2019年08月17日

俳句日記 (518)


敗戦忌に思う(2) 横浜大空襲

 昭和20年(1945年)5月29日、朝から昼にかけて米軍の爆撃機B29と戦闘機P51の大編隊が押し寄せ、横浜市中心部を火の海にした。この二ヵ月半前3月10日の東京大空襲が、東京の下町を潰滅させ死者10万人という世界の戦史上稀に見る無差別爆撃だったことから、横浜大空襲はその影に隠れた形になっている。しかし、爆撃の規模や米軍の作戦遂行のやり方などからすると、この空襲は大都市を通常兵器でいかに短時間に効率よく消滅せしめる事が出来るかを実験したものとして特徴づけられるものであった。
 まず投入したのが、B29爆撃機517機、P51戦闘機101機で、これは東京大空襲の時の1.5倍である。しかも、東京大空襲は夜間だったのが、横浜はもう日本軍の防空戦力の枯渇を見透かしており、白昼堂々の攻撃だった。後年開示された米軍資料によると、横浜大空襲作戦の攻撃拠点は、東神奈川駅から東横線反町駅に至る周辺、西区平沼橋一帯、中区の横浜市役所から京急黄金町近辺の三個所だった。いずれも商業、住宅地である。つまりは非戦闘員の住む、燃えやすい木造住宅密集地に焼夷弾をばらまき、火の海にしてパニックを起こそうとしたことが明白である。結果はその通りとなり、死者1万人、臨海部の工場はそれまでの空襲で殆ど破壊されていたが、この時の爆撃で僅かに残っていたものも焼き払われた。
 当時、国民学校2年生だった水牛少年は意気軒昂たるものだった。朝から出っぱなしの空襲警報で、小さな国民服に身をつつみ脚にはゲートルを巻き、ズックの肩掛けカバンと水筒を襷掛けにして、庭の隅の防空壕に妹と弟を連れて籠もり、いつでも飛び出せる用意をしていた。やがて、我が家にも耳を聾する落下音と共に爆弾、焼夷弾が降りそそぎ、あたりは見る間に黒煙と炎に包まれ真っ暗になった。両親は懸命にバケツで水をかけている。しかし、業火の勢いは物凄い。母がやって来て、2歳の弟トシオを私の背中に背負い紐で括り付け、5歳の妹マリコに「ミキ兄ちゃんの手をしっかり握っているのよ」と言い聞かせ、私には「なんとかして上の家まで逃げてちょうだい。しっかりね」と言うなり、また燃えさかる家の水掛けに走り戻った。
 上の家とは伯父一家の家である。当時、わが一家は反町駅の西7百メートルほどにある丘陵に横浜ガーデンという小動物園を併設した植物園・花卉販売所を経営しており、山のてっぺんに伯父一家、山の麓の玄関口に当たる所に我が家があった。母は、下町に近い我が家は爆撃されても、森に囲まれた上の家は大丈夫だろうと踏んだのだ。その推測は当たり、我が家は丸焼けになったが、上の家は無傷で、我ら一家はしばらくそこに避難生活を送ることになる。
  ご飯粒噛みしめてをり敗戦忌
posted by 水牛 at 00:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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