2018年03月28日

俳句日記 (395)


 カア公vs.水牛

 予想通りの結果になった。朝9時過ぎにのそのそ起きて庭に出る。芍薬の新芽を囲ったプラ・フェンスは二枚が抜かれ、三枚目が半ばまで引き抜かれて斜めに刺さった状態になっていた。ハシブトガラスのカア公は、端っこの一枚をくわえて引き抜いた。ところがそれは紐で隣のフェンスにつながれている。これはおかしいと、二枚目も引き抜いた。しかし、それも三枚目につながっている。
 一枚の重さは高々100グラムなのだが、何枚も数珠つなぎになっていてはくわえて飛んで行くことは出来ない。ついに諦めたらしい。「一体どうなっているんだ」とカア公のびっくり顔が目に見えるようで、思わず大笑いした。
 あきらめてしまうと後は全くの無関心で、まるで最初からそんな物は欲しくなかったというような、まるでイソップ物語のカラスや狐の感じである。しかし、近くの木に止まって、こちらの様子をじっとうかがっている。また何かいたずらを仕掛けてやろうとねらっているのかも知れないが、とにかくこれで芍薬の芽を保護するフェンスの安全性は保たれることになった。と安心して書斎に引っ込んでパソコンであれこれ書いていた。一段落して庭に出る。
 やはり、敵はさるものであった。朝のうちに汚れた園芸用手袋を洗って、近くのオリーブの樹の添え木にはめて干しておいたのが片方無くなっていた。曲がった枝を誘導するために20センチほどの長さに切って、近くの枝に挟んでおいた4,5本の麻紐も無くなっている。巣の中の卵を産む場所のクッション用に使えると思ったに違いない。あるいはこちらが熱心に洗ったり干したりしているのを眺めて、「これで仕返しが出来る」と踏んだのか。これから二週間ばかりは物干しにも注意しないといけない。

  春風や手袋くはへ飛ぶ鴉

  

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2018年03月27日

俳句日記 (394)


鴉の巣づくり

 3月25日の日曜日、菜園を耕しているとすぐ近くの公園の桜の大木に止まったカラスがカアカアと鳴く。澄んだ声なのでハシブトガラスと分かる。昔、と言っても昭和30年代だが、この辺、つまり横浜駅から北西2キロほどの郊外住宅地は人家もあまり建て込んでおらず、野原や雑木林があったから、ガアガアと濁った声で鳴くハシボソガラスもかなり居て、お互いに棲み分けていた。しかし、近ごろは市営地下鉄が通るなどしてこの辺も"横浜都心"になり、マンションやマッチ箱住宅がびっしり建て込んで、町中住まいに慣れたハシブトガラスの天下になってしまった。
 ハシブトは人を怖がらず、実に図々しい。生ごみあさりの熟練鳥で、ネットの隙間を目ざとく見つけてゴミ袋を引っ張り出し、食い漁る。月曜日と金曜日がゴミ出し日で、早朝から群れをなしてやって来てはつついている。厳重な管理をしている捨て場所と、いい加減な住民の多いだらしのない捨て場所をちゃんと知っていて、だらしのない方に沢山集まる。その場で食べている奴もいるが、くわえて運んで行く奴もいる。人家の二階の屋根にあるエアコンの陰、マンションの貯水塔の下などに「食糧貯蔵庫」を拵えていて、そこに運び込むのだ。そうして、ゴミ出しの無い火水木と土日は溜め込んだ御馳走を食べる。バカな百舌鳥と違ってカラスは貯め込んだ餌を忘れてしまうようなことはない。
 カラスの奴め今日はまたやけに鳴くなあと思いながら、庭先を通る人に芽を出したばかりの芍薬が踏んづけられたりしないように、高さ約40センチ、幅20センチほどのプラスチックの小型フェンスを8個突き刺した。
 今朝起きてみたら、なんとそのうちの2個が無くなっていた。どうしたんだろう。誰がどこへ持っていったのか。居付き猫のキタコの仕業かと思ったが、彼女はこうした動かぬ物には興味を抱かない。きょろきょろ見回すと、庭の端っこの方に1個落ちていた。
 はたと気が付いた。ハシブトガラスの仕業だ。昨日私がこのフェンスを埋め込むのをじっと見て居た。折しも3月下旬、ついこの間までカアカア、ギャアギャアうるさいお見合い騒動をやっていたのが、それぞれ連れ合いが決まり、巣づくりが始まったのだ。こうなると彼ら彼女等は滅法忙しい。まず大木の梢近く大枝が股になった所に枯れ枝を置き、互い違いにして床を作る。その上に小枝を並べ、その上に薄や棕櫚や藁やぼろ切れなどを敷き詰める。この最初の土台になる比較的大きな枯れ枝の代わりに近ごろは針金ハンガーを用いるカラスが多くなった。我が家を縄張りにするハシブト夫婦は針金ハンガーよりもさらに効率のいいプラ製の花壇フェンスに目を付けたのだ。1個わずか100グラム、もう既に枝を組んだようになっている。三枚も敷けば巣の基板としては立派なものが出来る。私が芍薬の回りに立て並べているのを観察して、「これだ」と決めたに違いない。
 しかし、歯抜けになったところは恰好が悪いから、落ちていたのともう一枚新たに加えて、しっかりと差し込み、8枚全部を紐でつなぎ合わせた。こうしておけば、たとえ一個を嘴ではさんで引き抜いても隣のものと紐でつながっているから、咥えて飛び立てないだろう。さあカア公どうする。
  巣づくりの鴉夫婦のまめまめし
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2018年03月14日

俳句にならない日記 (12)


末期の水は

 やはり隠しおおせるものではなかった。森友学園に対する国有地の不当廉売を決めるに当たっての財務省の決済文書の改ざんが白日の下に曝され、シンゾーさんもタローさんもあたふたしている。単に語句を入れ換えたり、表現をぼやかしたりする「書き換え」ではなく、安倍首相、首相夫人はじめ大臣経験者の有力政治家が関与したと疑われる個所は全文削除、あるいは全く異なる表現に変えられていた。これは政権に累が及ぶことを恐れた何者(複数かも知れない)かの指示による「改竄」である。もちろん、公文書の改ざんは明白な犯罪行為であり、今後、検察の捜査によって"縄つき"が次々に出てくるだろう。
 何よりも許せないのは、そうした改ざん文書を国会に提出し、一年以上も野党の疑惑追及質問を突っぱねて来た役人と内閣の「国会軽視」である。これは取りも直さず国民を欺いてきたということである。
 当時の責任者である佐川宜寿財務省理財局長(その後、国財庁長官に栄転し、つい先日辞任)はじめ政府関係者は、この一年間、「関係書類は廃棄しました」「法律に基づいて適正な貸し付け、売買契約をしたものです」「そこに政治家の関与は一切ありません」と口を揃えて言っていた。しかしそれは真っ赤な偽りだった。安倍首相も一年前には国会で、自分も夫人も全く関係無い、「もし関係していたなら、総理大臣も国会議員も辞めます」と大見得を切った。ところが改ざん前の決済文書では安倍昭恵夫人の名前が再三登場し、問題の国有地を視察して、「いい土地だから話を進めてください」と言った、ということまで書かれていたのである。
 これでは安倍首相も麻生副総理も、もうどうしようもないだろう。「なんでこのような事が起こったのか、徹底的に解明することが責任の取り方」というような、こじつけみたいなことを言って頑張っているが、もう民心はこの内閣から離れてしまっている。与党公明党は既に「佐川前理財局長の国会喚問やむなし」の姿勢を見せているし、自民党内にもコイズミ二世議員の徹底解明発言など波風が立ち始めている。「安倍三選」の道筋をつけてシンゾーさんをヨイショしてきた二階幹事長ですら何となく距離を置く様子だ。
 麻生副総理・財務大臣は遠からず辞任することになろうが、問題は安倍首相である。支持率が急降下し、与党内の支持も揺らぐとなれば内閣総辞職もあり得るだろう。第一次安倍内閣では参院選の敗北と自身の神経性下痢という健康問題から総辞職に至った。今回も、この騒動によってかなりひどい精神的肉体的負担がかかり、健康問題が再発する恐れも考えられる。追い詰められる前に先手を打って、国会解散・総選挙に打って出る手もある。
 どうなるか。これから十日間くらいが山場になろうが、たとえ現内閣がこの危機を乗り切って生き延びたとしても、もう安倍三選はあり得ないだろう。それを許すようであれば、自民党も野党もあまりにも不甲斐なく、日本は世界情勢から取り残されるような状況に陥るだろう。
 それはそうとして、それでは安倍の次に誰がこの国を指揮していくのか。これが全く見えないところが心細いと言うより、恐ろしい。安倍内閣に末期の水を汲んでやり、日本をしゃんとさせることの出来る政治家は誰なのか。
 藁山に落とした針を探すような難事かも知れないが、何とかしてその一本の針を見つけなければいけない。それが短時日では無理であるなら、取り敢えずは役人をうまく使いこなせる人望のある政治家を中継ぎに据えて、未熟・実力不足と見られるかも知れないが有望な若手政治家に白羽の矢を立てる二段階方式を取ってもいい。とにかく、この1、2年の間に政界と官界をしっかり建て直さないと日本はどうにもならなくなってしまう。
 
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2018年03月11日

俳句日記 (393)

あれから七年

 3月11日というと新聞もテレビもラジオも東日本大震災のことばかりである。口に出しては言えないが「もう丸七年たつ、そろそろいいんじゃないの」とか「うんざり」と思っている人が出て来ているという。東北地方と日ごろ馴染みの薄い関西・西日本の人にこうした気持を抱く向きが多いようだ。その後、熊本地震をはじめ火山噴火や大洪水など全国各地で大災害が次々に起こったから、なんで東日本大震災のことばかりと思うのも人情というものだろう。
 しかし、そういう気持も分かるけれど、やはり東日本大震災は特別だと思う。地震の規模と津波の物凄さはもとよりだが、何と言っても福島原発が潰滅してしまって、百年たっても消えない後遺症をもたらしたということがあるからだ。
 第二次大戦での完膚なきまでの敗北によって日本は徹底的に壊されたが、そこから這い上がり奇跡的に復興したばかりか、その勢いをさらに加速して、ついには世界第二位の経済大国になってしまった。これによって、我々日本人が大いに自信を持ったことはいいのだが、時に自信過剰も目立つようになった。「我々のやることに間違いはない」といった思い上がりである。
 そうしたことの表れの一つが原発である。地震国であり火山国である日本列島に原子力発電所をこれほど数多く無造作に作ってしまって良いはずはない。あの巨大地震と津波はそうした思い上がりに下された鉄槌と肝に銘じて、うんざりしようがしまいが「3・11」は終戦記念日の「8・15」と合わせて、国民の祈りの日として記念式典などを続けて行くべきであろう。そして、原発が無くても暮らして行けるような、戦争をしなくても立って行けるような国を作る努力をしていかなくては、いつの日かもっとひどい目に遭う。
 さて、そんなことを考える水牛だが実は七年前の大震災を知らないのだ。俳句の仲間達と呑気に松山城で遊んでいた時、家族からの緊急電話で知った。松山市内の宿に入ってテレビに写る東北各地の惨状や東京の大混乱に居ても立っても居られない焦りを感じたが、飛行機は飛ばないし、どうすることも出来ず、腹を据えて予定通りのスケジュールをこなして翌々日帰京した。
 その松山吟行の途次、三津の浜辺にある不動院という寺の芭蕉塚の傍に大きな蘇鉄が茂り、実を沢山つけて、熟した固い実が根方にぼろぼろ落ちていた。ここは江戸後期、松山の俳人が相寄り芭蕉真蹟と言われる短冊を埋め塚を築き「芭蕉翁百回忌追善供養」を催した。一茶も西国巡遊の折りにここに来て句会を行っている。その頃に植えられた蘇鉄なのだろう、太い幹が何本も生えて堂々としている。「大震災の折りにのうのうと松山吟行した記念」に、その実を六個拾って、帰宅後鉢に植えた。数ヶ月たつと二本芽生えた。細く堅い葉が羽状になった枝というか葉というかが一年目は一枚、次の年の晩春から初夏にかけて二枚へと、毎年ほぼ一枚ずつ増え、今は最初の一枚が枯れ落ちてしまったが七枚生えている。ただ二本生えた内の一本が三年目に枯死してしまい、今はたった一本。18.03.11.松山蘇鉄.jpg
 幸い生き残った一本は松ぼっくりのような幹がふくらんで、ずいぶん立派な姿になった。3・11記念蘇鉄として大事に見守っていこう。

 三・一一動く気配の蘇鉄の芽
 
 
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2018年03月06日

平成へっちゃら節 (10)

忖度の行き着くところ

 昨年来大問題の「森友学園事件」にまた新たな疑惑が浮上、国会が空転している。安倍首相夫人が名誉校長を務めたり、国有財産の土地が時価の十分の一で払い下げられるなど、変な事が一杯あったのに、安倍首相以下政府首脳は潔白を主張し続けてきた。まさに蛙の面になんとやらの感じである。
 しかし、つい最近、「森友学園への土地払い下げを確定するための財務省内の決済文書が、公表されたものと、それ以前の(正式な)文書とは異なる」という朝日新聞の特ダネ記事をきっかけに、一挙に大噴火を起こした。
 役所が何事かを実行するに当たっての決済文書が後で書き換えられてしまうというのは言語道断で、もちろん重大な犯罪行為である。野党は国会で問題の文書を明らかにせよと迫っている。麻生財務相は「捜査中なので出せない」と突っぱねる。しかし、国権の最高機関が求めるものであれば、検察だろうと警察だろうと従わざるを得ないので、これはいくらミゾーユー(未曾有)のソーリダイジンだったアソウさんでも頑張り切れまい。
 それが証拠に、時の権力にぺたりと貼り付いて政界を泳ぎ渡り、勢力を伸ばしてきた二階自民党幹事長が、「どうして(文書を)出せないと言うのか分からない」とまで言い始めている。もしかしたら、ニカイさんはこの決裁文書なるものは大したものではなく、現政権に決定的ダメージを与えはしないと踏んでいるのかも知れない。そこまで掴んで、「出してやれよ」と言っているのだとしたら真底凄い人だ。あるいは逆に、これはかなりの大ごとだ、こりゃアベちゃんそろそろかもと、ほんの少々ヘッジをかけたのか。いずれにしても現在の与野党ひっくるめた中で傑出した政治家かも知れない。むしろシンゾーさんに変わって総理になった方がいい。そのくらいの人物ならトランプさんや習さんとも渡り合えるに違いない。
 まあそれはさておき、公文書の勝手な作り替えなどが発生するのは政治家がぼんくら揃いで、全てを役人任せにしてきたツケが回ってきた証拠である。今や国会審議の質問、答弁まで役人に頼るという状態になっている。今更何をと言われるかも知れないが、古今東西、国政を牛耳ってきたのは役人である。役人とは、皇帝や王、あるいは国民を代表する国会など権力主体の指示の下に政務(行政)を行う。官僚とか官吏、公務員、時には公僕などとも言われる。上位の官僚は国家予算を握り、国を動かす強大な力を持ち、下は区役所の出先機関のゴミ収集などに当たる者までさまざまだが、それぞれ身分階級に応じて大変な権力を持っている。こうした役人全てが清廉潔白な正義感の持主であればいいが、そんなことを期待する方が無理で、権力をかさに横暴な振る舞いをしたり、中にはワイロを取って私腹を肥やす悪い人間が出て来る。
 民主主義体制では、役人のそうした不正を防ぐために、法律を定めると同時に上級官僚を任命する権限を持つ立法府(国会)と、不正を取り締まるための捜査と裁判権を持つ司法(検察・裁判所)を置き、役人集団のトップには国会で選出された内閣総理大臣(首相)と国務大臣を据えて政務を遂行する行政府(内閣および各省庁)を形作る、いわゆる三権分立の仕組みを拵えている。その総理大臣は国会議員から選ばれ、国会議員は無論、総選挙で国民の投票によって選ばれる。だから、このシステムが理想通りに行われていれば、変な役人による不正など起こるはずはないのだが、実際にはしばしば妙なことが起こる。
 財務省の森友学園への国有地不当廉売や文部科学省の加計学園開校認可問題などでの役人の胡散臭さと隠蔽体質がそのあからさまな事例である。こういう不祥事が起こった場合、総理大臣、国務大臣は責任者の役人を処罰しなければいけないのだが、むしろかばう立場に回る。本来は、各省の次官、審議官、局長などは国務大臣が総理大臣の意思を体して任命する権限と義務を負っているのだが、実際は各省の次官とその取り巻きによって次の次官が決められ、大臣はそれにメクラ判を捺すだけになっている。おしなべて大臣というのは、ただただなりたい一心でなった人が多いから、業務遂行は一から十まで役人が手取足取りである。人事だって時の次官の云うがままにならざるを得ない。もしそれに異を唱える硬骨の大臣が出たとしよう。その大臣は国会答弁でヘマをしでかしたり、何かの不祥事が明るみに出されて、短時日で更迭ということになる。今や日本は清朝末期の姿と言っていい。

 へっちゃらちゃらちゃらへっちゃらだ
 ヘマは認めりゃヘマになる
 馬耳東風と受け流し
 忖度しつつ木に竹を接ぐ
 宦官政治の奈落見ゆ
 へっちゃらちゃらちゃらへっちゃらだ
 へっちゃらちゃらちゃらへっちゃらだ
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2018年03月01日

俳句日記 (392)


「住みたい街」とは
 3月1日付けの新聞に「住みたい街、横浜が首位」という記事が出ていた。長年、東京の吉祥寺と恵比寿がトップを競い、横浜は万年3位だったのが初めて1位になったと書いてある。そんなことを言われても少しも面白くない。
 横浜に生まれ育って80年。途中、戦災の混乱期の疎開と、海外勤務の数年間を除けばずうっと横浜になじんで来た。「市」の図体が大きくなり、また横浜駅周辺や港周辺の「みなとみらい」などというへんてこりんな名前のついた地区の発展ぶりは物凄い。繁華街はずいぶん派手な装いになっているが、さて横浜が住みよい街になったかどうかと問われたら、即座に「はい」とは答えられない。やたらに人ばかり多くなって、繁華街も住宅地も、がさがさした感じになっているような気がするのだ。
 近ごろの、街並みが綺麗になり交通の便も良くなって来た横浜には、昭和3,40年代の不便ではあったが、横浜らしい感じの良さが薄れてしまったように思うのだ。商店街の様子も、売っている物にしても、そして歩いている人たちにしてからが、それこそ吉祥寺、恵比寿、銀座、渋谷、新宿などと大差無いものになってしまった。
 横浜は東京日本橋から30キロしか離れていないが、昭和30年代までは東京とはかなり違う雰囲気があった。一言でいうと「ハイカラでバタ臭い」感じだった。
 幕末、列強から開国を迫られて嫌々開いた横浜村は、あれよと言う間に先進文化の取り入れ窓口、外貨獲得拠点になった。これは第二次大戦の昭和16年(1941)まで続いた。中心街の伊勢佐木町や元町には東京には無いハイカラな品物を扱う店が並び、オデオン座は全国に先駆けて欧米の映画を上映する封切り館として名を馳せた。
 太平洋戦争末期、米軍の猛爆撃によって横浜は灰燼に帰したが、敗戦直後から進駐軍が駐屯して"占領軍景気"といった様相を呈し、イセザキ町はじめ野毛や元町などの繁華街は東京の人たちも引き付けて大賑わいを見せた。アメリカの文物が真っ先に上陸する所であり、流行の受け入れ発信地となった。それと伝統的な日本文化の融合も発生した。1970年代に爆発的人気になった横須賀米海軍基地の兵士達の派手な刺繍ジャンパー「スカジャン」も、その前身は既に1940年代末のイセザキチョウの衣料品店に出ていた。戦後、見向きもされなくなった絹の着物や帯の刺繍師たちが、ふとしたきっかけで進駐軍兵士のジャンパーの背中に「フジヤマ・桜」や「龍に虎」「鯉の滝登り」などの派手な図柄を刺繍したのが大当たり、日本土産の本命になった。それが70年代に日本の若者の間で持て囃されるようになったのだ。横浜元町発祥のハマトラも戦前の横浜山手の洗練された趣味と、戦後の欧米ファッションとの融合であった。
 こんな具合で横浜には東京とはちょっと変わった風土があったのだが、高度経済成長期を経て,バブル崩壊、その後の長い長い低迷期を経てきた間に、横浜は東京と渾然一体となってしまった。
 東京から30キロという近さも起因している。ことに昭和41年(1966)に東急田園都市線が開通してからは拍車がかかった。この田園都市線沿線は昭和30年代までは狐と狸の住み処であった。何も無い所に住宅地を開くのだから、それこそ絵に描いたような町が出来る。一挙に人口が増え、都筑区、青葉区、緑区といった新しい区が生まれた。しかしこれらの町は従来の横浜中心部とのつながりは薄く、道路も未整備で、もっぱら東京の勤め先に通う人たちの居住区に過ぎなかった。横浜市民でありながら心と生活圏は東京という人たちだった。
この辺から横浜の変質が始まったように思う。
 それが今、「横浜」ルネサンスなどと言われ始めている。「古き良き横浜」を再構築するのだと、明治から昭和初期の建物を復旧したり、あれこれの由緒をほじくり返したりしている。元々150年前には何も無い所だったのだから、この「横浜」がどのような姿になろうとも良しとすべきだろう。ただ一つ気がかりなのは、横浜市など行政当局が「外客に満足してもらえる町」などと言っていることである。いま、安倍自民党政権は外人観光客の増加に狂奔している。横浜市もこれに右へならへしているのだが、最も大切なのは今そこに住んでいる人が最も住みやすい環境を作ることである。それが全うされれば、呼ばなくても観光客は来る。
  わさわさと横浜駅や春の塵


posted by 水牛 at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする