2019年03月31日

俳句日記 (473)


鍵屋

 3月30日(土)、日経俳句会創設者故村田英尾先生の高尾の墓にお参りし、小金井公園の桜まつりに出かけた。吟行幹事の堤てる夫日経俳句会幹事長を先頭に、中央線沿線の行楽地に詳しい杉山三薬さんの引率で、墓参から花見昼食、「江戸東京たてもの園」見学、小金井駅近くの割烹での懇親会を楽しんだ。
 前の晩の予報は「雨時に雷、最高気温10℃以下」という、花見には絶望的なものだった。しかし、朝10時にJR高尾駅に集合した時には、寒いことは寒いが雨は降らず、時折薄日の射す極めて平穏な曇り空。参加者は堤、杉山両幹事と嵐田双歩、今泉而云、澤井二堂、田中白山、中村迷哲、野田冷峰に水牛。これに近所に用事があって午後の花見から参加の向井ゆりさんの総勢10人。
 英尾先生の眠る都立八王子霊園は高尾駅北口からバスで10分ほどの丘陵にあり、都心より平均気温で2,3℃は低いだろう。そのせいか、ソメイヨシノはまだ三分咲きだった。先生が亡くなったのが平成17年3月2日、その翌年から毎春ここにお参りしているから、これで13回目の墓参。墓を洗い、花を捧げ線香を焚き皆で祈って、またバスで高尾駅へ。そこから武蔵小金井駅まで戻り、またバスに乗り小金井橋へ。
 駅やコンビニで弁当、カップ酒など買い込んで、小金井橋から玉川上水沿いの桜並木通りを歩く。ここの桜はヤマザクラとオオシマザクラで風情がある。しかし、すぐ近くまで迫っている住宅街住民から落葉や日照問題などについての苦情が来るのか、かなり枝が切り詰められ、老樹はいずれも勢いを失っている。「桜切るバカ」と言われるが、住民パワーには勝てないのだろう。
 上水もあちこちに調整池が整備されたせいで、昔と比べ水量がぐんと減り、川底をちょろちょろ流れる貧相な小川に成り下がっている。「これじゃ太宰は飛び込んでもおでこを擦りむくのがせいぜいだ」と誰かが言う。それでも水はとてもきれいで、少し深くなった所には大きな真鯉や緋鯉が群れていた。
 小金井公園のソメイヨシノはほぼ満開。大勢の市民が花の下にシートを敷いて、弁当や重箱を開いて楽しんでいる。我々もその中に溶け込んで、買って来た弁当を食べ、ワンカップを飲んだ。少々寒いがこれも風流、「まさに花冷えだ」と粋がっている。ここのお花見は上野山あたりと違って、赤ん坊や小さな子ども連れの「家族花見」の多いのが面白い。中には犬まで一緒だ。公園にはあちこちに食べ物を売るテント屋台があり、「お湯割り焼酎一杯ヒャクエーンッ」なんて大声を挙げている。
 燃料を詰め込んで元気になった一同、江戸東京たてもの園散策に腰を上げた。両国の江戸東京博物館の分館として、平成5年(1993年)に小金井公園の一角7ヘクタールに開かれた建物公園。二・二六事件で凶弾に倒れた蔵相高橋是清の私邸をはじめ、江戸から昭和戦前時代の建築物を移築してある。
 中でも懐かしかったのが、下谷二丁目の言問通りにあった居酒屋「鍵屋」が昔の姿のままで眼前に現れたことだ。この建物は江戸末期のものである。昭和36年に入社した頃から40年代半ば頃まで賑わった下谷名物の居酒屋で、先輩たちによく連れて行ってもらった。振舞い酒に馴れて銀座赤坂辺の高級バーなどに行く経済部、工業部などと違って自前で飲む我々社会部記者連は、こうした安くて旨い店を探したものだった。入口を入った土間に鉤の手のカウンターがあり丸い腰掛が十くらい。左手奥は狭い小上がりで、どちらもいつも一杯だった。立って吞んで居る奴も居た。
 鍵屋は言問通りの拡幅工事か何かで閉店、その後、鶯谷駅近くの根岸三丁目の裏通りの踊りの師匠か何かの古い家を買い取って、元の鍵屋の店内の雰囲気を再現し営業している。料理も酒も下谷時代と同じで、先代の息子夫婦(と言ってももう七十代半ばとおぼしい)がやっている。ここもとても良い店で、数年前に水兎さん、馬淵さん(日経俳句会購読会員)などを誘って出かけた。その後も何度か行くが混んでいて五回に三回は入れないから、だんだん足が遠退いている。
 久しぶりに鍵屋を見たら、俄にガソリンが切れかかっていることに気づいた。幹事を促し武蔵小金井駅近くの割烹「一駒」に上がって、群馬の酒「龍泉」(これは純米というのに妙に甘い)と「八海山」にありついた。そう言えば「鍵屋」の酒は春から夏は「櫻正宗」、秋冬は「菊正宗」、年中通してあるのが「大関」、確かこの三つしか無かった。未だ「地酒」などがバカにされていた時代だったなあ、などと昔の事が次々に浮かんできた。
 「4月3日までに吟行句五句、メール送信して下さーい」。てる夫幹事の声が響く。
  咲きつぎし玉川上水山桜
  呼売りのお湯割焼酎花の冷え
  花の下知らず一万四千歩
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2019年03月27日

俳句日記 (472)


難解季語 (13)

つちふる(霾)

 「つちふる」とは春に日本海を越えて大陸から飛んで来る黄砂である。漢字で書けば「霾」。この字は音読すれば「ばい」であり、古代中国の詩歌集『詩経』には「終風且霾」(終りの風にかつまたつちふる)という句がある。春三月から五月にかけて、中国北西部やモンゴルの沙漠地帯では土埃が大風に吹き上げられて空一面がもうもうとなる。こういう奇っ怪な現象を起こすものは妖怪に違いないというわけで、古代中国人は雨冠にタヌキという字を組合せて命名した。
 要するにこれは中国奥地で強風によって高く舞い上がった黄砂が、偏西風に乗って北京をはじめ中国の都市部はもとより日本にも降り注ぐ季節的現象である。春に特有の現象で、昔の日本人も中国大陸からの土埃であることは認識していたようで、「霾」という難しい漢字に「つちふる」という読みを宛てたほか、「胡沙」とか「蒙古風」、「つちかぜ」などと呼んだ。また「霾」と書いて「よな」「よなぼこり」という読み方をすることもある。「よな」とは火山灰を指す古い日本語である。火山国日本ではしょっちゅう噴火があり、火山灰の降ることはしばしばあったから、中国から飛んで来る黄砂も火山灰の一種と見なして「よな」と言ったようである。黄砂が日光をさえぎり、どんよりと曇ってしまうのを「霾天(ばいてん)」とか「よなぐもり」とも言う。その色を強調して黄塵と詠むこともある。
 黄砂は中国本土で猛威を振い、それこそ眼も開けていられないほどになることもあるようだが、さすがに日本海を越えて日本にやって来る頃には大分薄まり、日本海側の地方で時に草木の葉や屋根にうっすらと土ぼこりが付着する程度で済んでいる。そのせいか昔の日本人は黄砂に対して鬱陶しさは感じるものの、「ああ嫌だ」というのではなく、春到来の告知現象としてとらえる趣きが強かった。
 「つちふる」という季語は今でもそうした詩的感興を以て詠まれることが多いが、近ごろのように単純な砂埃だけではなく、中国大陸沿海部に林立する工場の煙突が吐き出す大量の煤塵が含まれているとなるとそうそう呑気ではいられない。中国では増産第一の気風がいまだに強く、環境破壊の元凶となる煤煙などの排出規制や管理が極めて杜撰で、いわば垂れ流し状態。北京、上海あたりは息をするのも苦しいほどになっているようだ。PM2・5という微小煤塵が黄砂に混じって偏西風に乗り、朝鮮半島や日本にも降って来る。従って現代の「霾天」は、昔のように「これも春の景物」と大らかに受け止めることが難しくなった。
  真円き夕日霾なかに落つ        中村 汀女
  二荒山墨絵ぼかしに霾れり       松崎鉄之介
  つちふるや大和の寺の太柱       大峯あきら
  霾ぐもり大鉄橋は中空に        山崎 星童
  騎馬族の裔とし眺むつちぐもり     竹中 弘明

  花粉症に往復びんた霾ぐもり      酒呑洞水牛
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2019年03月25日

俳句日記 (471)



難解季語 (12)

たねもの(種物)・ものだね(物種)

 「たねもの」と言うと、現代の、特に都会に住む人たちは蕎麦や饂飩の「かけ」に天麩羅が乗っていたり玉子でとじてあったり、何かタネが添えられ趣向が凝らされているものを思いつく。しかし、俳句で言う「種物」や「物種」は野菜や草花の種のことなのである。彼岸を過ぎると、物種を蒔く頃合いとなる。
 戦前はもちろんのこと、戦後も昭和時代までは、この言葉は通用していた。しかし、日本が農業国から工業国に移行するに従って、だんだんと使われなくなり、具の入った蕎麦うどんか、おでんのタネなどと受け取られてしまうようになった。ただし、「種」という言葉が「物事の始まり」「根本」「最も大切な物」であるということは、「命あっての物種」とか「話の種」といった言い方に生き残っている。
 今では野菜や草花の種は園芸会社が作って袋詰めにしたものをホームセンターや花屋で買うのが普通だが、昭和末頃までは田舎はもとより大都市郊外にも種屋があちこちにあった。大概は乾物屋や雑貨屋を兼ねており、近隣の農家が採取した種を、品種名のスタンプを捺した茶色の紙袋に小分けして売っていた。
  海沿ひの村の種屋の燕の子    水牛
という句は平成の初めに安房の千倉に遊んだ時に、「タネあります」という懐かしい看板の掛かった万屋の軒に燕の巣があって、賑やかに鳴きわめいていた情景を詠んだものだが、とにかくのんびりした感じだった。
 近ごろは大きな種苗会社が優良選抜種子を大規模生産し、通販でも売り出すようになっている。それによって各地方の特色ある野菜や花の種は追いやられ、全国画一的なものになってしまい、村の種屋は次々に姿を消してしまった。
 農家にとって種は命から二番目に大切なものである。元々は「種」とだけ言えばそれは稲のタネ(籾)を指した。「種蒔」というのも、籾を苗代に蒔くことであった。それと区別するために、野菜や花のタネは「種物・物種」と言うようになった。稲以外の穀類、野菜、花種を蒔くのを俳句では「物種蒔く」あるいは具体的に「胡瓜蒔く」「朝顔蒔く」などと言った。
 現代は狩猟民族の裔であるヨーロッパ人とその流れを汲むアメリカ人が支配する世の中だが、徐々に中国やロシアなどの農耕民族が勢力を増し、遊牧民族のアラブ人たちも発言力を高め、これら諸国が隙あらば欧米主力国に取って代わろうとする勢いである。れっきとした農耕民族でありながら「種物」の意味も忘れてしまった日本人。覇権を争う切札となるIT、AIなどといった先端分野でも遅れを取っているという。これからどのような道のりを辿って行くのだろうか。何か素晴らしい物種が蒔かれているのだろうか。
  物種の袋ぬらしつ春の雨       与謝 蕪村
  狭き町の両側に在り種物屋      高浜 虚子
  ものの種にぎればいのちひしめける  日野 草城

  物種を蒔いてとんとん叩き祈る    酒呑洞水牛
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2019年03月23日

俳句日記 (470)


難解季語 (11)

りゅうてんにのぼる(龍天に登る)

 この訳の分からない季語は二十四節気や七十二候とは関係無く、中国の古典にある言葉を面白がった俳人が俳句に取り入れたものである。後漢の中葉、西暦一〇〇年前後に編纂された『説文解字(せつもんかいじ)』という中国最古の字典の「龍」の項に「龍は鱗虫の長(中略)春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」とある。ここから出た言葉で、龍という空想の動物が勢いよく天に駆け上って行く時候を言う。つまり、万物が生成躍動する時期であり、そうした勢いの良い雰囲気を表した言葉である。
 『説文解字』という字典が出来たのは、後漢の初代光武帝か二代目明帝が、現在の福岡県あたりを支配していた王に「漢倭奴国王」の金印を下賜した頃であろう。邪馬台国女王卑弥呼が権勢を振るった時代より百年ばかり前のことである。邪馬台国が九州にあったのか大和なのか、卑弥呼がこの金印を持っていた倭奴国王の子孫なのか、全てがよく分かっていないのだが、とにかく卑弥呼が進貢した魏という国が成立するずっと以前に、こういう字典が編纂されていたのだから、古代中国というのはすごいものだ。
 この後漢という帝国は、王莽の乱で滅びた前漢の権威を回復し国力をつけ、儒教を尊び学問を奨励するなど、一応は大漢帝国を旧に復したのだが、中国全土に威令が行き届いていたのは初代光武帝から四代くらいまでの百年ほどだった。後の百年は閨閥と宦官支配の乱脈政治が続き、『説文解字』が完成した頃には、しっかりしているのは中央の洛陽周辺だけで、地方は軍閥や盗賊の親分連中が勝手気ままに振る舞う世の中になっていた。やがては黄巾の乱が起こり、『三国志』で有名な魏呉蜀の三国時代に移って行く。
 こんな時代だから、龍が天に登ったり、雀が海に飛び込んで蛤になったり、その蛤が巨大になって蜃気楼を出現せしめたり、といった怪異談が続々と生まれるようにもなった。何か変なことがあると、それは何物かの祟りといった話が出来上がる。自然災害が天の神様の思し召しによるものだという考えが定着したのもこの時代だと言われている。
 こうした思想が先進国文化として飛鳥・奈良時代に続々と入ってきて、日本人の心に棲み着いた。そして日本の気候風土や日本人の気質とぶつかったり折り合ったりしながら、いろいろな解釈が付け加わっていった。それらが私たち現代日本人のものの考え方にも影響を及ぼしている。龍は天に登ったり、淵に潜ったりしながら、我々にいろいろなことを考えさせるのである。
 夏井いつきというユニークな俳人が『絶滅寸前季語辞典』という面白い本の中で、「龍天に登る」について実にいいことを書いている。「あり得ない季語から、リアルな作品はいくらでも生まれる。(中略)龍がフィクションの生き物であるなんぞは問題にすらなり得ない。作品そのものが、どんなフィクションの感動を手渡してくれるか、それが文学にかかわる者の唯一の関心事なのだ」と。
 のどかな春の日に、目をつぶって龍が天に登っていく情景を描いてみよう。しばし幻想世界に心を遊ばせ、目を開いて世の中を見渡し、五・七・五を紡ぎ出す。自分でも思ってもみなかった句が生まれてくるかも知れない。

  龍天に登ると見えて沖暗し     伊藤 松宇
  龍天に昇りぬ髪の静電気      吉瀬  博
  龍天に昇る月夜の蘇鉄かな     五島 高資
  龍天に昇るや不夜の摩天楼     内田 庵茂
  龍天に登る体力テスト表      鈴木みのり

  昇天の龍を仰ぎてもう二合     酒呑洞水牛
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2019年03月21日

俳句日記 (469)


日経俳句会第177回例会
「春雨」と「雀の子」

 3月20日(水)夜、鎌倉橋交差点そばのビルの8階で日経俳句会第177回が開かれた。3月は人事異動や子供や孫の入学、卒業といろいろな行事が重なって句会に来られなくなったり、天候不順による体調不良を起こす人もあるのだろう、出席者が17人と少なく、投句参加が19人に上った。
 兼題は「春雨」と「雀の子」で、これに雑詠を含め投句は3句、投句総数113句、選句6句で句会を進めた結果、最高点は9点で入会したての旛山芳之さんの「雛納め三人娘に会へぬまま」の1句だった。次席8点は「身体じゅう口に親待つ雀の子 庄一郎」と「クレソンの沢潤すや雪解水 迷哲」の2句、三席7点は「何事も一拍遅れ雀の子 万歩」の一句だった。以下6点が4句、5点2句、4点7句、3点13句、2点18句、1点26句と続いた。
 この日、水牛の選んだ6句は以下の通り。
  春雨を溜めて小枝の雫かな         てる夫
 美しい句だ。音も無く降る春雨。それが小枝の先に水滴となって、大きく膨らむと落下する。枝先には芽吹き間近の緑がかった芽がぽちんと見える。そうした景色を見つめる作者の心はゆったりと落ち着いている。句会でも大いに人気を集め6点を獲得した。
  春の雨来るらし鶫せはしなし        百子
 北へ帰る日が間近に迫ったツグミ。長距離飛行に備えて体力をつけようと懸命に餌をついばんでいる。ちょんちょんちょんと跳ね回り地面をつつき、周囲を見回し、また、ちょんちょんと。本当に忙しないねえ、でも雨が来る前にせいぜい食べておかないと・・。
  卒業式飛べよ飛べ飛べ雀の子        早苗
 小学校の卒業式の感じである。起立し、礼をして、卒業証書を受け取る時はいっぱしの顔つきをしているが、まだまだ嘴は黄色い。さあ、みんな元気に飛んで行け−。大胆な、「飛べ」のリフレインが効いている。
  鐘を撞く自動装置や寺の春         百子
 我が家の菩提寺も、坊主が居ないのに鐘が音を出し始めたのでびっくりした。省力化がこんな所にも及んでいるのだ。見つけた句材がいい。
  クレソンの沢潤すや雪解水         迷哲
 帰化植物のオランダガラシ。今は日本中の清流に自生している。春早くから芽生え、春の到来をいち早く告げる。新鮮さを感じさせてくれる句だ。
  北窓を開けて小蝿に出会ひけり       青水
 「北窓開く」という絶滅危惧季語とも言える季語を用いたのが手柄。仲春、長いこと閉じていた北窓を開き、二階や屋根裏部屋の風通しをする。おやおやもう小蝿がという一寸した驚き。これは嫌なイエバエではなく、ショウジョウバエなどの類の小蝿であろう。
 この夜の水牛句は「降れよ降れ花粉流せよ春の雨」という半ばヤケッパチになっているのが3点、「春雨や紺屋へ嫁ぎゆく高尾」が2点獲得した。紺屋高尾が年季が明けて約束通り貧乏長屋に嫁いだのが3月15日だったと言われているのを詠んだものだが、「近ごろこういう句が珍しくなったんで、いいなと思ったよ」と而云が褒めてくれた。
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2019年03月19日

俳句日記 (468)


難解季語 (10)

しゃにち(社日)

 「社」とは土地の神のことで、春分・秋分に最も近い戌(つちのえ)の日に、土地神(氏神)にお参りし、春はその年の五穀豊穣を願い、秋は収穫感謝の御礼参りをする風習を「社日」と言う。春の社日を「春社」、秋のを「秋社」と分けて言うこともあるが、単に社日と言った場合は春社を指す。平成31年の社日は3月22日、彼岸の中日の翌日になる。
 社日も中国から入って来た習俗である。古代中国の哲理では、万物は陰と陽の二気から生じ、万物を組成するのは木火土金水の五元素とされた。この内、木と火は陽、金と水は陰、土はその中間とされ、これらの何が勢いを増し何が鎮まるかによって天地の変異、運不運、吉凶が定まると考えられていた。これと「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の十二支が組み合わされて、物事全てがこの組み合わせを解釈することで理屈づけられた。甲と乙は五行の木と組み合わされ、甲は陽で日本では木の兄(きのえ)と訓読みされ、乙は陰で木の弟(きのと)と名づけられた。「戊」は土の陽に配されるから「つちのえ」であり、それに当たる日は即ち「土の神を祀る日」というわけである。
 日本では社日は田の神信仰と結びついて根付いた。この日は農作業を休み、餅を搗き、土地神に五穀と餅やいろいろな御馳走を供えて祈った。「御社日様」とか「社日詣」などと呼び、大人も子供も集まって大いに賑わったのだが、最近は農村ですらあまり行われなくなってしまった。社日は彼岸の最中もしくは彼岸前後になるので、彼岸行事に呑み込まれてしまったことと、農事にまつわる信仰行事が全般的に下火になってしまったせいであろう。ましてやこれを季語として詠む人はほとんど居なくなってしまった。

  鳶ついと社日の肴領しけり      三宅 嘨山
  村口の土橋の雨も社日かな      松根東洋城
  社日詣の婆らに入りてやや若し    横山左知子

  背中掻けと猫の擦り寄る社日かな   酒呑洞水牛
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2019年03月17日

俳句日記 (467)


難解季語 (9)

さおひめ(佐保姫)

 春を司る女神。平城京の東に今は運動場や公園になっている丘があり、それが佐保山。裾には桜並木の佐保川が流れる。四季を東西南北に配すると春は東に当たるので、奈良時代の人たちは佐保山の神を春の女神とした。文化5年(1808年)に刊行された季語辞典『改正月令博物筌』には、佐保姫について「春の造化の神なり かたちあるにあらず 天地の色をおりなすをかりに名づけたるなり」と解説している。つまり、あたりの景色が春の色を帯びて来るのを女神のたたずまいに仮託したというのである。なかなか洒落ている。
 これに対置して秋の女神は「竜田姫」という。これまた奈良の西部生駒郡の山々の神様で、麓を紅葉の名所竜田川が流れている。
 このように春と秋を司るのは女神だが、夏と冬は荒々しい男神である。夏は南で「炎帝」、冬はもちろん北で「冬帝」あるいは「冬将軍」ということになる。
 昔の俳句(俳諧)は四季それぞれを女神、男神になぞらえて詠むことが多かったが、現代俳句では「冬将軍」が時々使われるくらいで、ほとんど詠まれなくなってしまった。気象学の発達で、四季の移り変わりがどうして起こるのかなどを子供まで知るようになったせいで、神様にお出ましを乞うことも無くなったということなのだろうか。しかし現実には天気予報の的中率は未だ大したことはない。明日の天気ですら八割当たるかどうかである。ましてや長期予報などは極めていい加減。人間、まだまだ偉そうなことは言えないのだ。
 「春は佐保姫という女神が運んで来る」というのは何ともロマンチックな感じがしていい。佐保姫様はやせっぽちか、ふくよかに膨らんでいるのか、目はぱっちりか細いのか、白いお肌が透けて見えるような薄い衣をなびかせて出現するのか等々、あれこれ思い描きながら明日の天気を占うのも楽しい。

 佐保姫の春立ちながら尿をして   荒木田守武
 佐保姫は白き障子を隔かな     夏目 成美
 佐保姫の先触れや雨こまやかに   小澤満佐子

 ふくよかな佐保姫浮かべ吟醸酒   酒呑洞水牛
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2019年03月15日

俳句日記 (466)


難解季語 (8)

たかかしてはととなる(鷹化して鳩となる)

 二十四節気は一年を二十四分割して各月の前半十五日を「節」、後半十五日を「中」と呼んで、その半月の特徴的な季節現象を示し、暦の補助としたものである。この節気をさらに五日ずつに小分けして季節推移と気象変化をより細かく説こうと、それぞれに象徴的かつ印象的な短文を示したのが「七十二候」である。
 二十四節気や七十二候は古代中国殷・周の都があった黄河中流域、現在の河南省あたりの気候風土に基づいて作られたから、日本の季節変化とは少々異なるが、奈良の朝廷はほぼそのまま取り入れた。その後部分的に日本流に改良を加えたものの、「二十四節気七十二候」はなんと千数百年間、第二次大戦後まで用いられ続けた。今でも日めくりカレンダーにはそれが印刷されているが、さすがに理解する人が少なくなって来ているようだ。
 「鷹化して鳩となる」もその一つで、二十四節気の「啓蟄(けいちつ)」の最後の五日間(三候)の日和を述べたものである。今日のカレンダーで言えば、3月16日から20日頃である。うららかな日和に、猛禽の鷹もすっかり穏やかに、まるで鳩のようになるというのである。全くばかばかしいような喩えだが、俳諧などをやる人はこういうのが大好きで、季語に取り入れた。
 しかしこれだけで10音も取ってしまい、とても句が作りにくい。「鷹鳩と化し」と縮めたが、それでも7音。実作向きの季語ではないが、面白いから、はめ絵パズルでもやるように、これで句を作る人が今でもぽつぽつ居る。

  新鳩(あらばと)よ鷹気を出して憎まれな  小林 一茶
  鷹鳩に化して青天濁りけり         松根東洋城
  鷹鳩と化し神木は歩かれず         鷹羽 狩行

  鷹鳩と化してたゆたふ日本国        酒呑洞水牛
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2019年03月14日

俳句日記 (465)


難解季語 (7)

きたまどひらく(北窓開く)・めばりはぐ(目貼剥ぐ)

 昔の日本家屋は通風を良くするため、東南向きあるいは南向きに建てるものとされていた。こうすると風が家の中を正面(南)から裏(北)へ吹き抜け、日本の夏の特徴である蒸し暑さが軽減される。加えて昔は油が高価だったから、出来るだけ朝早くから暮れるまで日の光を入れて行灯など照明の助けを借りずに済む時間を延ばそうとの考えもあったようだ。
 兼好法師は「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は堪へ難き事なり」(「徒然草」第五十五段)と言った。家は夏を主に考えて造るべきだ。冬はどのようにしても何とか過ごせるが、暑熱の頃に(風通しなどの)悪い住居はどうにも堪えられないというのだ。確かに京都の夏はひどいからこう述べたのだろう。
 しかしこうすると、冬場が問題である。北風が吹きつのる。木造家屋には隙間がたくさんある。建具と框(かまち)や敷居との間、柱と壁の間から冷たい隙間風がすーすー吹き込んで来る。暖房器具は囲炉裏と火鉢だけという家が多いから、隙間風が当たる背中や腰はたまらない。
 これを防ぐ為に冬を迎えるに当たって、どこの家も北窓をしっかり閉じて、外側から板や筵(むしろ)で覆う。家の内側からは窓と柱、柱と壁の隙間に紙を貼る。こうした作業が重要な冬支度の一つとされ、「北窓塞ぐ」「目貼」が冬の季語になった。
 さて春三月、関東地方以南は陽春、東北もぐんと春めいて来ると、北窓を塞いでいた板や筵をはずし、家中の目貼を剥ぐ。いままで日中でさえ暗かった部屋が急に明るくなり、家族皆が元気になったような感じがする。これが仲春の季語「北窓開く」と「目貼剥ぐ」である。
 いかにも「春が来たなあ」と感じさせるこの二つの季語も、近ごろはとんとお呼びで無くなった。一九六〇年代後半からアルミ製のサッシ建具や新建材の普及によって、一般の住宅も機密性が格段に高まった。隙間風なんて何処吹く風かということになっては、目貼の出番は無い。
 ただ近ごろでは、重く寒い冬空が明るい春の空に変わって、身も心も解き放たれるような感じになるという心の動きを表す材料として、「北窓開く」という季語が用いられるようになった。こうしてこの季語は細々と生きる場所を得ている。だが、「目貼剥ぐ」の出番はさすがに見つけにくくなってしまったようだ。
  目貼剥ぐや故里の川鳴りをらむ    村越 化石
  目貼剥ぐ海坂に藍もどりしと     成田智世子
  北窓を開けて身近き藪雀       田山 耕村
  白山の照る北窓を開きけり      小西 須麻

  北窓を開けてフィルム逆回し     酒呑洞水牛
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2019年03月12日

俳句日記 (464)


難解季語 (6)

やねがえ(屋根替)

 今日の住宅の屋根はコンクリート造は言わずもがなだが、木造モルタル造でもトタンや瓦などになっているから、その張替工事に季節性は無い。しかし、昔の住宅は藁葺き、茅葺き、板葺きが多かったから、この「葺き替え」が大仕事で、毎年、農作業が本格化する前の初春から仲春に行われるのが慣わしだった。そのために「屋根替」という春の季語が生まれた。
 屋根替は大事業で、とても自分の家一軒だけでは出来ない。膨大な量の茅や藁や竹材と、大勢の働き手が必要になる。そこで村には「結(ゆい)」という共同作業の組が生まれ、それが「今年は五兵衛の家と弥次衛門の家」というように順番を決めて、村中総掛かりで行った。茅の痛み具合にもよるが、普通10年で部分差し替え、20年から30年に一遍、総葺き替えの順番が回って来る。その家にとってはまさに一世一代の大事業である。屋根替えに必要な大量の萱(茅、薄)は晩秋から冬にかけて、これも共同作業で共用の萱場から刈り取り、集積場に溜めて置いたものでまかなう。
 村民の住居だけではなく、寺や神社、村の集会所、御堂といった公共施設の屋根の葺き替えも大仕事だった。こうした共同作業を通じて、地域共同体の一体感が醸され、村民同士の意思の疎通が図られた。それによって親しみが増すのと裏腹に、病弱故に皆と同じように働けずに逼塞する人、何らかの事情によって仲間に加われず結果的に除け者にされてしまう人も出て来る。そうした裏側のもろもろも出てきてしまうのが、「屋根替」という共同作業の一側面だった。
 とにかく、この「屋根替」はここからいよいよ春が始まると言っても良いくらいの、日本の山村の春先の一大イベントだったのである。
 一九八〇年代以降の高度経済成長時代、農村から若者が都会へどんどん出てしまい、過疎化した田舎の茅葺屋根は腐るにまかされ、辛うじて親世代が元気な家は屋根全体をトタンで覆ったり、新しい金属や軽い瓦で葺き替えたりして、茅葺は激減した。しかし、相変わらず茅葺屋根を残した豪農が各地に残っており、また各所の民家園には移築された重要文化財級の建物も多い。その他、由緒ある寺社建築の茅葺きもある。こうした貴重な建物の屋根替が今大変難しくなっている。熟練の屋根替職人が年々高齢化し、少なくなっているためだ。
  屋根替の萱つり上ぐる大伽藍     松本たかし
  屋根替の一人下りきて庭通る     高野 素十
  屋根替へて雨だれそろひ落つる朝   阿波野畝
  仏たち立ちのき給ひお屋根替     野島無量子
  葺替へて張り出し窓に灯の満ちて   香西 照雄

  屋根替ゆる老職人とアルバイト    酒呑洞水牛
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2019年03月10日

俳句日記 (463)


酔吟会第139回例会が開かれた
「麗らか」と「鰆」を詠む

 3月9日(土)午後1時から東京・千代田区内神田の日経広告研究所会議室で酔吟会の三月例会(通算139回)が開かれた。このところの天候不順による春の風邪や、法事その他あれこれの用事で欠席する人が多く、出席は13人とこじんまりとした句会になった。
 この日の兼題は「麗らか」と「鰆」の仲春句会にふさわしい二題。雑詠を含め投句は5句で、投句総数は95句だった。選句は投句参加者が多いため8句とした。その結果、最高点は「竿あまた並ぶ運河のうらうらと 可升」の6点。二席5点は「鰆焼く意固地に黙る背中かな 水兎」、「金髪にせし妻の背に春の風 光迷」、「地雷なき国のしあわせ土筆摘む 春陽子」、「涙目で笑ふあざらし花粉症 水馬」の4句だった。三席4点は「うららかや野点の席に盲導犬 春陽子」「鍋蓋のタップダンスや春の宵 同」、「麗らかや豆粒ほどの鶴を折る 水兎」の3句。以下、3点が6句、2点11句、1点25句ということになった。
 この日の水牛句はあまり評判が良くなくて、「猫と話し烏と話しうららけし」が2点、「鰆鮨瀬戸の島々見下ろしつ」に1点入っただけだった。数日前から恒例の花粉症が始まり、一日中ぼんやりして力が入らない。そこで「うらららかに窓を開ければ花粉症」「目薬し春のマスクを掛け直す」とやったのだが、あえなく零点。鰆の西京漬が大好物なので、時々奮発する。山の神は「私は焼くのが苦手」と逃げちゃうから、私が慎重に焼く。まさに「焦げぬよう鰆味噌漬たからもの」なのだが、これも点が入らなかった。
 上記高得点句以外で気に入った句を挙げておこう。
『麗らか』
人違ひしてもされてもうららけし   嵐田 双歩
麗らかや妻の御機嫌よろしき日    大沢 反平
『鰆』
鰆競る港の紀州訛りかな       廣田 可升
水槽の鰆回遊無伴奏         野田 冷峰
歯を剥いて睨む鰆の貌可笑し     久保田 操
お多幸の鰆定食七百円        星川 水兎
仰ぎ見る石鎚山や鰆飛ぶ       谷川 水馬
『当季雑詠』
東京の団地の土手に蕗の薹      片野 涸魚
墓までは日の当たる道すみれ草    高井 百子
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2019年03月08日

俳句日記 (462)


難解季語 (5)

かめなく(亀鳴く)

 亀には声帯が無いから鳴くことはないと云われている。しかし、春になり池から這い出した亀が石の上などに日向ぼっこしているのを眺めていると、時にはクウクウとくらいは鳴くかも知れないと思ったりする。句友の双歩さんは千葉県の印旛沼の畔に住んでいるから亀とは昵懇で、生態に詳しい。「呼吸の具合なのか、グウとかぎゅうぎゅうとか、鳴いてるように聞こえることがありますよ」と言う。とにかく、いかにものんびりした気分の季語である。
 この季語の出所は、『夫木和歌抄』(鎌倉後期の類題和歌集、一三一〇年頃成立)にある「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなり」(藤原為家)という歌のようである。瀧澤馬琴編の「俳諧歳時記栞草」にも春二月の項に「亀鳴」が揚げられ、この和歌が載せられている。
 秋の季語に「蚯蚓鳴く(みみずなく)」というのがある。ミミズもやはり鳴いたりはしないのだが、秋の夜長に地面の下でジージーと寂しげな虫の鳴き声がする。一説には螻蛄(けら)の鳴き声だともいう。
 春といい、秋といい、何となくあいまいな季節の移り変りに、時として何のものとも分からない、かすかな物音が聞こえて来ることがある。別に怖くなるような声ではないが、何モノが発する物音なのか分からないことにはどうにも落着かない。そこで、亀や蚯蚓が鳴いていることにしてしまったのであろう。
 「亀鳴く」は旧暦二月の季語とされているから、今の暦で言えば三月から四月頃にあたるだろう。草が萌え、水は温み、オタマジャクシがうじゃうじゃと湧き出る頃合いである。春眠暁を覚えずで、人間もすっかりのんびりした気分に浸る。のんびりと歩いていたら、誰かに声をかけられたような気がして、振り返ると誰もいない。おやおや空耳だったのか、それとも異次元世界からの呼びかけだったのか。それを昔の人は亀が鳴いたのだととらえた。何とも不思議の世界に誘われる季語である。ただ、こういう気分を抱くようになるのは、かなり年齢を重ねてからのようだ。歳時記にある例句を見てもそう思う。確かに亀は、前へ前へと進む意気盛んな若者を呼び止めたりはしない。

  亀鳴くや事と違ひし志          安住  敦
  こんな夜は亀も鳴くかや集ひ来よ     高木 晴子
  亀鳴くや独りとなれば意地も抜け     鈴木真砂女
  人生のうしろの方で亀鳴けり       山崎  聰
  年輪か単なる皺か亀鳴けり        宮崎 すみ

  すいぎゅうと鳴きしは亀か朦朧か     酒呑洞水牛
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2019年03月06日

俳句日記 (461)


難解季語 (4)

けいちつ(啓蟄)

 三月六日は二十四節気の「啓蟄」。啓蟄の蟄は「蟄居謹慎」などと言うように「閉じこもる」意味であり、啓は「ひらく」。寒い時期に地中に閉じこもっていた虫たちが出て来て活動し始める頃合いを示す。中国から伝わって来た暦の立春から数えて三つ目、旧暦で二月の半ば、今のカレンダーでは三月初め、春らしくなった時期である。
 しかし「啓蟄」という字はいかにも難しい。意味もよく分からない。そこで俳人たちはこれを「地虫穴を出づ」と大和言葉に言い換えて季語にした。
 ただ最近は「啓蟄」と詠むことの方が多いようである。「地虫穴を出づ」では長すぎて使いにくいというのが最大の理由であろう。そこで「地虫出づ」の短縮形でもよろしいとなったのだが、「地虫がもぞもぞ這い出すなんて気持悪くて詠みたくない」という人が多くなってきた。都会住まいでは実際に「地虫出づ」光景を目の当たりにする機会など滅多にないという事情もあろう。さらに、「ケイチツ」という言葉には硬質の響きと難解語の持つある種の面白さもある。
 そんなわけで「地虫穴を出づ」という季語は最近かなり旗色が悪くなっている。しかしこの言い方にはユーモアがあって、なかなか面白いと思う。
 啓蟄が「春もそろそろ本番」という時候に重心を置いた季語であるのに対して、「地虫出づ」は春の気分を濃厚に持ちながらも、活動し始めた虫たちに視線を這わせ、より具体的に自然界の動きをうたい、そこから自らの心情を述べるといった具合に用いられることが多い。歳時記でも「啓蟄」は「時候」の部に、「地虫出づ」は「動物」に分類されている。
 地虫とは地中に冬眠する虫の総称であり、幼虫(芋虫)、サナギ、成虫といろいろの形態で冬ごもりしていたのが、春になると一斉に地上に現れる。昔の人はこれを見て、躍動の時節になったと感じたのである。なかでも最も人の目につくのは蟻である。冬には全く姿を消していたのに、暖かみが増して来ると、どこからともなく現れて、せっせと歩き回る。これなら今でも団地の公園でもよく見られるだろう。そのほか注意して見れば、地面にはいろいろな虫たちが活動し始めているのが分かる。
 それらをねらって蜥蜴(とかげ)も這い出して来る。所によっては蛇まで出て来る。昔は蜥蜴も蛇も、蛙や蟇(ヒキガエル)まで「虫」の一種として、これらが活動し始めるのをひっくるめて「地虫出づ」と言った。その中でも特に目立つ蟻、蛇、蜥蜴をそれぞれ「蟻穴を出づ」「蛇穴を出づ」というように別立ての季語に仕立てた。
 三月初旬は虫たちもそうだが、人間どもも、人事異動などあってもぞもぞ動き出す時期であり、「啓蟄」や「地虫出づ」をこうした人の動き、心の動きにからめて詠んだ句も多い。

  啓蟄の雲にしたがふ一日かな     加藤 楸邨
  啓蟄の蚯蚓の紅のすきとほる     山口 邨
  水あふれゐて啓蟄の最上川      森  澄雄
  地虫出づふさぎの虫に後れつつ    相生垣瓜人
  蒲団叩く音を二階に地虫出づ     平本くらら
  蟻穴を出でておどろきやすきかな   山口 誓子
  けつこうな御代とや蛇も穴を出る   小林 一茶
  とかげ出て腹温めをり座禅石     邊見 京子

  啓蟄や地下ホームより百五段     酒呑洞水牛
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2019年03月05日

俳句日記 (460)


番町喜楽会第159回例会

 3月4日(月)の夕方6時半から、九段下の千代田区生涯学習センターで番町喜楽会の第159回例会が開かれた。今冬の東京は氷が全く張らずに春になり、2月中に20℃を越えるなどバカ陽気にもなった。それが今日は朝からしょぼしょぼ雨が降り、最高気温10℃とぐんと冷え込んだ。これがこの時期の普通の気温だと言われても、急に寒さが戻ったから人体に与える影響度は甚だしい。そのせいか、急な風邪引きが2人出て、出席者15人、投句参加が6人、投句総数ちょうど100句の句会になった。
 この日の兼題は「彼岸」と「亀鳴く」。これに雑詠を交え投句5句、選句6句で進めた結果、最高は6点で番町喜楽会長高井百子さんの「亀鳴くやスーパームーンの跳ね兎」と、本日急な発熱で欠席した塩田命水さんの「的中の続く稽古や風光る」の2句が並んだ。このところ句会の成績上がらずもう一つ元気がなかった会長さんだが、春雨の中、颯爽たる足取りで懇親会場の九段下・丸屋に向かった。結構々々。
 次席5点は玉田春陽子さんの「入彼岸遺影は今も厳父慈母」と、命水さんの「旅芸人しゃぼんの玉に入りけり」の2句、三席4点は5句あり、この日から「俳号迷哲を名乗ります」と宣言した中村哲さんの「亡き友と昼酒を酌む彼岸かな」をはじめ、「すいぎゅうと鳴きしは亀か朦朧か 水牛」「春浅し位牌の父にチョコを分け 光迷」「噺家の羽織すべらし春の色 白山」「去る人の深きお辞儀や鳥曇り 命水」が続いた。命水さんはなんと「天・地・人」の三連弾であった。
 句会後の懇親会では水牛が毎回行っている全句評「結構ですなぁ」の披露、ブログ「みんなの俳句」に新執筆陣8人が加わることや、5月例会はゴールデンウイークの最終日6日(月・振替休日)になるが、「お休みにしましょうか、それとも強行開催しますか」との会長提案に、酒の勢いも多分に作用したに違いない、圧倒的多数で「開催」に決定するなど、大賑わいでお開き。
 上記高得点句以外に、水牛が「結構ですなぁ」で取り上げた「上々句」には次のようなものがある。
  彼岸入り擬製豆腐にこんにゃく煮   冷峰
  彼岸会や一族みんな孫世代      てる夫
  彼岸過ぎ最後となりぬ通勤路     的中
  四代の命集へり彼岸寺        而云
  気がつけば指揉んでいる彼岸冷え   斗詩子
  日時計に淡き光や彼岸過       双歩
  亀鳴くや五百羅漢の裏あたり     水兎
  亀鳴くや別れし人の数かぞへ     満智
  亀鳴くや見やう見まねのフラダンス  綾子
  人生のらせん階段亀の鳴く      二堂
  外来種みな駆除されて亀の鳴く    幻水
  育て上げしは男児三人雛あられ    可升
  朝練の櫂からこぼれ浅き春      水馬
  痒き眼や紛う方なく春来たる     木葉
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2019年03月01日

俳句日記 (459)


難解季語 (3)
じょうし(上巳)

 三月三日の「桃の節句」「雛祭」のことなのだが、今ではこの言葉は全くと言っていいほど使われなくなった。五月五日の「子供の日」を「端午の節供(節句)」と言うが、この方は今もよく言われている。
 上巳も端午も元は中国の祀りから出ている。古代中国では旧暦三月の最初の巳の日(上巳)には清らかな水辺に出て禊を行い、お神酒を飲んで汚れを祓い、健康長寿を願う風習があった。やがてその余興として、流れに盃を浮かべ、それが流れつくまでに詩を吟じたり作ったりする「曲水の宴」が加わった。これが奈良時代から平安時代に日本に伝わり、朝廷貴族の春の行事になった。端午は五月初めの午の日で、菖蒲や蓬を軒に挿して邪気を払い、やはりお神酒や菖蒲湯で健康を祈る祀りである。菖蒲は「勝負」に通じるので日本では武士階級の祀りになり、ことに男児の健康と武運長久を祈り祝す日となった。
 上巳の方は曲水の行事が廃れてしまったが、元々の禊の行事は残り、人体の形に切った紙で身体を撫で、それに汚れを移して川や海に流すことが行われた。この人形(ひとがた・「形代」とも)が、室町時代になると女の子のお人形遊びと一緒になり、上巳の日に人形を飾って女子の健やかな成長を祭る風習に変わっていった。今日でもこの形代流しが各地に残っており、神社では六月末に行う「夏越の祓(なごしのはらえ・「水無月祓」とも)では「茅の輪潜り」と共にこの「形代流し」あるいは「形代焚き上げ」が行われている。
 上巳と言い、端午といい、「月の最初の巳の日・午の日」では、毎年日にちが変わってしまう。そこで、上巳は「三月三日」に、端午は「五月五日」と定められた。この祭が奈良時代に日本に伝来した時にはもう巳の日、午の日関係無く、上巳は三月三日、端午は五月五日とされていた。だから辰の日であろうと丑の日であろうと、「上巳」「端午」という呼称だけが残った。上巳は三が重なる日ということから「重三(ちょうさん)」とも言われたが、この言葉はますます通じない。
 「上巳」を用いた俳句は戦前まではよく詠まれていたが、戦後も21世紀に入ると全く忘れられ、通じにくくなっている。「上巳」という季語は何となく曰くありげな雰囲気だが、難しすぎて見ただけでは意味が分からず、特に感慨を抱く言葉でもないから、消えてしまうのも仕方がないとも言えよう。
  茶碗あり銘は上巳としるしたり     高浜 虚子
  眼覚めけり上巳の餅を搗く音に     相生垣瓜人
  天日の上巳の節供を松青し       田平龍胆子
posted by 水牛 at 18:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする