2019年11月22日

俳句日記 (549)


千葉・養老渓谷吟行 (5)

大多喜は眠れる町

 大多喜は天然ガスが噴き出す山間の村という認識で、大したものがある所ではあるまいと思っていたのだが、いやいや水牛は浅はかであった。中々の城下町で、古い建物の残る味わい深い町であった。
 しかし、この過疎の町にはお金と人手が十分に無いのだろう、旧家、旧商店、旧郵便局等々、手を入れれば素晴らしい観光物件になるものがあたら朽ちるに任されており、観光ルートの道端は雑草が生い茂る有様であった。
 今や「小江戸」の代表を自認し大勢の観光客を呼び寄せている埼玉県川越も、20年ばかり前は「もう少し手入れすればいいのになあ」と思っていたところ、地元もはたと気付いたか、せっせと整備し始めた。今では「ちょっとやり過ぎ、まるでユニバーサルスタジオ」というくらいきれいになっている。大多喜にだって、もっともっと隠れた歴史・観光資源があるのではないかなと思いながら、小春日和の城下町をぽっくりぽっくり歩いた。
 大多喜という場所は房総半島中央部分の上総国の中央あたりに位置し、西へ行けば木更津、五井、東へ行けば大原、御宿、勝浦となる。山間の盆地で夷隅川の蛇行部分の丘の上に大多喜城がある。現在建っている天守閣は昭和50年にコンクリートで再現したものだが、元々は徳川家康股肱の臣本多平八郎忠勝が10万石の大名として乗り込み築城し、城下町を整備した。
 戦国・安土桃山時代の大多喜は、小田原から関東を支配していた後北条と、安房に本拠を置いて上総下総に勢力を伸ばそうとした里見とのにらみ合いの場所で、双方に荷担したり離反したりする地侍が合戦を繰り広げる、抗争の絶えない場所だった。豊臣秀吉が小田原北条を征伐し、家康に関東移封を命じた天正18年(1590年)、家康を守って東下した本多忠勝は房総半島を掌握し里見氏を安房に圧伏させる要石として大多喜に乗り込んだ。
 徳川三百年、大多喜は鳴かず飛ばずの、それだけに平和な営みを続ける田舎町として続いたようである。
 明治になって大事件が起こった。明治24年(1891年)、醤油醸造業の山崎屋太田卯八郎という人が井戸を掘らせたところ、なかなか水が出ず、さらに掘らせたところ、茶褐色の水が噴き出して盛んに泡を立てた。「しょうがねえな」と吸っていたタバコの吸い殻をその泡に放ったところ、ぼっと火がついて燃えだした。かれこれ工夫の末に、この井戸に蓋して管を通しガスを集める原始的なガスコンロを作り、煮炊きに用いた。
 これが大多喜天然ガスの事始めで、町内各所でガス井戸掘りが盛んになり、昭和の初めには「大多喜の天然ガス」が全国的に有名になった。昭和6年(1931年)には大多喜天然瓦斯株式会社(現・関東天然瓦斯)が設立され、本格的なガス採取・供給が始まった。大多喜で採れるガスは今でも千葉県内の各所に都市ガスとして供給されている。
 そんな事どもを聞かされ、思い巡らせながら、和服の着こなしが粋なガイドさんに導かれるままに旧家の立ち並ぶ街道を散歩した。「活版所」と古ぼけた看板を掲げた商家、ついこの間まで営業していたという寂びた寿司屋、「今でも営業しているということですが、大概閉まっています」という、明治24年に房総を周遊した子規が泊まったのではないかとされる堂々たる旅籠「大屋」など、興味尽きない建物が散在している。
 「これが重要文化財の渡辺家住宅です」。何と、平成6年春にテレビ東京が放映開始した「開運なんでも鑑定団」の“鑑定士軍団長老”渡辺包夫さんの生家なのだという。変な骨董が出品されると「これは、いけません」と独特の朦朧口調で言うのが実におかしかった。当時既に82歳の渡辺さんは、鑑定団収録日にはこの家から、いすみ鉄道で大原へ出て、外房線で上京したのだという。そんな懐かしい思い出が甦る旅でもあった。
 私たち一行16人も、その近くの蕎麦屋でまあまあ美味しい蕎麦を食べて、いすみ鉄道で大原に出て、外房線特急で帰途についた。

  冬晴れの人まばらなる城下町
  小春空子規の泊まりし古旅館   酒呑洞
posted by 水牛 at 23:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする