2017年10月10日

俳句日記 (370)


鶏団子
 10月6日付けの当欄に書いた「足温器猫」のチビとは別に、我が家にはもう一匹キタコというネコがいる。キタコはチビのように馴れ馴れしく擦り寄るようなことはしない。ベランダに小屋があるのに、餌を食べる時しか入らない。我が家の周りのどこかに住み着いていて、朝晩、餌をもらいに来る外猫である。
 朝、ベランダの雨戸を開けるとちゃんとそこに居て、みゃあと鳴く。猫缶を開けて、乾いたキャットフードと共に猫皿に入れて小屋の中に置く。しかし私が見て居る間は決して食べず、居間に上がってガラス戸と網戸を締め、レースカーテンを引くと、初めて小屋に入って食べる。物凄い用心深さだ。実は12,3年前、私はこのキタコが物置の裏で産んだ子を袋に入れ獣医の元に運び処分し、あまつさえ、好物の鶏肉や魚を仕掛けた檻で捕らえて不妊手術を受けさせた。それを未だに覚えているのだろうか。餌を貰いに来るくせに1メートル以内には近づかない。手を伸ばすと「ぎゃお」と叫んで反撃の構えをとる気丈なバアサン猫だ。
 チビは10数年前、キタコがどこかから連れて来た連れ子である。キタコは明らかに洋ネコ系の肥り気味で、半長毛の黒・茶・黄の混じった汚れた毛布のような体色。それに対してチビははっきりした黒白まだらのやせ形の和ネコである。どう見ても母子ではない。それなのにある春先の朝、連れて来て、居付いてしまったのである。どうやら私が子を奪ってしまった直後だったので、どこかの迷い猫の子を自分の子と勘違いしたのかも知れない。
 キタコはチビを無闇に可愛がっていたくせに、一年たったかたたないか、或る日突然邪険にして噛みついたり蹴飛ばしたりした。途方にくれたチビは離れの陶芸小屋に住んでいた玄太の懐に逃げ込んだ。玄太という柴犬とシェパードの雑種の去勢犬は実にお人好しで、チビを抱え込んで暮らすようになった。その玄太が17歳で死ぬと、身より頼りが無くなったチビは5年前、水牛の書斎に潜り込んで来たのだ。
 今ではすっかり家猫になったチビは毛づやも良くなり、お姫様然(と言ってももう12歳だから御老女か)として居間の中からタタキのキタコを見下ろす風情である。
 そういうチビを見るにつけ、キタコも思うところがあるのだろう。近ごろ急に私と山の神におべっかを使うようになった。警戒ラインの1メートルの中に入って来て、みゃあみゃあと何かをねだるのだ。それを見て、山の神が晩のおかずの残りの鶏つくね団子を与えた。むしゃぶりついて、瞬く間に食べた。「もっとくれ」と言うが、もう無い。翌朝もまたねだる。いつもの猫缶とキャットフードを食べないで、みゃあみゃあ言っている。
 美味い物を味合わせてしまったこちらが悪い。しょうがないからスーパーに行って、一番安い鶏挽肉を買ってきて、澱粉を繋ぎに少し入れて練り丸めて湯がいて鶏団子を作った。焼き鳥団子や市販の鶏つくね団子と違って葱や香辛料が入っていないから、猫の健康維持にはこの方がずっといい。案の定、この鶏団子にはご満悦。以後、朝昼晩三回貰いに来るようになってしまった。
 「貴方が甘やかしたせいよ」と山の神は言う。確かに、葱や胡椒の入ったものよりはと鶏団子を作ってやったのは私だが、そもそも最初につくね団子をやったのは誰なのか。しかしそんなことを言うと、あの半島の国営放送の民族衣装のオバサンそこのけの反論が返って来るに違いないから、言わない。
 とにかくこうなってしまったからには、まあしょうがない。今日もダイエーで100グラム149円という一番安い鶏挽肉を買ってきて、丸めて湯がいて、せっせとキタコのおさんどんをつとめた。
  穴探す蛇追ひかくる猫強し
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2017年10月06日

俳句日記 (369)


足温器
 チビが「にゃあ」と言いながらパソコン机の下に潜り込んできて、私の足に身体をこすりつけ、みゃあみゃあと何かを催促する。餌は入れてやったばかりだし、トイレ掃除も済ましてやった。二階のバルコニーに出してくれと言うから、それもしてやった。
 さて何だろうと考えて、はたと気が付いた。冬場になると足が冷たくなるので、床に座布団を敷き、その上に50センチ四方くらいのマット式の足温器を置いている。もちろん四月初めになると撤去して干して物置に仕舞う。それを出せと言ってるらしいのだ。
 確かに今日はまるで冬になったかのようである。一昨日の仲秋名月を眺めた時もずいぶん冷えて来たなあと思ったのだが、今日はさらに冷える。夕方から雨がしょぼしょぼ降り出し、その中を庭の寒暖計を見に行ったら15℃だった。書斎の寒暖計は20℃だ。
 こちらは人間だから「常識」というものに縛られている。まだ十一月にもならないのに足温器など思いも及ばない。しかし猫は暦なぞ関係無い。まさに寒いものは寒いのであろう。確かに15℃じゃ無理も無いなと足温器を引っ張り出した。電源を入れてやったらいそいそと乗っかり、ふんふん匂いを嗅いで真ん中に丸くなり、やがて満足そうに寝てしまった。
 それにしても、こんな小さな脳味噌で、こんなことまで覚えていられるものなのだろうかと感心した。チビの頭蓋骨は小学生の握り拳ほどである。その扁平な頭蓋骨の中の脳味噌は生雲丹の半分あるかないかくらいだろう。それが、寒くなったら「水牛の足元の足温器」を思い出すとは、全く魂消た。
 こりゃやっぱり猫はいじめない方がいいなと思った。化け猫伝説があながち嘘っぱちとも思えなくなって来たのである。
  そぞろ寒猫の擦り寄る雨の宵
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2017年10月04日

俳句日記 (368)


十五夜お月さん
 今日十月四日は仲秋の名月。つまり本日が旧暦の八月十五日なのである。いつもの年より一ヵ月近くも遅い。
 どうしてそんなことになるのか。それは今年が旧暦(太陰太陽暦)では「閏年」に当たっていたせいである。今年は旧暦に従うと五月の後に「閏五月」という月が置かれ、一年十三ヵ月の特殊な年になっている。このため六月以降は旧暦による行事がいつもの年よりかなり遅くなってやって来ることになった。
 旧暦と言われる暦は、新月から満月を経て新月に至るまでを一ヵ月を定め、それを十二回繰り返したものを一年とする「太陰暦」に、太陽暦の要素(二十四節気)を取り込んで季節変化を調節したものである。この「調節」によって三年に一度程度、一年が十三ヵ月になる閏年が廻って来る。
 真っ暗闇の新月から満月を経て新月に至る月の運行は約二十九・五日。「半日」では暦が作れないから、三十日の月(大の月)七回に二十九日の月(小の月)を五回はさみ、一年三百五十五日としたのが「太陰暦」。しかし、これでは太陽の運行による一年約三百六十五日より十日、年によって十一日も短い。この暦をずっと使い続けると、ほぼ三年で一ヵ月のズレが生じ、十五、六年たつとお正月が真夏になり、夏休みが厳寒の候になってしまう。
 暦というものは元々、農業や日々の暮らしの指針を示すもので、為政者が民を統率する上での重要な道具であった。それが年によってばらばらになってしまうのでは示しがつかない。というわけで、古代中国殷時代(西暦前十六世紀から前十世紀頃)の帝王が太陰暦に太陽の運行による季節変化を教える「二十四節気」というサインを付加した「太陰太陽暦」というものを発布した。これが日本には飛鳥時代に伝わり、ヨーロッパにも伝わり、全世界のカレンダーの基になった。これによって、太陰暦と太陽の運行に基づく季節変化のズレを修正することができるようになった。例えば田植えの時期がいつかを知らせるにも、太陰暦では四月だったり五月だったり訳が分からなくなってしまうところを「芒種」という二十四節気のサインを暦上に示すことによってはっきりすることができる。
 こうして農耕や生活指針としては二十四節気でかなり分かり易くなったが、月の満ち欠けによる一ヵ月と太陽の運行による一ヵ月とのズレを埋める問題が残る。太陰暦は太陽暦より一年で十日以上短い。三年足らずで一ヵ月のずれが生じてしまう。これを解消するために「閏月」を設けた。三年に一度、十三ヵ月の年を作るのだ。これが平成二十九年に廻ってきたわけである。
 そんなわけで今年は十月になって仲秋の名月を拝む仕儀になったわけだが、今宵の横浜は月の出から八時ころまで少々雲があったものの十五夜が煌々と輝いた。九時頃からかなり厚い雲が出て来て中天にかかったお月様が隠れてしまうようになった。
 一昨日、今年は不漁と言われたスルメイカのいいのを見つけて作った塩辛がある。まだ熟れていないが秋上がりの冷やにはよく合う。

  出来たての塩辛で酌む今日の月
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2017年09月26日

俳句にならない日記 (5)


何たることでしょう

 安倍首相・自民党総裁は25日、記者会見を開き、正式に「28日の臨時国会の開会冒頭で解散、10月22日投開票の総選挙を行う」と明言した。解散の理由が全く無い、しかも隣国北朝鮮がいつ爆発するか分からない時に、約二ヵ月にわたる政治空白を作るという考えられない暴挙である。首相として東京オリンピックの表舞台に立ちたい、出来れば日本の憲政史上最長期政権を担った“不世出のソーリ”になりたいという願望にかられた、未発達の幼児がだだをこねているような印象すら受ける。
 こうなったら、何がなんでもいい、安倍自民党が手痛い灸を据えられる選挙になればいいと願う。しかし、民進党は見るも無惨、小池新党もドロナワの感じがあって、結局はシンゾー君があの気持の悪いニタニタ笑いを浮かべる結果になるのではないか、と暗澹たる思いに打ちひしがれている。
 解散の真の理由は、このままでいては森友学園、加計学園スキャンダルにまつわる、いい加減な税金無駄遣い、国費乱費問題を野党始め国民から追求されるのが明らかだから、これをぶった切るためである。また、国会で絶対多数を握ってはいるものの、時間がたつうちに勢いが衰えて来る。まだ勢いがあるうちに総選挙を行って、再度絶対多数の議席を得れば足元が盤石になる。今、野党はぐずぐずだ。これが絶好のチャンスだというわけなのだ。
 しかし、何か解散理由を示さねばならない。小役人どもに考えさせたのだろう、2019年に予定されている消費税増税(現行8%を10%に)の増税分を年金支給の支出増をまかなうという目的から、教育費無償化に振り替える「使途変更」を掲げた。
 どうであろうか。こんなことでこの緊急時に解散総選挙をやるべきなのだろうか。国民がそれを可とするなら、それでもいい。しかし少子高齢化は今後も急速に進み、年金支出、高齢者健康保険支出はどんどんふくらむ。これをぶった切るつもりなのか。安倍自民党にはそこまでの度胸はあるまい。となると財政赤字が積み重なることになる。今日既に切羽詰まっている日本の国家財政立て直しはどうするのか。水牛は丁度一年前の9月12日付けの本欄の「平成へっちゃら節」で「一千兆円って分かりますか」と書いた。その一節を再掲する。
       *       *       *
 少子高齢化による老人医療費の高騰や乳幼児対策費、疲弊する農業への補助金、尖閣諸島の警戒や北朝鮮のミサイル発射に備えての国防費の増加などで、歳出(支出)はどんどん増えるばかり。その一方、景気低迷で歳入(収入)は増えない。その結果、国や地方の決算帳尻は赤字になる。それを穴埋めするため国債、地方債を発行する。つまり、日本国と都道府県は債券という証文を出しては、銀行、企業、国民、諸外国の政府、金融機関、個人からお金を借りまくっている。
 これが積もり積もってついに「一千兆円」を超えてしまった。地球上には大小さまざまな国が196カ国あるが、日本は断トツの借金大国である。
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 この状況は変わっていない。教育無償化、大いに結構。しかし国民皆大卒となった結果、就職難民ぞろぞろ。失業保険受給者、生活保護費受給者の増加を招くことは火を見るより明らか。それをいったいどうするつもりだろう。
 要するに、目先の話題になっていることだけに“おいしいこと”を言う。この子達が大人になった時の日本国をどうしようということを語らない。
 「アベノミクス三本の矢」は失敗が明らかで、それについては今では全く語らない。景気回復は「着実に進んでいる」と実態とかけ離れたことを言うばかり。今度は「人づくり」などと言い出した。
 こういう人の率いる党に投票して、再度、絶対安定多数の議席を取らせるのか。日本人はそれほどの甘ちゃんになってしまったのだろうか。
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2017年09月24日

俳句日記 (367)


日馬富士ごくろうさん
 呆れ果てて物も言えない、味気ない大相撲秋場所が終わった。ドタバタ相撲ばかりで取組みの妙味が感じられない場所だったが、救いは中盤の関脇嘉風の気っ風のいい取り口と、終盤の横綱日馬富士の頑張りというか、執念が籠もった相撲だった。阿武咲と貴景勝若手二人の大活躍も光ったが、こういう若手はたまたま勢いに乗っただけということがあり、来場所を見なければ褒めていいのか悪いのかは決められない。こういう連中は得てして有頂天になり、新しく出来たタニマチと遊び惚けて翌場所はガタガタということがよくあるからだ。
 それにしても三横綱二大関が休んでしまった本場所は、一体どうなることかと思った。一人横綱の日馬富士には、マスコミが寄ってたかって「一人横綱になって心境どうですか」なんて聞くものだから、気負い立ち、固くなってしまった。案の定、序盤であれよの三連敗である。もともと小兵で、精神力でしのいできた力士だから、両手首と両足首を痛めている今場所は本来ならそっと相撲を取って、脇役で場所を過ごせればという程度の状態だった。それがいきなりの主役である。そんな気負いが禍しての序盤三連敗だった。
 一方の大関豪栄道は今場所負け越せば関脇に陥落という、いわゆるカド番。初日から何とか星を稼ごうという気持が見え見えの、逃げてばかりの大関らしからぬ取り口だった。ところが、日馬富士をはじめ周りがばたばた転んで、いつのまにか自分がトップに躍り出た。
 風貌は負けん気を表し、なかなか格好のいい力士なのだが、現実はいい加減な相撲で、全く気魄の籠もらぬ取り口で黒星を重ね、負け越してカド番になると翌場所は何とか勝ち越して大関を守るという情けない状態を続けている相撲取だ。
 去年の秋場所にカド番で全勝優勝を果たし、これで一皮剥けるかと思ったら、翌場所から元の情けないゴウエイドウに戻ってしまっていた。それが、丁度一年たった今場所、再びチャンスが廻って来た。いじましい取り口で白星を拾ってきたところが、周りが崩れるものだから、再度の優勝の目が出て来たのだ。しかし、やはり性根が据わっていないからであろう、十二、三日目に平幕に連敗、千秋楽では日馬富士に本割で破れ、優勝決定戦では横綱にまるで赤子をあやすような相撲を取られ、あっけなく敗れた。
 とにかく平成二十九年九月場所は、相撲協会とNHKアナウンサーだけが「盛り上がった盛り上がった」と言うだけで、「十一勝四敗」の優勝という極めて空疎な中身を見せて終わった。それでもまあ、最後に日馬富士が執念を見せて賜杯を勝ち取り、豪栄道のようないい加減な大関が優勝しなかっただけでも可とすべきだろう。
 情けない情けないと言いながら、来場所もまた熱心に相撲を見るだろう。億劫になって最近はほとんど国技館に足を運ばなくなったのだが、なんと言っても相撲キチガイの亡父に連れられ、不世出の大力士双葉山の本場所を見た、今では数少なくなった相撲好みの水牛なのである。
  秋風や櫓太鼓のきれぎれに
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2017年09月23日

俳句日記 (366)


オノマトペ
 俳句には実際の音を真似して言う「擬音語」、目で見たり手で触ったりした時の感じ、あるいは何かの動作や様子を形容する「擬態語」がしばしば顔を出す。これらは一括りにして英仏語でオノマトペ(onomatopoeia)と言い、日本でもこの言葉がよく使われている。とにかく、オノマトペを用いると誰にもすぐ分かってもらえるし、わずか十七音字しかない俳句では殊に重宝なので、しばしば用いられる。先日参加した句会でも次のような句があった。
  ふうふうと犬の毛動く秋の風      好夫
  きらきらと秋の風なり朝の窓      弥生
  へなへなと笑ふ羅漢や曼珠沙華     双歩
  秋の日のすとんことんと落ちにけり   双歩
  じめじめと鎌倉やぐら曼珠沙華     青水
 五句ともとても分かり易い。情景がすぐに浮かんで来るという「佳句の条件」の一つは満たしているようだ。しかし失礼ながらこれらの句は何度読み返してみても、何か物足りない気がする。そのくせ、物足りなさの正反対の「くどさ」と「押し付けがましさ」も感じる。
 どうしてそんな風になるのか。やはり原因はオノマトペにあるようだ。
 オノマトペを用いると、一定のイメージをすぐさま読者の脳裡に移植でき、鮮明な画像を結ばせる。しかし、その句の訴えるところはそれだけで終わってしまう。そこからさらに読者の脳味噌の中に想念が広がり・・といった奥深さが欠けるのだ。オノマトペの持つ一定のイメージが強いだけに、伝達力はあるが、それでおしまいということになるわけだ。
 さらに作者はオノマトペをあれこれ工夫し、独自色を出して一層印象を強めようとする。すると独りよがりになってしまい、終には「羅漢さんの笑いは『へなへな』かなあ、へらへらじゃないのか」「犬の毛が『ふうふう』動くとは、どんな具合に動くのか」といった疑問を抱かれることになる。一点の疑問を抱かれたが最後、その句の良さがいっぺんに消し飛んでしまう。
 そうした危険を避けるために、猫は「にゃあにゃあ」、風は「そよそよ」と万人が慣れ親しんでいるオノマトペを使うと、今度は月並みの陳腐な句になってしまう。
 手垢の付いたオノマトペの乱用は問題外だが、さりとて自分の“発明”を無造作に用いると、真意が伝わらない「独りよがり」に陥る。ぴたりと嵌まるオノマトペを据えると、句が躍動する。しかし、そういうのを見つけるのは非常に難しい。ということを肝に銘じて、オノマトペの乱用にはくれぐれも注意すべきだ。
 しかし、そんなことを言う水牛だって、実は先日、別の句会に「様子見の雀ひょんひょん野分あと」という句を出して高点をせしめている。あまつさえ合評会では数人から「ひょんひょんが効いている」というお褒めの言葉まで頂戴した。
 これは最初、「野分去るや斥候雀飛んでくる」と詠んだのだが、どうも説明っぽくて面白くないと思った。あれこれ考え廻らした果てに、「ひょんひょん」を思いついたのである。今にして思えば、初案の方が素直でいいかなとも反省している。オノマトペの誘惑はかほどに強い。
  犬わんわん水牛ふらふら秋の夜
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2017年09月20日

俳句日記 (365)


子規忌
 九月十九日は正岡子規の忌日。慶応三年九月十七日(新暦では一八六七年十月十四日)生まれの子規は明治三十五年(一九〇二)九月十九日午前一時、根岸の子規庵で息を引き取った。この夜は高浜虚子が番をしていて、仮眠を取っていたところを呼ばれ、蚊帳をはぐって子規の手首を掴んだところ既に脈が途絶えており、額にほんのり温もりが残る状態だったという。近所に集まっていた仲間達に急を知らせようと外に出ると立待月が鮮やかだった。虚子は『子規逝くや十七日の月明に』と詠んだ。
 わずか三十五歳(正確には三十四歳十一ヵ月)で死んでしまったにもかかわらず、明治期の文学者で後世にこれほどの影響を及ぼした人物はいない。今や俗に愛好者一千万人と言われる俳句界も、それを育てるに功績のあった虚子も、子規あったればこそである。
 芭蕉が俳諧を芸術の域に高めたものの、時とともに俗化堕落し、その六、七十年後、蕪村が蕉風復興を唱え、各地に呼応する人が出て芸術性の高い作品が現れて持ち直した。しかしその後、一茶などの活躍はあったものの、大勢は俳諧(俳句)の大衆化とともに俗化の一途を辿り、明治に入った。発句(俳諧連句の最初の一句)をひねるのが旦那芸として持て囃され、横丁の御隠居の趣味として、あるいは村の裕福な農家の寄り合い芸などとして大いに流行った。
 子規は二十歳代から俳句革新運動を始めた。明治二十五年、帝国大学国文科を中退した子規は陸羯南率いる革新的な新聞『日本』の記者となり、「獺祭書屋俳話」を始め、俳句の進歩発展を促す文章を精力的に発表した。「俳句」という言葉も子規が用い始めたもので、旧態依然の俳諧の発句(ほっく)と決別して、五・七・五という、世界で最も短い定型詩を芸術の高みに引き揚げようとの気魄を込めたものであった。そして、当時の俳壇の大家やその一派の俳句を“月並(つきなみ)”調と徹底的にこき下ろした。
 今から見れば、それほど言わなくても、と思うような激烈な言辞をもって相手を叩きのめす。まさに子規は革命児であった。言辞に粗暴なところはあったものの、その根本は正しかったが故に、子規の唱導した路線が正道となり、「俳句」は今や日本の文芸の中で大きな比重を持つに至っている。
 子規は驚嘆すべきエネルギーで俳句と短歌の革新の旗頭となった。実作もおびただしい数を残している。現存する作品は二万三千句にも及ぶ。革新的理論で“月並派”を弾劾した人にしては、子規の句は実に平明で素直である。当時、ヨーロッパで全盛だった自然主義の影響を受け、「写生」の重要性を唱え、日常のありふれた事物を取り上げて詠むという姿勢を貫いた。これが近代俳句の王道となり、俳句隆盛をもたらした「根っこ」と言えよう。
 子規は「月並は表面甚だもつともらしくて底に厭味ある者多し」(『墨汁一滴』)と言う。昔の名句の引き写しや美辞麗句、慣用句などを用いて形だけ整えた句をダメと言ったのである。これは万古不易の金言であろう。
 子規の句と言えば「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が真っ先に言われ、「鶏頭の十四五本もありぬべし」が名句として喧伝されている。また絶唱の「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」も有名だ。これらもとても良い句だと思うのだが、私は、
  秋茄子小さきはもののなつかしき
  汽車過ぐるあとを根岸の夜ぞ長き
  薪をわるいもうと一人冬籠
  雲のぞく障子の穴や冬ごもり
  野道行けばげんげんの束のすててある
  梨むくや甘き雫の刃を垂るる
といった、ちょっとしたことを目ざとく見つけた句に心惹かれる。

  喝と咲く曼珠沙華なり獺祭忌
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2017年09月15日

俳句日記 (364)


何たる秋場所
 呆れ果てて怒る気にもなれない。大相撲九月場所は目も当てられないことになった。横綱白鵬、稀勢の里、鶴竜、前頭碧山、佐田の海の5人が初日から休み。その上、人気上々のホヤホヤ大関高安と小兵技能派の宇良が三日目から休場、今日六日目にはカド番大関の照ノ富士が膝の古傷を痛めて休場してしまった。
 「四横綱三大関」という“豪華絢爛”の番付だが、蓋を開ければ横綱と大関が一人ずつ。まるで寂れた場末のシャッター街を眺めているような気分である。幕内取組の番組編成に困って、十両力士を格上げするなど苦心しているようだが、取組数は通常場所より二番か三番少ない。キップは前売りなので連日「満員御礼」の垂れ幕が吊り下がる大盛況だが、中身は真に空疎なものになった。
 “一人横綱”の日馬富士は元々満身創痍の身体だから気力で取っているようなところがあり、それが「責任感」とやらを剥き出しにしたせいか、力み過ぎてゴロゴロ転がり、五日目で2勝3敗。どうなることかと冷や冷やしていたが、六日目は勝ててほっと一安心。二番手の重責を担う大関豪栄道は負け越せば大関陥落という情けない状態だから、なんとか星を拾おうと、大関のプライドを捨てて逃げまくる相撲を取ってどうにか白星を稼いでいる。しかし、実にいじましい感じがして見て居て楽しくない。
 上位が休場だらけとなって、本場所の土俵とは思えないようなドタバタ相撲が繰り広げられている。入幕して三場所目の阿武咲という、相撲フアンですら「あれ、なんて読むんだっけ」と人に聞くような力士が、勢いに乗って頑張っている。今日も大関豪栄道に猛烈にぶつかって押し込んだが、大関が下がりながら体を開いて押し出し。豪栄道のずるさにしてやられた感じだ。
 若手が獅子奮迅の活躍を見せるのは実に気持が良い。しかし、所詮は勢いに乗っているだけだけだから、とても15日は続かない。このままだと、いじましい相撲を取り続けている豪栄道が白星を重ねているうちに自信を取り戻し、結局は「カド番優勝」というシラケた結果になってしまうのではないか。
 もうこの九月場所は花相撲と見なして、怪我を治して出場して来るであろう白鵬、稀勢の里の九州場所に期待しよう。しかし、稀勢の里は果たして堂々と相撲が取れるような精神力が備わるかどうか。片や白鵬は図太さはこの上ないが明らかに体力の低下が見える。一見豪華内容貧弱の場所が続きそうだ。
  がむしゃらに突っ込む若手力士良し
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2017年09月11日

俳句日記 (363)


古靴買います
 近所の未亡人のお宅に「履かなくなった靴をお譲り下さい」と電話が掛かってきた。捨てるのが面倒で下駄箱に沢山入っているのを思い出して、「ありますよ」と返事した。「30分以内に伺います」と言って電話は切れた。
 まだ十分履けるのだが、あまり出かけなくなったので正装用の靴など何足も要らない。そういうのを玄関先に出しながら、ふと、近ごろそう言って実は貴金属など金目のものを詐取する手合いが横行しているという新聞記事が出ていたのを思い出した。急に心配になって我が家の山の神に電話してきた。
 「まさに例の手口だわ。○子さん、一人じゃ危ないわよ、ウチのを行かせるから」。勝手に用心棒の派遣を請け合っている。当方傘寿を過ぎて時折よろめくような頼りなさだが、まあ酒焼けでてらてら光る蛸アタマが何かの役に立つかも知れぬと、出て行った。まあ何たることよ。玄関先に綺麗に5,6足並べてある。よそ行きの黒靴、まだ履いた事の無い箱入りのお洒落長靴もある。
 「これじゃ、ようこそお出で下さいましたと言うようなもんですよ」
 「でもね、こうして外に並べとけば中へ入れなくても済むと思って」
 そう言っているうちに若い男が、「○○さんのお宅ですね」と入って来た。
 「あ、これですね。いい靴じゃないですか。これなんか新品だ。ちょっと写真を撮って、本部に送ります。折り返し買い取りの査定値段を言って来ますから、少々待たせて下さい」
 スマホで写真を撮っては本部とやらに送る(ような)手つきをしている。
 「うわ、ここは蚊がひどいな。ちょっと中で待たせてもらっていいですか」
 そら来た。これが手なのだ。ここいらで蛸入道の出番だ。
 「いや、ここで待ってもらう。と言うより、この靴は不要品なのだから、買ってくれなくていいんだ。欲しけりゃさっさと持って帰って下さい」
 「いえ、タダはダメなんです。窃盗と見なされる恐れがあるんで」
 「こっちが持って行っていいと言っているのだから、窃盗にはならないよ」
 「いえ、もうちょっと待ってください。ところで奥さん、使わなくなったアクセサリーなんかありませんか」
 そうら来た。やっぱりそうだ。
 「ありませんよ」
 「腕時計はどうです」
 「ありますよ」
 「え、どんなんですか」
 「どんなんですかって、私が今はめてるんだから、渡すわけには行きませんよ」
 「洋服なんかありませんか。ブランドもののバッグとか」
 「ありません」
 「忘れてられる物で、リサイクル出来るものがあるはずです。ちょっと拝見できませんか」
 「あんたね、しつこいんじゃないか。無いと言ってるんだ。この靴、持って行くのか行かないのか。早く決めなさい。あ、それからね、これまでの遣り取り、録音させてもらっているからね。我が家は初めてのこうした勧誘の際には全てそうしているから・・」
 「あ、連絡がありました。この黒靴を百円で」
 「百円なんか要りません。持って行ってちょうだい」
 「いえ、ただで持って行くと窃盗に・・」
 「それじゃ帰ってください」
 男は物も言わずに帰って行った。

  二百二十日古靴買も飛んで来る
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2017年09月06日

俳句日記 (362)

みちのくの俳人
 俳句振興NPO法人双牛舎のブログ「みんなの俳句」で「流れ星」の句を取り上げた際(9月3日)に、流れ星(流星)にはどんな句があるのか、いろいろな歳時記や俳句の本を当たった。すると意外なことに、古句には「流れ星」も「流星」も「星落つ」「星飛ぶ」も無く、古くから民間で言われていた「夜這星」という面白い呼び名を詠んだ句も見当たらない。芭蕉や蕪村の句集にも出て来ない。
 昔の人だって、と言うより、昔の人は現代人よりずっと月や星に注意を振り向けていたはずである。天気予報なんぞ無い時代、天候の変化を予測するには空を見上げて月や星が見えるかどうかをまず確かめ、雲の様子、風の吹き具合を気にした。平安の才女清少納言だって、天体には大いなる関心を抱き、「星はすばる ひこぼし ゆふづつ。よばひ星すこしをかし 尾だになからましかば、まいて」(『枕草子』二五四段)と書いている。
 あれこれ考えてみると、江戸時代に「流星」の句が無いのは、どうやら当時「流れ星」は季語とされていなかったかららしい。空がきれいで、秋に限らず流星は年中見られて珍しくもないし、季節感を抱くものでもなかったようなのである。芭蕉に心酔した金沢の俳人小杉一笑には「いそがしや野分の空の夜這星」があり、大阪の俳人で芭蕉の最後を看取った一人榎並舎羅には「七夕をかこつこころか流星」というのがあるが、どちらも野分、七夕に寄りかかっている。
 あきらめずに片端から俳句の本をめくっていたら、「夏と秋と行き交ふ空や流星」という句にぶつかった。秋も近い澄んだ夜空にすーっと落ちて行く流れ星に、夏と秋のはざまを感じたという。この句も厳密には「夏と秋と」を詠んだもので、流星が季語として確立しているとは言い難いが、何とも心が澄んでゆくようないい句だ。ネットで調べてみると、この句は高橋東皐(たかはし・とうこう)という、現在の岩手県一関市藤沢町の素封家に宝暦2年(1752)に生まれ、蕪村とも親交のあった俳人の作だと分かった。
 高橋東皐は書と俳諧の達人で、地元では今でも「俳聖」「書聖」と崇められているようだ。名は可興、字は子観、通称七右衛門。文政2年(1819)沒、68才。墓は盛岡市上米内(かみよない)の松園寺にある。
 与謝蕪村が江戸にいた頃に門人となり、その実力を高く買った蕪村は自分の俳号の一つ「春星」を贈っている。蕪村の一番弟子とも言うべき高井几董は一門の主立った者に声をかけて勉強会を催しており、東皐はその一員ともなっていたようだ。後に、几董編による東皐の句集『奥美人』が上梓された。これを読んだ上田秋成が絶賛し、東皐のいかにも悠々たる人柄の表れた代表句「鶯の声滑かに丸く長し」を念頭に、それに唱和した「一声に千里の春や奥美人」の句を贈っている。
 東皐の句はいずれも日常の身の回りを技巧を凝らさずに詠んだもので、平明で伸び伸びとした感じである。
  鶯の声滑かに丸く長し
  春の日や田をおちこちの水光る
  麦秋や二つの乳にふたりの子
  米に似て踏みつけ難き霰かな  (天明3,4年の大飢饉の冬)
  ただ置けばいよいよ寒し左の手 (辞世句 東皐は晩年中風を患っていた)
 東皐は中央俳壇にはあまり知られておらず、ことに明治以降は取りざたされることもほとんど無く、いつの間にか忘れ去られてしまった。しかし、地方にもこうした素晴らしい俳人がいたのだ。そう言えば与謝蕪村だって小林一茶だって、有名になったのは明治以降である。明治初期の伊那の放浪俳人井上井月も、『井月現る』(今泉恂之介著、2014年、同人社)の発刊などによってようやく近年スポットライトが当てられるようになった。
 江戸後期から明治時代にかけて、全国各地にこうした素晴らしい光芒を放ちながら流れ星のように消えてしまった俳人が沢山いたに違いない。
  飛ぶ星や地にはぽつぽつこぼれ萩  水牛
posted by 水牛 at 22:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする