2021年03月03日

俳句にならない日記 (39)


やめてくださいオリンピック

 何も難しいことを言うつもりはない。実に単純明快、「新型コロナウイルス感染症が収束できないままに、東京五輪大会を開くつもりですか」という問いにどう答えるかである。
 国際オリンピック委員会(IOC)と日本オリンピック委員会(JOC)、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会は、「開催することは決まっています」と言いつのっている。日本政府も開催都市の東京都も「開催します」と言っている。しかし、日本国民の8割が開催に反対している。
開催国・都市の住民の8割が反対しているのに、「開催は決まっている」と傲然とした態度を取り続けているのは何故なのか。オリンピックが開催できなくなると、世界の平穏を乱したり、取り返しのつかない問題が生じたりするのだろうか。開催中止による経済的損失はかなりあるだろうが、無理して開催してコロナ感染の再拡大を招いたら、それこそそれに数倍する損害を生じることは間違いない。
IOCも東京オリンピック組織委員会も、その危険性が頭にあるのだろう、「海外からの観客を入れない方法」について検討し始めたとも報じられている。しかし、オリンピックというものは、それほどまでして開催すべきものなのであろうか。
単なる運動会などと言ったら怒る人がいるかもしれないが、オリンピックは大仕掛けだからあたかも世界史に残る壮挙のように見えるだけで、実体は国際運動会以外のなにものでもない。人命に関わる危険なウイルスが蔓延している中で、何故、運動会をやらねばならないのか。こうなると、どうにも「カネ」にまつわる胡散臭い話がまとわりついているからという疑いが拭いきれない。
東京五輪はやってもやらなくても既に日本側が大損を被るのは決まっている。召致決定当時の五輪開催経費は総額7340億円とされていた。それがどんどんふくらんで2020年末の予算編成時には1兆6千億円になっていた。関連経費を含めると3兆円にのぼる。無事に開催出来て100万人を越す海外客が来れば、それが起爆剤となって日本経済の好循環が始まるとの皮算用もあったのだが、海外客ゼロとなれば雲散霧消。しかし、コロナ検査もいい加減のまま海外客をどんどん呼び込んで、万が一、ウイルスの爆発的感染が再発したら目先のゼニカネの問題ではなくなる。ここは、これまでの巨額の投資が無駄になることに、国民は歯を食いしばって堪えて、「五輪中止」を唱えた方がいい。
なぜかと言えば、海外からの観客を入れないことにしたとしても、五輪開催となれば、当たり前だが選手が1万人以上来る、それにくっついてコーチや役員やIOC、それぞれの国の五輪関係者が来る。それらを合わせると3万人を超えると言われている。そして、その人達は準外交官扱いだから、入国検査や入国後の二週間隔離措置などが取られない。「選手村から出さない」などと言っているが、そんなことは言うだけで、出来ようはずがない。
日本やいくつかの先進諸国のようにコロナ対策が万全な国ばかりではない。しかし“危ない国々”から来る人達を差別するわけにはいかない。つまりは、ウイルスを背負ったまま入って来る人達が6月頃から全国各地のホストタウンである市町村に続々やって来る。スガさんやマルカワさんやハシモトさんやコイケさんはこれをどうなさるおつもりか。
 頼みます、東京五輪やめてください。 (2021.03.03.)
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2021年02月25日

俳句日記 (653)


季語あれこれ (3)

季語のはたらき

 俳句は「季節の詩」であり、それを表す立役者が季語である。そして「季語」は季節を示すだけではなくて、その言葉から連想されるいろいろな事柄を発信するキーワードにもなっている。
 だから季語というものが季節を示す役割だけでなく、「いろいろな意味を背負っている詩語」であることをわきまえていないと、季語を正しく理解することが出来ないし、句の中で十分に働かすことが出来ない。句会に季語を説明しただけのような句が沢山出てくるのは、この「季語」というものがよく理解されていない証拠である。これについてはまた稿を改めて具体例を引きながら書いてみようと思う。今回はその「そもそも論」として、少し堅苦しくなるが、季語というものの正体と、その働きについて考えてみる。
 たとえば、「花」という季語がある。俳句で花と言えば桜の花を指すことになっているが、これは春を代表する花が桜とされてきたからである。
「花」という季語を置けば、まず桜の花の「美しさ」を意味する。さらにそこから桜の咲く春たけなわの情趣を示すものとされている。つまり、句の中に「花」とあれば、桜の花のイメージだけでなく、「心地よい春」という全体的な春の雰囲気を思い浮かべる“約束”になっているのだ。
 さらに桜は咲き誇る様子が見事だから「華やか」「栄華」という意味合いが加わる。そして桜は散りやすいから、栄華を誇るものは必ず衰えるということで「はかなさ」「不安」の意味合いが付与され、同時に散り際の見事さをはやして「いさぎよさ」の意味も付け加わった。
こうして「花」という季語はたくさんの意味合い(これを俳句や和歌では「本意」と言う)を担う詩語になった。その結果、句の中に「花」と置けば、上に挙げた意味合いがすべて詠まれていることになる。だから「はなやかに花咲きにけり」とか、「散る花のいさぎよし」なんて詠んだら、「言わずもがな」と重複感をたしなめられる。。
 このように、季語というものはその言葉の一義的な意味だけでなく、そこから導き出されたいろいろな情趣を背負った「重層的な詩語」なのである。というわけで、「花」という季語を一つ置いただけで、上のような意味合いをひっくるめて読む側に伝えることができ、その分、他のことを述べる余地ができる。
 俳句はわずか17音字しかないから、非常に窮屈な詩である。そのために、一つの言葉で、それが本来持っている意味の他に、いろいろな意味合いや雰囲気を背負わせて「季語」というものをこしらえたと言ってもいい。だから「花は花であって、花ではない」という、禅問答のようなことにもなる。
 とにかく、このように季語というものは、いろいろな意味を背負った「詩語」であることをわきまえて句作することが大事である。それにはまずその季語の意味合いを歳時記に当たって十分知ることが大切ということになる。その際、季語解説だけでなく、その後に載っている例句を熟読玩味し、「なるほどこの季語はこんな用いられ方をするのか」とか「こうした思いを詠むのに、この季語はそぐわないのではなかろうか」などと自分なりに考えてみることが大切だ。
 そうした操作を行った後、その季語から連想する言葉や思いを頭の中に展開し、情景を思い描く。この過程で、季語の示す物や場所(たとえば花なら桜の咲いている場所)が実際に見られるなら、それをじっくり観察する。そこに無ければ、以前見た時のことを出来るだけ克明に思い出す。
 こうして自分なりの季語研究が終わったら、そこから触発された思いを5・7なり7・5にまとめ、季語を置く。それとは逆に、5・7あるいは7・5の文句を思いついたら、それにぴったり合う季語を見つけて一句に仕上げる方法もある。このようにして季語を十二分に働かせた句を生み出す。
  歳時記の春の部ちらす野山かな  酒呑洞
(この句は「夏の部」「秋の部」「冬の部」のどれを置いても成立する。典型的な「雑俳」です)

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2021年02月16日

俳句日記 (652)


季語あれこれ (2)

 和歌や連歌が長い歴史を経て、伝統を積み重ねるにつれ、詠み方から鑑賞の仕方に至るまで規則や約束事が次々に生まれ、やがてそれにがんじがらめにされるようになった。個々人の想いなどはどうでもいい、まずは伝統と古式に則った姿の歌になっているかどうかが問題とされる。歌を詠むにはそうした決まりに従って詠まねばならない。こうして室町時代後期になると、姿形は整っているがどの歌を取っても皆同じような類型に陥ってしまった。
 これに飽き足りない人たちが、上品で旧態依然の和歌連歌から抜け出して、自分の感じたことを詠もうとし始めた。これまで決して取り上げられなかった身の回りの事などを詠み、下世話な言葉も取り入れた句を詠みだしたのである。これはそれまでの常識を逸脱した「ふざけた」ものであるとして「俳諧」と呼ばれた。詠む方もそう言われるのは本望と、俳諧が意味する「諧謔、ふざけ、たわむれ」を意識的に打ち出した詠み方をするようになった。
 江戸時代になるとそれがさらに進み、駄洒落や言葉遊びのような句を読むことが流行するようになった。そして、それまでの連歌が5・7・5の長句と7・7の短句を50句、100句連ねる長たらしい形式だったのを止めて、俳諧(連句)は36句で一巻とするのが主流になった。さらに連句の最初の一句(発句)だけを独立させて詠み合うことも行われるようになった。
 芭蕉が活躍した江戸初期から中葉、蕪村の1700年代、一茶の江戸後期あたりまで、連歌の流れを汲む俳諧(連句)が主流であったが、時代が下るにつれて発句だけを詠み合う句会が盛んになり、明治時代以降、これが主流になった。ことに俳諧の革新を唱え「俳句」を打ち立てた正岡子規が「連句は芸術に非ず」と排斥して以来、連句は下火になり、「発句」そしてその言い換えでもある「俳句」が全盛となった。
 さはさりながら、俳句には俳諧(連句)の精神が色濃く残っている。面白おかしい「滑稽」の要素が底流にあることと、「季語」を据えることである。連歌、俳諧連歌(連句)では第一句(発句)には、その季節(当季)のものを詠み込んで、それ一句で独立の詩として成り立つように詠むことが大事とされた。正岡子規はそれを取り入れ、発句を独立させ、発句だけで一篇の詩として成り立つ「俳句」を確立したのである。子規はこの575だけで自らの思いを述べる詩を標榜したのだ。
 しかし、575の十七音字だけで完結する詩はあまりにも短い。言葉が足りない。状況説明する余裕が無い。ここが77の下の句を持つ和歌(短歌)との大きな違いである。そこで、説明役を背負わせた「季語」と「切字」の働きを重視した。季語も切字もすでに和歌にあったものなのだが、これを十分に働かせる言葉として押し立てたのである。
 子規はわずか35歳で死んでしまったから、俳句の作り方についてすべてを語り尽くす余裕は無かった。「季語」と「切字」の働きとその用法などを具体的に解き明かすまでには至らず、実作で漠然と示すに止まらざるを得なかった。しかし、一番弟子の河東碧梧桐、二番弟子の高浜虚子、弟子でもあり客分でもある夏目漱石、その弟子の寺田寅彦などが子規の教えを発展させて「俳句」が確立した。碧梧桐などは後年、子規の示した定型、季語の働きを無視した「無季自由律」に走ったのだが、それすらも結局は「有季定型」の「強さ」を教える反面教師になった。
 こうして「575の定型」と「季語」と「切字」との三つが備わった世界最短の詩「俳句」が確立し、今日の隆盛を見るに至っている。
この中でも俳句にとって最も大切なのが「季語」である。「や」「かな」「けり」などの切字を用いなくとも句は作れる。575に納まり切れずに「字余り」になって「定型」を外してしまっても、時には素晴らしい句が生まれる。しかし、季語の無い句はなかなか俳句とは成り得ない。碧梧桐、荻原井泉水に始まる自由律無季俳句の一派、種田山頭火、尾崎放哉、栗林一石路などに、季語の無い素晴らしい俳句がいくつか見い出されるが、それらはその秀句の中に季語に変わる強い発信力のある言葉が据えられている。「季語ではないが、季語に変わる力のある言葉」が据わった句である。
 というわけで、俳句は「季語」が無くては成立しないのである。
 乱暴な言い方をすれば、俳句作りは実に簡単である。なんらかの思いを抱いたら、それを五・七なり七・五なりの文言にまとめる。それにその時期の季語を添えれば俳句になる。季語が自分の言い足りないことを語ってくれる。
  季語探し襟巻まいてコート着て   酒呑洞
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2021年02月13日

俳句にならない日記(38)


猿団子がぐちゃぐちゃに

 女性蔑視発言が世界中から攻撃されて、東京五輪組織委員会会長に居座れないとみるや、森喜朗氏は「辞任」を表明した。それはいいとして、自分勝手に仲間を後任の会長に据え、自分は顧問だか相談役だか、とにかく組織委に居残ろうとした。全くどうかしている。猿山のボス交代劇だって、もう少しすっきりしているのではないか。これで東京オリンピック組織委員会という猿山の猿団子は一挙に崩壊した。
 引責辞任する男が独断で後任を決め、指名された男も嬉しそうに「受諾」発言をした。会長というものは組織委の理事会・評議委員会で決めるものだろうに、そんなことがゆるされるのだろうかと、昨夜(2月11日)は首をひねっていた。
 案の定、方々から疑問が出たらしい。菅内閣は12日朝からばたばたし、「川淵三郎後任会長」はあっさり消えた。消えたのはいいのだが、菅内閣が消したというのが、全くもっておかしい。つい前日までは、菅さんは「組織委員会は独立の組織であり、その人事をどうこうできません」と言っていたのである。しかし、公益財団法人は政府の認可によって設立される。その法人がおかしなことをすれば認可を取り消せる。それなのに、組織委の人事に介入しませんと言っていたのは、大先輩の森喜朗への遠慮があったのではないか。「あの発言はあってはならないもの」だが「辞任を求めたりすることはしない」と言い繕っていたのである。それが掌返しの「介入」である。
 首相の意向は「若い人で、女性が望ましい」とも言われている。そこで、橋本聖子五輪担当大臣を据えるのではないかともっぱらの噂である。それだけは止した方がいいと思う。新しく組織委会長になる人は、これから、かなりの確率で「東京五輪中止」の決断とその幕引きをせねばならない。違約金の問題をはじめ、さまざまな難しい問題がのしかかってくる。このヒトのこれまでの言動からして、こうした難事をさばけるとは到底思えない。
 それに現在の組織委は組織の体を為していない。事務総長という組織委のナンバー2で、組織委を切り盛りする立場の武藤敏郎氏はもと財務次官までやった人で、有能と言われていたのだが、今回の大混乱の渦中でなんら目立った働きを示すことができなかった。森会長がルールを逸脱し、勝手に後任会長を決めてしまうなども、本来、事務総長が存在感を示して居れば防げたことである。それを事務総長にも相談せず、勝手に川淵某を呼んで“任命”するという呆れた行為を許す体制になっているのを、唯々諾々、棄て置いた罪は重い。
 まあ、誰が後任の会長になるのかわからないが、とにかく、コロナ禍におっかぶせてこうした茶番劇まで起こったのでは、東京五輪は完全に破産したと見るべきであろう。
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2021年02月11日

俳句日記 (651)


季語あれこれ(1)

 いくつかの句会の世話をしてきて30年近くたつが、この数年は事務的能力の衰えを自覚するようになり、後輩諸君にお願いしてお任せするようになった。しかし、句会の「兼題」を決めて、会報にそれについてあれこれ書く「季語研究」執筆は相変わらず引き受けている。
これもいい加減で止めた方がいいとは思っているのだが、「とても面白い」「一般の歳時記の短い解説には無い、微に入り細を穿つ水牛歳時記はとても参考になる」といった、優しい会員諸氏のお世辞半分の言葉に気を良くしてだらだら続けている。女性蔑視発言をして世界中から非難を浴び、ついに本日2月11日に東京五輪組織委員会の会長辞任の意思を表明した御仁が、つい数日前まで「辞めようと思っていたのだが、周りが辞めないでくれと言うものだから(辞任しないのだ)」と語っていたというのを聞いて、水牛歳時記も陰では「水牛のよだれ」などと言われているのかも知れないなあ、などと思う。
しかし、季語についてあれこれ考え、古今の資料を渉猟し、自分の思いも込めて解説を書くのは実に楽しい。頭の体操にこんな良いものは無い。水牛のボケ防止に付合わされる会員諸氏には迷惑千万かもしれないが、“辞任要求”が出ないのを幸い、まだしばらく続けるつもりである。
しかし、問題がある。現在は日経俳句会、酔吟会、番町喜楽会と三つの句会の月例会兼題各二題について書いているのだが、それが20年以上にもなると、目ぼしい季語はあらかた出してしまっている。そこで近ごろは昔出した季語研究を蒸し返し、少々手を入れて再度出題したりしている。
だが、前に出た季語ばかりでは新鮮味に欠ける。たまにはこれまで出したことのない珍しい季語を登場させようと意気込む。こうして昨年夏から「霍乱(かくらん)」「夜這星(よばいぼし)」「龍田姫(たつたひめ)」「葱鮪(ねぎま)」「池普請(いけぶしん)」「鎌鼬(かまいたち)」などという、世間一般の句会ではおそらく出てこない兼題を出した。
こういう珍奇な季語を出すと、「ひどい」「困ります」と言う人も無いではないが、面白がってあれこれ研究してくれる人も多く、面白い句が結構出て来る。
「葱鮪」は冬場がことに美味くて、熱燗とぴったりなのだが、近頃は鶏肉とネギを交互に刺した焼鳥を「ネギマ」と呼ぶのが一般的になっているようで、それを詠んだ句が出てきた。「池普請」は句に出来る人がどれくらい居るかなと危ぶんでいたのだが、どっと出てきた。ニュース番組以外はほとんどテレビを見ない水牛が知らなかっただけのことで、「池普請」を扱った人気番組があったのだった。
「鎌鼬」こそ我ながら意地悪な出題だと思っていたが、素晴らしい句が続々寄せられた。
 双牛舎ブログ「みんなの俳句」で今週は「鎌鼬」の名句を連続して取り上げた。それほどこの難解季語をこなす作品が集まったのには驚いた。
  小走りの新聞少年鎌鼬      反平
  鎌鼬鬼滅の刃受けしかな     光迷
  鎌鼬賑わい消えたシャッター街  冷峰
  エクセルのふつりと消えり鎌鼬  木葉
といった具合である。こういった風変わりな、今では見捨てられた季語を再発掘するのもたまにはいいかなと思ったりしている。
  春宵を夏の兼題とつおいつ   酒呑洞
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2021年02月05日

俳句日記 (650)


猿団子

 新聞社系のネットニュースは前文の数行で「これ以降は有料会員のみご覧いただけます」と、ぶった切ってしまう。どうせ最後まで読んでも大したことは書いて無いと分かっている(半日遅れで出る朝刊、夕刊に全文が載っているので、「やはり大した内容では無かった」ことが明らかになる)から、決して有料会員になならない。
 それよりはyahooのネットニュースの方がずっといい。共同、時事の両通信社はじめ全国の有力新聞の記事や、得体の知れない発信元に至るまで、様々なニュースが次々に出て来る。ニュースの出所、媒体の信用度など、怪しいものもある。しかし、なまじっかニュースの玉石選別などしていないから、時にはひどいなと思う話も出てくるが、それはそれで読み手の鑑識眼が問われるだけのことだと割り切れば、却って公平感を抱く。
 今日(2月5日)もコロナ籠もりを口実にぐうたら過ごしていた時、「猿団子」というのにぶつかった。この言葉は「広辞苑」にも「明鏡国語辞典」にも載っていないが、大昔、現役の社会部記者時代に上野動物園の飼育係に聞いたことが記憶の底に残っていたので理解できた。厳寒の候、ニホンザルは一族郎党固まって円陣を組み、お互いの体温で温め合う。それがまるで団子のように丸まっているというので、こういう言葉が生まれたようだ。しかし、たくさんの猿が身を寄せ合い一塊になっているところなど、普通には見られない情景だから、山里の住民や動物園関係者など一部の人達だけの言葉として伝わり、辞書に取り上げられることもなく来たのだろう。
 今日の記事は京都大学霊長類研究所の研究員が「猿団子の観察」を続けて得た結論である。曰く、「順位の高いオスほど猿団子の内側の位置に居ることが確かめられた」。レディファーストもへったくれもない。一番強いオスが猿団子の中心にふんぞり返って、子分や婦女子に囲まれ寒風を防いでいるというのだ。
 瞬時に、「女が多いと理事会は時間がかかる」と驚天動地の発言をした森喜朗東京オリンピック組織委員会会長が浮かんだ。小松市の猿山の真ん中にふんぞり返っている老猿がまざまざと見えた。
 どんな失言暴言を吐いて世間の話題になっても、いつのまにかうやむやになってしまう。この人はそういう恵まれた環境の中で総理大臣にまで上り詰めた。ラグビーが大好きだったようだが、大学部活の正選手にもなれず仕舞いだったのに、ラグビー協会の会長になって、さらには日本オリンピック委員会(JOC)理事、そして東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長になってしまった。
 明らかな女性蔑視発言をして全世界から批判の声が上がるや、「発言を取り消し、陳謝します」と記者会見を開いたその席で、「会長は辞めません」と居直り、厳しい質問をした記者には「おもしろおかしく書こうと、そんなこと聞くんだろ」と声荒げるなど、全く反省していないことを自ら暴露した。
 こういう人物を辞めさせない日本政府、東京オリンピック組織委員会、東京都、そして日本オリンピック委員会(JOC)はどうかしているのではないか。特に、お膝元というか親元というか、JOCの山下泰裕会長の5日になっての公式発言、「辞任は求めず」発言には開いた口が塞がらない。この記者会見の一問一答をネットで見たが、何を言わんとしているのかわけが分からない。柔道は強かったが、やはり現役時代頭をぶつけすぎた後遺症で、脳味噌がぐにゃぐにゃになっているのだろうか。
 言ってみれば、親分を皆で囲んで寒風から守る「猿団子」である。スポーツ界というものは、所詮は猿団子なのであろうか。
 しかし、猿山には冷厳な掟がある。親分が親分らしくない振る舞いをするようになると、二番手、三番手が攻撃を仕掛け、トップ交代が行われて、群れは新秩序の下に平穏を取り戻す。日本のスポーツ界にはこれが行われなくなってしまったのだろうか。
  強東風にホイッスル鳴る二度三度   酒呑洞
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2021年02月03日

俳句日記 (649)


春を待つ心

 公明新聞学芸部のA.K氏は双牛舎ホームページの「水牛歳時記」やこのブログを面白がってくれて、折に触れ歳時随筆を書けと声をかけてくれる。酔っ払いのうわ言のようなものでも、「なかなかの味わいですよ」とすこぶるおだて上手だ。今回の注文は「春を待つ心、ということでどうですか」ということだった。それが1月29日付け公明新聞文化欄に載った。節分から立春へのタイミングでもあるし、それをそっくり転載しよう。
           *       *       *
 地球温暖化のせいで近頃は冬の平均気温が上がってきている。しかし、やはり冬は寒い。「早く春になってくれないかなあ」と誰もが思う。ことに北日本の人にとっては、冬の低温と降雪は時に生死に関わるほどになるから、神経を使う。
 兼好法師が「徒然草」で「家は夏向きに作るべきだ」と書いているように、昔の日本家屋は夏の猛暑と多湿を避けるため風が吹き抜けるように開放的に作った。だから冬になると大変で、戸は締切り、隙間風が入らないように柱や壁と建具との隙間に紙を貼る「目貼り」をしたり、雪の多い北国では窓を板で覆い、家の回りを板や藁で覆う「雪囲い」をする。こうなると冬場の屋内は昼間でも真っ暗だ。寒く、暗い日々が続く。
 しかし、冬至で最も短くなった昼の時間がだんだん伸び始めると、寒さは相変わらず厳しいのだが、頼りない冬の日射しになんとなく力強さが戻ってくる。間もなく寒が明けて立春、待ちに待った春の到来だ。この「春を待つ心」を込めた季語が沢山ある。ずばり「春待つ」というのがあるし、「春近し」というのもある。それをもっと強く、春はもうすぐそこに来ているんだという気持を込めた「春隣(はるとなり)」という季語もある。
  地の底に在るもろもろや春を待つ 松本たかし
  仲見世や櫛簪に春近し      長谷川かな女
  叱られて目をつぶる猫春隣    久保田万太郎
 こうして待ちに待った春がやって来ると、「雪とけて村一ぱいの子ども哉 一茶」ということになる。北信濃は冬が長く、雪解けの春は本当に嬉しいのだろう。子どもたちが一斉に戸外に飛び出すと詠んで、その気持を表している。
 ところで「春」と言えば、現代の私たちは二月初めの立春から五月初めの立夏の前日までと理解している。しかし、明治初年までの旧暦時代、春は一月一日から三月末日までとしていた。「元日は立春」だったのだ。しかし、月の満ち欠けを基準にした旧暦は太陽暦の一年三六五・二四日に比べ十一日も少ない。これでは三年で太陽の運行と約一ヶ月ずれてしまう。これを調整するために、旧暦には太陽の運行に基づく季節変化を示す「二十四節気」を載せた。「立春」「立秋」「冬至」などがそれである。
ただそうした種々の調整を行っても、年々、太陽年とのズレが溜まって来る。今年令和三年一月一日は旧暦で言えばまだ十一月十八日。立春の二月三日は旧暦では前年十二月二十二日である。旧暦で言うと、今年は暮の十二月中に春になってしまったことになる。これを「年内立春」と言い、俳人たちはこれまた季語にして、「年のうちの春やたしかに水の音 千代女」などと詠んでは面白がった。これも待春の心のほとばしりと言えよう。
  コロナ禍の年内立春言祝げり  水牛
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2021年01月27日

俳句にならない日記 (37)


足しても掛けても「令和」零

 「巧言令色」や「李下に冠を正す」ような行いばかりが目立った安倍晋三という人よりは少しはましではないかと思っていたのだが、菅義偉(すが・よしひで)という人物はやはり宰相の器ではないようである。
 2020年9月、自民党総裁選で圧倒的支持を集めて総理大臣になった当初は、地味な立ち居振る舞いが前任者のうさん臭い雰囲気とは大いに異なり、好印象を集めた。水牛も「地味にこつこつやってくれればいいな」と思った。
 一国の首相がスーパーマリオの扮装でリオデジャネイロの舞台に現れ、「オリンピック、東京に来てくださーい」なんぞと三流芸人のようなパフォーマンスをやったのをテレビで見て、総身に悪寒が走った。「ああ、我々はこういうバカを首相に戴いているのだ。そのバカを選んだ私達はバカも極まれりだ」と心底がっかりした。それに引き換え地味なスガさんは、もう少し地に足のついた政治をして、失われた数十年を少しずつでも取り戻してくれるのではないか、と淡い期待を抱いたのである。
 しかし就任4ヶ月、初めて臨んだ国会の答弁や記者会見を見聞きするにつけ、地味を通り越して、中身が何も無い感じである。施政方針演説の原稿の読み間違えなどはあってはならない誤りだと思うのだが、それはまあ思っても見なかった晴れ舞台で上気してしまったものとして目をつぶる。しかし、その後も毎回毎回「読み間違え」や「言い間違い」が続く。
 首相や大臣の答弁、記者会見の想定問答はお付きの連中が作る。当人はそれを自分の言葉として喋る。セリフとして頭に入っていない場合は原稿を読む。最近は聴衆には見えないがセリフを書いたボードが眼の前に現れる装置がある。当然そうした装置があるはずなのだが、菅首相は下を向いたままモゴモゴ言っては間違える。
 こうなると、この人は問題そのものをどれほど理解しているのだろうかという疑いが湧いてくる。官房長官という内閣のスポークスマンはバカでは務まらない。それを7年も勤めてきたのだから、答弁術には長けているはずである。それなのに、自分が首相になった途端にしどろもどろになるとは、一体どうしたことなのか。
 その解は人間の「器」にあるようだ。
 静岡県知事が菅首相の底の浅さをその学歴と絡めて貶めるようなことを言い、すぐに撤回したが、あの評言が満更的外れではなかったとさえ思えるような昨今の体たらくである。「可能であればやります」とか、「仮定のことには答えを差し控えさせていただく」「緊張感をもって事態を注視していきたい」といった答弁はとても総理大臣のものとは思えない。こういうセリフは小役人の逃げ口上である。想定問答集に無かった答えを求められたときに口走る決り文句のようだが、一国の政治を任された人間の言うべき言葉ではない。
 「これこれこういう事態が発生した時にどうすべきか」と問われ、咄嗟には具体的な答えが出来ない場合もあるだろう。その時は「内閣、政府諸機関あげて全身全霊で問題解決に当たります」というような答弁を行って時間を稼ぐ。再質問で具体策を示せと迫られたら、担当大臣に場繋ぎの答弁をさせておいて、やおら「不退転の決意」を述べるが良い。とにかく、そのようにしてその場をしのぐことが、国民の不安を和らげることにつながる。それを「仮定のことには答えを差し控えさせていただきます」と断ち切ってしまっては、単に質問者をはぐらかすだけではなく、国民に「こういうソーリで大丈夫なのか」という不安感を抱かせてしまうのだ。
 1月27日の参院予算委員会はコロナ対策費を積み増した第三次補正予算案を通す大事な審議。ここで、立憲民主党の蓮舫議員が、コロナ感染にもかかわらず入院できずに自宅療養を続け12月から1月にかけて29人が死亡した事態を挙げて、「この29人の命、どれだけ無念だったでしょうかね。総理、その思い分かりますか」と質問した。お涙頂戴的な実にえげつない質問である。これに対してスガさんは「大変申し訳無い思いであります」と答えた。
 必要な医療体制が整備、提供できていないという医療専門家や現場からの意見が国会で取り上げられ、それが頭にあるから取りあえずは謝ったのである。すると蓮舫さんは、「もう少し言葉ありませんか」と畳み掛けた。スガさんは「心から申し上げましたように、大変申し訳無い思いであります」と繰り返した。待ってましたとばかりに蓮舫さんは、「そんな答弁だから言葉が伝わらないんです。・・あなたには総理としての自覚や責任感、それを言葉で伝えようと、そういう思いはあるんですか」と切り込んだ。すると、スガさんはむっとした感じを現し、「言葉が通じる通じない、私に要因があるかもしれませんけども、私自身は精一杯、これに取り組んでおるところです」と、もう半ベソ状態である。
 「巧言令色」は論外だが、一国を束ねる宰相には「表現能力」が欠かせないということをまざまざと感じさせられた。(21.01.27.)
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2021年01月24日

俳句日記 (648)


大相撲コロナ場所千秋楽

 令和3年初場所は前代未聞、幕内・十両の関取19人が休場、三場所連続横綱休場で「これで客を呼ぶつもりなのか」という状況の中で行われたが、優勝した前頭筆頭の大栄翔の痛快極まる突き押し相撲と、大関返り咲き以外に余念の無い関脇照ノ富士の頑張りで、なかなか見ごたえのある場所になった。
 初場所は荒れるのが当たり前とされて久しい。ここ数年、初顔が優勝している。今回もこれまで優勝とは縁の無かった大栄翔が、大関、関脇、小結の7人全員を倒しての「完全優勝」である。平幕が三役全員を倒しての優勝というのは初めてのことではないか。とにかく文句なしの優勝であった。
 一方、期待の照ノ富士は11勝4敗。大栄翔、隆の勝には惜しいところで勝を逸したが、11勝上げたことで「よくやった」と言いたい。特に、大関正代の優勝の目を潰した14日目の相撲には、「俺は大関に返り咲くんだ」という執念が籠もっているように見えた。もうだめかと思ったら、大きな体をくるりと回して生き返り、土俵際に押し込まれると悪い膝一本で踏ん張り、掛け投げを見せて頑張り、ついに根負けした正代をはたき込んで仕留めた。あのぐるぐる巻きの包帯の両膝はかなり悪いと言われているが、この一番を見る限り、かなり回復しているのではないか。阿武咲や大栄翔に押し込まれ、残す膝の力が無くて土俵を割ってしまったのを見て、「やはり両膝がなあ」と思っていたのだが、正代戦の結果、これは今後十分やれそうな希望が湧いてきた。
 3月場所がすこぶる楽しみになってきた。照ノ富士はこのまま膝の欠陥を悪くしないで行ければ、11勝は上げて大関復帰を果たすだろう。大栄翔は前頭筆頭で13勝2敗の優勝、しかも大関以下三役総ナメでの優勝だから、番付上位が詰まっているとは言え、恐らく来場所は「関脇三人」の番付編成となって、関脇になるだろう。そこでもし連続優勝となれば、令和二年の11月場所が前頭だったが10勝しているから、いきなり大関昇進ということになろう。
 ただし、大栄翔もこれまでの足取りから見れば、もう一つ安定感に欠ける。今場所、「横綱昇進」が囃されて、無様な相撲を取り続けて自滅した大関貴景勝とよく似たところがある。調子に乗ると手のつけられない強さを発揮するが、一旦こけてしまうと立ち直れず、ずるずる連敗してしまうもろさがある。
 さはさりながら、照ノ富士と、再起をかける貴景勝と、大栄翔の「モウ一丁」の意気込みで春場所は面白くなる。白鵬、鶴竜の休みグセ両横綱は出て来るだろうが、もうさしたる活躍は期待できない。人気先行の朝乃山、正代両大関はまあまあの存在感を示せれば上々といったところだろうか。
  初場所を手負力士の大奮闘   酒呑洞
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2021年01月13日

俳句日記 (647)


いよいよデタラメ大相撲

 初場所は荒れるものと昔から言われている。2016年から昨年までの初場所の優勝力士は琴奨菊、稀勢の里、栃ノ心、玉鷲、徳勝龍と、それまで優勝とは縁遠かった力士が優勝した。初場所で予想外の力士が優勝するのは、暮から正月にかけてタニマチとの付き合いなども重なって、実力のある横綱大関などに緩みが生じることも出るせいなのであろう。
 令和3年初場所はこれまでとは様相を異にし、そうした浮ついた雰囲気は無い。コロナウイルスの蔓延という新事態である。白鵬、鶴竜の両横綱はじめ、コロナウイルス感染騒ぎで関取16人が休場という前代未聞の場所となった。
 こういう時には出場最高位の大関3人が頑張らねばならない。ことに、先場所優勝して、今場所優勝なら横綱昇進という貴景勝には奮闘努力が望まれる。ところが、大方の期待はあっさり裏切られ、貴景勝はなんと初日から3連敗である。「自分は押し相撲、押しに徹する」と言いながら、上体だけで押して出て足がついて行かないから、ばったり。横綱を目指すどころか、このままでは勝ち越しも危うい。先場所、左足首を負傷した正代もどうも危なっかしい取口で、案の定、本日三日目、大栄翔の勇猛果敢な押しに屈した。もう一人の大関朝乃山は勢いの出てきた御嶽海の押しに為すすべもなく押し出されてしまった。横綱不在場所で、頑張らなくてはいけない三大関が総崩れ。かくて、今場所は両横綱全休、筆頭大関三連敗、続く大関が二勝一敗、一勝二敗である。
 こういうのは波乱万丈で面白いという人もいるが、どうにも白けてしまう。番付上位が必ず勝つというのも面白くないが、そうした安定感の中で、時に下位の力士が力を発揮して上位を食うというところに相撲の面白みがある。上位がばたばた負けてしまうのはなんとも味気ない。今場所は三日目にして早くもそうなってしまった。こうなると、今場所はもう誰が優勝するのやら分らなくなってしまった。
 と、ここまで大相撲のことを考えてきて、ふと見回せば、世の中すべてが「デタラメ」になってしまっているのではないかと気づく。
 政治の世界がそうである。安倍政権が自己崩壊した後、次を担う人が見当たらず、消去法のような形で菅政権が出来たが、コロナ禍というかつて無かった災厄を切り抜ける知恵も腕も無く、うろうろしている。それでは菅政権を倒して国政を担う人は誰か、ということになると、自民党にも立憲民主党にも見当たらない。しょうがない、スガさんもう少し頑張ってーということになる。
 目を世界に広げても同じようなことが言える。地球上を仕切ってきたアメリカの力が衰え、それにいらつくアメリカ人はトランプという破天荒な人物を指導者に担いだが、もろに失敗した。ヨーロッパ主要国にもEUでヘゲモニーを握れる実力者が見当たらない。次の地球支配者と目される中国の指導部を握っているように見えるシュウなんとかも盤石とは言い難いところがある。
 相撲という小さな興行の動きを世界の動きに照らし合わせるのは乱暴なことだとは思うが、今や世界中が大も小も、正も邪も、味噌もクソも一緒にしてしまって、混沌とした様相を呈している。そして、こうした世相が、相撲という小世界にまた照り返して、デタラメ場所を現出せしめているのかなあとも思う。
  大関のばたばた負ける寒さかな   酒呑洞
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