2019年04月16日

俳句日記 (480)


難解季語 (17)

かと(蝌蚪)

 おたまじゃくしのことを中国語で「蝌蚪(kedou)」と言い、昔の俳人はこの字を書いて和名の「かへるご」(蛙子)と読んでいた。「松」を「まつ」、「鹿」を「しか」と読むのと同じである。しかし、いつのまにか「かへるご」という呼び方が廃れてしまって、「おたまじゃくし」とか「おたま」と呼ばれるようになってしまったために、俳句の世界では問題が生じた。
 「おたまじゃくし」では、それだけで六音もある。また、その形が台所道具のお玉杓子ににているからと名づけた女房言葉のようでもあり、幼児語のような響きがあって、真面目に心境を吐露するような場合にはなんともそぐわない。それやこれや、「おたまじゃくし」ではどうも詠みにくい。というわけで、明治以降の俳人は蝌蚪を「かと」と音読みして使うことが多くなった。今日でもおたまじゃくしの句は「蝌蚪」を使用する例が圧倒的に多い。
 「音読み」というのは、漢字の言葉を発音通りに読んで、日本語に取り入れたものである。現代に当てはめれば、英語を和名に直さずに、例えば「猫餌」を「キャットフード」と現地音に似せた言い方で用いるやり方である。
 しかし俳句をやる人以外は「蝌蚪」という文字を見て即座にオタマジャクシと理解出来る人は少ないだろう。普通の人が理解出来ない言葉を俳句に用いるのは良くないと思う。季語研究の第一人者山本健吉は「(オタマジャクシの蝌蚪を)俳人は『かと』とも音読して用いている。あまり好ましいこととは思えないが、虚子が用い、俳人たちは滔々としてこれに従い、大勢如何とも抗しがたい」と『日本大歳時記』(講談社)の解説で嘆いている。
 ただ、春の使者として魅力的な句材のオタマジャクシを詠みたいと思う俳人はとても多い。その結果、「虚子大先生が詠んでいるのだから」と、「蝌蚪」の大合唱になるのだろう。こうした姿勢が俳句の通俗化、堕落化をもたらすのだが、通俗のぬるま湯に浸って句をものするのも又実に心地がいい。ここが俳句の万人の文芸となると同時に通俗のゴミ溜めともなる所以である。
 しかし、現代俳人たるもの、「蝌蚪」などという世間には通用しない無理な季語とは決別し、なんとかして「おたまじゃくし」で詠みたいものである。
 「蝌蚪」と詠んだ句はとても多い。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水       高浜 虚子
 降りそそぐ雨にかぐろし蝌蚪の陣     高橋淡路女
 川底に蝌蚪の大国ありにけり       村上 鬼城
 蝌蚪うごめくピカソの訃報伝へ来て    山口 青邨
 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水     石田 波郷
 飛び散って蝌蚪の墨痕淋漓たり      野見山朱鳥

 おたまじゃくし進まぬやうに泳ぎをり   酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 11:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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