2020年05月25日

俳句にならない日記 (24)


支離滅裂

 5月25日午後6時、我らが輝かしき史上最長不倒総理大臣安倍晋三君が新型コロナウイルス感染防止のための緊急事態宣言の全面解除を発表した。元来5月6日に解除する予定だったが、5月31日まで延長したのを一週早めて解除した。大好きな記者会見を今日もやったのだが、その姿は何物かに追われているような落ち着きの無い様子で、時折、喋りながら斜に構えたりするのが、失礼ながら強がりを見せる暴力団の三下奴のように見えた。
 水牛はコロナ騒ぎは騒ぎ過ぎだと一貫して唱えてきたのだが、もとより不要不急の外出を控えて感染拡大を防ぐ動きに反対するつもりは無かった。だから食糧品の買い出し以外には大人しく家に籠もっていた。
 三月の緊急事態宣言発令時に、検査体制の不備による感染者数の過少計上や、衛生状態の行き届いた日本の世の中を勘案するなどして、5月6日の解除時の感染者は全国で2万五千人、東京都でざっと1万人くらいではないかと、この「つぶやき」に書いた。しかし、その半分に留まったのは多分、外出自粛が功を奏したのだと思う。真面目な日本人の面目躍如である。
 日本人は世界一清潔好きな民である。普通の人よりは少々広く諸外国を渡り歩いた経験からしても、これは断言出来る。掃除好き、手洗いやうがいの励行(これは大昔からの神社仏閣へのお参りの際の御手洗の習慣が大きく働いている)、風呂好き、食べ物(野菜、魚類など)を調理前に入念に洗う、食器や布巾を小まめに洗うことなど、すべてに念が入っている。根ががっつきだから、取材と称してフランスやアメリカ、イギリス、チェコ、オーストラリアなどで、ミシュランの星を掲げる料理屋の厨房をいくつか見たことがある。どのレストランの厨房でも料理人が手を洗わないのが驚きだった。腰にはさんだ布巾で拭うだけで、手を洗うのは細かな盛り付けをする際にべたついた手先をすっきりさせる場合くらいである。オーストラリアでは私が蛇口から水を流しながら野菜を洗い、皿を洗っているのを見た料理屋の親父が「なんでそんなに水を使うんだ」となじった。その親父は野菜は全然洗わず、食器は洗い桶に溜めた薄濁りの水に浸けて揺すって引き揚げ、布巾できゅっきゅと拭いてオシマイだった。
 あるとき、大臣や経済界の有力者とのディナーの前に、トイレで用足しして手を洗っていたら、大の方から出てきた男が手を洗わずに私を追い越して席についたのを見たこともある。こうしたことがめずらしくない先進諸国での御挨拶が握手と親しげに抱き合うハグである。離れてお辞儀を交わす我々とは大分違う。
 外出自粛と言われれば素直に家に籠もり、どうしてもの用事で外出したら必ずマスクをして、帰ったら手を洗いうがいをする。日本で感染者が少ないのも当然である。中国やアメリカやロシアやブラジルとは違うのである。だからこそ、私はあまりヒステリックに騒がない方がいい、騒ぐことによって家庭内暴力を始めとした犯罪が多発してコロナ以上の犠牲者が出る恐れがあると言った。また、“自粛警察”という新語も生まれたように私たち日本人が持つ異常な潔癖感、全体帰一願望が嵩じて、新たな災いが起こる危険があると唱えてきた。
 それにもかかわらずアベさんやコイケさんは必死の形相で緊縮事態宣言や外出・営業自粛要請を叫んだ。国民は素直にそれに従った。それなのに、何故ここに来て一週早めて解除してしまったのか。私はちゃんと5月末日まで我慢すべきだったと思う。東京都と神奈川県という日本の二大都県が「基準」とされた「感染者が10万人当たり0.5人」を下回らないのに、である。
 今日午後6時のアベ会見を嫌々ながら見た。解除の理由が知りたかったからである。しかし、「全国的にみればこの基準を下回る結果が出た」という何ともいい加減な理由しか明らかにされなかった。「平均して基準以下」で良いのなら、水牛のつぶやき通り、何も緊急事態宣言の延長などせずに済んだのである。
 話題になった「アベノマスク」は未だに我が家に配達されない。「全国民一人10万円」の給付金の「申込書」も送られて来ない。本日の記者会見でアベさんは「全国自治体の8割が給付開始」と言っていたが、それは自分の選挙区のような殆ど人が住んでいないような市町村を数え挙げてのことで、首都圏や近畿圏などの大都市は「残り二割」なのであろう。演説に紛れ込ませた数字のマジックである。「全国民の○○割に給付されています」と言ってほしかった。
 ことほどさようにコロナ禍被害を救う政府の措置は遅れている。それを数字のマジックで糊塗する。しかしそれではもう言い繕えない段階になった。その上に「巣籠もり」を続ければ国民の不満が爆発すると見て、慌てての「解除宣言」なのであろう。もうこの人が何を言ってもやっても、聞く人は居ないだろう。機を見るに敏な役人は、人心掌握力を失ったリーダーの為に身を粉にすることはしない。行政の遅滞が目立つようになって、社会は混乱の度を増すのではないか。
  自粛解除アベノマスクの来ないまま    頭転堂 酔牛
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2020年05月14日

俳句日記 (602)


山椒鰊

 庭の山椒が芽吹いて一ヵ月たち、木の芽が沢山生えそろうと「鰊の山椒漬」作りに掛かる。福島県の会津地方の郷土料理である。もう50年以上前に取材で会津若松を訪れた時に、地元の人に案内された料理屋で食前の酒肴に出され、その滋味に感じ入った。東京辺りではお目にかかれない食べ物なので、その後すっかり忘れていたのだが、一昨年の夏、横浜駅地下街の生鮮市場の魚屋で「身欠鰊(みがきにしん)」を見つけて、突然、この山椒漬を思い出した。早速買って来て、庭の木の芽を摘み、昔の味を思い出しながら、適当に醤油、酒、味醂、酢を混ぜて漬け込んだ。まあまあそれなりのモノが出来たが、ちょっと鰊がゴワゴワしていて、生臭い。
 グーグルで「身欠き鰊 山椒漬け」と入れてみたら、ワッと出て来た。会津若松の料理屋のレシピまで出て来た。それによると、身欠き鰊を米の研ぎ汁に一昼夜浸けておき、ふやけたものを取り出してウロコなどを丁寧にこそげ落とし、よく洗う下ごしらえが生臭さを取る秘訣だということを知った。
 二回目、三回目と丁寧なやり方で拵えているうちに段々とよくなっていく。ただ、クックパッドや料理屋のレシピの漬け汁は醤油1,酢1,酒0.3、みりん0.3という比率が多いのだが、水牛流は醤油1、酢0.8、酒とみりん各0.2の割合に、ちょっと辛口にしている。
 これで作った山椒鰊を去年のいつだったか、番町連句会という連句の座に持って行き、連句の付け合いの合間の一献に「美味いだろ、旨いだろ」と食べるのを強要した。「不味い」と言う度胸のある人は居なくて、「美味しいですよ」と、それなりに捌けた。しかしかなり残った。そうしたら「私が頂いて行きます」と心優しい可升が仕舞ってくれた。だから水牛製山椒鰊の評価は未だ判然としないのだが、相変わらず、木の芽の季節になると作る。
 漬け込んで三日目くらいから食べられるが一週間漬けたものが一番美味いようだ。その後、冷蔵庫に入れて二週間まで美味しく食べられる。冷酒にも熱燗にも合う。茶漬けの友としても絶好である。
 会津は四囲山の国。夏暑く、冬は雪と冷えに閉じ込められる厳しい土地である。昔は川魚以外は魚など全く食べられなかった。それが江戸末期以降、北海道で大量に取れた鰊が干されて身欠き鰊となり、この山国にも運ばれるようになった。天恵の身欠き鰊を醤油と酢と、周りにいくらでもある山椒の葉とで漬け込み、貴重な蛋白源の保存食とするのは山国の民ならではの知恵であった。
  酒冷やす山椒鰊の漬かりごろ   酒呑洞
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2020年05月13日

俳句にならない日記(23)


コロナの打撃(2)

 「コロナコロナ」で首相はじめこの国を率いる人たちが「自粛」ばかり言い募ると、日本国中が萎えてしまって、コロナ禍による死者、重病人など直接的被害よりももっとひどい後遺症を日本全体に残すのではないか。そのあたりの事についてリーダーたちは十二分に思い致すべきだという文章を5月初めに「コロナの打撃」と題して書いた。それが現実のものになって現れ始めた。
 第一は、安倍政権の「コロナ対策」が中途半端であるために、種々の支援策が十分な効果を発揮しないまま、国家の借金として積み重なるという経済財政面のマイナスが明らかになったこと。第二はコロナ禍をきっかけに湧き上がってきた人心荒廃である。特にこの後者の国民の精神的動揺が怖い。
 5月6日が緊急事態宣言解除の日だったが、安倍首相はその直前にそれを5月31日まで延長した。「感染者数の減少程度が思っていたより少ない」現状で外出自粛を解除したりすれば、第二波の感染拡大の危険が考えられる、というのがその理由であった。その効果が現れたのか、5月に入ってから新たな感染者数がぐんと減っている。5月11日の新規感染者は東京15人、北海道10人、神奈川7人など10都道府県で合計43人に止まった。5月に入って感染者が10人以下に止まっている県が35県、ここ一週間感染者ゼロの県が24県である。明らかに新型コロナウイルスは終息に向かっているように見える。
 これがアベさんやコイケさんが金切り声を上げて外出自粛を求めた効果なのかどうか。それは判然としない。というのは、「外出が必要緊急」の人たちや、「自粛なんてクソクラエ」という人たちがいて、外出自粛の実行率は7割方だから、“効果度”を判定するのが不可能なのだ。せいぜい「ある程度は効果があった」と言えるくらいである。もう一つは、相変わらずわが国の検査体制が不備で、感染検査が十分に行われないために、感染者数が増えないという現実。もう一つはコロナウイルスという生き物(?)の活動に波があるのではないかということだ。ウイルスのぱっと火が付いた途端に燃え広がり、その後一旦治まり、また再び燃え広がるという、野火のような動きが、100年前のスペイン風邪の時にも見られたようだし、近年のインフルエンザやSARZなどでも見られた。
 というわけで、5月に入っての沈静化を見て「これで鎮まる」と見るのは、韓国で第二波の流行の兆しが現れているのを引き合いに出すまでもなく、早計であろう。第二波が来て治まり、第三波が来て治まりという具合に、押し寄せる波がだんだん小さくなりながら2年くらいで静かになるのではないか。
 というわけで、無闇矢鱈に蟄居謹慎していたからといってコロナに罹る恐れが全く無いというわけではない。しかし、馬鹿にして高を括った行動をとるのは愚の骨頂である。という程度の認識で良いのではないか。
 専門家会議という日本の医学界の最高権威とされる人たちを集めた会議ですら、コロナウイルスのことはよく分からないのである。その責任者が「実際の感染者は(発表されている人数の)10倍あるのか、それ以上なのか分からない」と国会で答弁するのが「実情」なのである。そういうウイルスに、「訳が分からないから、万全の態勢で臨む」とシャカリキになって圧伏しようとするのは、暗闇で刀を振りまわすようなものである。怪物の正体をぶった切れずに、無辜の多くを傷つけてしまう。トランプ政権やそれに追随するを可とする安倍政権はまさにそうした姿勢である。暗闇に放つ鉄砲の後遺症は恐ろしいものとなろう。
 2月から始まったコロナ騒動、三ヵ月たったところで感染者が⒈万6千人、死者660人。全人口1億2600万人からすれば大したことではないという見方もある。
 「外出自粛」「営業自粛」とがなりたて、国民全体を逼塞させ、経済活動を止めてしまう。その結果として、倒産破産、失業、引きこもり、精神不安定、家庭内暴力、犯罪の多発といったもろもろの悪を引き起こす。それによる被害者は到底⒈万6千人では収まらず、死者660人の数倍を持って打ち返して来るのではなかろうか。
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2020年05月03日

俳句日記 (601)


銘茶「巣籠」

 昨日5月2日、「そうだ今日は八十八夜だ」と気が付いた。実際は今年の八十八夜は閏年の関係で5月1日だったのだが、まあそれはそれとして「夏も近づく八十八夜・・あれに見えるは茶摘みじゃないか、我が家の茶葉でお茶を作ろう」と思い至った。
 我が庭のぐるりの生垣にはいろいろな木が植わっているが、茶の木が十本ほどある。亡父が植えたものや、私が昔、静岡県牧ノ原や埼玉県狭山の茶園で貰った苗木や拾って来た茶の実を蒔いたのが育った木である。古いのはもう60年、新しいのでも20年は経っている。毎年刈り込んでいるから腰の高さくらいだが、全て老木といっていい。牧ノ原の茶園でその昔聞いたやり方で、10数年前に新芽を摘んで蒸篭で蒸して揉んで乾かす製茶をやったことがあるが、美味くも何とも無いものしか出来ずで、それっきりになっていた。蒸し方と揉み方が足りなかったようである。
 今年の八十八夜は思っても見なかった「外出自粛要請」。へそ曲がりの水牛はそうなると無性に外出したくなるのだが、店が全部閉まっている横浜駅周辺や伊勢佐木町に行ってもつまらない。美術館も博物館も動物園も閉園だ。しょうがないから家庭菜園の作業なのだが、胡瓜も茄子もトマトもシシトウも植えてしまった。繁り過ぎたイロハモミジの枝下ろしも終えた。それで製茶に再挑戦することにした。
 まず、門に近い所の三本の木の新芽を摘んだ。「一芯二葉」という、新芽とそれを囲む黄緑の若葉二枚だけを摘まむ。これだけを集めて作ったお茶は最高級の玉露になる。三本の木から摘んだ一芯二葉が大きな笊一杯になった。これをさっと洗って、キッチンペーパーで包み叩いて水気を取る。本来は茶葉は洗わない方がいいとも言われるが、大陸から飛んで来たバイ菌やPCなんとかがついているといけないのでさっと洗った。
 これを耐熱皿に盛って、電子レンジの600Wで2分チンする。湯気の立っている茶葉を揉む。物凄く熱い。掌が火傷しそうだ。我慢して揉み、それをほぐし、また電子レンジに掛ける。今度は1分。また湯気の立っているのを揉む。熱くてたまらない。純綿の軍手があったのを思い出して取り出し、それをよく洗って、これも電子レンジで乾かしてはめた。これで湯気の立つ茶葉を揉んでも平気になった。揉んではチン、揉んではチンを4回繰り返したら素晴らしい香気が立ち昇って来た。「茶の香り」が台所から居間まで漂う。十数年前に試みた製茶は蒸篭でただ一回蒸したのを揉んで乾かしただけだったので、茶葉の持つ香気や味わいが十分に染み出なかったのだと分かった。電子レンジ応用法はクックパッドで知ったのである。実に素晴らしい方法だ。
 しかし4回では、まだ茶葉は水分を含んでいる。さらに揉んでチンすること二回。やや湿り気を帯びてはいるが、捩れた煎茶の形になっている。これを笊に拡げて、一晩乾かした。
 3日朝。茶葉はほぼ乾いていた。大笊一杯の茶葉が今や小さな茶筒一本分くらいになっている。良いお茶が高いのがしみじみ分かった。一保堂のおばさん「高い」なんて言ってゴメンナサイ。
 とにかく出来たてを早速煎じてみる。淡い黄緑色、香りがとてもいい。含んでみると味は薄めだが上品な味わい。鼻へ抜ける香気がなんとも言えない。採点が辛い山の神も「まあまあね」と言う。二煎目、今度は3分ほど待つ。すると実に深い味わいのお茶になった。まだ摘んでない木が6,7本ある。明日から本腰を入れて茶摘み、製茶に取り組もう。
  チンしては揉んでまたチン自家製茶
  茶づくりも外出自粛の余徳なり      酒呑洞  (20.05.03.)
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2020年05月01日

俳句にならない日記 (22)


コロナの打撃

 「コロナコロナとあんまり騒ぐな。騒ぎすぎが輪に輪をかけて、パニックを引き起こす」と言い続けてきたのだが、周りは「また水牛がいいかげんなことを言う」といった顔をする。そうこうするうちに「緊急事態宣言」の「外出自粛」要請時限の5月6日が近づいてきた。と思ったら、「まだまだ終息とは言えないから」と、4日に安倍首相が記者会見(この人ほど記者会見で自己宣伝するのが好きな人も珍しい)して、「緊急事態」をさらに一ヵ月延ばすのだという。
 コロナウイルス感染者は徐々に減少傾向を見せているが、「終息か」と見られていた北海道で流行の第二波とも見られる新規感染者増大が報告されるなど、まだまだ予断を許さない状況だ。ウイルスというヤツは現代医学で解明できていなくて、そのはびこり方について確信を持って言える人は誰も居ないようなのだ。医学界の最高権威と言われる政府の専門家会議のメンバーも、みんな漠然とした推測を述べているに過ぎない。
 今回のコロナウイルス騒ぎで分かったことは、日本を始め世界の医学・疫学の水準は私たちが信頼し切っていたのがとんでもない誤りで、実際は大したものでは無いということであった。一旦疫病が流行すると、名医と言われる人たちも呆然としてしまうのである。その「専門家」と言われる人たちが群盲象を撫でるような感じであれこれ述べるのを聞いた首相が、「人との接触を8割減らして下さい」「外出せずに家に籠もっていて下さい」というのが病魔を避ける最大の方法というのである。これでは護摩を焚いたりお経を上げてお籠もりした奈良・平安時代と全く変わらない。時は今、端午の節句。菖蒲の葉っぱとヨモギの葉っぱを束にして沸かした風呂にでもゆっくり浸かっていた方がいいようだ。
 日本国民全員が自宅にじっと籠もって、2,3週間外部との接触を断つことが出来れば、ウイルスの「人から人への感染」はかなり防げるだろう。しかし、全国民が2,3週間、外部との接触を一切断つことなど出来ようはずが無いということを考えるべきではないか。「専門家会議」は5月1日の会議で「人と人の接触8割削減が十分に達成されていない」などと述べ立てたが、そんなことは最初から分かっている。日常生活に不可欠な商店は開く、銀行郵便局、区役所は開いていますというのでは「遮断」とは程遠い。また、そういう商店や機関は開いていてもらわなければ困る。政府だって地方公共団体だって、一般企業だって全てテレワークで済むはずが無い。という具合で、「外出自粛要請」はかなり中途半端なものとなるのは仕方の無いことなのだ。そうした状況下で感染者累計⒈万5千人なら可とせねばなるまい。感染したからと言って全てが死ぬわけではない。新型コロナによる日本国内の死者はまだ500人に達していない。1億2千7百万人の中の500人である。コロナコロナと騒ぎ立てることによって、他に多大なる犠牲を強いて、日本という国全体を弱らせて、結果的に何万人も殺すことになってしまうことを考えた方がいい。
 人通りの途絶えた繁華街の映像がテレビニュースやネットに流れることによるショックで、多くの人に「コロナ対策」の意識を植え付け、手洗いやうがいの励行、暴飲暴食を慎む自制心を促す効果はあるだろう。しかしこれとてかなり精神的領域の防護手段であり、とてもAI時代の方策とは言えない。さはさりながら、一人一人が「不要不急の外出」は控えて、「コロナをなだめすかし」ながら暮らして行けばいいのだ。それを科学の衣を着せて、あたかも特効薬的な対策として「三密を避けよ」などと言う。実際的な効果と精神的効果とがごちゃまぜになった形でコロナ対策が行われ、その結果、平常の生活や経済活動が大きく損なわれる。それによる損失と打撃は計り知れないものがある。
 安倍政権は自分のせいで起こったものではないコロナ禍に対する手当は、「全世帯二枚ずつマスク配布」はじめ、「全国民に10万円」などかなり気前がいい。企業に対するコロナ禍による損失の補助にも熱心だ。安倍首相によって取り立てられた黒田日銀総裁はもとよりこれに呼応して、ついに4月27日、「日銀による国債の無制限買い取り」を打ち出した。既に「マイナス金利」までやってしまっている日銀としては、これしか手段が無いのである。
 こんな風にして、世の中全てが「コロナ」を中心に回っている。コロナ被害は防げたものの、日本国中至る所に癒しがたい傷を遺してしまうことになるのではないか。その方がよっぽど怖い。(20.05.01.)
posted by 水牛 at 23:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする