2022年05月29日

俳句日記 (766)


あれよと茂る

 暦の二十四節気の春の最後はあらゆる穀物をはぐくみ芽生えさせる「穀雨」で、今日のカレンダーでは四月二十日頃である。その次が五月五日頃の「立夏」で夏に入る。その半月後が「小満」で、これは草木があたりに満ち始める時期を意味する言葉だ。
 この穀雨から小満までの一ヶ月間はゴールデンウイークが挟まって、どこの家庭も旅行や寄り合いなど、あれこれ出来事が重なって、かなり忙しい。そして、ふと我に返って周りの景色を眺めると、「あれいつの間にこんなに緑が増えたのだろう」とびっくりする。
 まさにその通りで、このひと月の草木の茂るスピードは眼を見張るばかりである。木蓮が散り、桜が散り、楓が新葉を広げ、柿が柔らかな緑の葉を光らせる。柚子や蜜柑の花が良い香りで咲く。そうなると足元の草も一斉に伸び始める。ナズナやハコベなど正月早々から芽を出していた野草は一斉に花咲かせタネをつけている。オヒシバ、メヒシバ、ネコジャラシといった禾本科の芽生え時、すなわち芒種(二十四節気五月節・現6月6日)の候であり、雑草は我勝ちに背伸びし始める。ドクダミの成長速度などは驚くばかりだ。
 吟行だ飲み会だと三、四日見ないでいると、庭先の雑草の様子は様変わり。問題は、我が菜園に勝手に生えて来る山芋である。大昔、もう60年以上前になるが、父がどこかで買ったか貰ったかした自然薯(野生の山芋)の首のところを植えた。それが芽を生やし、蔓を延ばし、毎年、美味しい長芋が取れる。それはいいのだが、山芋の蔓にはムカゴという小さな種芋のようなものが出来て、これが秋になるとぱらぱら落ち、雨風に転がって、翌春四方八方に芽を生やす。というわけで、我が家の狭い庭にはいたる所に山芋が生えている。これが五月に入ると猛烈な勢いで蔓を延ばし、近間にある植木でも竿でもなんでも、突っ立っているものを見つければすぐに巻き付いて延びる。放って置けば盛夏には我が庭は山芋の蔓にがんじがらめにされてしまう。
 こういう風に自然に生い育った山芋は、八百屋で売っている長芋とは比べ物にならない野趣豊かな味わいの「とろろ汁」が出来る。だから、毎年生えるに任せ、三年目以上のものを選んでは掘り上げて賞味するということを繰り返してきた。しかし、山芋掘りはものすごく体力を消耗する。地面を1m掘り下げるのがどれほど大変なことか、やって見た人でなければわからない。シャベルに片足を乗せ体重をかけてぐさりと掘り上げると深さ20センチの穴が掘れる。計算上はこれを5回繰り返せば真っ直ぐ1mの穴が掘れる理屈だが、同じ所にシャベルを連続して5回突き刺せるものではない。穴はシャベルの遊びが無くては掘り進められないから、深さ1m掘り進めるには周囲1.5mくらいの大きな穴を掘らねばならないのだ。
 というわけであと4日で85歳という老人に山芋掘りは無理と覚悟し、山芋の蔓を片端から引っこ抜くことにした。「長い事ごちそうさまでした。安らかに眠っておくれ」と言いながら一本ずつ引き抜く。おそらく山芋はまた新たな芽を出して来るだろう。可愛そうだがそれもまた引っこ抜く。それを何回か繰り返すと、消えてしまうことになるのだろう。
  膏薬を貼って芒種の畑仕事   酒呑洞
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2022年05月23日

俳句日記 (765)

大相撲でたらめ場所終る

 5月22日(日)、夏場所大相撲が終わった。稀に見る粗放乱雑、でたらめな場所だったが、古傷の痛みを抱えながらの照ノ富士が「横綱の責任感」を発揮し、辛抱に辛抱を重ねて力を振り絞り、12勝3敗という情けない星ながらとにかく優勝した。救いと言えばこれが唯一の救いだった。
 情けない場所にしてしまったのは三人の大関である。勝ち越したのは貴景勝たった一人で、それも千秋楽に、もう大きく負け越している正代を相手に拾った勝ち星でようやく8勝7敗。その正代ときたら5勝10敗、「横綱への足がかりを掴む」などと威勢のいいことを言っていた大関御嶽海は6勝9敗である。どうせなら3人揃って来場所「カド番」という前代未聞の珍事を見せてほしかったと思う。
 照ノ富士は古傷の両膝の具合が先場所(3月の大阪場所)極端に悪化し、それまでただの一度も泣き言を言わなかった男が五日目に玉鷲に押し倒された後、師匠の伊勢ケ浜親方に「もう相撲が取れません」と言って来て途中休場した。その後四月下旬までほとんど相撲を取らずに養生し、ゆっくり基本的な稽古を積み重ねたとは言うものの、素人目にもとても万全とは見えなかった。照ノ富士は近来稀に見る横綱らしい力士なのだから、もっと大事に、今場所はもとより、思い切って半年ほど休場して本格的治療に専念すべきだと思った。
 しかし、相撲も「興行」である。看板の横綱が休場では営業に大きく影響する。相撲協会としては何とか出てもらいたいと考えるのも無理からぬところがある。照ノ富士本人もそれがよく分かっていたのだろう、優勝インタビューで、「横綱という地位にある以上、しっかり土俵を勤める責任がありますから」と答えていた。
 そんなこともあって、今場所は初日からはらはらし通しだった。相手を捕まえて組んでしまえば何とかなるのだが、立ち上がりざまどんとぶつかって遮二無二押して来る相手には、膝の具合が悪いために、バネを利かせて受け止めることが出来ない。初日に最も苦手な大栄翔に押され為すところ無く敗戦、二日目に安を下して少し安心し四連勝して大丈夫かなと思ったのも束の間、六日目には先場所やられている玉鷲に、先場所のビデオを見るような感じで一気に押し倒されてしまい、八日目には隆の勝にこれまた一気に突かれ押されて敗戦、中日で早くも三敗となってしまった。
 普通の力士なら「休場」が当然である。貴乃花も稀勢の里もあっさり休み、6場所、7場所連続休場した。しかし、照ノ富士は頑張って出て来た。見ていてかわいそうになった。
 こういう時に、荒れた土俵を引き締めるのが大関の役目である。ところが何たることだろう。三大関が全く頼りにならず、ごろごろ負けてしまうのだった。三大関が揃って勝ったのは十五日間でたった一日だけという、実に情けないことになってしまったのである。
 若手が素晴らしい力を発揮して大関を倒したというのなら、「活気」も伝わるのだが、今場所は三大関そろって不甲斐ない相撲ばかり取って、自分から黒星を稼いでしまったのだから、土俵が盛り上がるはずも無かった。さらに、先場所は実に気っ風のいい相撲を取ってくれた両関脇若隆景、阿炎も、今場所はもう一つ精彩を欠き、若隆景が9勝6敗、阿炎は負け越してしまった。これも土俵の盛り上がりを削ぐ一因となった。
 これで万が一、隆の勝や佐田の海が優勝してしまったとしたら、本当につまらない場所になっただろう。「劇的平幕優勝」ではなくて「上がぼろぼろ負けたがための平幕優勝」という、興行価値の全く無い場所に成り下がったからである。
 それを救った満身創痍の照ノ富士は偉い。横綱が三敗もして優勝、なんていうのは本来は褒められたことではないのだが、今場所に限って、「エライ」と言おう。優勝インタビューでの照ノ富士の「ようやく終わったか、という感じです」という言葉には実感がこもっていた。
  疲れたる身をほぐさむと若葉風   酒呑洞
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2022年05月22日

俳句日記 (764)


合性というもの

 句会に「合性といふもののあり若竹煮」という句を投句した。「分かるかな」と思ってはいたのだが、案の定、よく分からなかったらしくて、ほとんど無視されて、句友の可升さんだけが拾い上げてくれた。しかも、これをNPO法人双牛舎ブログ「みんなの俳句」に取り上げて下さった。この句は、自分ではとても良く出来た句だと思っていただけに、目に止めてくれた人が一人でもいてくれたことが、とても嬉しかった。
 若竹煮は説明するまでも無いが、出始めの筍と若布の炊合せに、木の芽をちょんと乗せた一品である。晩春から初夏の食べ物だが、主役として出しゃばるような料理ではない。しかし、季節感をしみじみ感じる一品だ。そして、どういうわけか、筍と若布との合性が抜群なのだ。
 誰がこの取り合わせを考え出したのかわからないが、実に良く合っている。筍だけでも旨いことはうまいが、でんぐりがえるほど感激することはない。新若布も美味いけれど、まあまあというところである。それが両者合わさると、絶妙な味わいになる。
 可升さんはブログの中で、冬の鰤と大根、夏の茄子と鰊と並べて、晩春初夏の筍と若布を「出会いもの」の代表例として上げている。旬の山幸海幸を取り合わせて、両方の良さを引き出して相乗効果を生み出すという、経験則から出た料理の極意なのだろう。
 ともあれ、「合性」とは不思議なものである。この言葉の本筋は、食べ物の取り合わせなどではなくて、人と人とがうまく行くかどうかの「合性」である。両人とも非の打ち所無き人格者なのに、共同で仕事を進めて行くとしっくり行かないということがある。逆にちょんちょん跳ね回っているような軽い印象の人間と、鈍牛と言われているようなのが素晴らしい組み合わせになることもある。
 ただ、合性の良い組み合わせだけで世の中すべて進むわけではない。合性の良くない組み合わせで物事を進めて行かねばならないことの方が多いかも知れない。
 そんなときにはどうしたらいいのか。頓着無くむしゃむしゃ食べてしまうのも一方であろう。場合によっては、筍を一つ食べて、若布を一枚食べて、そのままにしておく、といった「一歩一歩」という人生訓を実践する必要もあろう。
  筍と若布合わせるタイミング   酒呑洞
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2022年05月14日

俳句日記 (763)


都電荒川線薔薇吟行(5)

 投込寺に手を合わせて少なからずしんみりとしながら、またもと来た道を三ノ輪橋停留所に戻り、三つ四つ先の町屋駅へ逆行する。もともとの計画では三ノ輪橋商店街の中の古くからある蕎麦屋で打ち上げ会を行うことにしていたのだが、三薬幹事が予約の電話を入れたら「五日は休業です」と木で鼻をくくった返事だった。
 そこからが三薬幹事の真骨頂。あれこれ調べたのだろう、ついに「町屋にいい蕎麦屋がありました」と、「如月徳」という店を見つけたと知らせて来た。熱心に下見・試食に出かけた結果、これなら何もしないくせに文句だけは一人前という句会の偏屈老人たちも納得するだろうと踏んだのだ。
 夫婦で切り盛りしている14人しか入れないこじんまりした店で、貸切。春野菜と小海老の掻き揚げやら何やら美味しい酒の肴が次々に出て来る。三薬と二堂はアルコールがだめなのでノンアルコールをヤケクソにお代わりしていたが、残る面々は、三代、愉里、水兎の女ウワバミはじめ、いくらでも大丈夫な連中ばかりだから、佐渡の銘酒「北雪」と山口の名だたる「五橋」を心ゆくまで楽しんだ。
 切のいいところで蕎麦。ここの名物の「十割蕎麦」は本日は8人分しか無いという。あとは田舎風の「太打ち」と、つなぎを混ぜた「二八蕎麦」。私は、ぼそぼそ、ごつごつした感じの十割蕎麦や太打ちより、いかにも蕎麦という感じの、喉越しのすっきりした二八が好きなので、それを頼む。皆それぞれ好みを述べたら、それが店のいう品数にちょうど合った。
 蕎麦は絶品だった。正直なところ、町屋あたりで美味い蕎麦の食えるわけがないと馬鹿にしていたのである。ところがどっこい、久しぶりに「美味しい蕎麦を味わえた」としみじみ思った。バカにして相済みませんでしたの心を込めて、店を出しなに主人夫婦に深々と頭を下げた。「十割」を食べた白山も「実に美味かった」と言っていた。なるべく温かいものを食べることを心がけている二堂は汁蕎麦の「肉蕎麦」を食べていたが、これも良かったと満足気であった。
 がぶがぶ飲んで、酒肴をあれこれ注文し、蕎麦を取って、支払いは酒飲まず二人は4千円、残りは5千円。どうやら蕎麦は一人前7,8百円のようだ。神田の藪や永坂更科、砂場なんぞと同程度の値段だが、蕎麦の分量はやや多く、味わいはふんぞり返っている老舗とは比べ物にならないほど上等だった。さすが三薬大幹事、いい店を見つけてくれた。「また来よう」と言い合いながら、「都電荒川線薔薇吟行」を打ち上げた。

  よき蕎麦に立夏吟行打ち上げぬ   酒呑洞  (22.05.14.)
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2022年05月12日

俳句日記 (762)


都電荒川線薔薇吟行(4)

 荒川線終点三ノ輪橋はなかなか風情がある。昭和30年代末から40年代はじめ、飲んだくれの独身時代、王子とか大塚、時に千住や町屋あたりで飲み回り、親切な叔父叔母の家のある三ノ輪に夜中に再三押しかけた。終電の印の赤灯をともした電車である。三ノ輪には日本橋から神田須田町を通って行く都電もあって、これにも再三乗った。とにかくその頃の三ノ輪橋周辺はまだ戦後の混乱状態が残っていて、猥雑な雰囲気があった。どこが停留所だかはっきりしない感じだった。
 それが今やちゃんとしたプラットホームがあって、薔薇の植え込みまである。その小さなバラ園はまさに満開。「マリア・カラス」とか「クイーンエリザベス」とか「イングリット・バーグマン」とか「クリスチャン・ディオール」とか、全てに名前があって、名札が付けられている。薔薇の植え込みを抜けるとすぐに庶民的な商店街になっており、佃煮屋があるのが三ノ輪らしくて面白い。佃煮屋と言ってもたとえば新橋・玉木屋のように洒落た江戸前の店構えではない。建付けの良くないガラス戸は開けっ放しで、ショウウインドウの中や上や横の机の上にプラスチックの折に詰められた各種佃煮が無造作に積まれている。その横には飴や駄菓子なども置いてある。ソフトクリームの販売機もある。水兎さんが早速ソフトを買ってなめていた。二堂さんが「この鰻の佃煮が旨そうだ」と独り言を言いながら買った。なるほどと、つられ買いをした。百グラム1700円と「安井屋」としては飛び切り高値の佃煮で、太ったお上さんは「このところ鰻の値段がうなぎ上りでねえ、すみませんねえ」なんて言いながら、立て続けに売れたものだから相好を崩している。皆々思い思いに好みの佃煮を買ったから、安井屋としてはいきなり七福神が舞い込んで来たようなものだ。
 三薬大幹事が「さあ、皆さん、いいですかー、これから5,6分歩いてください。浄閑寺へ行きます」
 「薔薇吟行」と銘打ちながら、猿田彦神社に庚申塚、本妙寺、妙行寺、そして吉原の遊女の投込寺である浄閑寺と、内実は神社仏閣めぐりである。まあこれも参加13名の年齢構成を考えれば自ずと納得出来る吟行コースではある。最高齢は85歳、最も若い人でも間もなく還暦、平均年齢70ウン歳の一行である。
 浄閑寺は周囲を小企業の社屋と商店とマンションに囲まれた町中の一角にあるのだが、一歩踏み込むとなんとも言えない雰囲気に包まれる。江戸時代に建てられた山門はなかなかの趣で、本堂に至る境内前庭は舗装されていて、何の変テツも無いが、本堂脇の潜り門を抜けて墓地に踏み込んだ途端に陰陰と澱んだ空気が漂う。本堂裏手に当たる場所に「新吉原総霊塔」という、お地蔵様を載せた大きな石塔が建っている。この地下に骨壷が無数に埋まっている。一部は横手の鉄柵を透かして覗き見ることが出来る。昭和初年に墓地の整理を行い、この霊塔を建てたというが、もとより、骨壷などに納まり切れない無数の遺骨が地中に眠っている。
 浅草・千束にあった新吉原遊郭は、現在の日本橋人形町にあった吉原遊廓が明暦3年(1657)の大火で丸焼けになってしまったために、野原と田んぼしかないこの地に移されたものである。その後の発展ぶりはものすごく、大名や大身旗本をはじめ大尽と言われる大商人、下は商店の番頭手代など現代のサラリーマン階級までを客に迎える一大歓楽地になった。太夫と呼ばれる最高級花魁から下級まで3千人の遊女が「おはぐろどぶ」という掘割に囲まれた狭い地域に閉じ込められていた。
 過酷な勤めによる病死も多いし、一旦、火事になれば逃げ出すことが出来ないから焼死者続出である。安政大地震(1855)では約2700人の焼死者が出た。これには遣り手婆とか客引き、遊郭の従業員も含まれているが、この時焼け死んだ遊女の遺骸が500体以上、浄閑寺に運び込まれ、大きな穴に投げ込まれたという。関東大震災でも逃げ場を失った遊女が数千人、郭内のひょうたん池に折り重なって死ンだが、それもこの寺に投げ込まれた。昭和20年の東京大空襲で死んだ遊女も数知れずここに埋められた。
 かくて昭和33年(1958)売春防止法施行で吉原遊廓が消滅するまでの301年間、この浄閑寺の狭い墓地にはなんと2万7千人の遊女が埋められた。
 その霊を祀った「新吉原総霊塔」の裾には、花街のことを好んで詠み昭和30年代に没した川柳作家花又花酔の「生まれては苦界死しては浄閑寺」の一句を刻んだ石碑があり、向いにはこれまたこの世界をこよなく愛した作家永井荷風の詩碑が建っている。
  赤き薔薇痛々しげに浄閑寺   酒呑洞   (22.05.12.)
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2022年05月11日

俳句日記 (761)


大相撲夏場所は大荒れ

 夏場所が始まった。コロナももうインフルエンザ並になったようだし、今場所こそ両国に行こうと思っていたのだが、吟行やら菜園仕事やら、あれこれの家事やらで身動きが取れなくなってしまった。5月8日(日)に始まってもう三日目が済んだのだが、テレビ中継すら見ることが叶わず、夜も更けてからNHKお見逃しサービスなんぞで見ている。
 それにしても今場所はひどい。このところ毎場所かなり荒れるが、今場所はもうデタラメと言った方がいい。横綱照ノ富士が初日黒星発信、大関陣が全くだらしが無くて総崩れ、二日目にして三役以上で連勝した力士が一人もいなくなってしまった、というのは前代未聞である。下位の力士が横綱大関を倒すのを見るのは痛快なのだが、それは上位力士がどっしりとしていて、中々負けない中で、番狂わせが起こるのが面白いのである。連日、上位力士が枕を並べて討死にというのでは面白くも何とも無い。ただただ白けてしまう。
 先場所、悪い膝が言うことを聞かなくなって途中休場した横綱照ノ富士は、何とか相撲が取れる状態になったのだろう、出てきた。東京開催で目玉が出て来るのと来ないのとでは場所の活気というものに大いに影響するから、相撲協会としてもほっとしたことだろう。しかし、それにしてはこの病み上がり横綱には随分厳しい割(取組)を拵えたものである。初日に照ノ富士にとっては最も嫌な相手である大栄翔を当てたのである。
 膝の具合を久しぶりの本場所で試そうという照ノ富士にしてみれば、最も苦手とする大栄翔といきなりぶつかるのは嫌だったに違いない。案の定、おっかなびっくりで立ち上がり、どんと当たられてそのまま為すすべもなく押し出されてしまった。
 こりゃあだめだ。二日目の高安に負けて、休場、引退という道を辿るのではないかと思った。しかし、幸い難敵安をうまく料理し、これでほっとしたのだろう、三日目もしぶとく食い下がる霧馬山を落ち着いて捌いた。これで照ノ富士は十日目あたり、膝が耐えられなくなって途中休場ということになっても周囲の理解が得られ、延命できる。
 照ノ富士の膝はもう治らないと言われているが、本当にそうなのか。稀勢の里(二所ノ関親方)や貴乃花は連続6場所、7場所も休んだのである。照ノ富士も思い切って三場所くらい休んだらどうか。半年間、治療をしながら、傷んだ両膝と相談しながら、じっくりとリハビリ・稽古を重ねてみたらいかがなものか。今のような、はらはらしながら眺める横綱は、見る方も気が気じゃなくて、面白くない。
 しかし、一枚看板が休んだ場合、大相撲人気を支える力士が見当たらないのが問題だ。大関正代と貴景勝は全く話にならない。負け越して次のカド番場所をなんとか勝ち越して、という情けないコースを辿り、引退ということになるのだろう。そしてようやく念願の大関になれて一皮むけたかと思われた御嶽海もぱっとしない。
 前頭二枚目に上がって来た琴ノ若が三大関を総ナメにして気を吐いている。スポーツ紙は新たなスター誕生と持ち上げている。しかし、これは負けた大関連中が悪いので、琴ノ若が本当に力を出して勝ったのではない。時の勢いというか、はずみで「勝ち」が転がり込んだようなところがある。あの腰高の相撲を見ていると、「勝運」に見放されたときにはガクッと来るような気がする。インタビューから窺われる様子からしてもまだまだ子供で、辛い状態になった時に乗り切る精神的強さが備わっていないのではないかと思う。
 これならまだ若隆景の方に分がある。新関脇優勝でご祝儀が立て込み、だいぶ疲れているようだが、今場所をうまく乗り切ればほんとに強くなるのではないか。あとは阿炎の根性に期待がかかる。
 とにかく大相撲はしばらくはドタバタ続きの味気ない場所が続きそうだ。懲罰休場が明けて朝乃山が戻って来る来年後半までは我慢して見ているよりしょうがない。
  不甲斐なき三大関や夏相撲   酒呑洞  (22.05.11.)
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2022年05月09日

俳句日記 (760)


都電荒川線薔薇吟行(3)

 本妙寺を出て、また10数分歩くと、妙行寺。これまた本妙寺と同じ法華宗陣門流の寺である。ここには忠臣蔵で有名になった播州赤穂藩浅野家初代藩主浅野長直夫人の墓があり、切腹した浅野内匠頭の正室瑶泉院の供養塔、内匠頭の弟大学夫人の墓もある。夫人の墓だけあって殿様の墓が無いというのはどういうことなのか。殿様は国元で立派な墓に入っているのに、何故、夫人の墓だけ江戸にあるのか。江戸時代、「入鉄砲に出女」が厳しく制限され、大名の正室は江戸住いが強制されていたし、土葬が原則だったから死んでも遺骸を遠国に運ぶのが難しく、その結果、夫人の墓だけ江戸ということになったのか。よくわからないが、考えたってしょうがないことをあれこれ考えている。
 面白いのは、浅野家のご婦人方の墓と背中合わせに、『四谷怪談』のお岩さんの墓のあることだ。この寺にはもともと徳川幕府直参の田宮家の墓所があったのだが、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭円朝の怪談噺によって「お岩様」だけがあまりにも有名になってしまい、お参りに来る人が絶えないということで、本来の「田宮家墓」とは別にお岩さんの霊を祀った墓石が建てられた。ここには年中香華が絶えないから、寺にとっても得難い仏様である。門前の道は「お岩通り」と呼ばれている。
 もう一つ面白いのは、門を入ってすぐの所に立派な多宝塔と日蓮像があるのだが、その前に巨大な「うなぎ供養塔」がそびえていることだ。これから行く三ノ輪の近くを流れる荒川・隅田川は鰻がたくさん取れたところだが、巣鴨が鰻の産地とは聞いたことがない。どうもよくわからない。わからないながらもふらふら歩いていると、また荒川線電車のレールが現れた。西ヶ原4丁目停留所で乗り込み、飛鳥山下から王子を通り、町屋を抜けて終点の三ノ輪橋へとたどり着いた。途中の線路際には点々と薔薇が咲いていた。
 ゴールデンウイークの最終日だから観光客で一杯だろうと思っていたが、むしろ近間の人たちで一杯だった。この路面電車は専用軌道を走るから、車に邪魔されずすいすい走れる。地元民の足としてとても重宝されていることがわかる。
 終点の三ノ輪橋停留所は狭いながらも薔薇の花壇が今を盛りと咲き誇っていた。そこを抜けると三ノ輪橋商店街。その取っ付きにあるのが佃煮屋安井商店。なんだか戦後間もなくのバラック建てのようなたたずまいだが、なかなかいけそうな佃煮を並べている。「鰻佃煮 T00グラム1700円」と、この店では飛び切りの高値商品だが、旨そうだ。買い求め、帰宅後早速食べてみた。いかにも下町風の味付けで甘みが勝っているが、とても良かった。
  なつかしや鰻佃煮三ノ輪橋   酒呑洞    (22.05.09.)
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2022年05月06日

俳句日記 (759)


都電荒川線薔薇吟行(2)

 庚申塚から10分ばかり、巣鴨の住宅街を縫いながら歩く。微妙な上り下りがあり、くねくね道がある。しばしば車が現れる。午後3時ころで一番暑い。昨日、久しぶりに晴れたので菜園の耕し、堆肥鋤込みを精力的にやったから、足腰に疲れが溜まっている。その上、花粉症である。
 「おじいさん大丈夫ですかね」なんぞと三薬が利いた風な口をきく。聞こえないふりをしたが、このときが一番へばっていた。ようやく本妙寺に着く。立派な山門のある法華宗陣門流東京別院という堂々たる寺だ。
 この本妙寺はもともとは本郷丸山町にあった。明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日から4日)にかけて三昼夜にわたって燃え続け、江戸城天守閣はじめ市中の大半を焼き尽くした「明暦大火」の火元とされる寺である。ここで荼毘にふされた若い娘の棺に掛けられていた振袖が燃え上がり、折からの強い北西風に煽られて寺の屋根庇に張り付いて燃え広がり、そこから次々に燃え広がった。そのため、この大火は「振袖火事」とも言われた。当時の江戸の正確な人口は不明だが、およそ30万人と言われており、この大火による死者は10万人というから、住民の三分の一が死んでしまったのである。
 ところが不思議なことに、本妙寺は火元とされながら何のお咎めもなく、現地で再建を許され、しかも、幕府の寺社支配のために定められた宗派ごとの代表寺院である触頭(ふれがしら)になった。普通ならこんな大火の火元とあれば「取り潰し」が妥当である。ここから「本妙寺火元引受説」が生まれた。
 本妙寺の隣が時の老中阿部忠秋(武州忍藩主)の屋敷だったのだが、失火の火元はどうやらこの屋敷だったらしい。阿部老中は知恵伊豆と呼ばれた老中首座松平信綱(川越藩主)と昵懇で、将軍家光、家綱二代に渡って信任篤く、二人で幕政を仕切り、島原の乱や巷にあふれる浪人の再就職など、幕藩体制の整備に力を尽くした。現代の首相、副首相などとは比べ物にならない実力者である。ここを「火元」にするわけにはいかない。というわけで本妙寺に頼み込んだというのである。棺の覆いの振袖に火がついて燃え広がったという因縁話もいかにも江戸っ子好みだし、その後、明治4T年に現在地に引っ越してからも、大正時代に至るまで、阿部家から毎年多額の供養料が奉納されていたということから、この火元引受説はかなり説得力がある。
 寺の本堂横手には、その明暦大火供養塔があり、石碑と如来像がある。さらに境内の墓地には囲碁の本因坊歴代の墓所があり、囲碁好きの而云はシンミョウに手を合わせる。近くには桜吹雪の入墨で一世風靡の北町奉行遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓がある。野次馬根性旺盛な皆々、汗かきながらそれらを巡るのだった。
  麦茶のみ明暦大火供養塔   酒呑洞
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2022年05月05日

俳句日記 (758)

都電荒川線薔薇吟行(1)

 5月5日(木)こどもの日は立夏。空は真っ青に晴れ上がり、「夏は来ぬ」どころか日中27℃にもなる夏真っ盛りとなった。
 都内に残る唯一の路面電車都電荒川線のあることは誰でも知っているが、終点から終点まで一気に乗った人は誰も居ないということが句会で話題になって、それじゃ5月例会の兼題が「薔薇」ということもあるし、薔薇がたぶん盛りの荒川線に乗ろうということになった。こういうばかばかしい催しの幹事はお定まりの杉山三薬。
 午後1時に早稲田停留所にはなんと13人も集まった。まずは目の前の神田川を渡った山裾にある関口芭蕉庵を見学する。崖の上の椿山荘庭園が一木一草手入れが行き届いているのに対して、こちらはなかば放ったらかしで、草木が生い茂っている。神田川上水の石堰浚いの工事を請け負っていた松尾芭蕉がしばらく住んでいた跡を復元したものだ。深川の芭蕉庵と異なり、こちらはあまり有名ではないから訪れる人も少ない。
 また早稲田停留所に戻り、いよいよ都電旅の出発進行。一日何度でも乗降自由で400円という「一日乗車券」を買う。荒川線の運賃は一回170円。星川水兎さんが早速「二度途中下車して三回乗るとトクというわけね」なんて言っている。一同まさにそうなった。
 最初に下りたのは庚申塚。旧中山道の、江戸を出外れる場所に猿田彦神の祀られた神社があり庚申塚が残っている。
 庚申信仰とは道教に根源があるもので、平安時代に中国から伝わり、江戸時代に民間に一挙に広まった。人間の頭と腹と足には三匹の虫が巣食っており、常に人の行いを監視している。そして、庚申(かのえさる)の日の夜、その人が眠った隙きに身体から抜け出して天上の閻魔大王に宿主の行状報告に行く。それがすべて記録されて、その人の死後つぶさに検討されて極楽行きか地獄行きかが決められる。誰しも大小さまざまな悪事は重ねている。それをいちいち告口されたのではたまらない。しかし、三匹の虫は庚申の夜、主人が眠らない限り抜け出すことが出来ない。それじゃ庚申の夜は徹夜で神仏を祀ろうとなった。しかし、一人ではどうしてもうつらうつらしてしまう。それなら村中相寄ってお祭りしよう。祭には酒食がつきもの。というわけで、「庚申待ち」行事は村の男どもの60日に一度の夜明かし飲み会になった。庚申の日は一年に6回巡って来る。これを三年18回繰り返すと記念に石塔を建てた。これが「庚申塔」である。
 全国いたる所に建てられたが、明治維新政府は「旧弊俗信打破」と称して、全て壊すことを命じた。しかし、江戸っ子の中には薩長土肥の田舎っぺえの言うことなんかクソクラエという気概の持主も少なくなかったから、今でもあちこちに残っている。
 遠い信濃柏原に帰る一茶も、ここで江戸ともしばらくおさらばと一休みしたのだろう。
   「ふじだなにねて見てもまたお江戸かな」と詠んでいる。してみると、この猿田彦神社は当時は藤棚などあるかなりの規模の境内だったようだ。今は旧中山道の辻の片隅にへばりついているかそけき存在だが、地元商店街の心意気で、なんとか命脈を保っている。
  たわいなき懺悔ビールの泡と消え   酒呑洞
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2022年04月30日

俳句日記 (757)

陶の亀

 句友の光迷さんが愛妻と仲良く外苑前の普通の住宅を改造したギャラリーで展覧会をやっている。光迷は陶芸、奥さんは糸から染め上げて、機織り機で織ったストールとマフラーの作品展だ。きのう、29日の天皇誕生日、いや昭和の日と名前が変わったが、とにかく日めくりに日の丸印がついていた。朝から冷たい雨が降っていたが、こういう日でないと中々出かけられない。ゴールデンウイークは胡瓜、茄子、トマトなどの植え付け時期だから、お天気だと畑仕事で外出出来ないのだ。だから、奥方が「こんな雨の中をわざわざ」と言って下さるのだが、「いや、お天気なら来られないんですよ」とも言えず、「いやいや」なんて言って居る。
 奥さんの絹織のショールや毛織のストールはもう完全に素人の域を脱している。自分で染めた糸で織っているから、糸の色具合、風合いが生かされた織物で、見るからにしっとりと、ふわふわと感じが良い。
 亭主の光迷の陶芸はこれはもう完全な素人芸である。手びねりと一部、ろくろ挽きの器があるが、ろくろの方は芯が狂ったいびつなものも見受けられる。しかし、そこになんとも言えない味わいと温もりがあって、なかなかいい。4,5年前にもこの外苑前の裏通りのこじんまりしたギャラリーで夫妻の二人展があったが、その時と比べて大分上手くなっている。しかし、へたに上手くならない方がいい。光迷の人柄の現れた、ブサイクだが温かみのある茶碗やぐい呑がいい。
IMG_0185.jpeg それにも増していいのは、手びねりの人形や動物などだ。恐らくお孫さんにプレゼントした余りであろう、兜や兜をかぶった坊やのフイギュアがあった。スケボーをやっている人形もあった。子供の粘土細工に毛の生えたようなものだが、実にいい味だ。
 小さな亀さんを二匹買い求めた。家に帰って、早速、水草をはやした大鉢の石に置いた。とても納まりがいい。この大鉢は水牛がまだ腕力があった10数年前に作ったもので、直径が50センチほどある。メダカを飼っていたのだが、小鳥が来て、浮いてくるメダカをつまんでしまい、今や水草と石しか無い。そこに亀さんを二匹据えたら、俄然イキイキした。
  若葉雨生き生きとして陶の亀   酒呑洞

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