2019年04月24日

俳句日記 (482)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (1)

 4月21日(日)と22日「月)の一泊二日で、蕪村の生誕地とされる大坂市都島区毛馬町の淀川堤と、昨秋完成した興福寺の中金堂を訪ね、日経文化面の「私の履歴書」に登場した多川俊英貫首に茶を御馳走になって話を聞くという、ずいぶん盛りだくさんな吟行会を行った。日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の共催で、参加者26人の賑やかな催しになった。
 〈春風馬堤散策〉
 与謝蕪村(元は谷口氏を名乗る)は享保元年(1716)に摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の富裕な農家に姉二人の末息子として生まれた(弟子の高井几董の『夜半翁終焉記』)という。しかし、少年時代に両親を亡くし、家運傾き没落、一家離散の憂き目に遭ったらしい。几董の書いたものには少年蕪村は狩野派の絵師について画業に勤しんだとあるから、農家といってもかなりの家だったのであろう。それが一気に没落しただけに、少年蕪村は非常なショックを受けたに違いない。そのせいか、蕪村は後年、有名人になってからも自らの幼少時代や青年期の過ごし方については一切書いたり話したりしていない。僅かに、名作『春風馬堤曲』を著した折に、後援者でもあった弟子に宛てた手紙に「馬堤は毛馬塘也即余が故園也」と書いていることと、愛弟子几董に断片的に述べたものを几董が書き遺したものから、淀川河口近くの毛馬村が生地であることが窺えるのみである。
 少年蕪村は生まれ在所でよほど辛酸を舐めたに違いない。二度と再びこんな処に帰って来るものかと飛び出したようだ。18歳くらいで江戸に出たらしく、毛馬と雰囲気の似た江戸の墨東地区で人足のようなことをしているうちに俳諧師匠の夜半亭早野巴人を知り、22歳の時、巴人の日本橋本石町の住込み門人になることが出来た。有力俳人の内弟子になれたことが蕪村(当時は宰鳥)出世の糸口だった。ここで俳諧の実力を蓄え、画業にも励んだ。巴人没後も北関東に散在する夜半亭一門の有力俳人の支援を受けて宇都宮で宗匠立几、36歳で京都に赴き、画業と俳諧宗匠として大立者になった。
 京都に住んでから死ぬまでの32年間、蕪村は関西各地、四国へ度々出かけているのに、生まれ故郷の淀川河口・毛馬村にはただの一度も足を踏み入れていない。余程の怨念があったに違いない。そのくせ、豊かな幼少時代を過ごした淀川河畔は懐かしい。「帰りたいのに帰れない」そんな心境が、名作『春風馬堤曲』となり、『澱河歌』(澱河とは淀川のこと)となってほとばしり出たのではなかったか。
 そんなことも考えながら、この蕪村生誕地をぜひ一度歩いてみたいという願いがようやく叶った。
 平成最後の4月の毛馬堤は太陽燦々、まことにあっけらかんとしていた。名所も無ければさしたる偉人もいない都島区としては、何がなんでも蕪村を地元出身の偉人にしたいのだろう。昭和40年代になってから、毛馬堤に蕪村碑を拵え、堤防外には「蕪村公園」を作り、淀川神社には蕪村の銅像を造った。3月に開通したJRおおさか東線の「城北公園駅」前のみすぼらしい商店街はなんと「蕪村通り」という看板を掲げていた。なんとしてでも蕪村さんに故郷へお帰り願いたいとの熱誠が込められているようである。
  春の夢蕪村と歩む毛馬堤   酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 23:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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