2019年06月16日

俳句日記 (498)

難解季語 (23)

めしざる(飯笊)

 先日この欄に「蠅帳」のことを書いているうちに、そう言えば昔の台所には飯笊というものもぶら下がっていたなと思い出した。
 「飯笊」も夏場の台所用品として重要なものだったのだが、今や『広辞苑』を引いても出て来ない。冷蔵庫の無い時代、朝炊いた飯は夜、仕事から帰って来ると、酸っぱいような臭いがすることがある。これを「飯が饐(す)える」と言い、「饐飯(すえめし)」と言った。これまた今どきの辞書には無い。
 米飯は日本人の主食であり、「米の飯が食える身分になれば一人前」と人の軽重を量る尺度にもされた。「一宿一飯の恩義」という言葉が生きていた時代が長く続いた。それほど貴重な米を少しでも無駄にしたくないと、昔の人は真面目に考えた。
 だから、ちょっと臭う程度の饐飯は、水で洗って、漬物や佃煮を載せて茶漬けのようにして食べた。これを「水飯(すいはん)」という。宮崎県を代表に全国各地に冷や飯に味噌汁仕立てのつゆをかけた「冷や汁」という食物があるが、これも水飯の変形と言えよう。また、必ずしも饐えた飯でなくとも、夏場の食欲不振対策として、冷や飯、時には温かい御飯を冷水で洗って水飯をこしらえることもした。
 とにかく、「御飯を捨てるなんてバチが当たる」と信じられていた時代だから、水で洗っても臭いが取れないほど完全に饐えてしまっても、まだ捨てない。さすがに食べるのは諦めて、饐飯を徹底的に腐らせてしまい、水を振りかけながら篦で潰す。こうすると良い糊になり、最後には不思議に悪臭も消えてしまう。これを水で薄め漉して、布地の洗い張りの時の糊付けに用いるのだ。
 しかし、貴重な食べ物である米の飯を糊などにするのはもったいない。なんとか飯が饐えるのを遅らせようと考え出したのが「飯笊」である。
 竹を割って細いひごを作り、磨いて、きれいな笊を拵える。身と蓋と大きさの違う笊二つで一組になる。吊り紐のついた身の方に残り飯を入れ、蓋笊をかぶせ、台所の日の当たらない風通しの良い所に吊す。こうすれば真夏でも一昼夜は保つ。
 昭和戦前はもちろんのこと、昭和四〇年代まで日本人は米飯をよく食べた。しかし、三度三度飯を炊く家は滅多に無かった。朝炊く家はそれを昼も夜も食べる。夜炊く家は翌朝と昼に食べた。そこでこうした飯笊とか蠅帳の出番が回って来ることになる。
 「もう三日も御飯食べてない」「それほどお金に困ってるようには見えないけど」「パンとうどんとピザばかり食べてた」という馬鹿話があるくらい、近ごろは米飯の消費量が落ち込んでいるようだ。「飯笊」という季語の出番が少なくなってしまったのも無理はない。
  飯笊を衣桁のはしに草の宿       高田 蝶衣
  めし笊のあはれ古びし世帯かな     野村 喜舟
  すいはんに浅づけゆかし二日酔     三浦 樗良
  水飯や目まひ止みたる四ッ下り     正岡 子規
  饐えし飯の糊が匂へる浴衣かな     青木 月斗

  花入れになる飯笊のよき老後      酒呑洞水牛
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2019年06月13日

俳句日記 (497)


難解季語 (22)

はいちょう(蠅帳)

 昭和四〇年代まではどこの家にも必ずあった夏場の必需家具である。大きさはいろいろだが、小型の物は縦横高さ四〇センチほどの箱で、オモテ側は引き違いの戸、側面には格子がはまり、それぞれに細かな金網または蚊帳の布が張ってある。風通しよく、しかも蠅が入らない食物貯蔵箱である。これを茶の間や台所に置いて、常備菜や漬物、残り御飯などを入れた。冷蔵庫の無い時代には夏場に無くてはならない用具であった。
 家庭だけではなく、下町の飯屋などにも大型の蠅帳が帳場の脇に据えてあった。そこに焼魚、煮魚、煮物など、その日の「おかず」が並んでいる。客は蠅帳の網戸を開けて欲しいおかずを取り、盆に載せ、温かい飯と汁を盛ってもらって、帳場で勘定を払い、飯台に持って行き食べるという具合だった。
 何しろ昔は蠅が多かった。六月の梅雨の晴れ間など、家の内外にわんわん飛び回っていた。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読む熟語があったほどで、どうやらこれも今では「平仮名で書きなさい」と言われそうだ。
 とにかく蠅は食品はもとより、魚肉、獣肉、人畜の排泄物、死骸が大好きで、そういうものに群がり集まる。うるさいだけでなく、病原菌をまき散らすから放っておくわけにはいかない。家庭では「蠅叩き」を常備し、食品店、魚屋などは粘着剤を塗った「蠅取リボン」を店中に吊した。魚や佃煮、芋やコンニャクの煮しめなどが盛られた大皿のすぐ上には、蠅がへばりついて真っ黒になった蠅取リボンがぶらぶら揺れていた。今どきの衛生観念が異常なほど発達した若いお母さんだったら、卒倒するに違いない風景である。
 昔は「夏負け」という体力消耗から病気になり、命を失う人が多かった。夏負けで病原菌に冒されればそれこそイチコロである。「食あたり」が最も恐れられていた一方、とかく栄養不良の食生活を送っていたから、少しでも食が細ると「夏痩せ」し、病気にかかりやすくなるから、せっせと食べなさいと言われる。そういった夏場の暮らしに蠅帳は命綱とも言うべきものだった。
 下水道整備によって汲取式便所が無くなり、「おわいやさん」と呼ばれていた便所汲取業者が姿を消した。これによってウジムシと蠅の発生が激減した。それに加え、家庭用電気冷蔵庫の普及によって、今では蠅叩きも蠅取紙も蠅帳も死語になった。

  蠅帳といふわびしくて親しきもの   富安 風生
  蠅帳や隅にころげて茹玉子      草間 時彦
  蠅帳のこころもとなく古りにけり   細川 加賀

  蠅帳に焦げしうるめを見つけたる   酒呑洞水牛
  蠅帳の埃かぶりて古物市
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2019年06月08日

俳句日記 (496)


水牛洞謹製梅酒・梅干(3)

 採った梅の実は仕分けしなければいけない。まずは虫食いや傷のついたものをはねる。丁寧に採ったから傷物は少ないが、農薬をかけていないせいで虫食いが結構ある。アブラムシのついたのは果皮が黒っぽいシミになっている。これは品質には問題無いが、見てくれが悪いから梅干にはならない。実の中に入り込んで食害する虫もいる。これが入り込んだ実には果皮にヤニが浮いているから分かる。こういうのを捨てながら、大粒の梅干用と小粒や形の良くないのを梅酒用に分けて行く。その結果梅干用が13キロ、梅酒用が6キロ、廃棄処分が1キロだった。これに、我が家でしぶとく実った2キロがある。これは大粒の純良品である。都合、令和元年漬け込み量は梅干15キロ、梅酒6キロの合計21キロということになった。
 梅干用のは一昼夜水に浸けてアク抜きをする。梅酒用は洗って大笊に広げて一日乾かす。
 準備万端整って、いよいよ漬け込み開始。まずは梅干。梅5キロを漬けられる大きなホーロー桶を三個並べ、それぞれに梅を入れては塩をまぶし、また梅を入れては塩をかぶせ、梅5キロに対して2キロの塩を入れ、陶器の押し蓋をのせて、脇から焼酎をお玉杓子で二杯注ぎ入れる。カビが生えませんようにとのお呪いと、梅酢がよく上がるようにとの呼び水である。そして6キロと2キロの重石を載せた。次に梅酒。梅酒漬け用の大きなガラス瓶を二個用意し、それぞれに3キロの梅の実と2キロの氷砂糖を交互に入れ、35度焼酎二升(3.6リットル)を注ぎ込む。
 あとは梅干は明日か明後日、一旦全て取り出して漬け直す「漬け返し」をし、二週間後くらいに塩揉みしてアク抜きした赤紫蘇を入れる。そして七月下旬に漬かった梅を土用干しする。これが第二の山場となる。梅酒の方は殆ど手間要らずで、時々瓶を揺するだけでいい。
 昨七日から地元の洲崎神社の例大祭が始まり、町には祭り囃子が流れている。一家の健康と梅干梅酒がうまく漬かりますようにとお参りに行ってきた。

  梅漬けて氏神祭へ参りけり     酒呑洞 水牛
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2019年06月07日

俳句日記 (495)


水牛洞謹製梅酒・梅干(2)

 懇意にしているタカハラ米屋に初生りの胡瓜を持って行って、世間話のついでに「今年は梅が採れなくて、長年続けてきた梅漬けが途切れるのも癪だから、これから買いに行く」と言ったら、お上さんが「そんな、ウチのを採って下さいよ」と言う。
 タカハラさんはこの近辺の草分けで、店の脇を流れる滝野川という小川に水車を据えて、戦前はゴットンゴットン米を搗いていた。そこに鶴亀橋という粗末な木橋が掛かっていたが、私の祖父と父が大正末に始めた横浜ガーデンという園芸会社への入口として「ガーデン橋」というコンクリート製に掛け替えた。つまり、タカハラ米店までが下町商店街、ガーデン橋から上が植物園と小動物園を併設した横浜ガーデン区域となっていた。タカハラ米店と我が家とはその頃からの付き合いである。
 滝野川は30年ほど前、横浜市営地下鉄が開通するのと前後して埋め立てられ、「せせらぎ緑道」という遊歩道兼地下鉄駅に通じる通勤通学路になった。タカハラの梅の木はその緑道に大枝を差し伸ばす大木である。天辺は、昔米屋の傍らやっていた質屋時代の土蔵の屋根を越すほどに伸びている。その枝に梅の実がびっしり付いている。
 「こりゃ大変だぞ。熟れた実がぼたぼた落ちて通行人の頭や衣服にぶつかったりすると事だな」
 「そうなんですよ。去年も大分枝を切ったつもりなんですがね、またこんなになっちゃって」と、お上さんは恨めしそうに梅の木を見上げる。
 二階まで届く大脚立と大ノコギリを持って乗り込んだ。手近の枝の実をもいでは下でお上さんが受ける米袋に投げ込む。そうしながら大枝を切る。かれこれ二時間の奮闘で梅の木は高さ二メートルほどになり、枝も透いて形が良くなった。梅の実がしこたま採れた。
 「これでまあ3年は保つな。そこから先はワタシャ生きてるかどうか分からんからな」
 「ご冗談を。とにかく、ほんとに助かりました」
 夕暮れ方、米の配達を済ませたタカハラの主人が大きな米袋にほぼ一杯の梅の実を持って来た。
 「ウチはほんの少し漬けるだけなので、どうぞ貰って下さい」と言う。計ってみたら、なんと20キロもある。これはいつもの年よりも多い分量である。嬉しいけれど、いささか途方に暮れる。
  梅の実を選り分けている芒種かな   酒呑洞 水牛
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2019年06月06日

俳句日記 (494)


水牛洞謹製梅酒・梅干(1)

 梅酒と梅干を30年以上作り続けている。亡父は酒が一滴も飲めない体質だったが、どういうわけか梅酒を作っていた。我が家の新年のお屠蘇は自家製の梅酒と決まっており、酒が飲めない父もこの梅酒は小さな盃に一杯だけ飲んでいた。梅干は好物だったからよく漬けていた。というわけで物心つく頃から梅酒の美味しさを知っていたのだが、新聞記者になって忙しい日々を送る若いうちは梅酒、梅干などには目もくれなかったし、海外生活が長かったから梅を漬ける習慣などは全く身についていなかった。それが、五十の声を聞くようになって突然、やり始めたのだから、やはり子どもの頃、両親がせっせと梅漬けしていた姿が脳の隅っこに焼きついていたのだろう。
 梅干作りの肝心要は、原料である梅の実の熟し具合を見極める事が第一。そして、漬け込む容器と塩加減と重石と、漬け込んでから一週後の「漬け返し」である。さらに、七月末の「土用干し」を律儀にやれば万全である。
 まず梅の実だが、基本的に梅酒用はまだ見るからに硬そうな青梅が良く、ほんの少し青から黄緑がかってきた頃合いが梅干向きである。次に容器選び。大昔は木の樽か甕に漬けていた。しかし、シロウトには樽はダメである。雑菌がはびこってカビが生え、すべておじゃんになってしまう。陶器の甕も顕微鏡的な微細な穴があり、そこにカビの原因が浸み込んでいる恐れがあるので熱湯消毒か焼酎洗いをする必要がある。これが意外に面倒である。そこである年からホーロー容器にした。これは梅干漬けには最適である。
 塩加減は漬ける梅の重量の20%の粗塩と決めている。梅が10キロなら粗塩2キロである。「塩分控え目」が流行り言葉になって、デパートの食品売場には「塩分5%梅干」などというのが売られている。料理の先生がテレビでまことしやかに「塩分5%」で梅漬けを教えたりしている。すべてウソである。温暖湿潤の日本で「塩分5%の梅干」は絶対に出来ない。必ず腐敗してしまう。重量比10%の塩で漬けてもカビが浮いてくる。これを防ぐには5キロの梅に対して35度焼酎を300ミリリットルくらい振りかけて漬け込めば何とか漬かる。
 重石は最初は梅の実の1.5倍を掛け、水が上がって来たら同量に減らす。この途中、漬けて一週間たった頃、一旦、梅を全て取り出し、また漬け直す「漬け返し」をする。こうすることで、重石がかからなかった梅も圧され、翌日、さらに梅酢が上がってくる。こうなればしめたものだ。
 江戸時代から昭和時代まで、梅干の塩分は30%から35%だった。天然の塩は空気中の湿気を吸って液状化してしまう。そこで昔の人は塩の貯蔵や遠方に運ぶ方法として、魚、肉、野菜などに塩を浸み込ませることを考え出した。「塩漬け」である。これは魚介、野菜の貯蔵法にもなる。それで塩鮭、ヘシコ、塩辛、しょっつる、野沢菜塩漬、沢庵漬などが生まれた。その代表選手が梅干である。つまり、梅干はおかずの役割と共に、調味料としての役割も担っていたのだ。
 漬物や塩干物に「塩分供給」の役目が無くなり、嗜好品になってしまった今日、急に「塩分控え目」が言われるようになった。しかし元来、強烈な塩分によって引き出されていた「旨味」が、薄塩では出ない。そこで化学製品の「旨味調味料」を添加したりする。腐敗を抑えていた塩分が減ったために、防腐剤が添加される。それやこれやで、塩分を控えたことによるメリットよりも、その数倍も害悪を及ぼす添加物まみれの食品が横行することになった。
 「塩分5%」「3%」などと書かれた梅干は決して食べてはいけない。元々は30%以上の強塩水に漬けた梅をタンクで脱塩し、それに人工調味料や蜂蜜などを加え、防腐剤をまぶしたシロモノなのだ。見てくれは素晴らしい。特大南高梅などと銘打って、赤ん坊の握り拳ほどもあろうかという巨大な梅干。口に含めばしっとりと、塩味も甘みもほのかで、いかにも上品だ。しかしこれは最早、自然の食べ物ではない。人工的なケーキと同じ、薬品まみれの食物である。
 梅酒も同じである。水牛梅酒は「梅1.5キロ、氷砂糖1キロ、35度焼酎1.8リットル」で、これ以外何の混ぜ物は無い。テレビや新聞で大宣伝している梅酒はこんなに沢山の梅の実を使っていない。さらに添加物の疑いも濃厚である。
 というわけで、「水牛洞謹製」の梅干、梅酒は見栄えは良くないが味はいいから、結構な人気である。先日など、双牛舎ブログ「みんなの俳句」に『梅漬ける一言居士の鼻眼鏡』という句が出た。作者の賢一さんも水牛梅干のフアンで、「もらうからには退屈な梅干談義も我慢しようか」というクチである。
 今年も梅漬けの時期になった。しかし、昨年、我が家の梅の木はアブラムシ退治を兼ねて大剪定したために、今年は漬けるほどの梅の実が採れない。はてさて困った。
  両腕に引っ掻き傷の梅実取り    酒呑洞 水牛
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2019年06月05日

俳句日記 (493)

難解季語 (21)

ぼうしゅ(芒種)

 二十四節気の一つで、旧暦五月の節。立夏から三十日後、芒種の十五日後が夏至ということになる。現在のカレンダーに当てはめると六月六日頃になる。
 「芒種」とは禾(のぎ)のある草のことで、代表的な作物が稲。その稲の苗を植え付ける「田植」という一年で最も大切な行事、農作業が始まる時期を示している。農業が国の基本であった時代には「芒種」は重要な日として誰もが知っていたが、今では「ぼうしゅ」と聞かされて即座に「芒種」という字を思い浮かべられる人はほとんど居ないだろう。
 「芒種」もまた立派な季語なのだが、この十五日前の「小満」と並んで、二十四節気の中では最も人気の無い季語に落ちぶれてしまい、近ごろは芒種を詠んだ句に全くお目に掛からなくなった。入梅も間近で、連日曇りがちの天気。何とも気分が優れない日々が続き、「芒種」と聞いてもさしたる感興を催さないのもむべなるかなということであろう。
 しかし、「芒種」という少々固い響きの季語を据えると、何となくこの頃の空気を感じ取ることが出来、これに何を取り合わせてもそれらしい句になる。こういう季語を発掘して詠むのも亦楽しからずやである。まさに「季語と遊ぶ」気分になる。

  ささやくは芒種の庭の番鳩(つがいばと)  石原 八束
  芒種なり水盤に粟蒔くとせむ        草間 時彦
  朝粥や芒種の雨がみづうみに        秋山 幹生

  梅漬けの桶や重石や芒種かな        酒呑洞水牛
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2019年06月02日

俳句日記 (492)


番町喜楽会第162回例会
「入梅」と「水馬」を詠む

 6月1日(土)夜、九段下の生涯学習館で番町喜楽会の6月例会が開かれた。この会も発足後既に丸16年、会を重ねて162回になる。姉妹句会の流溪句会と喜楽会を吸収合併し、日経俳句会からも希望者を受け入れ「番町喜楽会」という会名にして新たなスタートを切ったのが平成23年(2011)3月11日。奇しくも東日本大震災当日、子規の故郷松山の吟行で松山城に登った日だった。そこからも既に丸8年たっている。今や常連メンバー21人を擁する堂々たる句会になっている。日経俳句会、酔吟会などと比べて「若い会」という印象が濃かったのだが、やはりこのところめっきり「老練ぶり」が目立つようになってきた。そろそろ本気になって若手をリクルートする必要が出てきたようだ。
 第162回例会は出席14人、投句参加6人で、「入梅」と「水馬」の兼題に当季雑詠を加え投句総数は98句だった。選句6句で句会を行った結果は、なんと投句総数の約7割68句に点が入るという大乱戦となった。それらの中で3点以上を獲得した句は、
 ゆるやかに脱ぎすててあり蛇の衣    玉田春陽子
 ミッキーの傘が先頭梅雨に入る     須藤 光迷
 畝合を泳ぐ合鴨梅雨に入る       谷川 水馬
 金色の鯉の背を越す水馬        須藤 光迷
 田圃たんぼ越後くまなく梅雨に入る   堤 てる夫
 入梅や独鈷の帯の締まる音       廣田 可升
 あめんぼう流され前へ前へ行く     田中 白山
 あめんぼのレガッタ始まる水たまり   前島 幻水
 朝焼を見て満ち足りし二度寝かな    嵐田 双歩
 原っぱの大樹に集ふ夏帽子       塩田 命水
の、わずか10句だった。いつもは高点句が15句近く並ぶのだが、今回は極端に票が割れた。
 さて水牛句だが、さんざんであった。もともと、夏風邪をこじらせて気管支炎になり、酒を飲む気にならないという稀有な事態に陥った1週間で、幹事から「句が届きませんがどうしたのか」とメールが届いて、大慌てで30分で作ったドロナワだから無理もなかった。5月というのに30℃を超えるキチガイ天気に、蒲団をはいではまた風邪をぶり返す、ヤケッパチ気分を5句並べて送ったら、案の定みんな2点、1点だった。
  梅雨入などどこかに飛んで炎天下   (0)
  水馬急な猛暑に立ち止まる      (1)
  苦しげに毛玉吐く猫暑し暑し     (1)
  物忘れぐんと進みし猛暑かな     (2)
  チキンカレー極辛にする猛暑かな   (2)
やはりお座なりな作句態度にお灸が据えられた。
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2019年05月30日

俳句日記 (491)

難解季語 (20)

さなぶり(早苗饗)

 田植えを終えた後、田の神を送り、作業した人たちをねぎらう饗応の宴を「さなぶり」と言う。全国各地の農村の初夏の一大行事だったのだが、近ごろは殆ど廃れてしまい、農村地帯でさえ若い人たちには通じにくい言葉になっているとのことである。。
 農業国家であり米が主食の日本では、年中行事はすべて稲の成育に従って組み立てられていたと言ってもいい。凍てついた田を早春に掘り返す「耕し」から始まって、苗代作り、種蒔き(籾蒔き)と続き、やがて五月中旬から六月初旬にかけて、育った稲の苗を田に植えて行く。これが農作業で最も大事な「田植え」である。
 日本列島は北から南へ長いから、田植えの時期も沖縄の三月下旬から関東東北の六月中旬まで地域によって差があるが、とにかく初夏の代表的な景物であることに間違いない。
 田植えは村中総出で行った。何軒かで組を作り、順繰りに人海戦術で植えて行く。だから田植えが無事に済めば、手伝ってくれた人たち全員を招いて盛大に御馳走する。もちろん、宴は田の神様に無事に田植えを終えたことを感謝し、祈りを捧げる事から始まる。昔は田植えを始める前の日あたりに、田の神を勧請する「さおり」という儀式をやっていたらしいが、これは今では殆ど行われない。
 「さ」というのは「稲」を意味するという説と、「田の神」を意味するという説がある。「さおり」は「さ降り」で田の神様がその田圃に降りて無事に田植えが済むように見守って下さること。そして、無事に田植えが済んだら神送りの宴で「さのぼり(さ上り)」なさるというわけである。この「さのぼり」がいつの間にか「さなぶり」と変化して「早苗饗」という漢字が当てられるようになった。
 とにもかくにも稲の苗を植えた後は、風水害、旱魃、冷害、病害虫の発生など、農民は気を揉み続ける。潅漑設備が行き渡り、農薬が大量撒布されるようになった今でさえ、時として自然の猛威に叩かれる。便利なものが一切無かった昔は、全てが神頼みだった。
 今では田植えも田植機がやってくれる。実際に田植えの田圃に出る人は苗を機械に積む人、田植機を運転する人、何かの用事のための介添え役の三人で十分だという。姐さん被りに襷掛けの早乙女が十数人横一列に並び、指令役のおっさんが掛け声をかけ、太鼓を叩き、のど自慢が田植唄を唄い、そのリズムに合わせて後ずさりしながら苗を植えて行く田植え風景など、とんと見なくなった。
 無理も無い。わずか二、三人の田植えでは、早苗饗も威勢が上がらず、すっかり廃れてしまった。それに変わって、稲作地帯では観光イベントとして「田植え体験ツアー」が盛んになり、体験田植えを終えると地場産の食材と地酒の宴会が催される。これもまあ一種の早苗饗であろう。
  早苗饗のあいやあいやと津軽唄    成田 千空
  早苗饗の膳の下より小猫かな     橋本 鶏二
  さなぶりに灯してありぬ牛小屋も   鏑木登代子

  さなぶりをなつかしみをり五月空   酒呑洞水牛
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2019年05月26日

俳句日記 (490)

でたらめ場所

 大相撲夏場所が終わった。気っ風のいい平幕朝乃山が優勝し、千秋楽にはトランプ米大統領がやって来て白頭鷲のついたアメリカ杯を手づから優勝力士に授けるというパフォーマンスなど話題豊富な夏場所にはなったが、肝心の取組内容は開いた口が塞がらない粗末なものであった。
 そもそも平幕優勝というのが異例なのである。上位力士が互いに食い合う隙間を縫って、平幕力士がするするとその座を占めるということはこれまでも時々あった。しかし、今回は横綱、大関がだらしなくて、自ら転んでしまっての結果なのだからシラケてしまう。それが証拠に、平幕8枚目の朝乃山が、なんと十四日目に優勝を決めてしまったのだ。千秋楽まで、好調平幕力士がトップの横綱なり大関なりと同点で進み、千秋楽で優勝候補の横綱が破れた結果、平幕力士に優勝杯が転げ込むというのなら、手に汗握るといった雰囲気になる。
 ところがどうだ。今場所は千秋楽三役揃い踏みの前に行われた朝乃山と御嶽海の取組で、朝乃山はあっさり御嶽海に負けてしまった。それでももう優勝が決まっているから平然たるものだ。その後の「これより三役」の三番などは全く興味の薄い取組になってしまった。
 東京五輪の時に土俵入りを勤め、その後は引退、親方になりたいという横綱白鵬には既に昔日の勢いは無く、ただただ延命を図って、ちょっと調子を崩せば休場。今場所もそうだった。一人横綱の鶴竜はそれなりに頑張ったが、やはり弱っており、終盤崩れ始めた。場所をつまらなくした元凶は三人の大関。高安と豪栄道はよくもまあ恥ずかしげもなく毎場所ごろごろ負け続けるのだろう。今場所も揃って9勝6敗である。新大関として大いに期待された貴景勝は我武者羅相撲の咎めで怪我して早々休場である。正直言って、これら三人の大関には全く期待していない。
 これからは、今日賜杯を抱えた朝乃山が気を引き締めてしっかり上に昇って行くことと、大怪我から立ち直って力をつけてきた竜電が楽しみである。そして、今後どうなるかがまだもう一つはっきりしないが、豊山と照ノ富士である。
 朝乃山と同期デビューで一足先に入幕しながら十両に落ちてしまった豊山が今場所ようやく勝ち越した。5枚目でようやく8勝7敗だから、来場所も十両だが、来場所好成績で再入幕すれば、今度こそ期待出来そうだ。
 一方の照ノ富士。これがデビューした時、伝説の怪力士雷電為右衛門は恐らくこんなタイプの力士だったのではないかと思い、それ以来贔屓にしてきた。照ノ富士は恵まれた体躯と怪力を武器に初土俵後六年で大関になった。しかし、スイスイと出世したせいもあろう、若さに物を言わせ力任せに取る相撲で、無理な相撲が祟って両膝を痛めてしまい、糖尿病まで患って大関陥落、以後は休場休場の連続でなんと序二段まで落ちてしまった。元大関が序二段まで落ちたのは大相撲史上初のことである。ようやく相撲が取れるまでに怪我が回復し、序二段を全勝でなんなく通過、この五月場所は三段目東49枚目で6勝1敗の好成績で終えた。返す返すも惜しかったのは八日目の取組で土俵際「勝った」と思い込んで力を抜いた瞬間、まだ残っていた相手に回り込まれ寄り切られてしまう痛恨のポカをやらかした。これが無ければ七戦全勝で次の名古屋場所は幕下昇進が確実だったのだが、49枚目で6勝1敗では難しいかも知れない。
 それはともかく照ノ富士の両膝は徐々に良くなっているようで、このままで行けば来年初場所には十両に返り咲いて、再び関取として大髻を結えるようになれるかも知れない。
 なんだかんだと悪口を言いながらも相撲は面白い。野球やサッカーやテニスなど問題ではない。最も面白いスポーツだと思う。それが今の幕ノ内の取組を見るにつけ、悪態をつきたくなってしまうのである。しばらくは、こうして下で苦労している力士たちに視線を這わせて楽しんで行くとしよう。
  夏場所を締める異国の大統領
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2019年05月20日

俳句日記 (489)


難解季語 (19)

しょうまん(小満)

 二十四節気の一つで、旧暦四月の中(ちゅう)。二十四節気は一年をほぼ十五日ずつに区切って、その時期の季節的特徴を表す名前を付けた指標である。この内、各月の始めに置いて季節の指標となるものを「節」、その月の真ん中あたりに置いて当月のシンボルを示したものを「中」と名づけている。例えば、二月の節は「立春」、二月の中は「雨水」(雪溶けて雨水となる)という具合である。
 「小満」は「立夏」の十五日後で、太陽暦では五月二十一日頃である。草木が茂り始め、陽気がみなぎる時節を言う。文化五年に刊行された『改正月令博物筌』(かいせいがつりょうはくぶつせん)という、その後の歳時記の手本になった書物には「四月節(立夏のこと)より十六日目を小満と云 萬物次第に長じて満つるの義なり」と書かれている。さらに、「小満の日を麥生日(ばくしょうび)といふ 晴天なれば麥大いに熟す」と述べている。麦の収穫時期であることを告げているのだ。
 二十四節気はすべて季語とされているのだが、人気のあるのが立春、立冬など季節を立てるものを筆頭に、春分、秋分、夏至、冬至や大暑、大寒などである。それらに続いて「啓蟄」「清明」「寒露」などが続く。さしづめ、この「小満」などは人気の無い方の部類であろう。今売られている歳時記の中には載せていないものすらある。
 「小満や一升瓶に赤まむし 斉藤美規」という面白い句がある。田植前の田圃の畦には蛙や虫を狙って蛇が出没する。マムシも出て来る。蝮を焼酎漬にした蝮酒は百薬の長として珍重される。草刈りなどしていてうっかり噛まれると死の苦しみをするほどの毒を持っているが、うまく生け捕りに出来たら儲けもの。早速、一升瓶に入れ、蝮が水面に首を出せるくらいに水を注ぎ込み、逃げ出さぬよう、空気だけは通うように口に布を当てて封じる。蝮は何も食わずに二、三ヵ月生きているが、やがて死ぬ。そうしたら壜の中の水を何度も入れ換えて排泄物などをすっかり洗い流し、そこに焼酎を一杯入れて、冷暗所に貯蔵する。そうやって一年もたつと琥珀色の蝮酒が出来上がる。
 この句は田圃で実際に蝮を捕まえて一升瓶に漬けたという話ではなく、小満の頃の街の蛇屋のショウウインドウかも知れない。とにかく、「小満」という難しい季語に「赤まむし」を取り合わせたのが傑作である。

 小満やどの田も水を湛へをり     小島雷法子
 小満のみるみる涙湧く子かな     山西 雅子

 小満の日も黙々と草むしり      酒呑洞水牛
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2019年05月16日

俳句日記 (488)


薫風の五月句会

 5月15日(水)午後6時半から神田鎌倉橋のビル8階で日経俳句会第179回例会が開かれた。兼題は「五月」と「風薫る」という、この日のお天気にぴったりの季語。22人が出席、15人が欠席投句、合わせて37人から合計111句が寄せられるという、相変わらずの大賑わいだった。
 ところが出句の出来栄えがもう一つで、季節感の薄い句や、極めて常識的な素材と表現の句が多く、またどういうわけかそういう句が高点を集める。まことに実りの貧弱な句会だった。
 かく云う水牛の句も今回はさしたるものが無く、
  思ひきり胸をそらせて五月なり
  風薫る荒川中川橋づくし
  吟行の老を招くや茅花の穂
という、これまた常識的でインパクトに欠けるものだった。やはり「五月」「風薫る」という兼題が、自分で出題しておいて言うのもおかしいが、あまりにも常識的でありきたりの句を誘発する結果を招いたのかも知れない。
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2019年05月13日

俳句日記 (487)


祭囃子流れる土曜昼下がりの句会

 5月11日(土)午後一時から神田鎌倉橋のビル8階で酔吟会の例会が開かれた。ちょうど神田明神のお祭りで、句会会場の真下が「鎌倉橋町内会」のお神酒所。祭り囃子が流れ、神輿が近づくとワッショイワッショイの掛け声が賑やかに伝わって来る。お祭り好きの何人かが窓を開けて下をのぞく、初夏らしい晴れ上がった気温23℃の気持の良い日和であった。
 酔吟会も回を重ねて第140回。第一回例会が開かれたのが平成8年(1996年)5月だから、令和元年の初回である今回はちょうど満23年になる。記録を眺めてみたら、第一回例会(四谷3丁目「互会」)に出席したのは、「原文鶴、立川芳石、大留留圓(黃鶴)、大石柏人、片野涸魚、廣田耕蕨(耕書)、大澤水牛、大沢反平、金指正風、今泉而云、山口詩朗の十一名」とある。今やこのうち六人が異界の住人となり、一人は引退。「23年というのはやはり隔世の感ありだなあ」と思う。
 それでも残った長老片野涸魚さんをはじめ、而云、反平と水牛の四人はまずまず元気に轡を並べ、その後続々と入会してくれた人たち合わせて、この日の出席者は17人、投句参加が3人と旧に倍する盛況ぶりである。
 この日の兼題は「麦秋」と「雹」。投句5句選句7句で句会を行った。酔吟会は昔ながらの「短冊に記入して投句、皆でC記、選句・披講して合評会」という方式だから、流れものんびりしている。午後1時に始めて、合評会が終了したら4時半近くになっていた。
 この日の水牛は何と言う風の吹き回しか、最高点4点が2句、次席3点1句、1点2句という満艦飾であった。
  麦秋の野に大の字のずる休み     (4)
  むざんやな雹の叩きし瓜畑      (1)
  メーデーを茄子苗植うる日と決める  (4)
  春菊のみな花となり夏は来ぬ     (1)
  薫風のひと日江東橋めぐり      (3)
 「麦秋のずる休み」は高校時代の思い出に重ねて、今回令和の10連休という「バカ休み」を詠んだもの。「メーデーの茄子苗」は茄子苗を植えていて、下の国道一号を通るわずか数十人のか細いシュプレヒコールのメーデー行進を聞いていて出来た句。「薫風の江東橋めぐり」は先日の番喜会吟行の時に作った句のお余り。いつもと同じような「身の回り俳句」なのだが、こういうこともあるのだなと思う。
 他の4点句には以下のような句があった。
  麦秋や白黒がよし小津映画        涸 魚
  母の日の電話に妻の晴れやかさ      反 平
  句会果てて野の花残る夏座敷       可 升
  木々の葉を雹打ち鳴らしパーカッション  十三妹
 水牛が良いと思った句は、
  百万株咲き誇る里著莪明かり       操
  雹過ぎて行くや酒場の安普請       而 云
  麦の秋産み月の吾子腹なでて       木 葉
  草刈機高鳴りわたる田植前        てる夫
  えごの花陽の暮れのこる跨線橋      水 兎
  作り物のやうに冷たき雹の粒       ゆ り
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2019年05月10日

俳句日記 (486)


立夏の川風

 2019年のゴールデンウイークは平成から令和へと変わる橋渡しの時期になったために、例年とは全く様相を異にした。なにしろ天皇の生前退位というものを特別立法で認め、退位の式典、新天皇即位式と続いたから、当然のことながら世間の耳目はそこに集中した。こうした行事をこなすために、黄金週間中にとびとびにある平日を祝日にしてしまったから、何と破天荒の10連休ということになった。この間も世界は目まぐるしく動いている。ぶっ続けに10日も休んでしまっては、国際政治やビジネスの世界でいろいろな支障が起こったに違いないのだが、そういった咎めは直ぐには現れないし、政府は自分たちの決めたことに誤りのあろうはずは無いとふんぞり返っているから、マスコミも何も言わないし、ぬるま湯に浸かっているT億2千万国民はぼんやりしたままである。
 偉そうなことを言っている酒呑洞老人だが、もとより何もすることの無い毎日だから、10連休だろうが、とびとび休みだろうが関係無く、「やはり純米吟醸より純米酒の方が酒らしくていいな」なんてつぶやきながら、新しい一升瓶を空けているだけである。
 そんな10連休の最後の日、5月6日は月曜日。本来なら第一月曜日は番町喜楽会という面白い句会の日なのだが、振替休日になってしまったために定例会場が休館で、句会が開けないという。がっかりしていたら会員の可升さんが、「良かったら私が東京の足場にしているマンションを使って下さい」と言ってくれた。都営新宿線東大島駅のそばで、旧中川、荒川、小名木川が流れ、江戸時代の船番所跡には資料館があり、そこを見学してから川沿いの遊歩道を吟行しましょう。というわけで、素晴らしい吟行句会が実現した。
 6日午前十時、川の上にある東大島駅大島口に15名が集合、まずは江戸の水運の玄関口に置かれた関所、中川船番所跡に出来た資料館を訪問、キュレーターから当時の江戸湾、荒川、中川、そして隅田川に繋がる小名木川の様子などを聞いた。その後は川の駅で水陸両用バス「スカイダック」が水しぶきを上げて川に飛び込む情景を見物、小松川公園を経由して旧中川沿いを群れ咲く晩春初夏の野の草花を愛でつつ吟行した。凡そ1万歩強の散策後、廣田可升亭で昼食、句会を始めた。席題「立夏」と「橋」および雑詠の3句を投句、選句5句で句会を行った結果、双歩さんの「大橋を三つ並べて夏の川」、木葉さんの「水陸車上がるしぶきも夏の入り」、水兎さんの「野の花を摘んで立夏の川の道」の3句が5点でトップに輝いた。この他にも「逆上る立夏の潮や小名木川 而云」「初夏のふれあい橋でおり返す 百子」「川またぐ駅は五月の川の駅 白山」など、面白い句がずぶんあった。水牛句は、
葉ざくらのさくら大橋渡りけり
薫風や江東江戸川くまたがり
大盃といふつつじ咲く船番所
 と、我ながらおざなりな三句を並べたものである。一行のてる夫さんが滋賀の銘酒「松の司」と美味い米焼酎「鳥飼」を持って来てくれたのを一人占めするように吞み、さらには可升邸にあった「久保田」その他を平らげて、席題の「立夏」を忘れて「薫風」の句を出してしまうといった塩梅。さはさりながら、すこぶる楽しい吟行句会だった。
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2019年05月02日

俳句日記 (485)


難解季語 (18)

かわずのめかりどき(蛙の目借時)

 晩春の眠気を催す頃を言う俳句独特の言葉だが、一般には理解されにくい。滝沢(曲亭)馬琴が編んだ『俳諧歳時記栞草』には、「夫木和歌抄」(鎌倉後期の類題和歌集、一三一〇年頃成立)巻五の藤原光俊朝臣の歌「つとめすとねもせで夜をあかす身にめかる蛙の心なきこそ」を載せて解説替わりにしている。鎌倉時代に既に歌に詠まれていたことからすると、「蛙の目借時」という言葉はずいぶん古くからあったようである。
 さらに馬琴は「此のめかる蛙とは、目を借ると云心也。夜短く、眠を催すを、蛙の人の目を借よしにいへる俗の諺也」とある。しかし、その「俗の諺」つまり民間伝承なるものも、何故この時期に蛙が人間の目を必要とするのかはっきり説明していないから、意味がよく判らない。蛙がしきりに鳴き交わす晩春は昼も夜も何となく物憂い気分になり、眠気を感じる。「目がいくつあっても足りないくらい眠い」という気分を、蛙を引き合いにして云ったものなのであろう。
 「醒睡笑」(せいすいしょう)という小話を沢山載せた本がある。江戸初期の京都・誓願寺竹林院の住持で茶人でもあった安楽庵策伝が子供時代から聞き集めた面白い話を書き綴って、京都所司代板倉重宗に献呈した本で、寛永年間(千六百年代前半)に刊行され、それ以後の落語、講談などの種本になった本である。その「巻之四」に「蛙の目借時」が出て来る。
 【大名の前にて座頭のひたものねぶるを見給ひ、「何の子細にそれほどねむるぞ」とあれば、「昔より『春は蛙が目をかりる』と申し伝へて候、それはよき目のことに候はんや、われ等のやうなるあしき目をも借り候は、よくよく蛙のよりあひに目のはやる子細御座候や」と申しける】
 「私らのような不自由な目まで借りに来るのですから、今日あたり蛙の寄り合いではさぞかし沢山の目玉が入り用なんでしょうな」と笑いを取ったという頓知話である。この話からも、晩春の眠たさは蛙の目借りが原因だという俗説が行き渡っていたことが分かる。
 一説には「めかる」は「妻狩る」で、蛙が牝を求めて鳴く様なのだという。これに対して季語研究の先達山本健吉は「もとは『媾離り(めかり)=交合を避ける意』で、早春蛙が出現して交尾をすませ産卵してから、もう一度土中にもぐったり、木陰や草陰にかくれて、静止状態をつづけ、初夏になるまで出て来ないことである」という説を立てている。なるほど蟇もアカガエルも産卵後一時姿を消し、春眠をむさぼっている。「妻狩り」にせよ、あるいは「媾離り」にしても、そう言われれば確かにその方が理屈が通っているように思えるが、そんなのは理に落ちるというもので、ひとつも面白くない。やはり、蛙が人間の目を借りに来るという、突拍子もなく民話的な話の方が俳句にはふさわしい。
 とにかく春風駘蕩たる気分の季語であり、このぎすぎすした現代の事物とうまく取り合わせることで、思ってもみなかった効果をもたらす句が生れるかも知れない。今や俳句人口一千万人などと言われて、ブームになっている。ブームはある種のマンネリ化をもたらす。そうしたマンネリ化を打ち破るために、こういう半ば死語と化した奇妙な季語を再発掘することが、新機軸を打ち出すきっかけにならないとも限らない。しかし、「カワズノメカリドキ」では、これだけで九音とってしまうので、句作の上で不便であることから、実作では単に「目借時」と五音で用いることが多い。
  怠け教師汽車を目送目借時       中村草田男
  顔拭いて顔細りけり目借どき      岸田 稚魚
  煮ものして窓のくもりし目借どき    檜  紀代

  目借時と言ひて自分を甘やかす     酒呑洞水牛
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2019年04月29日

俳句日記 (484)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (3)

気さくな貫首さん

 翌4月22日朝も良い天気。5時頃になると起き出す人が次々で、春日大社の方まで早朝散歩に出かけたりしている。こちらは知らん顔して寝坊を決め込むが、周囲のざわめきにいつまでも寝ては居られない。7時に起きて朝風呂を浴び、朝食会場に出かけた。もう全員そろってぱくついている。どこの宿屋にもあるような朝食献立だが、茶粥が添えられているところが奈良らしい。
 今日は今回吟行のもう一つの目玉、昨年10月に完成した興福寺中金堂を見学する。それにオマケがついて、興福寺の多川俊映貫首が本坊で茶を振る舞って下さるという。日経俳句会会長の中沢義則文化部編集委員が、多川貫首の「私の履歴書」の担当記者になった縁で、「薄茶を差し上げながらちょっと興福寺縁起でもお話ししましょう」ということになったのだ。それは有難いことではあるが、堅苦しいのは御免被りたい。みんな吟行スタイルでジャンパー姿などが多いし、第一、膝や腰を痛めているのが多くて、まともに正座出来る人がほとんど居ないのだ。「そのあたりの事をよく言っておいておくれよね」と頼んだら、中沢君「はいはい分かりました。でもね、多川さんはざっくばらんな人柄で、そんなこと気にしませんよ」と言う。
 まさにその通りだった。享保2年(1717年)に消失した伽藍を三百年ぶりに、天平時代の姿そのままに再建するという、「平成の大事業」を成し遂げた貫首である。さぞや威厳あるお坊さんだろうと思っていたら、モンペのような装束に輪袈裟を掛けて飄々と現れ、興福寺についての話をしてくれた。
 さてその中金堂、案内の若いお坊さんがあれこれ説明してくれた。実に壮大華麗な金堂である。白壁と朱の柱、黒灰色の瓦屋根の天辺に金色の鴟尾が勢い良く尾を跳ね上げ青空に映えている。金堂中央に安置されている釈迦如来座像も金色燦然。右手の円柱は法相柱と呼ばれる堂を支える数十本の巨大円柱の中心だが、ここには法相宗を伝えたインド、中国、日本の高僧が極彩色で描かれている。当然と言えば当然なのだが、すべてがまばゆい。くすんだ古色蒼然たる寺院や仏像に慣れた眼からすると、けばけばしくて有難味が薄いようにも思える。しかし、これこそ天平時代の出来たばかりが生まれ変わって出現したのだ。
 国宝館へ行く。ここはもうお馴染みだ。あまりにも有名な「興福寺の阿修羅像」。じっと見入ると心が落ち着く。奈良へ行けば必ず興福寺の国宝館で阿修羅を拝むのだが、ここで私が一番好きなのは実は板彫りの十二神将である。それぞれ個性豊かな表情と姿で、何度も何度も見直す。いくら見ていても見飽きない。
 昼食はまた元来た道を辿って、飛鳥荘の近くの蕎麦屋「季のせ」。まずは蕎麦掻きと蛸の天麩羅などで、奈良の銘酒「春鹿」超辛口、もう一つの老舗豊澤酒造の「豊祝」を飲む。十割蕎麦は少々洗練され過ぎている感じがしたが、美味いことはうまい。別に取った海老天蕎麦がとても旨かった。「関西で蕎麦か」などという雑音があったが、今日ある麵状の蕎麦は元々は奈良で生まれたものである。大昔から日本人は蕎麦も饂飩も食べていたが、蕎麦粉は粘着力に乏しく、粉を練って伸ばして切るとばらばら、ぶつぶつ切れてしまう。しょうがないから粉を練って丸めたり平たくしたのを湯がいて「蕎麦掻き」にして食べていた。それを江戸時代の初め、東大寺の賄い方の坊さんが蕎麦粉にうどん粉を混ぜて捏ねて平に延ばして切れば、麵状のものが出来ることを発見した。これが「蕎麦切り」として全国に広まったのだ。というわけで、奈良で蕎麦を味わうのは至極真っ当なことなのである。
 一同昼の旨酒に大満足。お勘定も前日収めた「宿代含めて二万円」の中にぴったり納まって百子大幹事の腕前に驚嘆。ここで「蕪村生誕地と興福寺を訪ねる吟行会」はお開きとなった。行を共にしていた三四郎句会の面々とは既に興福寺で別れており、昼食懇親会の20人もここから三々五々散ることになった。
 水牛は涸魚長老と鷹洋、二堂と「久しぶりだ、東大寺の大仏さまを拝んで行こう」とタクシーで浮見堂を経由して山門前まで。修学旅行の中学生と外国人観光団体がひしめく中をかいくぐり、大仏殿を一周、さらに二月堂まで行く。しかし、二月堂の山の麓まで上って来て、さあこの急階段。皆々尻込みして、茶屋でソフトクリームをなめて仰ぎ見るに留めた。
  中金堂鴟尾のひかりや夏隣     酒呑洞水牛
  春愁と無縁もんぺの貫首さま
  包装紙令和と変へて春の餅
  煎餅くれと辞儀する鹿や暮の春
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2019年04月26日

俳句日記 (483)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (2)

なんと歌仙一巻

 毛馬堤を散策し、淀川が旧と新との二つの流れに分かれるところにある大きな閘門を打ち眺め、堤下に出来た蕪村公園で一休み。日経俳句会元会長で今はテレビ大坂の重役を務める高橋ヺブラダさんが前以て念入りに調べて下さった蕪村関連施設を順序よく辿った。そのヲブラダさんがシャンパンやビールを担いで来てくれて、公園のベンチで一行に振る舞って下さる。汗ばみ、乾いた身体に冷えた飲み物が心地良い。
 元気回復し、皆々、淀川神社の蕪村像に対面、毛馬橋を渡り、メトロ天神橋筋六丁目駅まで二`ばかりを歩いた。途中、日本橋駅で近鉄に乗り換え、午後四時過ぎに奈良駅に到着、猿沢池畔の旅館「飛鳥荘」に着いた。
 猿沢池畔には修学旅行の中高生を泊める団体旅館がいくつかある。七〇年前に私が泊まった魚佐旅館もそうだ。飛鳥荘というのも一泊二食一万四千円とずいぶん安いから、恐らくその手のものだろうと思っていたら、どうして中々の造りで、おかみさんはじめ従業員もちゃんとしている。部屋も立派だし、風呂も、夜の料理も上等だった。不思議だなと思っていたら、幹事の一人徳永木葉さんの知り合いが支配人で、大サービスをしてくれたのだという。
 温泉に浸かって疲れを流し、懇親夕食会では美味しい料理と支配人が贈ってくれた「春鹿」大吟醸はじめ奈良の銘酒を心ゆくまで楽しんだ。
 宴の果てて、「お先に」と引き取ったのはわずか二人。残り十八人がどっと幹事部屋になだれ込み二次会。平均年齢七〇ウン歳の団体とは到底信じられない。誰が言い出したのか定かで無いが「連句をやりましょう」ということになった。半分は「連句なんて初めて」と尻込みする人たちだったのだが、有無を言わせず始まった。しかし、そういう人たちも結構楽しみながら何と二時間ばかりで歌仙を巻き上げてしまった。式目を無視したものもありはするものの、素晴らしい歌仙が生まれた。

歌仙「淀川簡易トイレの巻」
淀川の簡易トイレや春の風      高井 百子
 凧揚げる子の伸びる右の手     堤 てる夫
のどかなる長堤句友労り合ひ     岡田 鷹洋
 歩きに歩き一万歩超え       植村 博明
豹柄の浪速のオバチャン夏の月    岩田 三代
 席をゆづらぬ老若男女       嵐田 双歩
(ウ)
秋の空春日大社の鎮座して      向井 ゆり
 柵無し危険霧の猿沢        工藤 静舟
恋ひとつ拾った朝の鹿の声      須藤 光迷
 煎餅売る婆につと笑へり      大澤 水牛
吾が女房阪神好きが玉にきず     廣田 可升
 吹雪に想ふ秋田象潟        玉田春陽子
大仏の見下ろしている霜の庭     中村 迷哲
 蕪村震へる淀の川風        中沢 豆乳
閘門に詩朗の笑顔春の雲       山口斗詩子
 シャンパンの泡月朧なり      大下 綾子
花散らしAKBの空騒ぎ        徳永 木葉
 毛馬橋渡る女子高生よ       澤井 二堂
(ナオ)
しゃぼん玉はじけはじけてお父さん     百子
 夜間中学春の灯火            鷹洋
うららかや水面の鳥の呆け顔        博明
 先人の句碑麦秋の色           三代
ふすま開けしとねの色に目が覚めて     双歩
 思ひ焦がれた恋の年とる         ゆり
気もそぞろ女将の去りて宿ゆかた      静舟
 チュッチュチュッチュと鬼灯を吹く    光迷
どうするの伸びる朝顔つるの先       水牛
 紅葉の錦下衆のまにまに         可升
落柿舎の中天にあり居待月         春陽子
 露天風呂から望む寺町          迷哲
(ナウ)
冬銀河恋文を焼く貫首さま         豆乳
 新聞記事に書けぬことあり        木葉
トランプの痩せる思ひの春口舌       鷹洋
 ノートルダムのあっと燃え尽き      博明
花浮かぶ大河二つに別れたり        双歩
 中金堂に集ふ旅人            静舟
                      (満尾)
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2019年04月24日

俳句日記 (482)


蕪村生誕地と興福寺吟行 (1)

 4月21日(日)と22日「月)の一泊二日で、蕪村の生誕地とされる大坂市都島区毛馬町の淀川堤と、昨秋完成した興福寺の中金堂を訪ね、日経文化面の「私の履歴書」に登場した多川俊英貫首に茶を御馳走になって話を聞くという、ずいぶん盛りだくさんな吟行会を行った。日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の共催で、参加者26人の賑やかな催しになった。
 〈春風馬堤散策〉
 与謝蕪村(元は谷口氏を名乗る)は享保元年(1716)に摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)の富裕な農家に姉二人の末息子として生まれた(弟子の高井几董の『夜半翁終焉記』)という。しかし、少年時代に両親を亡くし、家運傾き没落、一家離散の憂き目に遭ったらしい。几董の書いたものには少年蕪村は狩野派の絵師について画業に勤しんだとあるから、農家といってもかなりの家だったのであろう。それが一気に没落しただけに、少年蕪村は非常なショックを受けたに違いない。そのせいか、蕪村は後年、有名人になってからも自らの幼少時代や青年期の過ごし方については一切書いたり話したりしていない。僅かに、名作『春風馬堤曲』を著した折に、後援者でもあった弟子に宛てた手紙に「馬堤は毛馬塘也即余が故園也」と書いていることと、愛弟子几董に断片的に述べたものを几董が書き遺したものから、淀川河口近くの毛馬村が生地であることが窺えるのみである。
 少年蕪村は生まれ在所でよほど辛酸を舐めたに違いない。二度と再びこんな処に帰って来るものかと飛び出したようだ。18歳くらいで江戸に出たらしく、毛馬と雰囲気の似た江戸の墨東地区で人足のようなことをしているうちに俳諧師匠の夜半亭早野巴人を知り、22歳の時、巴人の日本橋本石町の住込み門人になることが出来た。有力俳人の内弟子になれたことが蕪村(当時は宰鳥)出世の糸口だった。ここで俳諧の実力を蓄え、画業にも励んだ。巴人没後も北関東に散在する夜半亭一門の有力俳人の支援を受けて宇都宮で宗匠立几、36歳で京都に赴き、画業と俳諧宗匠として大立者になった。
 京都に住んでから死ぬまでの32年間、蕪村は関西各地、四国へ度々出かけているのに、生まれ故郷の淀川河口・毛馬村にはただの一度も足を踏み入れていない。余程の怨念があったに違いない。そのくせ、豊かな幼少時代を過ごした淀川河畔は懐かしい。「帰りたいのに帰れない」そんな心境が、名作『春風馬堤曲』となり、『澱河歌』(澱河とは淀川のこと)となってほとばしり出たのではなかったか。
 そんなことも考えながら、この蕪村生誕地をぜひ一度歩いてみたいという願いがようやく叶った。
 平成最後の4月の毛馬堤は太陽燦々、まことにあっけらかんとしていた。名所も無ければさしたる偉人もいない都島区としては、何がなんでも蕪村を地元出身の偉人にしたいのだろう。昭和40年代になってから、毛馬堤に蕪村碑を拵え、堤防外には「蕪村公園」を作り、淀川神社には蕪村の銅像を造った。3月に開通したJRおおさか東線の「城北公園駅」前のみすぼらしい商店街はなんと「蕪村通り」という看板を掲げていた。なんとしてでも蕪村さんに故郷へお帰り願いたいとの熱誠が込められているようである。
  春の夢蕪村と歩む毛馬堤   酒呑洞水牛
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2019年04月18日

俳句日記 (481)



日経俳句会第178回例会のこと
「春燈」「竹の秋」と雑詠に35人から104句

 4月17日(水)夜、日経俳句会の第178回が開かれた。今回の兼題「春燈」はまだしも「竹の秋」が少々難しかったようで、句会での票が割れた。
 句会は投句3句、選句6句(欠席者は5句選)で行った結果、最高点は8点で欠席投句参加の金田水さんの「春の灯やとなりに若き一家来る」の一句だった。「何しろ気分の良い句」というのが大方の褒め言葉であった。次席7点は「春燈やレッスン室の影ふたつ てる夫」「宿下駄で降りる石段春燈 水兎」「竹の秋片頬かげる磨崖仏 木葉」「春風を見てをり杖に手を重ね 而云」の4句、三席6点は「風やわらか慣らし保育の涙跡 ゆり」「田起こしや土黒々と命棲む 三代」の2句だった。
 5点句は「春の燈や回覧板の行くところ 博明」「山峡に春燈ぽつり無人駅 庄一郎」「まんぷくのこども食堂竹の秋 冷峰」「新しき朱の春帽子六地蔵 昌魚」の4句。4点句は「春燈や宿の図書室ひとり占め 綾子」「路地裏に三味の爪弾き春あかり 操」「大王の墳丘鎮め竹の秋 反平」「鎮魂の旅の終はりや竹の秋 阿猿」「廃線を抱くようにして竹の秋 十三妹」「眠る田の畦をふちどり蓮華草 木葉」「花散らし風は嘯くまた逢おう 十三妹」「うぐひすの呼ぶよ下総酒処 水牛」の8句だった。
 上記以外で水牛が採った句は以下の通り。
一言に優しさ宿る春灯し    実千代
 ちょっとした心遣いの一言が優しさと温みをもたらしてくれた。「春灯」とよく呼応している。
再会に心満ち足り春燈     反平
 お互いのちょっとした都合などから長年会えず仕舞になっていた人との、ようやっとの再会。「良かったなあ」という気分が「春燈」にぴったり。
終りなき住持の説教竹の秋   二堂
 坊主の説教はつまらないものと相場が決まっている。それを長々とやられる。仲春の「竹の秋」の季語がとても良く合っている。
にべもなく切れし電話や竹の秋 水兎
 別に竹の秋とは限らないのだが、こういうことはちょくちょくある。竹の秋は「木の芽時」にも相通じ、なんとなくこうした雰囲気が合うなあとも思う。
 水牛句は、
春燈のうしろ姿のやはらかし   (1点)
取れすぎし青菜頒けゆく竹の秋  (2点)
うぐひすの呼ぶよ下総酒処    (4点)
 という結果だった。9日の下総吟行の句が高点取ったのは嬉しかった。「春燈のうしろ姿」は自分ではなかなか良くできたと思っていたのだが、あまり評価されなかった。
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2019年04月16日

俳句日記 (480)


難解季語 (17)

かと(蝌蚪)

 おたまじゃくしのことを中国語で「蝌蚪(kedou)」と言い、昔の俳人はこの字を書いて和名の「かへるご」(蛙子)と読んでいた。「松」を「まつ」、「鹿」を「しか」と読むのと同じである。しかし、いつのまにか「かへるご」という呼び方が廃れてしまって、「おたまじゃくし」とか「おたま」と呼ばれるようになってしまったために、俳句の世界では問題が生じた。
 「おたまじゃくし」では、それだけで六音もある。また、その形が台所道具のお玉杓子ににているからと名づけた女房言葉のようでもあり、幼児語のような響きがあって、真面目に心境を吐露するような場合にはなんともそぐわない。それやこれや、「おたまじゃくし」ではどうも詠みにくい。というわけで、明治以降の俳人は蝌蚪を「かと」と音読みして使うことが多くなった。今日でもおたまじゃくしの句は「蝌蚪」を使用する例が圧倒的に多い。
 「音読み」というのは、漢字の言葉を発音通りに読んで、日本語に取り入れたものである。現代に当てはめれば、英語を和名に直さずに、例えば「猫餌」を「キャットフード」と現地音に似せた言い方で用いるやり方である。
 しかし俳句をやる人以外は「蝌蚪」という文字を見て即座にオタマジャクシと理解出来る人は少ないだろう。普通の人が理解出来ない言葉を俳句に用いるのは良くないと思う。季語研究の第一人者山本健吉は「(オタマジャクシの蝌蚪を)俳人は『かと』とも音読して用いている。あまり好ましいこととは思えないが、虚子が用い、俳人たちは滔々としてこれに従い、大勢如何とも抗しがたい」と『日本大歳時記』(講談社)の解説で嘆いている。
 ただ、春の使者として魅力的な句材のオタマジャクシを詠みたいと思う俳人はとても多い。その結果、「虚子大先生が詠んでいるのだから」と、「蝌蚪」の大合唱になるのだろう。こうした姿勢が俳句の通俗化、堕落化をもたらすのだが、通俗のぬるま湯に浸って句をものするのも又実に心地がいい。ここが俳句の万人の文芸となると同時に通俗のゴミ溜めともなる所以である。
 しかし、現代俳人たるもの、「蝌蚪」などという世間には通用しない無理な季語とは決別し、なんとかして「おたまじゃくし」で詠みたいものである。
 「蝌蚪」と詠んだ句はとても多い。

 天日のうつりて暗し蝌蚪の水       高浜 虚子
 降りそそぐ雨にかぐろし蝌蚪の陣     高橋淡路女
 川底に蝌蚪の大国ありにけり       村上 鬼城
 蝌蚪うごめくピカソの訃報伝へ来て    山口 青邨
 病みて長き指をぬらせり蝌蚪の水     石田 波郷
 飛び散って蝌蚪の墨痕淋漓たり      野見山朱鳥

 おたまじゃくし進まぬやうに泳ぎをり   酒呑洞水牛
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2019年04月13日

俳句日記 (479)


難解季語 (16)

ぬけまいり(抜参)

 歳時記には「伊勢参り」の傍題として載っている。親や主人(雇い主)に無断で伊勢参宮に赴くことを言う。江戸中期、「一生に一度は伊勢参りをするものだ」ということが盛んに言われ始め、伊勢参りがブームになった。松尾芭蕉もその例に洩れず、『笈の小文』の旅を終えて故郷の伊賀上野で正月を過ごした元禄元年(1688年)二月、念願の伊勢神宮に参拝した。しかし、当時は僧侶の風体では内宮には入れなかったようで、外宮のみの参拝に終わった。
 伊勢参りは時期を問わず一年中行われるのだが、やはり三月半ばから五月ころまでの気候の良い時期が最も盛んだった。それで「伊勢参」は春の季語となっている。江戸から伊勢神宮まで片道十五日間、大坂からは五日間の旅だった。とにかく大旅行である。贅沢をせずともやはりかなりの費用がかかる。そこで、伊勢参拝を志す人たちが集まって「伊勢講」「太太講(だいだいこう)」という一種の無尽組合を作り、毎月寄り合ってはなにがしかの積立金を出し合う。籤を引いて当たった数人がその積立金を旅行資金として参拝団を作り、伊勢神宮に参り太々神楽(だいだいかぐら)を奉納し、講中の人たちへの記念のお守りはじめ土産の品々を携えて戻る。籤に外れた連中は参拝団の土産話を聞きながら、すぐに来春の計画を練り始める。たとえば30人で講を作り、毎年四月に6人の参拝団を送り出すとしてその費用を割り、事務経費を足したものが掛け金となる。くじ運が悪くてハズレ続けたとしても、五年待てば必ず行ける。江戸時代から昭和後半まで、こうした掛け金を出し合う「無尽」が息長く続いた。こうした「講」とか「無尽組合」が発展したものが信用組合、信用金庫なのだ。
 それはさておき、無尽の掛金も出せない貧乏人や、まだ大人とは認められない丁稚や下女連中はもちろん伊勢講には入れない。しかし、何とかお伊勢参りに出かけたい。そういう連中の中で冒険心に富んだのが密かに誘い合わせ、職場放棄して伊勢に向かった。主人や親は心当たりを探すが、やがてどこからともなく「抜参り」だということが伝わると、「それじゃしょうがない」と放任した。飛び出した方は元より素寒貧、野宿覚悟の旅なのだが、良くしたもので、街道筋の商家や農家の人たちは「抜参り」と知ると飯を食べさせたり、中には土間に筵を敷いて泊まらせ、翌朝は握り飯と小銭を与えて送り出すといったことが普通になった。その内に、抜参りの連中は柄杓を持って歩き、それで沿道の家々から小銭を受け取るようになり、その柄杓が伊勢参りの目印になった。
 江戸時代を通じて「伊勢参り」は年中行事のようになった。慶安三年(1650年)三月中旬から五月にかけて、箱根関所を通過した伊勢参宮の人間が普段の十倍一日平均二千五百人に上ったという記録が残っている。その後も伊勢参りブームはほぼ60年周期で起こった。この現象を「お蔭参り」とも言う。宝永二年(1705年)がその最たるもので、四、五月の二ヵ月間の伊勢神宮参拝者が370万人に上ったという。当時の日本の推定人口は2770万人だから、二ヵ月で370万人の参詣者というのはけたたましい数字である。その後も断続的に伊勢参りブームが起こり、慶応三年(1867)夏には倒幕運動を煽る分子の策略もあったのか、三河の村々に伊勢神宮の御札が降ったのをきっかけに「ええじゃないか」踊りが大流行した。老若男女こぞって「ええじゃないか」と叫び囃しながら踊り狂い、そのまま伊勢へと旅する熱病現象で、この年の冬にかけて「ええじゃないか」が中国、四国、関東、甲信地方にまで広がった。
 明治維新以後も伊勢参りは人気を保ち続けたが、もう「ええじゃないか」の熱病のような参拝道中は見られなくなった。親や雇い主に内緒で抜け出す「抜参」もいつの間にか止んだ。夏休みや年末年始休暇、そして有給休暇制度のある今日では、人目を盗んでの「抜参」など、理解しがたい言葉になってしまった。
  煙草屋の看板娘抜参     酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 21:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする