2019年10月25日

俳句日記 (538)


愚の骨頂

 わずか五畳のわが書斎は本や各種資料で一杯。元々狭い部屋の壁ぐるりに造付け本棚や大型スチール抽出が並べてある上に、窓に面して書き物机があり、その右側にパソコン机、プリンターを載せるテーブルが並んでいる。その右端は水牛にとって命から二番目に大切な酒庫を兼ねたサイドボードがある。というわけで、パソコン机に向かう椅子を置くと、残りのスペースは二畳くらいになってしまう。
 本棚とスチール抽出はとっくに満杯で、溢れ出たものがそこかしこに積み上げられている。本棚の本を引っ張り出す時には、その前に積んである本や書類を脇にどけないと本棚の硝子戸が開かない。脇にどけると言っても、既にその場所には別の書類や本がかなりの高さに積まれている。その上に積むから、何かの振動で崩れる。そうなるとそこに新たな山が出来て、今度はスチール書棚の抽出が引き出せなくなる。
 こういう状態だから、何か書こうとして手元に必要な資料や参考書を集めるのが大仕事になる。時には積まれた本や書類の奥の奥に目指す資料があることを思い出す。それを引き出すだけで一時間かかったりするのもざらである。引っかき回しているうちに書類の山が崩れて、居眠りしている居付き猫のチビの上になだれ落ちる。「何すんのさっ」と怒ってギャアギャアわめく。
 近ごろはインターネットという便利なものが出来て、それを開いてマウスを動かせば、目指す情報がたちどころに出て来る。書籍類は国会図書館や公立図書館のホームページを探せば大概見つかる。問題はそれ以外の、何処の誰とも判らない人の発信している情報(たとえばこの「水牛のつぶやき」に類する随想ともなんともつかない読み物)である。こういうのに時々、これはと言うような面白い情報がある。しかし、大抵はその話の出典が書いてない。この情報を孫引きしたいのだが、何とかして出典を探り当てて確かめたい。「この話は昔何かで読んだことがある。どの本だったかなあ」と首をひねり、心当たりの本や資料をいくつか思い出し、それを探しにかかる。
 こうなるともう、一時間やそこいらでは済まない。「愚公山を移す、か」なんぞと独りごちながら、右の紙くずを左へ積み替える。かくして我が書斎は台風に壊された物置のようになる。適当に片付けて、歩く場所を確保し、見つけた資料をめくりつつ、ようやく本題の執筆にかかる。その頃には夜はすっかり更けており、五体はアルコールを求めて鳴き出す。一編の雑文が仕上がるころには空が白み始めている。

 資料探しも灯火親しむもののうち  酒呑洞水牛
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2019年10月21日

俳句日記 (537)


難解季語 (41)

ひつじだ(穭田)

 稲刈りがすっかり終わった晩秋、一望何も無い田圃の稲の切り株から芽が生えて、緑色の茎を伸ばし、秋風にそよぐ。まるで春に還ったかのような錯覚を覚えることがある。これを穭(ひつじ)と言い、再び早緑を取り戻した田圃を穭田と言う。
 穭田の稲はずんずん伸びるが、間もなく霜が降り、気温がぐっと下がるから、伸びるとは言ってもせいぜい一〇数センチで枯れてしまう。早生の稲だと早く刈り取るために、穭の伸びるのも早く、時には稲穂を出すものもある。しかし所詮は実が入らずじまいのシイナ(粃)ばかりである。こんなところから、穭田はきれいではあるが全く役立たずの、空しく枯れてしまう寂しさを歌う素材として、大昔から和歌に盛んに詠まれた。俳諧も俳句もその伝統を受け継いでいる。
 しかし、「ひつじだ」という言葉を知っているのは今日では俳人と歌人ばかりという状況になっている。稲作農家の人たちも全部が全部知っているわけでは無いようだ。第一に、私がいま使っている日本語入力ソフトでは「穭田」が出て来ない。「ひつじだ」と打ち込んでも「羊だ」「日辻だ」となってしまう。日本一売れてるソフトだと言われているのがこれだから、つまりはこの言葉と漢字を使う人がほとんど居なくなったということなのであろう。
 「穭」(漢音ではリョ、呉音ではロ)という字の偏の禾は稲という意味で、右側の旁(つくり)の魯は「おろか」とか「役立たず」の意味。すなわち穭は「役に立たないバカ稲」ということになる。
 と言うわけで役立たずの稲が生えそろって青々としている穭田は、緑が失われつつある晩秋に一時の賑わいを見せてくれるものなのだが、うら淋しい思いを掻き立てる。穭が出始める前の、稲を刈り取ったばかりの田圃が「刈田」という晩秋の大きな季語で、これは収穫の喜びを伝えるとともに、あっけらかんとした晴れ晴れした感じを与える。そこからなまじっか芽が生えると、再生の喜びではなく寂しさを感じるのは、これから厳しい冬へとなだれ込んで行く寂寥感がもたらすものなのであろう。
 ただ、何も無くなって広々とした刈田や穭田は、最後まで子孫繁栄の営みに頑張る虫たちが多く、落ち穂拾いもあって、野鳥の天国になる。また近隣の農家は鶏やアヒルを放つ。子供たちの大運動場になるといった塩梅で、現実には寂寥感どころか、吟行に来た都会の俳人たちが呆気にとられる賑やかさを呈することもある。「穭田に大社の雀来て遊ぶ 村山古郷」「穭田に真雁の声の揃ひたる 山田みづえ」「ひつぢ田に肩組み頭寄せ日の児たち 佐藤鬼房」などがそうした穭田のもう一つの景色をうたっている。

  ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき   与謝 蕪村
  何をあてに山田の穭穂に出づる      小林 一茶
  穭田に鶏あそぶ夕日かな         内藤 鳴雪
  穭田に我家の鶏の遠きかな        高浜 虚子
  穭田に二本のレール小浜線        高野 素十
  
  穭田や邪推妄想切れ目なく        酒呑洞水牛
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2019年10月17日

俳句にならない日記 (20)


東京五輪が札幌五輪に

 来年八月の東京オリンピックのマラソンを札幌で開催することにしようという案が持ち上がっている。国際オリンピック委員会(IOC)という総元締めが言い出したことだから、そうなるのだろう。しかし、こんなバカなことがあっていいものなのだろうか。
 オリンピック大会は「都市」が主催する国際スポーツ祭典である。「日本オリンピック」では無く「東京オリンピック」なのである。会場設営の都合から一部を横浜など近隣に移すのは可としても、札幌まで飛んでしまっては「東京オリンピック」とは言えない。中でもマラソンは古代ギリシャの逸話を背負った、オリンピックのシンボルとも言うべき種目である。これで「東京オリンピック」と言えるのだろうか。
 オリンピック大会は商業主義に汚染され、どんどん派手になり、今では大国でなければ開催できなくなっている。前回のリオデジャネイロ大会はブラジル政府はかなり無理をして、あちこちに後遺症を残していると言われている。来年の東京五輪も対抗馬はスペインやフランスの諸都市があったが、国際オリンピック委員会(IOC)は初手から東京を好ましい候補地としていたようだ。日本でやればカネになることが世界的なスポーツマフィアの常識になっているのだ。しかし、最初から決めてしまったのではカネにならない。あちこちに対抗馬を立てて競わせ、日本を焦らす必要がある。
 まんまとはまった日本は、アベシンゾーという総理大臣がまるで吉本芸人のような格好をしてリオデジャネイロの招致イベントの舞台にスーパーマリオとなって現れるという馬鹿げた振る舞いをした。あまつさえ、「オモテナシ」と気持悪い発音でパフォーマンスのタレントだかなんだか分からない、最近環境大臣と出来ちゃった婚をした女性を繰り出して、「八月の日本はスポーツには最適」というデマまで振りまいた。八月の日本はスポーツには最悪の時期であることは常識である。しかし、IOCにとっては最大の金づるであるアメリカのテレビ会社が最も放映しやすい八月は動かせない時期なのだ。
 「東京五輪」の開会式に是が非でも総理大臣として臨みたい人物と、それを取り巻く有象無象が「八月、大いに結構」と呑み込んでしまったのである。何を今さら「都市開催」の原則を曲げてメインイベントのマラソンを他都市に移すのか。途中棄権が何人出ようが、たとえ死傷者が出ようが、それは承知の上で八月開催を決めたのではないか。もし東京マラソンで死者が出たら、いさぎよく総理大臣なり五輪担当大臣、そして東京都知事がはっきりとした責任を取ればいいではないか。
 思うに、つい先頃ドーハで行われたマラソン大会で棄権者が4割に上ったという事実を突きつけられ、これはまずいと日本オリンピック委員会(JOC)あたりが「IOC決定による開催地変更」を画策したのではないかと勘繰りたくもなる。
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俳句日記 (536)


日経俳句会第183回例会
「行く秋」「と「柿」を詠む

 10月16日(水)夜、千代田区内神田・鎌倉河岸のビル八階で日経俳句会十月例会(通算183回)が開かれた。台風15号が千葉県を襲って南房総一帯をめちゃくちゃにして、停電に悩む家がまだ残っているところへ、今度はさらに大きな19号。暴風被害はそれほどではなかったが豪雨禍が前代未聞のすさまじさ。関東から福島、宮城、長野まで12都県に甚大な被害を及ぼし、12日に吹き過ぎてから4日たった今日もさらに死者が増え80人を越えるありさまである。
 この二つの台風が来るまでの首都圏は大変な暑さで、十月に入ったというのに30℃を越えるとんでもない天気だった。ところが台風が過ぎたら晴はたったの一日、その後は長雨がしょぼしょぼ降り、朝晩は10℃前後にまで冷え込むようになった。「行く秋という兼題を出したのはまずかったな」と反省していたのだが、全く何と言う事か、「行く秋」を惜しむ間もなく冬になってしまった気分である。
 こんなキチガイ天気のせいか、偶然の為せる業か、この日の句会も前代未聞で、出席者がわずか13人。女性が一人も居ないという珍しい例会になった。欠席投句者が何と出席者の二倍の26人。合評会は高点順に取り上げていくことになっており、最高の9点句「菊人形大坂なおみの高島田」こそ出席していた中沢豆乳さんの句で面目をほどこしたが、次点の「行く秋や名もなき画家の絵を求む 阿猿」、三席の「陽の色に染まる軒先柿すだれ 操」「異国語の飛び交ふ村の吊し柿 明生」以下欠席投句者の作品ばかりで句会はすっかりシラケてしまった。
 水牛選の六句は、
秋ぞ行く茶色になりし雨蛙      百 子
成り年の柿賑やかに夕陽浴ぶ     てる夫
異国語の飛び交ふ村の吊し柿     明 生
奈良に嫁し今年もつくる柿のジャム  綾 子
稲妻に首刈られしか地蔵尊      而 云
温室のウツボカズラの秋思かな    水 兎

 今回の水牛句は、
行く秋を猫と留守居の夜のしじま
野良猫の狩にせはしき暮の秋
いい柿が来たよ八百正胴間声

 いつものことながら投句締切日ぎりぎりになっているのに気が付いて慌てて作った三句だが、今回は普段とちょっと違って、実際に身辺慌ただしかった。丈夫な山の神が一月ほど前からお腹が痛い、張る感じだと言い出した。近所のかかりつけ医の処方したあれやこれやの薬を飲んだが効かず、あれこれ検査の結果、大腸ポリープの摘出ということになって入院した。
 と言うわけで、「行く秋を猫と留守居」ということになったのである。たった一人と猫一匹の夜は静けさがいや増す。ただし、後になって考えると、この句は「行く秋や」と切りを入れた方が良かったなと思う。
 居付き猫のキタ子が庭を縦横無尽に駆けずり回るのは行く秋の年中行事であり、これはノラから家猫に昇格したチビの背中を撫でながら秋の夜長を一杯やりながら作った。
 柿の句は皮を剥いたりかぶりついたりする句は自分でもかなり作っているし、吊し柿や木守柿も常識的だ。というわけで、二、三日前、八百屋のショーちゃんに呼び止められた台詞をそのまま出した。ショーチャンは私の果物好きであることをよく知っており、呼び止めれば必ず買うことも心得ているのだ。
 三句とも合評会にかからない低得点に終わったが、自分としては悪くない句だと思っている。
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2019年10月12日

俳句日記 (535)


難解季語 (40)

がんがさ(雁瘡)

 脛や腕、時には腹や背中に小さな赤いポツポツが出来て、むやみに痒くなり、掻くと皮膚が剥がれてフケのようなものが落ちる。我慢出来ないほど痒いからつい血が滲むほど掻きむしり、さらに赤く腫れたり、ただれたりして瘡蓋が出来る。とにかくしつこい。この皮膚病は大昔からあったらしいが、奇妙なことに雁が渡って来る晩秋に発生し、雁が帰って行く春になると不思議に治ってしまう。そこで「ガンガサ(雁瘡)」という奇妙な名前がついた。
 江戸後期のベストセラー、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも雁瘡が出て来る。弥次郎兵衛・喜多八が東海道五十三次を辿り、伊勢参り、京都、大坂見物しながら、行く先々で失敗を繰り返す珍道中を描いた滑稽本は、江戸出立から箱根までの初編が享和2年(1802)に出た。当時最大の版元蔦屋重三郎が断ったものを、挿絵も一九が描くのなら安上がりだと中小出版社の村田屋治郎兵衛が引き受けたのだが、これが大当たり。大坂見物で本編八編が終わった後も、安芸の宮島、木曽街道等々、続編、続々編と二十数年にわたって書き継がれた。本編の東海道が大当たりを取ったところで、「弥次郎兵衛・喜多八」の人物像、履歴を問う声が高くなって、初編発刊後12年たった文化11年、新版を出すに当たって、一九は弥次さん・喜多さんの人となりを描いた「道中膝栗毛発端」を書き、これを初編の前に置く体裁を取った。
 それによると、栃面屋弥次郎兵衛は駿河府中(静岡市)のかなり裕福な商家の育ちだが、商売そっちのけで放蕩三昧、借金だらけになって、ついには入れあげた贔屓役者の付き人の鼻之助を連れて夜逃げ、江戸は神田の裏店の借家住まい。鼻之助を元服させて喜多八と名乗らせ、とある商家に奉公に出し、自らは僅かな蓄えを食いつぶしながら相変わらず江戸前の魚と豊島屋の剣菱など美酒に耽る暮らし。男やもめにウジが湧くを絵に描いたような無精ったらしい生活を心配した呑み仲間が心配して、さるお屋敷に女中奉公していた年増女を娶せた。なんとか一人前の家庭が持てたところへ、故郷から「弥次さんと言い交わした」という妹を連れた武士が突然やって来て、すったもんだの大騒動・・。その場面で弥次さんの女房おふつが、娘と兄さんに向かって、「・・わたしは仕方なしに添てはゐますけれど、色が黒くて目が三かくで口が大きくて髭だらけで、胸先から腹ぢうに癬(たむし)がべったりで、足は年中雁瘡でざらざらして・・」(こんな男は止した方がいいですよ)と言う。
 この膝栗毛が江戸っ子の愛読書になっていた江戸時代後期から幕末、同じように人気を呼んでいたのが「番付」という出版物。あらゆる物事を相撲の番付に見立てて、最高位を大関として前頭数十枚目まで、人気順、評判順に列挙した一枚刷りである。
 その一つに「病薬道戯鏡」というのがある。インターネットで調べると、製薬会社エーザイの「くすりの博物館」が発信しているホームページや都立中央図書館所蔵のものが見られる。番付の東方は「薬之方」で大関奇應丸源吉常を筆頭に当時評判の薬が有名人になぞらえ駄洒落、語呂合わせなどでふざけている。西方が「病之方」で大関は当時最も恐れられていた天然痘の「疱瘡之宮守人神王」(最高位は何と言っても皇族の「○○宮△親王」)、関脇「五疳之太夫灸敦雁」(疳の病は小児の神経症、腹痛などで、灸に頼るしかなかったから「キュウの熱かり」)、小結「悪疾兵衛壁湿」(原因不明の慢性疾患をひっくるめて悪疾と称した)と来て、前頭十七枚目に「雁瘡脛右衛門足病」が登場する。
 膝栗毛に出て来たり病気番付に載ったり、当時タムシなどは当たり前で、雁瘡を始めとした皮膚病が人々の悩みの種だったようだ。弥次さんの住まいは「神田八丁堀」と書かれている。この地名は今は無いが、今川橋の近くにあった堀割が八丁堀(現在の茅場町近くの八丁堀とは別)と呼ばれていたから、その裏通りの長屋であろう。とにかくこの辺りは水はけの良くない場所で、不潔な暮らしをしていればすぐにも皮膚病にかかる。
 江戸っ子は銭湯が大好きで、落語などには「ひとっ風呂浴びてくらあ」というセリフがよく出て来る。しかし、毎日、銭湯に通えたのは高級取りの大工、左官などの職人で、普通の江戸市民はそうそう風呂には入れなかったと思われる。「膝栗毛」の文化文政時代の湯銭(入浴料)は十文。今日の物価と比べるのは物によって異なるから一概には言えないが、まあ一文は三十円から五十円といったところである。つまり銭湯の入浴料は三百円から五百円で、現在とほぼ同じようなものだが、独身の貧乏人にとっては毎日通うのはためらう金額になる。ましてや無精でずぼらな暮らしをしている弥次さんみたいな独身男は推して知るべし。年中脛を掻きむしっているのも珍しい光景では無かったはずだ。
 現代医学では痒疹性湿疹と命名されているが、未だに決定的な治療法や薬が見つかっていない。命に別状無い皮膚病で、この特効薬を発明してもノーベル賞は貰えそうもないから、長年放置されてきたのだろう。近ごろ、冬場になると脛や腕の皮膚がかさかさになって、とても痒くなる乾燥肌というのが問題視されているが、これも雁瘡の一種だという。
  名所図会めくる雁瘡掻きながら     酒呑洞水牛
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2019年10月08日

俳句日記 (534)


秋と言えば萩──日本人に愛され続けて来た秋草

 公明新聞の学芸欄に「萩」に関する随想を書けと言われて書いたものだが、記録のために再掲する。
            *     *     *               
 秋の草花が咲き競う季節になった。日本人は秋草の咲く野を「花野」という季語にして親しみ、歌や俳句に詠んできた。奈良時代八世紀前半の宮廷歌人山上憶良(やまのうえのおくら)は「万葉集」巻八に「秋の七草」を材料に分かりやすく解き明かしている。
 「秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花」
 「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花」
 後の方の歌は五七七・五七七と重ねる旋頭歌(せどうか)の形式で、一つずつ秋草の名前を教える面白い詠み方だ。まず最初に「秋の野原に咲いてる花を指折って数えてごらん、七種類あるよ」と語りかけ、「萩の花だろ、尾花(ススキ)だろ、クズの花にナデシコにオミナエシ、これで五つだね」と五本の指を折って見せ、「また」と言ってフジバカマ、アサガオの花と残る二つを指し示している。
 山上憶良がこの歌を詠んだのは筑前守(今の福岡県知事のような役職)時代ではないかと言われる。憶良は「子等を思ふ歌」「貧窮問答歌」など当時の実社会を題材に歌を詠んだ珍しい歌人で、子供好きだったことがうかがわれる。もしかしたらこの秋の七草の歌も、福岡の子供たちと野原に遊んだ時にできたのかも知れない。
 萩は日本に自生する秋の花の代表。マメ科植物で荒れ地にもよく育つ。春に芽を生やすと楕円形の葉をつけたしなやかな茎をぐんぐん伸ばし、数十本の茎が群がり立ち大きな株になる。初秋、茎の先に蝶型の赤紫の可愛らしい花をいっぱいつけて、ちょっとした風にもそよぐ風情がなんとも言えない。こうしたところが人々に愛され、今日でも各地の公園に「萩のトンネル」が作られたりして秋の呼び物の一つになり、短歌、俳句に連綿と詠まれ続けている。
 芭蕉は「奥の細道」の市振(新潟県糸魚川市)の宿でたまたま新潟の遊女二人と同じ宿に泊まり合わせ、「一つ家に遊女もねたり萩と月」と詠んでいる。市振を出て一ヶ月少したった頃、芭蕉に随行していた河合曾良が山中温泉まで来た所で腹の病にかかり、知る辺を頼って一足先に行く事になった。その去り際に「行々て倒れふすとも萩の原」という句を詠んだ。「病身の私は行き倒れになるやも知れません。しかし、師匠のお導きで風雅の道に入った者としては、萩の原に伏すのは本望です」という意味合いであろう。師弟が「萩」を句材に詠み合っているところが、「秋と言えば萩」を物語っているようで興味深い。

  秋の字に草冠つけ咲きにけり   水牛
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2019年10月06日

俳句日記 (533)


第166回番町喜楽会が開かれた
「新米」と「渡り鳥」は難しい

 10月5日(土)午後6時から、東京・九段下の千代田区生涯学習館で第166回番町喜楽会が開かれた。今年は夏も秋も滅茶苦茶で、10月になったというのに東京は31℃。野菜は穫れず、秋刀魚は不漁、そこへ消費税10%への切り上げも重なったが、諦め顔の庶民はもう怒り声も出さない。しかし、番喜会に集う人たちは万事超越した面々が多いから、にこやかに、「新米と渡り鳥はどちらもやさしいようで難しいですな」などと言っている。
 この日は用事のある人や残暑バテの人も出て、出席14人といつもと比べて少なかったが、欠席投句が7人分あり投句総数101句と出そろった。いつも通り投句5句選句6句で句会を行った結果、高点句は以下のようになったが、最高点が5点止まりで、しかも玉田春陽子さんの「新米句」たった1句だった。やはり「新米」も「渡り鳥」も固定観念が出来上がっているために、どうしても「見たような句」になってしまうようである。
『新米』
新米やふるさとの香のふきこぼれ     春陽子
今年米眉濃き伊那の男より        而 云
藻塩ふる佐渡の新米試食会        百 子
富富富てふ名前にひかれ今年米      水 馬
四万十の佃煮のせて今年米        満 智
新米の研ぎ汁まずは庭の木に       木 葉
『渡り鳥』
通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る       可 升
風のこゑ浪のこゑきき鳥渡る       春陽子
渡り鳥地上は難民移民かな        幻 水
夕空をのび縮みして渡り鳥        幻 水
『当季雑詠』
刈田焼く今日は休日三世代        百 子
白萩の猛然と咲く庭の隅         てる夫
紙ヒコーキ地につくまでの秋思かな    可 升
風通す鏝絵の蔵や薄紅葉         光 迷
彼岸花中野拓きし名主塚         水 牛
 水牛は「通夜へ行く乗換ホーム鳥渡る」「白萩の猛然と咲く庭の隅」の二句にいたく惚れ込んで取ったほか、以下の4句を選んだ。
新米や在所は同じ姓ばかり        双 歩
仏壇に新米ですよと供へけり       可 升
灯台の真夜の呼吸や鳥渡る        而 云
木瓜の実や親子揃ひの坊主刈り      水 馬
 最後の、親子揃って坊主刈りの句など、ただ野放図に成っているだけで何の役に立つのか、デコボコの木瓜の実との取り合わせが実に面白い。
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2019年10月01日

俳句日記 (532)


難解季語 (39)

たつたひめ(龍田姫)

 秋を司る女神である。陰陽五行説で四季を方角に当てはめると秋は「西」となる。そこで奈良時代、平城京の西方、奈良県生駒郡の龍田山の神様龍田比売命(たつたひめのみこと)を秋の神様に仕立て上げた。春を司る女神「佐保姫」が平城京の東の佐保山に鎮座、これと対を為している。
 昔は奈良県と大阪府との境の信貴山に連なる生駒山地を大づかみに「龍田山」と呼んでいた。しかし今日、龍田山というのは正式な地名としては存在しない。ただ、この山地の麓を龍田川が流れ、秋には紅葉が殊の外美しく、昔も今も紅葉の名所として名高いものだから、今でもこの辺を漠然と龍田山と言う人が多い。
 万葉集に龍田山は沢山詠まれている。
妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
 (次にまた解くまでは決して人には解かせないと誓って愛する人の衣の紐をきつく結んで龍田山を立って行くのですが、山は今まさに紅葉が始まったところです。紅葉の真っ盛りにこの紐を解きに戻って来られるでしょうか、紅葉が散るころでしょうか・・・)
夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
 (夕方になると雁の飛び越えて行く龍田山は時雨と競うように色づいてきました。紅葉は雁と時雨に急かされて色づいて行きます。私の愛しく思う人も、回りには雁や時雨のように刺激を与えるものが多いようなので・・・)
 しかし、最も有名な龍田川の歌と言えば、やはり在原業平の歌であろう。
ちはやふる神代も聞かず龍田川から紅に水くくるとは
 (神代の時代にさえこんなことは聞いたことがありません。龍田川の川面一面に紅葉が散り敷いて流れを鮮やかな唐紅でくくり染めにしてしまうなんて)
 業平の歌としては面白くも可笑しくも無い平凡なものだが、恋人であった藤原高子が清和天皇(850-880)の女御として入内し、業平との灼熱の恋の思い出を歌にして龍田川の紅葉の屏風に書くようにと望まれて詠んだものという話が伝わっている。そういうエピソードを踏まえて読むと、これはなかなか一筋縄ではくくれない歌である。そんなことが当時から言われていたのだろう、「古今集」に載り、百人一首にも採用された。江戸時代になるとなんと「千早振る」という落語にまでなった。
 とにかく龍田山と龍田川は古くから歌の題材となり、それを神格化した「龍田姫」は俳句に盛んに詠まれるようになったのだが、さすがに現代俳句となると「龍田姫」の出番はぐっと減り、詠む人が少なくなってこれを季語として載せない歳時記が増えてきた。しかし、ギリシャ神話もそうだし、記紀や万葉集もそうなのだが、造化の神々とそれにまつわるエピソードはロマンチシズムに溢れ、夢を掻き立てる。もう少し大事にしてほしいなあと思う季語である。

  龍田姫月の鏡にうち向ひ     青木 月斗
  麓まで一気に駆けて龍田姫    山仲 英子

  龍田姫の裳裾あらはに集塵機   酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 22:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする