2019年08月29日

俳句日記 (522)


難解季語 (36)

やくび(厄日)

 立春から数えて二百十日目、九月一日か二日は昔から暴風雨が多い日とされていた。台風シーズンである。ちょうどこの頃、稲の花が咲き実る時期にかかり、暴風雨でなぎ倒されてしまったら、農民にとっては一年の苦労が水の泡である。国全体としても米が不作になっては一大事だ。というわけで、農家を中心にこの日を「厄日」と称した。この十日後の「二百二十日」も同じように風雨が激しくなると言い伝えられてきた。この頃は稲の晩生(おくて)の交配時期に当たる。そこで、二百十日と合わせて二百二十日も「厄日」として神仏に安穏を祈った。全国各地で産土神社には氏子が集まり「風祭(かざまつり)」や「風神祭」が行われた。今日でも米所の東北各県では神事を行う神社が多い。
 そもそも「厄日」というのは、陰陽道で十干十二支や星の巡り、さらには長年の経験をもとに、種々の災厄が降りかかって来ることの多い日を「慎むべき日」として示したものである。米作の豊凶に国の命運がかかっていると言ってもいい日本としては、稲作で最も大事な開花・授粉時期の台風襲来ほど怖いものは無い。そこで二百十日、二百二十日を「厄日」に加えた。これは大昔からの民間習俗だったのだが、貞享三年(一六八六年)幕府は官製暦(貞享暦)の中に二百十日・廿日を載せ、これによって「厄日」が官許のものとなり、それまでの種々雑多な厄日を差し置いて、これが「厄日」の代表のようになった。
 こうして「厄日」は二百十日の別名として俳句(俳諧)に盛んに詠まれるようになった。明治大正になって気象観測も初歩的ではあるが徐々に整備されてきて、天気の統計が取られ始めると、台風襲来が九月一日と十日に集中するわけではないことが判ってきた。しかし、一旦信じ込まれたものはおいそれと消えはしない。そのままずっと伝わってきた。そうしたら、「厄日なんて迷信だよ」とモボモガたちが嘯いていた大正十二年九月一日、関東大震災が発生した。浅草名物の文明開化のシンボル「十二階」が倒壊したのをはじめ、レンガ作りの西洋館がもろくも崩れ、東京、横浜が焼け野が原になってしまった。帝都と日本最大の貿易都市が潰滅してしまったのである。これで「九月一日=二百十日=厄日」が改めて人々の脳裡に刻み込まれた。
 しかしそれからもう百年近い年月が流れている。この間に「十二月八日」(一九四一年・太平洋戦争勃発)、「八月十五日」(一九四五年・敗戦日)、そして「三月十一日」(二〇一一年・東日本大震災)と途轍もない天災人災が発生し、「厄日」が九月一日とは限らないようになってしまった。
 「二百十日」という一風変わった季語は生き続けるとしても、「厄日」は最早忘れ去られようとしている。

  小百姓のあはれ灯して厄日かな     村上 鬼城
  川波も常の凪なる厄日かな       石塚 友二
  部屋ぬちに厄日の蠅のとびふゆる    井沢 正江

  木戸金具取り替へ急ぐ厄日かな     酒呑洞水牛
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2019年08月25日

俳句日記 (521)


得点の多少と句の良し悪しについて
日経俳句会第181回例会を例に

 8月21日(水)夜、日経俳句会の第181回例会がいつもの鎌倉橋交差点(千代田区内神田)のビルの8階で開かれた。この日の兼題は「秋風」と「朝顔」。出席19人、欠席投句14人から合わせて102句が集まった。6句選で句会を進めた結果、中嶋阿猿さんの「朝顔を褒めて一礼配達員」が14点という稀に見る高点を得た。次席は久保田操さんの「陽の欠けら拾ふ川面の秋の風」の10点、三席は向井ゆりさんの「転校の子の朝顔も持ち帰り」が9点で続いた。
 しかし私はこの3句、いずれも取らなかった。いずれも悪い句ではない。これほど大勢に支持されたのだから、良い処を沢山持っている佳句であることに異論は無い。ただ、3句ともに首を捻ってしまうところがあるのだ。
 「天」の「朝顔を褒めて一礼配達員」は「一礼」がどうかと思う。もしかしたら本当にお辞儀をして帰っていった珍しい配達員だったのかも知れない。しかし、事実と俳句の「事実」とは違う。事実をそのまま詠んでしまうと、却って事実らしくなくなって、わざとらしさが出たり、ウソっぽい、作り物のような感じを与えてしまうことがある。その見本を示してくれたような句である。
 「地」の「陽の欠けら拾ふ川面の秋の風」は「拾ふ」が良くない。朝か夕方か、とにかく斜めになった陽射しが川面を照らし、波がきらきらと輝く。それを「陽の欠けら」と詠んだところはいい。散歩の作者がそれを「拾ふ」と言うのである。合評会では「川面が拾っているのだ」「いや、秋風が拾うのではないか」との意見も出たが、そんな擬人法をここに挟んだら、それこそこの句は終りであろう。やはり、川岸に沿って秋風を楽しみながら歩く作者が陽の欠けらを拾うと読み取らなければこの句は取り柄が無くなってしまう。
 しかし川面の乱反射は「拾ふ」に相応しいものかどうか。「拾ふ」という主体性を持った動詞を置くことによって、この句は単なる叙景句から叙情の領域に踏み込んでいるが、さてその「情」とは「感慨」とは何か。ここで、この句は良く分からない句になってしまうのだ。余りにも措辞に凝り過ぎたとがめが出たと言わざるを得ない。
 「人」の「転校の子の朝顔も持ち帰り」は、3句の中では最も素直な詠み方で、私はもう少しで取るところだった。しかし、「の」がこの句をあやふやにしている。「子の」の「の」である。私は、これを主体を示す「の」と取ってしまった。格助詞の「の」はいろいろな役割を果たすが、現代語の「が」と同じように主体を表す場合がある。「虫の鳴く」「朝顔の咲く」といった具合である。そしてこの句を、秋の新学期から転校してしまう子が、学校に置いてある参考書や教材などあれこれと共に「朝顔の鉢も」抱えて去った、と受け取ったのである。皆と別れる寂しさ悲しさを堪えて、小さい身体で、精一杯胸を張って、弁慶が七つ道具を引っ担いで行くように・・、という様子を思い浮かべて、なかなかいいじゃないかと思ったのである。そうしたら、作者の説明では、夏休みに入るに当たって、転校した子の朝顔がぽつんと置かれていたので(このままでは枯れてしまうと)一緒に持ち帰った情景なのだそうだ。つまり、この「の」は所有を示す「の」なのである。このあたり、言葉遣いにもう一工夫あるべきではなかろうか。
 水牛がこの日選んだ句は、
  合宿の日焼けの腕に秋の風     実千代
  絵日記に朝顔の数増える日々    昌 魚
  朝顔の開花記録を自由帳      双 歩
  朝顔の色水つくりおままごと    実千代
  八月や戦争のこと父母のこと    双 歩
  敗戦忌あの田この田も出穂す    てる夫
の6句。概ね無難な句で、句会で高点を取るような句ではない。案の定、ぱらぱら点が入った程度だったが、いずれも実に素直な詠み様である。これら6句の中で私が最も良いと思ったのは最後の「敗戦忌あの田この田も出穂す」である。これは私しか取らなかったのだが、今日も昭和20年8月15日と同じように稲穂が顔をのぞかせているとさりげなく詠んで、爾来74年の来し方を深く考えさせられる。実は水牛はこの日、
  炊飯器スイッチぽんと敗戦忌
という句を出して、なんと7点も頂戴した。この句も言わんとするところは「出穂す」と同じである。大坂在住の、日頃かなり毛色の変わった句を詠んで周りを騒がせるヲブラダさんが、「こんなにさらりと戦後の歴史、平和、日本の経済成長を詠めるとは驚きました」と賛辞を寄せてくれたが、これは過褒とも言うべきで、上五中七が意表を衝いたための高得点であろう。句柄から言えば、当然「出穂す」に二歩も三歩も譲らざるを得ない。
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2019年08月22日

俳句日記 (520)


難解季語 (35)

処暑(しょしょ)

 処暑は二十四節気の一つ。立秋から十五日後(年によって一日ずれる)で、旧暦七月の中気、新暦では八月二十三日頃になる。太陽が黄経一五〇度とやや傾き、暑さが一段落という頃合いである。
 「処」という字は「とまる、居る、おちつく」という意味。立秋から半月たち、暑さがようやく落ち着く時期となる。「処」は几(台)に足を乗せる(腰をおろし足台に足を乗せて休む)という会意文字で、こんなところからも「処暑」という言葉にはほっとする気分が込められているように思う。
 確かにこの時期になると朝晩は少し涼しい感じになり、ほっと一息つく。しかし日中はまだまだ暑く、真夏日が再三ぶり返す。芭蕉が『奥の細道』の金沢で詠んだ句に有名な「あかあかと日は難面もあきの風」がある。芭蕉が金沢に入ったのは元禄二年(1689)七月十五日、今の暦だと八月二十九日になる。まさに処暑の真ん中である。照りつける太陽にうんざりしながらも、吹く風にわずかに秋を感じてほっと息をつく芭蕉が見える。
 地球温暖化が言われるようになった近ごろ、残暑傾向が年々強まっているように感じる。ことに令和元年の今年の夏はまさに異常で、八月に入っても連日の猛暑日だった。それでも処暑の声を聞く今日あたり、朝晩はちょっぴり秋の気配の風が吹いたりするようになった。
 しかし、日中と朝晩の気温変化が際立つようになると、夏の疲れがどっと出て来る。年寄りや子どもが体調を崩し、寝込んでしまうことも珍しくない。季語としての「処暑」には、このように本格的な秋を迎える頃の変わりやすい季節感も盛り込まれている。
 「処暑」の十五日間を五日ずつ区分けした七十二候は次のようになっている。
初候(新暦八月二十三日〜二十七日)は「鷹鳥を祭る」(中国の暦を日本の風土に合わせて改良した宝暦曆では「綿花しべ開く」としている)。次候(二十八日〜九月一日)は「天地始めて粛す」(大気も地熱も落ち着く)。末候(九月二日〜七日)は「禾乃登(かすなわちみのる=稲が実る)という具合である。秋への季節の移ろいがきめ細かく表されている。

  処暑の僧漢語まじりにいらへけり     星野麦丘人
  山を見ていちにち処暑の机かな      西山  誠
  水平にながれて海へ処暑の雲       柿沼  茂
  石臼の今は踏み石処暑の風        齋藤 和子
  音すべて大樹に吸はれ処暑の宮      大塚 正路

  陀羅尼助噛みつつ処暑の田舎駅      酒呑洞水牛
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2019年08月19日

俳句日記 (519)


敗戦忌に思う(3) ガーデン山の防空壕

 「ここに鉄筋コンクリートの立派な防空壕がありましたよね、実は私も入らせてもらったんですよ」とニイクラ酒店のオヤジさんが我が家の裏手の崖を見上げながら言った。遥か遠くを見るような眼差しである。それはそうだ、もう74年も前の話である。オヤジさんは私より1歳年上、子供の頃から知ってはいたが、一緒に遊んだことはなかった。なにせこちらは「ガーデンの坊ちゃん」であり、出入りの酒屋のセガレでは親しく口をきけなかったのである。それが戦後、横浜ガーデンが破算、我が家が貧窮のどん底に喘いでいた頃、ニイクラ酒店は味噌醤油はじめ調味料を戦前と同じようにツケで売ってくれて、支払いを猶予してくれた。以後、すっかり仲良くなって、今でも我が家は決して安売り酒屋などには行かず、毎月六升の清酒を買い続けている。
 さて、その防空壕。私の祖父幸次郎の指示でガーデン山のあちこちに構築したたものである。祖父は明治維新のどさくさに生まれ、まともな教育など受けなかったのに、世の中の動きを見通す力を持った人だった。若くして米相場と株で巨万の富を築き、それを元手にいろいろな事業を起こした。
 大正半ばに、横浜の山10万坪を買って、植物園と動物園のある理想的な田園住宅地「横浜ガーデン」の開発に着手したのだが、これは他の事業の片手間に、自分の隠居所作りを兼ねた道楽の一つだった。ところが息子二人が極めつきの不出来で、やらせた事業は全てものにならず、結局はこれが本業となった。しかしそれも戦火が急を告げて不急不要の花卉園芸業など立ち行かなくなってきた。昭和15年、祖父は脳梗塞に見舞われ、立ち居振舞いが不自由になり、少々言語障害にもなっていたが、第一次大戦以降の戦争騒ぎの動きを見ながら、息子達に保存可能食料の開発、収穫量の多い優秀農作物品種の選抜育成、多産系の豚や兎などの品種改良などを指示する一方、この山の要所にいざという時のための退避壕を掘っておくように言った。「チャンコロ征伐はもうすぐ終わる」とか「米英何するものぞ」と国民の大多数が思い込まされ、ついに「大東亜戦争」に踏み切った昭和16年末のことである。その翌年に祖父は74歳で亡くなったのだが、防空壕の世話にならなかったのがむしろ幸いだった。
 昭和18年も後半になると国内各所に空襲があり、19年には「防空壕」が必需設備となった。下町が空襲で焼かれた場合の住民の退避先としてガーデン山に眼を付けた軍部の要請もあったのだろう、祖父の言ったことを本気で進めることになり、横浜ガーデンの事業として山の要所要所に横穴式の防空壕を作った。一銭の利益も生まない事業だったが、幸か不幸かそれが見事お役に立ったのである。
 とにかく、昭和20年5月29日の大空襲の業火の中を、ガーデン山の麓からてっぺんの「上のウチ」まで約500メートルの坂道を、2歳の弟を背負い、5歳の妹の手を引いて何とか逃げおおせたのも、この防空壕のおかげだった。その時の私は国民学校二年生になったばかり、あと3日で8歳という、傍から見れば何とも頼りないガキだった。
 ふらふらよろよろ、昼間なのに焼夷弾の燃える油煙であたりは真っ暗。青々と茂っていた桜並木が大きなタイマツのようにぼうぼう燃えて、それが照明の役を果たしている。その下の道路の端には幅と深さが60センチほどの御影石造りの側溝があった。底には山の上の方からいつも水がちょろちょろ流れていた。そこに入って、のろのろと這い上って行く。普段は泣き虫の妹も歯を食いしばって私の手をしっかり握ってついて来る。背中の弟は声も立てない。前後には焦熱地獄となった下町から逃げて来た人たちが蟻のように繋がっている。
 機銃掃射だろう、時折、シュッシュッ、ババババッという音がする。ドンッという音とともにまぶしい光が射した。直ぐ近くに爆弾が落ちて破裂したのだ。ヒュルヒュルという不気味な音と一緒に火の玉を降らせる焼夷弾が引っ切りなしに落ちてきては辺りに油脂をまき散らす。それに火がついて、燃える筈の無い地面が大きな炎を上げて燃え盛る。その辺りを側溝からはみ出た人がよろよろ這いずり廻る。地獄絵図そのものであった。
 側溝の蟻の列が動かなくなった。前の方で、機銃掃射にやられた人がいたのか、詰まってしまったのだ。しょうがないから、ようやっと道の上に這い出して、今度は遮蔽物の何も無い坂道をよたよた登る。動けなくなりそうになると、近くの崖に掘ってある防空壕に飛び込む。
 二つめか三つ目の防空壕の所で、追いついてきた母に出会った。必死の消火作業も空しく、我が家は全焼、「お父さんはあなたたちを探しながら別の道を行った」と言う。これでとにかく私たちは助かったが、別の道を辿った父は直ぐそばに落下破裂した爆弾で大やけどを負った。
  泥の溝這ずりしこと敗戦忌
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2019年08月17日

俳句日記 (518)


敗戦忌に思う(2) 横浜大空襲

 昭和20年(1945年)5月29日、朝から昼にかけて米軍の爆撃機B29と戦闘機P51の大編隊が押し寄せ、横浜市中心部を火の海にした。この二ヵ月半前3月10日の東京大空襲が、東京の下町を潰滅させ死者10万人という世界の戦史上稀に見る無差別爆撃だったことから、横浜大空襲はその影に隠れた形になっている。しかし、爆撃の規模や米軍の作戦遂行のやり方などからすると、この空襲は大都市を通常兵器でいかに短時間に効率よく消滅せしめる事が出来るかを実験したものとして特徴づけられるものであった。
 まず投入したのが、B29爆撃機517機、P51戦闘機101機で、これは東京大空襲の時の1.5倍である。しかも、東京大空襲は夜間だったのが、横浜はもう日本軍の防空戦力の枯渇を見透かしており、白昼堂々の攻撃だった。後年開示された米軍資料によると、横浜大空襲作戦の攻撃拠点は、東神奈川駅から東横線反町駅に至る周辺、西区平沼橋一帯、中区の横浜市役所から京急黄金町近辺の三個所だった。いずれも商業、住宅地である。つまりは非戦闘員の住む、燃えやすい木造住宅密集地に焼夷弾をばらまき、火の海にしてパニックを起こそうとしたことが明白である。結果はその通りとなり、死者1万人、臨海部の工場はそれまでの空襲で殆ど破壊されていたが、この時の爆撃で僅かに残っていたものも焼き払われた。
 当時、国民学校2年生だった水牛少年は意気軒昂たるものだった。朝から出っぱなしの空襲警報で、小さな国民服に身をつつみ脚にはゲートルを巻き、ズックの肩掛けカバンと水筒を襷掛けにして、庭の隅の防空壕に妹と弟を連れて籠もり、いつでも飛び出せる用意をしていた。やがて、我が家にも耳を聾する落下音と共に爆弾、焼夷弾が降りそそぎ、あたりは見る間に黒煙と炎に包まれ真っ暗になった。両親は懸命にバケツで水をかけている。しかし、業火の勢いは物凄い。母がやって来て、2歳の弟トシオを私の背中に背負い紐で括り付け、5歳の妹マリコに「ミキ兄ちゃんの手をしっかり握っているのよ」と言い聞かせ、私には「なんとかして上の家まで逃げてちょうだい。しっかりね」と言うなり、また燃えさかる家の水掛けに走り戻った。
 上の家とは伯父一家の家である。当時、わが一家は反町駅の西7百メートルほどにある丘陵に横浜ガーデンという小動物園を併設した植物園・花卉販売所を経営しており、山のてっぺんに伯父一家、山の麓の玄関口に当たる所に我が家があった。母は、下町に近い我が家は爆撃されても、森に囲まれた上の家は大丈夫だろうと踏んだのだ。その推測は当たり、我が家は丸焼けになったが、上の家は無傷で、我ら一家はしばらくそこに避難生活を送ることになる。
  ご飯粒噛みしめてをり敗戦忌
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2019年08月15日

俳句日記 (517)


敗戦忌に思う (1)

 ミーンミーン、ジイジイと蝉の声が辺りを支配していた。それ以外の物音は一切しない、暑くてやり切れない真っ昼間だった。昭和20年8月15日正午、千葉県千葉郡犢橋村柏井字横戸の大百姓ヨコヤマさんの母屋の前庭には、出入りの小作人十数人に混じって、両親、妹弟と私の一家5人が整列して玉音放送に聴き入っていた。女学校二年生の姉は学校の関係などから横浜の親戚に残り、国民学校六年生だった兄は集団疎開で湯河原に居た。
 ラジオはガーガーピーピー雑音がひどく、当時8歳の私には何を言っているのかさっぱり分からなかったが、「シノビガタキヲシノビ、タエガタキヲタエ」と、甲高い声が跳ね上がったり低く沈んだりするにつれ、周りの大人たちが嗚咽を洩らし、やがて大声で泣くのを見て、これはやっぱり戦争に負けたんだと悟った。両手をつないでいた6歳の妹と2歳の弟も私の手をぎゅっと掴んでいたから、異様な雰囲気は感じ取っていたのだろう。
 しかし、直立不動で玉音放送を聞いていた私が、その時に思っていたことは、日本が負けたの勝ったのということではなかった。「今夜、何が食べられるのだろう」ということだった。我が家の米櫃に米はほとんど無く、ヨコヤマさんから分けてもらった新ジャガ(早採り馬鈴薯)が少々あるばかりなのが判っていた。おかずになるものと言えば、取って置きの切干し大根、干椎茸、昆布と丸干鰯がいくつかだけである。今日は大事な臨時放送があるということで、村中のみんなはラジオのある家に集まるようお触れが出ていたので、母と一緒の買い出しに行けないままだったのだ。
 ただ、この買い出しがまた子供心にも辛く響くものだった。コテハシムラというのは今では千葉市何とか区というれっきとした首都圏の一隅だが、当時は山林原野のど田舎だった。印旛沼から引いた細々とした用水を頼りに米を作り、水が十分でない丘の上では麦や芋を作るといった僻村である、そのせいか、極めて人気(じんき)の悪い所であった。「よそもん(余所者)」を全く信用せず、先ずは排除する姿勢である。しかし、東京から僅か30キロ足らずの場所だから、戦争が激しくなるにつれて疎開して来る人間が増える。そういう人種を「そけもん(疎開者)」と言って、まずは遠ざけ、何か良いモノ、例えば着物、洋服、洒落た雑貨、貴金属、アクセサリー、書画骨董などを持って来たソケモンには米や小麦粉、芋などを頒けてくれるのだった。
 この山林原野に亡父の兄、つまり水牛の伯父がアメリカ留学でゴルフキチガイになって大正末に帰国するやゴルフ場を拵えてしまった。成金の父親から巨額を引き出して山林原野を買収し、足りない部分は近隣の大地主から山林を寄託してもらう形で、昭和初年に鷹の台ゴルフ倶楽部を立ち上げた。昭和20年に私たち一家を受け入れた大地主のヨコヤマさんも役に立たない原野を寄託してなにがしかの利益を得た一人であった。兎に角、何も無い僻村に一大観光産業が生まれ、村民はゴルフ場整備、維持作業、キャディ収入などで大いに潤った。乗降客がほとんど無かった京成大和田駅も大いに賑わい、近所にタクシー会社まで生まれた。
 ところが、間もなく日中戦争が始まり、そのまま大東亜戦争になだれ込んでいった。無論、敵性運動競技のゴルフなどもってのほか、昭和15年にはあえなく閉鎖になってしまう。その後には軍国政府による開拓団政策によって、各地からわけの分からない人間が入り込んで、美しいフエアウエーを引っぱがして麦畑や芋畑にしていった。この連中が「御国のため」と称して周辺の昔からの村民にあれこれの悪さをしたのも、戦後の村民の疎開者に対する考えをねじ曲げてしまったところがあるようだ。
 とにかく、そうした荒廃した雰囲気の土地に、横浜大空襲で焼け出されてしまい、着の身着のまま何も知らずに入った我ら一家は哀れなものであった。昔のオーナーである伯父一家こそ何とはなしに奉られてはいたが、その親戚一家など屁でも糞でもなかった。
 母が毎日のようにリュックを背負い買い出しに出かける。小学2年の私が介添えに付き従う。学校はそのころ二部授業で午前の日と午後の日とあったから、付いて行けたのである。もっとも敗戦直後は授業もおざなりで、教科書はどのページも墨で塗りつぶされ、先生も何をどう教えていいか戸惑っていた。つまりは、登校しようがしまいが大したことはなかったのである。
 買い出しには毎回4、5キロは歩いた。こちらが差し出す着物や書画骨董、アクセサリー類などがあるうちは良かったが、元より戦災で焼け出されの我が家にそんな物の沢山あるわけがない。無くなってしまうと、百姓どもの態度ががらりと変わった。「そのイモは豚に食わせるだー、ソケモンにやるもんなんかねえ」とにべもない。「それとも何か、いいモン持って来たかあ、え、きれいなネエちゃんよー」と、薄汚いジジイが嫌な笑い方をする。今考えてみれば、深川小町などと言われていた母は当時35歳、下総の田舎オヤジにはふるいつきたい存在と映ったのかも知れない。母は、私の手を痛いほど握りしめて黙って頭を下げて帰るのだった。
  米とぐや今日は八月十五日
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2019年08月13日

俳句日記 (516)


難解季語 (34)

よばいぼし(夜這星)

 流れ星(流星)のことを昔は「夜這星」と言って面白がった。夜空の一角に突然現れて、あれよと云う間に落下し消えて行く流れ星は、あたかも恋い焦がれた女の所に深夜忍び込んで行く男のようだというのである。
 ずいぶん昔からある言葉で、清少納言が『枕草子』の中で「星はすばる ひこぼし ゆふづつ。よばひ星すこしをかし 尾だになからましかば、まいて」(254段)と書いている。「まして尾っぽなんか引いてゆくんですもの」とおかしがっているところを見ると、清少納言も夜這いの何たるかを十分ご承知だった。まあ、平安時代、男女の世界はかなり開けっぴろげで、昼間、意味ありげな和歌一首を小者に届けさせておけば、女の方も木戸の閂を外して置くといった具合だったらしい。
 三国志の諸葛孔明の死を詠んだ「星落秋風五丈原」をはじめ、流れ星は大昔から「死」「命」と結び付けられてきた。それ故に流れ星を不吉なものとして忌み嫌う向きもあるが、秋の夜空に流星を見つけるのは楽しいものである。ましてやそれが民話の世界に通ずる「夜這い」と結び付けられると、俄然面白くなってくる。
 流れ星というのは彗星が出す数ミリから数センチの小天体(流星物質)が地球の大気に猛スピードで突入した際に発生する発光現象。彗星の軌道と地球の公転軌道が交わる時に流星が沢山現れるようで、毎年お盆の時期になると現れるペルセウス座流星群などによって、晩夏から秋の夜空によく見えるので秋の季語になった。夜になっても蒸し暑い残暑の候、蚊帳を吊っただけの開けっ放しの寝間には夜這星もたやすく入り込めたであろう。

  旅果てのたましひは風夜這星  丸山 海道
  夜這星峡にをろちの深ねむり  角川 源義
  真実は瞬間にあり流れ星    マブソン青眼

  船徳利据えて待つなり夜這星  酒呑洞水牛
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2019年08月11日

俳句日記 (515)


難解季語 (33)

いきみたま(生身魂・生御魂)

 「お盆」は仏教の盂蘭盆の略称で、その盂蘭盆というのも、元はサンスクリット語のullambana(ウランバーナ=倒懸)が語源だ。インドの古代宗教では、死者は生前の罪科を抹消するため冥界で逆さ吊りにされると信じられていたため、現世の子孫たちは先祖が受ける苦悩を慰めるために祭を行った。これが仏教に取入れられ、ウランバーナが漢訳されて「盂蘭盆」となり、やがて日本に伝わった。しかし日本にも古代から先祖を祭る風習はあり、それが仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と結びついて、日本独特の盆行事が形造られるようになった。推古天皇十四年(六〇六年)に盂蘭盆会を行った記録が残っているというから、古い。
 現代日本にはお盆が年に三回ある。一つは明治五年の改暦によって施行された新暦(太陽暦)に昔の行事の日取りを機械的に移してしまうやり方である。首都東京はじめ関東各県はこの新暦方式に従った。一月一日は元日、七月七日は七夕という具合で、お盆もそのまま七月十五日とした。とてもすっきりとして分かり易い。しかし、元日は寒の最中でとても「賀春」の雰囲気ではないし、七夕やお盆は梅雨の真っ只中ということになってしまう。
 そこで、旧暦行事を単純に一ヵ月ずらして行う「月遅れ」という方法が取り入れられるようになり、地方ではお盆も「月遅れ盆」で行う所が多くなった。これだと季節のズレをある程度カバーできる。これが現今の会社社会の夏休みと重なり、八月十五日を中心とした帰省ラッシュを起こしている。このサラリーマン社会の夏期休暇制度とくっついて、「月遅れ盆」がもっとも盛んなようだ。
 ところが伝統行事は旧暦で行うという頑固な所も残っている。盆行事も旧暦七月十五日に行う「旧盆」である。しかし、旧暦では日取りが毎年ずれてしまう。例えば平成29年(2017年)の旧暦七月十五日はなんと九月五日にずれ込んだ。これは旧暦の季節調整手段として、この年の五月を普通の五月と閏五月の二回やったために生じた大幅なずれである。しかしこの調整のおかげで30年は八月二十五日が旧七月十五日となり、令和元年の今年は八月十五日が旧暦の七月十五日ということになった。「旧盆」と「月遅れ盆」が重なった珍しい年である。
 新暦・旧暦と由緒ある行事との季節調整の難しさは、俳句作法にもいろいろな問題をもたらしている。現代俳句界はこの暦と季節とのずれをどう克服するかの葛藤に疲れて、季語もいらぬ、575もいらぬとヤケを起こしたような人も出て来て、新傾向俳句とか無季自由律俳句などというものが生まれた。
 さてここでようやく、今回の表題である古色蒼然たる「いきみたま」という難解季語の話が始まる。しかし、さしたる事は無い。始まればすぐに終わる。
 生身魂とは「生きている魂」すなわち死に損ないのボケ老人のことを、やんわりと真綿にくるんで奉ったものである。お盆というものは元より代々のご先祖様、近年亡くなった身内の霊を慰めようとのお祀りなのだが、室町時代末期(十六世紀末)頃から、一族の最長老を「生身魂」として、お盆の最中に会食の首座に据えて御馳走したり贈り物を捧げたりして祝うことをするようになった。さらに親戚の最長老、仕事先の親方、仲人など、目上の人に贈り物をする習慣も生まれた。これが中元の贈答の始まりという説もある。
 「人生五〇年」とは昭和前半時代まで言われてきた言葉である。さらに還暦と言って十干十二支の自分の生まれ年と同じ卦、例えば甲子(きのえね)とか丁丑(ひのとうし)とかの同じものは六十年で巡って来る。すなわち六〇年生き長らえたことになり、平均寿命より十年も生き長らえて目出度きこと限り無しと、子どもたちや親戚が赤いちゃんちゃんこを着せて赤い頭巾をかぶらせて祝った。七十歳まで生き永らえれば「古来稀なり」ということになる。正岡子規に「生身魂七十と申し達者なり」という句がある。明治二、三十年代には七十歳台というのは本当に崇め奉るべき存在だったのだ。
 いまや様変わり。句会などは生身魂のオンパレードである。

  生身玉やがて我等も菰の上       小林 一茶
  古里にふたりそろひて生身魂      阿波野畝
  奥の間に声おとろへず生身魂      鷲谷七菜子

  生身魂とも見做されず吞んで居る    酒呑洞水牛
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2019年08月07日

俳句日記 (514)


難解季語 (32)

はしい(端居)

 夏の夕方、日が落ちて少し涼しい風が吹いてきた頃合い、温気のこもった室内を出て縁先にくつろぐのを端居と言う。座敷の真ん中に大の字になったりするのではなく、縁側の端で閑かに涼むといった感じである。しかし、エアコンの行き渡った昨今、こうした情趣はすっかり忘れられてしまった。そもそも縁側の無い家が多くなっているし、申し訳程度についたバルコニーなどに出ようものなら、手の届きそうな所にある隣家のエアコン屋外機からぶうぶうと熱風が吹いて来て、くつろぐどころではない。
 そう言えば「温気」などという言葉も最近はすっかり耳にしなくなった。「うんき」と正しく読める人も少ないかも知れない。こうして日本語は徐々に語彙を減らして行き、それに代わってカタカナ言葉がこれでもかとばかりに入り込んで来る。
 日本列島は北海道を別にしておおむね湿潤温暖であり、植物の生育には好条件がそろっている。従ってそれを食べる昆虫や微生物が大量に湧き出し、それらを捕食して鳥獣が育ち大いに繁殖して、人間の暮らしも豊かになる。そこまではいいのだが、夏の蒸し暑さだけはどうにもやりきれない。
 寒さはなんとかなる。零下二〇度などというのは論外だが、大概の寒さなら穴ぐらや掘っ立て小屋や、風除けをほどこした場所にうずくまって、稻藁をかぶったり、毛皮なり布切れを重ね着すればしのげる。ところが暑さだけはどうにもならない。炎天下で直射日光を浴び続ければ日射病を起こすから、屋内に引っ込む。すると湿度が高い日本ではたちまち温気がこもり、パンツ一枚というところまで脱ぎ去ってもまだ暑い。あの謹厳実直な兼好法師でさえ、夏場の蒸し暑さにはよほど閉口したのであろう、「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は堪え難き事なり」(『徒然草』第五十五段)とぼやいている。
 そんなところから「端居」が生きて来る。おじいさん、おばあさんはもとより、時には夕餉の仕度前のちょっと手すきの主婦が冷やし麦茶などを飲みながらほっと一息入れたりする。江戸時代から明治、大正、昭和までずっと続いてきた夏の暮らしの一コマであった。
 縁先で涼むご隠居が仕事仕舞いの庭師をねぎらい、近くに呼び寄せる。「ご苦労さん、植木屋さんまあ一杯おやり」と、自分が飲んでいる柳蔭をすすめる。「ヤナギカゲ」とは焼酎を味醂と水で割り井戸に吊すなどして冷やした納涼の酒である。「ところで植木屋さん、ナはおやりか」「へ?」「いやいや、青菜のお浸しだよ。ああ、奥や(ぽんぽんと手を打つ)、植木屋さんに菜をお上げ」「旦那様、鞍馬より牛若丸が出でましてそのナをくろうほうがん・・」「おおそうか、それじゃ義経にしておきなさい」。眼を白黒させた植木屋の八っあん、我が家に戻って女房と熊公相手にドタバタを演じ「それじゃ弁慶にしておけ」とオチがつく、お馴染みの古典落語の発端も「端居」である。
 現代は誰も彼もが忙しく、また忙しくしていなければいたたまれない気持に駈られて、「何もしないでくつろぐ」ことがめっきり減ってしまったようである。一人でも多くの人が「端居の効用」を思い出せば、世の中ずいぶん落ち着きを取り戻すように思う。

  ゆふべ見し人また端居してゐたり     前田 普羅
  端居してただ居る父の恐ろしき      高野 素十
  娘を呼べば猫が来たりし端居かな     五十嵐播水

  大丈夫か声かけらるる端居かな      酒呑洞水牛
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2019年08月05日

俳句日記 (513)


難解季語 (31)

むしおくり(虫送り)

 今は農薬が普及したから稲作も害虫の心配をほとんどせずに済むようになった。しかし、一九〇〇年代半ばまでは大変だった。田圃の害虫の代表的なのは、大きなものではイナゴ、バッタ、小さなものにはウンカ、ズイムシ等がある。農家はその駆除に大変な苦労をした。ウンカは漢字で浮塵子と書くように、小さな虫で大群が発生、稲に取り付くと口吻(口先の針)を茎や折角実った稲に突き刺して汁を吸い取ってしまう。ズイムシはニカメイガ(二化螟蛾)という蛾の幼虫で、この蛾が飛んできて稲に卵を産み付けると、それが孵って茎の芯を食い漁り養分を吸い取って最後には稲そのものを枯らしてしまう、とんでもなく厄介な虫だ。
 せっかく植えた稲が育ち、初夏の風にそよぎ始めるや、こうした害虫が一斉に蠢き出す。草取りと一緒に、虫取りもせねばならぬ。しかし、人力ではとても取り尽くせない。虫害のひどい年には村中の収穫半減といった存亡の危機に陥ることすらあった。
 そんな時、燕がせっせと害虫を捕食してくれるので、燕は農家にとって無くてはならない益鳥として崇め奉られた。「燕が巣をかけた家は富む」という言い伝えが全国隈無く広まったのも、元は稲の虫害防除に力があったからである。
 しかし燕だけに頼って何もしないでは居られない。夏場から収穫期の秋まで親子総出でせっせと稲の虫取りに精出すが、はかが行かない。ということで神頼み。村中こぞって「虫送り」という祈念行事をした。藁で稲虫人形を作り、それを大勢で担ぎ、煙を上げる松明をかざし、鉦や太鼓を叩きながら「虫送り、虫送り」と大声で囃しながら田圃を回り、村はずれの川に藁人形を流して、「もう虫が来ませんように」と神に祈る。
 「虫送り」を「実盛送り」ということもある。この実盛は、芭蕉が『奥の細道』の旅で小松(石川県)に行った際に多太神社で詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」の平家の老将斉藤別当実盛である。実盛は最初は源義朝に仕えていたが、義朝滅亡後、平宗盛に従った。源義仲(木曽義仲)追討令に従って寿永二年(1183年)北国進攻に従軍、故郷に錦を飾るべく昔義朝から授けられた兜と直垂に身を包み、七十三歳の白髪頭を染めて奮戦した。しかし、敢闘空しく義仲の若き郎党に首掻切られた。義仲は二歳の時、父義賢が討たれた時に実盛が助けてくれた恩を忘れず、実盛を丁重に葬り、実盛着用の兜直垂を多太神社に奉納した。このいきさつは謡曲『実盛』に脚色されて伝わり、芭蕉もよく知っていたのであろう、木曽義仲が大好きだった芭蕉は、多太神社でぜひ実盛の兜を見たいと思っていたようだ。
 話が横道にそれたが、「実盛送り」の伝説とは、実盛が討たれたのは奮戦中に乗馬が稲株につまづいて転んだからで、実盛はいまはの際に「稲株が無ければこんな不覚は取らなかった。死後は稲虫となって未来永劫、稲を食い尽くしてやる」と呪ったというのである。農民にとってはなんとも迷惑な話だが、稲虫は「実盛虫」とも呼ばれるようになり、藁人形を「実盛人形」と呼んで、怨霊を鎮め、川に送るようになったのだという。
 「虫送り」などと言うと、今どきの人たちは子どもたちの「虫取り」(昆虫採集)と似たような、のどかな行事と勘違いする。試しに周囲の誰彼に聞いてご覧なさい。果たして正解は何分の一あるだろうか。

  猶も田に螢はのこせ虫送り     横井 也有
  虫送る夜や先に立つ鳴子引     加舎 白雄
  虫送る松明森にかくれけり     正岡 子規
  狩野川に沿うてのぼるや虫送り   高浜 虚子
  実盛虫送りし月の瀬鳴りかな    宮岡 計次

   横浜市指定無形民俗文化財南山田虫送り
  宅地化に空缶たいまつ虫送り    酒呑洞水牛
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2019年08月04日

俳句日記 (512)


番町喜楽会第164回例会があった

 8月3日(土)午後6時から九段下の千代田区生涯学習センターで番町喜楽会の定例句会が開かれた。出席15人、投句参加5人で、兼題「夏の果」「冷奴」と雑詠含め投句5句、選句6句で句会を行った。なかなかの句が多くて、選句の票が分散し、最高点が5点で玉田春陽子の「釣堀の疲れし水や夏の果」の一句のみ。次席4点は「ふぞろいの踵の減りや夏の果 水馬」「湧水に踊るトマトや奥会津 春陽子」「折紙に凝りて真夏を閉じこもる 而云」「尻もちで蟻と出会ふや一歳児 百子」の4句だった。そして、続く3点がなんと13句も出た。
 今回の水牛句はいいところ無しで、以下の如き惨状を呈した。
  行く夏や下足番居る桜鍋    (1点)
  揉海苔もおまけにのせて冷奴  (1点)
  変人しか佳句は詠めぬか冷奴  (1点)
  スリッパの重く湿りて梅雨長し
  猫の首つかむ電撃夏競馬
 後から読み返せば、どれも取り柄の無いものばかりで、この得点も宜なる哉である。
 今夜の句会で水牛が◎を付けた6句は、上記の「ふぞろいの踵」の他、
  摘みつくすブラックベリー夏の果     澤井 二堂
  夫婦して遊び呆けて冷奴         田中 白山
  網戸新調夕べの風を待ちにけり      山口斗詩子
  青栗の毬きらきらと雨上がり       谷川 水馬
  屋号映ゆ下足札手に夏座敷        廣田 可升
の5句である。
 句会を終え、いつものように大衆割烹「味よし」へ行き、野田冷峰の全快と句文集『独耕』出版に乾杯した。その後、恒例の水牛の全句評「結構ですなあ」を開陳し、「真澄」の純米吟醸の一升瓶と芋焼酎を楽しんだ。
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2019年08月01日

俳句日記 (511)


難解季語 (30)

よすすぎ(夜濯)

 夜の洗濯を「夜濯」と言って、夏の季語としている。江戸時代から昭和の初め頃までは、所によって「亡くなった人の着物を洗うのは夜」とする習慣があったり、「夜濯ぎすると赤子の夜泣きが止まらなくなる」という言い伝えがあったりで、夜濯が嫌われたりもした。しかし、女性も外へ出て働くことが多くなると、そんなことに構ってはいられない。勤めから帰っての洗濯だから当然夜になる。時には深夜じゃぶじゃぶやったりする。近ごろの若い夫婦は「自分のものは自分で洗う」ことに決めて、互いに夜中に洗濯したりしている。もっとも今は全自動洗濯機だから、昔ほどの苦労は無い。
 とにかく近ごろの「夜濯」は夏に限らず一年中のことなのだが、伝統を尊ぶ俳人たちは「夏」のものと決めている。なぜ夜濯が夏の季語になったのかと言えば、やはり夏場に盛んに行われていたからである。というより、猛暑の候は夜濯せざるを得ない事情があった。
 江戸の昔はもちろん、戦中戦後間もなくの昭和三十年代初め頃まで、衣料品は高価で貴重品だった。庶民は一重の着物、浴衣、あるいはワンピース、ブラウス、それに下着類それぞれ一、二枚しか持っていなかった。下町の長屋の住民には一枚しか無い「着た切り雀」も珍しく無かった。そうなると夏場は大変だ。昼間の労働で下着は汗をたっぷり吸い込んでいる。これを翌朝また着込んで行くのは気分が悪い。こうなると、夜濯は縁起悪いなどという言い伝えはいつの間にか忘れられ、井戸端で肌着と褌を毎晩洗う。翌朝にはすっかり乾いているという寸法だ。かくて「夜濯」が夏場の風物詩とされるようになった。
 「夜濯」は私たちも日常よくやっているし、字面が難しいわけでもないから、「難解季語」の仲間に入れるには異論がありそうだ。確かにこれ自体は難解ではないが、「なぜ夏の季語にせねばならないのか」との疑問を抱く人がとても多いので取り上げた。
   夜濯にありあふものをまとひけり     森川 曉水
   夜濯の更け来し水の澄みわたり      中村 汀女
   はや寝落つ夜濯の手のシャボンの香    森  澄雄
       *       *       *
 令和元年の梅雨は異常に長く、関東地方の梅雨明けは七月二十九日になり、平年と比べて八日、前年より一ヵ月も遅かった。梅雨の間はじめじめと、妙に薄ら寒い日すらあったのに、明けた途端、三〇度を越す猛暑。俄然、夜濯が目立つようになった。昔と違って、誰もがシャツや下着などダースで数えるくらい持っているのだろうが、汗になったものを置いておくのを嫌うからなのだろう。
 水牛も昨日、夜濯をした。昼間も暇なのだから何も夜になってから洗濯なぞしなくてもいいのだが、昼間は暑くて何もやりたくないから夜になってやったのである。日常着ているシャツや下着は山の神が洗濯してくれるが、家庭菜園の仕事着や靴下は泥だらけになっているから、普通の洗濯物と一緒には洗えない。そこで、畑仕事の衣類は一ヵ月分溜めておいて、仕事部屋に置いてある洗濯機で洗うことにしている。
 この洗濯機は平成二十一年に白寿で亡くなった母がまだぴんしゃんしていて、掃除洗濯を自分でやっていた頃に買ったものだ。三菱電機の「ママ思い4.3」という愛称ラベルがついている。もう二十年以上使っている。二槽式で洗う時間を5分、10分というように手動ネジ式のタイマーをセットする。時間が来るとジーッと物凄い音で知らせてくれるから、外で何か別の仕事をしていても分かる。10分にセットして2回洗う。この間、裏庭の雑草抜きや片付けをした。
 濯ぎが終わったら脱水槽に突っ込んでタイマーをセットすればいいのだが、脱水槽の中に洗濯物の重さが平均に掛かるように入れないといけない。いい加減に入れて、もし重さが偏っていると、回転し始めた途端にがたがたっと揺れ、洗濯機全体が震度6の強震にあったようにガタンガタンと踊り出す。それを知らずに、初めてこれを使った時に、踊り出した洗濯機を押さえ込もうと、タイマーの切れる三分間、全体重を掛けて必死に押さえ込んだ。止まった時には汗だらだら。目まいがして、半日ほど手足が震え続けているような感じだった。
 だからズボンなどを入れる時には大蛇がとぐろを巻くように慎重に納め、隙間に靴下など入れて、荷重を平均化する。慣れてしまえば何と言うこともないが、結構時間はかかる。ざっと1時間でズボン2本、綿ネル長袖シャツ1枚、長袖スポーツシャツ1枚、靴下12足、タオル5枚を洗って干した。
 八朔の今日、洗濯物はきれいに干し上がっていた。めでたし。
   八朔の洗濯物の白さかな     酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 17:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする