2018年08月24日

俳句日記 (420)


雲の峰と雷電 (10)
 なんで横綱になれなかったのか

 雷電はなんと44歳の引退まで最高位の大関を保っていた。しかも勝率96%という天下無双の成績を挙げた。横綱を張っていた谷風は自分の師匠だから本場所で対戦しなかったのは当然だが、同時期の横綱小野川とは4,5回戦って一度も負けていない。それなのに雷電は横綱に推挙されなかった。これが今日もなお解けない相撲史上の謎になっている。
 大相撲の「横綱」というのは発祥からしてまことにあやふやなものであった。そもそもは神前や将軍の御前で一番強い力士が白麻を綯った太い綱を締め化粧回しを付けた姿で土俵入りを行う「儀式」が先にあり、それを行う最強力士の名誉称号として「横綱」という呼称が生まれたようである。だから、力士の地位の最高位は大関で、関脇、小結と続き、それ以下は前頭筆頭、二枚目、三枚目と呼び十枚目あたりまでを「幕内」、それ以下は「幕下」。ただし幕下十枚目までは本場所で幕内力士の補欠のような形で本相撲(幕内取組)に出場した。
 ところが第十一代将軍徳川家斉の時代になって江戸相撲はがらりと変わった。家斉はなんと五十年も将軍の座にあり、前半は松平定信を老中として田沼時代の放漫財政で危うくなった財政立て直しや諸大名統率の弛みを引き締める「寛政の改革」を行った名君。しかし定信引退後は天下無敵の将軍として大らかすぎる政治に舞い戻った。このため、いわゆる化政期(文化文政)という江戸文化の華開く時代が訪れた。家斉は相撲が大好きで、寛政三年に江戸城内に相撲場を拵え、谷風、小野川、雷電以下を呼び集めて「天覧相撲」を開催した。この時に名を挙げたのが行司を勤めた吉田追風(よしだ・おいかぜ)であった。追風は将軍の目の前で谷風と小野川に横綱土俵入りを行わせ、自分が相撲の諸法度を司り横綱免許を与える権限を持った「司」であることをアピールしたのである。
 とにかくこれで横綱免許を与える宗家としての「吉田司家」は認知されたのだが、その後も長い間、「横綱」という呼び名は最高実力者に与えられる尊称であって、地位を示すものとは認知されなかった。横綱が地位として番付上にはっきりと示されたのは明治42年(1909)2月の相撲規約改正であった。その適用第一号は第十七代横綱小錦八十吉だった。その後、現代に至るまで大関として揺るぎない成績を収め、人格も上々の力士が「横綱」に推挙されると吉田司家が「横綱免許」を与える仕来りが続いてきた。しかし、昭和61年(1986)に吉田司家内部に野球賭博がらみの多額の借財や内紛が明るみに出て、間もなく宗教法人としての司家が倒産するといった事態に陥り、司家による横綱免許は第六十代横綱双羽黒のあたりで有耶無耶になってしまい、以後、相撲協会の推挙を受けた横綱審議委員会の承認による形になった。
 深川門前仲町の富岡八幡にある横綱碑には、初代明石志賀之助、二代綾川五郎次、三代丸山権太左衛門という生没年も定かでない伝説上の力士名が刻まれ、四代目として谷風、五代目小野川が刻まれている。この碑は相撲司家としての権威を吉田司家と張り合って来た五条家が、大政奉還の行われた慶応3年(1867)に横綱免許を与えた第十二代横綱陣幕久五郎が、吉田司家、五条家の融和の祈も込めて建立した碑である。五条家は相撲の神様野見宿禰を遠祖とする公家で、平安時代から宮中の相撲節会を司る相撲宗家だった。その点では相撲節会の行司などをやっていてその後、熊本藩士なった吉田司家よりは由緒正しい。しかし将軍家斉時代にがっちり足場を固めた吉田司家に江戸相撲では手も足も出ない、そこで大阪相撲、京都相撲で権威を振るった。それが幕末維新になると朝廷と公家の権威がぐんと高まる。さらに維新政府樹立、そして西南戦争では吉田司家が従った西郷軍が敗れてしまったために、五条家の相撲界における重みが一辺に高まった。しかし、五条家は横綱免許を乱発したり、規範があいまいだったりして自ら権威を失墜し、やがて明治末年。大阪相撲が衰退して東京相撲に吸収合併されるに及び、五条家の相撲界との縁は消滅した。こんないきさつもあり、横綱というものの重みも地位も、実際には明治末期まではかなりいい加減だったことが分かる。
 雷電時代は従って力士側もフアンも横綱というものに興味も重みも示さなかったようだ。それが証拠に寛政元年(1789)の谷風、小野川横綱同時昇進から次の横綱阿武松緑之助が生まれるまでなんと39年も間が開いているのだ(文政11年)。雷電が横綱にならなかった理由として、抱え主の雲州松平家と吉田司家の主家の肥後細川家との確執や、雷電があまりにも強くて相撲界の反感があったことなどが挙げられているがいずれも根拠が無い。むしろ雷電自身や松平不昧公が横綱称号に全く無関心だったというのが真因と言えそうだ。人気取りのために横綱を粗製濫造する今日の相撲協会に、このあたりを噛みしめてもらいたい。
  横綱の四股も軽しや虫の闇
posted by 水牛 at 22:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月16日

俳句日記 (419)


雲の峰と雷電 (9)
 火事と喧嘩は江戸の華

 文化二年(1805)二月、芝神明社(港区芝大門一丁目の芝大神宮)で晴天十日間の春場所が開幕した。もちろん大スター雷電を見ようと連日満員の盛況。ところが江戸っ子の人気を分け合うもう片方、火消「め組」の鳶の者たちと若い力士が大げんかして、場所をめちゃくちゃにしてしてしまう大事件が起こった。世に言う「め組の喧嘩」である。今回はその顛末を記した個所を読もう。
 「丑春江戸相撲 二月九日初日ニテ天気あいよろしくして十六日迄七日相撲取り申し候所 め組之者九龍山ト申す相撲人ト 神明地内之内ニ芝居之有り候テ 芝居之内ニテ少々之事ニ付き候 外茶や之前ニテちゃ屋の火ばち九龍山へうち付 それけんくわありし候申して 火の見ニテはん庄うち 町は 早ひやうしきを打ち鳶之者大勢二三百人も忍来リ 相撲場木戸前へ忍よせ家根之瓦ヲとつてなげちらし とび口をもつて木戸前へ忍よせ申し候 その内 四ツ車壱人参り候所 此者ヲ鳶口ニてふつてかかり申し候 四ツ車腰物ヲ抜ききってかかり 壱人きりたヲし其外二三人ニモきづヲ付候に付 あいてもあとへ引候ゆへ 相撲之小屋之内へ四ツ車ヲ引入れ申し候」
 この後すぐに、恐らく力士側の代表者たる雷電も加わって親方・年寄たちが相談し、奉行所に訴え出た。力士の管轄は寺社奉行、町人である火消し鳶職は町奉行。町奉行所から早速大勢の与力同心・取方が出動、乱暴を働いた鳶の者30数名と九龍山を逮捕した。しかし、官許を示す「蒙御免」の看板は壊され、木戸も滅茶滅茶にされ、春場所はやむなく休業、二ヶ月たった四月下旬に再開し残り三日間を行った。こんな大騒動があったにも拘わらず、雷電は十戦全勝だった。
 この大喧嘩は「め組の喧嘩」として語り継がれ、明治に入って「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)という歌舞伎狂言になって大当たりを取り、今日でも人気演目としてしばしば上演されている。しかし、喧嘩の発端は雷電も書いているように「少々之事」、つまりバカバカしくケチ臭い話だった。
 町火消「め組」は日本橋から芝浜松町辺を受持つ有力な組で、もちろん芝神明社も縄張内。火消・鳶の者は木戸御免だからめ組の辰五郎と長治郎は相撲の木戸を肩で風切って入ったが、一緒に連れていた地回りの富士松が木戸番に咎められた。辰五郎はオレの連れなんだから黙って通しなと言うが、木戸番は許さない。そこへ九龍山という幕下(十両)力士が通りかかり、規則通り木戸銭を払えと言って、その場は鳶職側は大人しく引き下がった。その夕方、場所がはねて、九龍山が境内に掛かっていた芝居小屋に入ったところ、そこに辰五郎一派がいた。互いに昼間のことがあるから、些細なことで言い合いになり、「表へ出ろ」ということに。鳶の者が芝居小屋の前の掛茶屋の火鉢をいきなり九龍山に投げ付け、ついに本当の喧嘩になってしまった。火消しの一人が火見櫓に上って半鐘を打ち鳴らしたから、たちまち2百人もの鳶職が集まり、鳶口や六尺棒などを振り上げて相撲小屋の木戸を打ち壊し始めた。そこへ応援に駆けつけたのが九龍山の兄弟子の四ツ車。幕内力士で武士の資格があるから帯刀している。打ちかかる富士松を腰の刀を一閃切り倒してしまった。さらに数人の鳶に負傷を負わせたところで、駆けつけた鳶の頭や相撲側の年寄連中が割って入り、捕方も出動して、ようやく大乱闘は鎮まった。
 さて騒動の決着だが、判決は一方的に鳶側に責めを負わせるものだった。そもそもの原因を作ったのが強引にタダで入場しようとした鳶側にあったこと、火事ではないのに早鐘を打ち鳴らして騒動を大きくした責任を取らされたのである。辰五郎は百叩きの上江戸払い、長治郎と早鐘を鳴らした長松が江戸払い、その他三十数名の鳶は説諭の上罰金。力士側は張本人の九龍山こそ江戸払いになったが、抜刀して数人を殺傷した四ツ車を始め全員お構いなし。伐られて死んだ富士松は数千円の入場料を惜しんだばかりに死に損ということになった。
 この判決で最も重い刑罰を受けたのは火の見櫓の半鐘で、遠島(島流し)になり、明治になってから芝大神宮に戻された。雷電は日記に「御上様ニても 相撲人をとなしきしかたニ候ニ付おほめになり 相撲人へはなんのおとがめも無之候」と書き、胸撫で下ろしている。ここから推測すると、江戸払いになった九龍山も実際には目こぼしになった感じである。
 鳶側がタネを蒔いた事件とは言え、こう一方的な判決では江戸っ子たちももやもやを抱えたのだろう、火消鳶への同情が集まったようだ。明治23年に上演された歌舞伎「め組の喧嘩」はそうした伝説をもとに、五代目菊五郎の辰五郎をやたらに恰好良く仕立て、鯔背な火消しをかなり持ち上げた話になっている。

  人気者同士の喧嘩江戸の春
posted by 水牛 at 19:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

俳句日記 (418)



雲の峰と雷電 (8)
大酒吞み(その2)

 寛政10年(1798)、芝神明社での春場所で8勝1無勝負1休で優勝相当の成績を挙げた雷電は、6月に奥州巡業に出立した。師匠の横綱谷風が3年前の寛政7年1月にインフルエンザで急逝、そのライバルの小野川も前年十月場所で引退したから、名実共に31歳の雷電が江戸相撲の第一人者となっていた。
 奥州巡業は秋田湯沢を幕開けに、北上して横手、さらに佐竹氏20万石の城下町久保田城(現・秋田市千秋公園付近)下で晴天十日間(7月15日から29日まで)の秋田場所。その後、ぐんと北上し陸奥との境、大達(現大館市)、そこから西へ一直線、ぬしろ(現能代市)、さらに人市宿(現・八郎潟町)での興行で羽後巡業を終えた。そこから日本海沿いに由利本荘市、にかほ市(象潟)を通って庄内の酒田から鶴岡へ行った。このルートは6年後の文化元年(1804)、象潟大地震の直後にまた通ることになる。その時には家屋は全壊、道は割れ、象潟は隆起して陸地になるなど大変な惨状で、雷電日記につぶさに書かれている(「雲の峰と雷電」第4回)。しかし、この時は平和そのものの旅であった。
 今回巡業の締め括りとなる庄内・鶴岡城下の十日間興行は雷電にとって大繁盛の楽しい場所だったようで、ハメをはずした自身の行状をめずらしく正直に書いている。
 「(羽後秋田の記述の後)それより羽州靎ヶ岡(山形県鶴岡市。以下鶴岡と書く)にて晴天十日相撲 乗金(契約金)八十両取る 木戸百弐拾五文(のうち)三拾文は元方(座元)に遣わし、九拾五文・四分取り申し候 四分は七拾両程御座候 惣じて百五十両ばかり取り申し候 此の相撲はんぢやう致し(候) 其の節 坂田(山形県酒田市)の佐藤清左衛門と申す者 坂田よりちかくし致し 川舟にて鶴岡まで送りくれ候 鶴岡に逗留致し 相撲に参り 支度部屋にて毎日毎日酒肴大吞みにて御座候 夜に入りてハおばすと申して女郎ちゃ屋参リ 大酒吞人ニ御座候 此仁 其後江戸表に参リ 四月比ヨリ八月迄逗留被致候 私方ニをり候
 其節坂田ヨリ鶴岡迄川舟之節 川口ニテ鮭あみを引かせ候所 壱あみに三十本程宛かかり 二あみ引きて五十本ばかり取り申し候 其内大ヲ五本ばかり参らせ 舟ニテ上り候 又 八ッ目鰻を壱かごあげさせ五升ばかりもをり候 それをもつて其夜 黒森(酒田市黒森)と申す村の名主之方ニ泊り候所 又 酒中くみよ蕎麦よ 夜中ニ餅をつく 夜通し酒 そば もちニテ夜を明かし 朝五ツ時比 川舟ニ乗り候ヒテ又酒を吞む 壱里ばかりも参り候 それヨリ上り 馬ニテ鶴岡へ参り候 其日 初日 御座候
 庄内相撲相済みそれより清川(山形県東田川郡立川町清川)と申す所に泊まり候ところ 此所迄女郎見送りニ参リ又夜中酒肴ニテ御座候 それより川舟ヲ上リ天堂(天童市)と申す所ニテ三日興行三拾両ばかりニテ取り申し候 それより山形ニテ二日四拾五両ニテ興行仕り候 (略)それより江戸表ヘ十月下旬ニ罷り帰り申し候 其時熊のかわ壱まへニテ帰り申し候」
 鶴岡は譜代大名酒井氏の庄内藩城下町、酒田は最上川河口の港町で商業都市、庄内米や上流の天童一帯で生産する紅花の積出港として、北前船の寄港地として大いに賑わった。酒田には豪商、富裕層が沢山いて奥羽地方最大の繁盛都市だった。日記にある雷電をもてなした佐藤清左衛門もそういった一人であろう。雷電一行を酒田で迎えた清左衛門は雷電と意気投合したらしい。酒田と鶴岡を結ぶ最上川支流と堀割を伝う川舟を仕立てて雷電一行を鶴岡に運び、そのまま自分も鶴岡に泊まり込み、毎日毎日相撲見物に来ては支度部屋に酒肴を持ち込んでの宴会。夜になると「おばすて(おばんです)」とやって来ては雷電一行を女郎茶屋(遊郭)に案内し宴会という大酒吞み。なんとこの人は翌年、江戸にやって来て四月から八月まで雷電の家に泊まり込んで遊び惚けたという。
 酒田でどんちゃん騒ぎのあと清左衛門は、雷電を舟で最上川河口に案内し鮭網漁をした。五十尾ほど獲ったなかから良いモノを五本選び、同時に獲ったヤツメウナギも五升ばかり持って、其の夜の宿泊所である黒森村の名主宅に持ち込んで大宴会。蕎麦を打ったり餅をついたりで夜明かしで吞み、五つ時(午前8時頃)にまた川舟で鶴岡城下へ行く時も酒、雷電は船着場から馬で場所入りし、初日の土俵を勤めた。こうして酒池肉林の鶴岡場所を終えて天童に向かったのだが、最上川の船着場清川まで20kmばかりを女郎達が見送りに来た。そこでまたまた徹夜の大宴会というのだからすごい。
 こうして五ヶ月にわたる長期遠征を終えて十月下旬に江戸へ戻ったが、みやげに「熊の皮一枚」を買ったというのが面白い。
  熊の皮恋女房へ土産とす
posted by 水牛 at 21:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月13日

俳句日記 (417)


雲の峰と雷電 (7)
大酒吞み

 雷電は身長6尺5寸(1.97m)、体重45貫(168kg)という、当時としては並外れた体格と抜群の運動神経を備え、まさに力士になるのが運命づけられていたような逸材だった。成人男性は五尺(約1.5m)が普通、5尺5寸(1.65m)あると大男と言われていた時代である。力士も大方は5尺8寸から6尺せいぜい、つまり1.7〜1.8mだった。そこに2mの巨漢が現れたのだ。
 当時も2mを越す巨人力士が居ることはいた。大相撲史上最も背が高い力士は長崎県平戸市出身の生月鯨太左衛門(文政10年・1827〜嘉永3年・1850)で7尺6寸(2.28m)、次いで島根県安来市出身の釈迦ヶ岳雲右衛門(寛延2年・1749〜安永4年・1775)と肥後熊本出身の大空武左衛門(寛政8年・1796〜天保3年・1832)の7尺5寸(2.25m)。深川の富岡八幡宮には釈迦ヶ岳の十三回忌法要を機に、実弟でやはり大関だった稲妻(真鶴)咲右衛門が建てた「等身碑」と、昭和になって作られた背高力士12人の四股名と身長を示した「巨人力士碑」がある。
 ただ、これらの巨人力士は大関を張った釈迦ヶ岳を除けば、ほとんどは成績が上がらず、土俵入りをするだけで相撲を取ることの無い「看板大関」というのが多かった。いずれも病的な体付きで、大空武左衛門36歳、釈迦ヶ岳26歳、生月24歳と早世している。そうした中で、雷電は「大きくて、強くて、健康的で明るく、頭が良かった」から、断然の人気者になった。
 江戸、大坂の本場所はもちろんのことだが、地方巡業も雷電一行が加わると大入満員になった。興行を司る勧進元はもとより他の部屋の親方・力士たちも、雷電と一緒だと実入りが増えるから大歓迎した。行く先々の旦那方や歓楽の巷でも雷電はもてもてだった。しかもいくら吞んでも平気という大酒吞みで、酒にまつわるエピソードが沢山ある。
 雷電には「張り手、閂(かんぬき)、鯖折(さばおり)」を禁じ手とされたという伝説があるが、それほど相手から恐れられ、取組む前から圧倒していた。とにかく21年間の本場所の成績は254勝10敗2分14預5無勝負41休。「預かり」と「無勝負」は先に書いたように、抱え主である各藩のメンツをたてるために行司、検査役、さらには勧進元まで巻き込んでの政治的配慮。「休み」は当時、正当な理由があれば「無勝負」扱いだったから、結局、雷電の勝率は9割6分という空前絶後の成績である。とは云っても、雷電も兎に角10番は負けている。そのほとんどが、前の晩に大酒を吞んでの二日酔いが原因と云われている。いずれも、全く気を抜いたとしか思えない、一気の寄りや喉輪攻めや奇策によって、呆気なく負けたようである。
 10敗の中でも最大の番狂わせと言われたのが寛政12年(1800)十月場所の初日、幕下三枚目(現在の十両三枚目)鯱和三郎(しゃちほこ・わさぶろう)との取組だった。雷電のような人気力士でしかも一門の総帥を務めている身には、初日は兎角鬼門であった。前の日まで抱え主や贔屓筋、関係各所への挨拶やそれに伴う宴席で疲れがたまっている。巡業の日程のずれから、帰京して翌日が初日ということもある。しばしば初日を休んでいるのも、そういうことがあったためである。
 そんなこともあって、雷電に限らず大関の初日の取組は、座元が気を利かせて軽い相手を選んだ。何しろ雷電はそこまで新記録の四十四連勝中であった。誰もが雷電の勝ちを信じて疑わなかった。
 当時の仕切には制限時間が無いから、両者立ち合う気迫が漲り、呼吸が合うまで、何十回も仕切を繰り返す。どうせ勝ち負けは分かっている、退屈した客がぞろぞろ帰り始めた。当の雷電も「おい、いい加減にせい」という気分になっていたに違いない。ようやく息が合い、行司が軍配を引いて両者立ち上がった。鯱はぶちかますと見せかけて、さっと雷電の後ろに回り込み、あっと云う間に向こう正面に送り出した。雷電の完全な油断だった。
 鯱は幕内と十両を行ったり来たりの力士で、結局は最高位が前頭三枚目で終わったのだから、雷電の連勝を44で止めたという事だけで相撲史に名を刻んだ。鯱の所属する久留米藩は松江藩を凌ぐ相撲好きで、初代横綱小野川(この時期には引退し親方になっていた)以下、錚々たる顔ぶれが揃い、この場所の東方の幕内はほとんど久留米藩の抱え力士で占めていた。しかし、小野川以下、雷電には一辺も勝ったことがない。何としてでも雷電をやっつけたい。それには警戒されない鯱のような力士が油断を突くのが一番と秘策を練っていたようだ。
 とにかく、雷電はこの後また38連勝したのだから、なんともはや痛恨の1敗であった。たまたまこの取組を俳諧の大立者宗匠の大伴大江丸が見ており、「負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠んだ。大江丸も雷電フアンだったようだ。
  吞みすぎを誡めつつも新走り
posted by 水牛 at 13:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月11日

俳句日記 (416)


雲の峰と雷電 (6)

 東京を中心に南は鹿児島、北は函館まで新幹線が走っている。在来のJR線や私鉄各線は、まあこんな山の中までと思うような所にまで入り込んでいる。遠隔地には空路で行ける。21世紀の私たちは旅をするのがとても楽になった。しかし、その半面、日本の内航海運はすっかり日陰に追いやられた。
 明治16年(1883年)、16歳の正岡升少年(後年の子規)は郷里伊予松山の三津浜から便船で神戸に行き、まだ全通はしていなかった東海道線の列車と途中便船を乗り継いで東京にやって来た。全国津々浦々から青雲の志を抱いて上京する青年達は、海路や河川の舟運を利用した。現代の我々がすっかり忘れてしまっている「海の道」「川の道」が、明治時代までは厳然として在った。雷電日記を見ると人々の生活に船路が生きていたことが分かる。
 「寛政三亥年(1791)春 二月十八日出立仕り甲州通り府中在の稲毛村と申す所にて晴天五日間の興行仕り候 廿七日相済まし廿八日出立仕り川舟に乗り下り川崎宿へつく 品川御殿山下にて晴天十日の稽古相撲仕り候 (中略)此の相撲もはんぢやう致し申し候 此給金六両二分も取り申し候 花(祝儀)も五両ばかりも之有り候 花はみな女郎屋へ参り候 それより上総国きさらずと申す所へ参り五日興行仕り候 此所にても給金四両ばかりも取り申し候 四月三日初日にて十五日相済み申し候 十五日 押送舟(東京湾近辺の魚を日本橋魚河岸へ急送する快速船)を廿五貫文出し 柏戸、芦渡(二人とも雷電の弟子で松江藩お抱え)私三人舟に乗り候ひて、未中刻(午後二時頃)舟を出し仕り、二里ばかりも沖へ出でし候所、漁船参り、此の魚を江戸へつみ候と申す事に候ニ付き、船頭船賃は取る事無用にして此の魚を積ませ下され候と申す事につき魚を積ませ、品川沖へ戌刻(午後7時)ころに参り・・・戌中刻(午後8時)ころ(品川の)宿へ参り申し候」
 日記によると、雷電一行(一番弟子の柏戸はじめ幕下の芦渡その他取的や他部屋の力士、行司、呼出、小者など含めて恐らく20人くらいか)は旧暦2月18日、甲州街道を江戸から西へ約30キロの府中へ向かい、そこから南下して多摩川を越え稲毛村(現・東京都稲城市)で5日間の興行(巡業花相撲)をした。その後には品川での巡業が控えている。
 巡業には褌、化粧回し、紋付袴、着替えなどを入れた明荷(葛籠)をはじめ、幔幕その他相撲の道具などさまざまの物があって、大変な大荷物である。陸路は大八車に積んで人足や取的が運ぶのだが、これが大変な労力と金銭を要した。そのため、巡業では川や海に近い所では舟運を利用した。今回も稲城市から川崎まで多摩川の舟運を利用した。川崎から品川は2里少々(約9km)だから、この方がずっと楽だ。
 品川御殿山での花相撲は連日大入り満員で、雷電の給金は六両二分と花代(ご祝儀)が五両余りと予想外の収入だった。当時の一両が今日の円でどのくらいになるかは、計算が非常に難しい。米価換算では一両30万円から40万円、衣料品その他消費者物価によると80万円から100万円という換算も成り立つ。雷電が故郷の長野県東御市に現存する家を建てるのに掛けた費用が50両ということから計算すれば一両は40万円くらいか。とにかく10日間の興行の給金が250万円から600万円というのだから悪くない。御祝儀の2,3百万円で弟子や取り巻き連中を従え品川宿名物の遊郭で豪勢に遊んだという。
 この後、雷電一行は品川から舟で東京湾を渡り木更津で晴天5日の巡業相撲。その帰り、木更津から品川へ押送舟(おしょくりぶね)を雇った。これは東京湾、相模灘などで獲った魚を日本橋魚河岸へ急送する舟で、帆をかけた上に4人から8人の水夫が艪を漕ぐ快速船である。相模湾で獲れた堅魚を押送舟で日本橋まで半日で運んだ。木更津にもこの舟の仕立場があったのだろう、雷電一行はこれを雇って品川まで一気に走らせた。ところが途中で漁船に出会い、獲った魚を品川まで運んでくれと頼まれた。本来この押送舟は雷電一行の貸切だったのだが、船賃は受け取らないということで魚を積み込んで、一緒に品川に帰った。こんな風に舟運は日本人の暮らしと文化の伝播に深く結びついていた。
  多摩川を梨の花愛で下りけり
posted by 水牛 at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月07日

俳句日記 (415)


雲の峰と雷電(5)

 雷電の江戸大相撲のデビューは寛政2年(1790)11月、満24歳になってからだった。天才と言われたにしては甚だ遅い本場所登場だが、これは抱え主の雲州公松平治郷の都合によるものだった。藩主がお国入りで松江に帰る時には随行しなければならないから、江戸の本場所には出られないのだ。しかし雷電は上京した17歳の頃から江戸でも近在でも、花相撲と呼ばれていた巡業場所に出て、その実力を示していたからデビュー早々、番付は関脇だった。
 その折の日記にはこう書いてある。「寛政二戌年秋 江戸大相撲相勤申し候 場所は本所回向院に御座候 相撲はんぢやう(繁盛) 小の川もなげ候 晴天十日の内 友鵆 小の川弐人とは勝負無しに御座候 極月十二日相済み申し候」
 この頃の相撲は雨や雪や勧進元などの都合でしばしば休みが挟まるので、十日間の興行が千秋楽を迎えたのは12月12日、ほぼ一ヵ月かかっている。ここに出て来る「小の川」は雷電の師匠である谷風梶之助のライバル横綱小野川喜三郎、友鵆(友千鳥)はその当時前頭四枚目で、どちらも筑後・久留米藩のお抱え力士である。この二人との勝負は「勝ち負け無し」(預かり)で、他の取組は全て勝ち、このデビュー場所は「八勝二預かり」の優勝相当(当時は優勝制度が無かった)の華々しい成績だった。
 しかし、疑問が残るのが、雷電が日記ではっきりと「小の川もなげ候」と書いておきながら、「勝負無しに御座候」と含みを持たせた書き方をしていることだ。これについて小島貞二の書いたものなどを見ると、雷電は小野川を寄り立て土俵際で投げを打っての完勝だったらしい。しかし、抱え主である久留米藩側から「小野川の打っちゃりが効いている」と猛烈な抗議があって、検査役が「預かり」の判定を下したのだという。友鵆との一番もやはり久留米藩側からの執ような抗議で「預かり」の判定。
 同じようなことは松江藩もやっている。これは雷電が引退後、松江藩相撲頭取に就任してからのことだが、同藩には雷電の後を継ぐ剛の者が居らず、ようやく玉垣額之助というのが関脇まで上がって来た。藩としては玉垣をなんとしても大関にしたい。そこで雷電に「弱い相手と取り組ませるよう相撲会所に働きかけよ」と命が下った。雷電貫禄に物言わせ相撲会所に圧力をかけたのだろう、文化8年(1811)11月場所の関脇玉垣は十日間で三役とは当たらず、幕内8人、幕下(現在の十両)1人と対戦、5勝1敗1預かり2無勝負1日休みという成績。なんとこれで玉垣は大関に推挙されてしまう。翌年4月、玉垣は新大関で本場所に臨むが初日、二日目は休場(恐らく分の悪い相手だったのだろう。当時は何らかの理由を挙げて休場届けを出せば「無勝負」扱い)、三日目からは幕下二人と幕内一人に勝って三連勝。その場所は天候異変や諸々の事情が重なって五日間で打ち切りとなったから、玉垣は三勝二休みで新大関の面目を保った。しかし場所後、相撲頭取雷電宛てに「引退願」を出して廃業してしまった。
 とにかくこの当時の大相撲は大名同士の意地の張り合い、親方や胴元、有力贔屓筋の思惑が絡み合い、かなりいい加減な勝負がまかり通っていたようだ。そのせいで、この当時の記録を見ると「分け」「預り」「無勝負」というのが盛んに出て来る。「分け」は真剣に渡り合い双方力を出し尽くしての「引き分け」である。だが、「預かり」と「無勝負」というのが曲者である。際どい勝負になると抱え主双方から強烈な物言いがつく。困った検査役は取りあえず、「この勝負は(検査役の)預かり」としたり、「無勝負=引き分け」としたようである。
 江戸時代はインチキでいい加減なやり方がまかり通っていたものだなあと呆れていたら、何と今日のスポーツ世界も同じようなものらしい。日大のアメリカンフットボール・チームの監督とコーチが自軍の若手選手に相手チームの有力選手を怪我させるよう指示していた事件や、日本ボクシング連盟の「終身会長」の地元選手には審判が有利な判定をすることが"慣行"になっているといったスキャンダルが、次々に噴き出している。「清潔感みなぎる」ことが売り物の高校野球甲子園大会も、都道府県代表チームと言いながら、監督も選手も全国からカネで集められた顔ぶればかりといった問題等々、人間のやることはいつの時代も同じようであるらしい。
  川風に櫓太鼓と鰻の香
posted by 水牛 at 20:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月03日

俳句日記 (414)


雲の峰と雷電(4)

 「雷電日記」というものがあると聞いたのは私が中学生の頃、つまり1950年から52年頃のことだったと先に述べたが、無論その当時は大した関心も寄せなかった。生意気盛りも手伝って、相撲取がまともに日記を付けるなんて考えられない、偉人伝によくある大げさに褒めそやす話の類だと聞き流した。
 それがとんでもない間違いだと知ったのは、平成22年10月23日、奥の細道を訪ねる日経俳句会の吟行会で秋田県象潟へ行き、郷土資料館で雷電日記を見た時だった。そこには雷電が目の当たりにした惨状や、地元の人たちの話す地震発生直後の状況を、生き生きとした筆致で書き留めてあった。
 芭蕉が「松島は笑ふがごとし、象潟はうらむがごとし」と書いたように、両者対象的な風情ではあるものの、両方とも海中に小島を点々と浮かべる景勝地だった。ところが文化元年(1804)6月4日夜、出羽を襲ったマグニチュード7.1の巨大地震でこの辺の海岸一帯が1.3mから2mも隆起し、浅い潟湖だった象潟は陸地になってしまった。無論、私たちが訪ねた象潟は完全な陸地で、海底だったところは田圃になり、島はあちこちに点在する小山になっていた。
 この大地震で象潟一帯から山形県酒田市あたりにかけての被害は想像を絶するものだったらしい。雷電は二ヵ月後に現地を訪れたのだが、その時もまだ地震が破壊した状況はほとんどそのままだった。それにしても雷電はよく書き留めておいたものだと感心する。私事には一切触れようとしない男が、巡業先で遭遇した出来事については、自分の見たことだけでなく、周囲の人たちから実体験を聞き出して書き綴っている。雷電という人はこの「日記」が主人の松江藩主松平治郷(不昧)はじめ関係者の目に触れることを意識して綴ったに違いない。ともあれ雷電日記の「象潟地震」のくだりを抜き書きしよう。
 「八月五日出立仕り候(文化元年八月五日、秋田市八橋の興行を終えて出立)、出羽鶴岡へ参り候ところ、道中にて、六合(由利本荘市)より本庄塩越通り致し候ところ、先ず六合より壁こわれ、家つぶれ、石ノ地蔵こわれ、石塔たヲれ、塩越(象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺、杉の木地下へ入り込み、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水有り、塩参り節(上げ潮時)ハくびまでも之有り候。其の形九十九島有ると申す事に御座候、大じしんヨリ下ヨリあがり、をか(陸)となり申し候。其の地に少しの舟入り候みなとも有り、これもをかとなり申し候。
 (大地震の発生は)六月四日夜四ツ時(午後十時)の事に御座候。地われて、水わき出る事甚だ急なり。年寄り子供甚だ難渋の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通リ残り無くいたみ申し候。酒田にて蔵三千いたみ申し候と申す事に候。酒田町中割れ、北側三尺ばかり高くなり申し候との事に候。長鳥山(鳥海山)其の夜峯焼け出し岩くづれ下ル事甚だしきなり。
 七日(八月七日) 鶴岡へ着き仕り候。十日初日、廿日相済まし申し候(以下略)」
 簡にして要を得た書き方で象潟大地震の惨状を述べている。これは単に読み書きの出来る相撲取の日記ではなく、ジャーナリストの記録と言っても良い。
  雷電一行啞然残暑の地震跡
posted by 水牛 at 12:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする