2019年08月17日

俳句日記 (518)


敗戦忌に思う(2) 横浜大空襲

 昭和20年(1945年)5月29日、朝から昼にかけて米軍の爆撃機B29と戦闘機P51の大編隊が押し寄せ、横浜市中心部を火の海にした。この二ヵ月半前3月10日の東京大空襲が、東京の下町を潰滅させ死者10万人という世界の戦史上稀に見る無差別爆撃だったことから、横浜大空襲はその影に隠れた形になっている。しかし、爆撃の規模や米軍の作戦遂行のやり方などからすると、この空襲は大都市を通常兵器でいかに短時間に効率よく消滅せしめる事が出来るかを実験したものとして特徴づけられるものであった。
 まず投入したのが、B29爆撃機517機、P51戦闘機101機で、これは東京大空襲の時の1.5倍である。しかも、東京大空襲は夜間だったのが、横浜はもう日本軍の防空戦力の枯渇を見透かしており、白昼堂々の攻撃だった。後年開示された米軍資料によると、横浜大空襲作戦の攻撃拠点は、東神奈川駅から東横線反町駅に至る周辺、西区平沼橋一帯、中区の横浜市役所から京急黄金町近辺の三個所だった。いずれも商業、住宅地である。つまりは非戦闘員の住む、燃えやすい木造住宅密集地に焼夷弾をばらまき、火の海にしてパニックを起こそうとしたことが明白である。結果はその通りとなり、死者1万人、臨海部の工場はそれまでの空襲で殆ど破壊されていたが、この時の爆撃で僅かに残っていたものも焼き払われた。
 当時、国民学校2年生だった水牛少年は意気軒昂たるものだった。朝から出っぱなしの空襲警報で、小さな国民服に身をつつみ脚にはゲートルを巻き、ズックの肩掛けカバンと水筒を襷掛けにして、庭の隅の防空壕に妹と弟を連れて籠もり、いつでも飛び出せる用意をしていた。やがて、我が家にも耳を聾する落下音と共に爆弾、焼夷弾が降りそそぎ、あたりは見る間に黒煙と炎に包まれ真っ暗になった。両親は懸命にバケツで水をかけている。しかし、業火の勢いは物凄い。母がやって来て、2歳の弟トシオを私の背中に背負い紐で括り付け、5歳の妹マリコに「ミキ兄ちゃんの手をしっかり握っているのよ」と言い聞かせ、私には「なんとかして上の家まで逃げてちょうだい。しっかりね」と言うなり、また燃えさかる家の水掛けに走り戻った。
 上の家とは伯父一家の家である。当時、わが一家は反町駅の西7百メートルほどにある丘陵に横浜ガーデンという小動物園を併設した植物園・花卉販売所を経営しており、山のてっぺんに伯父一家、山の麓の玄関口に当たる所に我が家があった。母は、下町に近い我が家は爆撃されても、森に囲まれた上の家は大丈夫だろうと踏んだのだ。その推測は当たり、我が家は丸焼けになったが、上の家は無傷で、我ら一家はしばらくそこに避難生活を送ることになる。
  ご飯粒噛みしめてをり敗戦忌
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2019年08月15日

俳句日記 (517)


敗戦忌に思う (1)

 ミーンミーン、ジイジイと蝉の声が辺りを支配していた。それ以外の物音は一切しない、暑くてやり切れない真っ昼間だった。昭和20年8月15日正午、千葉県千葉郡犢橋村柏井字横戸の大百姓ヨコヤマさんの母屋の前庭には、出入りの小作人十数人に混じって、両親、妹弟と私の一家5人が整列して玉音放送に聴き入っていた。女学校二年生の姉は学校の関係などから横浜の親戚に残り、国民学校六年生だった兄は集団疎開で湯河原に居た。
 ラジオはガーガーピーピー雑音がひどく、当時8歳の私には何を言っているのかさっぱり分からなかったが、「シノビガタキヲシノビ、タエガタキヲタエ」と、甲高い声が跳ね上がったり低く沈んだりするにつれ、周りの大人たちが嗚咽を洩らし、やがて大声で泣くのを見て、これはやっぱり戦争に負けたんだと悟った。両手をつないでいた6歳の妹と2歳の弟も私の手をぎゅっと掴んでいたから、異様な雰囲気は感じ取っていたのだろう。
 しかし、直立不動で玉音放送を聞いていた私が、その時に思っていたことは、日本が負けたの勝ったのということではなかった。「今夜、何が食べられるのだろう」ということだった。我が家の米櫃に米はほとんど無く、ヨコヤマさんから分けてもらった新ジャガ(早採り馬鈴薯)が少々あるばかりなのが判っていた。おかずになるものと言えば、取って置きの切干し大根、干椎茸、昆布と丸干鰯がいくつかだけである。今日は大事な臨時放送があるということで、村中のみんなはラジオのある家に集まるようお触れが出ていたので、母と一緒の買い出しに行けないままだったのだ。
 ただ、この買い出しがまた子供心にも辛く響くものだった。コテハシムラというのは今では千葉市何とか区というれっきとした首都圏の一隅だが、当時は山林原野のど田舎だった。印旛沼から引いた細々とした用水を頼りに米を作り、水が十分でない丘の上では麦や芋を作るといった僻村である、そのせいか、極めて人気(じんき)の悪い所であった。「よそもん(余所者)」を全く信用せず、先ずは排除する姿勢である。しかし、東京から僅か30キロ足らずの場所だから、戦争が激しくなるにつれて疎開して来る人間が増える。そういう人種を「そけもん(疎開者)」と言って、まずは遠ざけ、何か良いモノ、例えば着物、洋服、洒落た雑貨、貴金属、アクセサリー、書画骨董などを持って来たソケモンには米や小麦粉、芋などを頒けてくれるのだった。
 この山林原野に亡父の兄、つまり水牛の伯父がアメリカ留学でゴルフキチガイになって大正末に帰国するやゴルフ場を拵えてしまった。成金の父親から巨額を引き出して山林原野を買収し、足りない部分は近隣の大地主から山林を寄託してもらう形で、昭和初年に鷹の台ゴルフ倶楽部を立ち上げた。昭和20年に私たち一家を受け入れた大地主のヨコヤマさんも役に立たない原野を寄託してなにがしかの利益を得た一人であった。兎に角、何も無い僻村に一大観光産業が生まれ、村民はゴルフ場整備、維持作業、キャディ収入などで大いに潤った。乗降客がほとんど無かった京成大和田駅も大いに賑わい、近所にタクシー会社まで生まれた。
 ところが、間もなく日中戦争が始まり、そのまま大東亜戦争になだれ込んでいった。無論、敵性運動競技のゴルフなどもってのほか、昭和15年にはあえなく閉鎖になってしまう。その後には軍国政府による開拓団政策によって、各地からわけの分からない人間が入り込んで、美しいフエアウエーを引っぱがして麦畑や芋畑にしていった。この連中が「御国のため」と称して周辺の昔からの村民にあれこれの悪さをしたのも、戦後の村民の疎開者に対する考えをねじ曲げてしまったところがあるようだ。
 とにかく、そうした荒廃した雰囲気の土地に、横浜大空襲で焼け出されてしまい、着の身着のまま何も知らずに入った我ら一家は哀れなものであった。昔のオーナーである伯父一家こそ何とはなしに奉られてはいたが、その親戚一家など屁でも糞でもなかった。
 母が毎日のようにリュックを背負い買い出しに出かける。小学2年の私が介添えに付き従う。学校はそのころ二部授業で午前の日と午後の日とあったから、付いて行けたのである。もっとも敗戦直後は授業もおざなりで、教科書はどのページも墨で塗りつぶされ、先生も何をどう教えていいか戸惑っていた。つまりは、登校しようがしまいが大したことはなかったのである。
 買い出しには毎回4、5キロは歩いた。こちらが差し出す着物や書画骨董、アクセサリー類などがあるうちは良かったが、元より戦災で焼け出されの我が家にそんな物の沢山あるわけがない。無くなってしまうと、百姓どもの態度ががらりと変わった。「そのイモは豚に食わせるだー、ソケモンにやるもんなんかねえ」とにべもない。「それとも何か、いいモン持って来たかあ、え、きれいなネエちゃんよー」と、薄汚いジジイが嫌な笑い方をする。今考えてみれば、深川小町などと言われていた母は当時35歳、下総の田舎オヤジにはふるいつきたい存在と映ったのかも知れない。母は、私の手を痛いほど握りしめて黙って頭を下げて帰るのだった。
  米とぐや今日は八月十五日
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2019年08月13日

俳句日記 (516)


難解季語 (34)

よばいぼし(夜這星)

 流れ星(流星)のことを昔は「夜這星」と言って面白がった。夜空の一角に突然現れて、あれよと云う間に落下し消えて行く流れ星は、あたかも恋い焦がれた女の所に深夜忍び込んで行く男のようだというのである。
 ずいぶん昔からある言葉で、清少納言が『枕草子』の中で「星はすばる ひこぼし ゆふづつ。よばひ星すこしをかし 尾だになからましかば、まいて」(254段)と書いている。「まして尾っぽなんか引いてゆくんですもの」とおかしがっているところを見ると、清少納言も夜這いの何たるかを十分ご承知だった。まあ、平安時代、男女の世界はかなり開けっぴろげで、昼間、意味ありげな和歌一首を小者に届けさせておけば、女の方も木戸の閂を外して置くといった具合だったらしい。
 三国志の諸葛孔明の死を詠んだ「星落秋風五丈原」をはじめ、流れ星は大昔から「死」「命」と結び付けられてきた。それ故に流れ星を不吉なものとして忌み嫌う向きもあるが、秋の夜空に流星を見つけるのは楽しいものである。ましてやそれが民話の世界に通ずる「夜這い」と結び付けられると、俄然面白くなってくる。
 流れ星というのは彗星が出す数ミリから数センチの小天体(流星物質)が地球の大気に猛スピードで突入した際に発生する発光現象。彗星の軌道と地球の公転軌道が交わる時に流星が沢山現れるようで、毎年お盆の時期になると現れるペルセウス座流星群などによって、晩夏から秋の夜空によく見えるので秋の季語になった。夜になっても蒸し暑い残暑の候、蚊帳を吊っただけの開けっ放しの寝間には夜這星もたやすく入り込めたであろう。

  旅果てのたましひは風夜這星  丸山 海道
  夜這星峡にをろちの深ねむり  角川 源義
  真実は瞬間にあり流れ星    マブソン青眼

  船徳利据えて待つなり夜這星  酒呑洞水牛
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2019年08月11日

俳句日記 (515)


難解季語 (33)

いきみたま(生身魂・生御魂)

 「お盆」は仏教の盂蘭盆の略称で、その盂蘭盆というのも、元はサンスクリット語のullambana(ウランバーナ=倒懸)が語源だ。インドの古代宗教では、死者は生前の罪科を抹消するため冥界で逆さ吊りにされると信じられていたため、現世の子孫たちは先祖が受ける苦悩を慰めるために祭を行った。これが仏教に取入れられ、ウランバーナが漢訳されて「盂蘭盆」となり、やがて日本に伝わった。しかし日本にも古代から先祖を祭る風習はあり、それが仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と結びついて、日本独特の盆行事が形造られるようになった。推古天皇十四年(六〇六年)に盂蘭盆会を行った記録が残っているというから、古い。
 現代日本にはお盆が年に三回ある。一つは明治五年の改暦によって施行された新暦(太陽暦)に昔の行事の日取りを機械的に移してしまうやり方である。首都東京はじめ関東各県はこの新暦方式に従った。一月一日は元日、七月七日は七夕という具合で、お盆もそのまま七月十五日とした。とてもすっきりとして分かり易い。しかし、元日は寒の最中でとても「賀春」の雰囲気ではないし、七夕やお盆は梅雨の真っ只中ということになってしまう。
 そこで、旧暦行事を単純に一ヵ月ずらして行う「月遅れ」という方法が取り入れられるようになり、地方ではお盆も「月遅れ盆」で行う所が多くなった。これだと季節のズレをある程度カバーできる。これが現今の会社社会の夏休みと重なり、八月十五日を中心とした帰省ラッシュを起こしている。このサラリーマン社会の夏期休暇制度とくっついて、「月遅れ盆」がもっとも盛んなようだ。
 ところが伝統行事は旧暦で行うという頑固な所も残っている。盆行事も旧暦七月十五日に行う「旧盆」である。しかし、旧暦では日取りが毎年ずれてしまう。例えば平成29年(2017年)の旧暦七月十五日はなんと九月五日にずれ込んだ。これは旧暦の季節調整手段として、この年の五月を普通の五月と閏五月の二回やったために生じた大幅なずれである。しかしこの調整のおかげで30年は八月二十五日が旧七月十五日となり、令和元年の今年は八月十五日が旧暦の七月十五日ということになった。「旧盆」と「月遅れ盆」が重なった珍しい年である。
 新暦・旧暦と由緒ある行事との季節調整の難しさは、俳句作法にもいろいろな問題をもたらしている。現代俳句界はこの暦と季節とのずれをどう克服するかの葛藤に疲れて、季語もいらぬ、575もいらぬとヤケを起こしたような人も出て来て、新傾向俳句とか無季自由律俳句などというものが生まれた。
 さてここでようやく、今回の表題である古色蒼然たる「いきみたま」という難解季語の話が始まる。しかし、さしたる事は無い。始まればすぐに終わる。
 生身魂とは「生きている魂」すなわち死に損ないのボケ老人のことを、やんわりと真綿にくるんで奉ったものである。お盆というものは元より代々のご先祖様、近年亡くなった身内の霊を慰めようとのお祀りなのだが、室町時代末期(十六世紀末)頃から、一族の最長老を「生身魂」として、お盆の最中に会食の首座に据えて御馳走したり贈り物を捧げたりして祝うことをするようになった。さらに親戚の最長老、仕事先の親方、仲人など、目上の人に贈り物をする習慣も生まれた。これが中元の贈答の始まりという説もある。
 「人生五〇年」とは昭和前半時代まで言われてきた言葉である。さらに還暦と言って十干十二支の自分の生まれ年と同じ卦、例えば甲子(きのえね)とか丁丑(ひのとうし)とかの同じものは六十年で巡って来る。すなわち六〇年生き長らえたことになり、平均寿命より十年も生き長らえて目出度きこと限り無しと、子どもたちや親戚が赤いちゃんちゃんこを着せて赤い頭巾をかぶらせて祝った。七十歳まで生き永らえれば「古来稀なり」ということになる。正岡子規に「生身魂七十と申し達者なり」という句がある。明治二、三十年代には七十歳台というのは本当に崇め奉るべき存在だったのだ。
 いまや様変わり。句会などは生身魂のオンパレードである。

  生身玉やがて我等も菰の上       小林 一茶
  古里にふたりそろひて生身魂      阿波野畝
  奥の間に声おとろへず生身魂      鷲谷七菜子

  生身魂とも見做されず吞んで居る    酒呑洞水牛
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2019年08月07日

俳句日記 (514)


難解季語 (32)

はしい(端居)

 夏の夕方、日が落ちて少し涼しい風が吹いてきた頃合い、温気のこもった室内を出て縁先にくつろぐのを端居と言う。座敷の真ん中に大の字になったりするのではなく、縁側の端で閑かに涼むといった感じである。しかし、エアコンの行き渡った昨今、こうした情趣はすっかり忘れられてしまった。そもそも縁側の無い家が多くなっているし、申し訳程度についたバルコニーなどに出ようものなら、手の届きそうな所にある隣家のエアコン屋外機からぶうぶうと熱風が吹いて来て、くつろぐどころではない。
 そう言えば「温気」などという言葉も最近はすっかり耳にしなくなった。「うんき」と正しく読める人も少ないかも知れない。こうして日本語は徐々に語彙を減らして行き、それに代わってカタカナ言葉がこれでもかとばかりに入り込んで来る。
 日本列島は北海道を別にしておおむね湿潤温暖であり、植物の生育には好条件がそろっている。従ってそれを食べる昆虫や微生物が大量に湧き出し、それらを捕食して鳥獣が育ち大いに繁殖して、人間の暮らしも豊かになる。そこまではいいのだが、夏の蒸し暑さだけはどうにもやりきれない。
 寒さはなんとかなる。零下二〇度などというのは論外だが、大概の寒さなら穴ぐらや掘っ立て小屋や、風除けをほどこした場所にうずくまって、稻藁をかぶったり、毛皮なり布切れを重ね着すればしのげる。ところが暑さだけはどうにもならない。炎天下で直射日光を浴び続ければ日射病を起こすから、屋内に引っ込む。すると湿度が高い日本ではたちまち温気がこもり、パンツ一枚というところまで脱ぎ去ってもまだ暑い。あの謹厳実直な兼好法師でさえ、夏場の蒸し暑さにはよほど閉口したのであろう、「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は堪え難き事なり」(『徒然草』第五十五段)とぼやいている。
 そんなところから「端居」が生きて来る。おじいさん、おばあさんはもとより、時には夕餉の仕度前のちょっと手すきの主婦が冷やし麦茶などを飲みながらほっと一息入れたりする。江戸時代から明治、大正、昭和までずっと続いてきた夏の暮らしの一コマであった。
 縁先で涼むご隠居が仕事仕舞いの庭師をねぎらい、近くに呼び寄せる。「ご苦労さん、植木屋さんまあ一杯おやり」と、自分が飲んでいる柳蔭をすすめる。「ヤナギカゲ」とは焼酎を味醂と水で割り井戸に吊すなどして冷やした納涼の酒である。「ところで植木屋さん、ナはおやりか」「へ?」「いやいや、青菜のお浸しだよ。ああ、奥や(ぽんぽんと手を打つ)、植木屋さんに菜をお上げ」「旦那様、鞍馬より牛若丸が出でましてそのナをくろうほうがん・・」「おおそうか、それじゃ義経にしておきなさい」。眼を白黒させた植木屋の八っあん、我が家に戻って女房と熊公相手にドタバタを演じ「それじゃ弁慶にしておけ」とオチがつく、お馴染みの古典落語の発端も「端居」である。
 現代は誰も彼もが忙しく、また忙しくしていなければいたたまれない気持に駈られて、「何もしないでくつろぐ」ことがめっきり減ってしまったようである。一人でも多くの人が「端居の効用」を思い出せば、世の中ずいぶん落ち着きを取り戻すように思う。

  ゆふべ見し人また端居してゐたり     前田 普羅
  端居してただ居る父の恐ろしき      高野 素十
  娘を呼べば猫が来たりし端居かな     五十嵐播水

  大丈夫か声かけらるる端居かな      酒呑洞水牛
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2019年08月05日

俳句日記 (513)


難解季語 (31)

むしおくり(虫送り)

 今は農薬が普及したから稲作も害虫の心配をほとんどせずに済むようになった。しかし、一九〇〇年代半ばまでは大変だった。田圃の害虫の代表的なのは、大きなものではイナゴ、バッタ、小さなものにはウンカ、ズイムシ等がある。農家はその駆除に大変な苦労をした。ウンカは漢字で浮塵子と書くように、小さな虫で大群が発生、稲に取り付くと口吻(口先の針)を茎や折角実った稲に突き刺して汁を吸い取ってしまう。ズイムシはニカメイガ(二化螟蛾)という蛾の幼虫で、この蛾が飛んできて稲に卵を産み付けると、それが孵って茎の芯を食い漁り養分を吸い取って最後には稲そのものを枯らしてしまう、とんでもなく厄介な虫だ。
 せっかく植えた稲が育ち、初夏の風にそよぎ始めるや、こうした害虫が一斉に蠢き出す。草取りと一緒に、虫取りもせねばならぬ。しかし、人力ではとても取り尽くせない。虫害のひどい年には村中の収穫半減といった存亡の危機に陥ることすらあった。
 そんな時、燕がせっせと害虫を捕食してくれるので、燕は農家にとって無くてはならない益鳥として崇め奉られた。「燕が巣をかけた家は富む」という言い伝えが全国隈無く広まったのも、元は稲の虫害防除に力があったからである。
 しかし燕だけに頼って何もしないでは居られない。夏場から収穫期の秋まで親子総出でせっせと稲の虫取りに精出すが、はかが行かない。ということで神頼み。村中こぞって「虫送り」という祈念行事をした。藁で稲虫人形を作り、それを大勢で担ぎ、煙を上げる松明をかざし、鉦や太鼓を叩きながら「虫送り、虫送り」と大声で囃しながら田圃を回り、村はずれの川に藁人形を流して、「もう虫が来ませんように」と神に祈る。
 「虫送り」を「実盛送り」ということもある。この実盛は、芭蕉が『奥の細道』の旅で小松(石川県)に行った際に多太神社で詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」の平家の老将斉藤別当実盛である。実盛は最初は源義朝に仕えていたが、義朝滅亡後、平宗盛に従った。源義仲(木曽義仲)追討令に従って寿永二年(1183年)北国進攻に従軍、故郷に錦を飾るべく昔義朝から授けられた兜と直垂に身を包み、七十三歳の白髪頭を染めて奮戦した。しかし、敢闘空しく義仲の若き郎党に首掻切られた。義仲は二歳の時、父義賢が討たれた時に実盛が助けてくれた恩を忘れず、実盛を丁重に葬り、実盛着用の兜直垂を多太神社に奉納した。このいきさつは謡曲『実盛』に脚色されて伝わり、芭蕉もよく知っていたのであろう、木曽義仲が大好きだった芭蕉は、多太神社でぜひ実盛の兜を見たいと思っていたようだ。
 話が横道にそれたが、「実盛送り」の伝説とは、実盛が討たれたのは奮戦中に乗馬が稲株につまづいて転んだからで、実盛はいまはの際に「稲株が無ければこんな不覚は取らなかった。死後は稲虫となって未来永劫、稲を食い尽くしてやる」と呪ったというのである。農民にとってはなんとも迷惑な話だが、稲虫は「実盛虫」とも呼ばれるようになり、藁人形を「実盛人形」と呼んで、怨霊を鎮め、川に送るようになったのだという。
 「虫送り」などと言うと、今どきの人たちは子どもたちの「虫取り」(昆虫採集)と似たような、のどかな行事と勘違いする。試しに周囲の誰彼に聞いてご覧なさい。果たして正解は何分の一あるだろうか。

  猶も田に螢はのこせ虫送り     横井 也有
  虫送る夜や先に立つ鳴子引     加舎 白雄
  虫送る松明森にかくれけり     正岡 子規
  狩野川に沿うてのぼるや虫送り   高浜 虚子
  実盛虫送りし月の瀬鳴りかな    宮岡 計次

   横浜市指定無形民俗文化財南山田虫送り
  宅地化に空缶たいまつ虫送り    酒呑洞水牛
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2019年08月04日

俳句日記 (512)


番町喜楽会第164回例会があった

 8月3日(土)午後6時から九段下の千代田区生涯学習センターで番町喜楽会の定例句会が開かれた。出席15人、投句参加5人で、兼題「夏の果」「冷奴」と雑詠含め投句5句、選句6句で句会を行った。なかなかの句が多くて、選句の票が分散し、最高点が5点で玉田春陽子の「釣堀の疲れし水や夏の果」の一句のみ。次席4点は「ふぞろいの踵の減りや夏の果 水馬」「湧水に踊るトマトや奥会津 春陽子」「折紙に凝りて真夏を閉じこもる 而云」「尻もちで蟻と出会ふや一歳児 百子」の4句だった。そして、続く3点がなんと13句も出た。
 今回の水牛句はいいところ無しで、以下の如き惨状を呈した。
  行く夏や下足番居る桜鍋    (1点)
  揉海苔もおまけにのせて冷奴  (1点)
  変人しか佳句は詠めぬか冷奴  (1点)
  スリッパの重く湿りて梅雨長し
  猫の首つかむ電撃夏競馬
 後から読み返せば、どれも取り柄の無いものばかりで、この得点も宜なる哉である。
 今夜の句会で水牛が◎を付けた6句は、上記の「ふぞろいの踵」の他、
  摘みつくすブラックベリー夏の果     澤井 二堂
  夫婦して遊び呆けて冷奴         田中 白山
  網戸新調夕べの風を待ちにけり      山口斗詩子
  青栗の毬きらきらと雨上がり       谷川 水馬
  屋号映ゆ下足札手に夏座敷        廣田 可升
の5句である。
 句会を終え、いつものように大衆割烹「味よし」へ行き、野田冷峰の全快と句文集『独耕』出版に乾杯した。その後、恒例の水牛の全句評「結構ですなあ」を開陳し、「真澄」の純米吟醸の一升瓶と芋焼酎を楽しんだ。
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2019年08月01日

俳句日記 (511)


難解季語 (30)

よすすぎ(夜濯)

 夜の洗濯を「夜濯」と言って、夏の季語としている。江戸時代から昭和の初め頃までは、所によって「亡くなった人の着物を洗うのは夜」とする習慣があったり、「夜濯ぎすると赤子の夜泣きが止まらなくなる」という言い伝えがあったりで、夜濯が嫌われたりもした。しかし、女性も外へ出て働くことが多くなると、そんなことに構ってはいられない。勤めから帰っての洗濯だから当然夜になる。時には深夜じゃぶじゃぶやったりする。近ごろの若い夫婦は「自分のものは自分で洗う」ことに決めて、互いに夜中に洗濯したりしている。もっとも今は全自動洗濯機だから、昔ほどの苦労は無い。
 とにかく近ごろの「夜濯」は夏に限らず一年中のことなのだが、伝統を尊ぶ俳人たちは「夏」のものと決めている。なぜ夜濯が夏の季語になったのかと言えば、やはり夏場に盛んに行われていたからである。というより、猛暑の候は夜濯せざるを得ない事情があった。
 江戸の昔はもちろん、戦中戦後間もなくの昭和三十年代初め頃まで、衣料品は高価で貴重品だった。庶民は一重の着物、浴衣、あるいはワンピース、ブラウス、それに下着類それぞれ一、二枚しか持っていなかった。下町の長屋の住民には一枚しか無い「着た切り雀」も珍しく無かった。そうなると夏場は大変だ。昼間の労働で下着は汗をたっぷり吸い込んでいる。これを翌朝また着込んで行くのは気分が悪い。こうなると、夜濯は縁起悪いなどという言い伝えはいつの間にか忘れられ、井戸端で肌着と褌を毎晩洗う。翌朝にはすっかり乾いているという寸法だ。かくて「夜濯」が夏場の風物詩とされるようになった。
 「夜濯」は私たちも日常よくやっているし、字面が難しいわけでもないから、「難解季語」の仲間に入れるには異論がありそうだ。確かにこれ自体は難解ではないが、「なぜ夏の季語にせねばならないのか」との疑問を抱く人がとても多いので取り上げた。
   夜濯にありあふものをまとひけり     森川 曉水
   夜濯の更け来し水の澄みわたり      中村 汀女
   はや寝落つ夜濯の手のシャボンの香    森  澄雄
       *       *       *
 令和元年の梅雨は異常に長く、関東地方の梅雨明けは七月二十九日になり、平年と比べて八日、前年より一ヵ月も遅かった。梅雨の間はじめじめと、妙に薄ら寒い日すらあったのに、明けた途端、三〇度を越す猛暑。俄然、夜濯が目立つようになった。昔と違って、誰もがシャツや下着などダースで数えるくらい持っているのだろうが、汗になったものを置いておくのを嫌うからなのだろう。
 水牛も昨日、夜濯をした。昼間も暇なのだから何も夜になってから洗濯なぞしなくてもいいのだが、昼間は暑くて何もやりたくないから夜になってやったのである。日常着ているシャツや下着は山の神が洗濯してくれるが、家庭菜園の仕事着や靴下は泥だらけになっているから、普通の洗濯物と一緒には洗えない。そこで、畑仕事の衣類は一ヵ月分溜めておいて、仕事部屋に置いてある洗濯機で洗うことにしている。
 この洗濯機は平成二十一年に白寿で亡くなった母がまだぴんしゃんしていて、掃除洗濯を自分でやっていた頃に買ったものだ。三菱電機の「ママ思い4.3」という愛称ラベルがついている。もう二十年以上使っている。二槽式で洗う時間を5分、10分というように手動ネジ式のタイマーをセットする。時間が来るとジーッと物凄い音で知らせてくれるから、外で何か別の仕事をしていても分かる。10分にセットして2回洗う。この間、裏庭の雑草抜きや片付けをした。
 濯ぎが終わったら脱水槽に突っ込んでタイマーをセットすればいいのだが、脱水槽の中に洗濯物の重さが平均に掛かるように入れないといけない。いい加減に入れて、もし重さが偏っていると、回転し始めた途端にがたがたっと揺れ、洗濯機全体が震度6の強震にあったようにガタンガタンと踊り出す。それを知らずに、初めてこれを使った時に、踊り出した洗濯機を押さえ込もうと、タイマーの切れる三分間、全体重を掛けて必死に押さえ込んだ。止まった時には汗だらだら。目まいがして、半日ほど手足が震え続けているような感じだった。
 だからズボンなどを入れる時には大蛇がとぐろを巻くように慎重に納め、隙間に靴下など入れて、荷重を平均化する。慣れてしまえば何と言うこともないが、結構時間はかかる。ざっと1時間でズボン2本、綿ネル長袖シャツ1枚、長袖スポーツシャツ1枚、靴下12足、タオル5枚を洗って干した。
 八朔の今日、洗濯物はきれいに干し上がっていた。めでたし。
   八朔の洗濯物の白さかな     酒呑洞水牛
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2019年07月27日

俳句日記 (510)


難解季語 (29)

さんぷく(三伏)

 古代中国に生まれた「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」という哲理がある。まず、万物は陰と陽との二気によって生じるという考えである。太陽は陽・月は陰、天は陽・地は陰、男は陽・女は陰というように、あらゆるものが陰と陽との対で存在し、各々が組み合わさる事によって新たな物が生まれるとする。
 これに「五行」という五つの元素がからまる。その五元素とは木・火・土・金・水で、それらが循環し、複雑に組み合わさって全ての物が出来上がる。木から火が発し、火が燃えて土を生じ、土の中から金が生まれ、金(鉱物)から水が滲み出て来る。そして水によって木が生い育つ。この循環を「相生(そうしょう)」と言う。そして木は土に勝ち(剋)、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つ。これを「相剋(そうこく)」と言う。世の中全て、相生と相剋のしがらみで千変万化の事象を生ずる。
 男(陽)と女(陰)の組み合わせも相生合すれば良き配合となり、相剋ならば波乱が絶えない。と言うように、全て物事はこの陰と陽、木火土金水の五行の配合によって千変万化する。「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」を極めて大雑把に言えば、こんなところである。
 盛夏の候を言う「三伏(さんぷく)」という言葉(季語)も、この陰陽五行説から出た言葉である。
 近ごろはほとんど見られなくなったが、昔は手紙の書き出しの決まり文句として「三伏の候益々御清栄の段お喜び申し上げます」といった文言があった。そう書いている人のほとんどが「三伏」とは何なのか正確には分からなかったようだが、夏場の真っ盛りの手紙はそう書くものだと思い込まされていたのである。
 それはさておき三伏とは、上に述べた五行の「火は金に剋つ」から来ている。秋の象徴である「金」の気が兆しているのだが、夏の「火」に圧伏されている状況を言い、夏至を過ぎて三番目の庚(かのえ=金の兄)の日を「初伏」、四番目の庚の日を「中伏」、立秋を過ぎて最初の庚の日を「末伏」とし、この三十日間を合わせて「三伏」と言う。三伏の期間中には夏の土用(立秋前の十八日間)も大書も立秋も入ってしまう。つまり、一年で最も暑い時期に当たる。
 だから、江戸時代から昭和時代まではこの三伏を乗り切れずに死んでしまう人が多かった。というわけで上記のような夏の手紙の決まり文句が生まれた。そして、元気に三伏を乗り切れたらいよいよ本格的な秋の到来で、「金秋」「錦秋」「白秋」などという言葉で秋を寿ぐ。秋は五行で言えば「金」に当たり、色彩で言えば「白」、紅葉の時節になるので「錦」といった言葉でこの気分爽快な季節を飾った。

  三伏の夕べの星のともりけり     吉岡禅寺洞
  三伏や提げて重たき油鍋       鈴木真砂女
  捨畑の桑真青に初伏かな       木村 蕪城
  ぶつくさと声中伏の後架より     茨木 和生
  末伏の琴きんきんと鳴りにけり    長谷川かな女

  三伏の青鷺一本足の行        酒呑洞水牛
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2019年07月23日

俳句日記 (509)


難解季語 (28)

はらあて(腹当)

 これも近ごろ全く見なくなった物であろう。昔、二歳から五歳くらいの男児は、夏になるとすっぽんぽんの裸かパンツ一枚で、お腹に「金」という字や鯉や虎など威勢の良い絵柄を描いた菱形や長四角の布地に紐をつけ首から吊し、胴の部分の紐を背中に回して締めていた。時には女の子もこの腹当姿で元気に走り回っていた。昭和四〇年代までは東京の下町でよく見た情景で、夏の幼児の定番スタイルであった。
 「腹掛(はらがけ)」とも呼ばれていたが、元々の腹掛は職人のユニフォームのようなもので、厚手の紺の木綿地で胸から腹までを覆い、背中は共布で作った細帯を斜め十文字に交叉して締めた下着の一種である。職人や担ぎ商いの商人はこれを素肌に着て、その上から法被を羽織る。腹掛の腹の部分には大きなポケット(隠し)がついていて、そこに財布や煙草入れをしまっていた。これは「丼(どんぶり)」とも言い、担ぎ商いの魚屋、豆腐屋などは客から受け取った小銭をここへ無造作に突っ込んでいた。「丼勘定」というのはここから出た言葉である。とにかく腹掛けの下は褌一丁。これ以上風通しの良いモノは無いというファッションだった。
 幼児の「腹当」も原理は同じで、熱さを凌ぎつつ、大事な腹は冷やさないようにという、長年の経験から編み出された子供服であった。ことに大昔は乳幼児死亡率が高く、それも下痢、食中毒が原因となることが多かった。そして、それは腹を冷やすことによって起こると思われていたから、腹当が必需品とされたのである。
 腹当の図柄は赤い布に黒あるいは金字で「金」と大書したものが定番だった。赤(朱色)は邪気を払う霊力を持っていると信じられていたので、こういうものに盛んに使われた。「金」の字はもちろん豪勇無双坂田金時の幼名「金太郎」にあやかろうというものである。そこで、腹当のことを「キンタロサン」とも呼んだ。
 今や各家庭にエアコンが常備され、真夏でも素っ裸の男の子を見ることがなくなった。昼間は半ズボンにシャツ、夜は洒落たパジャマを着せられたりしている。今どきのお母さんは、もう子供の「寝冷え」などは怖くないようだ。
 そう言えば、同じく寝冷え予防の「腹巻」も、最近は見る事がほとんど無くなった。と思ったら、つい先日、スーパーの衣料雑貨売場に大人用の腹巻が山と積まれ売られていた。エアコンが効きすぎて、大人特に高齢者が寝冷えして体調を崩すことが多いらしく、「腹巻は無いかとおっしゃるお客さんが結構増えてるんですよ」と、腹巻を二重に巻いたような中年女性店員が説明してくれた。

  腹当や男のやうな女の子      景山 筍吉
  腹当の児やよく泣いてよく太り   沢野 藤子

  腹当の子どもに還る卒寿かな    酒呑洞水牛
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2019年07月18日

俳句日記 (508)


日経俳句会第180回例会
36人参加「七月」「夏木立」を詠む

 7月17日夜、日経俳句会の7月例会が開かれた。出席18人、投句参加18人とちょうど半々。今回の兼題は「七月」と「夏木立」。参加36人からの投句総数は105句。6句選で句会を行った結果、いつもは世の中を斜交いに見た句や悪フザケの句ばかり出す杉山三薬が「右木曽路左伊那谷夏木立」という至極まともで味のある句を出して、12点という圧倒的人気を集め、血圧一気に上がるような喜びようだった。水牛も好調を持続、「七月やぐいと割ったる日記帳」で9点も貰った。この夜の兼題別高得点句(3点以上)は以下の通りだった。
「七月」
 七月やぐいと割ったる日記帳     大澤 水牛
 七月の川濁流を海に吐く       中村 迷哲
 七月や帽子揃へて母娘        石 昌魚
 七月の湿り旧家の養蚕場       廣上 正市
 七月の火口の池の碧さかな      大下 綾子
 七月やめだかの家族どっと増え    澤井 二堂
 七月や出国ロビーの華やぐ夜     向井 ゆり
「夏木立」
 右木曽路左伊那谷夏木立       杉山 三薬
 ページ繰る小さき風あり夏木立    水口 弥生
 オルガンにはじまる礼拝夏木立    大下 綾子
 夏木立斜光のなかにマリア像     野田 冷峰
 県道に大手広げて夏木立       今泉 而云
 夏木立抜けて寿福寺虚子の墓     堤 てる夫
「当季雑詠」
 採血に夏痩せの腕そっと出し     岡田 鷹洋
 青梅を煮詰めて母の整腸剤      井 百子
界隈という文字が好き梅雨晴間    杉山 三薬
 口ひらく食虫植物夏ふかし      星川 水兎
雨烟る墓石の脇の百日紅       加藤 明生
 甚平や鏡の中に父の顔        石 昌魚
 ブルースをただ聴き続け夏の夜    橋ヲブラダ
 百日紅散りて真昼のアスファルト   中嶋 阿猿
 はまなすや指呼の国後島(くなしり)茫とあり廣上 正市
 来客の使ふ絵扇京の風        水口 弥生
 手花火の燃え殻あつめ朝の庭     向井 ゆり
夏の宴分家の嫁の気働き       植村 博明
  末生りは泥にまみれて瓜畑      大倉悌志郎
  万緑やヨガの少女の四肢伸びる    徳永 木葉
  父さんにハモニカ習った夏の庭    中沢 豆乳
 水牛の選句6句は、上記の「七月の川濁流を」「青梅を煮詰めて」「界隈という文字が好き」「口ひらく食虫植物」の4句と、
  七月やめだかの家族どっと増え    澤井 二堂
  海渡り来し孫三人夏休み       堤 てる夫
の2句だった。雲霞のごとく湧き出るメダカの子はいかにも七月らしい。もう一つの句は、海外赴任の息子か娘の子供たち、普段なかなか会えない孫が夏休みで帰って来た。「海渡り来し」と上7の字余りにして、「三人の孫夏休み」とした方がいいかなとも思ったが、とにかく気も漫ろのジイチャンの感じがよく現れている。
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2019年07月14日

俳句日記 (507)


第141回酔吟会は「梅雨明」と「梅干」
なんと天地人取って有頂天

 7月13日(土)午後1時から神田鎌倉橋交差点そばのビルの8階で酔吟会例会が開かれた。他の句会は参加者多数のために「事前投句・選句」で句会当日は選句披講・合評会だけという簡略版になっている。しかし、酔吟会だけは「土曜昼間に開催、ゆっくり時間をかける」「会場に来て短冊5枚に句を書いて投句・参会者で手分けしてC記・選句・披講・合評会」という昔ながらの手順を踏んでいる。忙しい時代に敢えて逆らって、のんびりやろうではないかと粋がっているのである。
 句会開催回数は日経俳句会の通算180回、番町喜楽会の163回に追い越され、今回が141回目だが、他の二句会が毎月開催であるのに対して、こちらは二ヵ月に一度の開催だから、三つの中では一番の老舗だ。そんなことも「旧式墨守」の理由の一つである。
 しかし、句会の顔ぶれはかなり変わった。平成8年(1996年)春の発足時メンバーは11人だったのだが、その内6人が三途の川を渡ってしまい、1人はもう仙界に遊ぶ境地で俳句を作らない。今では涸魚さんというかなり以前から仙人的ではあるが若い連中と下界に遊ぶことを好む米寿翁を含め、発足メンバーは4人になってしまった。その代わり、この旧態依然たる句会が返って面白いじゃないかというのだろうか、続々と若い参加者が増えた。今やすっかり若返った21人の、むしろ発足時よりぐんと強固な骨格の句会になった。
 この日は水牛が自慢の梅干と梅酒と梅酢、かりん酒、それに手製の湯呑とぐい呑をカートに満載してガラガラ引いて行き、参会者の好みも聞かばこそ、押し付けた。比較的最近入った妙齢の会員数人が「水牛さんの梅酒美味しい」「娘が二歳のころから梅干好きなので、ぜひ下さい」などと嬉しいことを言ってくれるので、駅の階段を死に物狂いで担ぎ上げ、担ぎ下ろして運んだのである。
 このワイロが効いたに違いない、何と近ごろ鳴かず飛ばずの水牛が最高点(5点)、次席4点と三席3点を取ってしまったのである。「こうなったら、毎回運んで来るぞー」と、句会後の懇親会でぐいぐいやりながら気炎を上げた。このところすっかり上品になっていた句会に、久しぶりに発足時の「酔って吟ずる」乱暴な空気が流れた。この日の高点句は以下の通り。
 『梅雨明』梅雨明や五ミリの蜘蛛が背伸びする   水 牛
      梅雨明けや襁褓の一歳スクワット    光 迷
      滔々と坂東太郎梅雨明くる       水 牛
 『梅 干』梅干の漬かりゆくなり雨の音      水 牛
      梅干に浮かぶ戦後の日々のあり     涸 魚
      梅干の種もてあそぶ舌の上       而 云
 『雑 詠』夏燕奔放に切る蒼い空         静 舟
      玄関に居間に客間に花菖蒲       春陽子

 この他に水牛が良いと思って選んだのは以下の7句。
      殻を捨て蝶旅立つや梅雨あがる     静 舟
      煮魚は梅干し入れて父の味       十三妹
      干し終へし笊に名残の梅の赤      双 歩
      梅干しや夢の出どこを考へる      水 兎
      坂ながき町に住みたり時計草      水 兎
      にぎやかに足湯の家族夏木立      百 子
      雨乞の別所温泉幟立つ         てる夫
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2019年07月11日

俳句日記 (506)


番町喜楽会7月例会のこと

 何やかや仕事が立て込んで、7月1日に行われた番町喜楽会(通算163回)のことを書くのを忘れていた。奇数月の番喜会は月曜日の夕方と決まっている。いつものように九段下の千代田区立生涯学習館に14人が集まり、欠席投句7人の句も合わせて投句総数は102句。今回の兼題は「夏の山」と「心太」。投句5句・選句6句で句会を進めた結果、堤てる夫さんの「梅雨の雲すっぽりかぶる信濃かな」と、廣田可升さんの「すぐ詫びる男の狡さ桜桃忌」がともに6点でトップを分け合った。次席は4点句で、徳永木葉さんの「ところてん酢の香にむせる初デート」と、中村迷哲さんの「稜線に原色の列夏の山」の二つだった。
 この他、良いと思って採った句は、
   夏山に飼葉刈りをり明日は競り   谷川 水馬
   夕闇をゆるり取り込む夏の山    山口斗詩子
   忽然と岬あらはる夏の尾根     廣田 可升
   女五人男ひとりの心太       星川 水兎
   お富士さん六メートルの山開き   塩田 命水
 水牛句は今回も鳴かず飛ばずで、
   蒸しますねなどと言ひ合ひ心太
 が、3点もらってやれやれという所だった。このところどうも気持がふわふわしていて、じっくり句を作るような落ち着きに欠けている。
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2019年07月06日

俳句日記 (505)

蓮始華

 庭の東南隅に置いてある大甕の蓮が今年初めて花開いた。純白の清楚な蓮。とても嬉しい。
 この蓮は6年前、堤てる夫・百子夫妻の上田邸に初めてお邪魔した時に案内してもらった信濃国分寺の蓮池で拾ったハチス(蜂巣)から取った実を蒔いたものだ。二年目に小さく芽生え、年々大きい茎葉になっていた。今春は去年よりさらに大きな葉を出したので、もしかしたらと思っていたら、6月下旬にするすると花茎を伸ばし、先端に擬宝珠形の蕾をつけた。それが7月に入ると徐々に膨らみ始め、ついに6日朝開いた。DSCN1975.jpg
 普通、蓮の花と聞けば誰しも薄紅色、桃色の花を思い浮かべる。信濃国分寺の蓮池も桃色の華が圧倒的だったが、中にいくつか、白蓮が凛と咲いていた。「ああ、白もいいなあ」と思っていたのだが、いくつか拾った蜂巣の実は紅か白か、もとより分からない。大甕には20粒ほど蒔いたのだが、無事に生えたのはその内の何粒だったのか分からない。最初は細い茎が3本立ち、今年は6本になっているが、それが同じ蓮根から出た茎なのか、別の蓮根なのかも分からない。別の蓮根からの茎が同居しているとすれば、来年は桃色の蓮も咲くかもしれないなどと欲張ったことを考えている。
 実はこの傍にもう一つの大甕があって、それには澤井二堂さんが散歩の途中拾ったという上野不忍池の蓮の実が蒔いてある。しかしこれは去年の秋に蒔いたばかりで、今春はまだ芽生えず、空しくボーフラの住み処になっている。これが来年無事に芽生えて大きくなってくれると、数年後には信濃国分寺と上野不忍池の蓮が咲き競べすることになるのだが。
 明日7月7日は二十四節気の「小暑」。いよいよ梅雨が明け、本格的な夏の到来である。さらに二十四節気を五日ずつに区切って季節の推移をよりきめ細かく示す「七十二候」で言うと、小暑の次候(6日目)は「蓮始華(はすはじめてはなさく)」とある。カレンダーでは12日に当たるので、我が家の蓮は一週早く咲き始めたことになる。本家の信濃国分寺ではちょうど暦の「蓮始華」に開花ということになるのだろうか。
  六年経て華咲かせたり信濃蓮   酒呑洞水牛

DSCN1971.jpg
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2019年07月04日

俳句日記 (504)


双牛舎総会・俳句大会

 NPO法人双牛舎の年次総会と俳句大会が6月29日(土)、東京・二番町の東京グリーンパンレスのレストラン「ジャルダン」で行われた。「俳句の普及と振興・発展進化をはかる」というものものしい「事業目的」を掲げ、13年前に東京都に設立の届け出をした時、NPO担当課の担当者が「俳句振興を事業目的とするNPOは恐らく全国で初めてでしょう。大いに頑張って下さい」と励まされた。しかし、大言壮語したものの、メンバーになってもらった日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の会員を全部足しても延べ百人。二つ三つの会に入っている人もいるから、実数は70人程度と真にこじんまりした団体である。
 ただこれまでの活動実績はなかなかのものだと自負している。まず三つの句会の活動支援、それぞれの会報の編集発行、双牛舎ホームページを開設してそれらの活動内容を逐一報告している。さらにブログ「みんなの俳句」を開設、会員諸氏の名句にコメントを付けて、丸11年発信し続けており、累計来訪者は11万人を超えている。また、双牛舎ホームページには昨年から「わたしの俳句館」というコーナーを設け、会員を中心に七〇歳以上の俳句愛好者の名句を紹介し、ネット上に永遠に保存する『俳句の殿堂』とする事業も始めた。これに加え、会員及び外部の人たちからの要望に応え、句集、随筆集、各種記念文集などの出版事業も行っており、これまでに30点以上の単行本を発行した。
 もともとこの会は、大学時代から机を並べ、同じ新聞社に入社し記者生活を一緒に送った而云さんと私が、たまたま俳句好きだったこともあって、「同好の士を集めて句会や俳句談義をやる会を作ろう」と20年近く前に始めた。二人とも丑年生まれなので、二頭の牛が車を引くように、仲良くのんびりやって行きましょうと「双牛舎」という名前にした。数年たって追々仲間も増えてきたので、NPO法人にしようということになったわけである。
 同輩後輩、さらに最近はぐんと若い人たちも加わってくれるようになり、今年からは理事の顔ぶれもしっかりとして、これまでのいいかげんなグループに筋が通った。そのことを幹事長の堤てる夫さんが今総会で明言してくれた。これで安心。軛をはずれた老牛は自由に草が食める。というわけで、この日は昼食を取りながら進められた総会とそれに続く俳句大会を楽しみつつ、大いに吞みかつ食していい気持になった。
 俳句大会は双牛舎年一回の「お祭り」である。予め投句された句を谷川水馬さんというこういうことが上手な人が大きな選句表に作って会場に張り出してくれた。参加者はこの表の自分の好きな句の下にシールを貼り付けていく。つまりは公開人気投票だから、いつものちゃんとした句会に比べて多少脱線して、わざとふざけたような句に一票投じたり、選句表に貼られたシールの多さに幻惑されて自分もつられて貼ってしまう、というようなこともあるだろう、結局は「分かり易くて面白い句」に票が集まる傾向がある。
 しかし、この日、高点を獲得した句はなかなかの粒ぞろいだった。
 最高の「天」賞に輝いたのは、岩田三代さん(日経俳句会)の「亡き父母の声残りをり夏の家」。「地」賞は嵐田双歩さん(日・酔吟会・番町喜楽会)の「椰子蟹が路上をのそり島の夏」、印南進さん(三四郎句会)の「家じゅうの網戸を洗う夏来る」、大沢反平さん(日・酔)の「夏座敷寝っころがって志賀直哉」、深瀬久敬さん(三)の「緑蔭のひかり濃淡万華鏡」の4句。「人」賞は池村実千代さん(日)の「六月やお洒落談義は傘の色」と須藤光迷さん(酔・番)の「越えて来し槍よ穂高よ夏の暮れ」の2句だった。さらに「入選」が11句もひしめき合う賑やかさ。
 こうした中で双牛二頭の句は、
夏いまやフラワーガーデンレストラン     而云
あめんぼう三歩進んで二歩戻る
小児患者増えて整形外科の夏         水牛
真夏日や口半ばあけ大鴉
 という、褒むべきところの見当たらないもので、その他大勢の中に埋もれてしまった。この二人は年の功と作句経験の長さ故で月例などではそこそこの点数を獲得するのだが、不思議なことに、双牛舎俳句大会ばかりは好成績を収めたことがあまり無い。まあ、代表者がいつも高得点を取ったのではシラケてしまう。二点か三点もらってニコニコしているのが一番いいんだと負け惜しみを言って、もう一杯。
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2019年07月01日

俳句日記 (503)


難解季語 (27)

はんげしょう(半夏生)

 「半夏生」は七十二候の一つで、夏至から十一日目、今のカレンダーで言うと七月二日頃になる。半夏(カラスビシャク)というサトイモ科の薬草(毒草でもある)が生える頃なので、こうした名前がつけられた。
 二十四節気、七十二候に加え、日本人の生活体験に照らし合わせ自然発生的に生まれた暦の補註のような「雑節」というものがある。「半夏生」はこの雑節にもなっている。雑節は節分、彼岸(春秋の二回)、社日(春秋二回)、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日の九つとするのが一般的だが、これに初午、中元、盂蘭盆(うらぼん)、大祓(おおはらえ・六月、十二月末日)を入れることもある。
 大昔、人間は月の満ち欠けによって日時の推移を知った。月の出ない真っ暗闇の夜から細い弓のような月が生まれ、だんだん太って真ん丸になる。寝て起きてを十五回繰り返すと真っ暗闇が煌々たる満月になり、また十五回繰り返すと真っ暗闇になる。この三十回を一括りとして、それを三回繰り返すと寒かったのがぽかぽか温かくなり、さらに三回繰り返すと暑くてやりきれない気候になる。そして涼しくなり、寒くなる。こうして三十日あるいは二十九日を一ヵ月とし、十二回繰り返すと元の季節になる。それを「一年」として「暦」を作り出した。
 しかし、月と太陽の運行にはずれがある。太陽の一年は約三百六十五日だが、月の一年は約三百五十五日で、十日から十一日短い。月の満ち欠けに頼る暦(太陰暦)は単純で、誰にも分かり易いのだが、ほぼ三年で太陽暦と一ヵ月の狂いが出る。月日と季節の移り変わりが年々ずれてしまうのだ。そこで三年に一度くらいの割で閏月という一ヵ月を足して、十三ヵ月ある年を拵えて調節した。
 さらに、季節の推移をはっきり示すために、一太陽年約三百六十五日を十五日ずつに区切って、それぞれの季節の特徴を示す言葉を充てた。これが「二十四節気」である。これを暦に当てはめると、月の満ち欠けを基準とした旧暦で太陽の運行とずれが生じても、季節の推移が分かる。これをさらに細かくして、農作業や日常の暮らしに役立つようにと拵えたのが「七十二候」である。これが太陰太陽暦(旧暦)というものである。
 太陰太陽暦は黄河中流域の古代中国殷の時代(紀元前千五百年頃から同千年頃)にほぼ出来上がっていた。それが飛鳥時代(六世紀末から七世紀前半)に日本に漏刻(水時計)の技術などと共に伝えられた。
 「半夏生」は仲夏の第三候で、一年で最も重要な田植えという大仕事を終え、ほっと一息という時期に当たる。そこで、半夏生から五日間は休みを取るという習慣が日本各地に生まれた。「半夏生の雨には毒があるから表に出るな」とか、「井戸に蓋して、野菜は取るな」などという誡めが言われた。いずれも仕事をせず骨休みすることに負い目を感じないで済むようにとの考えから生まれた言い伝えであろう。近畿地方ではこの日に蛸を食べる習慣があり、讃岐ではうどん、若狭では焼き鯖を振る舞う。これなども稲が無事に育ちますように、天候異変がありませんようにと祈りつつ、農民がたまの休日を祝う際の景物である。
 逆に悪天候続きや人手不足などによって、この日までに田植えが済んでいないと、「半夏半作」と言われて大変なことになった。また、この日に降る雨を特に「半夏雨」と言い、大雨になるとの言い伝えがある。そこで人々は折角植えた稲が流されてしまわないよう、派手な振る舞いを慎む物忌みをした。
 話は飛ぶが、ハンゲショウという名の別の植物がある。これはドクダミの仲間の草で、この時期に青葉の付け根から半分が真っ白になる。葉の半分を化粧したようだというので「半化粧」という名前が付いた。とても印象的なので人気があり、茶花の材料になったりしている。しかし「ハンゲショウ」と音が同じだから、非常に紛らわしい。「半夏生白あざやかに出そめたる 福井圭児」と、本当の半夏生とごっちゃになった句もある。
 半夏生という季語が持っている「農家のひと休み」「物忌み」といった側面が今日ではすっかり忘れられ、現代俳句では、本来の意味合いから離れた使われ方をしている。特にこの季語の風変わりで特殊な響きが効果を発揮することがある。半夏生を一見関係無い言葉と取り合わせて意想外な世界が開かれることもある。というわけで、このような古臭い季語が令和の今日まで命脈を保っているのだが、難解季語であることに変わりはない。
 日々待たれゐて癒えざりき半夏生   村越 化石
 いつまでも明るき野山半夏生     草間 時彦
 いろいろの猫が顔出す半夏生     小倉千賀子
 失禁のははに泣かるる半夏生     後藤 先子

 菩提寺の半夏生ずと知らせあり    酒呑洞水牛
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2019年06月28日

俳句日記 (502)


難解季語 (26)

かくらん(霍乱)

 病気など寄りつかないような感じの元気旺盛な人が、めずらしく風邪を引いたりすると「鬼の霍乱だね」と言ってからかう。しかし、「霍乱(かくらん)」とは何か、即座に答えられる人はそうそう居ない。広辞苑を引くと、「暑気あたりの病。普通、日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた」とある。
 『南総里見八犬伝』や『椿説弓張月』など壮大な小説で有名な曲亭(滝沢)馬琴(1767-1848)は俳諧にも造詣深く、享和三年(1803)に二千六百余の季語を集めた『俳諧歳時記』を編纂出版している。それをほぼ半世紀後の嘉永四年(1851)に藍亭青藍が語数や注を増やした増補版を編み、明治大正時代の俳句界で珍重され、その後の歳時記の手本になった。これは2000年8月に岩波文庫から『増補俳諧歳時記栞草』上下二冊となって出版されているから、俳句好きは是非手元に置かれるとよい。
 これに出ている「霍乱」の解説は漢方医の聖典とされている後漢(25-220)の医書『傷寒論』を引き、「それ霍乱の病は夏月暑時、飲食過度の致す所、胃中擾乱、上吐下瀉する者是也」としている。
 すなわち、飲みすぎ食べすぎがもとになって胃がおかしくなり、暑さ中りが加わって激しい嘔吐と下痢を起こす病気ということである。当時はこうした症状を示す急性胃炎、食中毒、腸炎をはじめ、腸チフス、コレラなどの伝染病、そして熱射病による身体機能の喪失なども引っくるめて「霍乱」と称した。
 ひどい熱射病になると人事不省に陥り、うわごと言ったりする。腸チフスやコレラも脳に変調を来し、あらぬことを口走り、時には暴れたりする。そして、いずれも症状が重いと死んでしまう。つまりこの二つは、病気の症状としては外見上よく似ているのだが、実際は原因が異なる。病原菌によるもの、炎熱による身体機能失陥など、原因を突き止めてこそ、その対処療法があるのだが、医学の発達していない当時としてはどれもこれも同じ病に見え、引っくるめて「霍乱」としてしまった。
 そもそも「霍乱」という文字からして、病名としては甚だ大雑把である。「霍」という字は雨冠に隹(ふるとり=尾の短い小さな鳥)で、「にわか雨に素早く飛び立つ鳥」の意から、「素早い、にわか」を言う言葉になった。「乱」は言うまでも無く「みだれる、惑う」意味。つまり「霍乱」とは「あっという間にわけの分からない混乱した状態になってしまう」という、病人の状態を表現したまでで、一体どんな病気なのかをうかがわせるような名称ではない。要するにあれよと云う間におかしくなってしまう病と言っているに過ぎない。
 当然、特効薬のあるはずも無く、熱冷まし、下痢止め、吐き気止めなどが処方され、鍼灸に頼り、安静に寝かせて置くより仕方がなかった。そこから先は神仏が頼りで、時には胡散臭い祈祷師やお札売り、呪い師などが入り込んだ。
 幕末・明治になり、西洋医学が入って来て、チフス、コレラ、急性胃腸炎、熱射病などと、「霍乱」がきめ細かく分類されるようになり、ようやくそれぞれに合った治療が施されるようになった。とは言っても、霍乱症状の全てが解明されたわけではなく、治療法もそれほど進んでいなかったから、明治は言わずもがな、昭和もかなり後半までは、猛暑の中で原因がはっきりしないまま死んで行く人がかなりあった。それらは昔ながらに「暑さ中り」が嵩じて・・ということで片付けられた。
 医学薬学が目覚ましく進歩発展した今現在ですら、「暑さ中り」の中身が完全に突き止められているわけではない。同じ物を食べ、同じ環境に暮らしているのに、下痢をする人しない人、夏風邪を引く人引かぬ人いろいろである。持って生まれた体力、遺伝的体質、その時の体調等々、人間は親兄弟でさえ同じではないから、そういうことになるのだろう。「運不運」「ついてる・ついてない」「日頃の行い」「バチが当たった」といった言い回しが今でも生きて居るのも、そうしたことの現れだろう。その意味では「霍乱」という病気は依然としてあるのだとも言える。
  霍乱にかゝらんかと思ひつつ歩く   高浜 虚子
  霍乱のさめし眼にある紅き花     篠原 温亭
  かくらんに町医ひた待つ草家かな   杉田 久女

  霍乱かと駅のベンチに倒れ伏す    酒呑洞水牛
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2019年06月24日

俳句日記 (501)


難解季語 (25)

とらがあめ(虎が雨)

 旧暦五月二十八日に降る雨のことを「虎が雨」というのだが、今では余程の歴史好きか歌舞伎フアンでもない限り通じなくなっている。
 建久四年(1193年)五月二十八日、源頼朝が催した富士の巻狩の最終日の夜、豪雨の中で曾我十郎祐成と弟の五郎時致が父親の仇工藤祐経を討った「曾我兄弟の仇討」事件。赤穂浪士の吉良邸討入り、荒木又右衛門の三十六人切りで有名な伊賀越の仇討とともに「日本三大仇討」の一つとして、江戸時代から明治、大正、昭和の敗戦まで「武士道の鑑」と持て囃されてきた。
 見事親の敵を討った十郎・五郎兄弟はあえなく殺されてしまうのだが、後世の人たちはこの日に降る雨を十郎の愛妾だった大磯の遊女虎御前が流す涙であると言い囃し、それが各種の物語を生み、歌舞伎狂言にもなって広まった。曾我の仇討や虎御前の話は、鎌倉時代後期に書かれた鎌倉幕府の事跡を記した史書『吾妻鏡』にも載っているから、満更ウソでは無いようである。
 相模の地侍工藤祐経は叔父の伊東祐親と所領争いのもつれから怨みを抱き、郎党に命じて狩りに出た祐親と息子の祐泰に矢を放つ。矢は息子祐泰に当たり絶命。その後、祐泰の妻滿江御前は遺された一萬丸(後の十郎)と箱王丸(五郎)を連れて曾我祐信と再婚、兄弟は曾我姓を名乗るようになった。
 時を経て、仇の工藤祐経は源氏方に付き、頼朝の御家人として頭角を現す。一方、十郎五郎の祖父伊東祐親は平家方に付いたため、源平の戦い後に捕らえられて自害してしまう。しかし、十郎、五郎は叔母が頼朝の妻政子の父親執権北条時政の前妻だったという縁故を頼って、時政に接近し、その庇護を受けるようになった。こうして曾我十郎・五郎兄弟は時政の縁もあって御家人として暮らしていたが、工藤祐経を終生の仇として付け狙う意志を持ち続けていると、頼朝が富士の裾野で巻狩を催すことになった。チャンス到来である。
 頼朝はその二年前、眼の上のたんこぶだった後白河法皇が没し、晴れて征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府の礎を固めたばかり。この巻狩は天下に威勢を示す一大パレードの意味もあったのだろう、富士の裾野に一族郎党、家人こぞって繰り出し、幕舎を連ねての大規模なものだった。寵臣工藤祐経も頼朝の近くに幕舎を設けていた。巻狩を打ち上げた五月二十八日の夜、折柄の梅雨の豪雨の中を十郎・五郎兄弟は祐経の幕舎に切り込んだ。酔って遊女と寝ていた祐経はあっけなく討たれてしまった。ところが、どうしたわけか、兄弟は続いて将軍頼朝の幕舎を襲った。たちまち郎党に取り囲まれ、十郎祐成は討ち死に、五郎時致は捕縛されてしまった。五郎は翌日、頼朝直々の取り調べの後に斬首された。
 『吾妻鏡』には曾我兄弟が何故そんな無謀な行動を起こしたのかについては何も書いていないが、頼朝の弟で義経と共に平家追討に大功のあった源範頼がその数ヶ月後に謀反の疑いで修善寺に監禁され不審死を遂げた事件が起こった。範頼の背後には北条時政があったとも云われ、時政は曾我兄弟の庇護者でもある。そんなことから後年、曾我兄弟の仇討事件は、仇討に名を借りた頼朝暗殺未遂事件だったのではないかというミステリー小説のような話が尾を引いた。
 それはさておき、富士の巻狩仇討事件は出来たばかりの鎌倉幕府をかなり揺るがせたことは確かなようだ。『吾妻鏡』には曾我十郎祐成の愛妾である虎という大磯の遊女を、事件三日後の六月一日に召喚し取り調べたことが記載されている。結果としては虎御前は仇討事件と何の関わりも無いことが明らかになって釈放されたとある。その後、お虎さんは六月十八日に十郎五郎が尊崇していた箱根権現に行き、十郎が遺した葦毛の馬を寄進して菩提を弔い、剃髪出家して信濃善光寺に行った。虎御前その時十九歳だったという。
 JR大磯駅から十分足らず、旧東海道へ出たところにある延台寺には「虎御石」(とらごいし)が安置されている。周囲九〇センチ、重さ一三〇キロくらいの大石で、虎御前が化したものと云われている。江戸時代から有名で、浮世絵にもずいぶん登場している。「美男だと容易く持ち上げられる」という言い伝えがあるのも面白い。
 令和元年の曾我兄弟仇討記念日は6月30日。果たして虎が雨は今年も降るだろうか。
  しんみりと虎が雨夜の咄かな    忌部 路通
  虎が雨晴れて小磯の夕日かな    内藤 鳴雪
  虎が雨化粧坂にて出逢ひける    矢田 挿雲

  二宮へかけてざんざと虎が雨    酒呑洞水牛
  遅れじと五郎踏ん込む青芒
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2019年06月20日

俳句日記 (500)


日経俳句会夏期合同句会が開かれた

 6月19日(水)、梅雨の晴れ間の夜、日経俳句会の上期合同句会(通算28回)が千代田区内神田の日経広告研究所会議室で開かれた。「合同句会」という名称は昔、銀鴎会、水木会、酔吟会という三つの姉妹句会がそれぞれ別個に活動していたのだが、半年に一度は寄り集まって句会を開こうということで始まったものである。今では日経俳句会に合併されており、あえて「合同」という意味は無くなったのだが、名前だけが残っている。
 まあそれはともかく、今回は「梅雨」と「螢」の兼題に37人から111句が寄せられた。にぎやかで真に結構なのだが、近ごろの日経俳句会はいわゆる「出来上がってしまった」感じで、型にはまった行儀のいい句が目立つようになってきた。今回も高点句には以下のようなものが並んだ。
  紫陽花をコップに生けて守衛室   植村 博明
  一歩ずつ杖と帽子の妻の夏     大沢 反平
  いろはにほ闇に描いて蛍舞う    徳永 木葉
 いずれも悪い句ではないが、何となくどこかで見たような、言ってみれば「あまい句」である。
 しかしまあ考えてみれば、この句会に集まって来る人たちは「俳句づくり」を楽しんでいるだけで、何も職業俳人の向こうを張るような「畢生の名吟」を捻り出そうと日夜頑張っているわけではない。たまたま頭に浮かんだ五七五が何となく良さそうに思えるので投句したら、同好の士の高評価を得て有頂天になるといった塩梅である。それもまた良き哉であるなと思う。
 俳句作りでは後輩にあたる人たちに、これまで事あるごとに「佳句の条件」「悪句を避けるには」といったことを説いて来たのだが、近ごろは、それは意味が無い事なのではないかと思うことがしばしばである。みんな、そんなにいい俳句を作ろうなどと思ってはいないのだ。楽しみに詠んで、たまに褒められるようなものが出れば万々歳というわけで、句作についてあれこれうるさく言われたくないというのが大方なのではないか。というわけで、近ごろは句会でも、出来るだけ発言を控えるようにしている。昨夜も入選句についての論評をほとんどしなかった。
 昨夜の句会で水牛が採った句は、上記の高点句ではなく、
  ブレーキの音も重たし梅雨のバス   岩田 三代
  螢来る大虫さんの破顔かな      堤 てる夫
  白きまま散る鴎外の沙羅の花     星川 水兎
  真っ直ぐな未来を信じ立葵      玉田春陽子
  澄み切って郭公の声朝まだき     堤 てる夫
の5句で、3点が2句、2点1句、1点2句であった。1点というのはつまり水牛しか採らなかったということである。「大虫さんの破顔」は故高瀬大虫を知らぬ人には何の感慨も催さぬ句だから是は別として、後は伝統形式にきちんと治まった何の変哲も無い句ではあるが、見たまま感じたままを素直に詠んだ句であり、それぞれ借り物ではない、確かな独自性を保っている。
 かく申す水牛の句は、
  大太鼓合羽かけられ走り梅雨
  湯冷めすと叱られながら螢狩
  放たれし螢とまどふビオトープ
の3句で、たまさか二週前の地元の祭礼の場面を詠んだ大太鼓が6点も獲得した。今流行のビオトープへの螢放ちの句は反響があるかなと思っていたのだが、音沙汰無しであった。
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2019年06月19日

俳句日記 (499)



難解季語 (24)

てんかふん(天瓜粉)

 乳幼児の湯上がりの肌にぱたぱたはたいたり、汗疹(あせも)に振りかけたりする白い粉である。カラスウリ(天瓜)の根っこから取った澱粉で作ったので、この名前がついた。また雪(天花)のように真っ白でサラサラしているから天花粉とも書かれた。江戸時代から昭和時代まで乳幼児を抱える家庭の夏の常備薬だった。
 ただし、昭和時代に入ってからは和光堂のシッカロールに代表されるベビーパウダー、タルカムパウダーが天瓜粉に取って代わった。これは今日も根強い人気を持ち続け、使用されている。しかしベビーパウダーの原料は最早カラスウリの塊根から取ったものではなく、滑石(タルク)やコーンスターチなどの澱粉にいろいろな薬品を混ぜたものである。
 この点から言えば、原料は変わったものの天瓜粉は依然として生き続けており、「天瓜粉」という言葉だけが死語と化したと言った方が良さそうだ。
 とにかく、天瓜粉は昔は乳幼児ばかりでなく大人の汗疹、湿疹、蚊等に刺されたあとの掻き壊し、果ては水虫でただれた部位にはたく粉としても重宝がられ、どこの家にも置いてあった。恐らく今でもベビーパウダーを使っている大人もいるに違いないのだが、天瓜粉という言葉は通じにくくなっており、歳時記の夏の季語として生き続けているだけである。

  睡たさにうなじおとなし天瓜粉     水原秋櫻子
  天瓜粉父似祖母似とたたきやる     松島 水城
  ちんぽこの不意の噴水天瓜粉      江尻 三社

  天瓜粉はたかるる子ら重ね餅      酒呑洞水牛
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