2013年09月15日

俳句日記(274)

数の単位
 番町喜楽会に高瀬大虫が「秋の雲盆地をよぎる刹那かな」という句を出した。面白いことを言うもんだなと感心したのだが、それにしてもいくら狭い盆地でも、いくら足の速い秋の雲でも、刹那に通り過ぎちゃうとはあまりにも大げさだと呆れ果てて、取るのを止めてしまった。同じ考えの人が多かったらしく、この句にはさっぱり点が入らなかった。
 ところが、今日(9月15日)になって今泉而雲がNPO双牛舎ブログ「みんなの俳句」にこの句を取り上げて論評した。やはり彼もこの句がずっと心に引っ掛かっていて、今日になって「そうか、雲の流れが速かろうと遅かろうと、それは問題ではない。一刹那に過ぎないのだ」と感得したというのだ。
 なるほど言われてみればその通り。大虫は僧籍を持つれっきとした禅宗の坊主である。それにしては生臭物が大好きで斗酒なお辞さずで、大概の人が「ウソでしょ」と信じない。そもそもこの大虫という俳号からしてうさん臭い。「大虫」とは虎の別名であり、大蛇の別名でもある。水牛(酔牛)と似たようなものである。さはさりながら、大虎和尚が盆地を過ぎる秋の雲を刹那と断じたのであれば、これはかなり底の深い句であるなと思わざるを得ない。
 ところで「刹那」とはどのくらいの時間を言うのだろうか、と、またバカなことを考え出した。こういうところが酔牛の良くないところなのだがしようがない。手持ちの辞書やなにやらを引っ張り出し、果てはインターネットサーファーである。やり出すと面白くて止められない。他にやらねばならぬ仕事は山ほどあるのに、因果な性分である。
 刹那がどのくらいの時間であるのかには様々な説があり、「一弾指は六十五刹那」などという解説がある。指をひとはじきする時間の六十五分の一が一刹那というわけだ。「一刹那は七十五分の一秒」というやけに正確そうな説もある。とにかく刹那がごく短時間であることは明らかだ。
 刹那という時間概念はかなり大昔からあったものらしく、それ故にいろいろな坊主がいろいろな説を唱えたものらしい。二世紀に南インドに現れ大乗仏教を体系化した龍樹という坊さんは、真言宗では八祖の一人と崇められ、浄土真宗では龍樹菩薩と崇め奉られる高僧だが、刹那に具体的な時間の長さを設定するのは馬鹿げたことだと言ったという。ここからすると、この大虫の句はまさに正鵠を射ており、我ら凡愚がその遅速を云々するなどもってのほかということになる。
 「一刹那は十分の一弾指」という説もある。これは中国経由で伝わった数の単位に関する考え方と、その呼称決定に従って出て来たものらしい。数の数え方は大きいもの(大数)へは「一、十、百、千、万、億、兆、京、垓・・」という順序で続いて行くが、一より小さい方はどうなっているのか。この「小数単位」もちゃんとあって、一の十分の一は「分」、その十分の一は「厘」、その十分の一が「毛」、さらにその十分の一は「糸」と、ここまでは大概の人が知っている。そこから先は「忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳・・」となっていくのだという。すなわち一弾指の十分の一が一刹那だというのである。
 しかしここではたと疑問に躓いた。大数の方向を見ると万の位までは十進法で進んで行くが、そこから先は「万進法」になることである。十万、百万、千万という数え方があり、「万万」の位ではじめて「億」となる。さらにその万倍の万億が「兆」、その万倍が「京」、その万倍が「垓」である。これを小数の方にも当てはめると、「糸」までは十分の一ずつ少なくなって行き、そこから先の「忽」以下は万分に一になって行くのが理屈ではないか。となると、「刹那」は「弾指」の十分の一ではなく一万分の一ということになる。さすれば「刹那は一の何分の一か」は、もう気の遠くなるような微少な数字で、書き表しようがない。
 これに対する解はネットサーファーをいくらやっても見つからなかった。とにかくこういうばかな捜し物で半日潰れてしまったのだが、「塵埃」とか「模糊」「逡巡」「須臾」「瞬息」など、極めて細かい物、あっという間の時間を言う言葉が、こんなところに根っこを持っていたのだということが分かって、面白かった。
 果てしなき宇宙を漂流しているような気分に浸っていたら、「あなたご飯ですよー」という大声で破られた。いやはや、締切をとっくに過ぎている作文添削をやるためにパソコンの前に座ったのに、一向に進まないまま晩飯になってしまった。これで一杯やると、もう後は仕事にならぬ。一日は瞬息、刹那に過ぎて行く。

  反省の山に山積み秋の暮れ
posted by 水牛 at 21:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
先日は楽しいお話しありがとうございました。
さて、刹那ですが、要するに一瞬なのに具体的な説明をしたがる不思議な性分がインド人にはあります。
一瞬は科学的な単位ではなく、ごく個人的な感覚である(短いことに間違いはないが)と思うのですが、ここに科学的な説明を加えます。
これは、短時間に方面に限った話ではなく、長時間にも同じことが言え、刹那の対極にある、永遠を表す「劫」(永劫の「劫」です)にも同様に科学的とも言える具体的な説明を付与しています。
よって、永遠である筈にも拘わらず「劫」は数えることが出来、弥勒菩薩は人類を救う為に「五劫」考えたとされています。
面白いですよね。
既にご存じかもしれませんが、「劫」がどのくらい長い時間かは、諸説あり、ネットサーフィンされるといくらか出てくると思います。是非チェックしてみて下さい。
説の一つでは、一里四方の岩山があり、ここに年に1度天女が降りてきて、その衣の裾でひらりと岩山をなでる。
して、岩山がすり減って無くなるまでの時間、と説明されています(笑)

ところで、先の句の「刹那」ですが、私は雲が流れていくのを目にした「瞬間」つまり、カメラの何千分の一秒化のシャッターで切り取った瞬間の様にその光景が網膜に焼き付いたのだ、という様に解釈しました。
Posted by zugai-no-yuragi at 2013年09月17日 22:33
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