2017年04月09日

俳句日記 (337)


人は城

 4月8日土曜日、俳句の仲間総勢10人で八王子城址を歩いた。前日から降り続いていた雨が午前9時過ぎには止み、ほぼ満開のソメイヨシノ、花桃、トサミズキや、名残の藪椿がぼうっと霞む、丘陵を散策するにはうってつけの日和だった。
 八王子城は後北条氏第4代北条氏政の弟氏照が築いた戦国時代屈指の名城と言われた山城である。関東一円をほぼ手中に収めた後北条氏は、甲信を抑える武田氏、越後から北信に威を張る上杉氏、駿河の今川氏を睨んで、小田原に難攻不落の小田原城を築いた。そして、北西の武田勢への備えに八王子城を、北方の上杉勢に対して埼玉県寄居町に鉢形城を作り、氏政、氏照、氏邦の兄弟三人で強固な防衛ラインを敷いたわけである。
 こうして盤石の体制が出来たと安心したせいか、成り上がり者の豊臣秀吉を馬鹿にしきって外交努力をなおざりにしたせいか、後北条氏はこの三兄弟の時をピークとして、次の第5代氏直であっけなく滅びてしまった。天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が発した「小田原征伐」号令による連合軍に攻められ、小田原城、弟氏邦の守る鉢形城(埼玉県寄居町)もろとも、八王子城はもろくも潰え去った。
 後北条家は初代の伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)以来、後に秀吉や家康が範とするような優れた領国経営を行っていた。早雲は室町幕府の政所執事を務めてきた伊勢氏の一族備中伊勢氏の出である。室町幕府の足利政権は末期になるとでたらめになってしまったが、その政治の骨格は鎌倉幕府の長所短所をしっかりと押さえて作り上げられた、とても精緻なものであった。
 政所執事という室町幕府の内閣官房長官のような職務を世襲した伊勢家は、伝統としてそうした政務を担う人材育成に長けた一族であった。早雲は姉の嫁入り先である駿河遠江三河を領する足利家一門の大大名今川家の家宰として入り込み、そこの跡継ぎを巡る内紛を収めたことで頭角を現し、伊豆国を任されたことから伊豆・相模を手中に戦国大名の嚆矢となった人物。生まれ育ちからして領国経営の手腕に優れていた。それが息子の氏綱、孫の氏康に受け継がれ、4代目の氏政で関東一円を支配する大大名になった。当時もその後も他に例を見ない年貢の「四公六民」(出来高の四割を領主が取り、六割が生産者の取り分)という緩やかな徴税率を定めた。また、長子相続制を定めて武家だけなく農民の財産の細分化や家族間の争いによる疲弊を防ぐことなども徹底した。それらを徹底するために「禄寿應穏」(財産と命はまさに穏やかに北条が保つ)という四文字を彫った頭に虎が寝そべっているハンコ(虎の印判)を捺した印判状を発給した。領民は北条氏の治政に馴染み、武蔵相模伊豆一帯は平和で、生産性の上がる地域となった。
 北条氏の一大脅威であった武田信玄は「人は城人は石垣人は掘情けは味方仇は敵なり」という名言を吐いたと伝わっている。その通り信玄は居城躑躅ヶ崎館を要害造りにしてはいない。城など問題では無い、要は人の和だということであろう。しかし、実態は一族郎党の不和離散が相次ぎ息子の勝頼の代で滅びてしまった。これに対して北条は、人の和を図ることに成功し、堅固な城を築いたにも拘わらず、やはり滅んでしまった。
 栄枯盛衰は難攻不落の城を築こうが、上下心を一つにしようが、もっともっと大きな「時の勢い」というものによって決められてしまうものなのか。そうだとすれば、人は何もあくせく苦労することはないのではないか。長いものには巻かれて、あるがままに身を処して、表面的には「ちゃんとやっています」という姿を見せるのが一番賢い生き方なのではないか。
 今やそう考える人が多いからこそ、どんなにおかしな事があっても「おかしい」とは言わず、「現政権を支持」と答える人が過半数を超えるという状況になっているわけなのだろうか。
 北条氏照が軍議を行ったであろう御主殿跡の礎石を眺めながら、そんなことを考えていた。「城巡りツアー」の観光バスから吐き出される団体客が「すごいわねえ、こんな山奥にこんなお城があったのねー」と声高に喋りながら通り過ぎる。
  鶯や八王子城奥深く
posted by 水牛 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする