2019年11月29日

俳句日記 (553)

難解季語 (45)

行火(あんか)

 現代日本人で「行火」を「あんか」と読める人は何割くらいだろうか。家電製品がまだ完全に行き渡らなかった昭和40年代初め(1960年代半ば)までに幼少期を過ごした世代が辛うじて読める、あるいはその物を知っているといったところであろう。
 陶器あるいは素焼の天辺と角を丸くした四角な箱で、側面には小さな丸い穴が開いている。この箱の中に灰を入れ、そこに火のついた木炭や炭団を入れて、手足を温める素朴な暖房器が「行火」である。炬燵と似たようなものだが、炬燵が木製の櫓の中に陶器の小型火鉢を据えてそこに熾った炭を入れて上から蒲団をかぶせた、ほぼ固定的なものであるのに対して、行火は陶器の四角な箱に炭を入れて何処にでも持ち運びできるようになっていた。「行」は唐音で「あん」と発音し、持ち運び可能なことを意味する。即ち携帯暖房機である。
 「唐音」というのは、呉音、漢音、宋音という漢字の読み方の一つで、江戸時代になって、主として中国南部一帯の発音を総称した呼び方で、概ねは宋音と重なっている。鎌倉室町時代に禅宗の坊さんが杭州(南宋の都)から中国本土に入り、勉強して帰国して広めた漢字の読み方である。だから、「行」を「こう、ぎょう」ではなく、「あん」と読み、「行灯」「行脚」「行者(あんじゃ=寺院の下働き、給仕)」など、寺に縁のある言葉が多い。行灯も行火ももともとは坊さんが寒い書院で勉強するにあたって用いた什器なのだろう。
 この行火が室町時代(一四、五世紀)に流行し始め、だんだん庶民にも行き渡って、なんと昭和40年代初めまで、延々五百年近く、庶民の冬の暮らしを温めてきた。しかし、行火は何と言っても炭火や炭団など直火を灰に埋めたものだから、何かの拍子に倒したらえらい事になる。火事になる前に気が付けば良いが、それにしてもあたりは灰だらけになってしまう。「湯婆(たんぽ)」あるいは「湯湯婆(ゆたんぽ)」という陶製あるいは金属製の缶に湯を入れて足や腰を温めるものもあったが、保温持続時間が限られており、栓が緩めば湯水が漏れて大事になる。ちなみに「湯」を「ゆ、とう」ではなく、「たん」と発音するのも唐音で、やはり留学僧の持ち帰った言葉である。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った坊さんもいたが、結構寒がりもいたようだ。
 それやこれやで、電熱を応用した「電気行火」「電気炬燵」「電気毛布」が出て来ると、行火と湯婆はたちまち姿を消してしまった。スイッチ一つで温かくなり、安全で、灰や水が漏れたりする心配が無い。出始めは結構高かったのだが、背に腹は替えられないというわけで、急速に普及した。
 実は電気行火と言えば、そのずっと前、敗戦後間もなくの昭和21年、真冬の寒さに炭も満足に手に入らない時分に売り出されたことがある。しかし、物資不足の当時のことだから、あり合わせの針金に和紙を巻き付けたものをとぐろを巻いたようにして、糸くずなどでくるんで布をかぶせたもので、「電気座布団」と言われていた。もう一つ当時流行ったのは、木箱の内側の両側にブリキ板を置き、それに銅線を繋ぎ電気を通じる。箱の中にイースト菌あるいはふくらし粉を入れて水で溶いた小麦粉を入れて通電すると発熱し、やがてふっくらとパンが焼き上がる「電気パン焼き器」だった。両方とも爆発的に売れたが、間もなく大問題になった。電気座布団は、使用しているうちに内部に湿気が溜まり、和紙でくるんだだけの針金はたちまちショートしてしまい、ぶすぶすいぶり出して発火、火事になって大騒ぎになり、たちまち発売中止。電気パン焼き器も宣伝通りにはパンが膨らまなかったり、ショートしたりで、これまた姿を消した。我が家にはこの両方があって、火事も起こさずかなり重宝した。小学3年生の私もせっせと食パンを焼いていたので、とても懐かしい。
 それもこれも遠い昔。昭和50年代からバブル時代を過ぎ、平成になると、行火は見向きもされなくなった。神社の境内などの骨董市には、行火や湯湯婆が埃だらけで無造作に転がされ、皿小鉢の二つ三つ買えば、只で呉れたものだった。それが、最近の骨董市ではあまり見かけなくなった。こういうものが流通する時代が過ぎ去ってしまったということなのだろう。当然のことながら、行火を詠んだ句はみんな数十年前のものである。
  ペンの走り固しとおもひ行火抱く   臼田 亜浪
  ありがたや行火の寝床賜ひしは    石塚 友二

  電気行火入れろとせがむ老婆猫    酒呑洞
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2019年11月25日

俳句日記 (552)


シラケた九州場所

 昨24日、横綱白鵬が14勝1敗で43回目の優勝を果たし、九州場所が終わった。相方の横綱鶴竜が初日から休場、大関豪栄道、高安、関脇栃ノ心も調子が悪くてさっさと途中休場、前頭の友風、逸ノ城、若隆景も休場と、何と7人が休んでしまう、本場所とは思えない場所になった。
 何と言ってもここ数年、非常に休場が多くなった。白鵬なぞは「前人未踏の優勝43回」などとふんぞり返り、NHKも新聞もしきりに持ち上げているが、出ては休むの繰り返しで、年6場所のうちの半分しか出ていない。横綱はいくら休もうが番付は下がらないから、白鵬のように体調万全な場所だけ出るのなら勝つのは当たり前だ。もともと実力は角界随一である。他の力士は体調に問題があっても、休めば番付が下がるから、無理しても出て来る。体調万全の白鵬に勝てるはずは無いのである。
 優勝後のインタビューで白鵬は「50回優勝したい」とほざいたらしい。もともと、東京オリンピックのイベントで全世界の観客を前に横綱土俵入りを見せるのが夢らしく、それまでは何とか延命したいというハラなのではなかろうか。それまでは決して無理せず、ちょっと調子がおかしければ休場してしまうという、横綱特権を最大限生かした戦法である。
 大関豪栄道も早くからこの戦法を取り入れているような感じがする。大関は二場所連続負け越しで陥落する。しかし、一場所は楽が出来る。だから、勝ち越せそうもないと悟るとさっさと休んでしまい、巡業もさぼり、英気を養って次の場所に出て来て勝ち越す。こうすればいつまでも大関の座を守れる。近ごろはライバル大関の高安がこれを真似し始めた。強い大関がいると相撲は俄然面白くなるのだが、最近はこうして出ては休みの両大関なので、場所が締まらなくなってしまった。
 こうした大相撲の不様なる様相をあからさまにしたのが、「年間最多勝」賞。小結の朝乃山が獲得したが、なんと僅か55勝である。年6場所で15日間だから取組は90回。そのうち55回勝つのは偉いと言えば言えるが、勝率6割そこそこで年間最多勝というのは寂しい。勿論史上最低の記録である。こんなことになってしまったのは、白鵬、鶴竜の両横綱はじめ大関陣が全く不甲斐なく、すぐに休んでしまったせいだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか。これは前々から言っているように年6場所というのが多すぎるのだ。その上に最近の相撲人気の盛り上がりにいい気になった相撲協会が、年間80日も90日も地方巡業場所を開く。本場所の90日と巡業場所とを合わせると、一年の半分は土俵に上がっていることになる。これに地方巡業のための移動日を加えれば、力士はほとんど休み無く働いていることになる。これでは怪我もするし病気になるのも出るだろう。そして、すぐ次の場所が巡って来るのだ。
 昔と違って今は電波映像技術が進歩発達しているから、力を抜いたり、勝負を譲ったりしたら、素人目にもすぐに分かってしまう。私が毎場所欠かさず通っていた戦後間もなくから昭和40年代までは、千秋楽で既に勝ち越している力士が7勝7敗の力士と対戦すれば、必ず、上手に負けてやっていた。目の越えた相撲フアンはそれを分かった上で、「勝たせ方が上手い」なんて言っていた。相撲には元来、そういう大らかな雰囲気があった。さりとて他の新参の格闘技のように最初からシナリオが出来ているわけではない。真剣勝負ではありながら、実も花もあるというのが相撲の良さだった。しかし、最近はそんな悠長は許されない。ちょっとでも気を抜いた相撲を取れば「無気力相撲」と指弾される。
 全力でぶつかり合う、いわゆる「ガチンコ相撲」は見ていて気持がいい。しかし、力士も職業人だから少しでも長く無事に相撲を取りたいと思うのが人情だ。白鵬が一場所出ては次は休むというのも延命策の一つだ。しかし、関脇以下の力士は休むわけにはいかない。「無気力」と指弾されずに、怪我なく相撲を取るにはどうすればいいか。「押しに徹する」ことである。突いて、相手の筈や腹、胸に掌を宛がって土俵の外に押し出すのである。四ツに組み合って技を掛け合い、投げ合うのは怪我の元だから極力避けるのだ。この数場所を見ていると、「押し出し」「突き出し」が非常に目立つようになっている。これがまた、相撲をつまらなくしている。
 何はともあれ令和元年の大相撲は幕を閉じた。来年初場所は朝乃山がもっとしっかりして大関の道を歩み出してくれることと、大関から序二段にまで落ちた照ノ富士がいよいよ十両に戻ってくることが楽しみだ。
   うかうかと鍋に酔い痴れ博多場所    酒呑洞
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2019年11月24日

俳句日記 (551)


千葉・養老渓谷吟行 (7)

やれやれ

 偉そうなことを言うのは、まぎれもなくボケの徴候の一つである。これに暴飲暴食と物忘れが重なれば「ボケ番付」の三役に付け出される。これが進んで、何を言っているのか分からなくなったり、たった今食べた物が何であったか言えなくなったり、大小問わずお漏らしをして、それを恥ずかしがらなくなれば、堂々の横綱である。
 さて、水牛は今どの辺に位置するのか。腕を組んでしばし考えた。幸いなるかなお漏らしはしていない。今朝とお昼に食べたものは夜に「採餌記」を付ける時にちゃんと覚えて居るからまずまずである。しかし、「偉そうなことを言う」のは確かに当てはまる。句会の席上で言わずもがなの激しい言葉を発したら、而云さんが「もうちょっと抑えれば良かろうに」という顔つきをするのに気が付いて、はっとしたりする。ただ、偉そうなことを言うのは二十歳代からのことである。まあその頃からボケの兆しがあったのかも知れないが、82歳の今日の明確なボケ尺度にはなりにくい。「暴飲暴食」もやはり子供の頃からだから、今現在のボケ尺度になるのかどうか。「物忘れ」。これはある。しかもこれがこのところひどくなってきた。
 今回の旅がスタートして間もなくのことだ。小湊鐵道が台風19号の豪雨で線路が流されてしまったとかで、五井を出発して30分ほど行った上総牛久という所で代行バスに乗り換えた。バスは視線が高くなって景色がよく見えて、これまた思わぬ拾いものだと手にしたバカチョンカメラでしきりに撮っていた。それを、月崎駅でバスを降りた時に置き忘れてしまった。チバニアンで写真を撮ろうと思ったらカメラが無いことに気付いて大騒ぎ。幹事がすぐに鉄道会社に電話してくれたが、見当たらないという。 困ったなあ、残念だなあと悔しがっていたら、しばらくして幹事のケータイに小湊鐵道から電話が入り、車庫に戻ったバスの座席のシートの間に挟まっていたカメラが発見されたので、一行がこれから行く養老渓谷駅に届けますと言う。皆に「ラッキー」と祝福された。
 それに懲りずに、もう一回やってしまったのである。
 大多喜から大原に出て駅前の閑散とした商店街を散歩して、地場の蛸や、「鯨のたれ」という、鯨の切り身に甘辛味を沁ませて干した上総安房の特産を買い込んで、安房鴨川発京葉線周り外房特急「わかしお」に乗り込んだ。幸い4人掛けの席が取れて、向いに幹事の迷哲さん、ゆりさん。二人とも名うての左利きだから、乗り込む前に地酒をしこたま買い込んで、走り出すなり「お疲れ様、さあ、どうぞどうぞ」と注いで下さる。
 こちらもすっかり気が緩んでいるから、注がれるままに干す。実に美味い。あれよと言う間に東京駅だ。さようなら、さようならと、一人になって東海道線の下りに乗った。快速電車の2号車先頭の優先席に座って、股の間にリュックを置き、肩掛けバッグを膝前に据えて、発車した途端にこくんと眠ってしまった。
 耳の奥でかすかに「ヨコハマぁー、ヨコハマ−」という声がする。はっと気が付いて、脱兎の如く、乗り込んで来る客を掻き分けて飛び降りた。ホームから改札口への階段を降りながら、どうも背中が軽くてすうすうする。
 「しまった、リュックを忘れてきた」。大慌てで改札口傍の遺失物係の部屋に行った。「まだ走ってる最中ですからねえ、どこかで回収されたら連絡が来るでしょう。そうしたらお知らせしましょう」と言われて、すごすご家に帰ったら、夜十時頃に、「忘れ物は平塚駅に留め置かれています」との電話が掛かってきた。実に親切丁寧である。これまで、「鴨宮あたりの事故で、なんで東京熱海間全線ストップしなきゃなんないんだ。JRのやる気の無さは断固糾弾すべし」なんて、JRの悪口を事ある毎にわめいて来たのだが、大いに考えを改めた。そうして、翌日、平塚駅4番線ホーム事務室に行くと、あら懐かしや、オレンジ色のリュックがカウンターにちょこなんと坐っていた。
 帰って来て、一日遅れのお土産を取り出した。リュックにはスタートの五井駅で水馬さんが「旅のお供に」と呉れたジャックダニエルのポケット瓶も入っていた。旅の途中では美味い日本酒が次々に出て来たので、テネシーウイスキーの出番が無くて、しまい忘れていた。それを一口やって、つくづく考えた。
 はてさて、水牛山禿右衛門はボケ番付のどこいら辺に載るのか。二口三口やって、「小結あたりかな」とつぶやいている。
  忘れ物取りに小春の小旅行    酒呑洞

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2019年11月23日

俳句日記 (550)


千葉・養老渓谷吟行 (6)

健康志向

 大多喜の城下町はこぢんまりしていて、小一時間も歩けば主なものは見終えてしまう。それぞれの古い家屋敷の中をいちいち見て回れば別だが、居住者がいる現役住宅が多いようで、内部見学はやっていないらしい。無住になった由緒ありげな建物は放ったらかしにされたままで、荒れ放題だから、入っていいと言われたって入る気にはならない。従って、外側を眺めて、ガイドのオバサマの説明を聞き、「はいお次」ということで、十一時頃に歩き始めて昼飯前に終わってしまった。迷哲幹事の手際の良さもあって、今回の旅は進行極めてスムーズ。
 「昼食は蕎麦の“くらや”かトンカツの“有家”か、どちらも評判がいい店のようですが・・・、この齢ごろのグループですから、まさかトンカツでもないと思いますので、蕎麦にしましょう。ただ16人も入れるかどうか、見てきます。入れなかったら何人かはトンカツへ」と、迷哲さんは駆け出した。
 実はトンカツが食べたい気分だったのだが、「この齢で」と言われた手前、言い出せなくなって、蕎麦屋が混んでいて「トンカツ屋へ何人か」と言われるのを期待していた。しかし、息せき切って帰って来た迷哲さんは「大丈夫、4人のテーブルが四つ取れました」とにこやかに仰有る。トンカツが食べたかったなどとは気振も見せず、嬉しそうな顔して「くらや」に乗り込んだ。
 結果的にはこれが良かった。朝、滝見苑の朝食が大きなカマスの塩焼き、湯豆腐、野菜炊合せ、納豆、生卵、焼海苔、生野菜サラダ、佃煮あれこれ、漬物、味噌汁と、優に三日分の朝食を一辺に食べちゃっている。いくらか歩いたからそこそこ腹は減っているが、これでトンカツを食べたのでは82歳5ヵ月の胃袋にはかなりの負担になっただろう。
 元々食い意地が張っている。年を取るにつれ、それが益々嵩じてきた。お迎えが近づいてきたことを脳味噌のどこかが察知して、今のうちに食えるだけ食えと指令を発しているのではないか。この指令を発するのは、普段、理屈をこねくり回して偉そうな事を言わせる脳味噌の部分とは異なる部分らしい。理屈をこねる部分が「食い過ぎ飲み過ぎはダメ」と正論を吐いても、身勝手部分の逆の指令がすぐさま打ち消してしまうのだ。わが脳内は365日止むことの無い戦いを繰り返している。
 70台を越えると食い意地益々高まり、デパートの地下食品売場を散歩するのが無上の喜びとなった。ついに80台になるや、高島屋の株を買って株主優待カードを手に入れ、「10%割引は大きい」とつぶやきながら、あれもこれも買ってしまう。昔は「大の男が食品売場をあさるなんて恥ずかしい」と言っていた山の神は、今や呆れて何も言わない。どころか、「何と何を買って来て」なんてお使いを命じるようになった。
 買って帰れば、食う。その結果、この二年間で65キロだったのが70キロを越してしまった。ベルトの穴が一つ緩んで、もうこれ以上はベルトを買い換えなければならない。それよりもズボンを買わねばならない。かかりつけのアカオ先生は、「あなたねえ、80過ぎて太るなんて異常ですよ。お酒を減らしなさい、脂っこいものはお止めなさいと言ったって聞かないんだから、もう、しょうがないですねえ。でもね、80過ぎたんですから、好きなお酒や肴を禁じて2,3年長く生きたってしょうがない、という考え方もあるかも知れませんねえ」と言う。50になったかならないかの若い先生にしては実に良く出来た先生だ。
 アカオ先生の顔を浮かべながら、「蕎麦にして良かった」と思ったのだが、もり蕎麦じゃ淋しいなと、天ざるにした。蕎麦はなかなか美味く、エビ天、野菜天も良かった。
 満足して通りに出てもまだ真っ昼間。「大多喜城へ行きますか」と幹事の声。あの丘の上の天守閣に登れば眺望が開けてさぞかし気持が良かろうとは思うのだが、蕎麦屋でビールを飲んだ上に、てる夫さんが上田から持って来てくれた佐久の花という銘酒の夕べ飲み残したやつをペットボトルに仕込んでおいたのを取り出して、何食わぬ顔してエビ天つつきながら飲んだから、ほんのりいい気持。「コンクリの天守閣なんか見てもなあ」と罰当たりなことを言って、いすみ鉄道に乗って外房大原に向かった。
  新蕎麦にプラスアルファの盗み酒   酒呑洞
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2019年11月22日

俳句日記 (549)


千葉・養老渓谷吟行 (5)

大多喜は眠れる町

 大多喜は天然ガスが噴き出す山間の村という認識で、大したものがある所ではあるまいと思っていたのだが、いやいや水牛は浅はかであった。中々の城下町で、古い建物の残る味わい深い町であった。
 しかし、この過疎の町にはお金と人手が十分に無いのだろう、旧家、旧商店、旧郵便局等々、手を入れれば素晴らしい観光物件になるものがあたら朽ちるに任されており、観光ルートの道端は雑草が生い茂る有様であった。
 今や「小江戸」の代表を自認し大勢の観光客を呼び寄せている埼玉県川越も、20年ばかり前は「もう少し手入れすればいいのになあ」と思っていたところ、地元もはたと気付いたか、せっせと整備し始めた。今では「ちょっとやり過ぎ、まるでユニバーサルスタジオ」というくらいきれいになっている。大多喜にだって、もっともっと隠れた歴史・観光資源があるのではないかなと思いながら、小春日和の城下町をぽっくりぽっくり歩いた。
 大多喜という場所は房総半島中央部分の上総国の中央あたりに位置し、西へ行けば木更津、五井、東へ行けば大原、御宿、勝浦となる。山間の盆地で夷隅川の蛇行部分の丘の上に大多喜城がある。現在建っている天守閣は昭和50年にコンクリートで再現したものだが、元々は徳川家康股肱の臣本多平八郎忠勝が10万石の大名として乗り込み築城し、城下町を整備した。
 戦国・安土桃山時代の大多喜は、小田原から関東を支配していた後北条と、安房に本拠を置いて上総下総に勢力を伸ばそうとした里見とのにらみ合いの場所で、双方に荷担したり離反したりする地侍が合戦を繰り広げる、抗争の絶えない場所だった。豊臣秀吉が小田原北条を征伐し、家康に関東移封を命じた天正18年(1590年)、家康を守って東下した本多忠勝は房総半島を掌握し里見氏を安房に圧伏させる要石として大多喜に乗り込んだ。
 徳川三百年、大多喜は鳴かず飛ばずの、それだけに平和な営みを続ける田舎町として続いたようである。
 明治になって大事件が起こった。明治24年(1891年)、醤油醸造業の山崎屋太田卯八郎という人が井戸を掘らせたところ、なかなか水が出ず、さらに掘らせたところ、茶褐色の水が噴き出して盛んに泡を立てた。「しょうがねえな」と吸っていたタバコの吸い殻をその泡に放ったところ、ぼっと火がついて燃えだした。かれこれ工夫の末に、この井戸に蓋して管を通しガスを集める原始的なガスコンロを作り、煮炊きに用いた。
 これが大多喜天然ガスの事始めで、町内各所でガス井戸掘りが盛んになり、昭和の初めには「大多喜の天然ガス」が全国的に有名になった。昭和6年(1931年)には大多喜天然瓦斯株式会社(現・関東天然瓦斯)が設立され、本格的なガス採取・供給が始まった。大多喜で採れるガスは今でも千葉県内の各所に都市ガスとして供給されている。
 そんな事どもを聞かされ、思い巡らせながら、和服の着こなしが粋なガイドさんに導かれるままに旧家の立ち並ぶ街道を散歩した。「活版所」と古ぼけた看板を掲げた商家、ついこの間まで営業していたという寂びた寿司屋、「今でも営業しているということですが、大概閉まっています」という、明治24年に房総を周遊した子規が泊まったのではないかとされる堂々たる旅籠「大屋」など、興味尽きない建物が散在している。
 「これが重要文化財の渡辺家住宅です」。何と、平成6年春にテレビ東京が放映開始した「開運なんでも鑑定団」の“鑑定士軍団長老”渡辺包夫さんの生家なのだという。変な骨董が出品されると「これは、いけません」と独特の朦朧口調で言うのが実におかしかった。当時既に82歳の渡辺さんは、鑑定団収録日にはこの家から、いすみ鉄道で大原へ出て、外房線で上京したのだという。そんな懐かしい思い出が甦る旅でもあった。
 私たち一行16人も、その近くの蕎麦屋でまあまあ美味しい蕎麦を食べて、いすみ鉄道で大原に出て、外房線特急で帰途についた。

  冬晴れの人まばらなる城下町
  小春空子規の泊まりし古旅館   酒呑洞
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2019年11月21日

俳句日記 (548)


千葉・養老渓谷吟行 (4)

粟又の滝

 歳取ると子供に還るとはまさにこの一行を指して言ったものではないか。夜遅くまではしゃぎ回ってわいわいやっていたのが、夜明けが遅くなってまだ薄ぼんやりしている六時前からみんな起き上がって、がやがやしている。温泉に入ったり、散歩に出かけたりしている。平均年齢70数歳の団体とは信じられない。まるで中学生の修学旅行だ。
 家では毎朝十時近くまで寝ている水牛なのだが、周りがこうわさわさしてはとても寝てはいられない。七時に起きてしまった。朝風呂にゆっくり浸かって、予め申し渡されていた八時に朝食の会場に行くと、既に全員揃ってパクパクやっていた。
 十時の出発にはまだ大分時間があるので、旅館の前の養老渓谷の河床へ「粟又の滝」見物に出かけた。昨日、感心して眺めたチバニアンの上流にあたり、かなりの勾配の急な流れである。何万年、何十万年かかったか、河床が削られて三段になっており、水が飛沫を上げながら流れ下っている。これがアワマタノ滝。那智の滝や華厳滝のように垂直にごうごうと落下するのもいいが、こうして周囲の紅葉黄葉を映しながら下る「滝つ瀬」も風情がある。
 そう言えば「滝」というのは元々は「たぎつ瀬」であり、「垂水(たるみ)」とも言った。古代人の「滝」は、現代の我々が滝と聞いてすぐに思い浮かべる垂直落下の滝よりは、むしろ岩を噛んで流れ落ちる、この粟又の滝のようなものをイメージしたようだ。万葉集巻八に志貴皇子の春の到来を喜ぶ歌がある。「石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春尓成来鴨」(いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいづるはるになりにけるかも)。この「いわばしるたるみ」は、やはり華厳滝ではなくて粟又の滝あたりが似つかわしいなあと思いながら、ぼんやり岩棚を歩いていたら、つるっと滑って危うく転がりそうになった。
 此処へ辿り着くまでの崖道は至る所で先日の二度の台風によって土砂崩れを起こしており、大木が倒れて道を塞いでいる。滝の周りの岩床には其処此処に小石、枯れ枝、枯葉が積もったりへばりついたりして、足元がおぼつかない。
 「だいじょぶですかー」と心配顔で寄って来た水兎さんが、「はい、おみやげですよ」と、滝つ瀬で拾ったらしいセトモノの破片をくれた。骨董、陶磁器ときたら目の色を変えるジジイであることをご承知なのだ。百人一首の歌留多を描いた染付大皿の破片で、西行のような坊主が見える。恐らく明治期の印判手という、釉薬を印刷した紙を磁器に貼り付けて焼き付ける手法の焼物のようだ。しかし、この破片から推し量ると直径四十センチくらいの大皿であろう。当時は、庄屋や大百姓の家にしか無かったかなりの貴重品だったに違いない。何かの拍子に落として壊れてしまった。壊した女中さんはさぞかし叱られただろう。「番町皿屋敷」の悲劇がここいらにもあったのかも知れない。とにかく、この破片も台風の豪雨による濁流によって土中から掘り起こされ、永の眠りから覚めて流されて来たものだろう。骨董的価値は全く無さそうだが、有難く拭ってジャンパーのポケットにしまった。

  おそるおそる岩飛び越えて冬の滝   酒呑洞
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2019年11月20日

俳句日記 (547)


千葉・養老渓谷吟行 (3)

連句を巻いた

 心ゆくまで飲んで食べた16人だが、人によって酒量の多い少いがある。節度を保って晩餐を楽しんだ人たちはにこやかに自室に引き揚げ、また温泉に浸かりにゆく人も。しかし、それはあくまでも少数派で、懲りない11人が幹事部屋になだれ込み、二次会を繰り広げた。
 飲むほどに意気軒昂、「連句を巻こう」ということになった。皆々酔いが回って、気だけはふくらむがまともな句は出て来ないといった状況の下で、何とかかんとか半歌仙(十八句)が巻けたのは奇跡としか言いようがない。一重に迷哲幹事が冷静に酔吟を書き留めてくれたお蔭である。

半歌仙「養老の男」の巻

養老の男三人掘炬燵                嵐田 双歩
 メールしなきゃと姐御立膝            星川 水兎
その上の墨田の堤土筆摘む             玉田春陽子
 ころころころと転ぶ草餅             田中 白山
すまないと寅さん仰ぐ春の月            大澤 水牛
 旅行鞄を忘るデッキに              向井 ゆり
(ウラ)
母と子の二人のカレー蝉時雨            廣田 可升
 七十万年地層ほじくる              和泉田 守
霧深き房総の宿人恋し               中村 迷哲
 しどけなく寄りめそめそと泣く          金田 青水
兄(あん)ちゃんが居るばってんが冬来る      谷川 水馬
 さはさりながら猫柳咲く                双歩
フルートの音の外れて春うらら              水兎
  安房鴨川の朧月かな                 春陽子
春風や沢尻エリカ飛んだのね               白山
 揚がる雲雀に濁り酒酌む                水牛
花散らす養老川に連句巻く                ゆり
 ダボにトリプルみんなちょぼちょぼ           可升 (満尾)

 という具合だったが、呂律の回らなくなった11人にしてはなかなかどうして大した一巻である。

  半歌仙巻いて一息今年酒     酒呑洞
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2019年11月19日

俳句日記 (546)


千葉・養老渓谷吟行 (2)

 養老渓谷には随所に温泉が湧き出し、小湊鐵道養老渓谷駅を少し入った所から養老川沿いに六、七キロ上流までに十軒の温泉宿がある。我々の宿はその最も上流の粟又ノ滝を見下ろす「滝見苑」。チバニアン見学を終え、ガイドの元気オバサマに別れを告げて元来た道を月崎駅に戻り、宿のお迎えバスに揺られての道々、養老温泉の旅館を瞥見したところでは、このどん詰まりに建つ滝見苑が規模も設備も他を圧倒しているように見えた。
 滝見苑は急な崖地にへばりつくように建物が山の上の方に伸び上がっている。下の車道から見上げると何百室もある大ホテルに見えるが、33室の中規模温泉旅館である。車道に面した「東館」は一階が玄関、フロント、ロビー、レストランなどで、二階が大小の宴会場、その隣の一階分崖を上がったところに「南館」があり、これが三階と四階になっている。南館の三階廊下を突き抜けると「別館」がある。別館は四階建で各階四室、我々一行16人はその二階、下から数えると四階の四室を割り当てられた。窓からは養老渓谷の断崖が見え、「今年は紅葉がことのほか遅い」とフロント係の言う通り、梢がようやく赤くなり始めた紅葉や黄色味がかった雑木を眺める。
 晩食懇親会は6時半。まだたっぷり時間があるから温泉に入ろうと、部屋を出たはいいが、いま辿って来た廊下の順路が分からなくなった。「こういう所に来ると必ず迷っちゃうんだよな」と相部屋の而云がぶつぶつ言っている。
 まず別館の端まで戻るとエレベーターがある。それに乗って一階下りると南館三階となる。南館の廊下を突き当たると滝見苑自慢の「化石風呂」がある。先代か先々代がこの場所に狙いを定め試掘したところ、五百メートル近辺で温泉が湧き出し、古代の化石が沢山掘り出されたので化石風呂と名づけた云々の能書きが湯舟の壁に掲げられている。
 養老渓谷温泉は黒褐色の「黒湯」が普通なのだが、滝見温泉は無色透明の「白湯」でさらさらしており、かすかに硫黄などの鉱物臭がする。温泉を名乗るには少々湯温が足りないようで、適温の40℃に加温しておりますと、なかなか正直である。チバニアン見学の渓谷の上り下りを始め、今日はずいぶん歩いた。万歩計を見ると12299歩とある。すっかり草臥れた足腰をいい湯で揉みほぐした。
 こんな山奥でどんなものを食わせるのかと思っていた宴会料理だが、なかなかのものだった。ことに岩魚の塩焼が実に美味かった。岩魚は夏の季語なので今ごろでは句にしづらい。夏の季語になったのは渓流釣りの獲物の王者とされたためらしい。しかし食べて美味いのはむしろ秋から冬の脂の乗ったところなのではなかろうか。ことにこうした養殖岩魚の場合など、少し冷え込んで来た今ごろが身も締まっていいのではないか、などと勝手な素人解釈をしてむさぼった。
 酒は地元大多喜町の銘酒「大多喜城」の純米吟醸生貯蔵。なかなかいい酒だが、ちょっと甘い。普通酒でいいからもう少しさらっとしたのをなどと注文つけて、あれこれ取り寄せ、美酒佳肴に堪能した。
  養老温泉絶品塩焼冬岩魚   酒呑洞水牛
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2019年11月18日

俳句日記 (545)


千葉・養老渓谷吟行 (1)

 11月16(土)・17(日)の一泊二日で上総の養老渓谷へ吟行に出かけた。日経俳句会、番町喜楽会の仲間16人の賑やかで楽しい俳句会だった。
 養老渓谷は首都圏に残る秘境と言われ、紅葉の名所として名前は知っていたが、なかなか行けなかった。ところが、最近になってこの渓谷の断崖絶壁に77万年前の地磁気の逆転層が発見され、「チバニアン」という地層として国際的に認められたとか、認められるとかいうことになり、にわかに脚光を浴びた。いくつになっても好奇心というかヤジウマ根性の旺盛な面々だから、紅葉見物をかねて行きましょうと言う事になり、地元出身のゆりさんとゴルフ行脚でこの辺には詳しい迷哲さんに世話役になってもらって、吟行が実現した。
 東京から距離的には大したことは無いのだが、秘境と言われるだけあって交通すこぶる不便。JR内房線五井駅で小湊鐵道に乗り替え養老渓谷駅まで行くのだが、つい先頃の台風15号、19号の強風、豪雨で線路の地盤が崩されてしまい、途中の上総牛久駅までしか行けず、その先は代行バスだという。
 とにかく始発の五井駅で二両のジーゼル車に乗って13時10分出発。同37分、上総牛久駅着、バスに乗り換え40分ほど田舎道を走って月崎駅に到着。ここから野道、車道、山道を30分ほど歩いて、第一の目的地、「養老川田淵地区地磁気逆転層チバニアン」にたどりついた。地元のチバニアン・ボランティアガイド会長という極めてお元気なオバサマに引率され、鵯越も真っ青になるくらいの急坂と言うより崖を下り、養老川の河床に行き、問題の地層を見上げる。「あそこが逆磁極帶と正磁極帶の間、つまり77万年前に地磁気が逆転した磁極遷移帶の地層です。分かりますか」オバサマは崖の中腹から上の方を指差して説明して下さる。残念ながらさっぱり分からない。周囲を見回すと皆ぼんやりとした表情で眼をしばたたいている。
 ここも台風による土砂崩れの跡や、倒れて道を塞いだ木を応急に切った跡などが見受けられた。「この見学コースも民有地を買い上げて順次整備する予定で、来年には展示品を飾ったチバニアン見学センターもできます」とボランティアオバサマは意気軒昂たるものがある。それはそうだ。ほとんど誰も見向きもしなかった田舎の谷川が国際的な晴れ舞台となり、ユニークな観光地になるのだ。
  濡落葉踏みしめ仰ぐチバニアン   酒呑洞水牛
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2019年11月15日

俳句にならない日記 (22)


ああ情け無い

 日本の憲政史上、総理大臣在任期間が最長となる人にしてはあまりにもみみっちく、下司な根性をさらけ出してしまったアベシンゾーさんは、これからどうなさるおつもりだろう。「桜を見る会」をめぐる醜聞である。
 毎年春、日本国の発展に尽くした人たちを総理大臣が新宿御苑に招いてお花見を行うことが内閣府主催の恒例行事になっている。日本国を束ねる首相の座に着き、政治家として頂上を極めた気分を味わう園遊会である。首相という職務は激職で、まかり間違えば日本を危うくしかねない白刃の剣を渡るような場面も再三である。そうした苦労を潜り抜けて、国民の暮らしを安らかに保つ責務を負っている。そうした大仕事を背負っている人なのだから、一年に一度、こうした晴れやかな舞台を国家予算を投じて設けるのも悪いことではない。時の首相に「太閤の花見」気分を味合わせてやるのも結構なことではないか。
 ところが、今回は違う。この花見園遊会は年を経るごとに招待者が増えてきたのだが、昨年はそれまでの1万人を一挙に1万8千人に増やした。予算も膨らんで六千万円くらいになったという。
 招待客の人数や基準は極めてあいまい。世の中の為になった人も招かれてはいるようだが、テレビ映りのいいタレント、芸能人が多い。大多数は与党自民党を中心とした議員からの「推薦」によって決めているようだ。当選回数によって4人推薦できるペーペーから数十人推薦できる議員までランク付けされているという。そして、アベシンゾーさんはなんと850人もの地元後援会メンバーを招いた。この人たちがどの程度日本国の発展に尽くしたのかは分からないが、国家予算を使って開く会に地元山口からこれほどの人数を招くのはいかがなものか。さらに、これらの地元応援団を招いた前夜祭なるものが会費五千円という破格の安さ。会場となった某一流ホテルは立食パーティ形式でも1万1千円はかかるという。となると、その差額の出所はどこか。かなり前のことになるが、オブチ某という女性議員が支持者たちの観劇会会費を後援会が負担していたことが明らかになって大臣を辞任した。シンゾーさんはどうなさるおつもりか。
 それより何より、内閣総理大臣ともあろう人が、何故こんなみみっちいことをしたのか。それが情け無い。「来年は止めます」なんて言っているが、それで済むと思っているのだとしたら、実に浅はかである。日本のために力を尽くしてきた人たちを総理大臣が招いて行う「桜を見る会」は、それなりに重要な働きのある行事である。それを「うるさいこと言うんなら止めりゃいいだろ」と言うのは、国を司る首相の言葉とは到底思えない。
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2019年11月14日

俳句日記 (544)


難解季語 (44)

葱鮪(ねぎま)

 今日この頃、安酒場などで「ねぎま」と言うと、鶏肉と葱を交互に刺した焼鳥が出て来る。「葱」が「鶏肉」の間に挟まっているから「ネギの間」ということらしい。この言葉がこの十数年の間に急速に浸透してしまって、近ごろはちゃんとした焼鳥屋ですら「ねぎま」という変な言い方を使っている。
 まあ元々は焼鳥という食べ物も下賤なもので、昭和戦前は浅草や本所、横浜では野毛あたりで、屋台店を大きくしたような呑屋で供する肴だった。貧乏サラリーマンに持て囃され、文人連中がなかなかの物だと取り上げて一挙に有名になった食べ物である。ところが、戦争が激しくなると物資欠乏で街中の呑み屋から焼鳥が姿を消した。敗戦後は鶏肉ではなく、豚や牛の臓物を串刺しにして供するモツ焼が出現して、それとの絡みで鶏肉とぶつ切りの葱を交互に刺した、これぞ焼鳥の元祖を「ねぎま」と言うようになった。
 もちろん、「ねぎま」の本家本元は違う。「ねぎま」とは鮪と葱の鍋、「葱鮪鍋」の略称である。江戸時代から下町の小料理屋の冬場の定番料理であった。
 その昔、鮪は江戸っ子にはあまり好まれる魚ではなかった。冬場、江戸湾にも鮪が入り込むことはあったものの、多くは茨城、福島、宮城などの太平洋沿岸で穫れた鮪が日本橋に運ばれて来た。冷蔵・冷凍などが無かった時代、江戸に運ばれる頃にはかなり品質が劣化していた。血合いの部位や脂の多いトロの部位は捨てられ、赤身が切り身になって売られた。脂肪分の多いトロや血合いのところは捨てられたが、それを本所、深川あたりの料理屋や呑み屋が拾って来て、生臭みを消すためにぶつ切りの葱と一緒に醤油を効かした汁で鍋仕立てにして供した。客は湯気の上がる葱鮪鍋に粉山椒を振ってふうふう言いながら食べた。その内に葱鮪鍋には豆腐や青菜を入れるなどして、見た目もよろしい料理になった。
 今や鮪は高級魚になってしまったし、葱鮪の本筋のトロの部分は寿司ネタとして持って行かれてしまう。然り而して下司の食い物であった葱鮪は超一流の鍋物になってしまった。そして庶民はもっぱら焼鳥の「ねぎま」に寄り添うて行くことになる。
  ねぎま汁風邪のまなこのうちかすみ  下村 槐太
  居酒屋に靄たちこむる葱鮪かな    井上 唖々
  葱鮪鍋股引渡世難きかな       秋山 夏樹
  葱鮪鍋昔話も啜り込む        酒呑洞水牛
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2019年11月11日

俳句日記 (543)


難解季語 (43)

目貼(めばり)

 昔の住宅は隙間だらけだった。第二次大戦の敗戦直後のバラック住宅などはひどいものだった。最近の地震、台風などに襲われた人たちの仮設住宅は昭和20年のバラックで過ごした身からすれば豪華住宅に見えるが、何くれと無く行き届いた住宅から避難して来た人たちにとってはやはりあれこれ不自由をかこつ住まいなのであろう。
 それはさておき、木造建築は建てた当座は扉や窓と柱はぴったり合わさり、ぴしゃりとしているが、年と共に材木が乾燥し、痩せて来るに連れて隙間が出来る。夏場は風通しが良くてむしろ都合が良いのだが、冬場になると隙間風が吹き込んできて大変だ。
 暖房と言っても昔は、田舎では囲炉裏、都会では炬燵に火鉢、裕福な家でストーブといったところだから、この隙間風というものが悩みの種だった。首筋や背中に隙間風が当たると、年寄りや幼い子供はたちまち風邪を引いてしまう。
 昔の家屋の大敵は「雨漏り」と「隙間風」だった。雨漏りを防ぐ為に村では屋根の修繕・葺き替えを順繰りに共同で行う「組」を作った。隙間風防ぎはそれほどの大工事にはならないので、それぞれの家が家族ぐるみで壁と柱の隙間に紙を貼り付ける「目貼」をした。東北、北陸、山陰など厳しい冬を過ごす地方では目貼は初冬の必須の作業だった。
 これに加えて、豪雪地帯では窓の外側に板を打ち付けて覆ってしまい、さらにその外側に吹雪を防ぎ止めるための柵を設けた。こうした防寒対策が施された東北北陸地方の人たちは12月から3月頃まで、暗い冬をじっと蹲って過ごした。だから、お日様が照って、雪が溶け、窓を開けることの出来る春は大いなる喜びである。「目貼剥ぐ」という春の季語には、北国の人たちの喜びがはちきれんばかりに籠もっている。
 しかし、今や日本全国住宅は完全暖房、コンクリート造とサッシ建具の普及で機密性の高い住宅になって、「目貼」の出番は全く無くなった。今日この頃、若い女性に「めばり」と聞けば、睫毛や目の回りにぎとぎとと塗りたくる墨のことかと言われてしまう。

 首の骨こつくり鳴らす目貼して    能村登四郎
 目張して空ゆく風を聞いてゐる    伊東 月草
 出稼村いよいよ無口目貼して     仲村美智子

 ひもじいよ目貼の糊を舐めてゐる   酒呑洞水牛
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2019年11月10日

俳句日記 (542)


酔吟会第143回例会は「短日」と「切干」
24名参加の大盛況

 11月9日(土)午後1時から東京・内神田の日経広告研究所会議室で第143回酔吟会が行われた。立冬の翌日、澄み切った空の気持の良い日和で、19人が出席、投句参加5名の締めて24名、投句総数120句という、酔吟会始まって以来の大盛況だった。
 酔吟会は昔ながらの句会運営方式。すなわち、参加者が会場に入ると短冊を5枚渡され、それに本日の兼題の「短日」と「切干」と当季雑詠合わせて5句を書き込み提出する。欠席投句者の句は幹事が短冊に書いて投句する。投句全てが集まると、幹事がそれを出席者の人数に合わせて振り分ける。出席者は渡された短冊をC記用紙に清書する。それが済むと、自分の句が正しくC記されているかどうかを点検するために、C記用紙を順繰りに回す「空回し」が行われる。これで準備万端整い、それぞれ自分の所に回って来るC記用紙に書かれた句の中から良いと思った句を選句用紙に書き留める「選句」作業が始まる。出席者全員の書いたC記用紙を全て見終え、句を選び終えると、いよいよ、それぞれが選んだ句を発表する句会のヤマ場「披講」になる。全員の披講が終わると、本句会の最高点以下高得点句が紹介され、「合評会」で順々に感想を述べ合う。
 日経俳句会や番町喜楽会など姉妹句会は参加者が膨らんだために投句を3句に絞り、さらに事前投句・選句表事前配布方式を取って、句会はいきなり披講で始まり、すぐに合評会に移るメール利用の現代的句会になっている。これに対して酔吟会は旧態依然方式だからかなりの時間がかかる。もともと酔吟会は10数名の句会だったからこれで良かったのだが、伝統的なのんびりした句会の良さが伝わって入会希望者が増え、徐々に人数が増えて、ついに25,6人になった。しかも投句は5句と以前のままである。否応なしに句会の時間は延びて、午後1時に始めて4時前に終わっていたものが、9日の句会は4時半になってしまった。後がつかえている人も居る。というわけで、途中退席者が続々現れることになり、句会の雰囲気が傷ついた。投句数を減らす、欠席投句は認めないことにする等、あれこれ対策を講じなければなるまいと思う。
 今回の句会で人気を集めた句は以下のとおり。
「短日」
背表紙のかすむ古書市日短か    廣田 可升 (6点)
短日や余生まことに長長し     須藤 光迷 (5点)
日みぢかもの食ふ音はわれの音   金田 青水 (3点)
昼席のはねし木戸口日短し     徳永 木葉 (3点)
短日やありふれた日のまた過ぎて  片野 涸魚 (3点)
「切干」
切干や昔の母は子沢山       今泉 而云 (4点)
切干や脇役ばかり五十年      須藤 光迷 (3点)
友が来て母の切干平らげし     向井 ゆり (3点)
「当季雑詠」
コスモスは年長組の眼の高さ    大澤 水牛 (5点)
あるだけの福を担ぎて一の酉    玉田春陽子 (5点)
流木を中洲に残し冬千曲      堤 てる夫 (5点)
独り言湯舟に浮べ冬に入る     玉田春陽子 (4点)
ああ首里城虚ろな丘の冬の月    堤 てる夫 (3点)
行く末は成り行き任せ木の葉髪   大沢 反平 (3点)
白菜や尻を洗いし孫の事      須藤 光迷 (3点)
台風禍めげぬ最上の芋煮会     岡田 鷹洋 (3点)
瓜坊の落柿あさる上州路      須藤 光迷 (3点)
 この他に水牛が感心した句は以下の4句。
檻の大鷲短日にはばたけり     星川 水兎
穭田の株から株へ黄鶺鴒      堤 てる夫
食べて寝る人の営み花八ッ手    嵐田 双歩
短日や勝鬨渡って灯の街へ     大沢 反平
 切干の句では「切干の陽の匂ひして煮上りぬ」を「出来た」と自信満々で出したのだが、零点だった。切干大好きで、しかるが故に兼題にも据えた水牛は、しょっちゅう切干を煮ている。切干の特徴と言えば、何と言ってもあの日向臭さである。切干嫌いはこの臭いが大嫌いなのだが、切干好きにはなんとも懐かしい。分かって呉れる人が居るかなあと期待していたのだが。
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2019年11月06日

俳句日記 (541)


難解季語 (42)

蚯蚓鳴く(みみずなく)

 秋の夜長、闇の底からジージーと単調で連続的な鳴声が伝わって来る。これを古人は蚯蚓の鳴声だと言った。実際は螻蛄(けら)が鳴いているのだという。しかし、ケラの鳴いている姿を見た人はそう多くないだろうし、ほんとかどうかよく分からない。蟋蟀(こおろぎ)に似た虫で前肢が大きく、モグラのように穴を掘るのが上手で、土中に棲んでいるから普段あまり人目に触れない。「蚯蚓じゃないよ螻蛄という虫が鳴いているんだよ」と言われれば、「ああそうかい」と答はするものの、それで完全に納得するわけでもない。それよりも、あの手足も目玉もなく何が面白くて生きているのか分からないミミズが鳴いているという方が面白い。そうして季語にしてしまったところが、実に傑作である。
 瀧澤馬琴編、藍亭青藍補筆の「増補改正俳諧歳時記栞草」には「三秋を兼ねる物」として「蚯蚓鳴」を載せており、「其の鳴くこと長吟、故に歌女と名づく。孟夏はじめて出、仲冬蟄結す。雨ふるときは先づ出、晴るときは夜鳴く」と解説している。これは寺島良安の「和漢三才図絵」(正徳三年・一七一三年刊行の図入り百科事典)から引いたものらしい。蚯蚓は鳴くものと一人合点して、それ故に歌女と名付けるとはこれほど強引なことはない。しかもその鳴き声たるや実に地味で、ただジージーッというばかりだから歌姫にはほど遠い。あるいはこれは哀婉たる美姫の感極まった忍び音ととったのか、つれない仕打ちを恨む溜め息と解釈したのか、とにかく江戸の文人俳人の想像は止まる所を知らない。
 ミミズという動物は全世界の土壌に棲み、何種類あるのか分からないという。環形動物門貧毛綱類に分類され、その下の「科」や「種」となると生物分類学でも正確に名付けられないものがいっぱいあって、未だに新種とされるものが続々発見されている。日本にも何百種類というミミズがいるようだが、一般に畑や森林、堆肥やゴミ溜めにいて釣り餌になるフトミミズ、シマミミズ、ドブの中などにいて金魚や熱帯魚の餌になるイトミミズなどがおなじみである。
 環形動物と言うように、身体中が沢山の輪を薄い皮膜でつないだ円筒形である。成熟したミミズには端の方に一部分太くなった「環帯」があり、環帯が付いている方の先っぽに口がある。その反対側の尻尾の先に肛門がある。円筒の中に長い腸管と血管が通っている。眼も耳も無いようだが、口の付近には視覚細胞があり、これで明暗を識別する。年中土の中にいて、一日に自分の体重ほどの土を食べ、長い身体の中を通過させながら土に含まれる有機物質や微生物を消化し栄養分を吸収、尻から粒状の糞をひり出す。この糞が植物の根を生やすのにまことに都合の良い団粒構造の土壌を作る基になる。ミミズは土を良くしてくれるというので、昔からお百姓にとっては愛すべき存在だった。同時にモグラやネズミ、小鳥やイノシシの大好物でもある。
 ミミズは雌雄同体で、環帯の前部にオスの生殖器、後部にメスのがくっついている。時至ると二匹のミミズが逆向きに寝て、自らのオスの物を相手のメスの部分に押し当て事を行う。両者同時に妊娠すると、それぞれ腹の外側に分泌液を出し袋のようなものを形成し、そこに受精卵を封入、自ら蠕動前進し、まるで運動会障害物競走の網くぐりのようにその袋から抜け出す。土中に残った袋からやがて子どもミミズがたくさん誕生する。というのだが、ミミズの愛情行動から二世誕生までを克明に観察するのも並大抵のことではあるまい。ミミズ研究家とは実に偉いものだ。
 漢方では昔からミミズを「赤龍」「地龍」と言い、乾燥したものを粉末にして煎じ、解熱剤や気管支喘息に処方した。最近の研究ではミミズには血栓を溶かす酵素が含まれていることが分かり、健康食品として売られるようになった。さらに研究が進んで、確実な効果をもたらす成分が抽出されるようになると医薬品として登場するかも知れない。
 とにかくミミズは大昔から人々の目に触れてきたのに、まだよく分かっていないところが多い生物である。
 たとえば、夏の暑い盛りに路上に無数のミミズが干からびて死んでいるのを見ることがある。まさに蚯蚓の集団自殺現場である。何故こんな具合になるのか。どうもよく分からない。「干からびて蚯蚓疑問符描きをり」という句を詠んだ。これは蚯蚓が「オレはどうしてこうなっちゃんだろ」とクエスチョンマークの形で干からび死んだのと同時に、私の疑問でもあった。その後、あれこれ調べてみたところ、生物学者の中にも疑問を抱いた人が結構いるらしく、いくつかの仮説が立てられて、研究が行われているようだ。その中で「多分そうではないか」と有力視されている説が、「土中の酸素不足からの脱出」らしい。蚯蚓には肺が無く、皮膚呼吸で酸素を取り入れている。大雨が降って土中の水分が飽和状態になると、蚯蚓は皮膚呼吸が十分に出来なくなり、少しでも乾いた上の方に伸び上がり、ついには地面に出る。そこへお天道様がかっと照りつけると、ぐずぐずして逃げ遅れた奴が干物になってしまうということらしい。
 「蚯蚓鳴く」などは荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、恐らく昔の俳人たちにはそんなことは百も承知の上だったであろう。「たまには鳴くこともあるでしょう」と笑って空想の世界に遊び、句想を広げていたのではないか。秋の夜長に鈴虫、松虫、蟋蟀などを聞くのもいいが、地の底から湧き出して来るような「蚯蚓鳴く」声に耳澄ますのもまた趣深い。

 蓙ひえて蚯蚓鳴き出す別かな      寺田 寅彦
 蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ     川端 茅舎
 みみず鳴くや肺と覚ゆる痛みどこ    富田 木歩
 みみず鳴く引きこむやうな地の暗さ   井本 農一

 蚯蚓鳴く終電逃し夜道長し       酒呑洞水牛
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2019年11月05日

俳句日記 (540)


秋晴れの午後、第167回番町喜楽会
「立冬」と「七五三」を詠み合う

 11月4日(月)午後3時、東京・九段下の千代田区生涯学習館で第167回番町喜楽会が開かれた。夏も秋も滅茶苦茶な天気が続いていたが、ようやく落ち着いてきたのだろうか、この日は青空が広がり、白雲が浮かぶ上々の天気。しかもこの日は文化の日の振替休日ということで、昼間に句会開催。大方は昼間だろうが夜だろうが「暇と言えば暇、忙しいと言えば忙しい」という人たちばかりだから、出席16人、欠席投句4人と、いつもと同じようなサイズの句会である。
 いつも通り投句5句選句6句で句会を行った結果、最高点は玉田春陽子さんの「投げ上げる声も受け止め掛大根」の6点。続く5点は2句で嵐田双歩さんが「薄目開け犬のまた寝て今朝の冬」と「変な顔わざとして見せ七五三」で一人占めした。以下、4点3句、3点9句が続いた。
『立冬』
薄目開け犬のまた寝て今朝の冬      双 歩
立冬やカレー日和の神保町        冷 峰
韓国語消えて長崎冬に入る        百 子
立冬や青菜の畝の薄明かり        光 迷
朝刊のバイクの音も冬に入る       双 歩
閉館の時刻繰り上げ冬に入る       春陽子
『七五三』
変な顔わざとして見せ七五三       双 歩
ダウン児の晴れ着の笑顔七五三      白 山
七五三シングルママの凜々しくて     白 山
権禰宜が写真撮ります七五三       てる夫
祖父は元名カメラマン七五三       而 云
母と子の二人で生きて七五三       迷 哲
『当季雑詠』
投げ上げる声も受け止め掛大根      春陽子
どん尻に弾む笑顔や運動会        光 迷
冬ざるる流れ尖りて千曲川        てる夫
 上記の高得点句の中にはどうかと思われる句もいくつかあるが、これはまあ人気投票の句会の選句結果によくあることである。水牛がいいなあと思ってとったのだが、2点しか入らなかったのは次の3句。
猫用のこたつを出して冬が来る      満 智
湯冷めして二十数へしころ思ふ      命 水
耳うとき身にも沁みるや初時雨      斗詩子
 いずれも落ち着いて読めばいい句だと思うはずである。
 かく申す水牛の句は以下の5句。
台風のがらくた山や冬に入る
孫無くて参道よぎる七五三
柿食へば地震警報けたたまし
暖房はまだか夜寒の終電車
虫歯治療完了ですと秋うらら
 いずれも富士山の頂上で屁を放ったような塩梅の受け取られ方であった。今になって見直せばさもありなんという感じの、いい加減な句ばかりである。
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2019年11月02日

俳句日記 (539)


秋の種蒔き

 令和元年という年は何が原因か定かでは無いが天の神様が大いに機嫌を損ねた年であるらしい。そのせいで天候が大荒れ。冷夏、猛暑、長雨、台風のもたらした豪雨と、気象庁やお天気姐さんは、まともな予報などとても出来ずに、後から「どうしてこうなったのか」を説明するのが精一杯。こんなわけだから作物はひどい不作で、漁もひどい有様。大昔であればたった一年で改元というところである。
 わが菜園もひどい目に遭った。今年は梅雨が異常に長く、7月一杯続いた。その後はいきなり猛暑、と思うと二、三日急に冷え込む。こんな塩梅だから、毎年もう沢山と山の神が怒るほど生る胡瓜がさっぱりで、茄子も末生りばかり。菜っ葉類は害虫にやられてさんざん。
 というわけで、8月、9月は呆れ果ててほったらかしにしておいた菜園だが、やはり雑草の茂るままにしておくわけにもいかない。勇を鼓して10月下旬から雑草除去、耕しを始めた。そして本日11月2日、ようやく耕し終り、肥料を鋤き込んだわずか6坪に、冬野菜の苗を植え、種を蒔いた。本来、秋蒔きは10月中旬までの仕事なのだから、もう半月以上遅れている。さらに、菜園はまだこの4倍はあるのだが、全部始末がつくのはいつのことやらである。
 とにかく、今日のところは、サラダ菜、パセリ、子持高菜という珍しい野菜の苗を植え、正月用の「かつお菜」や水菜、大根の種を蒔いた。
 蒔いた跡を角材でとんとんと打って均して、そこに万遍なく水を撒いた。これは「無事に芽を生やし、育ちますように」との祈りと同時に、居付き猫のキタコが引っかき回さないようにとのオマジナイである。キタコは綺麗に均した畑が大好きで、すぐさま引っ掻いては嬉しそうに用を足すのである。水をかけて湿らせておくと何もしない。やはり猫もびしょびしょ濡れた所に尻を据えるのは気分が良くないのであろう。
  種蒔いて畝叩きをる秋の暮れ  水牛
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2019年11月01日

俳句にならない日記 (21)


札幌五輪マラソン決定

 11月1日に開かれた国際オリンピック委員会(IOC)、東京都、大会組織委員会、政府(五輪担当大臣)の4者会談は要するに、IOCが決定した「マラソンと競歩は東京ではなく札幌で行う」ということを、改めて「申し渡す」儀式で、日本国民を全くバカにしたものであった。
 「アスリートの健康を守るため」という理由は全く理解出来ない。東京の8月、9月が暑いのは最初から分かっていたことではないか。それを承知の上でIOCは東京開催を決定した。そして、大会組織委員会(森喜朗会長)は18年5月に東京都内の名所を巡るマラソンコースを決定し、国際陸上競技連盟もそれを承認した。そして今年9月15日には本番テストをかねて、五輪マラソンとほぼ同じコースで日本代表選手を決める選考会を行った。
 開催都市の東京都は東京五輪が正式決定して以降、マラソンコースの暑さを和らげるための遮熱舗装工事やミストシャワー装置をはじめ、320億円もかけて酷暑対策を行っている。
 国家予算、都予算合わせて東京五輪には途方もないカネが注ぎ込まれている。IOCが「暑いのは承知の上」で決めた東京五輪のメーンイベントを突如札幌に移すのなら、「それに伴う諸経費は全てIOCに払わせる」とどうして森喜朗や五輪大臣の橋本聖子は言わないのか。
 それより何より、何故、あのアベシンゾーがこの件に関して一言も言わないのか。ブラジルにまで飛んで、スーパーマリオの仕掛けから飛び出すという、一国の総理としてあるまじきはしゃぎぶりを見せ、東京オリンピック招致に狂奔した張本人が、このとんでもない事態に臨んで口をつぐんでいるのは絶対に許せないと思うのだが。
posted by 水牛 at 22:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする