2019年02月18日

俳句日記 (454)


日経俳句会のこと

 日経俳句会は日経新聞社員のクラブ活動の一つとして平成16年(2004)7月、既存の「銀鴎会」と「水木会」という二つの句会を母体に生まれた。日経診療所顧問で俳人の村田英尾先生を主宰に仰ぎ、水牛が世話人(幹事長)として会員30数名でスタートした。
 英尾先生は大正10年(1921)生まれの戦前派。太平洋戦争の激しくなった頃に東大医学部に入り、沖中内科の俊秀として戦後の昭和21年に実施された第1回医師国家試験にトップの成績で合格したという伝説の持主である。学生時代から俳句が好きで山口邨の弟子だったのだが、沖中教授に「お前は俳句などにうつつを抜かしていいと思っているのか」とどやされて、ぷっつり止めたという、これまた伝説の持主でもある。生まれついての温厚なお人柄で、人を押し退けて先頭を走ることが苦手な質だった。それやこれやあって、地方の病院回りや筑波大学教授、大妻女子大学教授などを経巡って、日経診療所長として悠々然たる晩年を送られた。その所長も後進に譲って顧問になった平成10年(1998)春、「水牛さん、私も本格的に俳句を再開しようと思うので、句会を立ち上げてくれませんか」とおっしゃる。こうして始まったのが「銀鴎会」だった。日経の現役、OBを中心に英尾先生と水牛の友人を語らって、銀座の交詢社の会議室を借りて句会が始まった。
 平成13年暮れ、英尾先生が「診療所に来る人たちに俳句をやりたいという人がかなりいます。しかし、いきなり銀鴎会では敷居が高すぎる。私も手伝いますから水牛さんが手ほどきする句会を作って下さいな」とおっしゃる。ということで生まれたのが「水木会」である。ずぶの素人ばかりでどうなることかと思ったが、たちまち上達し銀鴎会の人たちに負けない句を詠むようになった。
 銀鴎会も水木会も英尾先生の主宰、顔ぶれも日経現役OBとその友人知己であり、吟行会は両者合同。これはいっそのこと合併した方がいいということになった。こうして2004年夏に二つを一緒にして「日経俳句会」が正式に誕生、会の公式機関誌『日経俳句会報』の発刊準備を進めていた2005年3月2日、英尾先生が急逝された。
 この後、日経俳句会は「主宰」を置かず、幹事団による集団合議制で会を運営し、何か問題が発生すれば毎月の例会に計って決めて行くということで進んできた。現在は会員59名を擁するしっかりとした句会になっている。
 会員が多くなり句会開催に種々の問題が生じた。現役世代も多いから例会の開催時間が夜間になるため、句会は2時間程度に収める必要がある。ということで、「事前投句・事前選句」を行い、句会当日は「選句披講」から始め、合評会を眼目とする句会と決めた。投句数も当初の5句から近年は3句にしている。
 最近の句会は1月16日に「新年一般」と「雑詠」で行われた第175回。以下のような佳句が寄せられた。
  また元の二人に戻り七日粥     嵐田 双歩
  天皇の声震わせて去年今年     植村 博明
  妻癒ゆる日を願ひけり大旦     大沢 反平
  命名の筆の硬さよ初硯       高井 百子
  端然と坐るが如く独楽回る     石 昌魚
  福顔の巫女より受ける破魔矢かな  大熊 万歩
  交叉点見下ろす眼光初烏      中嶋 阿猿
  断捨離の部屋隅々に初明り     野田 冷峰
  余生と言ひ晩年と言ひ雑煮喰ふ   廣上 正市
  十客の朱きお椀に集ふ春      池村実千代
  夢破るお掃除ルンバ寝正月     谷川 水馬
  赤き実の垣根に見ゆる三日かな   今泉 而云
  築地からどこへ越したの嫁が君   加藤 明生
  賀状読む友が周りに居る心地    澤井 二堂
  三が日巡査はすっくと交番に    鈴木 好夫
  門松の鋭く立ちて株下落      徳永 木葉
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2019年02月17日

俳句日記 (453)


いいぞ! ナナ子

 2月17日(日)、今年初めての中央競馬GTレース(最上級レース)が東京競馬場(府中)で行われた。これにデビュー4年目の女性騎手藤田菜七子(21)が登場、にわかに盛り上がった。フェブラリーステークスはGTとは言っても芝が枯れていてまともな馬が出て来ない冬場に呼び物をこさえようと、競馬会が砂馬場(ダートコース)の王者決定戦としてしつらえた競走である。夏のダービー、オークス、暮れの有馬記念など、芝の大レースとは違って地味である。だから、このレースには例年なら入場者は4万人台なのが、今日はなんと6万人を超える人が詰めかけた。
 これまでに日本の中央競馬には女性騎手が5,6人いたが、いずれも物にならないまま消えてしまった。それが、菜七子はデビュー3年で50勝を挙げ、今日、中央競馬会始まって以来初めて女性騎手でGTレース出場ということになったから、物凄い人気になったのだ。
 ナナコの騎乗馬はコパノキッキングという4才去勢馬。これまで4連勝しているとは言っても1400mしか走ったことがない。距離が200m延びてどうか。それに6連勝中の本命馬インティや6才牡の実力馬ゴールドドリーム、5才牡のサンライズノヴァ、サンライズソア、4才牡で実績のあるオメガパヒュームといった錚々たるメンバーに入ってはどうしても格下の感じが否めない。にもかかわらず4番人気になったのはナナコ人気の然らしむる所。水牛ももちろん、コパノとゴールド、オメガ、それに気になるユラノトという牡5才の組み合わせで買った。
 レースは逃げると思ったサンライズソアが、ポンと出たのにどういうわけか控えてしまって、本命のインティを楽々と逃がし、そのペースでレースが運んだ。初めての距離延長を考えたナナコはスタート直後手綱をぐっと引き絞って控え、後方待機して力を温存、ビリで進んで最後の直線に勝負を賭けた。しかし、逃げ馬の、それも実力のあるインティにマイペースで逃げられては、最後方から直線だけで勝負するのは無理。とても届かない。それでもナナコとコパは頑張って、どん尻から他馬をごぼう抜きにして、なんとか5着(入賞)にまで来た。インティを軽視していたから馬券は外したが、この奮闘には感激した。
 まあGT初挑戦のナナコを慮った馬主と厩舎が、「運が良ければ4,5着」をねらって「後方待機・直線勝負」を指示したのかも知れない。しかし、それを実行して期待通りの成績を収めたのは偉い。これまで水牛にはナナコを、タレント気取りの女騎手と軽んじる気持があったのだが、今日のレースですっかり見直した。ナナコは日本の競馬界に現れた本格的な女性ジョッキーの嚆矢と言っても良さそうだ。
  早春の府中を疾駆美人騎手
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2019年02月14日

俳句日記 (452)


酔吟会のこと

 酔吟会という句会は日経社会部のOB連中が作った句会で、平成8年(1996年)に発足した。大留黃鶴さんという昭和5年生まれの先輩が元の社会部長で俳句のたしなみがある原文鶴さんを担ぎ、私と二年先輩の廣田耕書さんを番頭役にして12名で立ち上げた。と言っても、句会の場所が黃鶴さんの幼馴染みがやっていた四谷の碁会所で、碁を打ちながら酒を飲み、そのついでに句会もやろうという、その名も「酔吟会」。真面目な俳人が怒り出すようないい加減な俳句会であった。
 原宗匠が兼題を出し、一同5句ずつ作って出席し、短冊に書いて投句、それを皆でC記し、選句、披講、合評会へという伝統的な方式で句会を行った。二ヵ月に一回句会を開き、春秋二回日帰り、時には一泊二日の吟行を繰り広げた。元々筆達者な連中だから、見よう見まねで詠んでいた俳句も間もなく形がついてきた。しかし、口八丁の社会部の猛者連だから、実に騒々しい句会だった。みんな自分の句が一番だと思っているから、点が入らないとあからさまにふくれっ面になる。高点句をあしざまに罵る。罵られた方も黙ってはいない。二三倍の音量でやり返す。これに、句会前の碁の勝ち負けを巡るあれこれが重なるから、ますますひどいことになり、しまいには「何を、もう一度言ってみろ」「ああ、何度でも言ってやるわ」「うーむ、我慢ならん、もうお前とは金輪際口をきかん」「ああそれはこっちのセリフだ」という具合で、合評会もへったくれも無くなってしまうことも再三だった。それが二ヵ月後には、絶対に口を利かないはずの二人がまたにこやかに碁盤を囲んでいる。そんな具合の句会であった。
 しかし、定期開催場所の碁会所が閉店することになり、平成11年から日経本社(大手町旧社屋)社友室を土曜日午後に開けてもらい、以後10年間ここを根城とした。平成21年5月に皇居堀端に面した所に日経新本社が落成、旧社屋が取り壊されることになり、本社側の配慮で鎌倉河岸の日経広告研究所会議室を使用することになって今日に至っている。それと同時に酔吟会は伝統ある名称を残したまま日経俳句会の分科会となり、それまでの「社会部OBの句会」から広く一般に会員を募るオープンな句会に生まれ変わった。
 今では発足当初の破天荒な句会とは打って変わり、極めて大人しい、オーソドックスな句会になっている。メンバーも発足当初の12名の内、原宗匠、大留幹事長以下6人が鬼籍に入り、引退した人もあって、発足時メンバーで残っているのは片野涸魚、大沢反平、今泉而云に水牛のわずか4人になってしまった。その替わり、新進気鋭が続々参加し、20数人の生き生きとした句会に生まれ変わっている。酔吟会の良いところは、出席して短冊に作品を書いて投句し、それを出席者がC記し、選句、披講、合評するという伝統的な句会の方式を守っていることである。日経俳句会、番町喜楽会が参加者多数で投句総数が膨らんだ結果、「事前投句・選句」方式を取っているのと対照的に、土曜の昼下がりに悠々と句会の雰囲気を楽しめるところがいい。また、会発足以来の「二ヵ月に一回」開催というインターバルを守っているところも、ゆったり感をもたらす所以のようだ。
 1月12日(土)午後1時に今年初めての酔吟会が開かれた。兼題は「新年一般」、雑詠を含めて投句5句、選句7句での初句会。多彩な句が次々に披露された。人気を呼んだ句には次のようなものがあった。
 乗り過ごすこともめでたや初電車   嵐田 双歩
 ほぐしたる初髪ピンのあまたかな   星川 水兎
 頑張らない一年の計初雀       久保田 操
 松明けぬ豆腐屋店をたたみしと    須藤 光迷
 五色豆色それぞれの淑気かな     玉田春陽子
 廃れしは車の鼻の注連飾       徳永 木葉
 悪筆の元気ですかと問ふ賀状     廣田 可升
 ひよどりも烏も鳴かず雪催      大澤 水牛
 冬蠅や図書館ひとりシルバー席    岡田 鷹洋
 初夢やあの世この世を行き来して   片野 涸魚
 用水の微かに流る根白草       高井 百子
 元旦や患者ラッシュの当番医     堤 てる夫
 デパートで妻の転びし二日かな    今泉 而云
 おみくじの打ち捨てられて冬桜    大沢 反平
 浅漬けの紅大根添へ七日粥      大平 睦子
 書初めに一路邁進卒寿の書      工藤 静舟
 寝正月畝の潰れしコーデュロイ    谷川 水馬
 秩父路の狼吠えよ寒満月       野田 冷峰
 新春や時計の針を戻せたら      藤野十三妹
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2019年02月09日

俳句日記 (451)


難解季語

 NHKは毎週土曜日の午前11時頃から「ラジオ文芸選評」という番組を放送している。毎週交代で、俳句、短歌などを一般から募集し、プロの俳人、歌人が選び、選評を述べる。真面目でしかもほのぼのとした雰囲気の、とても良い番組だ。NHKが僅かに残している良心的番組の一つである。
 2019年2月9日は「俳句」。選者は西村和子という『若葉』から出た70歳くらいの元気なオバアチャン俳人で、きびきびした物言いが面白い。この日の兼題は「冴返る」で、いつものように入選作品を手際良く論評していく。
 私は何かしながら付けっぱなしのラジオを聞いているので、もしかしたら聞き違いかも知れないのだが、ふと聞き咎めた。冴返るの説明をしながら、「三寒四温という言葉もあるように、ちょっと暖かい日があるとまた寒さが戻るといった、そんな感じで・・・」というようなことを述べていたのだ。
 こういうベテランの俳人でも間違いを起こすんだなあ、季語というものはこわいなあと思った。「冴返る」は早春の季語だが、「三寒四温」はれっきとした冬の季語なのだ。
 三寒四温とは昔日本が中国東北地方や朝鮮半島を膝下に組み敷いて、盛んに進出していた頃、その方面の冬期の気象変化を言う言葉を季語に取り立てたものである。字の通り、三日寒い日が続くと四日暖かい日が続く。こうして厳冬に突入して行くという様子を示す現地語なのだが、「日本でも本格的な冬への移り変わりは似たような塩梅になる」ということで、大正から昭和初めに盛んに用いられるようになった。しかし、戦後、満州も朝鮮も日本の手を離れ、「三寒四温」という季語もいつの間にか忘れ去られたようになった。
 ところが、この十数年、「三寒四温」を春の季語と勘違いしたような句が目に付くようになった。「三日寒いとその後に四日暖かい日が続き、だんだん春の陽気が定着する」という解釈で、むしろこの方が、日本内地の春にぴったりな感じである。このままもう10年も経過すると、「三寒四温」は「春の季語」ということになってしまうかも知れない。
 季語も時代とともに古びたり、意味合いが変わるものが出て来る。そういった場合、やはり古格を守って、季語の持つ「本意」を大切にするか、時代と共に変わる解釈を容認すべきか。絶滅に瀕した季語をしっかり守るべきか、それともそういうものはさっさと捨てて、現代カタカナ語やローマ字略語などをどんどん取り入れていくべきか。
 一方で、俳句というものに「べき論」は似合わない、成り行きに任せた方がいいという考え方もあろう。とにかくいきなり一刀両断、結論を出すのは乱暴だ。さりとて、放置しておけば勝手な解釈がはびこり、最後には「何でもいいや」と収拾がつかなくなるだろう。はてさて・・。
  目貼剥げば亀の鳴くなり目借時
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2019年02月03日

俳句日記 (450)


番町喜楽会のこと

 「俳句日記」という小見出しを掲げて居りながら、自分の関わっている句会についてまともに取り上げたことがなかった。『水牛のつぶやき』というタイトルでよしなしごとを書き綴るコラムなので、皆の名前が出て来る句会のことを取り上げるのにためらいがあったのだ。しかし、「俳句日記」である以上、そして、いずれも私が立ち上げた句会なのだから、その動きを書き記すのは当然のことなのだと、20年近くたって気がつくお粗末さである。
 まずは番町喜楽会。これは水牛が関わる句会の中では一番新しいものだが、つい昨夜今年度の初句会が行われたものだから最初に取り上げることになった。
 平成15年(2003年)1月11日、水牛が相棒の今泉而云を語らい、上智大学独文科で一緒だった仲間3人を誘って発足したのが「番町句会」。句会の場所が而云と水牛が立ち上げた俳句振興NPO法人双牛舎の事務所のある番町ハイムだったところから名づけた句会である。
 この句会は、通常の句会が一段落した後、互選で最高点を取った句を発句にして連句会を開くのが特色だった。俳句会と連句の会を連続して行うユニークな会で、噂を聞いて山口詩朗(故人)や高井百子さんらが加入し、会員が徐々に増えていった。
 平成18年には而云が日経を辞めて第二の職場とした流通経済大学の教授連中と語らって立ち上げた「流溪句会」が誕生、番町句会と交流しているうちに、平成20年春に合併することになった。一方、新聞社時代の仲間須藤光迷が仕事上で知り合ったTDKという会社関係の人たちを糾合した喜楽会が生まれ、これにも顔を出すよう頼まれて出ているうちに、「これも一緒にしよう」ということになって、平成23年3月、「番町喜楽会」が発足した。その後、高井百子さんが教授を勤める産能大学の同僚や、日経俳句会からの流入もあって、「番町喜楽会」は30人を越す大句会になった。毎月、九段下の千代田区立生涯学習センターの会議室で賑やかな句会を繰り広げている。
 2月2日(土)午後6時に開かれた第158回例会。毎回、水牛が兼題を出しているが、今回は「建国記念日」と「下萌」。二つとも難しい題だが、なかなか良い句が集まった。互選で高点を取った句は:
  地の起伏あらはにみせて野火走り    春陽子
  眼の底は海の深さよ金目鯛       而云
  国旗掲ぐ門なき町や建国日       可升
  ともかくも休みのうれし建国日     幻水
  下萌に測量杭の容赦なく        春陽子
などであった。
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2019年01月31日

俳句日記 (449)


この国はどうなって行くのか

 何が驚いたかと云って、厚生労働省の統計調査のデタラメぶりである。開かれたばかりの国会でも盛んに取り上げられ、安倍内閣の責任が追及されているが、行政府の総元締めのソーリダイジン・アベチャンは「重大な責任を痛感しております」と表面神妙に振る舞いながら、全く責任を取ろうとしない。
 統計というものは国家運営上最も大事なものである。この数字を元に国家予算に始まって、もろもろの政策を決める。たとえば景気動向を見る上で重要な消費者物価指数は小売物価統計調査と家計調査を元に算定するのだが、もしこの調査統計数字がいい加減だったら、国の打ち出す経済政策が狂ってしまう。統計に基づいて自国の国力を算定し、敵国と目す国の国力と比べ、勝算ありとなれば戦争を起こすこともあるのだ。徒や疎かに出来ないのが統計数字である。
 今回問題になっている厚生労働省の毎月勤労統計の狂いが国民及び国の今後の政策遂行にどれほどのダメージを与えるものなのかは現時点でははっきりしない。それをはっきりさせることも勿論大切だが、それよりもっと大事なのは、何故こんな事が起こったのかをはっきりさせることである。日本の官僚組織は世界で最も優れたものと云われてきた。マスコミ人の端くれとして多くの官僚と付き合ってきた水牛もそう思っていた。もっとも私の現役時代は三十年も前に終止符を打っているから、それと今を比べるのは乱暴なのかも知れないが、とにかく、中央官庁には昔も今もエリート中のエリートが集まっている。それらがまとめて発表する統計数字がデタラメだったなどということを聞かされると、心底ガッカリしてしまうのだ。
 政府の冒した罪は一片の統計数字の誤りなどというものではなく、政府のやっていることに信頼が置けないという意識を国民に植え付けてしまったことなのだ。こうなるとアベノミクスは成功したか失敗だったかなどを論じることすらバカバカしくなってしまう。「すべてがいいかげん」と思わざるを得ない事態となっては、現政府に何かを望むということすら無駄だと思わざるを得ない。これは虚無へと通じる道であり、恐ろしいことである。
 とにかく、こんなことを思い暗澹としていたら、中国の女流画家王小燕さんから「久しぶりに日本に来ました。会いましょう」と云って来た。お父さんの中国の人間国宝で文人書画家王子武さんともども親しく付き合ってきた仲だが、もう七,八年会っていない。全く久しぶりの昼食会だった。席上積もる話の中で、最近の日本の政治のだらしなさ、先行きの不透明感などをぼやいたら、「そんなことないよ、日本は大丈夫。東京オリンピックの後も東京の不動産価格は下がらないよ」と極めて即物的かつ肯定的コメントが返ってきた。こんな問題多々の日本も、傍から見ると恵まれた国と映るようなのだ。
 「そうかなあ、確かに悲観しててもしょうがないかもね」と答えて、心なしか少し気が晴れた。
 つまづいて手摺にすがる雪催
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2019年01月28日

俳句日記 (448)


いいぞ玉鷲

 もう見るのが嫌になるほど滅茶苦茶な初場所だったが、スロー出世の玉鷲が優勝したので気を良くしている。今場所は不甲斐ない横綱稀勢の里が予想通り引退、鶴竜が休場、休場明けの白鵬は天与の運動神経で危ない相撲を軽業のように凌いでいたがやはり力尽きて戦線離脱、大関陣と来たら力任せの我武者羅相撲栃ノ心が早々と休場、高安と豪栄道はもう目も当てられない状態で何とか9勝6敗という体たらく。こんなお粗末な相撲を見せ続けて、よく「満員御礼」の垂れ幕がかかると呆れるような場所だった。これでもし、ガチャガチャした品の無い相撲の御嶽海や貴景勝が優勝し、場所後、「貴景勝大関昇進」などとなったら最悪だなと思っていたのが、そうならなかっただけで良しとしよう。
 玉鷲という力士はモンゴル出身としては一風変わって、ゆったりとした雰囲気があり、10年ほど前、幕内に上がって来たときから好きだった。しかし、堂々たる体躯を持ちながら、それを生かせず、脇が甘くて、突っ張りと押しの威力は凄いのに、簡単に組み止められて不様に転がされてしまう相撲が続き、中々上へ上がれない。折角幕の内に上がってもすぐに陥落するエレベーター力士で、上がったり下がったり、確か「入幕6回」という記録を持っているはずだ。
 全く不甲斐ないヤツだと思っていたが、私はこうしたいかにも相撲取という堂々たる体格で、ヌーボーとした感じの力士が好きなのである。今の幕内では輝とか豊山がそうである。大相撲はスポーツであることは確かだけれど、元々は「天下太平五穀豊穣」を神に祈る儀式であり、その分、お祭りのような芸能的要素も抱えている。勝つことは大切なのだが、「勝てばいいだろ」という白鵬のような相撲はいただけない。祭祀の持つ美しさと、カミサマとともに観客を喜ばせる相撲の取り方が要求されるのだ。
 その点、玉鷲は悠揚迫らざる風姿で、取り口も突き押しの正攻法。「勝てばいいだろ」という這い上がり精神むき出しな所もないのがいい。しかし、それは裏返すと勝負師に不可欠な「勝負への執念」が薄いということになる。2016年11月の九州場所では初日に横綱日馬富士を一気に押し出し、その余勢を駆って三大関をなぎ倒し10勝5敗、初の技能賞を獲得。さあこれからだと応援にも力瘤が入ったのだが、翌日の新聞に「まあこれからも楽しく相撲を取ることだけ考えています」と、何とも歯がゆいコメントが載ってがっくりきた。
 今度も28日付け夕刊に、優勝から一夜明けての記者会見記事が載っていたが、そこでも「先のことは考えず、一番一番楽しくやれたら」と言っている。優勝したのだから、もうちょっと威勢のいい抱負を期待していたのだが、はぐらかされた感じだった。
 しかしまあこれが34歳になってようやく花開いた遅咲き関取玉鷲らしいとも言える。とにかく30歳を過ぎてから強くなった珍しい力士だ。組んでも勝てる技を一つ二つ会得すれば、大関になれるかも知れない。そうなると白鵬、鶴竜に衰えが見え、二束三文の値打ちも無い大関陣に変わって、大相撲に大きな目玉が出来る。
  初場所は眠れる鷲の羽ばたけり
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2019年01月23日

俳句日記 (447)


いやな感じ

 古新聞を片付けていたら「健康経営 消えるたばこ」という、意味のよく分からない見出しが目に付いた(1月19日、日経夕刊一面トップ記事)。本文を読んでみたら、「勤務時間内の仕事の効率を高める働き方改革」の考え方によって、「仕事中のちょっと一服」が減ったこと、「社員の健康増進に禁煙を勧め、喫煙者の採用も控える」企業が増えてきたこと、さらに「そうした考え方の企業に投資家の注目度が高まって」来たこと等々によって、企業内の禁煙活動がますます盛んになっているのだという。
 この記事を読んでぞっとした。「効率」と「利益」ばかりが重視され、「害悪」と「無駄」の排除が最優先という考え方である。これを突き詰めて行くと、70数年前の「欲しがりません勝つまでは」「撃て鬼畜米英」「挙国一致」の考え方を呼び戻し、それに従わない者を「非国民」として村八分にする世の中を招来する。
 厚生労働省の調査では、2017年には敷地内での全面禁煙に取り組む事業所が全体の14%になっており、社屋内禁煙の企業が今や半数に上っているという。こうした動きによって、日本たばこ産業(JT)の調査では日本国内の喫煙人口(2018年)は1880万人と10年前の3割減になっている。喫煙本数も1996年の3483億本から2017年には1455億本と6割も落ち込んだ。しかし、タバコ税収は年間2兆円強で、この20年間ずっと同じ水準を保っている。タバコの値段をどんどん引き上げて、喫煙者の減少を補っているのだ。何しろタバコの税金は売価の6割強だから、喫煙者は大変な愛国者でもあるのだ。
 私は風邪を引いて咳き込んだ時、死んだオヤジが気管支炎で苦しんでいたことを思い出し、76歳でタバコを止めた。記事を書くのが仕事だったから、現役時代にはむやみに吸い、多い時には一日50本を越えた。タバコの吸い過ぎと深酒で胃が痛めつけられ、朝、歯を磨くとゲエーッと猛烈な吐き気に襲われるのだった。そこで「禁煙」した。10数回はやった。短い時は一日、最長で一年近く続いたこともある。というわけで、76歳での禁煙もまた元の木阿弥になるかと思っていたが、何となく続いてもう6年になる。
 こうしてタバコとの悪縁は切れたのだが、近ごろの「禁煙」活動の激しさを見るにつけ、むらむらと反抗心が湧いてくる。また吸い始めようかとさえ思う。
 最近の禁煙運動は「いじめ」に等しい。近くにいる人間がくゆらすタバコの煙のほんの少々を吸い込んだからと言って、それが害を及ぼすことなど、ゼンソク持ちでもない限り殆ど考えられない。それを「受動喫煙の害」などと言って大騒ぎするのが全く理解出来ない。受動喫煙などよりよっぽどひどい害悪をもたらしているのは自動車の排気ガスである。発車時のアクセル一発によって、タバコ数千本分の発癌物質を吐き出すという実証実験の記事を読んだことがある。しかし自動車産業の力は強大だから、その害毒を言う政治家も役人もいない。
 タバコが健康に良くない事は確かであろう。しかし、その一服でストレスを解消する効用も確かにある。禁煙してイライラし続け神経症になり、身体を悪くするのと、タバコによる発癌で命を失うのと、どっちもどっちという気さえする。人間がタバコと付き合い始めて500年。ついこの間までは「今日も元気だタバコがうまい」などと、御国が喫煙を奨励していたのである。ヒステリックにタバコの害毒を言い立て、喫煙者をまるで業病患者を見るような目つきで見据えたりせず、タバコよりもっと人類に害を為すものが沢山野放しにされている事に思いを致す事が必要である。
  初詣歩きたばこの懐かしさ
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2019年01月17日

俳句日記 (446)


やれやれ

 第72代横綱稀勢の里が初場所三日目の15日、前頭筆頭の栃煌山に為す術無く寄り切られ三連敗。ようやく決心がついたか、翌16日引退を表明した。2017年春場所新横綱として颯爽登場、13日目には負傷を押して出場し13勝2敗で優勝した。しかし、この時に痛めた左肩の傷はついに完治せず、その後もあちこちが傷んで満足な相撲が取れず、全休四場所を含む八場所連続休場の不名誉な記録を作った。進退を賭けて臨んだ昨年9月の秋場所はなんとか10勝して露命をつないだが、続く九州場所は5連敗でまた休場、土壇場に追い込まれたこの初場所で三連敗となり万事休すとなった。横綱在位12場所で皆勤したのはたった2場所。星勘定は36勝36敗97休みだった。相撲史上最もダメな横綱である。
 それなのに、新聞は「稀勢 貫いた真っ向勝負」(日経)、「稀勢の里土俵人生に悔いなし」「懸命愚直稀勢の誇り」(朝日)といったようにベタ褒めである。死者に鞭打たずが美徳とされているが、こうした一方的な褒め言葉一色の紙面づくりはいかがなものか。たかが相撲と言う勿れ、こういうマスコミ体質が変な世の中をつくり、よこしまな政治をはびこらせる元になりかねないと憂慮する。
 元々、稀勢の里のような弱い力士をたった一回の優勝で横綱にしてしまった日本相撲協会と横綱審議会が悪いのである。稀勢の里は2017年初場所で優勝し、横綱に推挙されたのだが、その前の九州場所は僅かに11勝だった。「何としてでも日本人横綱が欲しい」という協会と世間の待望論で横綱になってしまった。その時、私はこの欄で「稀勢の里は横綱にならない方がいい、吉葉山の二の舞になってしまう」と書いた。吉葉山は昭和29年初場所に全勝優勝して横綱になった。これも僅か一度の優勝での昇進である。まさに力士の理想像というようなほれぼれする体格で、顔つきも凜々しい。圧倒的なフアンの声に押されての横綱誕生だったが、昇進後は持病が悪化したりでぼろぼろ負け続けては出たり休んだりで、結局足かけ4年の横綱在位中優勝はおろかいい処無しで引退に追い込まれた。
 その点、稀勢の里は昇進直後の場所で優勝しているからまずは面目を施したが、その後がいけない。左肩腕が十分に使えなくなったのならば、次善の策を講じ、取り口を変えねばならないのに、昔のような相撲を取る。相手にはすっかり研究されているから、とても自分の思ったようには取れない。負けるはずのないような相手にも不様に投げられてしまう。そうして「休場」である。
 稀勢の里は勝負師には似合わず、口をへの字に曲げ、下がり目で、いかにも気の弱そうな青年で、そこが何とも気がかりで、また可愛くもあった。「強いのだがしょっちゅう取りこぼす大関」としてなら、もっともっと長生き出来たはずである。あたら早死にさせてしまった相撲協会と横綱審議会と新聞の罪は重い。
  寒風や引退横綱声細し
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2019年01月14日

俳句日記 (445)


同情されたらおしまいよ

 13日に始まった大相撲初場所、進退のかかった横綱稀勢の里はやはり固くなっていたのだろう。初日相性の良い小結御嶽海との戦いを、左差し手に拘るあまり自ら墓穴を掘って黒星。いよいよ固くなった二日目の相手は、逆にこれまで相性の良くない巨漢逸ノ城。立合の呼吸が合わず三度も仕切り直しをしているうちに落ち着きを失って、ドタバタ押し込んで行ったところ体を躱されてごろんと仰向け。これで正真正銘剣が峰に立たされた。
 明日三日目の相手栃煌山はこれまた苦手の一人。先場所もこれに敗れて初日から不名誉な4連敗で休場となった嫌な相手である。もしまた栃煌山に負けということになれば、休場→引退ということになってしまうだろう。
 初日も二日目も、稀勢の里が取組を前に土俵下の控えに入るため花道に現れるや、満員の観客が盛大な拍手を送った。土俵上で大関が仕切を行っている最中である。こんな光景は今までついぞ見た事が無い。久しぶりの「日本人横綱」が引退の瀬戸際ということで、判官贔屓の拍手なのであろう。これでノミの心臓がますます縮まる。唇をへの字に曲げ、目は上の空。運動会に臨んだミソッカスが嫌々ながら徒競走のスタートラインに誘導されて行く時の表情である。
 相撲は「技あり」とか、「ポイント」とか「判定」などというものが無い、土俵の外に出すか出されるか、土俵上で倒すか倒されるかの一本勝負である。そこが他のスポーツとは違う魅力である。一切の情実が絡まない勝負というのが、この曖昧模糊、情実の支配する世の中の清涼剤として人気を集める所以である。
 その舞台に立つ力士にとっては大変なプレッシャーであろう。そこを凌いで勝ち続けるには大変な精神力が必要だ。大鵬、北の湖、千代の富士など、大横綱にはそれがあった。「憎らしいほど強い」のである。今の白鵬も立派な大横綱である。
 それに対して稀勢の里はあまりにも情けない。「懸命に頑張っているから」という拍手と声援。勝つことが当たり前の横綱が「なんとか勝って」と祈られるのは恥ずかしい。勝負師が同情されるようになったらおしまいである。三日目の栃煌山に負けるようであれば、いさぎよく引退すべきだろう。
  泣き面の横綱の背に寒九風
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2019年01月07日

俳句日記 (444)


七草粥

 今日は七草。六日に春の七草を摘んで俎板に載せ、家長が「七草なずな唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、ななくさなずな・・・」と囃しながらとんとんとんとん刻む。それを神棚に捧げて翌朝、白粥に入れる。白粥は一瞬にして鮮やかな緑色になる。爽やかで健康的で、いかにも万病を遠ざけてくれる霊力が備わっているように思える。我が家は神棚が無いから、刻んだ七草は一晩冷蔵庫に寝かせる。それに、生の野草を刻んで一晩置くとアクが出て黒ずんでしまうことがあるので、さっと熱湯を潜らせてから刻む。こうすると七草粥が一際鮮やかになる。
 我が庭は手入れが悪いのが怪我の功名で野草天国、春の七草を見つけるのは容易い。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラは至る所に生えている。スズナ(小蕪)とスズシロ(大根)は栽培したのが丁度良い大きさになっている。これで六つ揃ったが、ホトケノザがどうしても見つからない。これはタビラコという、田圃の畔道などによく生えているキク科の雑草だ。我が家は高台にあるので生えないのかも知れない。仕方が無いから小松菜の小ぶりなのを抜いて代用にした。
 「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」という古今集の歌がある。小倉百人一首にも載っているから大概の人が知っている。平安時代初期の第58代光孝天皇(830-887)が皇子時代に詠んだ歌である。「愛しい貴女のために早春の野に出て万病封じの若菜を摘んでいます。袖には雪がしきりに降りかかってきますが、それにもめげずせっせと摘むのです」という、優しい心情の溢れた名歌だ。とにかく、この頃には既に若菜を摘んで食べることによって大自然の精気を体内に取り込むという考えが行き渡っていたようである。
 世を経るにしたがって、若菜を炊き込んだ粥が病魔退散の食べ物として定着し、宮中では一月七日の儀式になった。この日は古代中国の占術書に述べられている「人日(じんじつ)」で、五節句(五節供とも。三月三日「上巳」、五月五日「端午」、七月七日「七夕」、九月九日「重陽」)の最初である。徳川幕府がこの五節句を式日と定めたから、一般にも七草粥の風習が伝わり、同時に雛祭、端午の節句、七夕、菊の節句が祝われるようになった。
 AI時代などと言われる今日でも、菊の節句はさておき、その他の四つの節供は生き残っている。特に、正月の餅腹と吞み過ぎで疲れた胃を七草粥でシャンとさせ、本格的な仕事始めに出発進行というのが若年世代にも受けているようだ。
  あをあをと七草粥の香しき
  七草粥餅半分に切りて入れ
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2019年01月06日

俳句日記 (443)


池上七福神

 日経俳句会と番町喜楽会、水牛の関わっている両句会が合同で毎年松の内に「七福神吟行」を開催している。元々はもう20年近くも前、今は日経俳句会の分会になっている酔吟会が始めた行事である。酔吟会という名前の示す通り、酒を吞む口実にこしらえたような俳句会で、いつも誰かが新しい趣向を考え出し、あちこち出かけては美味しいものを食べて飲み、そのついでに句を詠むというようなことをやっていた。その中で定着した催事が七福神吟行である。
 都内の七福神はもうほとんど回ってしまった。今年は残り少なくなった候補の中から池上七福神が選ばれた。これは池上本門寺の参道はじめ地元商店会と各寺院の協力で、地元大田区も力添えして生まれた七福神巡りである。昭和の一刀彫名工平岡岳峯の彫った七福神を昭和56年に本門寺昭栄院で入魂式を行い誕生した。発足40年足らずの七福神だが、すっかり落ち着いた風情を見せている。七福のうちの六つが日蓮宗総本山の本門寺の塔頭に祀られており、御会式はじめ宗教上の催事に慣れた土地柄のせいなのだろう。参拝者受け入れも、スタンプ台の準備も、御朱印の授与も手慣れてスムーズである。池上七福神一番曹禅寺.jpg
 コース途中には江戸時代からの名物くず餅の藤乃屋(相模屋という屋号から2018年春に代替わり)、池田屋、浅野屋、海苔の老舗米忠並木、瓦煎餅の寳屋、福あられの花見煎餅吾妻屋など、魅力的な店がある。いずれも本門寺の参詣客目当ての店だが、七福神巡りの客がだんだん増えてきているようだ。
 2019年1月5日(土)午後1時、東急池上駅前に集まったのは22人。風邪引き、ギックリ腰、家族の入退院付き添いなどで当初の参加申込から4名減ったが、皆々すこぶる元気溌剌、布袋さまが祀られている徳持の曹禅寺を皮切りに、ざっと3時間かけて、恵比寿さんと大黒天を祀った養源寺(大黒天は池上警察裏手の馬頭観音堂に祀られていたのだが、御堂閉鎖でこの寺が預かり)までのコースを落伍者も出さずに回りきった。
 打ち上げの懇親会は池上駅そばの割烹「きさらぎ」。岩手県山田町出身の仲良し夫婦がやっている釜飯の店で、岩手の銘酒その名も七福神を酌み交わしつつ、2019年の健闘を誓った。
  福詣済ませ酌む酒七福神
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2019年01月05日

俳句日記 (442)

仕事始め

 菜園の縁にヤマイモを植えてある。半世紀以上も前に、亡父が自然薯(じねんじょ)と呼ばれる山に自生する山芋を貰って来て、首の部分を植えて置いたものの子孫である。毎年晩秋に蔓が黄色くなると、堀採っては太く長い芋は食べて、首の部分や、小さい芋をそのまま埋めておくと、春になると芽生え、支柱に蔓をからませて伸び、秋にはまた立派な芋が採れる。葉の付け根に出来る零余子(むかご)という球根のようなものがばらばら落ちて、そこからも芽生えるから、山芋はいつの間にか増えて、近年は菜園の縁にずらりと3,40本並ぶほどになった。
 そのうちの10本ばかりは昨年秋に収穫し、食べ尽くした。しかし30本ちかくが掘る暇の無いまま越年してしまった。枯れ蔓のからまった長い支柱が沢山並び立っているのはどうにも見苦しい。
 好天気が続く亥年正月の仕事始めは山芋掘りにしようと決断した。しかし、山芋掘りは大変な重労働である。地表の蔓の生え際から下20センチばかりは細い首で、その下から太い塊根が伸びている。乱暴にシャベルを扱うと、首の所でポキンと折れてしまい、肝心の食用となる芋が土に埋もれて何処にあるのか分からなくなってしまう。そこで、蔓のからんだ支柱の回りを手で探りながらそっと掘る。山芋が見つかったら、地中深く伸びている所を用心深く堀り、その土を脇にどける。
 山芋掘りは塹壕掘りと同じで、土の掻い出し作業である。こうやってざっと二時間、幅40-50センチ、長さ2メートル、深さ1メートルほどの塹壕が出来、掘り上げた立派な山芋を新聞紙に並べて写真を撮った。新聞全紙は80センチだから、山芋の長さがほぼ分かる。途中でぽきぽき折れてしまったのも入れると、完全形に換算して15本くらいになろうか。19.01.04山芋2.jpg
 これでしばらくは大好物のとろろ汁、鮪の山かけ、とろろ蕎麦が楽しめる。八百屋で売っている長芋は水っぽいが、自家産の山芋は腰があって香りも良く、素晴らしい。しかし、二時間足らずの掘削作業で息も絶え絶え、腰も痛くなった。
 そうだ、明日は新春恒例の七福神吟行で池上に行かねばならぬ。一晩寝て、明日朝、身体が痛んで起きられなかったらどうしよう。急に心配になってきた。
  山芋を掘るが亥年の初仕事
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2019年01月01日

俳句日記 (441)


芭蕉の新年句

 平成三十一年開けましてお目出度うございます。五月一日からは新元号になるとかで、何だか少々中途半端で落ち着かない感じです。景気も下り坂のようだし、日本列島のどこかで大地震が起こるのは必至とか囁かれているし、どうもあんまりぱっとしないお正月ですが、分からないことを気に病んでも仕方がありません。「笑う門には福来たる」。今年も思いつくままにバカなことを書き連ねて参ります。お暇な方はどうぞお付き合い下さい。
 大晦日に「芭蕉の年の暮れの句」について書きましたから、それと対を為すべく、新年句を挙げて、亥年の皮切りといたします。
                *
 年の初め(歳旦)は俳諧宗匠にとっては書き入れ時。吉日を選んで、門人や贔屓の旦那衆を集めて「歳旦開(さいたんびらき)」という俳諧の座(連句会)を開く。ただし、新年早々、真剣勝負でうんうん唸る句会ではシラケてしまうから、大概はあらかじめ年の内に作った新年句を宗匠の下に集め、宗匠や幹部俳人が選り分けて、「発句・脇・第三」の連句の出だし三句を組み合わせて編集したものを「歳旦三つ物(さいたんみつもの)」と称して、新年句会に披露する形を取った。それをいくつも取りそろえて一冊にしたものが「歳旦帖」である。宗匠は独自に、自分と有力門人、代表的パトロンによる歳旦三つ物をいくつかまとめた刷物を作って方々に配ることもしており、これも歳旦帖と言っていた。というわけで、江戸時代の俳諧宗匠は新年吟詠がとても大事。これは今日の職業俳人にも続いている。
 芭蕉はその点、あまり商売熱心ではなかったようだが、それでも年の暮の句よりは沢山詠んでいる。目についた句を年代順に並べてみよう。

年は人にとらせていつも若夷
 (寛文6年・1666年、23歳、伊賀上野城出仕中、俳号宗房)新年用の恵比寿神の御札がいつも若々しいのは人に年を取らせてばかりいるからなのだな。
春立とわらはも知るやかざり縄
 (寛文11年・1671年、28歳、兄半左衛門方に居候)藁で作った注連飾りを見れば幼児でも新年と分かる。「藁」と「童」の掛詞で面白味をねらう。
天秤や京江戸かけて千代の春
 (延宝4年・1676年、33歳、江戸へ出て4年目、俳号を桃とし、少し名前が売れて来る)京と江戸の新春を天秤に掛けるとどっちもどっち、両方とも釣り合いの取れた賑わいを見せているよ。
門松やおもへば一夜三十年
 (延宝5年・1677年、宗匠として立つべく披露目の「万句興行」をする)門松の立ち並ぶ元日の朝は、一夜にして三十年もたったかと思われる気になるなあ。(ようやく宗匠として立てる自信がついてきた自分に引き比べての感懐)
かぴたんもつくばはせけり君が春
 (延宝6年・1678年、山口素堂と盛んに交流、「歳旦帖」を出し、正式に宗匠「立几」か)将軍様の御威光に異国のカピタンも這いつくばる新春であることよ。(カピタンという外来語を詠み込んで新鮮味をもたらした)。
発句也松尾桃宿の春
(延宝7年・1679年、新進宗匠としての意気盛ん)元日こそ松尾桃一門の「発句」である。これから三百六十日、出発進行。
於春ゝ大哉春と云々(あゝはるはるおおいなるかなはるとうんぬん)
 (延宝8年・1680年、37歳。この春四月、「桃門弟独吟二十歌仙」を刊行、江戸俳壇で桃一門の権威確立)「大いなるかな春」と言われる通り、目出度い限りだなあ。
はる立や新年古き米五升
 (天和4年/貞享元年・1684年、41歳。旧冬、弟子たちの尽力で新芭蕉庵再建、八百屋お七火事で二年間疎開していた甲斐から戻っての久しぶりの新年)この芭蕉庵の何たる豊かさよ、去年から持ち越しの米が五升もあるんだ。
誰やらが形に似たりけさの春
 (貞享4年・1687年、44歳)新春用にと贈られた正月小袖を着たら、この年寄りが俄に若やいで、まるで誰かさんみたいだと・・・。正月らしい浮かれ気分をうたった、芭蕉らしからぬ艶のある句。
二日にもぬかりはせじな花の春 
(貞享5年/元禄元年・1688年、45歳)除夜に深酒して元旦は寝坊して初日の出を拝めなかったが、二日の日の出もまた面白かろう。
よもに打薺もしどろもどろ哉
 (貞享年間)四方八方から薺打ちの囃し歌が聞こえてきて、やがてはそれが入り混じって何が何だか分からなくなってしまうことよ。
元日は田毎の日こそこひしけれ
 (元禄2年・1689年)去年、信濃・姥捨山の田毎の月に感銘を深めたものだが、「田毎の日」というのもまた素敵だろうなあ。
年々や猿に着せたる猿の面
 (元禄6年・1693年・50歳)新年の猿回し、取っ替え引き替え面を付け替えられては踊る猿。顔は変わっても中身は同じ猿。かく申す私も年々歳々何の変哲も無く・・。
蓬莱に聞ばや伊勢の初便り
 (元禄7年・1694年、51歳)正月飾りの蓬莱を見るにつけても、あの神々しい雰囲気の伊勢からの初便りなど聞きたいものだなあ。
               *
 芭蕉の歳旦句はこれ以外にもまだかなりある。しかし、「これが芭蕉の句か」とがっくり来るようなものも目につく。型にはまった、おざなりな句である。しかし、考えてみればお正月というものはそんなものなのだと言えるのではなかろうか。いくら"世捨て人"を自認していても、やはり取り巻きがいる。自分だって食い扶持は必要だ。となれば新年句会は不可欠で、宗匠としてかなりの数の発句を拵えておかねばならない。そんな事情もあるようだ。
  孕み句を三つ四つ抱へ新年会
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2018年12月31日

俳句日記 (440)


芭蕉の年の暮れ

 芭蕉は若い頃は武士としての立身出世を夢見たが叶わず、結局は幼少時から才能を認められていた俳諧で身を立てる道を進み、二十九歳で伊賀上野から江戸へ出て、三十五歳にしてようやく宗匠になった。平安末期、武士の道を捨てて法体となり旅をしながら和歌の道に進んだ西行を手本に、「一生は旅の宿り」と大悟した室町時代末期の連歌師宗祇を慕い、自らも「片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず」と『奥の細道』の大旅行をはじめ、旅をし続けた。江戸の芭蕉庵にあっても、近江にあっても、その住まいはいつも「仮の宿り」という思いだった。少なくとも、芭蕉が残している文章からはそういう観念が伝わって来る。
 そうした"世捨人"にとっての「年の暮れ」はどんなものだったのであろうか。芭蕉は年の暮れをどのように詠んだのだろうか。しきりに気になって、夕飯後、「芭蕉全句」(堀信夫監修・小学館)や「芭蕉全句集」(雲英末雄・佐藤勝明訳注・角川ソフィア文庫)その他を引っ繰り返してみた。芭蕉の「年の暮れ」の句として残っているのは9句ある。年代順に並べると以下の通り。

 成にけりなりにけり迄年の暮  (延宝4年・1676年、芭蕉33歳)
 わすれ草菜飯につまん年の暮  (延宝6年・1678年、35歳)
 月雪とのさばりけらしとしの昏 (貞享3年・1686年、43歳)
 旧里や臍の緒に泣としの暮   (貞享4年・1687年、44歳)
 皆拝め二見の七五三をとしの暮 (貞享5年/元禄元年・1688年、45歳)
 はまぐりのいけるかひあれとしのくれ (元禄5年・1692年、49歳)
 盗人に逢ふたよも有年のくれ  (元禄6年・1693年、50歳)
 古法眼出どころあはれ年の暮  (元禄年間)
 分別の底たゝきけり年の昏   (元禄年間)

 最初の「成にけり」の句は江戸へ出て4年目、山口素堂など既に名の売れた葛飾派の俳人たちの席に出入りし、ようやく名前が売れ始めた頃の作品で、謡曲の結びの方に出て来る決まり文句を取り入れた、おざなりな句だ。二番目の「わすれ草の菜飯」の句は新鮮味がある。この年の初め、桃は宗匠として「立几」、つまり俳諧師として一人前の看板を掲げた。わすれ草とはヤブカンゾウのこと。この頃の年末年始は言うまでも無く旧暦だから、今のカレンダーで言えば二月初めから中旬で、ヤブカンゾウの新芽も芽生えている。それを摘んで菜飯にしようという面白い発想だ。この頃、俳諧だけでは飯が食えないので水道工事の請負人となり、今も椿山荘の下に残っている関口の芭蕉庵跡を拠点にかなり忙しく立ち回っていたらしい。
 三句目の「月雪と」は貞享3年暮れの作品。43歳の芭蕉は江戸俳諧の世界で新進気鋭の宗匠として名を馳せていた。この春に、恐らく愛弟子其角の差配によるものであろう、「蛙合せ」二十番句合わせの興行が行われ、かの「古池や蛙飛び込む水の音」が披露された。「月だ雪だとうそぶいて、勝手気ままに振る舞っているうちに年の暮れになってしまいましたよ」と、少々、自戒反省をしながらも意気軒昂たる気分が伝わってきて微笑ましい。
 次の「旧里(ふるさと)や臍の緒に泣としの暮」は貞享4年10月に江戸を立ち、故郷伊賀上野に戻った折に、松尾家当主の兄に見せられた自分の臍の緒。亡き両親を偲んで涙する年の暮れを詠んだ。
 なかなか面白いのが最後の二句で、どちらも元禄五,六年頃に詠まれた句ではないかと推測されるが、初出の句会や俳誌が明らかでないため、詠まれた年がはっきりしない。「古法眼出どころあはれ年の暮」は歳末に行われる年の市に「古法眼」即ち狩野元信の絵が出た。狩野派二代目の法眼の名画とあれば、由緒ある名家の所蔵であっただろうに、それが売り立てに出されるとは、さぞかしいろいろな事情があったのだろうな、という意味合いであろう。
 もう一つの「分別の底たゝきけり年の昏」は、句をそのまま真っ直ぐに読めば、「もう才覚が尽きてしまった大晦日ですよ」という意味合いになろう。しかし、これでは西鶴になってしまう。芭蕉が借金取りへの言い訳に頭を悩ましている情景は中々思い浮かばない。
 この句が詠まれたと思われる元禄五、六年は、芭蕉が「奥の細道」の執筆、推敲に苦心を重ねていた頃合いである。まだ死ぬつもりはなかっただろうが、とにかく節目の50歳。「奥の細道」を自らの金字塔とすべく日夜努めて来に違いない。その分別の底を叩いたよ、という心の底からの述懐なのかなとも思う。
  俳聖の歳末吟を反芻す
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2018年12月29日

俳句日記 (439)



これはこれは

 我ながらびっくりした。四週続けて馬券が当たったのである。もちろん、競馬と付き合い始めて57年間で初めてのことである。
 毎年、有馬記念で打ち止めとしているのだが、日本中央競馬会は金儲けに熱心で、仕事納めの28日に「ホープフルステークス」という二歳馬のレースを催すようになった。それも去年から「G1」という最上級の番組に格上げした。G1となれば放っては置けないと、あれこれ検討して買った。先々週の朝日杯よりは少し下の馬が出ている感じだが、来年の競馬を見通す上ではなかなか興味深い。
 出走13頭。中ではサートウルナーリアという初出走から2連勝中の馬が一番人気だが動かせないと思った。それに配するに三戦して2勝2着1回のアドマイヤジャスタ、さらに、一回しか走っていないが鮮やかに逃げ切り勝ちしたキングリスティアと、追い込みが得意そうなヴァンドギャルドの、合わせて4頭を組み合わせた馬連馬券6通りを買った。
 私は颯爽とゲートを出て先頭を走って行く「逃げ馬」が好きで、いつも逃げ馬を買う。しかし、逃げ馬は息が続かないのだろう、なかなか勝てない。そういうこともあって、毎回馬券はハズレている。今回も3番枠に入ったキングリスティアが逃げ馬のようで、これがハナを切ると思ったのだが、なんと出遅れてビリを追走、後半懸命に走ったが8着、ヴァンドギャルドは中団を進んでそのままの6着。しかし、サートゥルナリアは思った通り強くて、直線頑張るアドマイヤジャスタを交わして優勝。結果的に4頭の組み合わせで買っていた中で、6.4倍という最も配当率の低い5番8番が的中ということになった。
 投資金額3千円で払い戻しが3千2百円。大笑いの純益2百円。とにかく、当たりは当たりである。
  これはこれはと山茶花赤く咲き誇る
posted by 水牛 at 00:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月23日

俳句日記 (438)


初めて当たった有馬記念

 12月23日(日)の中山競馬場は雨が降ったり止んだりの一日で、馬場は稍重。第63回有馬記念。一流馬16頭の揃い踏みである。
 狙いを付けた馬は、10月末の天皇賞を鮮やかに差し切ったレイデオロ(牡4歳・ルメール騎手・1番人気)と、3歳陣営からただ1頭参戦して勢いの感じられるブラストワンピース(牡3歳・池添騎手・3番人気)。これに現役馬当時から買っていて、種牡馬になってからも優秀馬を送り出しているステイゴールドの子供オジュウチョウサン(牡7歳・武豊騎手・5番人気)とパフォーマプロミス(牡6歳・C・デムーロ騎手・7番人気)、さらに関東の名ジョッキーなのに、いつも同期の武豊の派手な振る舞いの蔭に隠れてきた蛯名正義騎手のリッジマン(牡5歳・13番人気)。この5頭を組み合わせた馬券を買った。
 いつも投じる金額は最高5千円と決めている。買う馬券は概ねは1着と2着の馬のどちらが1着になっても「当たり」となる「馬番連勝式(馬連)」で、時に1,2,3着をぴたりと当てる博奕性の高い「三連単」というのを混ぜて買う。今日は「馬連」だけにした。オジュウチョウサンという馬は元々は障害競走の王者で、平地競走では走破タイムで劣る。「障害からの奇跡的返り咲き」ということで圧倒的なフアン投票で出走出来ることになった馬だから、冷静に考えればこのメンバーに入っては上位に来るのはとても無理である。しかし、好きなステイゴールド産駒だからほんの少し買う。リッジマンはステイヤーズステークスという長距離競走の勝馬だが、2500mという中距離競走ではやはり持ち時計で劣る。しかし、49歳で引退を決断したという蛯名騎手の今生の思い出もあろうと、結局、レイデオロ、ブラストワンピース、パフォーマプロミス、リッジマンの4頭を中心に買った。
 レースは11月末のジャパンカップで華麗な逃げを演じて最後に怪物牝馬アーモンドアイに交わされたものの新記録タイムで2着したキセキが、今回もスタート後間もなくハナに立ったオジュウチョウサンをあっさり抜いて先頭に立つと、そのまま大逃げを打った。直線に入っても依然トップ、このまま逃げ切ってしまうかと思ったら、三歳馬ブラストワンピースが物凄い差し脚で来て、あっという間に交わした。その直後にフランス人の名騎手ルメールの断然一番人気レイデオロが猛追して来たが、間に合わず。見事3歳の若駒が勝利を収めた。
 期待した蛯名のリッジマンはスタートからブービーで、その後も行き脚がつかず、直線、蛯名が懸命に追ったが伸びずに12着に終わった。オジュウチョウサンはスタートこそ先頭に立って懸命に走ったが、やはり持ち時計の遅さはいかんともし難く、頑張りはしたが9着だった。不甲斐なかったのは中山が得意で、11月初めのアルゼンチン共和国杯という有馬記念と同じ2千5百mレースを鮮やかに仕留めたパフォーマプロミスで、全くいい所も無く14着に沈んだ。
 しかし、なんと水牛は有馬記念の馬券を買い続けて57年目にして「当てた」のである。「8番-12番」の馬連は9.4倍。これは千円買ってある。すなわち5千円投じて獲得払戻金9千4百円。涙のこぼれる「純益4400円」である。
 ともかく今年暮れの水牛馬券の的中率は物凄い。12月9日(日)阪神競馬場の「阪神ジュベナイルフィリーズ」という2歳牝馬のやんちゃ娘の競馬で「ダノンファンタジーークロノジェネシス」が当たり、翌週16日は阪神「朝日杯フューチュリティステークス」という来年の皐月賞、ダービーを狙う2歳馬の登竜門レースで「アドマイヤマーズ─クリノガウディー」を当てた。これは馬連でなんと97倍の高配当であった。
 水牛の馬券買いはまことにいじましく情けないもので、毎回5千円を限度にちびちび買う。毎年暮れに電話投票の銀行口座の帳尻を10万円にしておく。これで1月5日に中山で行われる「中山金杯」というGVレース(三番目の位の重賞レース)からスタートする。毎週日曜日だけ、GTレースだけを買うことにしているのだが、G1 の無い時にはGU、GVにも手を出す。もちろん、大概はハズレだから、時々当たっても年末には馬券預金は底を衝く(20週ハズレが続けば残高ゼロになる)。今年も12月になってそういう事態になったのだが、何と、三週連続のヒットによって、軽く10万円を越してしまった。新年用馬券資金の10万円を預けに行かなくてもいいという、五十七年の馬券人生で5,6回あったかどうかという幸運に恵まれた。
 2019年はいい年になりそうだなあ、などと、お屠蘇用に頂いた金箔入り純米吟醸の一本を開けて、独り悦に入っている。
  有馬記念勝ちし若駒息荒し
posted by 水牛 at 18:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月21日

俳句日記 (437)



有馬記念

 12月23日(日)、中山競馬場で有馬記念が行われる。競馬フアンにとっては、これを何とか当てて明るく年を越したいと願う、最も力の入るレースだ。
 昭和36年(1961)に新聞社に就職し、社会部という乱暴極まりない先輩が屯する部署に配属され、"否応なく"競馬と付き合うことになった。当時の土日はのんびりしたもので、先輩記者は責任当番の二人くらいで、後は我々新入りばかりだった。何か大事件でも発生すれば別だが、大概は作って置いた記事で拵え、先輩たちは碁や将棋をやったり、「競馬」予想をしていた。社会部以外の部の人も寄ってきて、競馬新聞を見比べて目当ての馬を決めると、「おいオオミズ(当時は名前の頭文字をとってこう呼ばれていた)、買いに行け」と言う。
 当時の馬券は一着馬を当てる「単勝」と三着までに入れば当たりとなる「複勝」、それに「連勝単式」の三種類だった。連勝単式は出走馬を6枠に振り分け、1枠の馬が1着で3枠が2着と予想したなら「1−3」、3枠の馬が1着で1枠が2着なら「3−1」と買う馬券である。先輩たちは原稿用紙をちぎって、そこに思い思いの数字と口数(一口100円)を書いて、金を添えて私に渡す。板垣退助の百円札を数十枚と鉛筆書きの馬券メモを持って後楽園に行った。
 今は後楽園の場外馬券売場もWINSなどと洒落た呼び名になり小綺麗になっているが、当時はそれは汚らしかった。馬券を買う人たちだけでなく、予想屋や呑み屋(闇馬券売り)、捨てられたハズレ馬券に万が一当たり馬券があるやもとうろうろきょろきょろしている地見屋、掏摸掻っ払いが横行して満員電車のようなごった返しである。その中を右往左往しての馬券買いである。連勝式馬券は1枠から6枠まで窓口(穴場と呼んでいた)が並んでいる。預かってきた原稿用紙の切れっ端の番号を確認しながら、引ったくりに奪われないよう札束を握りしめ、それぞれの穴場に走って板垣退助を枚数分突っ込んで、「1−3、2枚、1−5、3枚」などと叫びながら馬券を買う。注文通りの馬券を間違えずに買うのは大変な仕事で、真冬でも汗びっしょりになってしまうのだった。
 当然の事ながら、こんな「お使い」だけやらされていては面白くない。自分でも買うようになった。すると不思議なことによく当たる。「馬券のプロ」などと言われている先輩よりもよく当たる。なまじっか競馬の知識が無いから余計なことは考えず、競馬新聞の書いている有力馬4,5頭の中からその日の気分に合う名前の馬を選んだ結果なのだが、とにかく、これで競馬にすっかりはまり込んでしまった。その内に先輩に連れられて、府中と中山競馬場に通うようになり、いよいよ病膏肓に入る。7,8年たつと、日本中央競馬会は「電話投票」という馬券購入システムを開始した。電話投票会員登録をして馬券購入用の銀行口座を持ち、あらかじめそこにいくらか預金して置けばその範囲内で馬券が電話注文で買え、当たれば払戻金が振り込まれるシステムである。とにかくそういうわけで、1961年からずーっと60年近くも馬券を買い続けている。
 中でも思い入れの深いのが有馬記念なのだが、未だかつて当たった事が無い。一番悔しい思いをしたのが平成10年(1998年)の有馬記念だった。この年はセイウンスカイという牡4歳馬が1番人気、2番人気が人気騎手武豊のエアグルーヴ(牝6歳)だったが、どちらもあまり信用が置けないと、4番人気の牡4歳の上り馬グラスワンダーに狙いを定め、これに、強引な手綱捌きで人気薄の実力馬を走らせる私の好きなタイプの騎手蛯名正義の乗る8番人気のオフサイドトラップ(牡8歳)と、このメンバー中実力一番ではないかと思っていたステイゴールド(牡5歳、11番人気)を組み合わせた馬券を買った。グラスワンダーは見事1着でゴールした。しかし、2着にはメジロブライトという3番人気の5歳馬が滑り込み、ステイゴールドは惜しくも3着。オフサイドはやはり峠を過ぎた8歳馬で仕方がなかったのだろう、見せ場も無く10着に沈んだ。
 翌平成11年12月25日、明日は有馬記念という日に、「山茶花」の兼題で日経俳句会酔吟会第23回例会が開かれた。前年の悔しい思い出をもとに、『山茶花のはらはら有馬記念かな』と投句したら、「山茶花はらはら、はずれ馬券はらはら愉快な句だなあ」(黃鶴)、「軽みがあっていいね。ただし私は当たる方ですからね、こうはならない」(涸魚)などの評とともに思わぬ高点を頂いた。
 さて、それからまた20年たった。平成30年の有馬記念はどうなるか。なんと、思い出のステイゴールドの子供が二頭も出る。片や障害競走の王者オジュウチョウサン(牡7歳)と、中山が合いそうなパフォーマプロミス(牡6歳)。それに未だに若い騎手たちと張り合っている蛯名正義のリッジマン(牡5歳)が走る。天皇賞を堂々差しきったレイデオロ(牡4歳)とただ一頭参戦の三歳馬ブラストワンピースに勢いが感じられるので、この5頭の組み合わせで行こうかと考えている。57年間連続で外している水牛馬券が果たして当たるかどうか。
  有馬記念あれかこれかと大根引
posted by 水牛 at 22:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

俳句日記 (436)



 新駅名決定

 JRという企業集団は本当にどこまでバカなのかと呆れ果てる。品川駅と田町駅との間に2020年、東京オリンピックに合わせて開業する新駅の名称を「高輪ゲートウエイ」にすると発表した(12月4日)。
 英語のgatewayとは、出入り口とか通路といった意味で、JRは「ここが新時代の東京の玄関口になる」と説明している。将来、JRが敷く予定の羽田空港への路線やリニア新幹線の発着駅にする目論見もあるらしいのだが、東京への「玄関口」はここだけに留まらないだろう。
 新駅の出来る場所はその昔の品川宿の大木戸があった所である。近くには忠臣蔵四十七士の墓所泉岳寺がある。大昔から江戸っ子にはお馴染みの土地である。「泉岳寺」「高輪」あるいは「高輪大木戸」とつければいいではないか。「泉岳寺」は既に京急の駅名として存在するからということが失格の理由になったのだろう。それならば「高輪」「高輪大木戸」とすればいい。ゲートウエイなどという妙な英語より「大木戸」の方がずっとカッコいい。アベシンゾーさんが懸命になって呼び込もうとしているガイジンさんたちにも「オオキド」という響きは必ず受けるに違いない。
 やみくもに英語をカタカナにしたり、ローマ字の頭文字を並べたりして、それを日本語にくっつける手法が、脳味噌の薄っぺらなコピーライターと称する連中に持て囃されるようになって久しい。中にはそうして生まれた新語が流行することがあるが、大概はほどなく死滅する。
 その一例として私の頭に強烈に焼きついているのが、やはりJRのバカどもが決めた「E電」である。1987年(昭62年)の国鉄民営化に伴い、首都圏近郊電車区間の呼称「国電」の言い換え言葉を募集した。「民電」「首都電」など六万通も寄せられた中で、JR首脳はわずか390通しか無かった「E電」に決めた。選考委員の「有識者」(どうかと思うが)として加わった作曲家の小林亜星、写真家沼田早苗両氏が強く推したからだという。私はこのもっとずっと昔、某新聞社会部記者として運輸産業担当をしていたことから国鉄に愛着を寄せており、この「E電」というあまりにも知性の欠けた呼称に愕然として、旧国鉄の人脈を通じて異議を唱えたのだが、もちろんそんなことは通じずに東京駅構内はじめ各所に「E電」の看板がべたべた貼られた。しかし、このE電は世の中に全く受け入れられず、程なく雲散霧消してしまった。
 さて、今回の「高輪ゲートウエイ」はどうなるか。英米人には何らの感銘も与えず、単に「出入口」という印象で受け取られることになろう。アベ政権が躍起となって「外客三千万人誘致」を標榜している過半数を担うのが中国を筆頭にした東南アジア諸民族だが、その人たちにとって「ゲートウエイ」という英語名がそれほど魅力的に映るものとも思われない。私たち地元日本人にとっては、こんな妙なカタカナ駅名は御免蒙りたいという気持が大勢であろう。
 今回もJRは新駅名について一般公募した。6万4千通も集まった中で第一位は「高輪」、「高輪ゲートウエイ」は130位で僅か36通しか無かったそうである。これはもうゼロと同じで、あえてそれを拾い上げたJR東日本は「名称一般公募」などは全く当てにせず、最初から「高輪ゲートウエイ」ありきで事を進めていたとしか思えない。さてさて、「ゲートウエイ」が定着するのかどうか。それを見定めるまで命があるかどうかは分からないが、楽しみである。
  木枯しやゲートウエイとはなんじゃらほい
posted by 水牛 at 22:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月30日

俳句日記 (435)



十一月という月は

 11月は取り止めなく過ぎ去ってしまう月である。気候・温度変化からしても、秋のようでもあり冬のようでもある中途半端な感じだ。
 11月7日が立冬、俳句ではこの日から天然自然の景物も人事もすべて「冬」として詠むことになる。とは言っても、まだまだ秋の気分である。それでぼんやりしていると、急に明け方7℃などと冷え込んで、タオルケットに夏掛蒲団一枚で寝ていたために風邪を引くはめになったりする。
 11月がなんとなく印象薄く過ぎてしまうのは、行楽シーズンの10月を終えて一息つき、翌月の師走12月を控えてあれこれ心づもりしながらの時期ということもあろう。
 同じように何とはなしに過ぎてしまうのが2月だ。これもお正月の新年行事がいろいろ重なる1月を過ごし、翌3月が年度末・学期末で非常に忙しい。その中間安定期が2月である。「二月逃げ一年も逃げ始めたり 今泉而云」という名句があるが、この伝で行けば「あれあれと十一月の走り去る」ということになろうか。
 気候の変わり目ということでも2月と11月は似ている。2月は寒が明けて徐々に春らしくなって行く時期であり、11月は秋が本格的な冬になる頃合いである。こういう季節の変わり目は人間の身体にも影響を及ぼす。ここで無理をすると碌な事は無い。そんなこともあって、11月は殊更頑張らずに平々凡々の日を暮らすように、天の神様が仕向けてくれているのかも知れない。

  爪割るる十一月となりにけり
  空欄の目立つ日記や十一月
posted by 水牛 at 21:36| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする