2019年08月15日

俳句日記 (517)


敗戦忌に思う (1)

 ミーンミーン、ジイジイと蝉の声が辺りを支配していた。それ以外の物音は一切しない、暑くてやり切れない真っ昼間だった。昭和20年8月15日正午、千葉県千葉郡犢橋村柏井字横戸の大百姓ヨコヤマさんの母屋の前庭には、出入りの小作人十数人に混じって、両親、妹弟と私の一家5人が整列して玉音放送に聴き入っていた。女学校二年生の姉は学校の関係などから横浜の親戚に残り、国民学校六年生だった兄は集団疎開で湯河原に居た。
 ラジオはガーガーピーピー雑音がひどく、当時8歳の私には何を言っているのかさっぱり分からなかったが、「シノビガタキヲシノビ、タエガタキヲタエ」と、甲高い声が跳ね上がったり低く沈んだりするにつれ、周りの大人たちが嗚咽を洩らし、やがて大声で泣くのを見て、これはやっぱり戦争に負けたんだと悟った。両手をつないでいた6歳の妹と2歳の弟も私の手をぎゅっと掴んでいたから、異様な雰囲気は感じ取っていたのだろう。
 しかし、直立不動で玉音放送を聞いていた私が、その時に思っていたことは、日本が負けたの勝ったのということではなかった。「今夜、何が食べられるのだろう」ということだった。我が家の米櫃に米はほとんど無く、ヨコヤマさんから分けてもらった新ジャガ(早採り馬鈴薯)が少々あるばかりなのが判っていた。おかずになるものと言えば、取って置きの切干し大根、干椎茸、昆布と丸干鰯がいくつかだけである。今日は大事な臨時放送があるということで、村中のみんなはラジオのある家に集まるようお触れが出ていたので、母と一緒の買い出しに行けないままだったのだ。
 ただ、この買い出しがまた子供心にも辛く響くものだった。コテハシムラというのは今では千葉市何とか区というれっきとした首都圏の一隅だが、当時は山林原野のど田舎だった。印旛沼から引いた細々とした用水を頼りに米を作り、水が十分でない丘の上では麦や芋を作るといった僻村である、そのせいか、極めて人気(じんき)の悪い所であった。「よそもん(余所者)」を全く信用せず、先ずは排除する姿勢である。しかし、東京から僅か30キロ足らずの場所だから、戦争が激しくなるにつれて疎開して来る人間が増える。そういう人種を「そけもん(疎開者)」と言って、まずは遠ざけ、何か良いモノ、例えば着物、洋服、洒落た雑貨、貴金属、アクセサリー、書画骨董などを持って来たソケモンには米や小麦粉、芋などを頒けてくれるのだった。
 この山林原野に亡父の兄、つまり水牛の伯父がアメリカ留学でゴルフキチガイになって大正末に帰国するやゴルフ場を拵えてしまった。成金の父親から巨額を引き出して山林原野を買収し、足りない部分は近隣の大地主から山林を寄託してもらう形で、昭和初年に鷹の台ゴルフ倶楽部を立ち上げた。昭和20年に私たち一家を受け入れた大地主のヨコヤマさんも役に立たない原野を寄託してなにがしかの利益を得た一人であった。兎に角、何も無い僻村に一大観光産業が生まれ、村民はゴルフ場整備、維持作業、キャディ収入などで大いに潤った。乗降客がほとんど無かった京成大和田駅も大いに賑わい、近所にタクシー会社まで生まれた。
 ところが、間もなく日中戦争が始まり、そのまま大東亜戦争になだれ込んでいった。無論、敵性運動競技のゴルフなどもってのほか、昭和15年にはあえなく閉鎖になってしまう。その後には軍国政府による開拓団政策によって、各地からわけの分からない人間が入り込んで、美しいフエアウエーを引っぱがして麦畑や芋畑にしていった。この連中が「御国のため」と称して周辺の昔からの村民にあれこれの悪さをしたのも、戦後の村民の疎開者に対する考えをねじ曲げてしまったところがあるようだ。
 とにかく、そうした荒廃した雰囲気の土地に、横浜大空襲で焼け出されてしまい、着の身着のまま何も知らずに入った我ら一家は哀れなものであった。昔のオーナーである伯父一家こそ何とはなしに奉られてはいたが、その親戚一家など屁でも糞でもなかった。
 母が毎日のようにリュックを背負い買い出しに出かける。小学2年の私が介添えに付き従う。学校はそのころ二部授業で午前の日と午後の日とあったから、付いて行けたのである。もっとも敗戦直後は授業もおざなりで、教科書はどのページも墨で塗りつぶされ、先生も何をどう教えていいか戸惑っていた。つまりは、登校しようがしまいが大したことはなかったのである。
 買い出しには毎回4、5キロは歩いた。こちらが差し出す着物や書画骨董、アクセサリー類などがあるうちは良かったが、元より戦災で焼け出されの我が家にそんな物の沢山あるわけがない。無くなってしまうと、百姓どもの態度ががらりと変わった。「そのイモは豚に食わせるだー、ソケモンにやるもんなんかねえ」とにべもない。「それとも何か、いいモン持って来たかあ、え、きれいなネエちゃんよー」と、薄汚いジジイが嫌な笑い方をする。今考えてみれば、深川小町などと言われていた母は当時35歳、下総の田舎オヤジにはふるいつきたい存在と映ったのかも知れない。母は、私の手を痛いほど握りしめて黙って頭を下げて帰るのだった。
  米とぐや今日は八月十五日
posted by 水牛 at 22:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。