2019年12月31日

俳句日記 (565)


去年今年

 2019年は平成31年が5月で令和元年に切り変わったのをはじめ、各地に天変地異が起こり、消費税が10%に上がり、株価は上がったものの実体経済は沈滞の度合いを深めた。国際的には米中の経済摩擦が高まり、北朝鮮の核ミサイル開発による脅し激しく、中東は相変わらず情勢不安と、内外共に爆発しないまでも爆発のエネルギーを内に抱えたままという、極めて不穏な状態で越年することになった。
 2020年、令和2年は恐らく酷い年になるだろう。「アベノミクスは大成功」と言い募り、ウソにウソを重ねてきたのに、対抗勢力が居なかったが故に権力を握り続けて来たアベ政権のほころびが、来年はどっと出て来るに違いない。日本経済は沈滞を続けるに違いない。沈滞のままならまだしも、非常識な金融緩和策のとがめは大銀行の疲弊など、もう既にあちこちに出始めている。19年の大納会が30年振りの高値でシャンシャンとなったが、これも砂上の楼閣であり、令和2年に一挙に崩れないとも限らない。
 NHKは言わずもがな、本来公正中立であるべき大新聞がアベ政権におもねるように、「オリンピックイヤー」の太鼓を叩き、国民の耳目をそこに集め、砂上の楼閣をさらに積み上げようとの権力の意向に荷担している。しかし、日本は1964年の東京オリンピック時代とは様相を全く異にしている。物質的には当時とは比べものにならない豊かさだが、国民全体に「伸びよう」という意欲が欠けている。政府がいくら躍起になろうが、マスコミが尻馬に乗ろうが、最早「オリンピック」の掛け声だけでは萎えた人心は奮い立たない。
 それより何より天災が心配だ。今年は台風15号、19号で関東一帯から東北までひどい被害を蒙った。西日本では年初から長雨、台風、洪水に見舞われてさんざんな目に遭っている。2020年はそれに輪をかけた豪雨、台風に襲われる恐れがあると警告する気象学者もいる。それに、もしかしたら列島のどこかに巨大地震が発生するかも知れない。東京オリンピックの最中に東京を巨大地震が襲ったら、地震慣れしていない外国人観光客はパニックを起こすのではないか。
 とまあ、令和2年は心配事が先に立つ。
 これらが杞憂に終わればこんな嬉しいことはない。しかし、気力体力ともに衰えの目立って来たせいか、衰牛老人は、それなりの確率でそうなってしまうのではないかと恐れている。しかし、恐れていたってどうなるものでもない。しょうがない、ここは腹を括って、長命水にじゃんじゃん燗をつけよう。

  天災人災令和元年暮れにけり     酒呑洞

  錠剤の数をかぞへて去年今年     酒呑洞
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2019年12月29日

俳句日記 (564)


難解季語 (52)

掛乞(かけごい)

 江戸時代から昭和三十年代初めまでは、米屋、八百屋、魚屋、酒屋など日常品の売買にも「掛け売り」が至極当たり前に行われていた。とは言っても、商店が「御用聞き」に回って注文を取り、商品を配達する、いわゆる上流家庭が掛け売りの対象顧客ではあったのだが、東京、横浜の山ノ手では中流家庭にまでこの慣習が行き渡っていた。これは都会地では小売商の数が多く、それぞれの商店が上顧客を囲い込むための手段という面もあったようだ。
 商人は品物を納めると同時に、お得意先の勝手口にぶら下げてある「通い帳(かよいちょう)」に納入月日、品名、値段を記帳して、女中(お手伝いさん)なり奥様に確認して貰う。中程度の家庭では女中や奥様が通い帳を持って商店に出向き、必要な商品を買って、現金を支払わずに通い帳に記帳させ品物を持ち帰るという方法を取った。盆と暮れになると商人は手元の帳簿を集計してそれぞれの得意先を集金しに回る。これが「掛乞(かけごい)」あるいは「掛取(かけとり)」である。盆と暮れの「節季払い(せっきばらい)」もあったが、何と言っても暮が掛乞のヤマ場であった。
 室町時代に本格化し始めた貨幣経済は、江戸時代になると都市部には行き渡るようになった。一方、武士階級は俸禄が年2回乃至3回、大きな商家や職人を束ねる頭領とか親方と呼ばれる階級になると収入は節季毎ということになる。ということで、日用品の購入もその都度の現金支払いではなく、掛け買いが普通と言う事になった。この掛け売り掛け買いが多かった理由として、貨幣の流通量が慢性的に不足していたことも上げられている。
 もっとも長屋の住人など一般庶民は、もっぱら棒手振り(ぼてふり)という担ぎ売りの商人からほとんど全てを買っていたから、これはその都度、「おあし」と呼ばれていた穴あき銭による現金払いである。
 「掛乞」のヤマ場は暮れの大晦日である。盆の七月に取りそびれたものも、ここで清算して貰わねば商いが成り立ちませんと、商人はせっせと得意先を回る。大方はちゃんと払ってくれるが、中には「待ってくれ」と言う家も出て来る。主人や家族が大病して収入が頓挫したというような事情を抱えたお得意様の場合は、出入り商人も察しがつくから半期は待とうという男気も見せる。しかし、さしたる事情も無さそうなのに、支払わない家も出て来る。そういうのは得てして常習的な“借りっぱなし”になることが多い。こういう家には一店だけでは無い、酒屋も魚屋も薪炭屋も雑貨小間物屋も、わっと押しかけて来る。半分払います、三分の一で我慢して下さいはまだいい方で、中には「矢でも鉄砲でも持って来い、取れるものなら取ってみろ」とふんぞり返ったり、主人も奥方もどこかへ雲隠れというのも珍しく無い。
 この大晦日の掛乞を巡る悲喜こもごもは江戸の昔からの情景で、元禄の世に井原西鶴が『世間胸算用』で活写している。こうしたわけで掛売りには取りはぐれのリスクが付き物だし、それに半年・一年資金を寝かせて置く金利もバカにならない。それやこれやで、掛け売りの売価は二割方上乗せしておくのが普通だった。それを逆手に取って「現銀掛値なし」で大成功を収めたのが延宝元年(1673年)日本橋の本町一丁目に間口わずか一間半(2.7メートル)の小店を開いた越後屋呉服店だった。お客に店先で反物をあれこれ見せて、必要な分だけ切り売りし、しかもその場で寸法を採って仕立てましょうというイージーオーダー。現金でお支払いいただきますが、他の呉服店より確実に二、三割は安い。これが大評判になって「越後屋一日千両商い」と言われ、芭蕉一の弟子の宝井其角が「越後屋にきぬさく音や衣替」と、今で言う時事俳句を詠むほどになった。
 こういう新機軸の商法もあったのだが、それでもなお掛け売り商法は三百年も生き続け、大晦日の掛乞風景が連綿として続いた。これも地縁血縁、ムラ社会の日本的風土人情のしからしむるところなのかも知れない。
 しかし、高度成長に一歩踏み出した1960年代、ガラリと変わった。スーパーマーケットとそれに続くコンビニの出現であった。追い掛けて、家電製品の大量現金販売店が出現した。これによって、小売商店による「通い帳・掛売り方式」はあっという間に姿を消した。何しろ、掛け売り時代の販売価格とスーパーに並ぶ商品の正札を比べれば、その勝敗は小学生にも分かる。
 その結果、「掛乞・掛取」は姿を消し、死語となり、季語としての命脈も尽きた。それに変わって、今やいくらでも買いたい物が買える「リボ払い」などという借金や、「最初は金利ゼロ」という甘言を弄してのローンが輩出し、掛乞のように派手でなく人目には触れにくいが、もっとずっと陰惨な債鬼の跳梁する世の中になった。
 額寄せ掛乞対策小晦日   酒呑洞
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2019年12月26日

俳句日記 (563)


今どきの若い者は

 男性のボケの徴候の一つが、「今どきの若い者は」と言い出すことだと言われている。「俺たちの若い頃は」と続き、実際には出来もしなかったことを止めどなく語り出す。
 こういう物の言い方をする女性はあまり居ない。やはり女は現実主義者であり、手元にいくら残っているかで人生の幸福度を測ったりするのが多いから、くだらぬ昔語りに時を費やすようなバカらしいことは、あまりしたがらないのであろう。孫だって可愛ければそれでいいのである。「おばあちゃん」と擦り寄って来るのがお小遣いねだりと察しがついても、それで自分の心を癒してくれるのなら、うんと可愛いのである。そのバカ孫の行く末の幸いを祈りはするものの、オジイサンのように、孫の一挙手一投足を見つめてあれこれ思い煩ったりはしない。
 12月19日正午、水道橋駅から後楽園の東京ドームシティへのエスカレーターを登ったら、若者たちの長蛇の列にぶつかった。この地上二階部分は広場になっていて、後楽園遊園地の乗物乗り場やビッグドーム(後楽園球場)の入口がある。ここを突っ切って、地下鉄後楽園駅近くにある「らくーあ」という温泉を備えたスポーツジムのビルの九階にある料理屋「春風萬里」で、二ヵ月に一度、俳句勉強会があって、そこの講師を頼まれている。そこへ行く途中である。
 ビッグドームは野球の無い日は貸し会場になっていろいろな催しをやっている。その都度行列ができるのだが、今日は平日だからそうしたイベントも夕方からのはずである。正午に行列が出来るのはどうしたことなのだろう。それもなまじっかな人数では無い。三人から四人の横列縦隊がロープに従って、ヤマタノオロチのように幾重にも折れ曲がって続いている。数千人の規模だ。
 「この行列は何ですか」と、ロープの内側の二十歳代前半と見られる男女に聞いた。「ウーパー云々」「え?」「ウーバーワールドっ」、「え?」「バンドっ」。
 要領を得ないまま俳句勉強会にやって来て、行列のことを話し、ウーバー何とかについて、分かりますかと聞いた。一座の中の人が早速スマホを操作して、「ああ、ウーバーワールドという人気バンドの公演が夕方からドームであるようです」「それがどうして今から行列作ってるんです。当日券ですか」「そうかも知れないけど、恐らく公式グッズの売り出しじゃないでしょうか」
 なんと、人気バンドの名前や写真を染め抜いたTシャツやら何やらカニやらを「公式グッズ」と銘打って、特定場所で売るのだという。それを目がけて何千人もが押しかけるのが、こうしたイベントの付き物になっているのだそうだ。
 冷たい雨の中を傘も差さずに長時間、長蛇の列を作って待つ。実に平和で、こよなく豊かで、恵まれた風景である。列を作る若者たちは、どれもこれも背丈はすくすく伸びて顔色良く、何の屈託もない。難しいことは決して考えない、幸せどっぷりの間延びした顔である。中学上級生から大学生とおぼしき男女の大群。この子たちは適当に異性交遊はやっているらしく、今や社会人になって異性を知らないのが少数派とも聞かされた。そのくせ結婚はしない。従って出生数が年々減って、ついに今年は86万人になってしまったという。ピーク時の三分の一である。死亡は137万6千人とまずまずの数字だから、なんと日本の人口は一年で51万人以上も減った(12月24日、厚生労働省発表「人口動態調査」)。鳥取県が丸ごと消えてしまったようなものだと書いている新聞もあった。
 このままでは働き手が減るのはもちろん、国を守る兵隊さんのなり手がいない。今だって、半島のあのとんでもない国が攻め寄せて来たら三日とたたぬうちに占領されてしまうと言われている。ウーバーなんとかのグッズ買い行列も愛敬があっていいが、それだけじゃなんとも心細い。背筋がゾクゾクしてきた。
 帰って来て山の神にそんなことを語ったら、「早く寝なさい。風邪声よ、またぶり返すわよ」と言われた。
  踏み外し猫踏んじゃった年の暮   酒呑洞
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2019年12月23日

俳句日記 (562)

難解季語 (51)

鎌鼬(かまいたち)

 「突然皮膚が裂けて、鋭利な刃物で切られたような傷ができること。冬の信越地方に多く発生した。昔の人は鼬に似た妖獣の仕業と信じたのでこう呼ばれる。原因は不明だが、気象現象のはずみで空気中に真空状態が生じ、その境目に触れると起きるともいわれる」(角川学芸出版「合本俳句歳時記」第四版)。丁寧な解説で、「カマイタチ」という面妖な現象について、なるほどそういう不思議なことが起こるのかと納得する。
 暖冬化の影響か、近ごろは東北信越地方でもカマイタチ現象は少なくなったようで、そうした怪異譚をさっぱり聞かなくなった。しかし、昭和三十年代初め頃までは東京近辺の関東南部も冬場はかなり冷え込み、霜柱が立ち、軒には氷柱(つらら)が垂れ下がった。その頃は、関東でも鎌鼬現象があった。現にこの私がそれを体験している。もちろん袈裟懸けにばっさりやられたというような大げさなものではなく、右手の甲がなんの前触れも無く避けて血が噴き出したのである。昭和25年(1950年)12月も押し詰まった早朝だった。
 戦災によって家業の横浜ガーデンという園芸センターの温室や小動物園などの施設が潰滅、戦後復旧できず倒産してしまった。豊かだった家産も見る間に食いつぶし、病弱の父は敗戦・破産のショックで家族を養う働きがままならない。母が馴れない内職に精出しても多寡が知れている。私が中学1,2年のこの頃、我が家は極貧生活を余儀なくされた。姉は高等女学校を卒業するやすぐに就職、高校生の兄は学業そっちのけで横浜港の進駐軍施設に働きに出た。私も新聞配達になった。
 東横線反町駅周辺の二百七十軒ほどが私に割り当てられた担当地区だった。今は朝刊が四十ページもあるから、そんなに沢山の軒数は持てないだろうが、当時は朝刊が四ページ、戦時中途絶えていた夕刊がようやく復活したばかりで、二ページのぺらぺらだったから、これほど多くても運べたのである。
 ただし、今と違って新聞販売店は朝毎読、東京、日経とあらゆる新聞を扱う「合売制」だったから、受持ちの一軒目から三百軒近くまで配達する順番に従って、各家の取る新聞を組んで行く必要があった。Aさんちは朝日、Bさんちは読売、Cさんちは毎日と日経、Dさんちは東京タイムズと税のしるべ、というように組み合わせながら、配る順番に重ねて行くのだ。この組立て作業が大変で、朝四時半頃に販売店に新聞が到着するのを今か今かと待って、必死に取りかかる。馴れた人はものの十五分くらいで終えて、さっさと配達に出発する。こちらは順路帳という横長の帳面を繰りながら、えーとAさんアッサーヒ、Bさんヨーミ、Cさんマイニーチ・・とやっているから、小一時間かかってしまう。五時過ぎようやくまとめ上げて、右肩から左脇の下に帯芯で作った平たい抱え紐で二百七十軒分の新聞を抱え、やっこらさっと駆け出す。12月の五時過ぎはまだ真っ暗。今と違って街灯はほとんど無い。真っ暗闇を、栄養不良のやせっぽちの中一少年が紙の束を抱えてよたよたしているのはさぞかし珍妙だっただろう。
 もちろん泣きたくなることは山ほどあった。当時は野良犬が無闇に多かったのと、放し飼いの家が多かったことである。何度も何度も噛み付かれた。それよりももっと辛かったのは配り間違いによる、配達した新聞の回収である。
 Aさんの家は朝日、Bさんは読売と配る順序に従って重ねたものを脇に抱え、一軒ずつ小走りに走りながら配達して行くのだが、ある家にうっかり二軒分の新聞を配達してしまうと、次の家から順序が狂ってしまう。朝日を取っている家に毎日が、読売の家に朝日が配達されてしまうことになる。当時の新聞は紙質が悪く薄っぺらで、しかも四ページ、新聞によってはぺらぺらの二ページもある。シモヤケの手指ではつい二軒分を間違えて入れてしまうことがあった。
 途中で、おかしいと気がつく。さあ大変だ。逆戻りして配った新聞を取り戻し、配り直さねばならない。しかし戦後間もなくでちゃんとした門に郵便受けのある家は少なく、多くは玄関あるいは居間の雨戸の隙間に新聞をすっと差し込んでいく。屋内に差し込んでしまったものを返してもらうには、その家の人を起こさねばならない。五時や六時ではまだ寝ている家も多い。戸板をおずおず叩いては滅茶苦茶に怒鳴られるのだった。
 そんな厳寒の早朝、素手で新聞を捌いていた右手甲にびりっと痛みが走った。斜めに血が噴き出していた。新聞を汚してはいけないから、腰の手拭いを取って引き裂き、ぐるぐる巻にした。血は間もなく止まり、家に帰って見ると手の甲斜めに刃物で切ったような傷があった。赤チンを付けて包帯を巻き、二三日したら傷跡は塞がっていた。どうしてこんな傷を負ったのか、実に不思議だった。
 そんなことも間々あったが、三百軒近く配り終える頃、東の空が明るくなり、お日様が上がって来る。白い息をはあはあ吐きながら、熱々の雑炊を楽しみにたどる家路は本当に気持が良かった。
 
  三人の一人こけたり鎌鼬     池内たけし

  鎌鼬などものかはと駆け出せり  酒呑洞
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2019年12月20日

俳句日記 (561)


日経俳句会合同句会が開かれた
「日経俳句会賞」の贈賞式も

 12月18日(水)日経俳句会の下期合同句会(通算29回)が千代田区内神田の日経広告研究所会議室で開かれた。毎月の例会の五割増しの30人が出席し、兼題「北風」と雑詠含め43人から寄せられた129句を巡って賑やかに合評が繰り広げられた。
 久しく鳴かず飛ばずだった水牛だが、「急くほどに事のすすまぬ師走かな」で最高の7点を獲得した。しかし、出しておきながら大した句ではないと思っていたのだが、大勢の句会ではこういう句に点が集まる。同点首位の廣田可升さんの「一匹の逝きて二人の年の暮」の方が断然優れている。
 次席6点は「落葉掃く老女の丸き背に一葉(操)」、「煤払い積もれる嘘に頰被り(三薬)」、「小春日や紙の鼠に置く目鼻(光迷)」、「まな板の傷も古びし年の暮(水兎)」の雑詠4句が入った。「紙の鼠」「まな板の傷」もなかなかの句だと感じ入った。
 合同句会の後で行われた忘年懇親会の席上、恒例の「日経俳句会賞」の贈賞式が開かれた。受賞作品は次の通り。
「日経俳句会賞英尾賞」
 ちちははに詫びたきあまた冬銀河     廣田 可升
「日経俳句会賞」
 菊人形大坂なおみの高島田        中沢 豆乳
 聖樹下にギフトを置いて親となる     鈴木 好夫
 ページ繰る小さき風あり夏木立      水口 弥生
 一年が散らかっている十二月       嵐田 双歩

 これまた恒例で、今泉而云と並んで受賞作品についての講評を述べた。
「冬銀河」
 「孝行のしたい時分に親はなし」という有名な川柳があります。この句はその続編のような感じもしますが、諧謔味よりも、もっとずっと根源的な、親・子・孫へと連綿と伝わる肉親愛というものを感じます。

「菊人形」
 句会でこの句を見た時、ちょっとやり過ぎだなあと思って採らなかったのです。しかし、合評会で皆さんの句評を聞いているうちに、私はもう少し素直にならなければいけないなと反省しました。この句は私にとって、そういう句です。作者によると、確かに「高島田は作った」のだそうですが、そういう操作は十分許されます。令和元年を記す良い句です。

「聖樹下に」
 「聖樹下に」という堅苦しい言葉が非常な効果を発揮しています。何の事は無い、子が寝静まった夜中、クリスマスツリーの下にプレゼントを置いたという情景なんですが、「親となる」という下五で、親の自己満足から、本当に「家族だなあ」という気分になったという感じが伝わってきます。

「ページ繰る風」
 繊細な叙景句で、私の大好きな句です。夏木立と言ってもこれは真夏の緑蔭ではなく、初夏の感じがします。芭蕉には「先づたのむ椎の木もあり夏木立」という名句があります。これは強い日射しから守ってくれる夏木立ですが、水口さんの夏木立は日差しはそれほど激烈ではなく、むしろ爽やかな風を送ってくれる木立の趣です。読んでいる私も昼寝に誘われてしまいそうです。

「散らかっている十二月」
 ユーモアとウイットに富んだ句で、さすがは手だれの双歩さんという感じです。作者もそうなのかも知れませんが、私なぞ年がら年中、新聞雑誌でこれは面白いというのを破り取って、積んであります。年末になるとそういうのがうずたかく積もって、雪崩を起こします。この句はそういう、目の前の乱雑さだけでなく、あれもしなきゃ、これも片付いていないという焦燥感も伺えます。
posted by 水牛 at 23:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

俳句日記 (560)


 風邪引いた

 風邪を引いた瞬間など分かるはずは無いと思っていたが、82歳6ヵ月にして初めて察知した。12月12日の夕方である。この日は晴天、いわゆる小春日で日中の横浜の我が庭の寒暖計は21℃まで上がった。
 菜園の3本の茄子が花を付けなくなり、実も太らなくなったので、これはいよいよ撤収すべきと作業を始めた。茄子は毎年ゴールデンウイークに苗を植え、せいぜい8月一杯で葉が枯れて来て花も咲かなくなり、終になってしまうのが常だった。それが今年は何としたことか、8月になっても元気が残っている。そこで枝を適当に切り詰め、根元に追肥を施したら、新しい枝が伸びて花咲かせ、「嫁に食わすな」と言われる秋茄子がどんどん穫れるようになった。下の八百屋のショーちゃんにあれこれ買いに行った山の神が「茄子と菜っ葉は要らないの、家で穫れるから」、「コンチクショー、夜中に引っこ抜きに行くぞ−」と遣り取りがあったくらいである。
 実に重宝した茄子に「ご苦労さん」と言いながら引っこ抜き、ついでに周囲のほとんど枯れた雑草を落葉と一緒に掻き集め、裏庭の堆肥の山に積んだ。そろそろ暮れかけた午後4時過ぎ、突然クシャミが出た。それも立て続けに3発。なんだかあたりが急に冷え込んだような感じで、ゾクゾクして来た。鼻水が出る。これはまずい、やられた。この瞬間に風邪が発病したのだと悟った。
 急いで家に入り、ツムラの香蘇散を飲んだ。そして、いつものような夜更かしをせずに、11時には寝床に入った。
 翌13日朝、さっぱり良くなっていない。いつもなら効く香蘇散が効いていない。それでもまだ身体は言う事をきくので、薬箱にあったコンタックというのを飲んで、やたらに鼻をかみながらあれこれやった。晩食は熱燗が妙薬とばかりにぐいぐいやり、ついに純米酒の四合瓶を空にし、晩食後に書斎でパソコンに向かいなかがら、銘酒「松の司」の残り一合半ほどを空けてしまった。酔いで温まったのか、風邪熱でほてるのか、判然としない状態になってベッドに入った。
 14日朝。ますますひどくなっていた。寝ていても水洟がトクトクと流れ出る。頭は痛い。えらく汗を掻く。粥を食べて、コンタック飲んで、一日寝ていた。
 15日朝、ふらふら起き出してベーコンエッグとトーストを食べる。気分は大分良くなったが、相変わらず水っ洟が垂れ流し状態。寝床の中でまどろんだり目覚めたりしながら過ごす。変な夢を見ては目を覚まし、またうつらうつらする。少し寝るとぐっしょり汗を掻き、パジャマを替える。もう替えるパジャマが無くなって、16日朝を迎えた。気分が大分良くなったので、昼頃起き上がり、近所の赤尾内科に行く。丁寧に診察してくれて、「インフルじゃないようです。ただの風邪で、それも峠を越えています。薬を処方しますから、それを飲んで後2日は無理をせずにしていれば治ります」と言われた。
 なるほど、本日17日朝になったら、咳は少し残っているが熱も無く、水っ洟も治まった。
 治った証拠は酒が飲みたくなったことである。14日夜は飲みたくなくなって、以後、三日飲酒ゼロ。これは珍事である。今夜は新倉酒店のオヤジが運んで来た水戸の酒「副将軍」特別本醸造。4日ぶりに含んだ酒は、一口目は糠臭い感じがしたが、すぐに消えて、実に美味い。あれよと三合。これで、明日は晴れて年末合同句会に行けそうである。
  奇っ怪な句のつぎつぎと風邪頭     酒呑洞
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2019年12月14日

俳句日記 (559)


難解季語 (50)

日向ぼこ(ひなたぼこ)

 暖房が行き届いた住居に暮らすようになって、大人も子供も「日向ぼこ」の心地良さ、楽しさを忘れたようである。今どきの小学生に「日向ぼっこしよう」と言っても、通じないかも知れない。
 恵まれて来ると、「寒い寒い所から飛ぶようにして帰った我が家の温もりの心地良さ」、「北風を遮る崖下の日溜まりで日向ぼこする極楽」といった、自然と共に暮らす喜びを失ってしまう。昭和時代の半ばと比べたら、現在の私たちは当時では想像もつかない物質的豊かさを手にしている。しかし、自然と共に暮らすことを失った「快適生活」が良いのか悪いのか、幸せななのか、そうでもないのか。判断の難しいところだ。
 昭和25年(1950年)の12月、中学1年の私は校庭南側の崖の中腹にあるお稲荷さんの壊れかけた社の傍に、つまらない授業を抜け出しては仲間を集めて日向ぼっこしていた。前の日に横浜の繁華街伊勢佐木町から野毛の商店街を流してGI(進駐軍兵士)から貰い集めたチョコやビスケットやチーズを分け合いながら食べていた。「ラッキーストライク」「キャメル」といった洋モクを燻らせて香りに酔いしれた。其処は崖崩れを防ぐための幅1メートルほどの狭い平らな帯のような場所で、周りには灌木や篠竹が生えて、上(校庭)からも下の道路からも見えにくくなっている。授業をさぼって屯するには格好の秘密基地だった。
 横浜は昭和20年5月29日の米軍機による空襲で焼け野原になった。昭和25年は、ようやく簡易木造住宅が建ち並んだ頃だった。しかし下町の焼失校舎の復旧が進まず、焼け残った私たちの校舎には近隣の焼け出された学校の生徒たちも収容され、なんと私の通っていた中学は一学年11組にふくらみ、1クラスに60人も詰め込まれた。机が足りない。小さな机に、どこかから都合したリンゴ箱などを二つ並べて、ぎゅう詰め学級である。無論先生も足りない。数人が抜け出そうと、先生も分からないのか、分かっても見ぬふりだったのか、という状況だった。
 かくて、この崖の中腹はサボり学生の溜まり場となり、7,8メートルの間隔を置いて不良グループの巣が出来た。拾い集めて来た材木やトタンなどで「陣地」を構築した。たまたま隣との間に10メートルほどの間隔が空いたりすると、間に新規グループが割り込む。そうすると両隣の組が、普段はあまり仲良くもなく喧嘩もしないという関係だったのが、にわかに協力して新規参入を追い払う。猛烈な殴り合い、取っ組み合いになる。私は喧嘩はからきし弱かったので、腕力のあるのを二、三人GI物資で抱え込み、島を守っていた。群れと群れとの戦いは、1対1で取っ組み合っていたのでは埒が開かない。犠牲も大きい。そこで強い手下の二人か三人に分担攻撃方法を授けて、敵の首領に一気にかからせる。主力を欠いた我が方は防御が手薄になるが、しょうがない自分が撲られ役になって出来る限り堪え忍ぶ。どんなに強い敵の首領も二人あるいは三人で同時に掛からせれば必ず倒せる。首領を倒せば後はたやすい。倒された首領は実際は私よりずっと強いのだが猫のようになる。手下だった連中は、左右どちらかの組に吸収されたり、土性骨の坐った奴は一匹狼になって去って行く。
 時々こうした武者震いする事件もあったが、おおむねは実にのんびりした別天地だった。ここでの「日向ぼこ」の心地良さを今でも時々夢に見る。
 大学を卒業して晴れて一流新聞社(実際は潰れそうだった)に入社してからは、そういう埒もない少年時代を過ごしたことなどおくびにも出さず、しごく真面目に過ごして定年になった。そして今や、無茶苦茶な少年青年時代を懐かしみ、小春日の散歩を楽しみ、家の近くの小公園で地元のジイサンバアサンの仲間入りである。ここの常連の最高齢は91歳のジイサンとバアサンで、どちらもすこぶる元気である。
 賑やかなベンチの向こうのベンチには、たった一人で日向ぼこしているオバアサンが居る。「ねえ、○○さん、こっちにいらっしゃいよ」と親切で小まめなバアチャンが言うと、「そっとしておいた方がいいわよ」という冷静な若バアサンもいる。こういう場合、ジイサンはあまり意見を述べない。高齢社会は既に女性主導の社会になっている。
 それやこれやしているうちに、顔馴染みのオバアチャンの姿が見えなくなった。こうしていつの間にか、日向ぼこから一人ずつ消えて行くのである。
  きのふまでそこにゐたのよ日向ぼこ   酒呑洞
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2019年12月11日

俳句日記 (558)


難解季語 (49)

池普請(いけぶしん)

 晩秋から初冬の雨続きが治まり、遠くの高山がすっかり雪に覆われると、大川も小川も水かさがぐんと減って来る。池に流れ込む水量も減って来る。そうした仲冬の日和を選んで、「池普請」「川普請」が行われる。池の水を抜いたり、川を堰止めたりして、底に溜まった木の葉や塵芥や泥を取り除くのだ。同時に繁り過ぎた蓮や水草を間引く。
 こうすると池が生き返り、其処に住む虫たちや魚、亀、スッポンなども元気になる。護岸の杭を打ち直したり泥を掻き出したりする土木工事なので「普請」と言うようになったのだが、昔はどこの町村でも住民が総出で行った。この時、太った鯉や鮒、鰻などを捕獲する村の養魚業の収穫も兼ねた。これが鮒や鯉や雑魚の甘露煮、雀焼き(串焼き)、佃煮となり、正月のお節料理にもなる。
 江戸時代の江戸の町々には神田川、玉川(多摩川)から引いた用水によって「水道」が張り巡らされていた。清潔な水道を維持するためには川浚い、即ち「川普請」が欠かせなかった。松尾芭蕉は江戸へ出て来て、宗匠として飯が食えるようになるまでは、現在の文京区関口の椿山荘の真下を流れる神田川の堰での川普請の元締役を務めていた。
 今や水道は川水を直接供給することなく、浄水場で濾過・消毒した水を用いる。さらに、町内各所に必ずあった防火用水の役目も担う大小の池は片端から埋め立てられてしまった。こうして首都圏では池普請・川普請というものが行われなくなり、人々の頭の中の辞書から池普請という言葉が消えてしまった。
 しかし、昔からの名園が残っている。都内にも、小石川後楽園、駒込の六義園、深川の清澄庭園などは池を中心とした回遊式庭園である。こうした名園の池では今でも定期的に池普請が行われている。
 小型の池ならば、いっぺんに水を抜き、魚を掬い上げて水槽に入れておき、掃除を終えて水を入れて、魚を放つと終り。大きな池の場合はあらかじめ決められた区分ごとに水を堰き止めて、底を浚って水を入れ、次に移るという大仕事になる。
 都会の庭園の大規模な池普請は、請負った造園会社が学生アルバイトなどを駆りあつめてやっているようだ。さる句会に「自撮りしてバイト学生池普請 綾子」という句が出た。学生たちは珍しいバイトに面白がってはしゃいでいるのだろう。現代の池普請の情景を活写した句だと感心した。
 田園地帯には潅漑用の溜池がある。これは高低差を利用して田畑に水を供給するために、大概は山裾の小高い丘に設置されている。従って、雨期に山から水と共に流れ込む木の葉や枯れ枝、小石などが溜まりやすい。これも池普請ではあるが、かなりの作業量になり、村中総出の大事業となる。
  なかぞらへ鯉投げあぐる池普請    飴山  實
  杭を打つほかに大ぜい池普請     木下 洛水

  寝入りばなの亀起こされて池普請   酒呑洞
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2019年12月08日

俳句日記 (557)


番町喜楽会の忘年句会
「息白し」と「都鳥」を詠み合う

 12月7日(土)午後6時、東京・九段下の千代田区生涯学習館で第168回番町喜楽会が開かれた。これが早くも令和元年の締め括り句会で、終了後、近くの小料理屋「味さと」で忘年懇親会を開いた。
 近ごろ雨が多く急に冷え込んだりするものだから風邪を引く人も多い。出席は15人、欠席投句が7人となった。
 谷川水馬さんの司会で投句5句選句6句の句会を進めた結果、最高点は廣田可升さんの5点句で、
踏ん切りのつかぬ帰郷や都鳥       可升
 長年故郷を離れて東京をはじめ各所での勤め人暮らし。寄る年波で職を退き、このまま都会暮らしを続けるかどうか。「クニへ帰っておいでよ」という声もかかるのだが、さてとなると、なかなか踏ん切りがつかない。「都鳥」の季語と相俟っていい味を出している。
 続く4点には5句も並んだ。
息白く人それぞれに始発駅        春陽子
テスト日の寡黙なる列白き息       迷哲
向ひ合ふ距離の近さや置炬燵       命水
冬大路信号守る親子鹿          水馬
また悔いの一つ増えたる師走かな     満智
 3点句は9句。
まえうしろ子を乗せママの息白し     木葉
なれそめは鴨川の土手ゆりかもめ     水馬
夕映えのスカイツリーや都鳥       光迷
教皇の被爆地に立つ時雨傘        二堂
一茶忌や大徳利で出る蕎麦湯       春陽子
きのふまでそこにゐたのよ日向ぼこ    水牛
行き止まるレールの錆びて山時雨     迷哲
初雪や子の恋人の来ると言ふ       白山
路地深き鍋屋横丁小夜しぐれ       春陽子
 上記の他に水牛がいいなあと思って採った句は、
雨降るか赤きブーツの都鳥        命水
障子開け確かむ路地に冬の雨       命水
自撮りしてバイト学生池普請       綾子
 都鳥の赤いブーツとはなかなか面白い。二番目は「障子」と「冬の雨」が季重ねだが、静かでとてもいい感じ。三番目は、「池普請」という古い季語を蘇らせて実に愉快。今でも名園では冬場閑散期に池浚いをしているが、大長靴履いて悪戦苦闘しているのは皆アルバイトの青年男女。仕事も面白半分に、「自撮り」などやりながら大騒ぎだ。そんな今風の池普請を活写した。
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2019年12月07日

俳句日記 (556)


難解季語 (48)

大雪(たいせつ)

 12月7日は二十四節気の「大雪」。陰暦11月の節(月の始めに置かれる基準点)で、遠い山の峰はすっかり雪に覆われ、北海道から北陸にかけては猛烈な吹雪に襲われるようになる。関東平野も空っ風が吹き始める。さあいよいよ冬将軍の到来だという、なかなか重要な季節の区分点なのだが、人々はあまり気に止めない。同じ二十四節気でも「立春」「立冬」「冬至」などと違って、「大雪」は日常会話に登場しない。あまりなじみの無い言葉で、「おおゆき」などと呼ぶ人も出て来る。
 俳句でも同様で、れっきとした季語なのだが、小さな歳事記だと載せていないのもある。大きな歳事記でも例句が無いものさえある。実際、「大雪」で句を詠むと、「おおゆき」と誤読されてしまいそうなものが出来たりする。それに、イメージが固まってしまう季語でもある。とにかく作りにくいから、どうしても敬遠され、季語としても人気が無いのだろう。
 しかし、この頃から、鰤、鱈、牡蠣、そして河豚、鮟鱇、美味い魚がいよいよ旨くなって来る。もちろん、酒も極上が続々登場だ。

  大雪の夜は千代紙のだまし舟   奥村美那子
  大雪や暦に記す覚え書き     椎橋 清翠
  古書重く今日大雪の膝の上    宇多喜代子

  大雪や今夜は鍋と決めにけり   酒呑洞
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2019年12月04日

俳句日記 (555)


難解季語 (47)

薬喰(くすりぐい)

 奈良時代に仏教が入って来て「殺生禁断」の教えが広まるにつれ、従順な日本人は獣肉を食べなくなってしまった。仏教の出元のインドやそれを増幅した古代中国では盛んに獣肉を食していたのだから、何故日本だけが肉食を禁じたのか不思議な話だが、ともかく、江戸時代後半までは普通の人は四つ足は喰わなかった。
 しかし、それはあくまでもタテマエで、朝廷のある京都や将軍家お膝元の江戸はさておき、地方では鹿や猪、狼、兎、狸などを結構食べていたらしい。鯨は魚類と見做されていたから大ぴらに食べられていた。そこで山里で盛んに獲れる猪を「山くぢら」と称して喰った。しかし、多少は後ろめたい気持も抱いたのであろう、これは寒さに立ち向かうための体力づくりですとか、病後の滋養強壮の助けですと言い繕い、「薬喰」という言葉を拵えた。
 しかし1700年代になると、江戸幕府の綱紀もかなり弛み、八代将軍吉宗は武道奨励で鷹狩など狩猟を盛んに行い、鳥獣を捕獲しては喰うこともしたらしい。こうした空気が直ぐに下々に伝わり、宝暦時代(1750年代)には麹町に獣肉を食わせる「ももんじ屋」が出来た。喰わせたのは猪、鹿、狐、狸で、臭味を消すために鉄鍋で葱と一緒に炒り付け、味噌で味付けしたものだったらしい。今のスキヤキやモツ鍋とさして変わらない。
 日頃、野菜と魚ばかりの食生活しかして来なかったのが、ももんじ鍋を食べて、その旨さに驚嘆したのだろう。「薬喰」と称する「ももんじ屋」はあっと言う間に広まった。天保3年(1832)に寺門静軒という売れない儒学者がヤケッパチになったのか、目の当たりにする流行もの、風俗、噂話をなんと漢文で書いた『江戸繁昌記』を出したら、これが大当たり。その中に、「昔は麹町にたった一軒だったももんじ屋が、今では江戸中至る所にある」と書いている。客一人ずつの小さなコンロに鉄鍋を載せ、獣肉と葱を炒り付けながら味噌か醤油で味付けして食べ、値段は「小」が五十文、「大」が二百文。近ごろ人気が出たせいで鰻に匹敵する値段になったとしてある。
 広重の「名所江戸百景」の「びくにはし 雪中」に描かれている「山くじら」屋は現在の八重洲二丁目の外堀にかかっていた比丘尼橋のたもとの店。画面右手には「○やき十三里」とあるから焼き芋屋だろう(切った芋を焼いたのではなく一本丸ごと焼いた焼き芋)。かつぎ売りの汁粉屋らしいのが橋を渡ろうとしてる。この辺は商家が建て込み、こういう店がたくさんあった。比丘尼の装いをした夜鷹が客を引いていたから橋の名前にもなったという。彼女等のお得意さんにとって、寒夜の肉鍋は堪えられないものだっただろう。広重の江戸名所百景が出版されたのは安政4年(1857)。既に安政元年3月には、開国するや否やの回答を求めてペリーが再来航し、幕府は神奈川で日米和親条約を結んでおり、広重のこの絵が絵双紙屋に並んだ安政4年10月には下田に常駐するハリス領事が江戸にやって来て、通商条約締結を談判している。京都は条約勅許を下さず、攘夷派志士たちの動きは活発になり、物情騒然として来たが、江戸の庶民はまだまだ暢気に構え、猪肉をつついておだを上げていた。
 関西地方でも昔から獣肉を食っていたらしく、むしろ関東より早くその種の店があったらしい。天明期(1780年代)の蕪村も「しづしづと五徳居えけり薬喰」「薬喰隣の亭主箸持参」「くすり喰人に語るな鹿ヶ谷」「妻や子の寝顔も見えつ薬喰」「客僧の狸寝入やくすり喰」と五句も詠んでいる。蕪村も肉鍋が好物だったに違いない。
  行く人を皿でまねくや薬食ひ     小林 一茶
  ラヂオより浅間火噴くと薬喰     村山 古郷
  死者のこと山程嘆き薬喰       寺井 谷子
  三合と誓ひしものを薬喰         酒呑洞
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2019年12月01日

俳句日記 (554)


難解季語 (46)

師走(しわす)

 旧暦12月の異称だが、今日でも12月の別名として使われている。「年の暮れは師僧が檀家を忙しく走り回る」ので師走と名づけられたというのが、一般に流布する語源。確かに、平安末期に橘忠兼という人が表した「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」という、言葉をイロハ順に並べて解説した辞書に「しはす」を「俗に師馳といふ釈あり」としてある。つまり西暦1100年代には既に「和尚さんやセンセイまで駆け出す月だから12月を師走と言う」との説が信じられていたようである。
 これに対して、12月は一年の総決算で、あらゆる事に一応の区切りをつけるために皆々一生懸命に働く、そうして全てを「為果つ(しはつ)」ところから出たもので、音韻変化して「しはす」になったという説がある。これなど理路整然として、なるほどなあと思ってしまう。その他、「年果つ、年極つ」から出たものだとか、春夏秋冬の四季が極まる「四極、しはつ」が転訛したものだといった説もある。しかし、こうした真面目な解釈よりは、坊さんまで駆け出すという方が俳諧味があって面白い。
 大陸から「暦」が入って来た奈良時代、これを農事に役立てるために大和朝廷は、月の巡りが30日であること、それを12回繰り返すとまた元の季節になることなどを懸命に民草に教えた。同時に、月と太陽の運行のずれによる季節の食い違いを調整するための二十四節気・七十二候というものも輸入し、暦に当てはめて農事の指針とした。
 始めのうちは1月、2月と数字で呼んでいたものが、やがて「むつき」「きさらぎ」という和名が生まれ、これが定着していった。この月名が明治5年12月2日までずっと使われ、新暦に移行してから150年たった今でも使われているのだから驚きである。
 ただ、この「月の和名」は俳句では困ってしまうことがある。何しろ新暦は旧暦と一ヵ月以上ずれている。新暦の1月は旧暦では12月(年によってズレがあるが)である。新暦の5月は旧暦の4月。季語に「五月晴」というのがあるが、これは今日の6月から7月にかけてのじとじと降り続く梅雨の中休みの晴天のことである。それを知らずに現代俳人は初夏の好天気を「五月晴」と詠んでしまう。また10月を神無月と言うが、これも現代暦では11月である。10月と11月では天気も気温も大いに違う。というわけで、月の和名を無造作に用いると妙な句になってしまう。季節感が異なってしまうのだ。
 そういう問題がある中で、和名を用いて句を作っても違和感が無いのが「師走」である。とにかく、誰も彼もが忙しがる月である。それに、気温も周囲の景色も、12月と1月はそれほど変わらないから、旧暦新暦の食い違いをさほど感じない。師走は十二ヵ月の和名の中で、最も安心して使える季語だ。「極月(ごくげつ)」「臘月(ろうげつ)」とも詠まれる。
  なかなかに心をかしき臘月(しはす)かな  松尾 芭蕉
  極月の人々人々道にあり          山口 邨
  すれ違ふ妻の気附かず町師走        榊原 八郎

  あせってはとちつるてんの師走かな     酒呑洞
posted by 水牛 at 22:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする