2018年07月31日

俳句日記 (413)


雲の峰と雷電(3)

 今の力士は最低学歴でも中学まで9年間の学校教育を受けている。高卒、大卒の力士も多い。読み書きに不自由は無いはずなのに、新聞を読む者は少なく、ちゃんとした本を読むのはさらに稀で、大概はマンガかスマホゲームだという。もっとも、日本国を取り仕切っているような言動の副総理財務大臣だって読書といえばマンガばかりというから、相撲取の読書放れをとやかくは言えない。
 兎に角、まともな本を読まないとは言っても、力士も財務大臣も字は読める。「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだりすることが時々はあるようだが、まあ国会答弁で事務方の書いた答弁書などを読み上げているから、まずまず読み書きは出来るようだ。
 しかし、雷電が活躍していた江戸後期、読み書きが出来る相撲取は皆無と言ってよかった。自分の四股名が書かれた番付を読めない力士が多かったのだ。無理も無い。大概の相撲取は貧農の倅か、その日暮らしの日傭い稼ぎの息子で、寺子屋など縁遠い育ちである。たまたま体力と抜群の運動神経に恵まれていたために拾われたのだ。弟子入りしてからは稽古と、親方や先輩力士に言いつけられた仕事で日が暮れる。読み書きを習う機会に恵まれないままに大人になり、幕下、幕内、小結、関脇、大関と出世街道を歩んで行ったとしても、文盲のままである。
 その点、雷電は違った。太郎吉と名乗った少年時代、土地相撲の勧進元で寺子屋もやっていた庄屋の上原源五右衛門(源吾右衛門とも)に見出され、住み込みの門弟になって相撲の稽古とともに読み書き算盤をみっちり仕込まれた。生来利発だったのだろう、それを認めた源五右衛門は太郎吉を近所の寺の和尚の下に通わせて四書五経をみっちり仕込んでもらった。だから、江戸相撲の親方浦風に連れられて江戸に上った17歳の太郎吉は、田舎相撲では既に負け無しの力を備えていた上に、読み書き算盤はもとより漢籍も読める、当時の田舎出の若者としては考えられないようなタレントになっていた。
 腕力知力が優れていただけではなく、雷電は生来真面目な性格だったようで、江戸に出て以来、死ぬまで日記をつけていた。雷電がつけていた日記は現役時代の「諸国相撲和(控)帳」と、引退後、出雲・松江藩の相撲頭取になってからの「萬御用覚帳」だが、一般には併せて「雷電日記」と呼ばれている。その原本は長野県東御市の雷電生家の関家に保存されているそうだが、私は見たことが無い。雷電日記について聞いたのは中学生の頃、相撲狂の亡父が「酒井の殿サンから聞いたのだが、雷電は総身に知恵が回る相撲取で若い頃から死ぬまで日記をつけていたんだそうだ」というのが始めてだった。酒井の殿サンというのは旧姫路藩の最後の藩主の跡取りの酒井忠正で、実際には廃藩置県以後の生まれだから殿様ではないが、やはり相撲キチガイで戦前は伯爵・貴族院議員で戦後は初代横綱審議委員会委員長になった人である。地位とお金にあかして相撲関連の資料やグッズを1万点以上も集め、それを元に国技館の横に相撲博物館を拵えて初代館長におさまった。この人が書いた「日本相撲史」上下巻は相撲の歴史を研究する人のバイブルで、この中にも「雷電日記」の記述がある。
 近年、と言ってももうかれこれ20年前になるが、力士出身の文筆家小島貞二が雷電生家にあった日記を借り受け、学者の助けを借りて現代語に訳した『雷電日記』(ベースボールマガジン社・1999年2月)を著した。これによって相撲フアンの間に雷電人気が一層高まった。水牛ももっぱらこれを参考にしている。
 日記の最初は寛政元年(1789)六月、雷電数え年23歳、江戸本場所デビュー一年前である。原文は活字になっても少々読みにくいので、適当に送り仮名をつけたり、文字を変えたり、必要最小限の補足を書いたりした、冒頭の一文は以下の通り。
 「六月、江戸表を出立仕り甲州街道を経て楫鹿沢(鰍沢)と申す所にて相撲七日興行仕り候。相撲相済み候て、それより川舟に乗り(富士川を下り)岩淵と申す所に付く。東海道を通り大阪表にまかり越し、八月まで逗留仕り候。八月一日、大阪表を出立仕り候ひて、御国表(島根県松江市)に同六日着き仕り候。同二十三日、御奉行田村弥市様のもとに(伺い)、御切米八石に三人扶持下し置かれ候」
 雷電が八石三人扶持で雲州藩のお抱え力士、つまり士族になった瞬間である。雷電は日記の中で、自分の結婚のことはもとより親や愛娘の死ですら書かず、もっぱら本場所、巡業の結果を淡淡と記しているだけなのだが、さすがに己の一人前の力士のスタートだけは書き留めておきたかったようだ。
 雷電の受けた「切米八石に三人扶持」というのはどの程度の年収か。「切米」とか「何人扶持」と言うのは、何石取りといった「知行取」の上級武士でなく、米の現物支給(それを時の米相場で換算し現金支給となる場合が多い)の下級武士の俸禄である。一人扶持は一日五合計算で一年分は約一石八斗だから三人扶持だとざっと五石強、切米は春夏冬に支給されるボーナスでこれが年間八石。ということは雷電の年収は米十三石。当時の米価は一石一両から一両二分くらいだったから、単純に米価で換算すると雷電の年俸は五百万円くらいということになる。もっともこれは単純に当時と今日の米価から換算したもので、衣料品はじめ生活必需品全般を以て精緻に計算すれば当時の一両は現在の百万円相当と見做せるかも知れない。とにかく、満22歳の青年としては高給取になったわけだ。
  風雲児秋の出雲の初土俵
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2018年07月24日

俳句日記 (412)


雲の峰と雷電(2)

 現在の日本相撲協会の動きを見ていると、失礼ながら、やはり総身に知恵が回りかねる人たちの団体だなあと思うことがある。しかし、文部科学省の指導監督下に、相撲興行を通じて相撲の指導・普及並びに相撲を通じて日本の伝統文化の継承、普及を図る公益財団法人という立派な組織である。
 これに対して雷電の活躍していた江戸時代後期の相撲興行の組織形態は今日とは比較にならないぐずぐずなものであった。相撲興行は幕府の許可を得た寺社が社殿改築の資金を広く集めるためという形を取り、勧進元というプロモーター兼プロデューサー(概ねはテキ屋の大親分)が寺社やパトロンとなる大店、有力力士を抱える大名家、相撲部屋の親方や大関など幹部力士を語らって本場所を運営していた。地方巡業も江戸本場所の形式を踏襲して、その地域の寺社や顔役に運営を委ねていた。
 江戸の本場所は安永、天明頃(一七七二〜一七八九)には本所回向院で開催することがほぼ定まっていた。ただ、この当時は今日のように国技館があるわけではなく、回向院の境内に仮設の木造三層建ての葦簀とムシロの小屋掛け。一場所十日間だが、屋根が無いから雨の日は中止である。降り続いたりすると二ヵ月、時には三ヵ月に及ぶこともある。
 そうなると、大関などの幹部力士や親方は一苦労する。何しろ弟子達や一門の人間を食わせなければならず、「抱え主」である大名への御機嫌伺いなどにも忙しい。親方や大関は中小企業の社長とも言うべき立場にある。本場所が長引くと年間スケジュールで決めている地方巡業との差し繰りが出来なくなってしまう。当時の江戸相撲の記録に有力力士の「全休」が目立つのは、そうしたスケジュール調整ができなかったという事情もある。横綱稀勢の里の八場所連続休場とは意味合いが異なる。
 もう一つ問題を複雑にしていたのは、「抱え」制度である。そもそも力士は奈良平安時代から存在し、出雲国、陸奥国など各国の領主が力の強い者を力士として抱え、朝廷が毎年七月に召集する相撲之節会で勝負した。旧暦7月は秋なので、俳句では「相撲」が秋の季語になっているのはここから来ている。そして、鎌倉時代になると武士が相撲を競うようになり、また相撲の強い者が武士に取り立てられるようになった。戦国時代から江戸時代にもその伝統が受け継がれ、大名は強い力士を「抱え力士」として武士に取り立てた。一方、その温床ともなった「土地相撲」というものがあり、その地域の祭や四季折々に勧進相撲を行っていた。その土地相撲に出る相撲取を束ね相撲部屋を組織していたのが親方衆である。
 本場所興行を開催する勧進元は、土地相撲の親方や有力力士を抱える大名家に掛け合って出場力士を集め、番付編成した。ということは、力士側からすると勧進元とは一場所ごとの契約で、終身雇用ではない。実際には一度本場所に出場すれば余程の問題が無い限り、毎場所出られたのだが、何とか身分的な安定が得られればそれに越した事は無い。
 一方、この頃は大名家同士の相撲試合が盛んになり、また十一代将軍家斉、十二代家慶が大の相撲好きで、江戸の大相撲をそっくり江戸城の吹上御苑に呼び寄せ「上覧相撲」を始めたことも手伝って、大名家は競って有力力士を抱えるようになった。雷電は本場所デビュー前に出雲国松江藩松平治郷(不昧)に召し抱えられた。雷電を仕込んだ初代横綱の谷風梶之助は讃岐国高松藩、谷風と並ぶ初代横綱小野川喜三郎は筑後国久留米藩のお抱え力士だった。
 このように強い力士は大概、大名のお抱えとなり苗字帯刀を許される武士になった。そして番付の出身地の欄には、本当の生まれ故郷ではなく、抱えられた藩の国名が付けられた。雷電の場合は信濃ではなく、出雲あるいは雲州である。強豪力士は藩名を輝かすスターだった。藩主の宴席に侍り、催事に顔を出し、藩主のお国入り(江戸勤番が解けて国元へ帰ること)には付き従って、国元で相撲興行を催したりする。そういう時には、江戸の本場所は「休み」にせざるを得ない。
 さらに、雷電が本場所デビュー(寛政2年11月場所、8勝2預かりの優勝)の翌年の寛政3年(1791)4月場所は初日から三連勝したところで中断、本場所は棚上げにされたまま、6月11日に初めての上覧相撲が行われた。雷電は関脇。結び前の一番で同じく関脇の陣幕と対戦した。ところが雷電は立つや一気に喉輪で攻められ、あっけなく土俵を割って、公式戦で初めての黒星を喫した。これは本場所ではないが、将軍の御前試合ということで力士本人はもとより抱え主の大名も力瘤が入るものだった。若い雷電は恐らく気負いすぎて固くなってしまったのではないか。その後、陣幕とは本場所で二回戦っているが二回ともちゃんと勝っている。
 上覧相撲は家斉時代に五回、家慶時代に二回行われた。雷電は初回に続き寛政6年の第二回、享和2年(1802)の第三回に出場し(第四回は引退後の文政6年で弟子の大関稲妻が出場)、いずれも大関として結び相撲を勝って締め括っている。特に第三回では「幕下(今の十両)力士五人掛」を上覧に供した。次々に出て来る五人の力士を投げ飛ばす豪快なアトラクションである。
 こんな風に雷電は天下無敵の大関として江戸はもとより全国的な知名度抜群の力士になった。その知名度を生かして、郷里の信州はじめ全国各地をきめ細かに巡業した。そして、その一部始終をきめ細かく「日記」に書き留めたのだから驚いてしまう。訪れた先々での興行の様子ばかりで無く、その土地の風物、遭遇した事件、事故などについて生き生きと描写しており、官製の記録や学者などが書いた物には無い、文献としても貴重なものである。次回はこれをちょっと読んでみようか。
  開け広げ涼風入れて日記書く
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2018年07月23日

俳句日記 (411)


雲の峰と雷電(1)

 つい先日の句会に「雷電の墓に詣でり雲の峰 木葉」という句が出されて、いたく感じ入り、NPO法人双牛舎のブログ「みんなの俳句」に取り上げた。江戸後期、17,8歳で信濃の片田舎から上京し相撲取りになり、天賦の体力、知力を生かして20年以上も最高位の大関を務め、本場所の成績254勝10敗、勝率96.2%という、今日に到るも誰も破れない圧倒的な記録を生み出し、絶対的な強さを見せつけた力士である。
 子供の頃から相撲が大好き、今は人ごみが億劫になって本場所にはほとんど足を運ばず、もっぱらテレビ桟敷になっている水牛だが、傍からはバカみたいと言われるほどじっくり見て居る。昨日終わった名古屋場所は予想の通り目も当てられない結果に終り、ああ情けない情けないと思っているところに、この雷電が浮かんで来て、両者の懸隔のあまりの酷さに唸ったのであった。
 雷電為右衛門は明和4年(1767)1月、信濃国小県郡大石村(現東御市)の百姓の息子に生まれ、幼名太郎吉。子供の頃から図体が大きく力が強く、13歳で小諸の城下町の米つき奉公に出た時には大人をしのぐ背丈になっていた。近隣の庄屋で相撲好きの上原源五右衛門に目をかけられ、ここに住み込んで相撲の手ほどきと読み書き算盤を仕込まれた。北信巡業の際に上原家を頼りにしていた江戸相撲の親方浦風林右衛門が太郎吉に目を止め、天明4年(1784)、太郎吉を江戸に連れ帰った。「負くまじき相撲を寝ものがたり哉」と詠んだ相撲好きだったと思われる蕪村が死んだ一年後のことであった。
 浦風は太郎吉を当時の角界第一人者谷風梶之助の内弟子とし、じっくり育てた。4年後の天明8年(1788)、実力の備わった太郎吉は松江藩のお抱え力士に採用され、「雷電」の四股名を与えられ、華々しくデビューしたものの、藩主のお国入り随行などで江戸の本場所にはなかなか出場できなかった。寛政2年(1790)11月場所、関脇付け出しで本場所初登場、晴天十日興行で8勝2預かり(勝負無し)で優勝相当の成績。以後、快進撃が始まった。文化8年(1811)2月場所、腰の調子が悪く全休、引退を表明。松江藩の相撲頭取に任命された。44歳だった。
 こんなスーパーヒーローを望むのは無理としても、もうちょっと何とかならないのかなあと思った。そんな中で、暗闇にぽっと灯火が光ったように見えたのが、千秋楽の御嶽海を苦闘の末に破った豊山である。これがものになるかなと、少し楽しみが湧いた。
  名古屋場所鯱も夏負けしたりけり
posted by 水牛 at 23:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月20日

俳句日記 (410)


どうするどうする

 水牛菜園の最盛期である。毎日、胡瓜が20数本、茄子6個か7個、大玉トマト3個、いんげん20数本、三尺ささげ20数本、オクラ5、6本、ゴーヤ4、5個。
 「いったいどうするつもりなの。もう、胡瓜なんか見るのも嫌、どうするつもり」と山の神は悲鳴を上げる。隣近所はもちろん、下町のタカハラ米店、ニイクラ酒店と配達している。しかしながら、下町商店街に無料配布するということは、取りも直さず山の神の仲良しである八百屋の正チャンの営業を妨害することになる。だからあまり大ぴらには出来ない。句会がある日は持って行ってスイートさんに押し付けたりしているが、それくらいでは到底はけない。
 「冷蔵庫の野菜室は1階のも2階のも満杯よ」と言う。「しょうがない、塩漬けにするか」「去年と同じじゃない。おととしもそうだった。その前の年も・・。そうして結局は捨てるンだから」。はいはい、分かっています。分かってはいてもそうせざるを得ないのが、夏場の園芸家の苦労。
 実は本日が今年3回目の胡瓜の塩漬け作りなのだ。前2回もそうだが、毎日穫れる胡瓜をせっせと食べて、人様に貰っていただいて、それでも積み上がるのが1週間か十日ばかりで5、60本になる。これを塩漬けにする。したはいいが、塩漬け胡瓜はこの炎暑だから、数日でカビが浮いてくる。そうすると全てを取り出して、残った漬け汁を大鍋に入れて煮沸する。それを冷まして、洗った塩漬け胡瓜を漬けダルに入れて漬け汁を注いで、また重石をかける。五日もするとまたカビが浮いて来る。また同じことを繰り返す。9月にかけてこれを七、八回繰り返す。すると、カビの方が呆れかえってしまうのか、もう生えなくなってしまう。その頃、塩漬け胡瓜はぺったんこの、いわゆる「板漬け胡瓜」になっている。こうなるともう腐らない。というより、腐りきってしまったのかも知れない。これを刻んで、おかかをまぶして七味を振り、醤油をたらりとかけて、茶漬けの具にすると実に旨い。
 だが、水牛が毎朝茶漬けに食う古漬け胡瓜の分量はたかがしれている。沢山、冷蔵庫に残っているところに、今年産が加わるという事態になる。「あなたは、捨てるために、こうしたものを拵えているの」と、山の神は言う。大昔、大学で冷たいドイツ人女性教授が詰問したのと同じ口調である。
 「うん、途中で味噌漬けやモロミ漬けにもするから、なんとかはけるよ。カショウやオオシマベンなんかは美味しいと言ってたから」などと、もごもご言いながら、50本漬けたのであった。
  猛暑酷暑得たりやおうと茄子胡瓜
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2018年07月16日

俳句日記 (409)


案の定

 無理を続けていると大相撲はダメになってしまう、相撲協会は、せめて酷暑の中の名古屋場所を昔通りの「準本場所」にする英断を下すべきだと言い続けてきた。水牛がそんなゴマメの歯ぎしりをしたところで、儲けの源泉をおめおめ断ち切るようなことはしないだろうが、無理し続けた咎めが遂に今場所はっきりと出た。これは今場所に留まらず、長く尾を引くことになるだろう。大相撲衰退の第一歩をしるしたのが、平成30年名古屋場所ということになるであろう。
 横綱稀勢の里が休場することは予想がついていた。左肩の負傷の治り具合どうのこうのと言うより、問題は精神状態にある。自信を持って土俵に上がる気構えが出来るかどうかで、今場所前、テレビが断片的に写す稽古場の表情、物腰からだけでも、とても無理という印象を受けた。この「心構えをつくる」ことがある程度出来れば、秋場所復帰は可能だが、それが中途半端のまま出て来ると、前半で幾つも取りこぼし、「休場・引退」になる。
 今場所、再起の場所と目されていた白鵬が途中休場となったのには驚いた。もっとも初日から、解説者は「力強い」とか「さすがは」とか言っていたが、どう見ても「くたぶれている」ことがはっきりうかがえた。支度部屋で落ちていたビニール袋で滑って足を挫いたなどというのが、そもそも衰えの証拠である。これに続いて横綱鶴竜も休場。これは精一杯やってきたことは認めるが、まあ三場所連続優勝など見込める力士ではない。大事に相撲を取っていてくれればいいものを、なまじっか三連続優勝の芽が出て来たなどと本人も色気づいたのか、早速無理をして身体を痛めてしまった。
 これで横綱不在場所になってしまい、後は新大関栃ノ心が頼りの場所になった。しかし、栃ノ心は水牛に言わせればこれまでが出来すぎ。あんな強引な力任せの相撲がいつまでも続くはずがない。いつかは必ず大怪我をすると、この前も書いた。案の定、小結松鳳山が吊られまいとしっかり腰を落として踏ん張っているのを外四ツから強引にごぼう抜きにした。こういう無理相撲は必ず後に響く。恐れた通り、六日目、けれんみの無い、ある意味では安心出来る相手の玉鷲に雑な相撲を取って引っ繰り返された拍子に足の親指を折って、あえなく休場となった。
 かくて名古屋場所は、哀れ、上から4人の人気力士が休場。七日目からは「大関です」と言うも恥ずかしい豪栄道と高安が交代で結びの一番を務める、まさに本場所とは言えない場所になってしまった。
 それにも拘わらず『満員御礼』の垂れ幕が下がっている。前売りで全部売れてしまっているからのようだ。
 結局、今場所は関脇御嶽海が優勝するのだろう。相撲協会はもちろん、NHKや新聞はこれを次の大関、大相撲のホープとしてヨイショするのだろう。しかし、この稽古をほとんどまともにやらず、天性の勘と技術だけで相撲を取って、気分が乗らなきゃ大事な取組をもあっさり落とすお天気屋が、今後の大相撲を担う第一人者になれる筈がない。
 期待の遠藤は相撲が小さくて名関脇といったところがせいぜいか。逸ノ城は体調管理が出来ないのか、大事なところで夏バテになったりしている。見どころがあると思い応援している輝は、まだまだ相撲が甘い。このままでは三役がせいぜいだ。
 こうして見ると、今の大相撲には時代を力強く背負う力士が居ない。白鵬はもう過去の人、鶴竜もそろそろ終り、稀勢はほぼ絶望、高安、豪栄道には望みを掛ける方が無理。しばらくはどんぐりの背くらべ、毎場所上位力士がごろごろ転がる、素人目には面白いが、味の薄い場所が続きそうだ。
  名古屋場所力士ごろごろ暑気中り
  
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2018年07月06日

俳句日記 (408)


加齢現象

 脳味噌が衰えている。80歳を過ぎて一年少々、認識力、判断力、記憶力が確実に落ちている。「日に日に」とまでは言わないが「月ごとに」くらいのスピードで衰弱が進んでいる。これに身体機能の衰え、視力聴力の低下が重なるから、失敗が多くなる。失敗するたびに「ああ情けない」と自分自身に対して怒る。自分自身を叱るだけなら、むしろそれは結構なこととも言えるのだが、時としてそれが外部に向かう。何かの拍子に他人の失敗を発見すると、ここぞとばかりにあげつらい、批判したりするのだ。これは、自らが失敗しがちになっていることを覚っているからこそ、その負い目をカバーするために他人の落ち度をことさらに騒ぎ立てるのだろう。こうなると、典型的な「嫌な老人」である。
 先日は俳句会の会報編集の総点検をしていて、字句の間違いや書き忘れなど、細かなミスが続出の原稿が送られて来て、向かっ腹を立てた。これまた典型的な「加齢現象」の現れと後から悟ったのだが、いきなり叱責のメールを、編集実務に当たってくれている後輩たちにぶつけてしまったのだ。ぶつけられた人たちにしてみれば、ボランティアでこうした辛気臭い仕事をやっているのに、頭ごなしにまるで腑抜け扱いのような文句を云われたらむっとするだろう。しかし、"メール発信汗の如し"、もう取り返しがつかない。
 今日は印刷会社への送金手続きでミスをやらかした。俳句会会員の句を取り上げてコメントを付し、「みんなの俳句」というブログで発信している。毎年この時期に前年一年間の掲載記事をまとめた本をNPO法人双牛舎から発行している。その第10集の印刷代金を印刷会社に振り込むために、銀行のATMに行った。しかし、そこのATMは手元が薄暗く、視力が落ちている身にとっては非常に辛い。ようやく操作手順を進めて払い込み先の金融機関名、支店名、口座番号を打ち込む処まで来た。しかし、請求書の欄外に小さく書かれている口座番号数字がはっきり読み取れない。請求書の小さな文字を灯りにかざして読んだりしているうちに、ATM画面の変な項目をタッチしてしまったのだろう、それまで打ち込んだものが全て消えて、最初の画面に戻っちゃった。
 怒りをぐっとこらえて、もう一度最初から辛抱強くやり直した。今度はうまく行った。万々歳。ところが、帰宅して改めて請求書とATMのご利用明細を比べ眺めたら、なんと、振り込んだ金額ははだかの印刷代金だった。本当はこれに消費税が加算された「合計請求代金」を振り込まねばならなかったのだ。「こんな、カーボン紙の薄れた文字では読めないじゃないか」と無性に腹が立った。しかし、自分の視力の衰えを自覚して、薄暗いATMの前に立ったら、まず最初に老眼鏡をかけるべきだったのだ。それをなおざりにした自分を忘れて、「こんな分かりにくい請求書を送りつけやがって」と相手をなじっている。
 このところ、そういうことが重なって、「いよいよ水牛も衰牛になり果てたか」と落ち込んでいる。
  誹るほど誹られてをり戻り梅雨
posted by 水牛 at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする