2019年09月16日

俳句日記 (528)


大相撲秋場所の別の楽しみ

 大相撲は何と言っても5月の夏場所と9月の秋場所。どちらも隅田の川風に吹かれての気分とともにある。その他の場所は無くもがなという感じで、本当に面白い相撲を維持しようとすれば、夏場所、秋場所を中心に、あとは一場所、1月か3月に、東京ばかりでは何だから大阪でやれば良い。そうすれば力士の怪我が減って、勝負も今よりはずっと熱の籠もったものになるのではないか。
 名古屋(7月)と福岡(11月)は元々準本場所としてやって来たのを昇格したもので、主催者側にも力士にも未だに花相撲気分が漂っている。しかし、本場所である以上、ここでの星が番付に反映されるから、田舎のお大尽の宴席をこなした翌日もいい加減には取れずに、無理をする。無理をすれば怪我をする。それが尾を引いて、年間通じて負傷力士が後を絶たない状況になる。
 まあ相撲というものは、スポーツ競技であり勝負を重んじるものではあるが、伝統的な儀式的要素と祀りの要素があるから、様式美を尊ぶところがある。すなわち、勝負と共に「美しさ」が求められるのだ。私は朝青龍という横綱が大嫌いだった。恐らく朝青龍は歴代の横綱の中で第一等の強さだろう。全盛時代の大鵬や北の湖と取っても勝っただろう。しかし、私が朝青龍を大横綱と認めないのは美しくなかったからである。勝てばいいだろうという思いが露わだったし、現実に、相手を投げた後の「どうだ」という見得が横綱にはあるまじき姿勢だった。この辺が白鵬にも時折見られる。折角、日本国籍を取って相撲界に骨を埋める決心をしたというからには、よく噛みしめてもらいたいところである。
 それはともかく、今行われている秋場所大相撲も怪我人ばかり。白鵬、鶴竜の両横綱が怪我で途中休場、大関高安は初日から怪我で休場、大関栃ノ心と豪栄道も半病人だが負け越せば大関陥落ということで無理して場所を勤めている。まともに相撲を取れる横綱大関が一人も居ないというのは、どう見ても異常である。これは今場所に限ったことではなく、これほどひどくはないまでも、もうここ数年ずっと続いて来た現象である。
 というわけで、この秋場所は9日目を終えて誰が優勝するのか、相撲評論家ですら候補者を挙げられない状況だ。これは一見面白そうだが、低レベルの雑魚の競り合いで、本来の大相撲の醍醐味とは程遠い。
 そうした中で、今最も興味深いのは幕下27枚目の照ノ富士である。モンゴル出身のこの男は、恵まれた体格と相撲勘でぐんぐん昇進し、あっという間に大関になり、稀勢の里と横綱争いまでしたが膝の大怪我と糖尿病で全休が続き、なんと序二段にまで落ちた。大関を張っていた力士が最下層の取的にまで落ちるのは前代未聞。しかし、まだ27歳ということもあるのだろう、何糞という思いもあったのだろう、今年三月の大坂場所から復帰して全勝、6勝1敗を二場所続け、今場所は幕下27枚目にまで持ち上がり、今日も勝って5戦全勝である。
 幕下以下は人数が多いので一場所7番勝負となっているから、照ノ富士は後2番勝てば全勝。幕下は全勝が数人出るのが通例なので、その優勝決定戦に勝って幕下優勝となれば、九州場所で十両昇進ということになるかも知れない。もしそうならなくても、来年一月の両国の初場所には目出度く「関取復帰」を果たすのではないか。
 この照ノ富士が幕内に上がって来たころは実に颯爽として、惚れ惚れした。しかし、若さに任せての強引な取り口や、ふてぶてしい態度が目立ち、危ういかなと思っていたら、案の定ずってんどうと引っ繰り返った。しかし、近ごろの照ノ富士は違う。インターネットの動画など見ると、実にきめ細かな理詰めの相撲を取っている。元大関からすれば相手はちっこい目刺しのような存在だが、決して馬鹿にせず、正対して突き押しを繰り出し、組んではじっくり寄って行く相撲を取っている。膝の大怪我の回復がもう一息らしく、その意味ではあまり早く駆け戻らない方がいいだろうが、ともかく、来年の大相撲には必ずこの「地獄を見た大器」が話題の主になりそうである。
  奈落見て研ぎ澄まされし虫の声
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2019年09月15日

俳句日記 (527)


酔吟会第142回例会は大盛況
23人が参加し「月」と「夜食」を詠む

9月14日(土)午後1時から東京内神田の日経広告研究所会議室で酔吟会句会が開かれた。新規入会の久保道子さん、日経俳句会で腕を振るって来た金田水さん、杉山三薬さんの新顔3人を加えて、出席者17人、投句参加者6人の合計23人参加(久保さんは投句せず選句のみ参加)という大盛況だった。酔吟会は平成8年(1996年)春に発足した由緒ある句会だが、発足時から会員は12,3人のこじんまりしたものだった。しかし、土曜日の午後一杯かけて、短冊に句を書いて投句することから始め、参会者が交々C記用紙に書き写し、選句、披講し、合評会を繰り広げるという、昔ながらの雰囲気を残していることが人気を呼び、徐々に参加者が増えて、いつの間にか20人を越える大きな句会になった。
この日の兼題は、前夜が仲秋の名月ということもあって「月」と「夜食」。投句5句、投句総数110句から選句7句で句会を進めた結果、上位入選句は以下のようになった。
「天」(5点)
夜食蕎麦きのふは狐けふ狸       春陽子
「地」(4点)
車椅子二つ並んで月の土手       可 升
子を連れて詫びたあの日の月夜かな   冷 峰
紐を二度引いて消す灯や望の月     春陽子
月面を歩いた記憶あるような      ゆ り
歯はあるぞひとり夜食の塩煎餅     三 薬
身にしむや上総下総灯の絶えて     可 升
「人」(3点)
この月は深夜帰宅のわれのもの     青 水
少年の未来果てなし天の川       双 歩
夜食にも一行詩ありこども食堂     冷 峰
乗り越して戻るひと駅十三夜      春陽子

水牛が良いと思って採ったのは上記の「この月は深夜帰宅」「紐を二度引いて」「歯はあるぞ」の三句と、以下の4句である。
石膏の兎いる庭月明かし       百 子
 庭の置物の石膏の兎が月光を浴びて白々と光っている。十五夜の輝きが「石膏の兎」との取り合わせの妙で鮮やかに浮かび上がる。これはアタマでは作れず、実際の情景であろう。「見たままを写した」強さである。
一階に灯のつき夜食支度かな     双 歩
 夜遅く、一旦消えていた一階台所の灯がともる。母さんが受験勉強の子供のためか、会社から持ち帰った夜なべ仕事に打ち込む父さんのためか、お握りを作ったり、おじやを拵えたりしているのだ。ほのぼのとした気分が漂ってくる、実に感じの良い句ではないか。
コップ酒と夜食楽しき泊まり番    反 平
 これも青水句と同じく昔の野蛮な社会部記者時代の思い出。週に一度は「泊まり番」。朝刊最終版の締切は午前二時頃だったから、草臥れてもいるし、腹も減っている。路地にやって来る屋台で、鯨ベーコン、竹輪、焼イカなどを肴にコップ酒を呷り、締めはラーメン。丼や皿は汲み置きのバケツにじゃぶんと浸けて雑巾のような布切れでぐるっと拭っただけ。上司の悪口をはじめ、あれやこれや口角泡を飛ばして、時には朝日が射して来るまでやっていた。
長き夜の更けゆく庭や坊泊り     水 馬
 これはまあ何とも格調高い句である。酔吟会にはめずらしい。「坊泊り」とは古くからこういう言葉があるのか、作者の造語か分からないが、大きな格式のある寺の宿坊に泊まることを言うのだろう。とにかくこの言葉がしっくり納まっていることにまず感心した。早寝早起きが習慣の寺では長夜の夜更けともなれば物音一つしない。小用に立った折か、寝そびれて目が冴えてしまったのか、宿坊の中庭に眼を遣っている。植え込みと散在する石ばかり。別に目を引く物があるわけではないが、何とも身に沁みる感じがしてくる。

水牛句は今回も討ち死で、
雲切れて令和三五夜月さやか
はかどらぬ仕事はままよ夜食とす   (2)
眼をこすり夜食ほしさに勉強す
野分中また野良猫が迷ひ込む
秋の字に草冠つけ咲き競ふ
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2019年09月09日

俳句日記 (526)


十条銀座が面白い (2)

 東京、横浜をはじめ全国各地の昔ながらの商店街が活気を失い、閉店してシャッターを下ろしっぱなしの店が続出、いわゆる「シャッター街」が出現して久しい。ターミナル駅のデパートを核とした商店街か、さもなくば郊外に出来た広大な駐車場を備えた大規模ショッピングセンターに客を奪われて、地域の名物繁華街がさびれてしまうのだ。
 ところが十条銀座は元気がいい。埼京線十条駅北口の小さな広場に面してアーケードの入口があり、そこを入ると、中央通り、東通り、西通りと、すべてすっぽり透明プラスチックの屋根に覆われた商店街が延々と続く。この商店街のホームページを見ると、加盟商店は200軒以上あるらしい。そこを北に出外れた処には富士見商店街が連なり、東側は京浜東北線東十条駅方向に別の商店街が繋がっている。それらを引っくるめると大変な商業集積地である。
 八百屋、魚屋、肉屋、惣菜屋、菓子屋、米屋、酒屋、衣料品店、洋服屋、雑貨屋、小間物屋、文房具屋、本屋、玩具屋、家具屋、理髪・美容室、それに勿論、蕎麦屋、ラーメン屋、洋食屋、小料理屋、飯屋、呑み屋、喫茶店と、商店街を構成するあらゆる店が揃っているのだ。こういう商店街は今どき珍しい。頑張って生き残っている商店街が各地にあるが、まずは客足の途絶える雑貨荒物屋、文房具屋、本屋が閉店し、洋服屋、衣料品店が店仕舞い、その内に魚屋、肉屋、八百屋が姿を消して商店街はもぬけの殻となる。
 十条銀座は地の利を得ているのだろう。上野・日暮里からちょっと離れている。新宿、池袋からも適当な距離を隔てている。周囲は赤羽、王子、十条、中里といった住宅街である。個々の商店は零細だが、それぞれ独自色を持つ売り物を持っている。そういう商店が数百軒固まっていれば、大きな力となり、近隣の住民を引き付けることが出来る。一緒に散歩した冷峰は昭和36年に新聞記者になった時の最初の担当が「商店街」で、この十条銀座も有力な取材先の一つだった。「あの頃と比べると、アーケードなどのたたずまいは随分変わったけど、相変わらずの活気ですなあ」としきりに感心していた。
 しかし、この繁華商店街にも何とは無しの影が差し込み始めているように感じられる。そこここに閉店や、店を取り壊して更地になったところが出ていることと、空いた店を買い取って新規開店するのがチェーン展開の安売り中華料理店や焼鳥屋、ファストフード店であることだ。もう一つは、商店街の裏側に広がる住宅街の住民の高齢化によるものか、「住民交代」が進んで、中国人やその他アジア人が増え、商店街にもそういう人たちが目立つようになっていることである。これは人種的偏見といった話ではなく、旧来の住民との生活習慣の違い、嗜好の違いから、売れ筋商品の変化をもたらし、ついには商店街の持ち味が変わって行く可能性を秘めている。10年後、20年後の十条銀座はどうなっているのか、水牛にはそれを見極める時間的余裕はもう残されていないが、気になるところである。
 十条銀座散歩を一時間半ばかりやるともう午後4時。人気の呑み屋「田や」の開店時間ですよと命水がうながす。ここは埼京線の踏切を東に渡り、東十条駅方向へ篠原演芸場の少し手前である。だから正確には十条銀座ではないのだろうが、まあ続きのようなものだ。引き戸を開けて入ると、もう二組の客が入っていた。コの字型のカウンターの昔ながらの呑み屋である。常連の命水はずずっと一番奥に進んで座を占める。酒を飲まない冷峰は引き取って、代わりに玉田春陽子がやって来て、三人で腰を据えて飲み始めた。
 十条銀座の話、俳句の話、連句の話、食べ物の話、命水と春陽子の孫の話、店内に張られた竿灯のポスターから、この店の先代のお上さんの故郷の秋田の話と、酔っ払いの話は脈絡も無く延々と続くのであった。
  商店街栄枯盛衰秋暑し
  三日月の常陸の磯の蛸なりと
  噛み心地良き蛸刺と秋の酒
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2019年09月08日

俳句日記 (525)


十条銀座が面白い (1)

 10月7日(土)、番町喜楽会の塩田命水さんのお誘いを受けて東京都北区十条銀座界隈を散歩した。もう白露というのに、日はつれなくもぎらぎら照りつけ、集合場所の埼京線十条駅北口広場に降り立った正午前にはもう寒暖計は34度を示していた。
 案内役は地元住人の命水さんと令夫人。もう一人の参加者は野田冷峰さん。まずは腹ごしらえと、連れて行ってもらったのは北口広場を脇道にちょった入った所にあるレストラン「街中ダイニング」。こじんまりしたビルの一、二階だが、内装はすべて木材での"自然派"。食材も産地や作り手がはっきりしている、農薬などをなるべく使わないようにして育てた野菜、豚、鶏肉を用いているという。身体障害者の社会復帰にも力を入れているらしく、ウエイトレスにもそれらしい人がいた。
 三人それぞれ地鶏のソテーだの玄米御飯だの好みのものを注文したのだが、水牛は朝が遅いから肉類は敬遠、「プレーンオムレツ定食」を頼んだ。大分待たされたのだが、出てきたオムレツは実に美味しかった。味噌汁やジャガイモのきんぴら炒め、野菜サラダなどいずれも素人料理に毛の生えたようなもので、「水牛流の方が美味いかな」という感じだったが、このプレーンオムレツは、ふっくらと焼けて、しかも生煮えの卵汁が流れ出たりせず、中までちゃんと火が通って、しかもふわふわしている。塩味の加減も丁度いい。カッツキの水牛はその日何か一つ、ちゃんとした美味いものが口に出来れば、それでもう満足である。ともすれば、こうした慈善事業の噛んで居る食べ物屋は「もう一つ」というのが多いのだが、このオムレツですっかり見直した。
 昼食を終えて12時半。今日のお目当ての「篠原演芸場」へ行く。ここは大昔から浅草木馬館と共に繁盛してきた場末の芝居小屋だ。昔はちょっとした町にはこういう小さな芝居小屋があり、いわゆる「どさ回り」の劇団が一ヵ月交替とか十日交替で出演していた。今ではテレビや映画を始め地方都市にも立派な劇場が出来て、大きな劇団の巡回公演や有名歌手のショーなどが開催されて、こうした芝居小屋は少なくなってしまった。しかし、こうしたドサ回りの小芝居にはそれなりの面白さがあり、根強いフアンがいる。というわけで、全国各都市には未だにこうした客席百人から百五十人くらいで満員という芝居小屋が生き残っており、それらを巡回している小芝居劇団がどっこい生きている。それらの中の"二大劇場"がこの十条の篠原演芸場と浅草木馬館なのだ。
 彼ら小芝居の役者たちにとっては、篠原演芸場と木馬館で興行できるのは「大衆演劇仲間の大立者」と言われる存在なので、自然に力が入るようだ。1957年に「チャンチキおけさ」で衝撃的デビューを果たし、64年の東京オリンピック時には「五輪音頭」で一世を風靡した三波春夫は第二次大戦中陸軍兵として中国大陸で戦い、敗戦後ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留、1947年に帰国後しばらくは浪曲師南条文若としてドサ回りの日々を過ごしていたのだが、その頃、篠原演芸場の舞台に立って人気を博していたという。
 この日の篠原演芸場の出演劇団は「たつみ演劇BOX」。小泉たつみ、小泉ダイヤという兄弟なのか、年格好も背丈も顔つきも似た色男が「二人座長」を勤める劇団だった。一階百二十人、二階三十人くらいが入れる場内は、我々が行った十二時四十分にはもう第一部の舞踊ショーが始まっており、満員。二階の正規座席の人たちの前薄い茣蓙に胡座をかく形で滑り込む塩梅だった。「場末の小屋で一千七百円も払ってこれかよ」という感じだが、まあしょうがない。
 見回すとやはりジイサンバアサンが多いが、若い女性が3,4割混ざっていて、キャアキャア黄色い声援を浴びせているのにびっくりした。たつみ、ダイヤの座長はじめ数人の踊りが終わると、第二部の芝居。皮切りは「丹下左膳こけ猿の壷」。踊りもそうだし芝居もそうなのだが、物凄くどぎつい。篠原演芸場のホームページを見ると「年間予約席受付」とあるが、(注)として「ただいま予約で埋まっておりますので、空きが出来次第受け付けます」とある。「年間通して週に一回以上来場する人」が「年間予約者」の有資格者らしいが、恐らくそういう"常連さん"への流し目サービスにも念が入っている。芝居最中には、花道の七三で思い入れたっぷりに長々と見得を切る丹下左膳に向かって、舞台中央の敵役の剣士が「おい、いつまで待たせるんだよー」と楽屋落ちのようなクスグリを入れたりするのも、いかにも地芝居の面白さだ。もちろん、馴れた観客はきゃーとかわーとか拍手喝采である。
 また音響効果が物凄い。千変万化派手な色を振りまくライトも眼が痛くなるほどだ。案内役の命水がまず「耳がどうかなりそうですので、失礼します」と途中で逃げ出した。そうしたら冷峰もいつの間にか姿を消してしまった。こちらは左膳の快刀乱麻の働きで悪人はすべて平らげられ、めでたしめでたしまで見終えた。しかし、座り馴れない床に茣蓙一枚の胡座がどうにも我慢出来ず、もう一本の演し物に後ろ髪引かれつつ、表へ出た。駅前のいかにも昔風の喫茶店に耳を休ませて、美味しい珈琲楽しんだ。
  残暑ものかは嬌声響く村芝居
  熱演にミストシャワーの芝居小屋
  風は秋昔ながらの珈琲屋
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2019年09月06日

俳句日記 (524)


難解季語 (37)

はくろ(白露)

 二十四節気の一つで、秋分の十五日前、太陽暦で言うと九月七日か八日になる。俳句の季節分類では既に「仲秋」ということになってしまうのだが、肌身に覚える季節感からすれば、ようやく残暑が鎮まって、秋の気配が漂って来る頃合いである。この頃になると日中と朝晩の気温差が広がり、草葉に露が結ばれるようになる。草や木の少ないコンクリートジャングルでは、ビルの壁や塀に露がびっしりと付いているのが見える。
 ところで白露の「白」だが、現代の私たちは牛乳のような白濁した白色を思い浮かべてしまうが、もともとは今日のような「白」の意味とは別に、透き通った「無色透明」をも意味した。たとえば、お茶に対して透き通ったお湯を「白湯(さゆ)」と言うが、その白は「透き通った」という意味を表している。白露も白湯と同じ用法だ。「露」というのは水蒸気が冷え固まって露わになった物体を指し、それが透明だから「白い露」というわけである。今流の「白」の解釈だと「白露」は牛乳の一滴とも受け取れるが、あくまでも澄んで透明な水滴である。
 「白秋」というのも同じである。「何故白い秋と言うのか」と聞けば、今どきの人の多くは「分かんなーい」と言い、少し物の分かった人は秋に付き物の霧を思い浮かべて「霧のよく発生する季節だから」と答えるだろう。正解は「空気が透き通るような感じの季節だから」である。「清廉潔白」の白も、白く濁っていたのでは困る。これも全く濁りの無い透き通った状態を言う。
 まあそうしたわけで、水晶の珠のように透き通り、朝日にきらきら光る白露は美しい。朝の涼しさが、なんとも生き返ったような気分を授けてくれる。これが「白露」の季節感。ところが好事魔多し。この頃は二百十日と二百二十日を引き合いに出すまでもなく、台風シーズンである。おちおち白露などと五七五をひねっては居られない時期でもある。
 白露の十五日間を七十二候で紐解けば、初候の九月八日から十二日は「鴻雁来る」で北方から渡り鳥がそろそろやって来る時期だよという「お知らせ」。次候五日間は「玄鳥帰る」でつばめ(玄鳥」が南方へ帰る時期。末候は「群鳥羞を養う(ぐんちょうしゅうをやしなう)」で、鳥たちがせっせと食物(羞)を捕食し蓄える時期だと、この時期は三候とも鳥の動きで季節の推移を示している。

  道元の歩きし道も白露かな      赤尾 兜子
  草ごもる鳥の眼とあふ白露かな    鷲谷七菜子
  姿見に一樹映りて白露かな      古賀まり子
  もろもろの音立ちあがる白露かな   廣瀬 町子
  朝刊を大きく開く白露かな      佐藤 瑛子

  しらつゆと読んで白露を独り酌む   酒呑洞水牛
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2019年09月03日

俳句日記 (523)


番町喜楽会9月例会が開かれた
正会員18人が全員出席の快挙

 9月2日(月)午後6時半から、千代田区九段下の千代田区立生涯学習館会議室で番町喜楽会の9月例会(通算165回)が開かれた。まだまだ日中の陽射しは厳しいが、朝晩は秋の気配が漂い、年寄りもようやく生色を取り戻す日柄になってきた。そのせいか、何と今回は正会員18人が全員出席という、ここ数年無かった快挙。例会もその後の九段下の蕎麦屋「丸屋」の懇親会も大いに盛り上がった。
 この日の兼題は「秋の雲」と「桔梗。投句5句、選句6句で行われた句会には、欠席投句2名の作品も合わせて100句が集まった。「桔梗」にはあまり良い句が出ず、「秋の雲」には、この日の最高点7点の「釣り糸は海にあづけて秋の雲 嵐田双歩」があり、当季雑詠の「かなかなの声戻り来る雨後の宿 中村迷哲」が次席の6点、「地下鉄へつづく鉦音阿波踊り 廣田可升」が5点で三席を占めた。
 水牛は実はこの3句を採って居らず(一次選考の丸印は付けてあるのだが)、別の6句を選んだ。
 火の山を覆ひて余る秋の雲    玉田春陽子
 つい先日、久しぶりに噴火し始めた浅間山。その噴煙を覆って真白な秋の雲、その上に抜けるような青空。豪快な風景だ。

 季節無き街過ぎゆくや秋の雲   中村 迷哲
 東京のコンクリートジャングルの上空を過ぎ行く秋雲。虚飾の街の片雲。

 向日葵の頭垂れたり秋の雲    谷川 水馬
 残暑厳しい青空とギラギラ太陽の下の向日葵と白雲。

 桔梗咲くカルスト台地風渡る   中村 迷哲
 桔梗は小さいながらも悪環境の中にもしっかり根を張って、健気に花咲かせている。そのいとおしさ。

 退路断つ一途の君や山桔梗    塩田 命水
 青年のきっぱりとした決断。少々悲壮感が迸り過ぎたきらいがあるが、これもまた善し。

 毬栗の青きを拾ふ無言館     高井 百子
 「無言館と青いまま落ちた毬栗」は「付過ぎ」という批判もあろうが、実に素晴らしい。無念、悔しさ、未練、さまざまの思いを抱いて散っていった若者を「青き毬栗」を「拾ふ」と言った。

さて水牛の句は、
 死に方もおしゃれな男秋の雲     (1)
 凜然と桔梗釈尊大権現
 強がるも寂しさまとふ桔梗かな    (2)
 だいじょうぶ声掛けられる昼寝かな
 青みどろ吐き出すポンプ夏の掘
という無残な有様。いずれも自分なりの思い入れはある句なのだが、句としての出来栄えは悪く、こうした結果になるのは分かっていた。
 ことに、「死に方もおしゃれな男」の句などは誰にも分からない、独りよがりの句と言えるだろう。これは同期入社の畏友牛越弘への追悼句である。
 入社3年目の昭和39年正月。故郷松本の実家で雑煮を祝ったギュウちゃんは2日早々上京したが中野の下宿は火の気も無い、商店街の食堂は休み。所在なさに電話を掛けてきた。こちらは宮内庁担当で、当時の慣例で御下賜の銘酒「惣花」の一升瓶と御料場の真鴨一羽を捌いたのがある。「鴨鍋で惣花を飲もう」と誘って、二日の晩から我が家で腰を据えて飲み始めた。私の父親はお猪口一杯で酔っぱらってしまうから、早々と引きこもる。母親はいける口だからしばらく付き合ってくれた。夜も更けると勿論二人きり。鴨鍋はとうにひりついてお仕舞いになっているから、後は飲むだけ。惣花はあっと云う間に空けてしまい、夜明け頃には買い置きの菊正、月桂冠の一升瓶2本も飲み干した。後は寳焼酎35度のお湯割り、取って置きのホワイトホース(当時は宝物だった)を引っ張り出して飲んだところで、二人ともぶっ倒れて前後不覚に眠りこけた。気が付いたのは1月3日の夜。これじゃしょうがないというので、風呂に入り、酔い醒ましのもう一杯をやって、もう一度寝て、4日朝、「仕事始め」の出社に及んだ。
 その後、働く場所は離ればなれになったが、つかず離れずの付き合いが続いた。この一年、互いに連絡が途絶えたのが永久の別れとなった。奥さんの話だと、昨秋、食道癌が発見された時には既に手遅れを宣告されたのだという。それから約9ヵ月、「延命治療は絶対にやるな」「病気のことは隣近所、親戚、オオサワにも知らせるな」「死んだら葬式はお断り、誰にも知らせず、家族だけでやること」と「何回もそれはうるさく言うものですから、言い出したら聞かない人ですから、不義理とは思いましたがそうさせていただきました」と。
 キタナイ奴を徹底的に嫌い、「巧言令色鮮(すくなし)仁」を遠ざけた男だった。多分、口先だけの悔やみを言いながらやって来る葬式行列に取り囲まれるのは御免だと思ったに違いない。いかにもギュウちゃんらしいなと思った。その死を日経朝刊社会面の訃報欄で知った8月8日の夜は西に向かってしみじみと盃を上げた。
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2019年08月29日

俳句日記 (522)


難解季語 (36)

やくび(厄日)

 立春から数えて二百十日目、九月一日か二日は昔から暴風雨が多い日とされていた。台風シーズンである。ちょうどこの頃、稲の花が咲き実る時期にかかり、暴風雨でなぎ倒されてしまったら、農民にとっては一年の苦労が水の泡である。国全体としても米が不作になっては一大事だ。というわけで、農家を中心にこの日を「厄日」と称した。この十日後の「二百二十日」も同じように風雨が激しくなると言い伝えられてきた。この頃は稲の晩生(おくて)の交配時期に当たる。そこで、二百十日と合わせて二百二十日も「厄日」として神仏に安穏を祈った。全国各地で産土神社には氏子が集まり「風祭(かざまつり)」や「風神祭」が行われた。今日でも米所の東北各県では神事を行う神社が多い。
 そもそも「厄日」というのは、陰陽道で十干十二支や星の巡り、さらには長年の経験をもとに、種々の災厄が降りかかって来ることの多い日を「慎むべき日」として示したものである。米作の豊凶に国の命運がかかっていると言ってもいい日本としては、稲作で最も大事な開花・授粉時期の台風襲来ほど怖いものは無い。そこで二百十日、二百二十日を「厄日」に加えた。これは大昔からの民間習俗だったのだが、貞享三年(一六八六年)幕府は官製暦(貞享暦)の中に二百十日・廿日を載せ、これによって「厄日」が官許のものとなり、それまでの種々雑多な厄日を差し置いて、これが「厄日」の代表のようになった。
 こうして「厄日」は二百十日の別名として俳句(俳諧)に盛んに詠まれるようになった。明治大正になって気象観測も初歩的ではあるが徐々に整備されてきて、天気の統計が取られ始めると、台風襲来が九月一日と十日に集中するわけではないことが判ってきた。しかし、一旦信じ込まれたものはおいそれと消えはしない。そのままずっと伝わってきた。そうしたら、「厄日なんて迷信だよ」とモボモガたちが嘯いていた大正十二年九月一日、関東大震災が発生した。浅草名物の文明開化のシンボル「十二階」が倒壊したのをはじめ、レンガ作りの西洋館がもろくも崩れ、東京、横浜が焼け野が原になってしまった。帝都と日本最大の貿易都市が潰滅してしまったのである。これで「九月一日=二百十日=厄日」が改めて人々の脳裡に刻み込まれた。
 しかしそれからもう百年近い年月が流れている。この間に「十二月八日」(一九四一年・太平洋戦争勃発)、「八月十五日」(一九四五年・敗戦日)、そして「三月十一日」(二〇一一年・東日本大震災)と途轍もない天災人災が発生し、「厄日」が九月一日とは限らないようになってしまった。
 「二百十日」という一風変わった季語は生き続けるとしても、「厄日」は最早忘れ去られようとしている。

  小百姓のあはれ灯して厄日かな     村上 鬼城
  川波も常の凪なる厄日かな       石塚 友二
  部屋ぬちに厄日の蠅のとびふゆる    井沢 正江

  木戸金具取り替へ急ぐ厄日かな     酒呑洞水牛
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2019年08月25日

俳句日記 (521)


得点の多少と句の良し悪しについて
日経俳句会第181回例会を例に

 8月21日(水)夜、日経俳句会の第181回例会がいつもの鎌倉橋交差点(千代田区内神田)のビルの8階で開かれた。この日の兼題は「秋風」と「朝顔」。出席19人、欠席投句14人から合わせて102句が集まった。6句選で句会を進めた結果、中嶋阿猿さんの「朝顔を褒めて一礼配達員」が14点という稀に見る高点を得た。次席は久保田操さんの「陽の欠けら拾ふ川面の秋の風」の10点、三席は向井ゆりさんの「転校の子の朝顔も持ち帰り」が9点で続いた。
 しかし私はこの3句、いずれも取らなかった。いずれも悪い句ではない。これほど大勢に支持されたのだから、良い処を沢山持っている佳句であることに異論は無い。ただ、3句ともに首を捻ってしまうところがあるのだ。
 「天」の「朝顔を褒めて一礼配達員」は「一礼」がどうかと思う。もしかしたら本当にお辞儀をして帰っていった珍しい配達員だったのかも知れない。しかし、事実と俳句の「事実」とは違う。事実をそのまま詠んでしまうと、却って事実らしくなくなって、わざとらしさが出たり、ウソっぽい、作り物のような感じを与えてしまうことがある。その見本を示してくれたような句である。
 「地」の「陽の欠けら拾ふ川面の秋の風」は「拾ふ」が良くない。朝か夕方か、とにかく斜めになった陽射しが川面を照らし、波がきらきらと輝く。それを「陽の欠けら」と詠んだところはいい。散歩の作者がそれを「拾ふ」と言うのである。合評会では「川面が拾っているのだ」「いや、秋風が拾うのではないか」との意見も出たが、そんな擬人法をここに挟んだら、それこそこの句は終りであろう。やはり、川岸に沿って秋風を楽しみながら歩く作者が陽の欠けらを拾うと読み取らなければこの句は取り柄が無くなってしまう。
 しかし川面の乱反射は「拾ふ」に相応しいものかどうか。「拾ふ」という主体性を持った動詞を置くことによって、この句は単なる叙景句から叙情の領域に踏み込んでいるが、さてその「情」とは「感慨」とは何か。ここで、この句は良く分からない句になってしまうのだ。余りにも措辞に凝り過ぎたとがめが出たと言わざるを得ない。
 「人」の「転校の子の朝顔も持ち帰り」は、3句の中では最も素直な詠み方で、私はもう少しで取るところだった。しかし、「の」がこの句をあやふやにしている。「子の」の「の」である。私は、これを主体を示す「の」と取ってしまった。格助詞の「の」はいろいろな役割を果たすが、現代語の「が」と同じように主体を表す場合がある。「虫の鳴く」「朝顔の咲く」といった具合である。そしてこの句を、秋の新学期から転校してしまう子が、学校に置いてある参考書や教材などあれこれと共に「朝顔の鉢も」抱えて去った、と受け取ったのである。皆と別れる寂しさ悲しさを堪えて、小さい身体で、精一杯胸を張って、弁慶が七つ道具を引っ担いで行くように・・、という様子を思い浮かべて、なかなかいいじゃないかと思ったのである。そうしたら、作者の説明では、夏休みに入るに当たって、転校した子の朝顔がぽつんと置かれていたので(このままでは枯れてしまうと)一緒に持ち帰った情景なのだそうだ。つまり、この「の」は所有を示す「の」なのである。このあたり、言葉遣いにもう一工夫あるべきではなかろうか。
 水牛がこの日選んだ句は、
  合宿の日焼けの腕に秋の風     実千代
  絵日記に朝顔の数増える日々    昌 魚
  朝顔の開花記録を自由帳      双 歩
  朝顔の色水つくりおままごと    実千代
  八月や戦争のこと父母のこと    双 歩
  敗戦忌あの田この田も出穂す    てる夫
の6句。概ね無難な句で、句会で高点を取るような句ではない。案の定、ぱらぱら点が入った程度だったが、いずれも実に素直な詠み様である。これら6句の中で私が最も良いと思ったのは最後の「敗戦忌あの田この田も出穂す」である。これは私しか取らなかったのだが、今日も昭和20年8月15日と同じように稲穂が顔をのぞかせているとさりげなく詠んで、爾来74年の来し方を深く考えさせられる。実は水牛はこの日、
  炊飯器スイッチぽんと敗戦忌
という句を出して、なんと7点も頂戴した。この句も言わんとするところは「出穂す」と同じである。大坂在住の、日頃かなり毛色の変わった句を詠んで周りを騒がせるヲブラダさんが、「こんなにさらりと戦後の歴史、平和、日本の経済成長を詠めるとは驚きました」と賛辞を寄せてくれたが、これは過褒とも言うべきで、上五中七が意表を衝いたための高得点であろう。句柄から言えば、当然「出穂す」に二歩も三歩も譲らざるを得ない。
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2019年08月22日

俳句日記 (520)


難解季語 (35)

処暑(しょしょ)

 処暑は二十四節気の一つ。立秋から十五日後(年によって一日ずれる)で、旧暦七月の中気、新暦では八月二十三日頃になる。太陽が黄経一五〇度とやや傾き、暑さが一段落という頃合いである。
 「処」という字は「とまる、居る、おちつく」という意味。立秋から半月たち、暑さがようやく落ち着く時期となる。「処」は几(台)に足を乗せる(腰をおろし足台に足を乗せて休む)という会意文字で、こんなところからも「処暑」という言葉にはほっとする気分が込められているように思う。
 確かにこの時期になると朝晩は少し涼しい感じになり、ほっと一息つく。しかし日中はまだまだ暑く、真夏日が再三ぶり返す。芭蕉が『奥の細道』の金沢で詠んだ句に有名な「あかあかと日は難面もあきの風」がある。芭蕉が金沢に入ったのは元禄二年(1689)七月十五日、今の暦だと八月二十九日になる。まさに処暑の真ん中である。照りつける太陽にうんざりしながらも、吹く風にわずかに秋を感じてほっと息をつく芭蕉が見える。
 地球温暖化が言われるようになった近ごろ、残暑傾向が年々強まっているように感じる。ことに令和元年の今年の夏はまさに異常で、八月に入っても連日の猛暑日だった。それでも処暑の声を聞く今日あたり、朝晩はちょっぴり秋の気配の風が吹いたりするようになった。
 しかし、日中と朝晩の気温変化が際立つようになると、夏の疲れがどっと出て来る。年寄りや子どもが体調を崩し、寝込んでしまうことも珍しくない。季語としての「処暑」には、このように本格的な秋を迎える頃の変わりやすい季節感も盛り込まれている。
 「処暑」の十五日間を五日ずつ区分けした七十二候は次のようになっている。
初候(新暦八月二十三日〜二十七日)は「鷹鳥を祭る」(中国の暦を日本の風土に合わせて改良した宝暦曆では「綿花しべ開く」としている)。次候(二十八日〜九月一日)は「天地始めて粛す」(大気も地熱も落ち着く)。末候(九月二日〜七日)は「禾乃登(かすなわちみのる=稲が実る)という具合である。秋への季節の移ろいがきめ細かく表されている。

  処暑の僧漢語まじりにいらへけり     星野麦丘人
  山を見ていちにち処暑の机かな      西山  誠
  水平にながれて海へ処暑の雲       柿沼  茂
  石臼の今は踏み石処暑の風        齋藤 和子
  音すべて大樹に吸はれ処暑の宮      大塚 正路

  陀羅尼助噛みつつ処暑の田舎駅      酒呑洞水牛
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2019年08月19日

俳句日記 (519)


敗戦忌に思う(3) ガーデン山の防空壕

 「ここに鉄筋コンクリートの立派な防空壕がありましたよね、実は私も入らせてもらったんですよ」とニイクラ酒店のオヤジさんが我が家の裏手の崖を見上げながら言った。遥か遠くを見るような眼差しである。それはそうだ、もう74年も前の話である。オヤジさんは私より1歳年上、子供の頃から知ってはいたが、一緒に遊んだことはなかった。なにせこちらは「ガーデンの坊ちゃん」であり、出入りの酒屋のセガレでは親しく口をきけなかったのである。それが戦後、横浜ガーデンが破算、我が家が貧窮のどん底に喘いでいた頃、ニイクラ酒店は味噌醤油はじめ調味料を戦前と同じようにツケで売ってくれて、支払いを猶予してくれた。以後、すっかり仲良くなって、今でも我が家は決して安売り酒屋などには行かず、毎月六升の清酒を買い続けている。
 さて、その防空壕。私の祖父幸次郎の指示でガーデン山のあちこちに構築したたものである。祖父は明治維新のどさくさに生まれ、まともな教育など受けなかったのに、世の中の動きを見通す力を持った人だった。若くして米相場と株で巨万の富を築き、それを元手にいろいろな事業を起こした。
 大正半ばに、横浜の山10万坪を買って、植物園と動物園のある理想的な田園住宅地「横浜ガーデン」の開発に着手したのだが、これは他の事業の片手間に、自分の隠居所作りを兼ねた道楽の一つだった。ところが息子二人が極めつきの不出来で、やらせた事業は全てものにならず、結局はこれが本業となった。しかしそれも戦火が急を告げて不急不要の花卉園芸業など立ち行かなくなってきた。昭和15年、祖父は脳梗塞に見舞われ、立ち居振舞いが不自由になり、少々言語障害にもなっていたが、第一次大戦以降の戦争騒ぎの動きを見ながら、息子達に保存可能食料の開発、収穫量の多い優秀農作物品種の選抜育成、多産系の豚や兎などの品種改良などを指示する一方、この山の要所にいざという時のための退避壕を掘っておくように言った。「チャンコロ征伐はもうすぐ終わる」とか「米英何するものぞ」と国民の大多数が思い込まされ、ついに「大東亜戦争」に踏み切った昭和16年末のことである。その翌年に祖父は74歳で亡くなったのだが、防空壕の世話にならなかったのがむしろ幸いだった。
 昭和18年も後半になると国内各所に空襲があり、19年には「防空壕」が必需設備となった。下町が空襲で焼かれた場合の住民の退避先としてガーデン山に眼を付けた軍部の要請もあったのだろう、祖父の言ったことを本気で進めることになり、横浜ガーデンの事業として山の要所要所に横穴式の防空壕を作った。一銭の利益も生まない事業だったが、幸か不幸かそれが見事お役に立ったのである。
 とにかく、昭和20年5月29日の大空襲の業火の中を、ガーデン山の麓からてっぺんの「上のウチ」まで約500メートルの坂道を、2歳の弟を背負い、5歳の妹の手を引いて何とか逃げおおせたのも、この防空壕のおかげだった。その時の私は国民学校二年生になったばかり、あと3日で8歳という、傍から見れば何とも頼りないガキだった。
 ふらふらよろよろ、昼間なのに焼夷弾の燃える油煙であたりは真っ暗。青々と茂っていた桜並木が大きなタイマツのようにぼうぼう燃えて、それが照明の役を果たしている。その下の道路の端には幅と深さが60センチほどの御影石造りの側溝があった。底には山の上の方からいつも水がちょろちょろ流れていた。そこに入って、のろのろと這い上って行く。普段は泣き虫の妹も歯を食いしばって私の手をしっかり握ってついて来る。背中の弟は声も立てない。前後には焦熱地獄となった下町から逃げて来た人たちが蟻のように繋がっている。
 機銃掃射だろう、時折、シュッシュッ、ババババッという音がする。ドンッという音とともにまぶしい光が射した。直ぐ近くに爆弾が落ちて破裂したのだ。ヒュルヒュルという不気味な音と一緒に火の玉を降らせる焼夷弾が引っ切りなしに落ちてきては辺りに油脂をまき散らす。それに火がついて、燃える筈の無い地面が大きな炎を上げて燃え盛る。その辺りを側溝からはみ出た人がよろよろ這いずり廻る。地獄絵図そのものであった。
 側溝の蟻の列が動かなくなった。前の方で、機銃掃射にやられた人がいたのか、詰まってしまったのだ。しょうがないから、ようやっと道の上に這い出して、今度は遮蔽物の何も無い坂道をよたよた登る。動けなくなりそうになると、近くの崖に掘ってある防空壕に飛び込む。
 二つめか三つ目の防空壕の所で、追いついてきた母に出会った。必死の消火作業も空しく、我が家は全焼、「お父さんはあなたたちを探しながら別の道を行った」と言う。これでとにかく私たちは助かったが、別の道を辿った父は直ぐそばに落下破裂した爆弾で大やけどを負った。
  泥の溝這ずりしこと敗戦忌
posted by 水牛 at 00:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする