2018年08月11日

俳句日記 (416)


雲の峰と雷電 (6)

 東京を中心に南は鹿児島、北は函館まで新幹線が走っている。在来のJR線や私鉄各線は、まあこんな山の中までと思うような所にまで入り込んでいる。遠隔地には空路で行ける。21世紀の私たちは旅をするのがとても楽になった。しかし、その半面、日本の内航海運はすっかり日陰に追いやられた。
 明治16年(1883年)、16歳の正岡升少年(後年の子規)は郷里伊予松山の三津浜から便船で神戸に行き、まだ全通はしていなかった東海道線の列車と途中便船を乗り継いで東京にやって来た。全国津々浦々から青雲の志を抱いて上京する青年達は、海路や河川の舟運を利用した。現代の我々がすっかり忘れてしまっている「海の道」「川の道」が、明治時代までは厳然として在った。雷電日記を見ると人々の生活に船路が生きていたことが分かる。
 「寛政三亥年(1791)春 二月十八日出立仕り甲州通り府中在の稲毛村と申す所にて晴天五日間の興行仕り候 廿七日相済まし廿八日出立仕り川舟に乗り下り川崎宿へつく 品川御殿山下にて晴天十日の稽古相撲仕り候 (中略)此の相撲もはんぢやう致し申し候 此給金六両二分も取り申し候 花(祝儀)も五両ばかりも之有り候 花はみな女郎屋へ参り候 それより上総国きさらずと申す所へ参り五日興行仕り候 此所にても給金四両ばかりも取り申し候 四月三日初日にて十五日相済み申し候 十五日 押送舟(東京湾近辺の魚を日本橋魚河岸へ急送する快速船)を廿五貫文出し 柏戸、芦渡(二人とも雷電の弟子で松江藩お抱え)私三人舟に乗り候ひて、未中刻(午後二時頃)舟を出し仕り、二里ばかりも沖へ出でし候所、漁船参り、此の魚を江戸へつみ候と申す事に候ニ付き、船頭船賃は取る事無用にして此の魚を積ませ下され候と申す事につき魚を積ませ、品川沖へ戌刻(午後7時)ころに参り・・・戌中刻(午後8時)ころ(品川の)宿へ参り申し候」
 日記によると、雷電一行(一番弟子の柏戸はじめ幕下の芦渡その他取的や他部屋の力士、行司、呼出、小者など含めて恐らく20人くらいか)は旧暦2月18日、甲州街道を江戸から西へ約30キロの府中へ向かい、そこから南下して多摩川を越え稲毛村(現・東京都稲城市)で5日間の興行(巡業花相撲)をした。その後には品川での巡業が控えている。
 巡業には褌、化粧回し、紋付袴、着替えなどを入れた明荷(葛籠)をはじめ、幔幕その他相撲の道具などさまざまの物があって、大変な大荷物である。陸路は大八車に積んで人足や取的が運ぶのだが、これが大変な労力と金銭を要した。そのため、巡業では川や海に近い所では舟運を利用した。今回も稲城市から川崎まで多摩川の舟運を利用した。川崎から品川は2里少々(約9km)だから、この方がずっと楽だ。
 品川御殿山での花相撲は連日大入り満員で、雷電の給金は六両二分と花代(ご祝儀)が五両余りと予想外の収入だった。当時の一両が今日の円でどのくらいになるかは、計算が非常に難しい。米価換算では一両30万円から40万円、衣料品その他消費者物価によると80万円から100万円という換算も成り立つ。雷電が故郷の長野県東御市に現存する家を建てるのに掛けた費用が50両ということから計算すれば一両は40万円くらいか。とにかく10日間の興行の給金が250万円から600万円というのだから悪くない。御祝儀の2,3百万円で弟子や取り巻き連中を従え品川宿名物の遊郭で豪勢に遊んだという。
 この後、雷電一行は品川から舟で東京湾を渡り木更津で晴天5日の巡業相撲。その帰り、木更津から品川へ押送舟(おしょくりぶね)を雇った。これは東京湾、相模灘などで獲った魚を日本橋魚河岸へ急送する舟で、帆をかけた上に4人から8人の水夫が艪を漕ぐ快速船である。相模湾で獲れた堅魚を押送舟で日本橋まで半日で運んだ。木更津にもこの舟の仕立場があったのだろう、雷電一行はこれを雇って品川まで一気に走らせた。ところが途中で漁船に出会い、獲った魚を品川まで運んでくれと頼まれた。本来この押送舟は雷電一行の貸切だったのだが、船賃は受け取らないということで魚を積み込んで、一緒に品川に帰った。こんな風に舟運は日本人の暮らしと文化の伝播に深く結びついていた。
  多摩川を梨の花愛で下りけり
posted by 水牛 at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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