2019年12月04日

俳句日記 (555)


難解季語 (47)

薬喰(くすりぐい)

 奈良時代に仏教が入って来て「殺生禁断」の教えが広まるにつれ、従順な日本人は獣肉を食べなくなってしまった。仏教の出元のインドやそれを増幅した古代中国では盛んに獣肉を食していたのだから、何故日本だけが肉食を禁じたのか不思議な話だが、ともかく、江戸時代後半までは普通の人は四つ足は喰わなかった。
 しかし、それはあくまでもタテマエで、朝廷のある京都や将軍家お膝元の江戸はさておき、地方では鹿や猪、狼、兎、狸などを結構食べていたらしい。鯨は魚類と見做されていたから大ぴらに食べられていた。そこで山里で盛んに獲れる猪を「山くぢら」と称して喰った。しかし、多少は後ろめたい気持も抱いたのであろう、これは寒さに立ち向かうための体力づくりですとか、病後の滋養強壮の助けですと言い繕い、「薬喰」という言葉を拵えた。
 しかし1700年代になると、江戸幕府の綱紀もかなり弛み、八代将軍吉宗は武道奨励で鷹狩など狩猟を盛んに行い、鳥獣を捕獲しては喰うこともしたらしい。こうした空気が直ぐに下々に伝わり、宝暦時代(1750年代)には麹町に獣肉を食わせる「ももんじ屋」が出来た。喰わせたのは猪、鹿、狐、狸で、臭味を消すために鉄鍋で葱と一緒に炒り付け、味噌で味付けしたものだったらしい。今のスキヤキやモツ鍋とさして変わらない。
 日頃、野菜と魚ばかりの食生活しかして来なかったのが、ももんじ鍋を食べて、その旨さに驚嘆したのだろう。「薬喰」と称する「ももんじ屋」はあっと言う間に広まった。天保3年(1832)に寺門静軒という売れない儒学者がヤケッパチになったのか、目の当たりにする流行もの、風俗、噂話をなんと漢文で書いた『江戸繁昌記』を出したら、これが大当たり。その中に、「昔は麹町にたった一軒だったももんじ屋が、今では江戸中至る所にある」と書いている。客一人ずつの小さなコンロに鉄鍋を載せ、獣肉と葱を炒り付けながら味噌か醤油で味付けして食べ、値段は「小」が五十文、「大」が二百文。近ごろ人気が出たせいで鰻に匹敵する値段になったとしてある。
 広重の「名所江戸百景」の「びくにはし 雪中」に描かれている「山くじら」屋は現在の八重洲二丁目の外堀にかかっていた比丘尼橋のたもとの店。画面右手には「○やき十三里」とあるから焼き芋屋だろう(切った芋を焼いたのではなく一本丸ごと焼いた焼き芋)。かつぎ売りの汁粉屋らしいのが橋を渡ろうとしてる。この辺は商家が建て込み、こういう店がたくさんあった。比丘尼の装いをした夜鷹が客を引いていたから橋の名前にもなったという。彼女等のお得意さんにとって、寒夜の肉鍋は堪えられないものだっただろう。広重の江戸名所百景が出版されたのは安政4年(1857)。既に安政元年3月には、開国するや否やの回答を求めてペリーが再来航し、幕府は神奈川で日米和親条約を結んでおり、広重のこの絵が絵双紙屋に並んだ安政4年10月には下田に常駐するハリス領事が江戸にやって来て、通商条約締結を談判している。京都は条約勅許を下さず、攘夷派志士たちの動きは活発になり、物情騒然として来たが、江戸の庶民はまだまだ暢気に構え、猪肉をつついておだを上げていた。
 関西地方でも昔から獣肉を食っていたらしく、むしろ関東より早くその種の店があったらしい。天明期(1780年代)の蕪村も「しづしづと五徳居えけり薬喰」「薬喰隣の亭主箸持参」「くすり喰人に語るな鹿ヶ谷」「妻や子の寝顔も見えつ薬喰」「客僧の狸寝入やくすり喰」と五句も詠んでいる。蕪村も肉鍋が好物だったに違いない。
  行く人を皿でまねくや薬食ひ     小林 一茶
  ラヂオより浅間火噴くと薬喰     村山 古郷
  死者のこと山程嘆き薬喰       寺井 谷子
  三合と誓ひしものを薬喰         酒呑洞
posted by 水牛 at 23:04| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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