2017年06月17日

俳句日記 (344)

ステテコ

 若い頃からステテコを愛用している。夏はことにいい。パンツ一枚でズボンをはくと腿や膝が汗ばんでべたつき、足捌きが悪くなる。純綿のステテコが一枚噛むことで、ズボンが直に肌にくっつかず、足首から太腿まで煙突状の空間が生じる。これで空気が通いやすくなるから気持がいいのだと、勝手に解釈している。
 しかし猛暑に遠出したり畑仕事をやると、さしものステテコも汗でぐっしょり濡れ、膝や太腿のところで肌に張りつく。そういう時に、何かの拍子で身体を捻ると、ステテコがびりっと裂ける。汗掻いては洗濯を繰り返し、ステテコは酷使されっぱなしだから、劣化が意外に早いのだ。
 「あらもう切っちゃったの」
 「切っちゃったんじゃない、切れちゃったんだ」
 そんなのどっちだって同じでしょという顔をして、山の神は東急ストアに買いに行く。買って来てはくれたが、ちょっと憮然としている。
 「下着売場の女性店員にステテコ頂戴って言ったら、通じないのよ」
 「へぇー、おかしいねえ」
 「その子、そばの男性店員に聞いてこっちを振り向いて、ああ、長ズボン下ですね、なんて言うの。それでね、男の店員が昔はステテコって言ったんだよって教えているの。だから、そうよ私はオバアサンですからねって言ってやったの」
 そうか、ステテコはついに死語になってしまったのか。飄逸なステテコという名前は中々いいのに、どうして使われなくなってしまったのだろう。
 明治初年、落語家の初代三遊亭円遊がだぶだぶの下ばきで高座に上がり、滑稽な踊りで喝采を博した。初代円遊は大きな鼻の持主で「鼻の円遊」とも言われていたそうだ。そこで、踊りながら嫌なものを振り捨てるような仕草で、看板の鼻をもぎ捨てるふりをした。この所作がおかしくて大いに受けた。そこから「捨ててこ、捨ててこ」という言葉が生まれ、珍妙な長下ばきをステテコと言うようになったと言われている。とにかく、ステテコの語源は円遊にあることは確かなようで、それほど下品と言うわけではないし、差別用語でもない。わざわざ「長ズボン下」などとバカらしい言い換えをしなくても良さそうなものだ。
 ステテコは昭和に入る頃には日本男児の下ばきの定番になっていた。戦後も大いに流行り、「柴又の寅さん」がダボシャツとステテコ姿で人気を呼び、下町のオジサン、兄さん達の夏場の普段着でもあった。赤塚不二夫の人気ギャグ漫画「天才バガボン」のパパもこの恰好である。寅さんやバガボンのパパ、そして下町のオジサンたちのユニフォームともなったが故に、若者世代から「ダサイ」とそっぽを向かれたのであろう。一時、ステテコは全く売れなくなってしまった。
 それが近ごろは人気を取り戻し、若者向けに柄モノのステテコや、女性用まで出来ているという。それら“新種ステテコ”には「リラコ」とか「女子テコ」とかメーカーごとにいろいろな名前が付けられているらしい。若い女子店員が分からなくなってしまうのも無理からぬ状況になっているのだ。
 しかし、こうした小なりといえども日本文化の端っこを担っている「ステテコ」という名前は大事にしてほしいと思う。何しろ俳句では「すててこ」は立派に夏の季語として立てられているのだ。
  すててこが回覧板を持って来る
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2017年06月01日

俳句日記 (343)


傘寿

 六月一日、満八〇歳になった。山の神と寝太郎が上等の鰻で祝ってくれた。新聞記者という稼業を始めて以来六〇代初めまで、無茶苦茶な暮らしを続けた。とは言え、仕事ばかりしてきたわけではない。そんな偉そうなことはとても言えない。大半の時間はぐたぐたと遊び惚けて飲んだくれての放蕩である。夜更かし朝寝坊が癖になってしまった。
 たまに真剣に働かねばならぬ場面にも遭遇する。もとよりここを先途と駆けずり回り、まあまあそれなりの働きを示す。すると覿面、鈍った身体が言う事を聞かず、心臓が早鐘のように鳴り、ぶっ倒れてしまったことも再三であった。
 それやこれやで、五〇歳になった時には心底、「七〇歳まで生きられるかなあ」と思った。それがなんと、いつの間にか、それを10年も超えてしまったのだ。我ながら驚いてしまう。
 そうなると図々しいというか、甘えと言うのか、急に死にたくなくなって、「あと10年は」なんて考え始める。これほど好きな物を好きなだけ食べて、大酒を吞んで「九〇歳まで」なんて言うのは欲ばり過ぎであろう。閻魔様が赤い顔をなおさら赤くして眼を剥いているような気がする。
 だから、これからはもう少し控え目に、一年ずつ生きていこうと思う。そう言いながら、今日は殊の外物思うことが多くて、いつの間にか四合吞んでしまった。
  八〇歳回り灯籠めくるめく
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2017年05月31日

俳句日記  (342)


京浜急行電車(その2)

 横浜駅から北品川駅までを普通電車で走破する試みは実に面白かった。5月27日土曜日午前11時11分、横浜駅発の四両編成普通電車に乗り込む。
 車両の外側は赤い塗装の横腹に白線が一本入った真に垢抜けないものである。この「赤色」が京急のイメージカラーなのだという。いっそのこと消防自動車のような真っ赤っかならいいのに、少し小豆色がかり、それが長年の間に煤けて、なんとも暑苦しい。車内は前後部にそれぞれ向かい合わせ四人掛けのボックスシートが二組ずつあり、中央部分は四つのドアで中断されている横長シート。壁はピンクのデコラ張り、座席シートは臙脂色で、座席の端についている肘掛け付きの側板はブルー。どういう脳味噌がこういう配色を生み出したのだろうか。これに加えて種々雑多な色彩の中吊り広告がひらひらする。色盲検査でもやられているんじゃないかと思うばかりの驚くべき色遣いである。しかし、数分で次の駅に着くという鈍行に揺られて行くうちに、不思議なことにこの車内がなんとも言えないあっけらかんとした感じの、くつろいだ気分をもたらすのだった。その昔、海釣りの船に乗るために金沢文庫駅からとことこ小柴漁港に行って船宿に泊まった。ベニヤ板壁に女優のブロマイドやら風景写真やらが乱雑に貼られた魚臭い船宿の雑魚寝を思い出した。
 ビーッと発車合図が鳴って横浜駅を発車、あっと言う間に「神奈川」に着く。乗降客はほんの数人。ドアが閉まって走り出すと、あっと言う間に「仲木戸」。奇妙な名前だが、これは旧東海道神奈川宿の中間の木戸があった所だからこういう名前がついたのである。JR東神奈川は歩いてすぐのところにある。ドアが閉まって走り出し、あっという間に「神奈川新町」。ここは江戸からやって来て旧神奈川宿に入る所だ。ここで我が普通電車はエアポート急行の通過待ち。次は昔の漁村「子安」、その次は「京急新子安」。この駅は昔は無かったのだが、国鉄の新子安が開業すると、やはり輸送力の違いで、京急の子安駅より乗降客が多くなった。そこで国鉄の新子安に添わせる形で駅をこしらえ、「京急の新子安」とした。
 次は「生麦」。幕末、横浜居留地から散策で馬を走らせて来たイギリス人商人たち男女が薩摩藩主の行列を遮ったために、激高した薩摩藩士にぶった切られて大問題になった生麦事件跡や麒麟麦酒工場がある。次は「花月園前」、戦前は遊園地として賑わい戦後は長らく競輪場で大勢の人を集めたが、競輪人気の凋落で閉園。従ってこの駅の乗降客は極めて少数。次は「京急鶴見」。ここでエアポート急行待ち合わせ、続いて快速特急の通過待ち。四,五分停まって、やおら動き出し、「鶴見市場」「八丁畷」と停まって、ようやく「京急川崎」に着いた。
 こんな具合にして、電車は走ったと思う間もなく次の駅に止まり、三駅四駅ごとにエアポート急行やら特急、快速特急に抜かれる。川崎を出てからは、「六郷土手」「雑色」「京急蒲田」「梅屋敷」「大森町」「平和島」「大森海岸」「立会川」「鮫洲」「青物横丁」「新馬場」と、ルビを振ってもらいたいような見知らぬ名前の駅に次々停まって、ようやく「北品川」である。横浜と北品川を含めてなんと24駅もある。結局、北品川まで行くのに50分かかった。平行して走っているJR京浜東北線は横浜から品川まで8駅27分、東海道線だと横浜の次は川崎で次が品川、所要16分である。
 これでは三浦半島や横浜からの客をJRに奪われてしまうのは目に見えている。しかし、昔のチンチン電車と同じように、地域の客をこまめに拾っては降ろして行くのも重要な営業であり、京急の特色であるから無碍に切り捨てられない。というわけで、普通を温存しつつ急行、特急を作った。さらに、横浜品川間を東海道線より早く16分で飛ばす快速特急を走らせた。JRは小癪なりとばかりに近ごろは16分で走らせるようになった。さらにさらに、京急の売り物は「飛行場との直結」。羽田空港へはもともと羽田線があるからお手の物だが、最近は京成や北総線などと組んで成田空港へも行けるようにしている。これが「エアポート急行」であり、「エアポート快速」である。
 このように運航速度も停車駅も違う電車がひっきりなしに入り混じって走っている。京急のダイヤ編成担当者は天才だなあと感心する。快速特急に乗っていると、前の電車に追突するんじゃないかとひやひやするような、これでもかという走り方をする。左手を東海道線上り電車が走って来ると、子どもたちは「ガンバレ−、抜き返せ−」と大声上げる。すると、その通り、がむしゃらに抜き返すのだ。
 その一方でわずか20qを50分かけて行く普通鈍行。京急電車は本当に面白い。

 夏風のほどよき各駅停車かな
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2017年05月29日

俳句日記 (341)


京浜急行電車(その1)

 5月27日土曜日、北品川へ行った。ここから南西方向へ青物横丁の南品川までが旧東海道の品川宿で、今も旧道がほぼ残っている。徳川家康が秀吉の命令で駿河から江戸に移ったのは天正18年(1590年)だが、それまでの江戸は小田原に本拠を構えていた北条氏が治め、そのさらに以前、室町時代の応仁・文明年間(1457〜1486)は太田道灌が一帯を抑えていた。
 道灌は江戸城を造るまでは北品川の山側、御殿山に館を築き、紀州海賊の出で品川湊を牛耳っていた豪族鈴木道胤を味方に付け、兵力財力を養い、関東一円攻略の策を練っていた。今では道灌の余韻を感じさせる遺構、遺跡などはほとんど無いのだが、所縁の御殿山と品川神社、青物横丁の品川寺(ほんせんじ)などを初夏の風に吹かれながら道灌研究の友人たちと見て回った。
 さて、京浜急行電鉄の北品川駅は普通電車しか止まらない。横浜からだとJR東海道線で一足飛びに品川まで行き、京浜急行で一つ戻れば三十分足らずで行ける。しかし、行って戻るというのが何となく面白くない。折角だから横浜から北品川まで普通に乗って行こうと決めた。実は横浜に生まれて80年、京急には数え切れないほど乗っているが、鈍行で品川へ行ったことは一度も無い。毎日大したことをやっているわけではない。俳句や家庭菜園などで忙しがっているが、実際には時間は山ほどある。乗車時間が少々長くなっても大した問題では無い。
 というわけで、仲間との北品川での待ち合わせは12時50分だったが、横浜発11時11分の普通電車四両編成品川行きに乗った。
 京浜急行電鉄(京急)は、日本で三番目、関東地方では最初の電気鉄道会社として1899年(明治32年)に開業した(一番は明治25年の京都電気鉄道・大正7年京都市電になる)。旧東海道の多摩川六郷の渡しを渡った川崎宿六郷橋から川崎大師までの二キロ(現京急大師線)が発祥で、六年後の明治38年に本線の品川(現在の北品川)横浜間が開通した。
 現在、JR京浜東北根岸線が横浜・品川間で京急とほぼ平行して走っているが、この東京横浜間が開業したのは東京駅が出来た大正3年(1914年)だから、京浜間をつなぐ電車としては京急の方がずっと先輩である。そのため、事あるごとに私鉄を見下す国鉄(今はこれもJRという私鉄になったのだが、相変わらず威張っている)も、京浜線(現京浜東北根岸線)の駅名では京急に遠慮せざるを得なかった。京急の横浜駅から品川方面へ一つ目は「神奈川」。ここは東海道神奈川宿のあった場所である。国鉄はそこから三百mほど北に京浜線の駅を作った。ここの方が神奈川宿の本陣のあった地点に近いのだが、神奈川を名乗るわけにはいかない。やむなく「東神奈川」と付けた。その一つ先の子安も既に京急が使っている。しょうがないから「新子安」と名乗ることにした。八の字髭など生やしてふんぞり返った鉄道省の役人の、面白くなさそうな表情が浮かぶ。
 明治以降、昭和時代末期まで百余年、京浜地帯の海岸はどんどん埋め立てられ、新たな商工業地帯が生まれた。今では京急は市街地を縫っているが、昭和30年代までは潮の香漂う海が近いことを感じさせる電車だった。東海道・京浜東北線より一側海寄りを走る京急は、漁村や京浜工業地帯の真ん中を走る「庶民の電車」だったのである。
 例えば鶴見、川崎辺りを上げれば、京急、東海道、京浜東北の走っている線路の西側(山側)と東側(海側)とでは、駅周辺の土地は別として、地価が格段に違う。だから家賃も海側が安く、山側が高い。住民も山側は官員(上級公務員)、上級職業軍人、高級サラリーマン、大学教授、著名芸術家などであり、海側は工員(現場技術者)、職人、小商人、果ては日傭い、自由業の流れ者といった区別が劃然とあって、それは今でもなんとなく続いている。
 というわけで、京急沿線には昔の言葉で言えば工員、職人、日傭い、自由業、インテリの勤め人でも安月給の若手社員が住む。これが今でも相変わらず続いている。最近はこれにアジア系や中南米系の外国人が加わる。だから京急には庶民の電車といった雰囲気がある。短パンにベトナム草履なんてのは当たり前、もう少し薄目の化粧をすればどんなに素晴らしいだろうかというような娘さん、世の中何もかも面白くねえと髪を逆立てているスタジャン兄さん、赤ん坊乗せたベビーカーを押して乗って来るなり、その足元に座り込んでしまう若夫婦。
 同じく横浜から山側を縫って東京に行く東横線とは随分違う車内風景である。京急でも快速特急という三浦海岸から金沢文庫などを通って、横浜、川崎、品川までぶっ飛ばす電車は、郊外ベッドタウンに住む都心勤務の高級サラリーマンや新興成金が乗るから、東横線と似通った空気の、ちっと嫌らしい感じを漂わせている。これは同じ京急でも違う電車であり、京急の本質は「普通電車」に息づいている。
  膝小僧むき出すジーパン五月の娘
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2017年05月21日

俳句日記  (340)


竹の子の馬鹿力

 裏庭の敷石に覆い被さるように雑草が伸びて来たので、21日、30℃の暑さの中、勇猛心を振るって草むしりを始めた。生協の兄さんが我が家に荷を下ろした後、ここを通って隣の亡兄の家へ配達しているので、歩きにくくては気の毒だと思ったのである。
 やって良かった。裏の崖際に、上の一般道からの目隠しに大名竹が植えてあるのだが、その地下茎がいつの間にかこの通路の下に伸びてきていて、タケノコをにょきにょき生やしているではないか。敷石の間の4,5センチの隙間や、周囲に七,八本生えていた。30キロはある敷石を持ち上げているのもある。
 タケノコの先っぽが、伸びたドクダミや歯朶の間から顔をのぞかせている。もっと伸びてしまえば人目にはっきり触れるから避けることができるが、敷石から数センチ上という今頃が一番危険である。雑草に紛れてよく見えないのだ。竹皮を被っているからとても強く、知らずに足先を突っかければかならず転倒する。注文品を詰めたケースやトロ箱を山のように抱えて、前がよく見えないまま小走りにやって来た生協の兄さんが、タケノコにつまずいてずってんどうと引っ繰り返る。全てをぶちまけてしまい、惣菜やらスパゲティやらトマトケチャップを浴びてよろよろ立ち上がる地獄絵が頭に浮かんだ。
 これは何とかしておいてやらねばと、重い敷石を持ち上げ片寄せて、タケノコの回りを掘り始めた。具合の悪いことに道の付近はぬかるみを防ぐために小石や砂利が埋め込まれているから、シャベルが思うように入らない。
 苦心惨憺、掘り進むと、なんと、タケノコを生やしている地下茎は敷石2枚分どころか、4枚も5枚も左右にずっと続いているようである。深さ30センチくらいのところを走っており、強力な髭根を張り巡らせ、二節三節おきくらいにタケノコを出したり、まさにこれから芽生えようとしていたりする。丸ノ内線の下に半蔵門線が走り、それとぶっ違いに都営新宿線が走るといった塩梅で、竹の地下鉄が3段階になって走っている。見ただけで気が遠くなった。
 ぼうとなった禿頭を拭い、OS-1をごくごく吞み、リポビタンDも吞んで、再度挑戦。これを何回か繰り返して、ざっと2時間。長さ2メートル、幅1メートルほどの範囲の地下茎6本を引き抜いた。もうこれが体力の限界。
 地下茎は左右にまだ伸びている。どこまで伸びているのか分からない。どこからまたタケノコが生えて来るか分からない。
 しょうがない。生えたら生えた時のことだ。これでも中心部分を2メートル切断したのだから、親竹から送られる栄養分は、残った左右の根っこには伝わらない筈だから、成長が止まり、上手くすれば立ち枯れるのではないか。こう楽観的に考えて手仕舞った。
 アメリカと日本がいくら息巻いて貿易を停止し、送金を差し止め、在外資産を凍結したりといった制裁を課しても、キム・ジョンウンさんは蛙の面になんとやら、どっかから栄養分を貰って相変わらずミサイルを打ち上げている。このしぶとい竹の根っこも似たところがあるようではある。

  指ほどの竹の子敷石持ち上ぐる
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2017年05月18日

俳句日記  (339)


そよぐオリーヴ

 庭先のオリーヴが五月の風にそよいでいる。オリーヴの葉は表はくすんだ緑で裏は白っぽい。そこに細かなうぶ毛がはえていて、初夏の日に光を受けると銀色に輝く。風で枝が揺れると細かな葉が表を見せたり裏をのぞかせたりして、光り方がさまざまに変化する。
 これは昨年春三月に高さ1メートル強の、もう立派な木とも言える大苗を買って来て植えたものである。1本6800円もするのを3本買って1メートル間隔に並べて植えた。威勢良く伸びて1年でもう水牛の背に届くほどになった。嬉しいことに、真ん中の一本が一昨日16日から花を咲かせ始めた。しかし両隣の木は蕾すら現れていない。
 そもそも何故狭い庭にかなりのスペースを取って3本も植えたのかといえば、オリーヴは他の木の花粉を貰わないと実を結ばない自家不結実性という厄介な性質の植物だからである。自らの雄蕊の花粉は他の木の花の雌しべにくっついてその木に実を成らせ、他の木からもらった花粉で自らの木に実をつける。しかも出来ることなら品種の異なる木を混植した方が受粉の可能性が高まるという。
 つまり品種の異なるオリーヴを何本か植えればいいのだが、花期が揃わなければ困る。違う品種でしかも花期が同じのものはどれか。サカタガーデンセンターで聞いた。売り子は困って、奥から専門家とおぼしきカーキ色の仕事着を着たお兄さんを連れて着た。
「確かにオリーヴにはそういうことがあると言われてますよね」
「どれとどれを組み合わせればいいかね」
「さあてね」。なんだか自信が無さそうである。
「おいおい、大丈夫かね」
「まあ、適当に3本組み合わせて植えれば、その内に花期は大体揃って来るもんです。良さそうなのを選んでもらえばいいんじゃないですか」
 なんだか頼りない応対だが、枝振りのいい、威勢の良さそうな3本を選んで、これでどうだろうと聞いたら、いいでしょうと言う。
 ハーディーズマンモスというギリシャ原産の木、SAヴァーダーという南オーストラリアの木、ミッションというカリフォルニアの木である。
 この中のSAヴァーダーという南豪州で改良育成された木が花咲いたのである。しかしハーディー君とミッションちゃんは知らん顔である。よしんばこの二本が咲いたとしても、その頃にはヴァーダー君は散ってしまっているのではないか。作物には全てワセ、ナカテ、オクテがあり、もしかしたらその三種類をばらばらに植え付けてしまったのではないか。やっぱり、あのサカタのあんちゃんは全く何も知らないくせに「だいじょぶです」と言いやがったのではないか。だとすると未来永劫、この三本はそれぞれ違う時期に空しく花咲かせ、実らぬまま散ってしまうのではなかろうか。
 薫風にそよぐオリーヴを眺めながら、「オリーヴの銀葉ひかる薄暑かな」などと気取ってはみたものの、内心穏やかではない。
 この句は5月17日の句会に出したところ、望外の最高点に選ばれたのだが、「ひかる、というのが安易ではないか」「銀葉という言葉はあるのだろうか」などの注文がついて、結局のところは、
 オリーヴの銀の葉裏の薄暑かな
という形に落ち着いた。この上は、一日も早くハーディーとミッションが花咲いて花粉のやり取りをしてくれることを願うのみである。
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2017年05月13日

俳句にならない日記 (3)


最重要課題

 脳内の配線が掛け違っているとしか思えない夫人のことはさておき、我らが日本国の総理大臣安倍晋三閣下の思考・行動もかなりおかしいと思わざるを得ない。
 北朝鮮がどう出て来るか、野党大統領が誕生した韓国との関係をどうしていくのか、「共謀罪」の取り扱いをめぐり紛糾している組織的犯罪処罰法改正はじめ諸々の重要法案を審議中の国会をどうするのか。こうした重要問題が山積する大変な時期に、なんと安倍総理大臣はイタリアで行われるG7首脳会議の帰りにマルタ共和国を訪問するという。
 マルタというのは地中海のシチリア島の南90キロほどにある島国で、面積は東京23区の半分ほど、人口は40万人のミニ国家である。めぼしい産業は無く、気候温暖・風光明媚を売り物に昔はイギリス人、今はドイツ人の避寒・避暑地として栄えている。
 マルタは現在の日本国が差し迫った問題を抱える相手国では全く無い。こういう平和なEU加盟の一小国との友好を深めるのは悪いことではないのだが、超多忙な日本国総理大臣が、国会開催中に国会審議をすっぽかして丸一日費やす必要があるのかどうか。大いなる疑問が湧く。もしかしたら配線のおかしな夫人の要望に引きずられたものなのではないか、といった勘繰りも生じる。
 「デフレ克服は安倍政権にとっての最重要課題」「東北の復興無くして日本の未来はない。東北復興は安倍政権の最重要課題」「北朝鮮拉致被害者の帰還実現は安倍政権の最重要課題」
 「最重要課題」をやみくもに掲げ、誠心誠意頑張っておりますということを声高らかに言うのだが、何年経っても一向に実現されない。「まくし立てるだけ」の4年間である。これでは縁日の「ガマの油売り」の口上と同じではないのか。
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2017年05月05日

俳句日記 (338)

苗植える

 昼過ぎサカタガーデンセンターへ苗を買いに行く。胡瓜は小型だが沢山なる「フリーダム」2本、伝統的な「よしなり」と、新品種の「夏ばて知らず」各1本の計4本。茄子は昔からの「黒福」2本と長茄子の新品種「夏豊作」1本の合わせて3本、トマトは大玉の「つよまる」2本と中玉のシンディースイートとミニトマトのアイコを1本ずつの計4本。
 これらの苗は全て「病害虫に強い」という触れ込みの接ぎ木苗。カボチャや夕顔など頑丈な台木に接いだ苗で、手間が掛かっているから高い。一本400円もする。まとめ買いや会員カードの呈示により割引きになったが、それでも3900円ばかり支払う。これに鶏糞、牛糞、腐葉土など有機肥料を買い込んでいるから、投下資本はかなりになる。手間暇と汗水流した労力は勘定に入れないまでも、採れる胡瓜、茄子、トマトの単価はかなり高くなるはずだ。しかし、自分で作った胡瓜や茄子の味わいは格別である。金勘定を度外視出来る喜びがある。
 これらの苗を、昨日までに耕して肥料をすき込んである庭のほぼ中央のざっと20uの菜園に植えた。植えたばかりの苗はまだ小さくて弱々しい。20uの広さに11本ではなんともまばらな感じである。もっと植えられる感じがして、植えたくなってしまう。ここを我慢するのが素人園芸の成功の秘訣なのである。
 やがて育って来ると、胡瓜は上へ伸びるからまだしもだが、茄子とトマトは枝葉を大きく広げる。直径1メートル以上に広がる。そうなった時に隣の株と枝葉が重なりあってしまうと、風通しが悪くなり蒸れてしまう。真夏の暑さでたちまち病害虫が蔓延し、全てがおじゃんになる。素人園芸の失敗の最大の原因は「植えすぎ」である。分かっていながら、ここにもう一本植えられそうだな、なんて苗を買って来てしまうのが人情というものである。
 それにしても今日のサカタガーデンセンターの混雑ぶりには驚いた。普段は一つか二つしか開いていないレジが今日は5口も開いているのに、長い行列が店内中にとぐろを巻いている。ざっと百人もの行列だ。
 草花の鉢を買う人が目立つが、真夏の陽ざし除けを兼ねた「グリーンカーテン」向きのゴーヤ苗を買い物籠に入れている人が多い。胡瓜、茄子、トマト苗もかなりの人気である。猫額の庭でもマンションのバルコニーでも、何とかして育てたいと願う人が多いのだ。豊葦原瑞穂の国、IT時代になったとは言え、やはり日本人の身体には農耕民族の血が流れているようである。
  茄子胡瓜植えて連休過ぎにけり
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2017年04月09日

俳句日記 (337)


人は城

 4月8日土曜日、俳句の仲間総勢10人で八王子城址を歩いた。前日から降り続いていた雨が午前9時過ぎには止み、ほぼ満開のソメイヨシノ、花桃、トサミズキや、名残の藪椿がぼうっと霞む、丘陵を散策するにはうってつけの日和だった。
 八王子城は後北条氏第4代北条氏政の弟氏照が築いた戦国時代屈指の名城と言われた山城である。関東一円をほぼ手中に収めた後北条氏は、甲信を抑える武田氏、越後から北信に威を張る上杉氏、駿河の今川氏を睨んで、小田原に難攻不落の小田原城を築いた。そして、北西の武田勢への備えに八王子城を、北方の上杉勢に対して埼玉県寄居町に鉢形城を作り、氏政、氏照、氏邦の兄弟三人で強固な防衛ラインを敷いたわけである。
 こうして盤石の体制が出来たと安心したせいか、成り上がり者の豊臣秀吉を馬鹿にしきって外交努力をなおざりにしたせいか、後北条氏はこの三兄弟の時をピークとして、次の第5代氏直であっけなく滅びてしまった。天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が発した「小田原征伐」号令による連合軍に攻められ、小田原城、弟氏邦の守る鉢形城(埼玉県寄居町)もろとも、八王子城はもろくも潰え去った。
 後北条家は初代の伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)以来、後に秀吉や家康が範とするような優れた領国経営を行っていた。早雲は室町幕府の政所執事を務めてきた伊勢氏の一族備中伊勢氏の出である。室町幕府の足利政権は末期になるとでたらめになってしまったが、その政治の骨格は鎌倉幕府の長所短所をしっかりと押さえて作り上げられた、とても精緻なものであった。
 政所執事という室町幕府の内閣官房長官のような職務を世襲した伊勢家は、伝統としてそうした政務を担う人材育成に長けた一族であった。早雲は姉の嫁入り先である駿河遠江三河を領する足利家一門の大大名今川家の家宰として入り込み、そこの跡継ぎを巡る内紛を収めたことで頭角を現し、伊豆国を任されたことから伊豆・相模を手中に戦国大名の嚆矢となった人物。生まれ育ちからして領国経営の手腕に優れていた。それが息子の氏綱、孫の氏康に受け継がれ、4代目の氏政で関東一円を支配する大大名になった。当時もその後も他に例を見ない年貢の「四公六民」(出来高の四割を領主が取り、六割が生産者の取り分)という緩やかな徴税率を定めた。また、長子相続制を定めて武家だけなく農民の財産の細分化や家族間の争いによる疲弊を防ぐことなども徹底した。それらを徹底するために「禄寿應穏」(財産と命はまさに穏やかに北条が保つ)という四文字を彫った頭に虎が寝そべっているハンコ(虎の印判)を捺した印判状を発給した。領民は北条氏の治政に馴染み、武蔵相模伊豆一帯は平和で、生産性の上がる地域となった。
 北条氏の一大脅威であった武田信玄は「人は城人は石垣人は掘情けは味方仇は敵なり」という名言を吐いたと伝わっている。その通り信玄は居城躑躅ヶ崎館を要害造りにしてはいない。城など問題では無い、要は人の和だということであろう。しかし、実態は一族郎党の不和離散が相次ぎ息子の勝頼の代で滅びてしまった。これに対して北条は、人の和を図ることに成功し、堅固な城を築いたにも拘わらず、やはり滅んでしまった。
 栄枯盛衰は難攻不落の城を築こうが、上下心を一つにしようが、もっともっと大きな「時の勢い」というものによって決められてしまうものなのか。そうだとすれば、人は何もあくせく苦労することはないのではないか。長いものには巻かれて、あるがままに身を処して、表面的には「ちゃんとやっています」という姿を見せるのが一番賢い生き方なのではないか。
 今やそう考える人が多いからこそ、どんなにおかしな事があっても「おかしい」とは言わず、「現政権を支持」と答える人が過半数を超えるという状況になっているわけなのだろうか。
 北条氏照が軍議を行ったであろう御主殿跡の礎石を眺めながら、そんなことを考えていた。「城巡りツアー」の観光バスから吐き出される団体客が「すごいわねえ、こんな山奥にこんなお城があったのねー」と声高に喋りながら通り過ぎる。
  鶯や八王子城奥深く
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2017年03月27日

俳句日記 (336)


 あっぱれ新横綱

 何が驚いたかと云って、千秋楽の新横綱稀勢の里の逆転優勝には本当にびっくりした。左肩を痛めてほとんど動かせない状態で取った十四日目の鶴竜戦を見て、ああ何たること、休めば良いものを、これで力士生命を縮めてしまうのではないかと思った。千秋楽は勢いに乗っている怪力照ノ富士である。壊されてしまう。休んだって誰も咎めはしない。休め、休めと呟いていたら、何と出て来た。これは救いようのないバカだと思った。
 照ノ富士は絶対に優勝するのだと真剣になっている。それが証拠に、10番勝って大関返り咲きをねらう琴奨菊との十四日目での一番で見せた勝負根性である。琴奨菊が一か八か、がむしゃらに突っ込んで来ることはシロウトにも分かっていた。琴奨菊のぶちかましとそれに続く突進力は並大抵ではない。これに勝とうと思えば変化するのは至極当然。照ノ富士としては、観客のブーイングはこたえただろうが、優秀するにはしょうがないと割り切っていた。それが勝負後の当たり前では無いかというコメントにも現れていた。
 そういう照ノ富士との対戦である。もう、左肩の使えない稀勢の里の負けは当然と思えた。
 千秋楽の土俵に上がった稀勢の里をテレビ画面で見て、おやと思った。実にすがすがしい表情なのだ。あの、神経病みの顔つきではない。「ああ、これは新横綱として15日間務められれば可としようと考えているんだな」と思った。ところがさに非ず、本人は勝つつもりだったのだ。この夜10時のNHK番組に出演して語った所では、「(左肩は全然使えないが)下半身は元気だから、動き回れば」勝機がつかめると考えていたのだという。その通り、普段の立合いでは滅多に変化しない男が左に動いた。照ノ富士もびっくりしただろう。上手を取って寄って出たが突き落とされた。勝った稀勢の里も「あら勝てちゃった」という風情で、片手をちょっと挙げた。
 これで十三勝二敗の相星となり、優勝決定戦。この時の土俵上の両者の感じは明らかに違った。稀勢の里は言ってみれば安心立命、照ノ富士には焦っている様子がありありと見て取れた。立ち上がるや照ノ富士がもろ差し、もうこれで決まったようなものである。本人もそう思ったのだろう、ぐいぐい寄った。ああこれはしょうがない、と思った途端の小手投げ。圧力を掛けていただけに照ノ富士の落ちるのが早かった。
 本割り、決定戦とも、照ノ富士の方が仕掛け、相撲としては照ノ富士のものだった。しかし、勝負は稀勢の里のものとなった。以前の稀勢の里では到底考えられないような勝ち方であった。こういう場面ではことごとく負けていたのが稀勢の里であったのだ。
 負けを覚悟していたから勝ちを拾えたのだろうか。それとも、横綱という地位を得たことで、これまでの自信の無さ、ふわふわしていた気持がどっしり落ち着いたからだろうか。
 私は1月26日付けの本欄で、「大甘の採点で横綱にしてもらった稀勢の里は、吉葉山の二の舞になるのではないか」と書いた。それが見事に覆された。稀勢の里には「失礼しました」と謝る。今場所痛めた左肩をしっかり治して、夏場所また優勝して欲しい。

 春場所を盛り上げにけり手負い獅子
posted by 水牛 at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする