2018年11月24日

俳句日記 (433)



根津界隈と太田道灌

 室町時代末期の太田道灌という武将に惹かれて、この10年ばかりその事跡を辿ることを続けている。今日、11月24日は文京区の根津神社をスタートに、団子坂の森鴎外・観潮楼跡、吉祥寺、駒込富士神社、六義園などを回った。根津神社は徳川五代将軍綱吉が養嗣子に迎えた六代家宣と共に立派な社殿を造営したのだが、元々は道灌が江戸一帯を領していた豊島氏を亡ぼした文明年代(1480年代)に建てたものである。道灌は豊島氏や江戸氏、千葉氏、吉良氏など関東平野一帯に勢力を張っていた氏族を平らげて行くに際して、地元に古びて忘れ去れたような社殿を建て直し、その地の住民の心を掌握することをした。これが意外な効果を発揮して、攻略する地域にシンパを扶植するという実りも得ることになった。
 室町幕府(京都)にとっては、道灌などという人物は、辺陬の地である東国に下しおかれた鎌倉公方を補佐する関東管領の、その又分家の執事に過ぎない。しかし、文武両道に秀でた道灌は、惰弱に流れた室町末期の、都では応仁の乱が長引き、関東では土豪群雄割拠して戦乱相次ぐ中、天才的な軍略をもって関東一円を席巻した。江戸城を作り、東山道の要である多摩川河畔一帯を抑え、東京湾の品川湊を握り、さらには埼玉の河越城を作って、今日の栃木、群馬、長野への勢力扶植拠点を築いた。もう少しで関東の覇者になれる寸前、あまりにも有能な部下に地位を脅かされるのではと危惧した暗愚な主君に暗殺されてしまった。
 道灌の戦略戦術は当時の常識を飛び越えていた。その当時の「戦」というものは、攻守双方プロの武士がぶつかり合い伐り結ぶ戦闘だったのだが、道灌は戦をする武士の糧食や矢などを運ぶために駆り集められた人足(概ねはその地の百姓)を編成し、竹槍や寄せ集めの武具を割り当てて訓練を施し、「足軽」という戦闘集団に仕立て上げた。この足軽勢を騎馬武者を守るように配置し一軍団を形作って敵勢に突っ込んで行く。これは圧倒的な迫力で敵勢を蹴散らした。この足軽戦法は織田信長はじめ小田原の後北条や豊臣秀吉、武田信玄、徳川家康などが見習って、戦国時代の戦の定法になった。
 これと相俟って効果を発揮したのが、人心収攬である。戦乱で荒廃した寺社を丁寧に再建する。其の地の有力者を氏子総代として、田畑の安穏を保証し、そこに帰依する村民に対する保護を約束する。こういうやり方で地元民の心を集め、さらに、そこに腹心の者を住まわせることによって自己の勢力範囲を広げていった。
 消費税を8%から10%にすることを「何がなんでもやります」と明言したシンゾーさんは、もう一つ自信が持てないのか、金券を配ったり、クレジットカード決済のポイント(割引率)を5%にしようなどと、姑息なことをあれこれ言い出している。しかしこれは人心収攬おろか人心離散の第一歩であることに気が付いていないのではないかと思わざるを得ない。そこが哀れである。そもそも、クレジットカード決済の割引率などは、「民」の主管であり「政・官」が嘴をはさむべき領域ではない。こんなことにまで政府が「補填」という手を差し伸べると、次から次へと際限がなくなってしまう。そういう、全くどうしようもない施政者に、道灌の事跡を少しでも学んで欲しいと思っている。
  道灌の汐見の岡の紅葉映ゆ
posted by 水牛 at 23:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。