2019年06月28日

俳句日記 (502)


難解季語 (26)

かくらん(霍乱)

 病気など寄りつかないような感じの元気旺盛な人が、めずらしく風邪を引いたりすると「鬼の霍乱だね」と言ってからかう。しかし、「霍乱(かくらん)」とは何か、即座に答えられる人はそうそう居ない。広辞苑を引くと、「暑気あたりの病。普通、日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた」とある。
 『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』など壮大な小説で有名な曲亭(滝沢)馬琴(1767-1848)は俳諧にも造詣深く、享和三年(1803)に二千六百余の季語を集めた『俳諧歳時記』を編纂出版している。それをほぼ半世紀後の嘉永四年(1851)に藍亭青藍が語数や注を増やした増補版を編み、明治大正時代の俳句界で珍重され、その後の歳時記の手本になった。これは2000年8月に岩波文庫から『増補俳諧歳時記栞草』上下二冊となって出版されているから、俳句好きは是非手元に置かれるとよい。
 これに出ている「霍乱」の解説は漢方医の聖典とされている後漢(25-220)の医書『傷寒論』を引き、「それ霍乱の病は夏月暑時、飲食過度の致す所、胃中擾乱、上吐下瀉する者是也」としている。
 すなわち、飲みすぎ食べすぎがもとになって胃がおかしくなり、暑さ中りが加わって激しい嘔吐と下痢を起こす病気ということである。当時はこうした症状を示す急性胃炎、食中毒、腸炎をはじめ、腸チフス、コレラなどの伝染病、そして熱射病による身体機能の喪失なども引っくるめて「霍乱」と称した。
 ひどい熱射病になると人事不省に陥り、うわごと言ったりする。腸チフスやコレラも脳に変調を来し、あらぬことを口走り、時には暴れたりする。そして、いずれも症状が重いと死んでしまう。つまりこの二つは、病気の症状としては外見上よく似ているのだが、実際は原因が異なる。病原菌によるもの、炎熱による身体機能失陥など、原因を突き止めてこそ、その対処療法があるのだが、医学の発達していない当時としてはどれもこれも同じ病に見え、引っくるめて「霍乱」としてしまった。
 そもそも「霍乱」という文字からして、病名としては甚だ大雑把である。「霍」という字は雨冠に隹(ふるとり=尾の短い小さな鳥)で、「にわか雨に素早く飛び立つ鳥」の意から、「素早い、にわか」を言う言葉になった。「乱」は言うまでも無く「みだれる、惑う」意味。つまり「霍乱」とは「あっという間にわけの分からない混乱した状態になってしまう」という、病人の状態を表現したまでで、一体どんな病気なのかをうかがわせるような名称ではない。要するにあれよと云う間におかしくなってしまう病と言っているに過ぎない。
 当然、特効薬のあるはずも無く、熱冷まし、下痢止め、吐き気止めなどが処方され、鍼灸に頼り、安静に寝かせて置くより仕方がなかった。そこから先は神仏が頼りで、時には胡散臭い祈祷師やお札売り、呪い師などが入り込んだ。
 幕末・明治になり、西洋医学が入って来て、チフス、コレラ、急性胃腸炎、熱射病などと、「霍乱」がきめ細かく分類されるようになり、ようやくそれぞれに合った治療が施されるようになった。とは言っても、霍乱症状の全てが解明されたわけではなく、治療法もそれほど進んでいなかったから、明治は言わずもがな、昭和もかなり後半までは、猛暑の中で原因がはっきりしないまま死んで行く人がかなりあった。それらは昔ながらに「暑さ中り」が嵩じて・・ということで片付けられた。
 医学薬学が目覚ましく進歩発展した今現在ですら、「暑さ中り」の中身が完全に突き止められているわけではない。同じ物を食べ、同じ環境に暮らしているのに、下痢をする人しない人、夏風邪を引く人引かぬ人いろいろである。持って生まれた体力、遺伝的体質、その時の体調等々、人間は親兄弟でさえ同じではないから、そういうことになるのだろう。「運不運」「ついてる・ついてない」「日頃の行い」「バチが当たった」といった言い回しが今でも生きて居るのも、そうしたことの現れだろう。その意味では「霍乱」という病気は依然としてあるのだとも言える。
  霍乱にかゝらんかと思ひつつ歩く   高浜 虚子
  霍乱のさめし眼にある紅き花     篠原 温亭
  かくらんに町医ひた待つ草家かな   杉田 久女

  霍乱かと駅のベンチに倒れ伏す    酒呑洞水牛
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2019年06月24日

俳句日記 (501)


難解季語 (25)

とらがあめ(虎が雨)

 旧暦五月二十八日に降る雨のことを「虎が雨」というのだが、今では余程の歴史好きか歌舞伎フアンでもない限り通じなくなっている。
 建久四年(1193年)五月二十八日、源頼朝が催した富士の巻狩の最終日の夜、豪雨の中で曾我十郎祐成と弟の五郎時致が父親の仇工藤祐経を討った「曾我兄弟の仇討」事件。赤穂浪士の吉良邸討入り、荒木又右衛門の三十六人切りで有名な伊賀越の仇討とともに「日本三大仇討」の一つとして、江戸時代から明治、大正、昭和の敗戦まで「武士道の鑑」と持て囃されてきた。
 見事親の敵を討った十郎・五郎兄弟はあえなく殺されてしまうのだが、後世の人たちはこの日に降る雨を十郎の愛妾だった大磯の遊女虎御前が流す涙であると言い囃し、それが各種の物語を生み、歌舞伎狂言にもなって広まった。曾我の仇討や虎御前の話は、鎌倉時代後期に書かれた鎌倉幕府の事跡を記した史書『吾妻鏡』にも載っているから、満更ウソでは無いようである。
 相模の地侍工藤祐経は叔父の伊東祐親と所領争いのもつれから怨みを抱き、郎党に命じて狩りに出た祐親と息子の祐泰に矢を放つ。矢は息子祐泰に当たり絶命。その後、祐泰の妻滿江御前は遺された一萬丸(後の十郎)と箱王丸(五郎)を連れて曾我祐信と再婚、兄弟は曾我姓を名乗るようになった。
 時を経て、仇の工藤祐経は源氏方に付き、頼朝の御家人として頭角を現す。一方、十郎五郎の祖父伊東祐親は平家方に付いたため、源平の戦い後に捕らえられて自害してしまう。しかし、十郎、五郎は叔母が頼朝の妻政子の父親執権北条時政の前妻だったという縁故を頼って、時政に接近し、その庇護を受けるようになった。こうして曾我十郎・五郎兄弟は時政の縁もあって御家人として暮らしていたが、工藤祐経を終生の仇として付け狙う意志を持ち続けていると、頼朝が富士の裾野で巻狩を催すことになった。チャンス到来である。
 頼朝はその二年前、眼の上のたんこぶだった後白河法皇が没し、晴れて征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府の礎を固めたばかり。この巻狩は天下に威勢を示す一大パレードの意味もあったのだろう、富士の裾野に一族郎党、家人こぞって繰り出し、幕舎を連ねての大規模なものだった。寵臣工藤祐経も頼朝の近くに幕舎を設けていた。巻狩を打ち上げた五月二十八日の夜、折柄の梅雨の豪雨の中を十郎・五郎兄弟は祐経の幕舎に切り込んだ。酔って遊女と寝ていた祐経はあっけなく討たれてしまった。ところが、どうしたわけか、兄弟は続いて将軍頼朝の幕舎を襲った。たちまち郎党に取り囲まれ、十郎祐成は討ち死に、五郎時致は捕縛されてしまった。五郎は翌日、頼朝直々の取り調べの後に斬首された。
 『吾妻鏡』には曾我兄弟が何故そんな無謀な行動を起こしたのかについては何も書いていないが、頼朝の弟で義経と共に平家追討に大功のあった源範頼がその数ヶ月後に謀反の疑いで修善寺に監禁され不審死を遂げた事件が起こった。範頼の背後には北条時政があったとも云われ、時政は曾我兄弟の庇護者でもある。そんなことから後年、曾我兄弟の仇討事件は、仇討に名を借りた頼朝暗殺未遂事件だったのではないかというミステリー小説のような話が尾を引いた。
 それはさておき、富士の巻狩仇討事件は出来たばかりの鎌倉幕府をかなり揺るがせたことは確かなようだ。『吾妻鏡』には曾我十郎祐成の愛妾である虎という大磯の遊女を、事件三日後の六月一日に召喚し取り調べたことが記載されている。結果としては虎御前は仇討事件と何の関わりも無いことが明らかになって釈放されたとある。その後、お虎さんは六月十八日に十郎五郎が尊崇していた箱根権現に行き、十郎が遺した葦毛の馬を寄進して菩提を弔い、剃髪出家して信濃善光寺に行った。虎御前その時十九歳だったという。
 JR大磯駅から十分足らず、旧東海道へ出たところにある延台寺には「虎御石」(とらごいし)が安置されている。周囲九〇センチ、重さ一三〇キロくらいの大石で、虎御前が化したものと云われている。江戸時代から有名で、浮世絵にもずいぶん登場している。「美男だと容易く持ち上げられる」という言い伝えがあるのも面白い。
 令和元年の曾我兄弟仇討記念日は6月30日。果たして虎が雨は今年も降るだろうか。
  しんみりと虎が雨夜の咄かな    忌部 路通
  虎が雨晴れて小磯の夕日かな    内藤 鳴雪
  虎が雨化粧坂にて出逢ひける    矢田 挿雲

  二宮へかけてざんざと虎が雨    酒呑洞水牛
  遅れじと五郎踏ん込む青芒
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2019年06月20日

俳句日記 (500)


日経俳句会夏期合同句会が開かれた

 6月19日(水)、梅雨の晴れ間の夜、日経俳句会の上期合同句会(通算28回)が千代田区内神田の日経広告研究所会議室で開かれた。「合同句会」という名称は昔、銀鴎会、水木会、酔吟会という三つの姉妹句会がそれぞれ別個に活動していたのだが、半年に一度は寄り集まって句会を開こうということで始まったものである。今では日経俳句会に合併されており、あえて「合同」という意味は無くなったのだが、名前だけが残っている。
 まあそれはともかく、今回は「梅雨」と「螢」の兼題に37人から111句が寄せられた。にぎやかで真に結構なのだが、近ごろの日経俳句会はいわゆる「出来上がってしまった」感じで、型にはまった行儀のいい句が目立つようになってきた。今回も高点句には以下のようなものが並んだ。
  紫陽花をコップに生けて守衛室   植村 博明
  一歩ずつ杖と帽子の妻の夏     大沢 反平
  いろはにほ闇に描いて蛍舞う    徳永 木葉
 いずれも悪い句ではないが、何となくどこかで見たような、言ってみれば「あまい句」である。
 しかしまあ考えてみれば、この句会に集まって来る人たちは「俳句づくり」を楽しんでいるだけで、何も職業俳人の向こうを張るような「畢生の名吟」を捻り出そうと日夜頑張っているわけではない。たまたま頭に浮かんだ五七五が何となく良さそうに思えるので投句したら、同好の士の高評価を得て有頂天になるといった塩梅である。それもまた良き哉であるなと思う。
 俳句作りでは後輩にあたる人たちに、これまで事あるごとに「佳句の条件」「悪句を避けるには」といったことを説いて来たのだが、近ごろは、それは意味が無い事なのではないかと思うことがしばしばである。みんな、そんなにいい俳句を作ろうなどと思ってはいないのだ。楽しみに詠んで、たまに褒められるようなものが出れば万々歳というわけで、句作についてあれこれうるさく言われたくないというのが大方なのではないか。というわけで、近ごろは句会でも、出来るだけ発言を控えるようにしている。昨夜も入選句についての論評をほとんどしなかった。
 昨夜の句会で水牛が採った句は、上記の高点句ではなく、
  ブレーキの音も重たし梅雨のバス   岩田 三代
  螢来る大虫さんの破顔かな      堤 てる夫
  白きまま散る鴎外の沙羅の花     星川 水兎
  真っ直ぐな未来を信じ立葵      玉田春陽子
  澄み切って郭公の声朝まだき     堤 てる夫
の5句で、3点が2句、2点1句、1点2句であった。1点というのはつまり水牛しか採らなかったということである。「大虫さんの破顔」は故高瀬大虫を知らぬ人には何の感慨も催さぬ句だから是は別として、後は伝統形式にきちんと治まった何の変哲も無い句ではあるが、見たまま感じたままを素直に詠んだ句であり、それぞれ借り物ではない、確かな独自性を保っている。
 かく申す水牛の句は、
  大太鼓合羽かけられ走り梅雨
  湯冷めすと叱られながら螢狩
  放たれし螢とまどふビオトープ
の3句で、たまさか二週前の地元の祭礼の場面を詠んだ大太鼓が6点も獲得した。今流行のビオトープへの螢放ちの句は反響があるかなと思っていたのだが、音沙汰無しであった。
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2019年06月19日

俳句日記 (499)



難解季語 (24)

てんかふん(天瓜粉)

 乳幼児の湯上がりの肌にぱたぱたはたいたり、汗疹(あせも)に振りかけたりする白い粉である。カラスウリ(天瓜)の根っこから取った澱粉で作ったので、この名前がついた。また雪(天花)のように真っ白でサラサラしているから天花粉とも書かれた。江戸時代から昭和時代まで乳幼児を抱える家庭の夏の常備薬だった。
 ただし、昭和時代に入ってからは和光堂のシッカロールに代表されるベビーパウダー、タルカムパウダーが天瓜粉に取って代わった。これは今日も根強い人気を持ち続け、使用されている。しかしベビーパウダーの原料は最早カラスウリの塊根から取ったものではなく、滑石(タルク)やコーンスターチなどの澱粉にいろいろな薬品を混ぜたものである。
 この点から言えば、原料は変わったものの天瓜粉は依然として生き続けており、「天瓜粉」という言葉だけが死語と化したと言った方が良さそうだ。
 とにかく、天瓜粉は昔は乳幼児ばかりでなく大人の汗疹、湿疹、蚊等に刺されたあとの掻き壊し、果ては水虫でただれた部位にはたく粉としても重宝がられ、どこの家にも置いてあった。恐らく今でもベビーパウダーを使っている大人もいるに違いないのだが、天瓜粉という言葉は通じにくくなっており、歳時記の夏の季語として生き続けているだけである。

  睡たさにうなじおとなし天瓜粉     水原秋櫻子
  天瓜粉父似祖母似とたたきやる     松島 水城
  ちんぽこの不意の噴水天瓜粉      江尻 三社

  天瓜粉はたかるる子ら重ね餅      酒呑洞水牛
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2019年06月16日

俳句日記 (498)

難解季語 (23)

めしざる(飯笊)

 先日この欄に「蠅帳」のことを書いているうちに、そう言えば昔の台所には飯笊というものもぶら下がっていたなと思い出した。
 「飯笊」も夏場の台所用品として重要なものだったのだが、今や『広辞苑』を引いても出て来ない。冷蔵庫の無い時代、朝炊いた飯は夜、仕事から帰って来ると、酸っぱいような臭いがすることがある。これを「飯が饐(す)える」と言い、「饐飯(すえめし)」と言った。これまた今どきの辞書には無い。
 米飯は日本人の主食であり、「米の飯が食える身分になれば一人前」と人の軽重を量る尺度にもされた。「一宿一飯の恩義」という言葉が生きていた時代が長く続いた。それほど貴重な米を少しでも無駄にしたくないと、昔の人は真面目に考えた。
 だから、ちょっと臭う程度の饐飯は、水で洗って、漬物や佃煮を載せて茶漬けのようにして食べた。これを「水飯(すいはん)」という。宮崎県を代表に全国各地に冷や飯に味噌汁仕立てのつゆをかけた「冷や汁」という食物があるが、これも水飯の変形と言えよう。また、必ずしも饐えた飯でなくとも、夏場の食欲不振対策として、冷や飯、時には温かい御飯を冷水で洗って水飯をこしらえることもした。
 とにかく、「御飯を捨てるなんてバチが当たる」と信じられていた時代だから、水で洗っても臭いが取れないほど完全に饐えてしまっても、まだ捨てない。さすがに食べるのは諦めて、饐飯を徹底的に腐らせてしまい、水を振りかけながら篦で潰す。こうすると良い糊になり、最後には不思議に悪臭も消えてしまう。これを水で薄め漉して、布地の洗い張りの時の糊付けに用いるのだ。
 しかし、貴重な食べ物である米の飯を糊などにするのはもったいない。なんとか飯が饐えるのを遅らせようと考え出したのが「飯笊」である。
 竹を割って細いひごを作り、磨いて、きれいな笊を拵える。身と蓋と大きさの違う笊二つで一組になる。吊り紐のついた身の方に残り飯を入れ、蓋笊をかぶせ、台所の日の当たらない風通しの良い所に吊す。こうすれば真夏でも一昼夜は保つ。
 昭和戦前はもちろんのこと、昭和四〇年代まで日本人は米飯をよく食べた。しかし、三度三度飯を炊く家は滅多に無かった。朝炊く家はそれを昼も夜も食べる。夜炊く家は翌朝と昼に食べた。そこでこうした飯笊とか蠅帳の出番が回って来ることになる。
 「もう三日も御飯食べてない」「それほどお金に困ってるようには見えないけど」「パンとうどんとピザばかり食べてた」という馬鹿話があるくらい、近ごろは米飯の消費量が落ち込んでいるようだ。「飯笊」という季語の出番が少なくなってしまったのも無理はない。
  飯笊を衣桁のはしに草の宿       高田 蝶衣
  めし笊のあはれ古びし世帯かな     野村 喜舟
  すいはんに浅づけゆかし二日酔     三浦 樗良
  水飯や目まひ止みたる四ッ下り     正岡 子規
  饐えし飯の糊が匂へる浴衣かな     青木 月斗

  花入れになる飯笊のよき老後      酒呑洞水牛
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2019年06月13日

俳句日記 (497)


難解季語 (22)

はいちょう(蠅帳)

 昭和四〇年代まではどこの家にも必ずあった夏場の必需家具である。大きさはいろいろだが、小型の物は縦横高さ四〇センチほどの箱で、オモテ側は引き違いの戸、側面には格子がはまり、それぞれに細かな金網または蚊帳の布が張ってある。風通しよく、しかも蠅が入らない食物貯蔵箱である。これを茶の間や台所に置いて、常備菜や漬物、残り御飯などを入れた。冷蔵庫の無い時代には夏場に無くてはならない用具であった。
 家庭だけではなく、下町の飯屋などにも大型の蠅帳が帳場の脇に据えてあった。そこに焼魚、煮魚、煮物など、その日の「おかず」が並んでいる。客は蠅帳の網戸を開けて欲しいおかずを取り、盆に載せ、温かい飯と汁を盛ってもらって、帳場で勘定を払い、飯台に持って行き食べるという具合だった。
 何しろ昔は蠅が多かった。六月の梅雨の晴れ間など、家の内外にわんわん飛び回っていた。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読む熟語があったほどで、どうやらこれも今では「平仮名で書きなさい」と言われそうだ。
 とにかく蠅は食品はもとより、魚肉、獣肉、人畜の排泄物、死骸が大好きで、そういうものに群がり集まる。うるさいだけでなく、病原菌をまき散らすから放っておくわけにはいかない。家庭では「蠅叩き」を常備し、食品店、魚屋などは粘着剤を塗った「蠅取リボン」を店中に吊した。魚や佃煮、芋やコンニャクの煮しめなどが盛られた大皿のすぐ上には、蠅がへばりついて真っ黒になった蠅取リボンがぶらぶら揺れていた。今どきの衛生観念が異常なほど発達した若いお母さんだったら、卒倒するに違いない風景である。
 昔は「夏負け」という体力消耗から病気になり、命を失う人が多かった。夏負けで病原菌に冒されればそれこそイチコロである。「食あたり」が最も恐れられていた一方、とかく栄養不良の食生活を送っていたから、少しでも食が細ると「夏痩せ」し、病気にかかりやすくなるから、せっせと食べなさいと言われる。そういった夏場の暮らしに蠅帳は命綱とも言うべきものだった。
 下水道整備によって汲取式便所が無くなり、「おわいやさん」と呼ばれていた便所汲取業者が姿を消した。これによってウジムシと蠅の発生が激減した。それに加え、家庭用電気冷蔵庫の普及によって、今では蠅叩きも蠅取紙も蠅帳も死語になった。

  蠅帳といふわびしくて親しきもの   富安 風生
  蠅帳や隅にころげて茹玉子      草間 時彦
  蠅帳のこころもとなく古りにけり   細川 加賀

  蠅帳に焦げしうるめを見つけたる   酒呑洞水牛
  蠅帳の埃かぶりて古物市
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2019年06月08日

俳句日記 (496)


水牛洞謹製梅酒・梅干(3)

 採った梅の実は仕分けしなければいけない。まずは虫食いや傷のついたものをはねる。丁寧に採ったから傷物は少ないが、農薬をかけていないせいで虫食いが結構ある。アブラムシのついたのは果皮が黒っぽいシミになっている。これは品質には問題無いが、見てくれが悪いから梅干にはならない。実の中に入り込んで食害する虫もいる。これが入り込んだ実には果皮にヤニが浮いているから分かる。こういうのを捨てながら、大粒の梅干用と小粒や形の良くないのを梅酒用に分けて行く。その結果梅干用が13キロ、梅酒用が6キロ、廃棄処分が1キロだった。これに、我が家でしぶとく実った2キロがある。これは大粒の純良品である。都合、令和元年漬け込み量は梅干15キロ、梅酒6キロの合計21キロということになった。
 梅干用のは一昼夜水に浸けてアク抜きをする。梅酒用は洗って大笊に広げて一日乾かす。
 準備万端整って、いよいよ漬け込み開始。まずは梅干。梅5キロを漬けられる大きなホーロー桶を三個並べ、それぞれに梅を入れては塩をまぶし、また梅を入れては塩をかぶせ、梅5キロに対して2キロの塩を入れ、陶器の押し蓋をのせて、脇から焼酎をお玉杓子で二杯注ぎ入れる。カビが生えませんようにとのお呪いと、梅酢がよく上がるようにとの呼び水である。そして6キロと2キロの重石を載せた。次に梅酒。梅酒漬け用の大きなガラス瓶を二個用意し、それぞれに3キロの梅の実と2キロの氷砂糖を交互に入れ、35度焼酎二升(3.6リットル)を注ぎ込む。
 あとは梅干は明日か明後日、一旦全て取り出して漬け直す「漬け返し」をし、二週間後くらいに塩揉みしてアク抜きした赤紫蘇を入れる。そして七月下旬に漬かった梅を土用干しする。これが第二の山場となる。梅酒の方は殆ど手間要らずで、時々瓶を揺するだけでいい。
 昨七日から地元の洲崎神社の例大祭が始まり、町には祭り囃子が流れている。一家の健康と梅干梅酒がうまく漬かりますようにとお参りに行ってきた。

  梅漬けて氏神祭へ参りけり     酒呑洞 水牛
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2019年06月07日

俳句日記 (495)


水牛洞謹製梅酒・梅干(2)

 懇意にしているタカハラ米屋に初生りの胡瓜を持って行って、世間話のついでに「今年は梅が採れなくて、長年続けてきた梅漬けが途切れるのも癪だから、これから買いに行く」と言ったら、お上さんが「そんな、ウチのを採って下さいよ」と言う。
 タカハラさんはこの近辺の草分けで、店の脇を流れる滝野川という小川に水車を据えて、戦前はゴットンゴットン米を搗いていた。そこに鶴亀橋という粗末な木橋が掛かっていたが、私の祖父と父が大正末に始めた横浜ガーデンという園芸会社への入口として「ガーデン橋」というコンクリート製に掛け替えた。つまり、タカハラ米店までが下町商店街、ガーデン橋から上が植物園と小動物園を併設した横浜ガーデン区域となっていた。タカハラ米店と我が家とはその頃からの付き合いである。
 滝野川は30年ほど前、横浜市営地下鉄が開通するのと前後して埋め立てられ、「せせらぎ緑道」という遊歩道兼地下鉄駅に通じる通勤通学路になった。タカハラの梅の木はその緑道に大枝を差し伸ばす大木である。天辺は、昔米屋の傍らやっていた質屋時代の土蔵の屋根を越すほどに伸びている。その枝に梅の実がびっしり付いている。
 「こりゃ大変だぞ。熟れた実がぼたぼた落ちて通行人の頭や衣服にぶつかったりすると事だな」
 「そうなんですよ。去年も大分枝を切ったつもりなんですがね、またこんなになっちゃって」と、お上さんは恨めしそうに梅の木を見上げる。
 二階まで届く大脚立と大ノコギリを持って乗り込んだ。手近の枝の実をもいでは下でお上さんが受ける米袋に投げ込む。そうしながら大枝を切る。かれこれ二時間の奮闘で梅の木は高さ二メートルほどになり、枝も透いて形が良くなった。梅の実がしこたま採れた。
 「これでまあ3年は保つな。そこから先はワタシャ生きてるかどうか分からんからな」
 「ご冗談を。とにかく、ほんとに助かりました」
 夕暮れ方、米の配達を済ませたタカハラの主人が大きな米袋にほぼ一杯の梅の実を持って来た。
 「ウチはほんの少し漬けるだけなので、どうぞ貰って下さい」と言う。計ってみたら、なんと20キロもある。これはいつもの年よりも多い分量である。嬉しいけれど、いささか途方に暮れる。
  梅の実を選り分けている芒種かな   酒呑洞 水牛
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2019年06月06日

俳句日記 (494)


水牛洞謹製梅酒・梅干(1)

 梅酒と梅干を30年以上作り続けている。亡父は酒が一滴も飲めない体質だったが、どういうわけか梅酒を作っていた。我が家の新年のお屠蘇は自家製の梅酒と決まっており、酒が飲めない父もこの梅酒は小さな盃に一杯だけ飲んでいた。梅干は好物だったからよく漬けていた。というわけで物心つく頃から梅酒の美味しさを知っていたのだが、新聞記者になって忙しい日々を送る若いうちは梅酒、梅干などには目もくれなかったし、海外生活が長かったから梅を漬ける習慣などは全く身についていなかった。それが、五十の声を聞くようになって突然、やり始めたのだから、やはり子どもの頃、両親がせっせと梅漬けしていた姿が脳の隅っこに焼きついていたのだろう。
 梅干作りの肝心要は、原料である梅の実の熟し具合を見極める事が第一。そして、漬け込む容器と塩加減と重石と、漬け込んでから一週後の「漬け返し」である。さらに、七月末の「土用干し」を律儀にやれば万全である。
 まず梅の実だが、基本的に梅酒用はまだ見るからに硬そうな青梅が良く、ほんの少し青から黄緑がかってきた頃合いが梅干向きである。次に容器選び。大昔は木の樽か甕に漬けていた。しかし、シロウトには樽はダメである。雑菌がはびこってカビが生え、すべておじゃんになってしまう。陶器の甕も顕微鏡的な微細な穴があり、そこにカビの原因が浸み込んでいる恐れがあるので熱湯消毒か焼酎洗いをする必要がある。これが意外に面倒である。そこである年からホーロー容器にした。これは梅干漬けには最適である。
 塩加減は漬ける梅の重量の20%の粗塩と決めている。梅が10キロなら粗塩2キロである。「塩分控え目」が流行り言葉になって、デパートの食品売場には「塩分5%梅干」などというのが売られている。料理の先生がテレビでまことしやかに「塩分5%」で梅漬けを教えたりしている。すべてウソである。温暖湿潤の日本で「塩分5%の梅干」は絶対に出来ない。必ず腐敗してしまう。重量比10%の塩で漬けてもカビが浮いてくる。これを防ぐには5キロの梅に対して35度焼酎を300ミリリットルくらい振りかけて漬け込めば何とか漬かる。
 重石は最初は梅の実の1.5倍を掛け、水が上がって来たら同量に減らす。この途中、漬けて一週間たった頃、一旦、梅を全て取り出し、また漬け直す「漬け返し」をする。こうすることで、重石がかからなかった梅も圧され、翌日、さらに梅酢が上がってくる。こうなればしめたものだ。
 江戸時代から昭和時代まで、梅干の塩分は30%から35%だった。天然の塩は空気中の湿気を吸って液状化してしまう。そこで昔の人は塩の貯蔵や遠方に運ぶ方法として、魚、肉、野菜などに塩を浸み込ませることを考え出した。「塩漬け」である。これは魚介、野菜の貯蔵法にもなる。それで塩鮭、ヘシコ、塩辛、しょっつる、野沢菜塩漬、沢庵漬などが生まれた。その代表選手が梅干である。つまり、梅干はおかずの役割と共に、調味料としての役割も担っていたのだ。
 漬物や塩干物に「塩分供給」の役目が無くなり、嗜好品になってしまった今日、急に「塩分控え目」が言われるようになった。しかし元来、強烈な塩分によって引き出されていた「旨味」が、薄塩では出ない。そこで化学製品の「旨味調味料」を添加したりする。腐敗を抑えていた塩分が減ったために、防腐剤が添加される。それやこれやで、塩分を控えたことによるメリットよりも、その数倍も害悪を及ぼす添加物まみれの食品が横行することになった。
 「塩分5%」「3%」などと書かれた梅干は決して食べてはいけない。元々は30%以上の強塩水に漬けた梅をタンクで脱塩し、それに人工調味料や蜂蜜などを加え、防腐剤をまぶしたシロモノなのだ。見てくれは素晴らしい。特大南高梅などと銘打って、赤ん坊の握り拳ほどもあろうかという巨大な梅干。口に含めばしっとりと、塩味も甘みもほのかで、いかにも上品だ。しかしこれは最早、自然の食べ物ではない。人工的なケーキと同じ、薬品まみれの食物である。
 梅酒も同じである。水牛梅酒は「梅1.5キロ、氷砂糖1キロ、35度焼酎1.8リットル」で、これ以外何の混ぜ物は無い。テレビや新聞で大宣伝している梅酒はこんなに沢山の梅の実を使っていない。さらに添加物の疑いも濃厚である。
 というわけで、「水牛洞謹製」の梅干、梅酒は見栄えは良くないが味はいいから、結構な人気である。先日など、双牛舎ブログ「みんなの俳句」に『梅漬ける一言居士の鼻眼鏡』という句が出た。作者の賢一さんも水牛梅干のフアンで、「もらうからには退屈な梅干談義も我慢しようか」というクチである。
 今年も梅漬けの時期になった。しかし、昨年、我が家の梅の木はアブラムシ退治を兼ねて大剪定したために、今年は漬けるほどの梅の実が採れない。はてさて困った。
  両腕に引っ掻き傷の梅実取り    酒呑洞 水牛
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2019年06月05日

俳句日記 (493)

難解季語 (21)

ぼうしゅ(芒種)

 二十四節気の一つで、旧暦五月の節。立夏から三十日後、芒種の十五日後が夏至ということになる。現在のカレンダーに当てはめると六月六日頃になる。
 「芒種」とは禾(のぎ)のある草のことで、代表的な作物が稲。その稲の苗を植え付ける「田植」という一年で最も大切な行事、農作業が始まる時期を示している。農業が国の基本であった時代には「芒種」は重要な日として誰もが知っていたが、今では「ぼうしゅ」と聞かされて即座に「芒種」という字を思い浮かべられる人はほとんど居ないだろう。
 「芒種」もまた立派な季語なのだが、この十五日前の「小満」と並んで、二十四節気の中では最も人気の無い季語に落ちぶれてしまい、近ごろは芒種を詠んだ句に全くお目に掛からなくなった。入梅も間近で、連日曇りがちの天気。何とも気分が優れない日々が続き、「芒種」と聞いてもさしたる感興を催さないのもむべなるかなということであろう。
 しかし、「芒種」という少々固い響きの季語を据えると、何となくこの頃の空気を感じ取ることが出来、これに何を取り合わせてもそれらしい句になる。こういう季語を発掘して詠むのも亦楽しからずやである。まさに「季語と遊ぶ」気分になる。

  ささやくは芒種の庭の番鳩(つがいばと)  石原 八束
  芒種なり水盤に粟蒔くとせむ        草間 時彦
  朝粥や芒種の雨がみづうみに        秋山 幹生

  梅漬けの桶や重石や芒種かな        酒呑洞水牛
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2019年06月02日

俳句日記 (492)


番町喜楽会第162回例会
「入梅」と「水馬」を詠む

 6月1日(土)夜、九段下の生涯学習館で番町喜楽会の6月例会が開かれた。この会も発足後既に丸16年、会を重ねて162回になる。姉妹句会の流溪句会と喜楽会を吸収合併し、日経俳句会からも希望者を受け入れ「番町喜楽会」という会名にして新たなスタートを切ったのが平成23年(2011)3月11日。奇しくも東日本大震災当日、子規の故郷松山の吟行で松山城に登った日だった。そこからも既に丸8年たっている。今や常連メンバー21人を擁する堂々たる句会になっている。日経俳句会、酔吟会などと比べて「若い会」という印象が濃かったのだが、やはりこのところめっきり「老練ぶり」が目立つようになってきた。そろそろ本気になって若手をリクルートする必要が出てきたようだ。
 第162回例会は出席14人、投句参加6人で、「入梅」と「水馬」の兼題に当季雑詠を加え投句総数は98句だった。選句6句で句会を行った結果は、なんと投句総数の約7割68句に点が入るという大乱戦となった。それらの中で3点以上を獲得した句は、
 ゆるやかに脱ぎすててあり蛇の衣    玉田春陽子
 ミッキーの傘が先頭梅雨に入る     須藤 光迷
 畝合を泳ぐ合鴨梅雨に入る       谷川 水馬
 金色の鯉の背を越す水馬        須藤 光迷
 田圃たんぼ越後くまなく梅雨に入る   堤 てる夫
 入梅や独鈷の帯の締まる音       廣田 可升
 あめんぼう流され前へ前へ行く     田中 白山
 あめんぼのレガッタ始まる水たまり   前島 幻水
 朝焼を見て満ち足りし二度寝かな    嵐田 双歩
 原っぱの大樹に集ふ夏帽子       塩田 命水
の、わずか10句だった。いつもは高点句が15句近く並ぶのだが、今回は極端に票が割れた。
 さて水牛句だが、さんざんであった。もともと、夏風邪をこじらせて気管支炎になり、酒を飲む気にならないという稀有な事態に陥った1週間で、幹事から「句が届きませんがどうしたのか」とメールが届いて、大慌てで30分で作ったドロナワだから無理もなかった。5月というのに30℃を超えるキチガイ天気に、蒲団をはいではまた風邪をぶり返す、ヤケッパチ気分を5句並べて送ったら、案の定みんな2点、1点だった。
  梅雨入などどこかに飛んで炎天下   (0)
  水馬急な猛暑に立ち止まる      (1)
  苦しげに毛玉吐く猫暑し暑し     (1)
  物忘れぐんと進みし猛暑かな     (2)
  チキンカレー極辛にする猛暑かな   (2)
やはりお座なりな作句態度にお灸が据えられた。
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