鍵屋
3月30日(土)、日経俳句会創設者故村田英尾先生の高尾の墓にお参りし、小金井公園の桜まつりに出かけた。吟行幹事の堤てる夫日経俳句会幹事長を先頭に、中央線沿線の行楽地に詳しい杉山三薬さんの引率で、墓参から花見昼食、「江戸東京たてもの園」見学、小金井駅近くの割烹での懇親会を楽しんだ。
前の晩の予報は「雨時に雷、最高気温10℃以下」という、花見には絶望的なものだった。しかし、朝10時にJR高尾駅に集合した時には、寒いことは寒いが雨は降らず、時折薄日の射す極めて平穏な曇り空。参加者は堤、杉山両幹事と嵐田双歩、今泉而云、澤井二堂、田中白山、中村迷哲、野田冷峰に水牛。これに近所に用事があって午後の花見から参加の向井ゆりさんの総勢10人。
英尾先生の眠る都立八王子霊園は高尾駅北口からバスで10分ほどの丘陵にあり、都心より平均気温で2,3℃は低いだろう。そのせいか、ソメイヨシノはまだ三分咲きだった。先生が亡くなったのが平成17年3月2日、その翌年から毎春ここにお参りしているから、これで13回目の墓参。墓を洗い、花を捧げ線香を焚き皆で祈って、またバスで高尾駅へ。そこから武蔵小金井駅まで戻り、またバスに乗り小金井橋へ。
駅やコンビニで弁当、カップ酒など買い込んで、小金井橋から玉川上水沿いの桜並木通りを歩く。ここの桜はヤマザクラとオオシマザクラで風情がある。しかし、すぐ近くまで迫っている住宅街住民から落葉や日照問題などについての苦情が来るのか、かなり枝が切り詰められ、老樹はいずれも勢いを失っている。「桜切るバカ」と言われるが、住民パワーには勝てないのだろう。
上水もあちこちに調整池が整備されたせいで、昔と比べ水量がぐんと減り、川底をちょろちょろ流れる貧相な小川に成り下がっている。「これじゃ太宰は飛び込んでもおでこを擦りむくのがせいぜいだ」と誰かが言う。それでも水はとてもきれいで、少し深くなった所には大きな真鯉や緋鯉が群れていた。
小金井公園のソメイヨシノはほぼ満開。大勢の市民が花の下にシートを敷いて、弁当や重箱を開いて楽しんでいる。我々もその中に溶け込んで、買って来た弁当を食べ、ワンカップを飲んだ。少々寒いがこれも風流、「まさに花冷えだ」と粋がっている。ここのお花見は上野山あたりと違って、赤ん坊や小さな子ども連れの「家族花見」の多いのが面白い。中には犬まで一緒だ。公園にはあちこちに食べ物を売るテント屋台があり、「お湯割り焼酎一杯ヒャクエーンッ」なんて大声を挙げている。
燃料を詰め込んで元気になった一同、江戸東京たてもの園散策に腰を上げた。両国の江戸東京博物館の分館として、平成5年(1993年)に小金井公園の一角7ヘクタールに開かれた建物公園。二・二六事件で凶弾に倒れた蔵相高橋是清の私邸をはじめ、江戸から昭和戦前時代の建築物を移築してある。
中でも懐かしかったのが、下谷二丁目の言問通りにあった居酒屋「鍵屋」が昔の姿のままで眼前に現れたことだ。この建物は江戸末期のものである。昭和36年に入社した頃から40年代半ば頃まで賑わった下谷名物の居酒屋で、先輩たちによく連れて行ってもらった。振舞い酒に馴れて銀座赤坂辺の高級バーなどに行く経済部、工業部などと違って自前で飲む我々社会部記者連は、こうした安くて旨い店を探したものだった。入口を入った土間に鉤の手のカウンターがあり丸い腰掛が十くらい。左手奥は狭い小上がりで、どちらもいつも一杯だった。立って吞んで居る奴も居た。
鍵屋は言問通りの拡幅工事か何かで閉店、その後、鶯谷駅近くの根岸三丁目の裏通りの踊りの師匠か何かの古い家を買い取って、元の鍵屋の店内の雰囲気を再現し営業している。料理も酒も下谷時代と同じで、先代の息子夫婦(と言ってももう七十代半ばとおぼしい)がやっている。ここもとても良い店で、数年前に水兎さん、馬淵さん(日経俳句会購読会員)などを誘って出かけた。その後も何度か行くが混んでいて五回に三回は入れないから、だんだん足が遠退いている。
久しぶりに鍵屋を見たら、俄にガソリンが切れかかっていることに気づいた。幹事を促し武蔵小金井駅近くの割烹「一駒」に上がって、群馬の酒「龍泉」(これは純米というのに妙に甘い)と「八海山」にありついた。そう言えば「鍵屋」の酒は春から夏は「櫻正宗」、秋冬は「菊正宗」、年中通してあるのが「大関」、確かこの三つしか無かった。未だ「地酒」などがバカにされていた時代だったなあ、などと昔の事が次々に浮かんできた。
「4月3日までに吟行句五句、メール送信して下さーい」。てる夫幹事の声が響く。
咲きつぎし玉川上水山桜
呼売りのお湯割焼酎花の冷え
花の下知らず一万四千歩