2018年02月27日

俳句日記 (391)


庭猫
 どこに住み処を作っているのか分からないのだが、我が家の庭にもう14年棲み着いているキタコという牝猫がいる。黒と茶と黄色が入り混じった、なんとも複雑な毛色の猫で、猫好きの☆ちゃんに聞いたらアメリカの何とかいう種類なのだという。2004年2月、裏庭の物置の後ろ側の枯葉や枯草の積もった中で、どこかから迷い込んだ野良猫が産んだ4匹の中の1匹である。
 その後1ヵ月もたたない3月初め、子猫のみゃあみゃあいう声と親猫の物凄い唸り声を聞いて裏庭にすっ飛んで行くと、大きな鴉が二羽タッグを組んで、子猫に襲いかかっていた。母猫が必死になって唸り声を上げて鴉に飛びかかる、するともう一羽が眼が開いたばかりの子猫の目をつつき、咥えて飛び去る。何とも凄惨な現場に突っ込んで、棒きれを振り回して二羽の鴉を追い払った。するとノラの母猫も驚いて逃げてしまった。後にはたった一匹、鴉の攻撃を逃れた子猫がみゅうみゅう啼きながら残っていた。
 いつまでたっても母猫は帰って来ない。しょうがない、割り箸に脱脂綿を結び付けて牛乳を沁ませ、それを口元に持っていってやったらちゅうちゅう吸う。数日たつと、皿に入れた牛乳をなめるようになり、ゼリー状の猫餌も食べるようになった。汚れた毛布のようなキタナイ野良猫の子供なので、山の神は「汚な子」と呼んだ。しかしキタナコでは呼びにくいのでいつのまにか「キタコ」になり、それが名前になった。
 キタコは庭のどこかをねぐらにする半ノラではあるが、命の恩人であり育ての父である私にはなついて、そばに寄って来ては仰向けになって腹をさすれと言い、背中を撫でさせる。そんな仲になっていた。
 翌2005年早春、また裏の物置の裏でみゅうみゅう子猫の鳴き声がした。見に行ったら、何とキタコがさっと逃げて、後に3匹の子猫がいた。全くうかつだった。猫は1年で母親になれるのだ。これを見た山の神が「大変よ、これでキタコがこの後も生み続けて、この子猫たちが来年母親になって子供を産むと、その翌年には・・、それからその次の年には・・、一体どうするつもり。なんとかしてちょうだい」と言う。まるで私がキタコに子を産ませたみたいな言い様である。しかし、山の神の算術通りには行かないまでも、確かに放っておいたらえらいことになる。考えに考えた末に、心を鬼にしてまだ眼の開かない三匹の子猫を袋に入れて獣医のミコシバさんに持って行った。ミコシバ先生は極めて事務的に受け付けた。
 子猫が攫われてしまったキタコは荒れ狂った。我が家の庭を一晩中ぐるぐる、ぎゃあぎゃあ鳴きながら駆けずり回り、その後三日間姿を消した。4日目に、何事も無かったように帰って来て、ミャアと鳴いて餌を求めたのには心底ほっとした。しかし、前とは全く違って、私の傍には決して寄りつかない。餌を皿に入れてやっても、私が離れなければ決して食べない。そういう状況がほぼ一年続いて、かなり関係が修復されたのだが、次には檻を仕掛けて掴まえ、獣医に連れて行って不妊手術をしたのが原因で、関係は徹底的に壊れた。「とんでもないジジイだ」という思いが焼きついてしまったらしい。
 以後10年、キタコは私のことを餌をくれる主人だが、決して心を許してはいけない危険人物と見做してきた。「ごはんだよー」と餌皿を叩くと、どこかから姿を現すが、3メートルくらいまでしか寄らない。餌を入れて私が部屋に引っ込んでガラス戸を閉めると、やおら近づいて食べて、去って行く。
 それが今年に入ったら、どういう風の吹き回しか、傍に寄って来るようになった。手の届く所まで来て、仰向けに引っ繰り返り、腹を見せて四肢をばたばたする。首を伸ばして「撫でてもいいよ」という仕草をする。キタコももう14歳。人間で言えば70バアサンというところなのだろう。何事をも許す心境になってくれたようである。
  庭猫と我とのどかな間合かな
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2018年02月23日

俳句日記 (390)

耕す
 菜園を耕しながら小石や雑物を取り除くフルイ掛け作業をした。これが大変な時間と労力を要する大仕事。小石だけでなく、いろいろなモノが出て来る。錆びた釘や蝶番、ボルトナット、プラスチックの洗濯ばさみ、茶碗や皿のかけら、布切れ、窓ガラスの破片、薬瓶、子供のベーゴマやおはじき等々がめったやたらに現れる。この菜園は毎年冬と夏に耕し、石や雑物は見つけ次第捨てていたのだが、今回のように丁寧にフルイをかけることはしなかった。こうして悉皆クリーニングをやると、拾い残していた雑物がかくも多いのかと呆れ果てる。
 この菜園のある場所は大正の末から昭和の初めにかけて亡父が開いた横浜ガーデンの一角で、山林を切り拓いて整地した住宅地である。小石は山の中に埋もれていたものかも知れないが、錆釘や洗濯ばさみや皿小鉢や窓ガラスの破片が出て来るはずはないのである。それが何故出て来るのかと言えば、33年前の我が家の建て直しの時の土の入れ換えしか考えられない。
 昔あった木造家屋を壊して旭化成のヘーベルハウスに建て直したのだが、その時、地山の斜面の崩れを直したり、地盤補強のために敷地を掘り返し、その土をどこかの集積場に運び、敷地の杭打ちなどが終わった後に、集積場から再び土を運び込んだ。その土は恐らくどこかの家の建て直し現場から出た土で、それにいろいろな雑物が混じっていたのだろう。
 そうした建設残土は敷き込む時にフルイにかけるのが丁寧なやり方というものだが、そういう工事は下請けの下請けがやるので、どうしてもいい加減になってしまうのだろう。こうして33年間、此処掘れワンワンではないが、耕すたびにいろいろなモノが出て来て、今回の一念発起のフルイ掛けで、最後のプレゼントがどっと出て来たというわけだ。
 この作業は大変な時間がかかり、長さ3メートル少々、幅45センチの畝を仕上げるのに何と2時間もかかってしまう。それが5列ある。毎日は出来ないから、のそのそやって、結局半月かかってしまった。しかし、後にはフルイ通しされたふかふかの土がこんもりとしている。それを半ノラのキタコが眺めている。ジイサンが精出して私のトイレをこさえてくれたのねといった表情である。そばのレモンの大きな木や花咲く梅の枝には雀がやって来て、ジイサン早くどこかへ行ってくれないかな、美味そうな虫が見えると鳴き交わしている。
 明日天気なら、ここに春蒔大根の種を蒔いてやるつもりだ。
  婆猫とおしゃべり交し耕せり
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2018年02月19日

俳句にならない日記 (11)


眞子さま結婚延期
 2月6日、宮内庁宮務主管が記者会見し、昨年9月に婚約会見した秋篠宮眞子さんと小室圭さんとの結婚(今年11月)を2年延期することになったと発表した。事実上の破談ということなのだろう。原因については週刊誌が大喜びで書きまくっている。圭さんの母親が付き合っていた男性からの借金を巡るもつれなど小室家の不透明な内部事情によるもののようだ。
 現皇太子徳仁親王には男子がいないから、その跡は眞子さんの父親の秋篠宮か、場合によっては眞子さんの弟の悠仁(ひさひと)親王が継ぐことになる。眞子さんが皇籍離脱して小室家に嫁入りして、何の問題も無く幸せな家庭を築いていければ万々歳である。しかし、男性関係や借金問題を抱えた義母とうまくやっていけるのか、また、法律事務所の手伝いというアルバイトのような仕事の圭さんの収入で内親王殿下がやっていけるのか、危ぶむのが普通であろう。
 庶民同士が惚れ合って1DKのアパートで手に手を取って貧乏世帯を遣り繰りし、苦労の末に立派な家庭を築き上げるという話はよくある。しかし、来年には皇位継承権第二位になる弟を持つ眞子さんは、そんな訳にはいかない。結婚後も一挙手一投足が注目の的になる。もし、小室家の内部事情が原因で妙なことがあれば、すかさず週刊誌の餌食になってしまう。それによって「皇室」の尊厳が削がれる。これが困るのだ。
 日本国憲法の第一章は天皇の地位と国民主権を定めたものだ。第一条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」とあり、第二条で「世襲によって受け継がれる」とされている。そして、第四条には「国政に関する権能を全く有さない」とあり、政府の助言に基づいて総理大臣の任命や国会開会などの国事行為を行うことと定められている。つまり、天皇とは政府が定めたシナリオに沿って、儀式を行う役割だけを担う「象徴」というお飾りである。こう言ってしまうと何となくシラケてしまうが、実はここが重要なのだ。
 戦前の大日本帝国憲法では「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と天皇がこの国を直接統治することとされていた。しかし、明治から昭和時代まで、いや、太古からずうっと、天皇は絶対君主とされては来たものの、実際はその時代々々の政権を掌握していた官吏の親玉や武家、近代では軍部が政治を行い、天皇は「象徴」だったのだ。それをはっきり明文化したのが現行憲法なのだ。
 しかし、「象徴」は非常な重みを持っている。平時は権力を掌握した官吏や軍人政府が政治を行っているが、何か大変事が起こって大混乱を来し、権力者が交替せざるを得ない事態になった時、この「象徴」天皇が大いなる力を発揮する。
 平安時代が終わりを告げて世の中が混乱し武士の源家が幕府を作る時も、室町幕府が衰えて戦国時代に突入し、それが治まって豊臣政権が生まれ、さらに徳川幕府が出来た時にも、天皇の詔勅というお墨付きが力を発揮した。その徳川幕府が衰え、維新政府が出来た時もやはり天皇の権威が働いた。維新以来続いた軍国日本は80年にして命脈尽き、敗戦必至となった昭和20年、自暴自棄になって本土決戦を叫ぶ軍部を抑えて「無条件降伏」に持っていったのも天皇の持つカリスマであった。
 日本人は物事がにっちもさっちも行かなくなった時に天皇を担ぎ出す。そして天皇が何か意志表示すれば、全体がそれに従う。それで新しい政権が生まれて新しい政治が布かれると天皇はまた奥に引っ込み「象徴」として奉られる。
 だから、天皇と皇室というのは、諸外国の王室とは根底から性格を異にした存在なのである。第二次大戦後、昭和天皇が「人間天皇」を標榜、具現されて、国民に二歩も三歩も近づいたが、やはり天皇には「人間であって人間ではない」部分があるのだ。いざという時の日本国民の「心の拠り所」となる存在なのだ。
 「国政に関する権能を全く有さない」と憲法に明記され、権限を全く持たないのにここぞという時には「頼りにされる」存在。それが諸外国の王には無い、日本国の天皇なのだ。中国や北朝鮮のように動員などかけることなく、新年参賀の皇居前には数万人が集まる。これほど不思議なことはないのだが、これが日本人と皇室との関係なのだ。
 というようなことを考えると、将来、天皇陛下のお姉さまと言われる眞子さんには、「人間であって人間ではない」天皇家の人である思考と行動が求められるのも仕方が無いのではないだろうか。
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2018年02月15日

俳句にならない日記 (10)


くたばれオリンピック

 世の中から無くなってほしいものと言えば、真っ先に頭に浮かぶのが原爆とオリンピックである。しかし、今や地球を支配している大国はもとより、小国の住民も欲望むき出しの思考・行動に走り出しているから、その象徴でもあるこの二つを無くすことはとても無理だろう。それは分かっているのだが、無くなって欲しいと思う。
 原爆はヒロシマ・ナガサキの惨状を教訓に、人類を滅亡に追い込む最終兵器として二度と使用せず、作らぬ、ということが全世界のコンセンサスとなったはずなのに、その後、各国が競って作り、最近では北朝鮮が「使用」をほのめかすほどになっている。
 今や国力からすれば三流とみなされる国でさえ、原爆を作ろうと思えばすぐにでも作れるし、既にいくつかの小国が保有している、乃至は保有の疑い濃厚という恐ろしい事態になっているのだ。核拡散防止条約など、今や金科玉条としているのは日本くらいのものだと言ってもいい。あと10年もたたない内に第二第三の北朝鮮が現れ、核弾頭を備えたロケットを抱えて他所の国を脅かすようになるのではないか。互いに脅かしているうちはいいが、それが嵩じて発射ボタンを押してしまうことも大いに考えられる。ハルマゲドンはもう目前である。
 さて、原爆騒ぎとは対極にあるはずのオリンピックはどうか。今やクーベルタンが提唱した「自由と平和の祭典」という理念から全くかけ離れた、国威発揚の場と化している。今、韓国平昌で行われている冬期五輪など、北朝鮮を巡る政治的駆け引きの場と化してしまった。さらに、1984年のロサンゼルス五輪をきっかけに五輪を金儲けの場とする輩がはびこり始め、国威発揚にからめて商業主義という私利私欲がないまぜになっているから一層見苦しい。
 平昌五輪、スキージャンプ競技での高梨沙羅選手の妙技には日本国中が沸いた。しかし、あの素晴らしい競技を何故真夜中に行わなければならなかったのか。その理由は、国際オリンピック委員会に高い放映権料を支払う米国のテレビ会社の要請による競技時間設定なのだという。
 二年後には東京オリンピックが開かれる。これもなんと八月という、日本でのスポーツ大会開催には最悪の時期である。これまたサッカーやアメリカンフットボール等々、国際的なビッグイベントと関係無い時期に、という理由で設定されたのだという。東京五輪では選手や観客から死者が出るのではなかろうか。
 五輪大会が国家の宣伝の具となってしまって以降、開催国はこれでもかとばかりに派手な施設を作り、金をばらまくようになった。「参加することに意義あり」などと言いながら、実際はメダルの数で国の優劣を決めるから、選手強化にもべらぼうな金を使う。選手の方も優秀な成績を収めれば賞金をもらえる上に、末は国会議員やスポーツ庁とかいう変な役所の長官にしてもらえるとあって目の色を変える。果ては薬物の力を借りて超人的力を発揮しようとしたりする。それを国ぐるみで行ったのがばれて、ロシアは今大会では国として存在しないことになった。
 こんなことを今更言うまでもなく、オリンピックは腐敗しきっている。人間の欲というマグマが噴出している。その点では、原爆と根っこは一つである。
 平昌五輪に合わせるかのように、台湾花蓮地方で大地震があった。ホテルが大きく傾ぎ、何人もが押し潰されたり、閉じ込められたのがテレビに映し出された。あれを見て、二年後の八月のトーキョーが心配になった。われらがシンゾーさんが得意満面の笑顔で臨んだ開会式の真っ最中、東京直下型大地震発生。超高層マンションが将棋倒しになり、新幹線が脱線転覆、東京中が業火に包まれ・・、思うだに身の毛がよだつ。しかし、ソーリダイジン以下、みんなが「そんなことはあり得ないだろう」と思っている。しかし、それはただ「思っている」だけで、何の根拠も保証も無い。
 これを「杞憂」と言って笑い飛ばせるのだろうか。どうも近ごろの日本列島は各所で地震が発生したり、眠っていた火山が突然噴火したり、気持の悪い気配が漂っている。
 「虚栄の祭典」も、今となってはもう止めることは出来ないだろうが、せめて規模を縮めて、浮いた金で少しでも避難経路の建設・充実などに当てるような方策を採るべきだろう。
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2018年02月12日

俳句日記 (389)


サラダ好きのムクドリ

 居間の前の庭にサラダ菜類を植えている。今はチマサンチュ、リーフレタス、サニーレタス、ルッコラだ。毎日食べる分だけ採って新鮮なうちに食べる。十分に日光を浴び、寒さの中で育ったサラダ菜は、町で売っているハウス栽培のものに比べると少々固くて、うっすら苦みもあるが、野趣豊かでとても美味しい。
 ところがこの十日ほどの間に椋鳥が毎日やって来てはついばみ、とうとう丸坊主にされてしまった。去年も同じ所に同じように植えてあったのだが、被害に合うことはなかった。今年は一体どうしたことか。
 昨年11月頃の長雨やそれ以後の低温といった異常気象で、暮頃から野菜がバカ高値になっている。白菜が一株548円もするし、大根も400円がらみ、ホウレン草や小松菜は一把の本数をぐっと減らしたすかすかの束なのに298円などとべらぼうな値段を付けている。全くの不作なのだ。
 ということは、野山にも野鳥がついばむような木の実や木の芽が少ないのではないか。そんな折りに美味そうなサラダ菜が生い茂っているのを見付けたら、どうしたって食いたくなるだろう。時々変なジイサンが出て来たり、キタコという半ノラが徘徊してはいるものの、どちらも朝寝坊だから椋にすれば食べる時間は十分ある。
 ネットをかけてしまえば鳥害は防げるのだが、腹を空かした小鳥が首を傾げて恨めしそうな顔つきをするのを思い浮かべると、まあそんなケチ臭い策を弄するのは止めよう、少しくらい高くても正チャン八百屋で買えばいいやと放任しておいたら、ついに丸坊主にされたわけである。
 椋鳥の仕業と気づいて観察していたら面白いことを発見した。彼らにも美味い不味いが分かるらしいのだ。真っ先に食べたのがリーフレタスという薄緑色の柔らかな葉のサラダ菜である。それをあらかた食い尽くすと、次に葉先が紫がかったサニーレタス。これも柔らかな葉だが、リーフレタスに比べるとほんの少し苦みがある。それも食ってしまうと、今度は朝鮮焼肉で肉を包んで食べるチマサンチュをつつき始めた。サンチュは濃緑色で少々ゴワゴワしている。リーフレタスに比べたら格段にアクが強い。しかし、とうとうそれも本日食い尽くした。
 後はイタリア料理でお馴染みのルッコラが残っている。胡麻の香りがして、ぴりっとした辛味もある。伸びると苦みが強くなる。サラダ菜やキャベツと混ぜ、ドレッシングや粉チーズをかけた生野菜サラダにするととても美味しい。ウインナソーセージと炒めても旨い。ピザが焼き上がったところにばさっと載せると緑鮮やかで風味も増す。パスタに載せてもいい。というわけで我が家の菜園にはいつも植えてある。ところがムクドリの奴、どういうわけか、ルッコラには見向きもしないのだ。こういう小鳥にも好みの味があるんだなあと愉快になった。
 しかし、サラダ菜がすっかり無くなってしまったのには困惑する。ちょっとサンダルを突っかけて庭に降りて葉っぱを二三枚掻いてサンドイッチに挟む、というのが家庭菜園の醍醐味である。それが出来ないのは淋しい。
 そこでまたサカタガーデンセンターへ行って苗を買い、今度は家の壁に近い、オリーブの木蔭に置いたプランターに植えることにした。ここは離れ部屋に行く濡れ縁の前であり、その辺にはキタコがいつも寝そべっているからムクドリも寄りつかないだろうと踏んだのだ。植え終えて如雨露で水をかけ、寄ってきたキタコに「椋が来たら追っ払うんだぞ」と言って肉団子を一つやった。ニャアとも言わずに食いついている。椋除けとしてはまことに頼りない。

  湯気上がるパスタにルッコラ春の色

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2018年02月11日

俳句にならない日記 (9)


公立小学生にブランド制服

 東京・銀座にある創立140周年の中央区立泰明小学校が、4月入学の新一年生の着用する標準服(制服)をイタリアの高級ブランド、アルマーニのデザインによるものに決めて物議を醸している。
 何しろ現行の標準服が上着、ズボン(女児はスカート)、シャツ(同ブラウス)、帽子の一式で男児1万7千円、女児1万9千円なのに対して、アルマーニは4万円を超えてしまう。「任意」とされるベスト、セーター、靴下、バッグを含めると9万円近くになる。保護者の一部からは「あまりにも高い」という不満の声も出て、ついに衆議院予算員会で野党議員から「公立小学校でこうしたことはおかしいのではないか」という質問が出るという一幕まではさまる事態になった。
 ブランド制服の採用を決めたのは和田利次校長(62)で、学校内はもとより保護者などとも事前相談をせず、一人で話を進め、決定したという。記者会見でも、「これが泰明小らしさを表す」「泰明小の父兄ならこれくらい出せる」と悪びれた風もなく言ってのけた。
 この小学校は名門で、一学年60名の少数精鋭教育。地元銀座には子供が少ないこともあって、中央区内在住なら希望すれば入学出来る「特認校」になっている。希望者が多く抽選もかなりの倍率になるという。卒業するとほぼ全員が有名私立中学に入るというから、まずは恵まれた家庭の子女の通う小学校で、校長の言うように、9万円の制服など屁とも思わない家庭がほとんどなのだろう。しかし、やはり「公立」小学校である。その学区域に住まうさほど金持ちではない家庭の子供だっているのではなかろうか。
 高いか安いか、負担できるか否かはさておき、問題はなぜ小学生の制服を高級ブランドにしなければいけないのか、ということである。それについて和田校長が昨年11月17日付けで、今年4月に子供を入学させることが決まった親に宛てて出した「平成30年度からの標準服の変更について」という文書を読んで驚いた。ネットに出ていた全文を読んだのだが、この校長の何とも救いようのない事大主義、選民思想にやり切れない思いを抱いた。5千字に及ぶ長大な手紙だが、名門校の校長としてはどうかなと思われるような、その昔の学生運動のアジ演説のような稚拙な文章である。
 泰明小学校の素晴らしさを縷々述べ、生徒と保護者にはその意識が足りないのではないかと不満を綴った後、「泰明小学校は銀座の街と共に歩んできた」として、「銀座の街のブランドと泰明ブランドが合わさったときに、もしかしたら、潜在意識として、学校と子供らと、街とが一体化するのではないかと、また銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考え、アルマーニ社デザインによる標準服への移行を決めました」と無茶苦茶に飛躍した「決定理由」を書いている。そして、「ビジュアルアイデンティティーという概念があります。・・・視覚的な同一性と申し上げたらよいでしょうか。泰明の標準服を身につけているという潜在意識が、学校集団への同一性を育み、この集団がよい集団であってほしい、よりよい自分であるためによい集団にしなければならないという、スクールアイデンティティーに昇華していくのだと考えます」とも述べている。とどの詰まりは高級ブランドの制服を身につけることによって、泰明小学校生だという自覚と誇り、愛校心も生まれると言うのだ。
 こういう杜撰な論理展開しかできない人が名門小学校の校長を5年間の長きにわたって務めているというのが驚きだし、こうしたことを平然と容認している教育委員会というのもどうかしているのではないかと思う。そして、この問題に関する質問を受けて答弁に立った麻生副総理は、「高いといえば高いんだろうが・・・あなた(質問者)の背広がいくらなんだか知らないが・・」とトンチンカンなことを言うのであった。
 まあそういった大人の理屈は別として、泰明小学校に4月から通う子どもたちの身になって考えると、これはまた実に可哀想だなあと思う。なんたってアルマーニだ。どろんこ遊びなんてとんでもない。滑り台で滑るのもままならない。背丈が急に伸びるのも気になるというのでは、はてさて校長センセイどうしたものでしょう。
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2018年02月09日

俳句日記 (388)


芝生を刈る

 今日は暖かい。思い切って前庭の芝生を刈った。枯芝が伸び放題になっていて見苦しく、何とかしようと思いながら一日延ばしにしてきた。門から前庭に上がった所から居間の前まで長さ10メートルほど、幅は広い所で2メートル、狭い所は40センチくらいで、全体でも大した広さではない。しかし、電動だが手で持つバリカン型の芝刈り機だからはかが行かない。すべてやり終えるのに2時間かかった。それでもすっかりきれいになって清々した。
 芝生と畑(菜園)との境目には日本芍薬が5本植えてある。これも生い茂った枯芝に半ば覆われていたのだが、綺麗に刈ったものだから、去年の枯れた茎とその根元に赤い新芽が生えているのが現れた。枯れ茎を除ききれいにして、根元を少し掘って肥料を埋め込んでやった。4月末から5月にかけて綺麗な花を咲かせてくれるだろう。
 刈った枯芝の根元にはもううっすらと緑の芽が見て取れる。このまま放っておいたら、新芽が枯芝に埋もれておかしくなってしまうところだった。
 刈り取った枯芝と12月から畑に積み上げてあったニッケイや枇杷の枯葉や枯草に肥料と畑土を混ぜながら、腐葉土や牛糞の空き袋に詰め込んで、裏庭に積み上げる。こうして半年も放って置くと良い堆肥が出来る。しかしこれも重労働。4袋作ったところで日が陰って寒くなってきたので止める。まだ5袋分くらい、枯葉の山が残っている。

  刈り終えし芝生に春の小鳥たち
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2018年02月07日

俳句日記 (387)


エンドウの苗を植える

 きのうサカタガーデンセンターで買ってきた絹さやエンドウの苗を植える。双葉から本葉が2,3枚出たばかりの小さな苗だ。根元にはまだエンドウ豆がくっついている。野鳥に食われてしまいはせぬか。それに、書斎の前の植え場所には、去年も隠元など豆を植えたから、連作障害を起こすかも知れない。そこで、長さ2メートル、幅30センチの細長い穴を掘って、そこの土を掘り上げて畑に撒き、畑の土に連作障害緩和剤や「すぐ植え石灰」という、混ぜてすぐに苗が植えられる石灰や腐葉土、有機肥料を混ぜ込んだ用土を入れる。
 もう40数年前、我が家の寝太郎が赤ん坊の時に使ったポリ製のベビーバスが園芸用土を混ぜる容器になっている。それに5杯も用土を作って入れた。あと一杯入れると十分なのだが、もう草臥れ果てて息が上がってしまった。畝を均してみると、まずまずの高さになっているので、これで良しとする。しばらくして凹んじゃったら、追いかけて土を入れてやればいいと、苗を植え付けた。
 買ってきた小鉢には3,4本の苗が生えている。そっとほぐして1本ずつ15センチ間隔くらいで植えた。全部で14本あった。豆類は移植を嫌う、つまり苗の根を傷めるとダメなのだが、こういう生えたばかりのものは、丁寧に扱えば大丈夫だ。本来は去年の11月にタネを蒔こうと思っていた。しかし、前の晩酔っぱらって寝坊したり、天気が悪かったり、俳句会の行事が立て込んだりして、蒔き時を失い、こんな具合に春先になって苗を植えることになったのである。
 せっかく苦心して植えたモノを椋鳥なんかにやられたら堪らない。それに半ノラのキタ子は耕したばかりの土が大好きで、そこを引っかき回しては、おしっこやウンをする。それも大いに困るから、細い竹をたくさん差して、如雨露でたっぷり水をかけた。これで大丈夫だろう。キタ子は濡れた所が嫌いだし、椋鳥は見慣れぬ竿竹がたくさん立っていると敬遠する。
 明け方零度以下になって土が凍ると、植えたばかりの小苗はダメになってしまうが、我が家は日当たりが良くて昼間十分に温められており、明日朝の最低気温は5℃程度あるというから、まずは安心だ。ちゃんと根付いて、3月末には美味しい絹さやが食べられるだろう。
  豌豆の心もとなき小苗植う
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2018年02月04日

俳句日記  (386)


立春大吉

 今日は立春。これからしばらくはNHKラジオでは「春は名のみの」という歌『早春賦』が盛んに流れる。既に今日昼間も聞いた。「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思へど 時にあらずと声も立てず・・・」。東京音楽学校(現・東京芸大)教授で文部省尋常小学唱歌作詩委員会代表を務めた吉丸一昌が大正二年(1913年)に発表したこの詩は、歌を思う谷の鶯もまだその時ではないと声も立てない、と擬人法を用いた持って回った詠み方で、必ずしも良いとは思えないのだが、中田章という人がつけた清新な曲が抜群で一世を風靡、未だに歌い継がれている。YouTubeのNHK東京放送児童合唱団の歌声など、今日聞いてみたら何と1702620回と出ていた。
 今日などはまさにこの歌の通りで、朝から太陽は輝いていたが風が冷たい。庭の温度計は12℃だが、やろうと思っていた庭仕事を敬遠してしまう寒さだった。
 立春というのは二十四節気の最初で、「春立つ日」。昔はこの日が年の始め、元旦だった。この日から起算して88日目が種蒔きや茶摘みの最盛期の「八十八夜」、台風の来る「二百十日」など、節目の日を数えた。立春の前日が節分で、同時に大晦日であり、冬の別れとして、悪鬼を払う豆を撒いて晴れ晴れとした新年を迎える追儺の儀式も行った。
 しかし、月の満ち欠けを基準にしていた太陰暦に、この二十四節気を当てはめて季節のずれを調整していた太陰太陽暦(旧暦)は、ほぼ三年おきに閏年という一ヵ月をはさんでズレをなおしていたものの、それでも太陽の運行と暦にズレが生じ、立春が一月一日とは合わない。旧暦ではまだ十二月なのに立春が来てしまう「年内立春」がしばしば起こった。
 今年もそうである。本日二月四日は立春大吉なのだが、旧暦では未だ十二月十九日である。正月の来る11日も早く立春になってしまったのだから、昔の人は「年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」(古今集・在原元方)と洒落のめした。
  庭猫のきのふの豆を嗅いでをり
posted by 水牛 at 21:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする