2019年04月29日

俳句日記 (484)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (3)

気さくな貫首さん

 翌4月22日朝も良い天気。5時頃になると起き出す人が次々で、春日大社の方まで早朝散歩に出かけたりしている。こちらは知らん顔して寝坊を決め込むが、周囲のざわめきにいつまでも寝ては居られない。7時に起きて朝風呂を浴び、朝食会場に出かけた。もう全員そろってぱくついている。どこの宿屋にもあるような朝食献立だが、茶粥が添えられているところが奈良らしい。
 今日は今回吟行のもう一つの目玉、昨年10月に完成した興福寺中金堂を見学する。それにオマケがついて、興福寺の多川俊映貫首が本坊で茶を振る舞って下さるという。日経俳句会会長の中沢義則文化部編集委員が、多川貫首の「私の履歴書」の担当記者になった縁で、「薄茶を差し上げながらちょっと興福寺縁起でもお話ししましょう」ということになったのだ。それは有難いことではあるが、堅苦しいのは御免被りたい。みんな吟行スタイルでジャンパー姿などが多いし、第一、膝や腰を痛めているのが多くて、まともに正座出来る人がほとんど居ないのだ。「そのあたりの事をよく言っておいておくれよね」と頼んだら、中沢君「はいはい分かりました。でもね、多川さんはざっくばらんな人柄で、そんなこと気にしませんよ」と言う。
 まさにその通りだった。享保2年(1717年)に消失した伽藍を三百年ぶりに、天平時代の姿そのままに再建するという、「平成の大事業」を成し遂げた貫首である。さぞや威厳あるお坊さんだろうと思っていたら、モンペのような装束に輪袈裟を掛けて飄々と現れ、興福寺についての話をしてくれた。
 さてその中金堂、案内の若いお坊さんがあれこれ説明してくれた。実に壮大華麗な金堂である。白壁と朱の柱、黒灰色の瓦屋根の天辺に金色の鴟尾が勢い良く尾を跳ね上げ青空に映えている。金堂中央に安置されている釈迦如来座像も金色燦然。右手の円柱は法相柱と呼ばれる堂を支える数十本の巨大円柱の中心だが、ここには法相宗を伝えたインド、中国、日本の高僧が極彩色で描かれている。当然と言えば当然なのだが、すべてがまばゆい。くすんだ古色蒼然たる寺院や仏像に慣れた眼からすると、けばけばしくて有難味が薄いようにも思える。しかし、これこそ天平時代の出来たばかりが生まれ変わって出現したのだ。
 国宝館へ行く。ここはもうお馴染みだ。あまりにも有名な「興福寺の阿修羅像」。じっと見入ると心が落ち着く。奈良へ行けば必ず興福寺の国宝館で阿修羅を拝むのだが、ここで私が一番好きなのは実は板彫りの十二神将である。それぞれ個性豊かな表情と姿で、何度も何度も見直す。いくら見ていても見飽きない。
 昼食はまた元来た道を辿って、飛鳥荘の近くの蕎麦屋「季のせ」。まずは蕎麦掻きと蛸の天麩羅などで、奈良の銘酒「春鹿」超辛口、もう一つの老舗豊澤酒造の「豊祝」を飲む。十割蕎麦は少々洗練され過ぎている感じがしたが、美味いことはうまい。別に取った海老天蕎麦がとても旨かった。「関西で蕎麦か」などという雑音があったが、今日ある麵状の蕎麦は元々は奈良で生まれたものである。大昔から日本人は蕎麦も饂飩も食べていたが、蕎麦粉は粘着力に乏しく、粉を練って伸ばして切るとばらばら、ぶつぶつ切れてしまう。しょうがないから粉を練って丸めたり平たくしたのを湯がいて「蕎麦掻き」にして食べていた。それを江戸時代の初め、東大寺の賄い方の坊さんが蕎麦粉にうどん粉を混ぜて捏ねて平に延ばして切れば、麵状のものが出来ることを発見した。これが「蕎麦切り」として全国に広まったのだ。というわけで、奈良で蕎麦を味わうのは至極真っ当なことなのである。
 一同昼の旨酒に大満足。お勘定も前日収めた「宿代含めて二万円」の中にぴったり納まって百子大幹事の腕前に驚嘆。ここで「蕪村生誕地と興福寺を訪ねる吟行会」はお開きとなった。行を共にしていた三四郎句会の面々とは既に興福寺で別れており、昼食懇親会の20人もここから三々五々散ることになった。
 水牛は涸魚長老と鷹洋、二堂と「久しぶりだ、東大寺の大仏さまを拝んで行こう」とタクシーで浮見堂を経由して山門前まで。修学旅行の中学生と外国人観光団体がひしめく中をかいくぐり、大仏殿を一周、さらに二月堂まで行く。しかし、二月堂の山の麓まで上って来て、さあこの急階段。皆々尻込みして、茶屋でソフトクリームをなめて仰ぎ見るに留めた。
  中金堂鴟尾のひかりや夏隣     酒呑洞水牛
  春愁と無縁もんぺの貫首さま
  包装紙令和と変へて春の餅
  煎餅くれと辞儀する鹿や暮の春
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2019年04月26日

俳句日記 (483)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (2)

なんと歌仙一巻

 毛馬堤を散策し、淀川が旧と新との二つの流れに分かれるところにある大きな閘門を打ち眺め、堤下に出来た蕪村公園で一休み。日経俳句会元会長で今はテレビ大坂の重役を務める高橋ヺブラダさんが前以て念入りに調べて下さった蕪村関連施設を順序よく辿った。そのヲブラダさんがシャンパンやビールを担いで来てくれて、公園のベンチで一行に振る舞って下さる。汗ばみ、乾いた身体に冷えた飲み物が心地良い。
 元気回復し、皆々、淀川神社の蕪村像に対面、毛馬橋を渡り、メトロ天神橋筋六丁目駅まで二`ばかりを歩いた。途中、日本橋駅で近鉄に乗り換え、午後四時過ぎに奈良駅に到着、猿沢池畔の旅館「飛鳥荘」に着いた。
 猿沢池畔には修学旅行の中高生を泊める団体旅館がいくつかある。七〇年前に私が泊まった魚佐旅館もそうだ。飛鳥荘というのも一泊二食一万四千円とずいぶん安いから、恐らくその手のものだろうと思っていたら、どうして中々の造りで、おかみさんはじめ従業員もちゃんとしている。部屋も立派だし、風呂も、夜の料理も上等だった。不思議だなと思っていたら、幹事の一人徳永木葉さんの知り合いが支配人で、大サービスをしてくれたのだという。
 温泉に浸かって疲れを流し、懇親夕食会では美味しい料理と支配人が贈ってくれた「春鹿」大吟醸はじめ奈良の銘酒を心ゆくまで楽しんだ。
 宴の果てて、「お先に」と引き取ったのはわずか二人。残り十八人がどっと幹事部屋になだれ込み二次会。平均年齢七〇ウン歳の団体とは到底信じられない。誰が言い出したのか定かで無いが「連句をやりましょう」ということになった。半分は「連句なんて初めて」と尻込みする人たちだったのだが、有無を言わせず始まった。しかし、そういう人たちも結構楽しみながら何と二時間ばかりで歌仙を巻き上げてしまった。式目を無視したものもありはするものの、素晴らしい歌仙が生まれた。

歌仙「淀川簡易トイレの巻」
淀川の簡易トイレや春の風      高井 百子
 凧揚げる子の伸びる右の手     堤 てる夫
のどかなる長堤句友労り合ひ     岡田 鷹洋
 歩きに歩き一万歩超え       植村 博明
豹柄の浪速のオバチャン夏の月    岩田 三代
 席をゆづらぬ老若男女       嵐田 双歩
(ウ)
秋の空春日大社の鎮座して      向井 ゆり
 柵無し危険霧の猿沢        工藤 静舟
恋ひとつ拾った朝の鹿の声      須藤 光迷
 煎餅売る婆につと笑へり      大澤 水牛
吾が女房阪神好きが玉にきず     廣田 可升
 吹雪に想ふ秋田象潟        玉田春陽子
大仏の見下ろしている霜の庭     中村 迷哲
 蕪村震へる淀の川風        中沢 豆乳
閘門に詩朗の笑顔春の雲       山口斗詩子
 シャンパンの泡月朧なり      大下 綾子
花散らしAKBの空騒ぎ        徳永 木葉
 毛馬橋渡る女子高生よ       澤井 二堂
(ナオ)
しゃぼん玉はじけはじけてお父さん     百子
 夜間中学春の灯火            鷹洋
うららかや水面の鳥の呆け顔        博明
 先人の句碑麦秋の色           三代
ふすま開けしとねの色に目が覚めて     双歩
 思ひ焦がれた恋の年とる         ゆり
気もそぞろ女将の去りて宿ゆかた      静舟
 チュッチュチュッチュと鬼灯を吹く    光迷
どうするの伸びる朝顔つるの先       水牛
 紅葉の錦下衆のまにまに         可升
落柿舎の中天にあり居待月         春陽子
 露天風呂から望む寺町          迷哲
(ナウ)
冬銀河恋文を焼く貫首さま         豆乳
 新聞記事に書けぬことあり        木葉
トランプの痩せる思ひの春口舌       鷹洋
 ノートルダムのあっと燃え尽き      博明
花浮かぶ大河二つに別れたり        双歩
 中金堂に集ふ旅人            静舟
                      (満尾)
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2019年04月24日

俳句日記 (482)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (1)

 4月21日(日)と22日「月)の一泊二日で、蕪村の生誕地とされる大坂市都島区毛馬町の淀川堤と、昨秋完成した興福寺の中金堂を訪ね、日経文化面の「私の履歴書」に登場した多川俊英貫首に茶を御馳走になって話を聞くという、ずいぶん盛りだくさんな吟行会を行った。日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の共催で、参加者26人の賑やかな催しになった。
 〈春風馬堤散策〉
 与謝蕪村(元は谷口氏を名乗る)は享保元年(1716)に摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の富裕な農家に姉二人の末息子として生まれた(弟子の高井几董の『夜半翁終焉記』)という。しかし、少年時代に両親を亡くし、家運傾き没落、一家離散の憂き目に遭ったらしい。几董の書いたものには少年蕪村は狩野派の絵師について画業に勤しんだとあるから、農家といってもかなりの家だったのであろう。それが一気に没落しただけに、少年蕪村は非常なショックを受けたに違いない。そのせいか、蕪村は後年、有名人になってからも自らの幼少時代や青年期の過ごし方については一切書いたり話したりしていない。僅かに、名作『春風馬堤曲』を著した折に、後援者でもあった弟子に宛てた手紙に「馬堤は毛馬塘也即余が故園也」と書いていることと、愛弟子几董に断片的に述べたものを几董が書き遺したものから、淀川河口近くの毛馬村が生地であることが窺えるのみである。
 少年蕪村は生まれ在所でよほど辛酸を舐めたに違いない。二度と再びこんな処に帰って来るものかと飛び出したようだ。18歳くらいで江戸に出たらしく、毛馬と雰囲気の似た江戸の墨東地区で人足のようなことをしているうちに俳諧師匠の夜半亭早野巴人を知り、22歳の時、巴人の日本橋本石町の住込み門人になることが出来た。有力俳人の内弟子になれたことが蕪村(当時は宰鳥)出世の糸口だった。ここで俳諧の実力を蓄え、画業にも励んだ。巴人没後も北関東に散在する夜半亭一門の有力俳人の支援を受けて宇都宮で宗匠立几、36歳で京都に赴き、画業と俳諧宗匠として大立者になった。
 京都に住んでから死ぬまでの32年間、蕪村は関西各地、四国へ度々出かけているのに、生まれ故郷の淀川河口・毛馬村にはただの一度も足を踏み入れていない。余程の怨念があったに違いない。そのくせ、豊かな幼少時代を過ごした淀川河畔は懐かしい。「帰りたいのに帰れない」そんな心境が、名作『春風馬堤曲』となり、『澱河歌』(澱河とは淀川のこと)となってほとばしり出たのではなかったか。
 そんなことも考えながら、この蕪村生誕地をぜひ一度歩いてみたいという願いがようやく叶った。
 平成最後の4月の毛馬堤は太陽燦々、まことにあっけらかんとしていた。名所も無ければさしたる偉人もいない都島区としては、何がなんでも蕪村を地元出身の偉人にしたいのだろう。昭和40年代になってから、毛馬堤に蕪村碑を拵え、堤防外には「蕪村公園」を作り、淀川神社には蕪村の銅像を造った。3月に開通したJRおおさか東線の「城北公園駅」前のみすぼらしい商店街はなんと「蕪村通り」という看板を掲げていた。なんとしてでも蕪村さんに故郷へお帰り願いたいとの熱誠が込められているようである。
  春の夢蕪村と歩む毛馬堤   酒呑洞水牛
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2019年04月18日

俳句日記 (481)



日経俳句会第178回例会のこと
「春燈」「竹の秋」と雑詠に35人から104句

 4月17日(水)夜、日経俳句会の第178回が開かれた。今回の兼題「春燈」はまだしも「竹の秋」が少々難しかったようで、句会での票が割れた。
 句会は投句3句、選句6句(欠席者は5句選)で行った結果、最高点は8点で欠席投句参加の金田水さんの「春の灯やとなりに若き一家来る」の一句だった。「何しろ気分の良い句」というのが大方の褒め言葉であった。次席7点は「春燈やレッスン室の影ふたつ てる夫」「宿下駄で降りる石段春燈 水兎」「竹の秋片頬かげる磨崖仏 木葉」「春風を見てをり杖に手を重ね 而云」の4句、三席6点は「風やわらか慣らし保育の涙跡 ゆり」「田起こしや土黒々と命棲む 三代」の2句だった。
 5点句は「春の燈や回覧板の行くところ 博明」「山峡に春燈ぽつり無人駅 庄一郎」「まんぷくのこども食堂竹の秋 冷峰」「新しき朱の春帽子六地蔵 昌魚」の4句。4点句は「春燈や宿の図書室ひとり占め 綾子」「路地裏に三味の爪弾き春あかり 操」「大王の墳丘鎮め竹の秋 反平」「鎮魂の旅の終はりや竹の秋 阿猿」「廃線を抱くようにして竹の秋 十三妹」「眠る田の畦をふちどり蓮華草 木葉」「花散らし風は嘯くまた逢おう 十三妹」「うぐひすの呼ぶよ下総酒処 水牛」の8句だった。
 上記以外で水牛が採った句は以下の通り。
一言に優しさ宿る春灯し    実千代
 ちょっとした心遣いの一言が優しさと温みをもたらしてくれた。「春灯」とよく呼応している。
再会に心満ち足り春燈     反平
 お互いのちょっとした都合などから長年会えず仕舞になっていた人との、ようやっとの再会。「良かったなあ」という気分が「春燈」にぴったり。
終りなき住持の説教竹の秋   二堂
 坊主の説教はつまらないものと相場が決まっている。それを長々とやられる。仲春の「竹の秋」の季語がとても良く合っている。
にべもなく切れし電話や竹の秋 水兎
 別に竹の秋とは限らないのだが、こういうことはちょくちょくある。竹の秋は「木の芽時」にも相通じ、なんとなくこうした雰囲気が合うなあとも思う。
 水牛句は、
春燈のうしろ姿のやはらかし   (1点)
取れすぎし青菜頒けゆく竹の秋  (2点)
うぐひすの呼ぶよ下総酒処    (4点)
 という結果だった。9日の下総吟行の句が高点取ったのは嬉しかった。「春燈のうしろ姿」は自分ではなかなか良くできたと思っていたのだが、あまり評価されなかった。
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2019年04月16日

俳句日記 (480)


難解季語 (17)

かと(蝌蚪)

 おたまじゃくしのことを中国語で「蝌蚪(kedou)」と言い、昔の俳人はこの字を書いて和名の「かへるご」(蛙子)と読んでいた。「松」を「まつ」、「鹿」を「しか」と読むのと同じである。しかし、いつのまにか「かへるご」という呼び方が廃れてしまって、「おたまじゃくし」とか「おたま」と呼ばれるようになってしまったために、俳句の世界では問題が生じた。
 「おたまじゃくし」では、それだけで六音もある。また、その形が台所道具のお玉杓子ににているからと名づけた女房言葉のようでもあり、幼児語のような響きがあって、真面目に心境を吐露するような場合にはなんともそぐわない。それやこれや、「おたまじゃくし」ではどうも詠みにくい。というわけで、明治以降の俳人は蝌蚪を「かと」と音読みして使うことが多くなった。今日でもおたまじゃくしの句は「蝌蚪」を使用する例が圧倒的に多い。
 「音読み」というのは、漢字の言葉を発音通りに読んで、日本語に取り入れたものである。現代に当てはめれば、英語を和名に直さずに、例えば「猫餌」を「キャットフード」と現地音に似せた言い方で用いるやり方である。
 しかし俳句をやる人以外は「蝌蚪」という文字を見て即座にオタマジャクシと理解出来る人は少ないだろう。普通の人が理解出来ない言葉を俳句に用いるのは良くないと思う。季語研究の第一人者山本健吉は「(オタマジャクシの蝌蚪を)俳人は『かと』とも音読して用いている。あまり好ましいこととは思えないが、虚子が用い、俳人たちは滔々としてこれに従い、大勢如何とも抗しがたい」と『日本大歳時記』(講談社)の解説で嘆いている。
 ただ、春の使者として魅力的な句材のオタマジャクシを詠みたいと思う俳人はとても多い。その結果、「虚子大先生が詠んでいるのだから」と、「蝌蚪」の大合唱になるのだろう。こうした姿勢が俳句の通俗化、堕落化をもたらすのだが、通俗のぬるま湯に浸って句をものするのも又実に心地がいい。ここが俳句の万人の文芸となると同時に通俗のゴミ溜めともなる所以である。
 しかし、現代俳人たるもの、「蝌蚪」などという世間には通用しない無理な季語とは決別し、なんとかして「おたまじゃくし」で詠みたいものである。
 「蝌蚪」と詠んだ句はとても多い。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水       高浜 虚子
 降りそそぐ雨にかぐろし蝌蚪の陣     高橋淡路女
 川底に蝌蚪の大国ありにけり       村上 鬼城
 蝌蚪うごめくピカソの訃報伝へ来て    山口 青邨
 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水     石田 波郷
 飛び散って蝌蚪の墨痕淋漓たり      野見山朱鳥

 おたまじゃくし進まぬやうに泳ぎをり   酒呑洞水牛
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2019年04月13日

俳句日記 (479)


難解季語 (16)

ぬけまいり(抜参)

 歳時記には「伊勢参り」の傍題として載っている。親や主人(雇い主)に無断で伊勢参宮に赴くことを言う。江戸中期、「一生に一度は伊勢参りをするものだ」ということが盛んに言われ始め、伊勢参りがブームになった。松尾芭蕉もその例に洩れず、『笈の小文』の旅を終えて故郷の伊賀上野で正月を過ごした元禄元年(1688年)二月、念願の伊勢神宮に参拝した。しかし、当時は僧侶の風体では内宮には入れなかったようで、外宮のみの参拝に終わった。
 伊勢参りは時期を問わず一年中行われるのだが、やはり三月半ばから五月ころまでの気候の良い時期が最も盛んだった。それで「伊勢参」は春の季語となっている。江戸から伊勢神宮まで片道十五日間、大坂からは五日間の旅だった。とにかく大旅行である。贅沢をせずともやはりかなりの費用がかかる。そこで、伊勢参拝を志す人たちが集まって「伊勢講」「太太講(だいだいこう)」という一種の無尽組合を作り、毎月寄り合ってはなにがしかの積立金を出し合う。籤を引いて当たった数人がその積立金を旅行資金として参拝団を作り、伊勢神宮に参り太々神楽(だいだいかぐら)を奉納し、講中の人たちへの記念のお守りはじめ土産の品々を携えて戻る。籤に外れた連中は参拝団の土産話を聞きながら、すぐに来春の計画を練り始める。たとえば30人で講を作り、毎年四月に6人の参拝団を送り出すとしてその費用を割り、事務経費を足したものが掛け金となる。くじ運が悪くてハズレ続けたとしても、五年待てば必ず行ける。江戸時代から昭和後半まで、こうした掛け金を出し合う「無尽」が息長く続いた。こうした「講」とか「無尽組合」が発展したものが信用組合、信用金庫なのだ。
 それはさておき、無尽の掛金も出せない貧乏人や、まだ大人とは認められない丁稚や下女連中はもちろん伊勢講には入れない。しかし、何とかお伊勢参りに出かけたい。そういう連中の中で冒険心に富んだのが密かに誘い合わせ、職場放棄して伊勢に向かった。主人や親は心当たりを探すが、やがてどこからともなく「抜参り」だということが伝わると、「それじゃしょうがない」と放任した。飛び出した方は元より素寒貧、野宿覚悟の旅なのだが、良くしたもので、街道筋の商家や農家の人たちは「抜参り」と知ると飯を食べさせたり、中には土間に筵を敷いて泊まらせ、翌朝は握り飯と小銭を与えて送り出すといったことが普通になった。その内に、抜参りの連中は柄杓を持って歩き、それで沿道の家々から小銭を受け取るようになり、その柄杓が伊勢参りの目印になった。
 江戸時代を通じて「伊勢参り」は年中行事のようになった。慶安三年(1650年)三月中旬から五月にかけて、箱根関所を通過した伊勢参宮の人間が普段の十倍一日平均二千五百人に上ったという記録が残っている。その後も伊勢参りブームはほぼ60年周期で起こった。この現象を「お蔭参り」とも言う。宝永二年(1705年)がその最たるもので、四、五月の二ヵ月間の伊勢神宮参拝者が370万人に上ったという。当時の日本の推定人口は2770万人だから、二ヵ月で370万人の参詣者というのはけたたましい数字である。その後も断続的に伊勢参りブームが起こり、慶応三年(1867)夏には倒幕運動を煽る分子の策略もあったのか、三河の村々に伊勢神宮の御札が降ったのをきっかけに「ええじゃないか」踊りが大流行した。老若男女こぞって「ええじゃないか」と叫び囃しながら踊り狂い、そのまま伊勢へと旅する熱病現象で、この年の冬にかけて「ええじゃないか」が中国、四国、関東、甲信地方にまで広がった。
 明治維新以後も伊勢参りは人気を保ち続けたが、もう「ええじゃないか」の熱病のような参拝道中は見られなくなった。親や雇い主に内緒で抜け出す「抜参」もいつの間にか止んだ。夏休みや年末年始休暇、そして有給休暇制度のある今日では、人目を盗んでの「抜参」など、理解しがたい言葉になってしまった。
  煙草屋の看板娘抜参     酒呑洞水牛
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2019年04月10日

俳句日記 (478)


清明下総鰻吟行

 「時は清明、下総の野に出て、印旛沼の畔に地酒を酌み、句を詠み合いながら成田のお不動さんへ足を伸ばし、名物の鰻を食す会」を催した。酒呑洞のこういうバカバカしい催しに付き合ってくれたのは地元住人の徳永木葉、嵐田双歩、廣田可升の三人と、江戸川在の吟行好きの田中白山の四人。
 素晴らしい日和。満開の桜が盛大に花吹雪を舞わせ、桃や木蓮、海棠も派手な花びらをふさふさと咲かせている。地際には菜の花をはじめ、踊り子草、白い五弁花のダビデの星、菫などがここを先途と咲き競う。それらが春の陽光にきらきら輝いて、まさに田園の饗宴。さすがの不良五老も感嘆措く能わずの様子であった。さあ最初の目的地は駅から村道を10分ほどの酒蔵「飯沼本家」。ここの「甲子正宗」の美味いことを知ったのが、この吟行を思い立つきっかけだったのである。
 南酒々井駅を出た途端に連句を開始。水牛の発句「清明の下総の野に若返る」に木葉が「そぞろ歩きに待つ生一本」と付け、双歩が「竹の秋蔵の白壁はがれいて」と第三を詠んで、半歌仙『清明野遊びの巻』はスタート。
 飯沼本家の茶屋で昼食の饂飩をすすり「甲子」を一杯やりながら、可升が手回し良く予約してくれたジャンボタクシーで、「佐倉義民伝」の宗吾霊廟、「甚兵衛の渡し」近くの水神社の菜の花畑、古民家や武家屋敷を移築展示する「房総のむら」を回り、成田山新勝寺に参拝、参道の老舗鰻屋「菊屋」で大きな蒲焼の乗った鰻重、肝焼、鯉こく、川海老唐揚、胡瓜新香などで地元の銘酒「不動」と「長命泉」純米を心ゆくまで酌み交わした。連句もすいすいと半歌仙を巻き上げ、誰からともなく出た「もう一丁」の掛け声に、オモテ六句だけの「裏白」まで巻いてしまった。発句通りに5人ともすっかり若返る清遊だった。

下総鰻吟行連句 「清明野遊び」の巻

清明の下総の野に若返る       大澤 水牛
 そぞろ歩きに待つ生一本       徳永 木葉
竹の秋蔵の白壁はがれいて       嵐田 双歩
 ダビデの星の地際飾れり          水牛
まがり家の煙突照らす三日月     廣田 可升
 稲庭うどん秋寂の里        田中 白山
かづら橋下見ぬやうにおずおずと      木葉
 鳶の親子がぴいひょろ笑ふ        水牛
あれあしこ鎮守の森に筵旗         可升
 球春愛でて長嶋茂雄           双歩
青空にしだれ桜と紫木蓮          白山
 お手々つないでふらここに乗る      可升
宗吾さまついて行きますどこまでも     水牛
 ターザン月下にジェーンを呼ばふ     木葉
大部屋に暮して長ききりぎりす       可升
 まくら得意の噺家のいて         木葉
新しき年へ誘ふ花ふぶき          双歩
 成田不動に祈る萬歳           白山

連句裏白「春灯」の巻

八ッ口に手をさしいれて春灯        木葉
 うなぎの肝に明日を託す         双歩
単身の最終便や夏の月           可升
  へちまぶらぶら誰か来ないか       水牛
一輪の花活けられて奥座敷         白山
  渦状星雲うず巻く思ひ          可升
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2019年04月07日

俳句日記 (477)


番町喜楽会第160回(4月)例会のことども

 番町喜楽会の第160回例会が4月6日(土)午後6時、九段下の千代田区立生涯学習会館で開かれた。日中は24℃になったかと思えば夜には10℃に冷え込むという、実に不安定な気候に体調を崩す人が多い。その上、三月四月の年度替わりということもあって、あれこれお付き合いもあるのだろう、例会参加者は14人と小ぶりだった。
 今回兼題は「花疲れ」と「海胆」、雑詠含め投句は5句。投句者20人、投句総数100句。選句は出席者6句、欠席者5句で行った。選句結果は、最高点が6点で「潮の香をあげて目刺の反り返る 春陽子」、次席5点は「心地よくワインに溶ける花疲れ 満智」「国訛り添へて焼き海胆売られをり 水馬」「海女舟の夫の引き綱海胆揚がる 木葉」「ぶらんこを漕ぎ東京へ飛んで行く 而云」の4句、三席4点は「花疲れバスを待つ人みな無口 迷哲」「雲丹飯に萩の有磯の香りかな 水牛」の2句だった。これに入選の3点「花疲れ旅の土産の絵蝋燭 水馬」「気が付けば太鼓持ち役花疲れ 斗詩子」「流水に身を委ねゆく落椿 迷哲」3句が続いた。
 上記の他、水牛が良いと思った句は以下の通り。
  其処等中ライトアップや花疲れ   双歩
 なんとかの一つ覚えの「ライトアップ」、全くうんざり。現代の悪しき風習をえぐってくれて、まことに小気味よい。現代風刺句として結構だと思う。
  リアス線直通列車ウニ弁当     迷哲
 ようやく全線開通、三陸海岸の春景色が浮かぶ。
  肩掛けでしのいで行きし春の雨   水兎
 「傘持ってらっしゃい」と言うのに「大丈夫」と。春の雨の感じと元気なオバサマの姿が浮かんでくる。
  居続けの鶫の孤独春の庭      てる夫
 鶫は渡り鳥なのに、北へ帰らず日本に居続ける横着者もいるようだ。古典落語の名作に「居残り佐平次」という噺があるが、それを思い出して、面白いなあと思った。ちょんちょこ立ち回っていても、そこにはやはり春の愁いもあるのだ。
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2019年04月05日

俳句日記 (476)


難解季語 (15)

せいめい(清明)

 二十四節気の一つで、春分の十五日後、旧暦三月の月初、新暦では四月五日頃になる。清明とは「清浄明潔」の略で、春先の生き生きとした、しかも初々しく清らかな気分を表したものである。平成もどんづまりの三十一年の清明は今日四月五日。
 この頃にはそれまでの北風や北西風が替わり、梅を咲かせる東風から、桜の花を咲かせる東南の風になる。気温もぐんと上がる。この東南風を「桜東風(さくらごち)」と言って、人々は本格的な春の到来を喜ぶ。
 節気の十五日間を三分割して五日ごとの季節変化をきめ細かく示すのが七十二候。清明節の七十二候は、中国から奈良時代に伝わった当初のものだと「桐始華(きりはじめて花咲く)」「田鼠化為鶉(でんそけしてうずらとなる)」「虹始見(にじはじめてあらわる)」の三つだった。しかし、日本の季節に合わないので、清明節初候は「玄鳥至(つばめいたる)」に、次候は「鴻雁北(こうがんきたす)」に、三候は元のまま「虹始見」として暦に載せた。いずれも四月初めから中旬の感じを表している。
 中国では陽気満つる清明の日に家族親戚打ち揃って墓詣りをし、先祖供養をすると同時に一族郎党の懇親を深める飲食をする習いがあった。今ではかなり廃れてしまったようだが、これが大昔琉球王国に伝わり、沖縄県になった今も「清明祭」「御清明(ウシーミー)」として残っている。本州でのお彼岸の墓参とも似通う習俗である。
 清明は言葉の響きも良いし、字の見てくれも良いのだが、なんとなく古臭い感じがする。それが立春、春分、立夏などと比べて日常使われない原因となったのか、従って季語としても置き忘られた感じになっている。

  清明の雨に光れる瑠璃瓦      古賀まり子
  上海を出て清明の野に遊ぶ     三宅清三郎
  清明の明け方冷ゆる鞍馬かな    森田 公司

  清明の野に酌む純米大吟醸     酒呑洞水牛
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2019年04月03日

俳句日記 (475)


難解季語 (14)

かんしょく(寒食)

 これは今ではもう全く通じない季語と言っていいだろう。「寒餅」という未だ生き残っている言葉につられて、寒中に食べるものと受け取る人が多いかも知れないが、全然違って、「火を入れない物を食べて過ごす日」のことである。中国の故事から出た仲春の季語なのである。
 春秋時代(前770-前403)の大国晋の文公(前697-前628)が公子時代に内乱で国を追われ19年間も流遇生活を送っていた時に、片時も傍を離れず公子を守った介之推(かい・しすい)という忠臣がいた。文公は秦の穆公の援助で故郷に帰り晋を立て直し、王位につくことができた。しかし、いろいろな行き違いから介之推を手厚く遇することが出来なかった。それを哀しんだ之推は老母と共に故郷の山に隠遁した。後悔した文公は、懸命に帰参を促したが之推は肯んじない。ついに文公は山に火をかけて之推の下山を迫ったところ、之推は老母共々木に身体を縛り、焼死してしまった。文公は自分の愚かで軽率な行為を深く恥じ、この日を「一切火を用いない日」と定め、国中に徹底させた。以後、この日は煮炊きを慎み、冷たいものを食べる「寒食」が習いとなった。冬至から105日後、清明節の前日、現在のカレンダーで言うと4月5日前後、春もようやくたけなわという頃合いである。
 この故事はともかく、この季節、中国大陸の山西省から河北、河南の地は強風の吹き荒れる日がしばしばある。防火意識を高めようとの当時の為政者の思惑から出た習俗かも知れない。また、風が治まるとぽかぽかと、緑が芽吹くのどかな日和で、清明の野遊びや先祖の墓詣りをする習慣があった。そういう時は前以てこしらえた弁当などを食べて静かに優雅に過ごす。いずれにせよこの頃、煮炊きをしない一日があったのではないか。
 そういった古代中国の習慣が何故日本に伝わって子々孫々受け継がれ、ついには俳句の季語に残るまでになったのか。その辺の事情は全く分からない。分からないままに「寒食」は未だに大きな「歳時記」にはちゃんと載っている。そして大家とされる俳人たちがそれを律儀に詠んでいるのが面白い。
  寒食や竈をめぐるあぶら虫       炭  太祇
  寒食や冷飯腹のすいて鳴る       村上 鬼城
  寒食や凡夫の立てる膝がしら      飯田 蛇笏

  寒食や電子レンジのチンと鳴る     酒呑洞水牛
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2019年04月01日

俳句日記 (474)


新元号はレイワ

 四月一日、新元号「令和」が発表された。五月一日、皇太子浩宮殿下が新天皇に即位すると同時に「令和元年」が始まる。
 慣れてしまえば良いのかも知れないが、どうもこの新元号は響きが良くない。それに「平成」をはさんで「昭和」「令和」ではどうもくっつき過ぎる。連歌・連句では「打越」として誡められるような感じだ。
 「レイ」は零、霊、冷などという字が思い浮かぶ。「令」には「良い」「りっぱな」といった意味があるが、真っ先に浮かぶのは命令、法令、律令などといった法律法規、教訓めいた固い感じの言葉である。もっとも「其身正不令行」(其の身正しければ令せずして行わる。『論語』子路篇)という言葉もあるから、「モリカケ事件」を反省したソーリダイジンが自らの戒めとして選んだのかも知れない。
 まあとにかく、令和という年号は学者有識者ウン十人を集めて知恵を出し合って決めたものだというから、理屈はいくらでも付けられるのだろう。出典は『万葉集』巻五の梅の花を詠んだ三十二首の「序」だと言う。これまでの年号が中国の古典から引いたものばかりなので「今回は日本の古典から」というのは結構なことだが、それにしては引用した元の文章にちょっと引っ掛かる。これはお花見の座興で詠み合った歌合わせの、凝りに凝った美文調の序文なのである。
 天平二年(730年)正月十三日、大宰帥(だざいのそつ・福岡の太宰府長官)大伴旅人(おおとものたびと、天智四年─天平三年、665年─731年)が、自邸に山上憶良をはじめ仲間や部下を大勢招いて「梅見の宴」を開いた。太宰帥は西国を統べる重要ポストであり、大陸文化を受け入れる窓口の責任者という要職であった。これを無事勤め上げた旅人は翌年、当時の奈良朝廷最高位の従二位大納言に昇進し都に戻ったが、間もなく七月に六十七歳で没した。息子が万葉集の編集者の一人とも見做されている大伴家持である。
 実力者主催の宴会はさぞかし豪勢なものだったろう。主人の旅人は『わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも』と上品におとなしく詠んでいる。仲間や部下たちが梅見で一杯とわいわいがやがや楽しんでいるのを、いかにも満足そうに眺めている気分が伝わって来る。筑前守山上憶良は『春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ』という単身赴任者みたいな歌を詠んでいる。『梅の花夢に語らくみやびたる花と吾思ふ酒に浮べこそ』というのや、『年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ』『梅の花手折りかざして遊べども飽足らぬ日は今日にしありけり』という楽しい歌もある。
 奈良時代は桜より梅が尊ばれ、「お花見」と言えば桜ではなく梅見であった。この三十二首を読むと、まさに現今の会社あげてのお花見宴会と変らぬ雰囲気だったことがうかがわれる。
 年号をこういうくだけた歌と文章から引いたことが悪いというわけではない。むしろ好ましい事で大歓迎だ。それをしかつめらしく、これでもかとばかりに厳かに取り繕って発表する官房長官が滑稽で、「出典をちゃんと読んで理解しているのですか」と聞きたくなった。
  レイワとは四月馬鹿かと思ひけり   酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 18:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする