2018年10月29日

俳句日記 (427)


三渓蕎麦と北京ダック

 天高くとまでは言えないが、朝方の雨が上がってお日様が照った27日午後、仲良しのKチャン、☆チャン、馬吉さんを誘ってヨコハマ本牧・三渓園を散策、山手の外人墓地、港の見える丘公園を巡り、中華街で北京ダックを食べた。
 この三人とは、水牛が定年後のボケ防止と酒手稼ぎのために出かけるようになったアルバイト先で友達になった。馬吉さんは一回り年下、女性二人は二回り以上も若い元気溌剌たる人たち。まずは三人から若さを貰った。さらに日々こなす仕事でしばしばやらかすヘマを補ってもらった。そのお蔭で、このアルバイト先は実に過ごしやすく、また老化を先延ばしするのに絶好の場所になり、なんと後期高齢者という烙印を押される75歳まで10年以上も居続けた。というわけで完全引退した今も感謝の気持を込めて、この3人を呼び出しては美味しいものを御馳走し、歓談する会を続けている。
 表題の「三渓そば」とは、明治から昭和初年にかけて生糸貿易で巨万の富を稼ぎ出した豪商原三渓が作った名園三渓園の茶屋「待春軒」の売り物の変わった蕎麦である。三渓が茶会や歌会、談論の場で気軽に食べられるようにと、蕎麦の上に具を盛って汁を掛けた、今どきの冷やしラーメンに似たような変わり麺である。蕎麦とも言えず饂飩とも言えない、出来損ないのスパゲティのような麺の上に、蒲鉾やらハムやら筍、茸などを醤油葛餡でまとめたどろりとした汁をかけたものである。まずくはないが、さして旨いとも言えない。まあ、三渓園名物として一度は味わっておくのも一興といったシロモノである。18.10.28.三渓そば (1).jpg
 中華街市場通りの「北京烤鴨店」(ペキンカオヤーテン)は店名の通り北京ダックが売り物で、店先のウインドウには太った鴨がカギにぶら下がってゆるゆると動いているディスプレーも巧である。10年ほど前に出来た比較的新し店で、初めのうちは果たしてどんなものを喰わせるのか疑心暗鬼だったが、或る日、ふらふらと入って食べた焼鴨がとても旨かった。
 飴色に焼き上がった大きな北京ダックを載せたカートが座席の傍らにやって来て、若いコックが鮮やかな手つきでそぎ切りにしては小皿に積み上げ、丸くて薄い包む皮の蒸された蒸篭と、胡瓜と白葱の千六本を盛った小皿と共に供される。包み皮に焼鴨をたっぷり載せて胡瓜と葱を載せ、味噌だれをつけてくるりと巻いて食べる。焼きたての鴨はジューシーで香ばしく、実に美味しい。紹興酒ともとても相性がいい。18.10.27.北京鴨 (1).jpg
 北京ダック一羽は随分のボリュームで、4人で食べてもなかなか食べきれない。この外にタラバガニのチリソース、豆腐と蟹肉の旨煮、野菜あれこれの炒め物やら小籠包、水餃子等々を取ってしまったから、平らげるのが大変だった。そして出て来たのが今食べた北京ダックのガラで拵えたスープ。骨をぶつ切りにして花椒(中国山椒)、胡椒、クコの実などを入れて炊いた白濁したスープで、これがまたすこぶる旨い。みんなお腹がいっぱいになって、すこぶる上機嫌になった。ビールや10年ものの紹興酒、その他の飲み物を引っくるめて勘定書きは二万円少々。訳の分からない物を喰わせるチェーン店方式の飲み屋と大して変わらない。中華街の横丁にはこうした穴場がちょいちょいある。
  秋の夜を北京ダックと紹興酒
posted by 水牛 at 00:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月23日

俳句日記 (426)



燗をつける

 今年は10月17日が旧暦の9月9日で「重陽」の菊の節句、21日が十三夜(後の月)。そうした暦通りに急に肌寒くなった。本来なら今日23日が満月のはずなのだが、天文学上の日取りとずれが生じたか満月は25日だという。でもまあ、今宵もほぼまん丸。チョッキをはおって、「ああ秋も深まったなあ」と一人で良い月を眺めた。もう家人はとっくに寝に付いている。こうなると何と言っても温めた酒の出番である。
 平安から鎌倉時代の日本人は酒は冷や(常温)で飲むのが普通で、温めた酒は薬として飲んでいたようだ。中国唐時代の風習である重陽の菊の節句に散策(登高)し、温め酒を飲むのが百薬の長という言い伝えが尊重されたのだ。
 平安歌人に愛された中唐の詩人白楽天(白居易)に「送王十八帰山寄題仙遊寺」(王十八の山に帰るを送るに仙遊寺に寄題す)という七言律詩がある。仲の良い王十八が何かの事情で失職し故郷(山)に帰るのを惜しんで、かつて二人で遊んだ名勝仙遊寺を思い出しながら詠んだ詩である。その中にある「林間煖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔」(林間に酒を暖むるに紅葉を焼き、石上に詩を題するに緑苔を掃う)が日本の文人の心を捉え、後々まで紅葉狩りには燗酒が付き物になった。そして江戸の俳人はそれを尊び「温め酒」を季語に取り立てた。最初は昔からの呼び名である「あたためざけ」を用いていたらしいが、何とも口調が良くないので、いつの間にか「ぬくめざけ」という言い方が主流になった。
 まあそうした故事来歴はともかく、夜が冷え込んで来ると酒の旨味が一段と増す。近ごろは「日本酒」などと書いたり言ったりする人が多くなったが、「酒」と言えば日本酒に決まっているのだ。その他は焼酎、ウイスキー、ワイン、ビールなどと言えばいい。
 ベランダに出て暈を被った晩秋の名月をしばし仰ぎ、冷えた身体をまた温め酒で癒している。普段は割にどっしりとした東北北陸の酒が多いのだが、今宵は伏見の銘酒玉乃光の「純米吟醸ひやおろし」を温めて飲んでいる。上品でふくよかで実にいい。「秋」という題で句を作るはずが、そっちのけになってしまった。
  白居易を読み温め酒もう一本
posted by 水牛 at 22:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月15日

俳句日記 (425)


雲の峰と雷電 (13)

 天下無双大関の故郷を訪ねた

 前々から是非とも訪ねたかった雷電の生まれ故郷長野県東御市滋野に出かけた。たまたま俳句仲間と上田市別所温泉で松茸を賞味し、近くの北国街道海野宿を巡る吟行会があり、そのついでに足を伸ばした。
 しなの鉄道滋野駅の砂利敷きの狭い駅前広場に人待ち顔でいたタクシーに乗り込んだ。最初は「雷電顕彰碑」。旧北国街道沿いの一角に、巨大な切石を三段重ねた上に高さ二メートル以上もあろうかという石碑が二基立っている。西向きの碑が旧碑で南向きのが新碑だ。旧碑は松代藩士で朱子学者・兵法家として鳴らし、蘭学も修めた佐久間象山が碑文を書き、雷電三十三回忌を記念して建立されたものである。しかし、この雷電碑のかけらや砂粒を持てば「力が得られる」「商売繁盛」「絶対に負けないお守り」などという俗信が生まれたために、どんどん削られ、ついには判読不能になってしまった。これを惜しんだ象山の弟子勝海舟や象山の妻で海舟の妹順子、山岡鉄舟らが明治二十八年、政財界のお歴々に奉加帳を回し、旧碑の拓本を元に復刻再建したのが新碑である。一緒に来てくれた俳句仲間の二堂さんは書の達人である。巨大な雷電碑を仰いで、「うーん、なかなかのものだ」なんて唸っている。
 次は雷電の生家。畑の真ん中にぽつんと建っている。建坪五十坪ほどの二階建ての堂々たる土蔵造りで、一階の端が広い土間で土俵が作られ、その上の二階はぐるりが土俵を見下ろせる桟敷になっている。雷電は故郷へ帰るとこの二階桟敷にどっかと坐り、地元の相撲取をあれこれ指導していたのではなかろうか。
 土俵の外の土間の隅には風呂桶が展示されている。雷電が太郎吉と呼ばれていた少年時代、母親けんが、庭に据えられたこの風呂桶で湯浴み最中に大雷雨に見舞われた。すると少年太郎吉は母親の入った風呂桶ごと抱え上げ、屋内に取り込んだという伝説の風呂桶である。
 この雷電生家は、大関として一世風靡した寛政十年(一七九八年)に五十両(今のお金で言うと一千万円くらいか)で建て直したもので、その後百数十年、養蚕所や物置になっていたが老朽化したため、遺族や雷電顕彰会などによって昭和五十九年に解体復元され、東御市の文化財になった。
 さてその次は雷電の墓。かなり大きな墓所で中央に雷電の墓と、その隣に父親半右衛門の墓が並んでいる。雷電の墓はそれなりに大きくて立派だが、ごく当たり前の墓石。それに対して半右衛門の墓が実にユニークだ。台石が四角な箱膳の形をしており、その上に載った墓石が酒樽、その上の笠石が大きな盃である。雷電の父親は体格はさほどではなかったが、相撲が滅法強く、村相撲では大関を張った。雷電もそうだが父親も途方もない酒好きで、雷電が生家を立て直した寛政十年末に五十八歳で脳溢血で死んだ。親孝行な雷電は父親があの世でも酒に不自由しないようにと、当時としては破天荒な墓石を作った。
 雷電は親孝行でもあり、愛妻家でもあった。寛政四年か五年、新進大関として人気大いに上がった二十四、五歳の頃、巡業か成田山詣での折に立ち寄った臼井の甘酒屋で給仕に出たその家の娘はん(後に八重と改名)に一目惚れし結婚した。寛政六年に娘が生まれたが四歳で病死(俗名不明、戒名釋理暁童女)、その後は子に恵まれなかった。「雷電日記」には家族のことを一切書いていないが、ただ一個所、出羽巡業の際に八重さんへのみやげに「熊の皮」を買ったことが記されている。
 松江藩の相撲頭取を辞めて完全引退した後は臼井の八重の実家の近所に家を建てて住み、五十九歳で八重に看取られながらそこで息を引き取った。というわけで臼井の浄行寺墓地(現在廃寺、近くの妙覚寺が管理)に妻八重、娘理曉童女と共に眠っているのだが、生地の東御市の関家墓地にも分骨され、雷電の妹のとくが婿を取り関家を継いで以後今日に至るまで雷電の墓を守り通している。それを知って、ぜひいつかはお参りに行こうと決めていたのが、今回の上田松茸吟行の付録として実現したのだった。
 雷電為右衛門と父親の墓に懇ろに手をあわせ、最後の目的地道の駅「雷電くるみの里」に行った。ここには小さな資料館があり、雷電の手形や松平不昧公から貰った化粧回しなど面白いものが見られた。そこで買ったくるみ味噌、野沢菜と秋茄子の塩漬けが旨かった。

  雷電の里や胡桃と秋なすび     水牛
posted by 水牛 at 21:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする