2018年11月15日

俳句日記 (432)


でたらめ

 やっぱり九州場所はデタラメになってしまった。11月11日の初日を前に本欄で「踏ん張れるか稀勢の里」と書いた。白鵬、鶴竜が出来る限り横綱を張り続けたい、そのためには無理は禁物とあっさり休場を決めてしまったから、稀勢の里は自然に「一人横綱」の晴れ姿を見せることになった。幸い場所前の巡業から調子が上がり、自分から「目標は優勝」と言うほどの勢いで場所に臨んだ。
 これが危ないと思った。この横綱は非常に神経が細く、妙に意気込んだりすると、身体全体を滑らかに動かすことができなくなり、ピノキオ人形のように四肢の動きがばらばらになってしまう。案の定、初日、物凄い気力で貴景勝を相手に押し合い突き合ったが、いつのまにか、上体と下半身の動きのアンバランスをつかれてあえなく敗戦。それから四日間、これが横綱かと目を背けたくなるような不様な負け方をして、本日五日目から休場となった。
 この心の弱い横綱に歯がゆい思いをしながらも応援してきた。不遜、傍若無人の白鵬と比べればずっと好感が持てる。初場所まで二ヵ月、座禅でもして心を平穏に保つ修練をして、なんとか立ち直ってもらいたいと願うばかりである。
 さて横綱不在の九州場所五日目、「それじゃあオレが」と表に立つべき大関三人が揃って不様な負け方をした。馬力だけが頼りの栃ノ心は怪我が心配で、とても横綱になれる器では無い。豪栄道は稽古場では横綱だが、本場所になるとポカ負けを繰り返すからこれも大関を守るのが精一杯。残る高安が中では最も有望なのだが、根っからのブキッチョで、頭も悪そうだ。
 こんなわけで平成最後の九州場所は水牛の悪い予感が当たり、デタラメな場所になってしまった。これで煮えこじけの焼芋みたいな栃煌山なんかが優勝したら、それこそしらけてしまう。
 やはり九州場所と酷暑の名古屋場所は本場所からはずした方がいいのだ。それぞれを特別なスポンサー、例えば九州電力とかソフトバンク、トヨタ自動車などの冠をかぶせた「特別場所」にして、高額賞金と名誉称号を与えるようにすればいい。この両場所の成績は番付には無関係とすれば、本場所の間隔が開いて、怪我をしたり悩みを抱えた力士も立ち直りの時間的余裕が持てるようになる。
  あら当たったかや九州場所の河豚汁(ふくとじる)
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2018年11月13日

俳句日記 (431)

猫の脳ミソ(2)

 11月7日の立冬を過ぎて朝晩冷え込み始め、日によっては日中も20℃に届かないようになった。11日の日曜日夜、昼間はかなり暖かったのが夜が更けるにつれて冷え込んできた。
 チビがパソコン机に向かっている水牛の足元に擦り寄ってきて、ミャアミャア鳴く。お気に入りのチャオチュールというゼリー状の魚の擂り身をやったばかりである。主食のカリカリの上には好みのトッピング、クリスピー・キッスも乗せてやった。それなのに鳴く。
 「うるさいっ、バイバイ」と大きな声を出すと、恨めしそうな顔をして居間の方へ行った。ところがものの10分たたないうちにまた戻って来て、みゃあみゃあ言う。どうしてなのか。キーボードを叩いているうちに気が付いた。
 パソコン机の下の座布団の上に、さっき足温器を置いたのを見ていたのだ。足先が冷えると持病の膝痛が起こるので、毎年11月になるとこれを足元に置くことにしており、さっき山の神に納戸から持ってきてもらったのだ。この足温器は薄べったい四角なマット状で座布団の上に敷けるようになっている。
 もともとパソコン机の下の座布団を自分の居場所と決めているチビにとっては、寒くなるとそこに足温器が置かれて、ぽかぽかした塒が生まれることも知っている。春になってそれが片付けられると忘れてしまうのだが、こうしてまた敷かれると思い出すのだろう。いそいそとその上にうずくまった。
 しかし、一向に暖かくならない。これはおかしいと思ったのだろう。それで「なんとかしなさいよ」と言ったのだ。
 「お前はよく分かるなあ」と笑いがこみ上げてきた。ソケットを差し込むと、すぐに暖かくなり始める。チビはよしよしといった風情で丸くなった。18.11.12.足温器のチビ1.jpg
 この足温器は冬中つけっぱなしにしておいてもサーモスタットで電気が通じたり切れたりするので、「安全かつ経済的です」と販売店に言われたのだが、中国製なのでもう一つ安心できず、夜寝所に行く時にはソケットを抜く。余熱が失われるとチビは居間のソファに行っているようだ。朝になって水牛が書斎に来てスイッチを入れると、またその上に来て丸くなる。
 チビにはもとより足温器の暖かくなるメカニズムなど分かるはずもないが、保護者の水牛がなにかごそごそやると暖かくなることは分かっているのだ。猫の脳味噌はバカに出来ないものだなあと思う。
  足温器つけよとせがむ甘え猫
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2018年11月12日

俳句日記 (430)


猫の脳ミソ(1)

 チビは我が書斎を自分の住み処と決めている満十三歳の牝猫である。頭から背中全体を通して長い尻尾の先まで真っ黒。頤の下から腹は純白の中々綺麗な姿をしている。親にはぐれたに違いない生まれて間もないチビを、我が家の庭に住み着いていたキタコという半ノラが連れて来て、我が子のように可愛がった。「猫可愛がり」という言葉そのままに、自分の子を亡くしたキタコは自分のおっぱいを飲ませ、四六時中舐め回してチビを育て上げた。
 それなのに、一年ばかりたった2006年春、突然キタコはチビを邪険に扱い始めた。動物の「親離れ子離れ」とはこういうものかということを目の当たりにした。左右パンチを浴びせ、果ては唸り声を上げて噛みつく。チビは金切り声を上げて逃げ回り、玄太という老犬の小屋に逃げ込んだ。玄太は実に優しい気性で、懐に潜り込んできたチビを抱きかかえるように匿った。
 その玄太が2010年1月31日に17歳で死んだ。チビはその後しばらく玄太と共にいた庭の陶芸小屋に住んでいたが、庭全体を自分の領土と心得ている怖いキタコが徘徊している中での一人暮らしに不安を抱いたのだろう、或る日、開けておいた書斎の窓から中に飛び込んで来て、そのまま居座った。以来、此処が自分の生まれ故郷というような顔をしている。
 定位置はパソコン机の下である。ここは床に貼り付けたカーペットの上に、水牛が足乗せにしている座布団が敷いてある。そこを自分の居場所に決めた。退屈するとそこから這い出して、書斎の西側の出窓に坐って外側の石段を上り下りするする人たちを眺める。いわゆる「窓猫」というやつで、表を通る人たちはガラス窓越しに見える狛犬のようなチビを見つけて「あら可愛い」なんて言っている。犬と違って猫はまことに無愛想で、尻尾を振るどころか、ヒゲすら動かさない。そのくせ通りすがる大人子供には興味があるようで、じっと観察している。
 人間観察に飽きると、今度は居間で家計簿なぞ広げている山の神に近寄っては前脚で引っ掻き、ミャアと鳴く。こうすると山の神がマイバスケットで買って来た「猫のおやつ」をくれるのだ。そしてその後ひとしきり、毛布を掛けてくれて、「とんとんとん、とんとんとん」と囃しながら身体を優しく叩いてもらえることが分かっている。
 それが終わると、今度は二階のパトロール。階段の踊り場に置かれた自分用のトイレで悠然と用足しをしてから、二階角部屋の南側の窓かまちにぽんと飛び乗って庭を見下ろす。短いときは5分ほど、長ければ30分も眺めて、次は廊下を奥に進んでベランダに出て日光浴。
 自分の王国巡遊を終えると、また書斎に帰って来て、えさ箱を見る。「カリカリ」と称している主食のキャットフードの小鉢と、水鉢、それに好みの猫缶詰やゼリータイプのおやつを入れる小鉢が並んでいる。まずは「おやつを入れてくれ」とミャアと鳴く。それを瞬く間に食べ終わると、主食のキャットフードの小鉢を覗く。それが空だったり、残り少なくなっていたりすると、またミャアミャアと鳴く。定量の八分目ほど入れてやると、食べはせずに満足したような顔をしてパソコン机の下のねぐらに丸くなる。こうして自分なりに考えた塩梅通りに事が運べば「まんぞくまんぞく」という表情である。少しでも違えると、実に不満そうにミャアミャア鳴き続け、時には前脚でズボンを引っ掻く。
 チビの頭蓋骨は小学生の拳骨くらいの大きさしかない。その中に詰まっている脳味噌は大さじ一杯くらいのものではないだろうか。そんな中に、行動基準から飼い主の様子、表情、気分までを忖度する回路が組み込まれているようなのだ。大したものだなあと感心する。
  小春日のベランダ猫と丸く居り
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2018年11月11日

俳句日記 (429)


踏ん張れるか稀勢の里

 11日、今年の締めの大相撲九州場所が始まる。八場所連続休場で進退が問われていた横綱稀勢の里は、9月秋場所で10勝して何とか面目を保った。今期は巡業中から好調で、自身も「優勝」を目標に据えるなど、大分高揚してきた様子がうかがえた。
 これは九州場所は面白くなると思っていたところが、第一人者の横綱白鵬が右膝手術の回復遅れを理由に休場を発表した。それを追い掛けて、横綱鶴竜も右足首の不具合とかで休場するという。なんと稀勢が「一人横綱」の晴れ舞台に立つことになってしまった。
 これが稀勢の里にどう影響するか。常識的にはビッグチャンスということになろう。二枚看板が外れたとなれば、後は大関豪栄道、栃ノ心、関脇逸ノ城、御嶽海が相手で、それ以下に取りこぼしが無ければ悠悠優勝という図式が描ける。
 しかし、これが却ってプレッシャーになりはしないか。「最大のチャンスが巡って来た」と思った途端に、緊張してしまうのではないか。稀勢の里という力士は前から感じていたのだが、いわゆる「ノミの心臓」である。何かのきっかけで、心臓がきゅっと縮んでしまうと、あとは全てが上の空で、相撲力が失われて負けてしまう。
 まずいことに初日の相手が小結貴景勝である。親方の貴乃花が自分勝手な振る舞いから部屋を潰すことになり、貴景勝は千賀ノ浦部屋に貰われて行った。兎に角、新しい部屋の部屋頭になって、存在感を増そうと意気に燃えている。相手は横綱だから負けて元々、思い切ってぶつかって行くだろう。稀勢の里にとっては最も苦手とするタイプである。
 これで横綱が不様に押し出されたり四つん這いにさせられたりすると、九州場所はまたまたデタラメな場所になってしまう。そんなことにならずに、稀勢の里が勝ち進み、ゆったりとした大相撲の流れができて欲しいと思うのだが、どうも悪い方の流れになりそうな予感がする。
  荒れさうな九州場所よ河豚汁
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2018年11月07日

俳句日記 (428)



貝割菜

 大根、蕪、小松菜などアブラナ科の野菜の種を蒔くと三、四日で貝が口を開いたような形で双葉が芽生える。これを貝割菜と言い、一週間から十日ほどで真ん中から本葉がちょっとのぞいた頃に間引く。貝割菜が密集したまま放っておくと、ひしめき合って、みんなひょろひょろになってしまうから、通風と採光を良くしてやって、しっかりとした菜が育つように、適当な間隔を設けて余分なものを抜き取る。抜き取った小さな貝割菜が「間引菜」であり、抜き菜、うろ抜き菜、つまみ菜とも言う。
 大根や蕪などの冬野菜は普通は9月中旬に種を蒔く。そのため貝割菜も間引菜も秋の季語になっている。しかし、水牛菜園はほぼ一ヵ月遅れで種蒔き、間引き作業をやる。と言うのは、9月だとまだ害虫の活動が盛んで、早めに本葉が出るとすぐに喰われてしまうからである。もう一つの理由は、近ごろは妙に暖かく、九月に蒔いたのでは小松菜などは正月の雑煮用には大きくなりすぎてしまう。雑煮の小松菜は長さがせいぜい十センチ、茎が四、五本の若菜を切らずに使いたい。そういうのを採るためには横浜辺では一ヵ月ずらして10月下旬に種を蒔いた方がいいのだ。それに今年は9月中下旬から10月初旬は雨降りが多く、農作業が出来ずに、結果として10月下旬播種ということになった。
 大根にはやはり少し時季遅れだ。だから水牛大根はどうしても小ぶりに留まってしまう。
 とにかく、その貝割菜が一斉に芽生えた。これから12月にかけて三度にわたって間引いて行く。こうして小松菜や小蕪は十センチ間隔ほどにして大きく育てる。大根はもう一回間引いて四十センチ間隔に一本立ちさせる。18.11.07. 貝割菜2. jpg.jpg
 この「間引き作業」は非常にくたびれる。腰と膝に負担がかかる。途中で不用意に立ち上がったりすればギックリ腰である。
 けれども間引菜にはそういう苦労をするだけの値打ちがある。大きな洗い桶一杯の間引菜も茹でてお浸しにすると一握りになってしまう。しかし、これに花かつおをぱらりとかけて醤油を垂らせば、こんな美味い物はないなとつくづく思う。良い出汁に信州味噌の上等を溶かし、沸騰寸前に火を止めて間引菜を入れる。瞬間に鮮やかな緑になる。この味噌汁は天下一品である。
 この間引菜の食味を思いつつ、明日から抜き菜作業を始めよう。

  まずもって半分抜くか貝割菜
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2018年10月29日

俳句日記 (427)


三渓蕎麦と北京ダック

 天高くとまでは言えないが、朝方の雨が上がってお日様が照った27日午後、仲良しのKチャン、☆チャン、馬吉さんを誘ってヨコハマ本牧・三渓園を散策、山手の外人墓地、港の見える丘公園を巡り、中華街で北京ダックを食べた。
 この三人とは、水牛が定年後のボケ防止と酒手稼ぎのために出かけるようになったアルバイト先で友達になった。馬吉さんは一回り年下、女性二人は二回り以上も若い元気溌剌たる人たち。まずは三人から若さを貰った。さらに日々こなす仕事でしばしばやらかすヘマを補ってもらった。そのお蔭で、このアルバイト先は実に過ごしやすく、また老化を先延ばしするのに絶好の場所になり、なんと後期高齢者という烙印を押される75歳まで10年以上も居続けた。というわけで完全引退した今も感謝の気持を込めて、この3人を呼び出しては美味しいものを御馳走し、歓談する会を続けている。
 表題の「三渓そば」とは、明治から昭和初年にかけて生糸貿易で巨万の富を稼ぎ出した豪商原三渓が作った名園三渓園の茶屋「待春軒」の売り物の変わった蕎麦である。三渓が茶会や歌会、談論の場で気軽に食べられるようにと、蕎麦の上に具を盛って汁を掛けた、今どきの冷やしラーメンに似たような変わり麺である。蕎麦とも言えず饂飩とも言えない、出来損ないのスパゲティのような麺の上に、蒲鉾やらハムやら筍、茸などを醤油葛餡でまとめたどろりとした汁をかけたものである。まずくはないが、さして旨いとも言えない。まあ、三渓園名物として一度は味わっておくのも一興といったシロモノである。18.10.28.三渓そば (1).jpg
 中華街市場通りの「北京烤鴨店」(ペキンカオヤーテン)は店名の通り北京ダックが売り物で、店先のウインドウには太った鴨がカギにぶら下がってゆるゆると動いているディスプレーも巧である。10年ほど前に出来た比較的新し店で、初めのうちは果たしてどんなものを喰わせるのか疑心暗鬼だったが、或る日、ふらふらと入って食べた焼鴨がとても旨かった。
 飴色に焼き上がった大きな北京ダックを載せたカートが座席の傍らにやって来て、若いコックが鮮やかな手つきでそぎ切りにしては小皿に積み上げ、丸くて薄い包む皮の蒸された蒸篭と、胡瓜と白葱の千六本を盛った小皿と共に供される。包み皮に焼鴨をたっぷり載せて胡瓜と葱を載せ、味噌だれをつけてくるりと巻いて食べる。焼きたての鴨はジューシーで香ばしく、実に美味しい。紹興酒ともとても相性がいい。18.10.27.北京鴨 (1).jpg
 北京ダック一羽は随分のボリュームで、4人で食べてもなかなか食べきれない。この外にタラバガニのチリソース、豆腐と蟹肉の旨煮、野菜あれこれの炒め物やら小籠包、水餃子等々を取ってしまったから、平らげるのが大変だった。そして出て来たのが今食べた北京ダックのガラで拵えたスープ。骨をぶつ切りにして花椒(中国山椒)、胡椒、クコの実などを入れて炊いた白濁したスープで、これがまたすこぶる旨い。みんなお腹がいっぱいになって、すこぶる上機嫌になった。ビールや10年ものの紹興酒、その他の飲み物を引っくるめて勘定書きは二万円少々。訳の分からない物を喰わせるチェーン店方式の飲み屋と大して変わらない。中華街の横丁にはこうした穴場がちょいちょいある。
  秋の夜を北京ダックと紹興酒
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2018年10月23日

俳句日記 (426)



燗をつける

 今年は10月17日が旧暦の9月9日で「重陽」の菊の節句、21日が十三夜(後の月)。そうした暦通りに急に肌寒くなった。本来なら今日23日が満月のはずなのだが、天文学上の日取りとずれが生じたか満月は25日だという。でもまあ、今宵もほぼまん丸。チョッキをはおって、「ああ秋も深まったなあ」と一人で良い月を眺めた。もう家人はとっくに寝に付いている。こうなると何と言っても温めた酒の出番である。
 平安から鎌倉時代の日本人は酒は冷や(常温)で飲むのが普通で、温めた酒は薬として飲んでいたようだ。中国唐時代の風習である重陽の菊の節句に散策(登高)し、温め酒を飲むのが百薬の長という言い伝えが尊重されたのだ。
 平安歌人に愛された中唐の詩人白楽天(白居易)に「送王十八帰山寄題仙遊寺」(王十八の山に帰るを送るに仙遊寺に寄題す)という七言律詩がある。仲の良い王十八が何かの事情で失職し故郷(山)に帰るのを惜しんで、かつて二人で遊んだ名勝仙遊寺を思い出しながら詠んだ詩である。その中にある「林間煖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔」(林間に酒を暖むるに紅葉を焼き、石上に詩を題するに緑苔を掃う)が日本の文人の心を捉え、後々まで紅葉狩りには燗酒が付き物になった。そして江戸の俳人はそれを尊び「温め酒」を季語に取り立てた。最初は昔からの呼び名である「あたためざけ」を用いていたらしいが、何とも口調が良くないので、いつの間にか「ぬくめざけ」という言い方が主流になった。
 まあそうした故事来歴はともかく、夜が冷え込んで来ると酒の旨味が一段と増す。近ごろは「日本酒」などと書いたり言ったりする人が多くなったが、「酒」と言えば日本酒に決まっているのだ。その他は焼酎、ウイスキー、ワイン、ビールなどと言えばいい。
 ベランダに出て暈を被った晩秋の名月をしばし仰ぎ、冷えた身体をまた温め酒で癒している。普段は割にどっしりとした東北北陸の酒が多いのだが、今宵は伏見の銘酒玉乃光の「純米吟醸ひやおろし」を温めて飲んでいる。上品でふくよかで実にいい。「秋」という題で句を作るはずが、そっちのけになってしまった。
  白居易を読み温め酒もう一本
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2018年10月15日

俳句日記 (425)


雲の峰と雷電 (13)

 天下無双大関の故郷を訪ねた

 前々から是非とも訪ねたかった雷電の生まれ故郷長野県東御市滋野に出かけた。たまたま俳句仲間と上田市別所温泉で松茸を賞味し、近くの北国街道海野宿を巡る吟行会があり、そのついでに足を伸ばした。
 しなの鉄道滋野駅の砂利敷きの狭い駅前広場に人待ち顔でいたタクシーに乗り込んだ。最初は「雷電顕彰碑」。旧北国街道沿いの一角に、巨大な切石を三段重ねた上に高さ二メートル以上もあろうかという石碑が二基立っている。西向きの碑が旧碑で南向きのが新碑だ。旧碑は松代藩士で朱子学者・兵法家として鳴らし、蘭学も修めた佐久間象山が碑文を書き、雷電三十三回忌を記念して建立されたものである。しかし、この雷電碑のかけらや砂粒を持てば「力が得られる」「商売繁盛」「絶対に負けないお守り」などという俗信が生まれたために、どんどん削られ、ついには判読不能になってしまった。これを惜しんだ象山の弟子勝海舟や象山の妻で海舟の妹順子、山岡鉄舟らが明治二十八年、政財界のお歴々に奉加帳を回し、旧碑の拓本を元に復刻再建したのが新碑である。一緒に来てくれた俳句仲間の二堂さんは書の達人である。巨大な雷電碑を仰いで、「うーん、なかなかのものだ」なんて唸っている。
 次は雷電の生家。畑の真ん中にぽつんと建っている。建坪五十坪ほどの二階建ての堂々たる土蔵造りで、一階の端が広い土間で土俵が作られ、その上の二階はぐるりが土俵を見下ろせる桟敷になっている。雷電は故郷へ帰るとこの二階桟敷にどっかと坐り、地元の相撲取をあれこれ指導していたのではなかろうか。
 土俵の外の土間の隅には風呂桶が展示されている。雷電が太郎吉と呼ばれていた少年時代、母親けんが、庭に据えられたこの風呂桶で湯浴み最中に大雷雨に見舞われた。すると少年太郎吉は母親の入った風呂桶ごと抱え上げ、屋内に取り込んだという伝説の風呂桶である。
 この雷電生家は、大関として一世風靡した寛政十年(一七九八年)に五十両(今のお金で言うと一千万円くらいか)で建て直したもので、その後百数十年、養蚕所や物置になっていたが老朽化したため、遺族や雷電顕彰会などによって昭和五十九年に解体復元され、東御市の文化財になった。
 さてその次は雷電の墓。かなり大きな墓所で中央に雷電の墓と、その隣に父親半右衛門の墓が並んでいる。雷電の墓はそれなりに大きくて立派だが、ごく当たり前の墓石。それに対して半右衛門の墓が実にユニークだ。台石が四角な箱膳の形をしており、その上に載った墓石が酒樽、その上の笠石が大きな盃である。雷電の父親は体格はさほどではなかったが、相撲が滅法強く、村相撲では大関を張った。雷電もそうだが父親も途方もない酒好きで、雷電が生家を立て直した寛政十年末に五十八歳で脳溢血で死んだ。親孝行な雷電は父親があの世でも酒に不自由しないようにと、当時としては破天荒な墓石を作った。
 雷電は親孝行でもあり、愛妻家でもあった。寛政四年か五年、新進大関として人気大いに上がった二十四、五歳の頃、巡業か成田山詣での折に立ち寄った臼井の甘酒屋で給仕に出たその家の娘はん(後に八重と改名)に一目惚れし結婚した。寛政六年に娘が生まれたが四歳で病死(俗名不明、戒名釋理暁童女)、その後は子に恵まれなかった。「雷電日記」には家族のことを一切書いていないが、ただ一個所、出羽巡業の際に八重さんへのみやげに「熊の皮」を買ったことが記されている。
 松江藩の相撲頭取を辞めて完全引退した後は臼井の八重の実家の近所に家を建てて住み、五十九歳で八重に看取られながらそこで息を引き取った。というわけで臼井の浄行寺墓地(現在廃寺、近くの妙覚寺が管理)に妻八重、娘理曉童女と共に眠っているのだが、生地の東御市の関家墓地にも分骨され、雷電の妹のとくが婿を取り関家を継いで以後今日に至るまで雷電の墓を守り通している。それを知って、ぜひいつかはお参りに行こうと決めていたのが、今回の上田松茸吟行の付録として実現したのだった。
 雷電為右衛門と父親の墓に懇ろに手をあわせ、最後の目的地道の駅「雷電くるみの里」に行った。ここには小さな資料館があり、雷電の手形や松平不昧公から貰った化粧回しなど面白いものが見られた。そこで買ったくるみ味噌、野沢菜と秋茄子の塩漬けが旨かった。

  雷電の里や胡桃と秋なすび     水牛
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2018年09月23日

俳句日記 (424)


雲の峰と雷電 (12)

 ああ稀勢の里

 9月23日(日)お彼岸の中日、大相撲秋場所は横綱白鵬が15戦全勝の断然の強さと上手さで幕を閉じた。八場所連続休場で進退を賭けて臨んだ横綱稀勢の里は10勝5敗で見事難関を潜り抜けた。
 「横綱のくせに10勝5敗じゃ情けない」とか「星はともかく、横綱らしい堂々たる取り口が全く無かった」などという批判がある。それも至極もっともなのだが、水牛としては、ともかく10勝したのだから「長期欠席の後でよくやった」と褒めてやりたい。私は元々、稀勢の里を僅か一度の優勝で横綱にしてしまうなんてとんでもない、これでは吉葉山の二の舞になってしまう、と随分前にこの欄に書いた。結果としてそれが当たり、稀勢の里は引退寸前に追い込まれた。出ては負け、休み、また出ては負けの繰り返しで一年半の空白を作り、今回、正念場の秋場所を迎えた。
 学校でも職場でもそうだが、長いこと休むと、どうしても怖じ気づいたり、出て行くのが億劫になる。元々、稀勢の里には自閉症児のようなところがあり、土俵に上がってチリを切り、四股を踏んで相手とにらみ合い仕切に臨む段階を通じて、「あー、いやだいやだ、早く終わりたい」という顔つきである。軍配が引かれて両者立ち上がり、ぶつかり合う段階になってようやく目が覚めたような顔つきになる。こんな具合だから大概は中途半端に腰高のまま立ち上がることになり、先手を取られてしまう。今場所も何番かそういう相撲があった。
 相撲社会は今でも特別な雰囲気に包まれていて、昔ながらの仕来りや習慣が残っているようだ。「部屋」という、言葉は悪いがヤクザの何とか組と相通じる親方ー弟子(親分ー子分)という関係からなる組織の集合体である。形式的には文部科学省の監督下の公益財団法人日本相撲協会という法人組織になってはいるが、実態は有力な親方で作る理事会が全てを決めて運営している。だから、協会の人事をはじめ、部屋の運営、力士を統率することなど、すべてが「昔ながらのやり方」で流れて行く。だから、だれそれを大関にする、横綱にするといったことから、不甲斐ない横綱に引導を渡すことに至るまで、全てはこの親方連中からなる理事会の意向によって決まる。
 今回も稀勢の里の今後について「どうするか」が協会幹部の間であれこれあったらしい。稀勢の里は二所ノ関一門の田子ノ浦部屋所属だが、その二所一門には派閥争いがあり、元大関琴風をボスとした一派は稀勢の里の存命を言い、元横綱大乃国を擁する一派は引退を画策したといった噂が流れ、週刊誌ネタにもなった。それは噂に過ぎないかも知れないが、とにかくそんなことを言われる原因はふわふわ横綱稀勢の里にある。とにもかくにも10勝して、存命が決まったが、次の九州場所が厳しい。千秋楽の大関豪栄道との一番を見るにつけ、こりゃ前途暗澹たるものがあるなあと危惧せざるを得ない。
 稀勢の里は190センチ、180キロの堂々たる体躯の横綱である。雷電は伝説では6尺5寸(197センチ)、45貫(169キロ)と言われているが、『雷電日記』の著者小島貞二は「残されている足袋、着衣、手形などから、6尺3寸(191センチ)、40貫(150キロ)が全盛時代の肉体ではないか」と述べている。まさに稀勢の里は雷電そのものではないか。稀勢の里よ、雷電碑のかけらを煎じて飲んで、九州場所には大向こうを見返す相撲を取ってくれ。
  横綱の負けて溜息秋入日
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2018年09月21日

俳句にならない日記 (18)



次の年号は「安晋」とでも?

 結果が分かっている自民党総裁選など何の関心も無く、ただ、三選挨拶の記者会見でどんな事を言うのかだけにちょっと注目したが、ラジオで聞いて心底落胆した。表面おだやかな物言いではあったが、傲岸不遜が見え透いていた。特に時間切れすれすれで東京新聞の記者が、総裁選で反対に回った石破陣営の連中をどう遇するのかと聞いた事に対して、何も答えず、突如会見を閉じてしまったことに、今後の危うさを感じた。司会者が指名して質問を終えていながら、「時間です」と打ち切ってしまった。この不自然さに"アベトランプ化"の嫌な臭いがした。
 これから3年間、日本はかなりひどい状況に落ち込むのではないか、奈落の底に転げ落ちる第一歩を踏み出すのではないか。
 私はどちらかと言えば保守主義で、この国は自民党というぬるい温泉に浸かっているような政党に任せるのがいいのかな、そのチェック機関として社会党や共産党がそれなりの議席を占める形態が好ましいかなと思っていた。しかし、その自民党がぐずぐずになってしまい、自らこけた。その後に出て来たカンとかハトとかがどたばたする政治には冷や冷やしながらも、堕落しきった自民党にこれがお灸になるのならあながち悪いことではないと思っていた。ところが、民主党政権が予想以上にお粗末だったために、自民党がしっかりと禊を済ます時間の無いままに再び政権に復帰してしまった。日本の不幸はここから始まった。宰相には最もふさわしくない安倍晋三という人が成り上がり、なんと9年間もこの国の舵取りをすることになったのである。
 何を以て「宰相として最もふさわしくない人物」というか。それは「巧言を弄す」ことである。近年の首相の中で、安倍晋三という人は弁論の術だけを言えば最高である。しかし、その弁舌の中身を問えば如何。何も無いどころか、むしろ害毒を流すと言った方がいい。
 たとえばアベノミクスの「三本の矢」である。これは要するにデフレを解消するために日銀に札をどんどん刷らせて、金利をとことん下げて景気をあおろうという、極めて古典的で野蛮な方法である。この結果肥え太ったのは誰か。「ハゲタカファンド」などと言われる国際金融マフィアと、それにぶら下がる日本の金融、商社、一部の企業である。日本国民の大多数はアベノミクスの恩恵にはほとんど浴していない。ここをつつかれるとシンゾー氏は言う。「アベノミクスが無かったとすればどうなっていたと思いますか」と。
 これはテキ屋、つまり大道香具師の論理である。誰も答えられない設問を発して、相手の虚を突いて己の怪しげな「回答」を滔々とまくし立てる。半分くらいの人は「そうかも知れないな」と思ってしまうのである。効果が疑わしいアベノミクスの発動によって、日本は世界で最もすさまじい借金大国に陥ってしまった。トルコがどうだ、アルゼンチンが危ういなどと言われているが、冷静に考えれば今や日本が一番危ういのである。これに対する明確な発言は無く、「日銀にお委せしています」と言うばかりである。
 総裁選でもそうだったが、最近のシンゾー氏は二言目には「有効求人倍率の増加」を取り上げる。確かに7月現在の有効求人倍率は1.63倍という近来に無い高い数字だ。職を求める100人に対して、163人もの求人がある。好景気絶頂期にも見当たらないような数字である。これを以てシンゾー氏は「景気は回復」と言う。
 有効求人倍率は重要な景気指標だが、これが実態経済を正しく反映しているとみるのは大きな間違いだ。有効求人倍率とは、公共職業安定所(ハローワーク)に企業が求めてきた人数(求人)を、職を求めて登録した人(求職者)で割った数字である。これには新卒は入っておらず、また、正規雇用だけでなくいわゆるパートや派遣求職者が含まれている。だからこれが現在の日本の労働市場を正しく示す数字なのかどうかという疑義すら言われ始めているのだ。さらに、近ごろはハローワークなどに出向かず、リクルート雑誌などで適当な仕事を見つけて過ごす若者が多くなっている。そういう人たち、すなわちハローワークに出向かない人は有効求人倍率の「求職者」にならない。従って「求職者」という分母が減るから、必然的に有効求人倍率は高くなる。とにかく現在、一般国民に景気高揚感はほとんど無い。シンゾー氏の言う「景気は立ち直った」というのは、どう考えても偏頗な立ち直りと言わざるを得ない。
 まあとにかく、私たち日本国民はこういう人を国のリーダーとして選んでしまったのである。不幸なことに、朝貢国であるアメリカの国王が野蛮極まりない人物である。この意向に逆らわないように進んで行くのは容易ではなかろう。「平成」の次の年代はかなり危うい。天下太平を祈って付ける次の年号は果たしてどんなものになるのだろう。
posted by 水牛 at 00:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする