2018年11月12日

俳句日記 (430)


猫の脳ミソ(1)

 チビは我が書斎を自分の住み処と決めている満十三歳の牝猫である。頭から背中全体を通して長い尻尾の先まで真っ黒。頤の下から腹は純白の中々綺麗な姿をしている。親にはぐれたに違いない生まれて間もないチビを、我が家の庭に住み着いていたキタコという半ノラが連れて来て、我が子のように可愛がった。「猫可愛がり」という言葉そのままに、自分の子を亡くしたキタコは自分のおっぱいを飲ませ、四六時中舐め回してチビを育て上げた。
 それなのに、一年ばかりたった2006年春、突然キタコはチビを邪険に扱い始めた。動物の「親離れ子離れ」とはこういうものかということを目の当たりにした。左右パンチを浴びせ、果ては唸り声を上げて噛みつく。チビは金切り声を上げて逃げ回り、玄太という老犬の小屋に逃げ込んだ。玄太は実に優しい気性で、懐に潜り込んできたチビを抱きかかえるように匿った。
 その玄太が2010年1月31日に17歳で死んだ。チビはその後しばらく玄太と共にいた庭の陶芸小屋に住んでいたが、庭全体を自分の領土と心得ている怖いキタコが徘徊している中での一人暮らしに不安を抱いたのだろう、或る日、開けておいた書斎の窓から中に飛び込んで来て、そのまま居座った。以来、此処が自分の生まれ故郷というような顔をしている。
 定位置はパソコン机の下である。ここは床に貼り付けたカーペットの上に、水牛が足乗せにしている座布団が敷いてある。そこを自分の居場所に決めた。退屈するとそこから這い出して、書斎の西側の出窓に坐って外側の石段を上り下りするする人たちを眺める。いわゆる「窓猫」というやつで、表を通る人たちはガラス窓越しに見える狛犬のようなチビを見つけて「あら可愛い」なんて言っている。犬と違って猫はまことに無愛想で、尻尾を振るどころか、ヒゲすら動かさない。そのくせ通りすがる大人子供には興味があるようで、じっと観察している。
 人間観察に飽きると、今度は居間で家計簿なぞ広げている山の神に近寄っては前脚で引っ掻き、ミャアと鳴く。こうすると山の神がマイバスケットで買って来た「猫のおやつ」をくれるのだ。そしてその後ひとしきり、毛布を掛けてくれて、「とんとんとん、とんとんとん」と囃しながら身体を優しく叩いてもらえることが分かっている。
 それが終わると、今度は二階のパトロール。階段の踊り場に置かれた自分用のトイレで悠然と用足しをしてから、二階角部屋の南側の窓かまちにぽんと飛び乗って庭を見下ろす。短いときは5分ほど、長ければ30分も眺めて、次は廊下を奥に進んでベランダに出て日光浴。
 自分の王国巡遊を終えると、また書斎に帰って来て、えさ箱を見る。「カリカリ」と称している主食のキャットフードの小鉢と、水鉢、それに好みの猫缶詰やゼリータイプのおやつを入れる小鉢が並んでいる。まずは「おやつを入れてくれ」とミャアと鳴く。それを瞬く間に食べ終わると、主食のキャットフードの小鉢を覗く。それが空だったり、残り少なくなっていたりすると、またミャアミャアと鳴く。定量の八分目ほど入れてやると、食べはせずに満足したような顔をしてパソコン机の下のねぐらに丸くなる。こうして自分なりに考えた塩梅通りに事が運べば「まんぞくまんぞく」という表情である。少しでも違えると、実に不満そうにミャアミャア鳴き続け、時には前脚でズボンを引っ掻く。
 チビの頭蓋骨は小学生の拳骨くらいの大きさしかない。その中に詰まっている脳味噌は大さじ一杯くらいのものではないだろうか。そんな中に、行動基準から飼い主の様子、表情、気分までを忖度する回路が組み込まれているようなのだ。大したものだなあと感心する。
  小春日のベランダ猫と丸く居り
posted by 水牛 at 21:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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