遊郭)に案内し宴会という大酒吞み。なんとこの人は翌年、江戸にやって来て四月から八月まで雷電の家に泊まり込んで遊び惚けたという。
 酒田でどんちゃん騒ぎのあと清左衛門は、雷電を舟で最上川河口に案内し鮭網漁をした。五十尾ほど獲ったなかから良いモノを五本選び、同時に獲ったヤツメウナギも五升ばかり持って、其の夜の宿泊所である黒森村の名主宅に持ち込んで大宴会。蕎麦を打ったり餅をついたりで夜明かしで吞み、五つ時(午前8時頃)にまた川舟で鶴岡城下へ行く時も酒、雷電は船着場から馬で場所入りし、初日の土俵を勤めた。こうして酒池肉林の鶴岡場所を終えて天童に向かったのだが、最上川の船着場清川まで20kmばかりを女郎達が見送りに来た。そこでまたまた徹夜の大宴会というのだからすごい。
 こうして五ヶ月にわたる長期遠征を終えて十月下旬に江戸へ戻ったが、みやげに「熊の皮一枚」を買ったというのが面白い。
  熊の皮恋女房へ土産とす
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2018年08月13日

俳句日記 (417)


雲の峰と雷電 (7)
大酒吞み

 雷電は身長6尺5寸(1.97m)、体重45貫(168kg)という、当時としては並外れた体格と抜群の運動神経を備え、まさに力士になるのが運命づけられていたような逸材だった。成人男性は五尺(約1.5m)が普通、5尺5寸(1.65m)あると大男と言われていた時代である。力士も大方は5尺8寸から6尺せいぜい、つまり1.7〜1.8mだった。そこに2mの巨漢が現れたのだ。
 当時も2mを越す巨人力士が居ることはいた。大相撲史上最も背が高い力士は長崎県平戸市出身の生月鯨太左衛門(文政10年・1827〜嘉永3年・1850)で7尺6寸(2.28m)、次いで島根県安来市出身の釈迦ヶ岳雲右衛門(寛延2年・1749〜安永4年・1775)と肥後熊本出身の大空武左衛門(寛政8年・1796〜天保3年・1832)の7尺5寸(2.25m)。深川の富岡八幡宮には釈迦ヶ岳の十三回忌法要を機に、実弟でやはり大関だった稲妻(真鶴)咲右衛門が建てた「等身碑」と、昭和になって作られた背高力士12人の四股名と身長を示した「巨人力士碑」がある。
 ただ、これらの巨人力士は大関を張った釈迦ヶ岳を除けば、ほとんどは成績が上がらず、土俵入りをするだけで相撲を取ることの無い「看板大関」というのが多かった。いずれも病的な体付きで、大空武左衛門36歳、釈迦ヶ岳26歳、生月24歳と早世している。そうした中で、雷電は「大きくて、強くて、健康的で明るく、頭が良かった」から、断然の人気者になった。
 江戸、大坂の本場所はもちろんのことだが、地方巡業も雷電一行が加わると大入満員になった。興行を司る勧進元はもとより他の部屋の親方・力士たちも、雷電と一緒だと実入りが増えるから大歓迎した。行く先々の旦那方や歓楽の巷でも雷電はもてもてだった。しかもいくら吞んでも平気という大酒吞みで、酒にまつわるエピソードが沢山ある。
 雷電には「張り手、閂(かんぬき)、鯖折(さばおり)」を禁じ手とされたという伝説があるが、それほど相手から恐れられ、取組む前から圧倒していた。とにかく21年間の本場所の成績は254勝10敗2分14預5無勝負41休。「預かり」と「無勝負」は先に書いたように、抱え主である各藩のメンツをたてるために行司、検査役、さらには勧進元まで巻き込んでの政治的配慮。「休み」は当時、正当な理由があれば「無勝負」扱いだったから、結局、雷電の勝率は9割6分という空前絶後の成績である。とは云っても、雷電も兎に角10番は負けている。そのほとんどが、前の晩に大酒を吞んでの二日酔いが原因と云われている。いずれも、全く気を抜いたとしか思えない、一気の寄りや喉輪攻めや奇策によって、呆気なく負けたようである。
 10敗の中でも最大の番狂わせと言われたのが寛政12年(1800)十月場所の初日、幕下三枚目(現在の十両三枚目)鯱和三郎(しゃちほこ・わさぶろう)との取組だった。雷電のような人気力士でしかも一門の総帥を務めている身には、初日は兎角鬼門であった。前の日まで抱え主や贔屓筋、関係各所への挨拶やそれに伴う宴席で疲れがたまっている。巡業の日程のずれから、帰京して翌日が初日ということもある。しばしば初日を休んでいるのも、そういうことがあったためである。
 そんなこともあって、雷電に限らず大関の初日の取組は、座元が気を利かせて軽い相手を選んだ。何しろ雷電はそこまで新記録の四十四連勝中であった。誰もが雷電の勝ちを信じて疑わなかった。
 当時の仕切には制限時間が無いから、両者立ち合う気迫が漲り、呼吸が合うまで、何十回も仕切を繰り返す。どうせ勝ち負けは分かっている、退屈した客がぞろぞろ帰り始めた。当の雷電も「おい、いい加減にせい」という気分になっていたに違いない。ようやく息が合い、行司が軍配を引いて両者立ち上がった。鯱はぶちかますと見せかけて、さっと雷電の後ろに回り込み、あっと云う間に向こう正面に送り出した。雷電の完全な油断だった。
 鯱は幕内と十両を行ったり来たりの力士で、結局は最高位が前頭三枚目で終わったのだから、雷電の連勝を44で止めたという事だけで相撲史に名を刻んだ。鯱の所属する久留米藩は松江藩を凌ぐ相撲好きで、初代横綱小野川(この時期には引退し親方になっていた)以下、錚々たる顔ぶれが揃い、この場所の東方の幕内はほとんど久留米藩の抱え力士で占めていた。しかし、小野川以下、雷電には一辺も勝ったことがない。何としてでも雷電をやっつけたい。それには警戒されない鯱のような力士が油断を突くのが一番と秘策を練っていたようだ。
 とにかく、雷電はこの後また38連勝したのだから、なんともはや痛恨の1敗であった。たまたまこの取組を俳諧の大立者宗匠の大伴大江丸が見ており、「負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠んだ。大江丸も雷電フアンだったようだ。
  吞みすぎを誡めつつも新走り
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2018年08月11日

俳句日記 (416)


雲の峰と雷電 (6)

 東京を中心に南は鹿児島、北は函館まで新幹線が走っている。在来のJR線や私鉄各線は、まあこんな山の中までと思うような所にまで入り込んでいる。遠隔地には空路で行ける。21世紀の私たちは旅をするのがとても楽になった。しかし、その半面、日本の内航海運はすっかり日陰に追いやられた。
 明治16年(1883年)、16歳の正岡升少年(後年の子規)は郷里伊予松山の三津浜から便船で神戸に行き、まだ全通はしていなかった東海道線の列車と途中便船を乗り継いで東京にやって来た。全国津々浦々から青雲の志を抱いて上京する青年達は、海路や河川の舟運を利用した。現代の我々がすっかり忘れてしまっている「海の道」「川の道」が、明治時代までは厳然として在った。雷電日記を見ると人々の生活に船路が生きていたことが分かる。
 「寛政三亥年(1791)春 二月十八日出立仕り甲州通り府中在の稲毛村と申す所にて晴天五日間の興行仕り候 廿七日相済まし廿八日出立仕り川舟に乗り下り川崎宿へつく 品川御殿山下にて晴天十日の稽古相撲仕り候 (中略)此の相撲もはんぢやう致し申し候 此給金六両二分も取り申し候 花(祝儀)も五両ばかりも之有り候 花はみな女郎屋へ参り候 それより上総国きさらずと申す所へ参り五日興行仕り候 此所にても給金四両ばかりも取り申し候 四月三日初日にて十五日相済み申し候 十五日 押送舟(東京湾近辺の魚を日本橋魚河岸へ急送する快速船)を廿五貫文出し 柏戸、芦渡(二人とも雷電の弟子で松江藩お抱え)私三人舟に乗り候ひて、未中刻(午後二時頃)舟を出し仕り、二里ばかりも沖へ出でし候所、漁船参り、此の魚を江戸へつみ候と申す事に候ニ付き、船頭船賃は取る事無用にして此の魚を積ませ下され候と申す事につき魚を積ませ、品川沖へ戌刻(午後7時)ころに参り・・・戌中刻(午後8時)ころ(品川の)宿へ参り申し候」
 日記によると、雷電一行(一番弟子の柏戸はじめ幕下の芦渡その他取的や他部屋の力士、行司、呼出、小者など含めて恐らく20人くらいか)は旧暦2月18日、甲州街道を江戸から西へ約30キロの府中へ向かい、そこから南下して多摩川を越え稲毛村(現・東京都稲城市)で5日間の興行(巡業花相撲)をした。その後には品川での巡業が控えている。
 巡業には褌、化粧回し、紋付袴、着替えなどを入れた明荷(葛籠)をはじめ、幔幕その他相撲の道具などさまざまの物があって、大変な大荷物である。陸路は大八車に積んで人足や取的が運ぶのだが、これが大変な労力と金銭を要した。そのため、巡業では川や海に近い所では舟運を利用した。今回も稲城市から川崎まで多摩川の舟運を利用した。川崎から品川は2里少々(約9km)だから、この方がずっと楽だ。
 品川御殿山での花相撲は連日大入り満員で、雷電の給金は六両二分と花代(ご祝儀)が五両余りと予想外の収入だった。当時の一両が今日の円でどのくらいになるかは、計算が非常に難しい。米価換算では一両30万円から40万円、衣料品その他消費者物価によると80万円から100万円という換算も成り立つ。雷電が故郷の長野県東御市に現存する家を建てるのに掛けた費用が50両ということから計算すれば一両は40万円くらいか。とにかく10日間の興行の給金が250万円から600万円というのだから悪くない。御祝儀の2,3百万円で弟子や取り巻き連中を従え品川宿名物の遊郭で豪勢に遊んだという。
 この後、雷電一行は品川から舟で東京湾を渡り木更津で晴天5日の巡業相撲。その帰り、木更津から品川へ押送舟(おしょくりぶね)を雇った。これは東京湾、相模灘などで獲った魚を日本橋魚河岸へ急送する舟で、帆をかけた上に4人から8人の水夫が艪を漕ぐ快速船である。相模湾で獲れた堅魚を押送舟で日本橋まで半日で運んだ。木更津にもこの舟の仕立場があったのだろう、雷電一行はこれを雇って品川まで一気に走らせた。ところが途中で漁船に出会い、獲った魚を品川まで運んでくれと頼まれた。本来この押送舟は雷電一行の貸切だったのだが、船賃は受け取らないということで魚を積み込んで、一緒に品川に帰った。こんな風に舟運は日本人の暮らしと文化の伝播に深く結びついていた。
  多摩川を梨の花愛で下りけり
posted by 水牛 at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする