2019年04月13日

俳句日記 (479)


難解季語 (16)

ぬけまいり(抜参)

 歳時記には「伊勢参り」の傍題として載っている。親や主人(雇い主)に無断で伊勢参宮に赴くことを言う。江戸中期、「一生に一度は伊勢参りをするものだ」ということが盛んに言われ始め、伊勢参りがブームになった。松尾芭蕉もその例に洩れず、『笈の小文』の旅を終えて故郷の伊賀上野で正月を過ごした元禄元年(1688年)二月、念願の伊勢神宮に参拝した。しかし、当時は僧侶の風体では内宮には入れなかったようで、外宮のみの参拝に終わった。
 伊勢参りは時期を問わず一年中行われるのだが、やはり三月半ばから五月ころまでの気候の良い時期が最も盛んだった。それで「伊勢参」は春の季語となっている。江戸から伊勢神宮まで片道十五日間、大坂からは五日間の旅だった。とにかく大旅行である。贅沢をせずともやはりかなりの費用がかかる。そこで、伊勢参拝を志す人たちが集まって「伊勢講」「太太講(だいだいこう)」という一種の無尽組合を作り、毎月寄り合ってはなにがしかの積立金を出し合う。籤を引いて当たった数人がその積立金を旅行資金として参拝団を作り、伊勢神宮に参り太々神楽(だいだいかぐら)を奉納し、講中の人たちへの記念のお守りはじめ土産の品々を携えて戻る。籤に外れた連中は参拝団の土産話を聞きながら、すぐに来春の計画を練り始める。たとえば30人で講を作り、毎年四月に6人の参拝団を送り出すとしてその費用を割り、事務経費を足したものが掛け金となる。くじ運が悪くてハズレ続けたとしても、五年待てば必ず行ける。江戸時代から昭和後半まで、こうした掛け金を出し合う「無尽」が息長く続いた。こうした「講」とか「無尽組合」が発展したものが信用組合、信用金庫なのだ。
 それはさておき、無尽の掛金も出せない貧乏人や、まだ大人とは認められない丁稚や下女連中はもちろん伊勢講には入れない。しかし、何とかお伊勢参りに出かけたい。そういう連中の中で冒険心に富んだのが密かに誘い合わせ、職場放棄して伊勢に向かった。主人や親は心当たりを探すが、やがてどこからともなく「抜参り」だということが伝わると、「それじゃしょうがない」と放任した。飛び出した方は元より素寒貧、野宿覚悟の旅なのだが、良くしたもので、街道筋の商家や農家の人たちは「抜参り」と知ると飯を食べさせたり、中には土間に筵を敷いて泊まらせ、翌朝は握り飯と小銭を与えて送り出すといったことが普通になった。その内に、抜参りの連中は柄杓を持って歩き、それで沿道の家々から小銭を受け取るようになり、その柄杓が伊勢参りの目印になった。
 江戸時代を通じて「伊勢参り」は年中行事のようになった。慶安三年(1650年)三月中旬から五月にかけて、箱根関所を通過した伊勢参宮の人間が普段の十倍一日平均二千五百人に上ったという記録が残っている。その後も伊勢参りブームはほぼ60年周期で起こった。この現象を「お蔭参り」とも言う。宝永二年(1705年)がその最たるもので、四、五月の二ヵ月間の伊勢神宮参拝者が370万人に上ったという。当時の日本の推定人口は2770万人だから、二ヵ月で370万人の参詣者というのはけたたましい数字である。その後も断続的に伊勢参りブームが起こり、慶応三年(1867)夏には倒幕運動を煽る分子の策略もあったのか、三河の村々に伊勢神宮の御札が降ったのをきっかけに「ええじゃないか」踊りが大流行した。老若男女こぞって「ええじゃないか」と叫び囃しながら踊り狂い、そのまま伊勢へと旅する熱病現象で、この年の冬にかけて「ええじゃないか」が中国、四国、関東、甲信地方にまで広がった。
 明治維新以後も伊勢参りは人気を保ち続けたが、もう「ええじゃないか」の熱病のような参拝道中は見られなくなった。親や雇い主に内緒で抜け出す「抜参」もいつの間にか止んだ。夏休みや年末年始休暇、そして有給休暇制度のある今日では、人目を盗んでの「抜参」など、理解しがたい言葉になってしまった。
  煙草屋の看板娘抜参     酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 21:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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