2020年01月26日

俳句日記 (577)


初場所はシラケ場所

 令和二年の大相撲初場所は幕尻の徳勝龍が優勝という思わざる結果になった。万年十両といった印象の33歳の力士が懸命に頑張って優勝したのは大いに褒められるべきで、それはそれなりになかなか面白かったのだが、こういう珍事が起こったのは上位力士があまりにもだらしなかったからに他ならない。
 何しろ優勝の目が無くなると延命のためにさっさと休場してしまう白鵬、鶴竜という両横綱はじめ、カド番を9回も重ねた大関豪栄道と大関からずり落ちて10番勝って復帰すべく力闘せねばならない高安が5勝とか6勝とかいう体たらく。今年中に横綱になるなどとチヤホヤされている大関貴景勝は、なんと千秋楽結びの一番で幕尻力士に捻られてしまうというお粗末さである。上が誰もいなくなった今場所は、何としてでも大関貴景勝には優勝する「責任」があった。それでこそ土俵が締まり、自身の横綱昇進の道を開くものだったのだが、その期待に応えられなかった。これはもう「だらしがない」としか言いようが無い。
 白鵬、鶴竜の両横綱は今年中に引退するのではないか。両人とも土俵人生に美意識の欠けたところがうかがわれるから、もしかしたら、「出たり休んだり」を繰り返して、横綱の地位から得られる甘い汁を吸い続けようとするかも知れない。しかし、いくら寛容な世間もいつまでもそういう“恥ずかしい横綱”を許すことは無かろう。
 こうして横綱のどちらかが引退して、大関が貴景勝一人ということになると、相撲協会は困るだろう。近ごろ取組に熱気が失せて来たとは言え、相撲人気は衰えず、連日「満員御礼」の垂れ幕を掛け続けている。これを何とか維持しようとすれば、横綱、大関の看板を揃えたい。というわけで、今場所ようやく10勝を挙げた関脇朝ノ山が三月の大阪場所で11勝以上すると、大関にしてしまうだろう。朝ノ山は将来横綱になる大器だと思うが、まだまだなまくら相撲である。せっかちに大関に引き揚げてしまうと、ボロボロ負けて、自滅させてしまいかねない。また、相撲協会としては大関貴景勝が今年中に横綱になって欲しいと願っているのだろうが、貴景勝は今日の徳勝龍との一番を見ても、まだまだ横綱になる器ではない。
 というわけで、これから数場所は水っぽい取組の多い、ふやけたものになりそうだ。今場所優勝した徳勝龍は大阪場所では小結になるかも知れない。しかし、恐らく散々な星取表になるのではないか。何しろ十四日目まで「突き落とし」で5連勝という離れ業があっての優勝である。「突き落とし」とは、相手に押し込まれたり、土俵際まで攻め込まれたりして、窮余の一策で相手の脇を突いてはぐらかし倒す手である。そうそう決まるものではないのだが、それを終盤になって五日連続で決めたというのはまさに相撲の神様が上位陣の不甲斐なさに怒って、この幕尻力士を嘉し給うたとしか思えない。「運を味方につける」のが勝負師の根性だから、これは立派としか言いようが無い。しかし、来場所、この「運」が附いて回るとはとても思えない。次は実力で当たるしかない。となると、周りから標的にされる徳勝龍は大変な苦労をする。勝ち越せたら立派である。
 幕内の相撲に見るべきモノが無かったのに引き替え、十場所ぶりに関取に戻って来た十両照ノ富士は期待通りの活躍を見せてくれた。水牛が予想した通り、十両優勝を果たした。優勝を決めてからの十四日目と千秋楽を二番続けて落としたのはいただけないが、恐らくこれは疲れが極限に達していたのが優勝確定でホッとしたことと、待ちかねていたタニマチとの祝宴をはしごしての疲れによるものではなかろうか。ここしばらくは幕下以下で一日置きの一場所七番勝負だったのが、十両に上がって久しぶりに十五日間出ずっぱりの相撲になったのだから疲れもするだろう。
 しかし、今回13勝2敗で終えたのは照ノ富士にとって良かった。これで来場所、いきなり幕内に上がることが消え、十両の上位でもう一場所ということになった。糖尿病や肝臓病はほぼ癒えたといい、両膝の怪我の後遺症もほぼ無くなったというが、まだ万全ではない。大阪場所は十両上位でゆっくりとした相撲を取りながら10勝くらいして、五月夏場所で晴れて幕内復帰というペースで行くのが、それこそ劇的な「大関復活への長い長い道のり」を確かなものとするのに理想的である。
 幕尻の優勝さらひ寒ぬるし    酒呑洞
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2020年01月22日

俳句日記 (576)


難解季語 (58)

霜焼(しもやけ)

 近ごろ、シモヤケの子をさっぱり見なくなった。強い寒気に当たって、手や足の指、耳朶や頰が赤く腫れ上がり、痛痒くなる症状である。これがもっとひどくなると「凍傷」ということになって、これは放っておくと指が壊死したりするから、医師に掛かって治療することになる。
 しかし、シモヤケは丹念に擦ったり、風呂でゆっくり揉んだりして、蛤の貝殻に入った「シモヤケ軟膏」などを摺り込むと治る。というわけで、あまり問題視されず、「真冬につき物の現象」と片付けられていた。大人も掛かったがそれほど重傷になることは無くて、冬でも手袋や足袋、靴下などはかずに外を走り回る子供がよく掛かった。シモヤケになると、膨らんだ手足の指が夜、蒲団に入って温まるにつれ猛烈に痒くなる。掻きむしるとそこからバイ菌が入って化膿したり、皮膚病になってしまう。そうなると厄介で、冬中悩むことになる。
 霜焼は寒くなって手足の指先、耳朶、頰の出っ張りなど、低温に曝されやすい末梢血管に血液が十分に循環されなくなると起こる症状である。栄養状態が悪い場合に特にひどくなるとも言われる。
 この霜焼と似たのが胼・皹(ひび)で、これは大人でもよくかかる人がいる。どちらかというとやせっぽちで、皮膚のかさついた感じの人が掛かりやすいようだ。手や足が寒気にさらされて、乾燥すると、皮膚が切れて赤く血が滲む。ひりひりしてとても痛い。これが重傷になったのがアカギレ(漢字ではヒビと同じ「皹」と書く)で、皮膚がぱっくりと裂けて非常に痛い。何かの拍子で紙切れの端や袖口や布巾のほつれ糸、あるいは縫物の糸がアカギレに触ると、跳び上がるほどの痛さだ。
 どういうわけか。霜焼になる人は皹が出来ず、皹やアカギレの人は霜焼に掛からないようである。とにかく、どちらにせよ嫌なモノで、冬場、洗濯や炊事でしょっちゅう冷水に手を浸さざるを得なかった昔の主婦にとって、霜焼と皹が冬場の悩みの種であった。
 ところが、暖房設備が行き渡り、栄養万全の昨今、「霜焼」にかかる人がほとんど居なくなった。子供は裸同然で寒風の中を遊び廻ったりすることが無くなり、主婦は捻れば温湯が出るような環境に恵まれて、冷たい水仕事を長時間強いられることが無くなったことが大きい。それよりも霜焼と皹・アカギレが無くなった最大の原因は「暖冬」かも知れない。良い事があまり無い地球温暖化だが、シモヤケ・アカギレ防止だけには役立っている。

  汽車へ乗る頰しもやけの佐久乙女    岡田 日郎
  福耳と言はれ霜焼にも好かる      相澤 礼子
  皸といふいたさうな言葉かな      富安 風生
  皹薬つけてより紅絹縫ひ始む      敦賀 皓子
  新聞少年霜焼の頰光らせて       酒 呑 洞
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2020年01月19日

俳句日記 (575)


「番町連句」令和2年の詠み初め

 番町連句はもうずいぶん長い事続いている。かれこれ15,6年になる。しかし、途中で寄る年浪で引退したり、亡くなる人も出て、しばらく休会した。ところが、連句というものは取っつきにくいが、慣れるというか、その付け合いの面白さを知ってツボを心得ると実に面白いもので、くせになる。誰からともなく「再開しましょう」と声が上がって、四年前の平成28年(2016)2月20日(土)、千代田区二番町の双牛舎事務所に今泉而云、大澤水牛、須藤光迷、田中白山、玉田春陽子、野田冷峰、廣田可升の7人が集まって「番町連句会再開第一回」を開いた。
 爾来、毎月第三土曜日の昼下がりに双牛舎に集まって、おいしいお酒を酌み交わしながらの楽しい句会が続いている。昨1月18日(土)は回を重ねて第45回となった。暖冬異変の令和元年から今年2年の冬は、東京では氷が張らないどころか、寒の最中と言うのに日中は12,3度の春の気温。それがこの日は夜来の雨が昼頃にはみぞれになり、初めて冬らしい冬になった。これで、本来はこの日の句会の捌き手(司会・先導役)となるべき而云さんが熱を出して急遽欠席、常連の谷川水馬さんも欠席で、一座は5人のこぢんまりしたものとなった。
 発句には、つい先日、1月4日に行った東海七福神吟行で評判を取った光迷の「富士塚や四日の海も橋も暮れ」という品川神社の富士塚の天辺で詠んだ句を据えて午後1時に開始した。気心の知れた5人で、お互いの詠みっぷりも分かっているせいか、付け合いはすいすいと進み、午後5時7分に歌仙36句を巻き終えてしまった。四時間弱で歌仙を巻き終えるのは、かなりのスピードである。その中身は、時には脱線したものもあるけれど、概ね式目(俳諧連句の定め)を踏み違えずに、しかも千変万化の彩り豊かな一巻となった。

番町連句歌仙「富士塚や」の巻
富士塚や四日の海も橋も暮れ   須藤光迷
 年始の酔の残る下町      大澤水牛
越後屋に初荷幟のひしめきて   廣田可升
 木の芽でたかと亭主そはそは  玉田春陽子
娘待つ大川端に春の月      田中白山
 初蝶ひらり猪牙舟の先       光迷
(ウ)
寅さんが帰って来たとはしゃぐ婆   水牛
 電子タバコの喉にからんで     可升
鳩居堂出て京都の薄暑かな      春陽子
 片肌脱いでたこ焼姐ちゃん     白山
肩並べ波を見ている紅葉宿      光迷
 猪出るとたぶらかしたり      水牛
寝乱れて生きるの死ぬの鹿や啼く   可升
 今宵新月鍵をたしかめ       春陽子
正式に認められたるチバニアン    白山
 南へ北へ走る枯葉よ        光迷
赤貝も蛤もあり花筵         水牛
 瀬戸の船旅東風に吹かれて     可升
(ナオ)
淡黄のオリーヴの花指呼の間     春陽子
 母なつかしき天瓜粉の香      白山
敗戦日どこまで歴史さかのぼる    光迷
 古墳の丘にぶらりひょうたん    水牛
焼入れし包丁鍛冶や虫の声      可升
 客間の母娘あやとり遊び      春陽子
一族郎党気勢を挙げて狸汁      白山
 入試の門になだれ込んだり     光迷
名残り雪すべってころび泣き笑ひ   水牛
 春月さびしトレモロかなし     可升
山笑ふあずさ二号に乗り遅れ     春陽子
 好いて好かれて涎たらたら     白山
(ナウ)
真っ青な舌を見せ合うソーダ水    光迷
 ブイを目がけてざぶん飛び込む   水牛
売れすぎて足りぬ原酒や泡立草    可升
 もってのほかと旅の呑助      春陽子
おひねりの乱れ飛ぶなり花相撲    白山
 星降る中をしずしずと行く     光迷   (満尾)
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2020年01月16日

俳句日記 (574)


日経俳句会初春句会
「淑気」と「冴ゆ」を詠む

 1月15日(水)午後6時半から内神田・鎌倉橋交差点そばの日経広告研究所会議室で、令和2年の第一回日経俳句会例会(通算185回)が開かれた。寒の真っ最中というのに生暖かく、今日も東京横浜は日中12度。南向きの丘の中腹で背中に石崖を背負っている横浜の我が家の庭の寒暖計は午後2時半に15度もあった。しかし、深夜から明け方にはぐんと下がって3、4度になる。こうした気温の急変化によって体調を崩す人も多く、投句した人は37人もいたのに、出席は15人に止まった。
 句会の兼題は2ヵ月前に発表している。この日は新春の句会だからと、「淑気」と「冴ゆ」としておいた。「冴ゆ」は寒の最中だから丁度良いだろうと思っていた。ところが連日の春の陽気である。皆さん冴ゆる感じをあれこれ思い浮かべながら、苦心の句づくりとなったようだ。
 句会はいつも通り投句3句、選句6句で進められ、その結果は次のようになった。
『天』 冴ゆる夜や難病の友よく語り     博 明
『地』 踏跡のなき雪道の淑気かな      悌志郎
『人』 冴ゆる夜はみしりみしりと家も泣く  双 歩
    スイーツも酒も持ち寄り女正月    木 葉
 水牛が良いと思って選んだのは以下の通り。
    淑気満つ嶺の尖りや独鈷山      百 子
 「独鈷山」を知らない人にはちょっと分かり難いという難点のある句だが、あの独特の形をした峰が続く山容と、それに初日が当たって青紫に輝く景色はいかにも「淑気」であろう。
    富士塚の頂きに満つ淑気かな     双 歩
 これは1月4日に行った東海七福神で品川神社の富士塚に上った時の詠だろう。すぐ真下は車の騒音の第一京浜で、いささか埃っぽい感じだが、それでも新年早々だから、何となく清清しい。
    踏跡のなき雪道の淑気かな      悌志郎
 北国の朝の景色だろうか。耳朶凍るような寒気と淑気である。
    夕映えの荒川越しに冴ゆる富士    ゆ り
 これは見たままの感動。さぞかし美しいだろう。
    デパートにトイレを探す寒の入    双 歩
 身につまされる。
    鳥来るを待つ千両のつぶらかな    弥 生
 「小鳥来る」という秋の季語があって、それに邪魔されてしまうので損をしているが、正月が近づいて来た頃、真っ赤に色づいて静かに庭の隅で小鳥を呼び寄せる千両の美しさを「つぶらかな」と詠んだのがいい。
 さて、水牛の句は、
    ちんまりと猫も正座の淑気かな   (5点)
    冴ゆるかな品川宿の六地蔵
    暖冬の池にぬくぬく太り鯉     (1点)
 という、まずはお情けの「入選」ということになった。
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2020年01月13日

俳句日記 (573)


大相撲初場所が始まった

 今日1月13日成人の日は大相撲初場所の二日目。関脇に上がった朝の山以外には若手に面白くて有望な力士が居らず、沈滞気味の相撲には盛り上がりが欠けるのだが、前頭筆頭の遠藤が横綱白鵬を切り返しで裏返しにしたのを見せてくれて、実にすかっとした。
 白鵬は優勝回数43回、1140勝という前人未踏の大記録を立て、それを更新中の大横綱である。こうした度肝を抜く大記録はもう誰も破ることが出来ないのではないかと思う。しかし、それほどの大横綱が、その取口を見るとがっかりしてしまう。加齢と共に力士人生の延命策を講じるようになって、張り手とカチ上げを多用するようになった。両方とも相撲の手として認められているのだから、やって悪いことは無いのだが、一番強い力士がやるのは何としても格好が良くない。しかも、白鵬のカチ上げは特殊で、帯芯のような固いサポーターをはめた腕を曲げて、それを相手の喉頸や頤にぶち当てるのだ。帯芯で固くなった肘は凶器に等しい。これでがつんとやられた相手は脳震盪を起こしてしまう。
 先場所(2019年九州場所)の遠藤がそうだった。白鵬のカチ上げを喰らって鼻血を噴き出し、脳震盪でふらふらになって負けてしまった。これが脳裡にあったはずだから、普通なら今場所の取組では意識して、おっかなびっくりの立合になるのも当然というところであった。しかし、遠藤は偉かった。ひるむことなく突っ込んだ。張って出た白鵬の体を上手に躱して回り込み、下手を取って押し込む。慌てた白鵬が上手投げを打った。かなり強力な投げで、普通の力士ならこれで倒されていたいただろうが、足腰の柔軟な遠藤は投げを残して逆に切り返しの逆襲。これで白鵬ぐらっと来たが、さすがの大横綱で立て直す。しかし、遠藤はさらに深く下手を掴み、潜り込んだ。慌てた白鵬はさらに強烈な上手投げ。しかし、遠藤はまたも堪えて、切り返し。これで無理を重ねていた白鵬はずでんどうと裏返しにされてしまった。
 久しぶりに座布団が舞い、観客総立ちで「エンドー、エンドー」の連呼。これは、先場所の白鵬の大横綱らしからぬ乱暴なカチ上げの場面を覚えていた観客の喜びの声だったのだ。
 ただ、遠藤という力士は技は抜群なのだが、体力にもう一つ問題がある。途中でくたびれてしまうようなのだ。それで星が上がらず、三役に上がったと思うと直ぐに落ちてしまう。色白の美男子でモテるところも厄介なのだろう。お座敷を務めるので疲れてしまうことがあるのではないか。こんなところが、大関になれる逸材なのに、前頭上位と小結を行ったり来たりしている原因なのではなかろうか。
 もう一つ今場所の楽しみは、10場所ぶりに十両に戻って来て二連勝した荒法師の元大関照ノ富士である。両膝の怪我と糖尿病で休場を続け、序二段にまで下がったにもめげずに新規巻直しを誓った力士である。「次は横綱」と言われていた時から応援してきたし、序二段に下がってからもネットで取組録画などを探しては注目してきた。あの日の出の勢いの大関時代の我武者羅相撲と違って、ずいぶん考えて取るようになっている。恐らく今場所は十両優勝にからむ活躍をして、次の大阪場所にも好成績を収め、夏場所の隅田の川風に晴れて幕内復帰の浴衣姿を見せてくれるのではないかと期待している。
  川風に一月場所の太鼓かな      島田 五空
  初場所やモンゴル力士の不敵な顔   須藤はま子
  都鳥あそぶ川面に触れ太鼓      酒 呑 洞
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2020年01月11日

俳句日記 (572)


酔吟会第144回例会が開かれた

 1月11日(土)午後1時から、千代田区内神田の鎌倉橋で酔吟会の今年最初の句会が開かれた。
 「酔って吟ずる」という、真面目な俳人が怒り出すに違いないふざけた名前の句会で、確かに1996年(平成8年)春に発足した時にはそんな感じの句会だった。「スイギュウ、細かいことはお前に任せた」と、乱暴極まりない社会部記者OBの先輩連中に言われて、あれこれお世話していたのだが、しばしば呆然とする場面もあった。何しろ自分の句が一番と頑なに思っている人たちばかりの句会だから、自句に点が入らないと、みるみる不機嫌になる。誰かの高点句を「なんでこんな句がいいんだ」と口を極めて言い募る。もちろん罵られた方は黙ってはいない。「何だお前の句は手垢のついたありきたりだ」「なにおっ、もう一度言ってもろ」「おう、何度でも言ってやらあ」。
 全部任された当方は本当に困った。しかし、そう言った先輩たちは殆ど三途の川を渡ってしまった。それなのに、未だに私が司会役を務めている。もうそろそろ誰かに変わってもらわなければならないと思っているのだが、なかなか手を上げてくれない。今や酔吟会の中身は大変わりで、極めて真面目で、かつ素晴らしい句を輩出する句会になっている。
 酔吟会の人気がここへ来て急速に盛り上がっているのは、昔ながらのやり方、つまり、参会者が短冊に自句をしたためて投句し、それを出席者がC記用紙に書いたものを順送りに回して選句し、披講し、合評会で意見を述べ合うという、今どき珍しくなった伝統的な句会方式を守っていることと、土曜日の午後にゆっくり繰り広げる句会という点にあるようだ。こういう句会は大切にして行かねばならない。とにかくこの日も19人が出席し、投句参加2名の投句も含め、賑やかな句会になった。
 この日の兼題はお正月句会らしく、「初日」と「屠蘇」。投句5句、選句6句で句会を行った。その結果選ばれた高点句は以下の通り。
 ごまめ煎る気長な妻のありがたさ    工藤 静舟 (6点)
 汚れちまったこの星に射す初日     片野 涸魚 (5点)
 帰郷して綽名呼び合ふ新年会      今泉 而云 (4点)
 風を呼び風に煽られどんと焼き     玉田春陽子 (4点)
 生きてをるだけがめでたき初日かな   片野 涸魚 (4点)
 雑煮餅卒寿の父母に薄く切る      谷川 水馬 (4点)
 枯むぐら除けるや蕗の薹二つ      大澤 水牛 (4点)
 初夢は背を向け合ひて同じ夢      今泉 而云 (3点)
 仏壇の奥まで入りし初日かな      須藤 光迷 (3点)
 初日影松の葉先の細みまで       玉田春陽子 (3点)
 抜き文字の法被眩しき出初式      廣田 可升 (3点)
 武骨なる父のあいさつ屠蘇の朝     廣田 可升 (3点)
この他に水牛が可とした句は以下の4句。
 歩こうか日射しは温し寒の入り     大平 睦子
 真っ先に初日を浴びし鳥たちよ     嵐田 双歩
 ごまめ噛む五輪の費えいかばかり    須藤 光迷
 初日の出なぜか自然に手を合わせ    久保 道子
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2020年01月09日

俳句日記 (571)


難解季語 (57)

寒四郎(かんしろう)

 一月五日、年によっては六日が「寒の入り」。二十四節気では小寒。この十五日後が大寒で、さらにその十五日後が立春ということになる。つまり、春になる前の、冬がもっとも深まる三十日間が「寒中」で、一年中で気温が最も下がる時期とされる。
 その寒の入りから四日目を「寒四郎」と呼んだ。松飾りが取れて、「さあ正月気分から抜け出せよ」という掛け声のような響きがあり、いよいよ農作業が始まる。
 昔はこの日を麦の豊凶を占う日とした。この日が晴れれば、その年の麦は豊作、雨や雪だと不作とされた。霜で浮いた麦の根を踏み固め、根張りを良くする「麦踏み」が行われる頃合いだから、「さて、始めようか」という時に雨が降って腰を折られたのでは何となく縁起が悪いと感じたことから来たものであろうか。
 他方、寒の入りから九日目を「寒九」と言い、この日は逆に雨や雪が降ると、その年は麦も米も豊作疑いなしと喜んだ。なぜ寒の入りから四日目が雨だと不作で、九日目が雨だと豊作になるのか。その理由も根拠もさっぱり明らかにされていない。しかし昔の人は、「なぜ、なぜ」などと根問いすることをせず、昔からの言い伝えと聞かされれば素直に従って、吉と出れば「有難うございます」、凶と出たら「どうぞそうなりませんように」と神仏に祈ったのである。
 それにしても昨今の暖冬現象は物凄い。寒の入りというのに令和二年一月六日の横浜は13℃もあった。「寒稽古」「寒中水泳」「寒晒し」「寒天製す」などという季語があるように、肌身が切られるような寒気の中で身体を動かしたり、真冬ならではの食品加工などを盛んに行う時季が「寒」なのだが、氷も張らない日が続いたりすると何となく気が抜けてしまう。
 例えば「寒九の水」というのがある。今のカレンダーで言えば一月十五日頃の水で、それこそ手が凍るような冷たさである。この日に汲み上げ上げた井戸水は薬になるとされ、造り酒屋はこれで酒を仕込んだ。いわゆる「寒づくり」である。この水に浸せば餅も黴びないと言われた。しかし、寒中の最低気温が関東地方で氷点下にならず、日中は10℃以上というのでは、「寒づくり」も「水餅」も不可能である。どの家にも冷凍冷蔵庫があるのだから「暖冬、大いに結構」と言われてしまえばそれまでだが、何となくぴりっとしたところが無くなってしまうなあと思う。
  から鮭も空也の痩も寒の内       松尾 芭蕉
  老いの眼のものよく見えて寒四郎    小松崎爽青
  松とれてポトフことこと寒の雨     酒 呑 洞
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2020年01月06日

俳句日記 (570)


難解季語 (56)

じんじつ(人日)
 古代中国では正月一日は「鶏の日」とされていた。夜明けを知らせるときの声を上げる鶏が年明けの役者とされるのは納得する。二日は「狗(犬)の日」。これも人間の忠実な守り役だから、何となく分かる。三日は「猪(豚)の日」とされた。当時の中国人にとって最も大切な食肉獣だったからなのであろうか。そして四日は「羊の日」、五日「牛の日」、六日「馬の日」と来て、七日にようやく「人の日」が来る。
 それぞれ割り当てた日にはその動物を慈しみ、間違っても殺したり食べたりはしなかった。七日は「人の日」というわけで、この日初めて人の吉凶を占った。同時に人を慈しむ日であるから、犯罪人の刑の執行は行わず、軽罪の者を許したりもした。また、この日には七種類の野草・野菜を刻み込んだ羹(あつもの、スープ)を食べ長寿を祈る習慣があった。これが日本に伝わり、江戸時代になると幕府の公式行事になり、諸大名が江戸城に上り七草粥を祝った。これがやがて庶民にも広まった。
 七草粥はさておき、元日が鶏の日で、七日が人の日といった、奇妙な組み合わせについて記した最も古い記録は前漢時代の『占書』という占術の本で、武帝に仕えた学者東方朔(とうぼう・さく)が書いた。東方朔は字を曼倩といい、山東省平原郡の人で西暦前154年から前92年頃まで生きたと言われている。
 やはり武帝に仕えた歴史家司馬遷が紀元前91年ころに書き上げた歴史書『史記』の中の「滑稽列伝」に、東方朔が取り上げられている。それによると朔は古文書読解や四書五経を深く研究する一方、雑書にも広く目を通し、博学多才、しかも話術が巧みで、激しい気性の武帝が朔の話を聞くといつも上機嫌になったという。この話からすると、東方朔という人はどうも秀吉に仕えた曾呂利新左衛門のような御伽衆だったのではなかろうか。
 四書五経に通じ、占術にも長けていたというから頓知噺の新左衛門よりは上等のようだが、兎に角、この人物が著した書物に出て来る「正月七日は人日(じんじつ)」というのが後に「五節句」の筆頭として祝われるようになったのである。
 五節句は五節供とも書くが、一年に五度ある季節の節目の日で、正月七日(人日・じんじつ)、三月三日(上巳・じょうし)、五月五日(端午・たんご)、七月七日(七夕・しちせき)、九月九日(重陽・ちょうよう)の五度の式日の総称。いずれも古代中国宮廷の式日で、日本に伝えられ、宮中や幕府の公式行事になった。中でも人日に重きが置かれ、この日の天候で一年の豊凶を占うこともした。
 五節句を祝い、1月7日には七草粥を炊くといった伝統行事は今や本家の中国ではほとんど行われなくなってしまったという。朝鮮半島やベトナムなど、中国の膝下に置かれて儒教の教えを守ってきた所も、今やこうした伝統行事は忘れ去られたようである。日本はこうしたことを律儀に守っている、と言うより完全に日本の文化の一つとして消化し、行っている。こんなところが実に面白い。
 水牛も6日午後、庭を隅々まで探して、セリ、ナズナ、ゴギョウ(母子草)、ハコベ、ホトケノザ(タビラコ)、スズナ(蕪)、スズシロ(大根)を取りそろえ、さっと湯がいて、「七草なずな、唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先に、ナナクサナズナ」と歌いながらトントン、トントン叩いた。これを明日朝、炊いたお粥に入れて、粥柱(かゆばしら)の餅も入れて、七草粥にする。山の神が「物好きねえ」といった顔をして、「私は朝はパンと紅茶だから、明日もそうしていいかしら」なんて言う。
  占ひはさて七草を取り揃へ   酒呑洞
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2020年01月05日

俳句日記 (569)


東海七福神巡拝吟行

 日経俳句会と番町喜楽会が合同で毎年正月に行っている「七福神吟行」。2020年(令和2年)は旧東海道品川宿を中心とした東海七福神を巡った。19人も集まり、上々天気にも恵まれて和気藹々、賑やかに全行程4.5km を全員完歩した(水牛の万歩計では13666歩)。
 「東海」と言うと、いつ起こっても不思議は無いと言われている「東海大地震」が頭にこびりついているせいか静岡愛知両県が浮かぶが、元々は日本国を意味する言葉であり、京都から見た「東の海」であり、その海沿いの道・東海道の略称であった。その東海道の出入り口である品川の品川神社を振り出しに、大森・鈴ヶ森の磐井神社をゴールとする七福神巡りに「東海」を冠するのは至極もっともなのだと、歩きながら納得した。
 この七福神巡りは北品川の品川神社を出発して南へと辿るのが普通のようで、案内パンフレットなどは皆そのように書いている。しかし、昨年末、七福神吟行幹事の迷哲、双歩、二堂三氏と下見した結果、鈴ヶ森の磐井神社から北上する逆回りがいいという結論になった。
 これは、何も人とは逆のことがやりたいというへそ曲がりから出たわけではない。ちゃんとした理由があるのであった。普通順路で行くと、品川神社(大黒天)から二番目の養願寺(布袋尊)までは6,7分、次の一心寺(寿老人)へは3分、そこから6,7分で荏原神社(恵比須)と、すいすいと四つ回れる。しかし、荏原神社から品川寺(毘沙門天)まで20分近く、そこから天祖諏訪神社(福禄寿)まで20分強、最後の磐井神社まで約30分もかかる。つまり、草臥れてきた最後の方に長丁場がつながるのだ。「元気な内に難物の三つをこなしておいた方がいい」と、今回から七福神吟行幹事を引き受けてくれた迷哲双歩ご両人の判断であった。これが大正解で、杖をつきつきの冷峰さんも、膝痛を抱える斗詩子さんも無事に巡り終えた。
 午後1時に京急大森海岸駅に集合し、午後4時には予定通り品川神社境内で完歩記念集合写真を撮り終えた。その後は、北品川商店街の台湾ダイニング「游羅」で台湾式中華料理と紹興酒、ホッピー、ビール、日本酒の打ち上げ大宴会を繰り広げた。双歩幹事が「皆さーん、本日の吟行句を3句、7日火曜日までにメール送信して下さーい」と声を張り上げたが、さて、何人がしっかりと聞いていただろうか。六時半頃にお開きとなったが、帰りたがらない5人が品川宿のぬばたまの闇に消えた。
  子年初春東海七福巡りけり    酒呑洞  (この形で12年作れます)
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2020年01月03日

俳句日記 (568)

難解季語 (55)

御降(おさがり)

 正月三ヶ日に降る雨や雪をこう呼んだ。昔は元日に降るものだけを言ったようだが、江戸も中期になると三ヶ日に伸びた。
 元日早々、あるいは正月早々、雨なんぞ降りやがって景気が悪いとぼやいたり、毒づいたりしたくなる。それを抑えて、「いやいやこれは今年が豊作豊漁になるという天のお告げなんだよ」と思い直して、「神様が降らせて下さった瑞兆」と思い込むようにして、雨とか雪とか直接言わず、やんわり優雅に「おさがり」と言い換える「忌詞(いみことば)」である。
 新年三ヶ日は、それを当て込んだ商人芸人などは別として、全国くまなく、全社全組織こぞっての休暇で、これほどくつろげる数日はそうそう無い。初詣に始まって年始回りと称する飲み会、二日は初荷、デパートの福袋買いや親しい人たちとの新年会、三日はゴルフの初打ちとスケジュールびっしりである。
 何とか好天気でありますようにと祈っていたのに、なんとびしょ濡れ。これでは楽しさも半減である。しかし、「コンチクショー」などと毒づいてはいけない。これも「チチンプイプイ、神様の言う通り」と甘んじて受けねばならぬ。
 その点、昔の人はもう少し余裕があったようだ。今と違って衣料品が比べものにならぬほど高価だったから、濡れるのを殊の外嫌ったのだが、正月に降られても恨んだりはしない。御降があると、「富正月」と、さらに大げさに目出度さを言い募るのであった。

  御降の雪にならぬも面白き     正岡 子規
  お降りといへる言葉も美しく    高野 素十

  御降りを殊更に言い昼の酒     酒 呑 洞
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2020年01月02日

俳句日記 (567)

難解季語 (54)

嫁が君(よめがきみ)

 正月三が日に出て来る鼠を、昔の人は「嫁が君」と言った。いわゆる「忌詞(いみことば」(「忌むべき言葉」及びその「言い換え言葉」)である。言霊(ことだま)という言葉も近ごろは通じにくくなっているが、言葉には霊威が宿っていると信じられ、その言葉を口にすると、実際にそのモノが現れたり、そういう事態が生じると信じられていた。だから、不吉なことを連想する言葉はなるべく口にせず、どうしても言わなくてはならない時には「忌詞」を言った。「死」を連想する「四」を「よん」と言ったり、「するめ」を「あたりめ」と言ったりするのも一種の忌詞である。
 トヨアシハラミズホノクニ、稲の豊かに実る農業国日本には大昔から鼠が人家の内外に沢山巣食っていた。人間サマが丹精込めて作り、貯蔵した籾米を鼠どもが片端から食い荒らしてしまう。放っておいたら大変な事になる。熊、狼、猪は怖い獣だが、普段は人里に滅多に現れない。それに対して鼠の害はひどいものだったから、人間にとって本当に恐ろしい害獣は鼠だった。
 「言霊の幸ふ国(コトダマノサキハウクニ)」だから、目出度い年の初めには目出度い言葉を選んで口にした。その年真っ先に口にする言葉が現実の物となると信じられていたのである。だから正月三が日は用いる言葉に注意して、不吉な語を口にしないように心掛けた。万が一「ネズミ」なんて口走って、一年中あちこち囓られたら一大事だ。しかし、鼠は三が日だろうが何だろうがお構いなしに出て来る。そこで、「嫁が君」と敬い奉って「どうぞ今年は悪さをしないでおくれ」となだめすかした。地方によっては正月三が日には鼠が出て来そうな壁穴や台所の隅に、小さく切った餅を積んで、鼠の御機嫌取りをする風習もあった。
 禍をもたらすものを崇め奉って懐柔してしまう作戦は大和民族の古くからの戦術の一つだった。「褒め殺し」である。嫁が君と奉るのもその一種だろう。さらには、豊穣神であり台所の守護神、金運の神様でもある大黒天(大黒様)のお使いを鼠としたのもその現れである。猫を飼っても、ねずみ取りを仕掛けても、石見銀山ねずみ取りを何回仕込んでも、蔵や台所を荒らし回る鼠。これはもう崇め奉ってしまえと、ヤケクソのどん詰まりの知恵が「大黒様のお使い」に格上げしてしまう戦術だったのだ。また、「ねずみ算」という言葉もあるほど、鼠は多産で無闇に増える。これにあやかって「豊穣神のお使い」としたフシもある。
 その鼠が近ごろは台所にさっぱり現れなくなった。一戸建ても土台周りがしっかりして床下に潜り込む術が無くなり、下水管も密閉空間になった。食材は冷蔵庫やしっかりした貯蔵庫に収納されている。鼠が跳梁跋扈する場所が無くなってしまったのである。「嫁が君」という言葉が通じなくなるのも無理は無い。

  明くる夜もほのかにうれし嫁が君    宝井 其角
  嫁が君この家の勝手知りつくし     轡田  進

  鉄筋コンクリどうかいくぐり嫁が君   酒呑洞
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2020年01月01日

俳句日記 (566)


難解季語 (53)

淑気(しゅくき)

 俳句をやらない人にはとても分からない言葉ではないか。もともとは漢詩で使われた言葉が俳句にも用いられるようになり、新年の季語として定着した。正月三ヶ日は改まった身の引き締まる感じと、そういう中にもちょっと華やかでおめでたい温和な雰囲気が漂っている。初日の出もそうだし、しんと澄んだ空気も、雲の様子などにも、なんとなくいつもと違った清新の気がみなぎっているようだ。昔の人はそれを「瑞祥の気」と言った。「淑気」もそれと同じ意味合いである。
 「淑」という字は「淑女」「貞淑」「淑徳」などと使われるように、「良い、善い、しとやか」という意味である。さらに「私淑」という言葉があるように「慕う、引きつけられる」という意味もある。つまり、「淑気」はそういう新年の素晴らしい、清々しい「気」のことである。
 しかし淑気という言葉を知っているのは今や俳人だけというような状況になり、それも若い俳人にはそっぽを向かれるような季語になってしまった。
 ただ、昔の俳人は漢詩由来の堅苦しい語感を逆手に取って、儀式張るお正月を洒落のめすために、わざとこういう武張った季語を用いた様子もうかがえる。それによって俳諧味を出そうとしたのである。「俳諧」にはそういう面がある。現代俳句にもその流れは生きている。
 さらに言えば、こういう俳句独特の季語はかえって句にしやすいとも言える。何かある情景を詠んで、「淑気かな」と付ければそれなりに格好がついてしまうのだ。「淑気」という裃を着たような季語に向かうには、これくらいの気軽さで当たる方がいい。

 淑気満つ口あいてまづ一笑す        菅  裸馬
 観音の頤(おとがい)仰ぐ淑気かな     森  澄雄
 闇抜けて立つ山脈の淑気かな        井上 康明

 ちんまりと猫も正座の淑気かな       酒呑洞
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2019年12月31日

俳句日記 (565)


去年今年

 2019年は平成31年が5月で令和元年に切り変わったのをはじめ、各地に天変地異が起こり、消費税が10%に上がり、株価は上がったものの実体経済は沈滞の度合いを深めた。国際的には米中の経済摩擦が高まり、北朝鮮の核ミサイル開発による脅し激しく、中東は相変わらず情勢不安と、内外共に爆発しないまでも爆発のエネルギーを内に抱えたままという、極めて不穏な状態で越年することになった。
 2020年、令和2年は恐らく酷い年になるだろう。「アベノミクスは大成功」と言い募り、ウソにウソを重ねてきたのに、対抗勢力が居なかったが故に権力を握り続けて来たアベ政権のほころびが、来年はどっと出て来るに違いない。日本経済は沈滞を続けるに違いない。沈滞のままならまだしも、非常識な金融緩和策のとがめは大銀行の疲弊など、もう既にあちこちに出始めている。19年の大納会が30年振りの高値でシャンシャンとなったが、これも砂上の楼閣であり、令和2年に一挙に崩れないとも限らない。
 NHKは言わずもがな、本来公正中立であるべき大新聞がアベ政権におもねるように、「オリンピックイヤー」の太鼓を叩き、国民の耳目をそこに集め、砂上の楼閣をさらに積み上げようとの権力の意向に荷担している。しかし、日本は1964年の東京オリンピック時代とは様相を全く異にしている。物質的には当時とは比べものにならない豊かさだが、国民全体に「伸びよう」という意欲が欠けている。政府がいくら躍起になろうが、マスコミが尻馬に乗ろうが、最早「オリンピック」の掛け声だけでは萎えた人心は奮い立たない。
 それより何より天災が心配だ。今年は台風15号、19号で関東一帯から東北までひどい被害を蒙った。西日本では年初から長雨、台風、洪水に見舞われてさんざんな目に遭っている。2020年はそれに輪をかけた豪雨、台風に襲われる恐れがあると警告する気象学者もいる。それに、もしかしたら列島のどこかに巨大地震が発生するかも知れない。東京オリンピックの最中に東京を巨大地震が襲ったら、地震慣れしていない外国人観光客はパニックを起こすのではないか。
 とまあ、令和2年は心配事が先に立つ。
 これらが杞憂に終わればこんな嬉しいことはない。しかし、気力体力ともに衰えの目立って来たせいか、衰牛老人は、それなりの確率でそうなってしまうのではないかと恐れている。しかし、恐れていたってどうなるものでもない。しょうがない、ここは腹を括って、長命水にじゃんじゃん燗をつけよう。

  天災人災令和元年暮れにけり     酒呑洞

  錠剤の数をかぞへて去年今年     酒呑洞
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2019年12月29日

俳句日記 (564)


難解季語 (52)

掛乞(かけごい)

 江戸時代から昭和三十年代初めまでは、米屋、八百屋、魚屋、酒屋など日常品の売買にも「掛け売り」が至極当たり前に行われていた。とは言っても、商店が「御用聞き」に回って注文を取り、商品を配達する、いわゆる上流家庭が掛け売りの対象顧客ではあったのだが、東京、横浜の山ノ手では中流家庭にまでこの慣習が行き渡っていた。これは都会地では小売商の数が多く、それぞれの商店が上顧客を囲い込むための手段という面もあったようだ。
 商人は品物を納めると同時に、お得意先の勝手口にぶら下げてある「通い帳(かよいちょう)」に納入月日、品名、値段を記帳して、女中(お手伝いさん)なり奥様に確認して貰う。中程度の家庭では女中や奥様が通い帳を持って商店に出向き、必要な商品を買って、現金を支払わずに通い帳に記帳させ品物を持ち帰るという方法を取った。盆と暮れになると商人は手元の帳簿を集計してそれぞれの得意先を集金しに回る。これが「掛乞(かけごい)」あるいは「掛取(かけとり)」である。盆と暮れの「節季払い(せっきばらい)」もあったが、何と言っても暮が掛乞のヤマ場であった。
 室町時代に本格化し始めた貨幣経済は、江戸時代になると都市部には行き渡るようになった。一方、武士階級は俸禄が年2回乃至3回、大きな商家や職人を束ねる頭領とか親方と呼ばれる階級になると収入は節季毎ということになる。ということで、日用品の購入もその都度の現金支払いではなく、掛け買いが普通と言う事になった。この掛け売り掛け買いが多かった理由として、貨幣の流通量が慢性的に不足していたことも上げられている。
 もっとも長屋の住人など一般庶民は、もっぱら棒手振り(ぼてふり)という担ぎ売りの商人からほとんど全てを買っていたから、これはその都度、「おあし」と呼ばれていた穴あき銭による現金払いである。
 「掛乞」のヤマ場は暮れの大晦日である。盆の七月に取りそびれたものも、ここで清算して貰わねば商いが成り立ちませんと、商人はせっせと得意先を回る。大方はちゃんと払ってくれるが、中には「待ってくれ」と言う家も出て来る。主人や家族が大病して収入が頓挫したというような事情を抱えたお得意様の場合は、出入り商人も察しがつくから半期は待とうという男気も見せる。しかし、さしたる事情も無さそうなのに、支払わない家も出て来る。そういうのは得てして常習的な“借りっぱなし”になることが多い。こういう家には一店だけでは無い、酒屋も魚屋も薪炭屋も雑貨小間物屋も、わっと押しかけて来る。半分払います、三分の一で我慢して下さいはまだいい方で、中には「矢でも鉄砲でも持って来い、取れるものなら取ってみろ」とふんぞり返ったり、主人も奥方もどこかへ雲隠れというのも珍しく無い。
 この大晦日の掛乞を巡る悲喜こもごもは江戸の昔からの情景で、元禄の世に井原西鶴が『世間胸算用』で活写している。こうしたわけで掛売りには取りはぐれのリスクが付き物だし、それに半年・一年資金を寝かせて置く金利もバカにならない。それやこれやで、掛け売りの売価は二割方上乗せしておくのが普通だった。それを逆手に取って「現銀掛値なし」で大成功を収めたのが延宝元年(1673年)日本橋の本町一丁目に間口わずか一間半(2.7メートル)の小店を開いた越後屋呉服店だった。お客に店先で反物をあれこれ見せて、必要な分だけ切り売りし、しかもその場で寸法を採って仕立てましょうというイージーオーダー。現金でお支払いいただきますが、他の呉服店より確実に二、三割は安い。これが大評判になって「越後屋一日千両商い」と言われ、芭蕉一の弟子の宝井其角が「越後屋にきぬさく音や衣替」と、今で言う時事俳句を詠むほどになった。
 こういう新機軸の商法もあったのだが、それでもなお掛け売り商法は三百年も生き続け、大晦日の掛乞風景が連綿として続いた。これも地縁血縁、ムラ社会の日本的風土人情のしからしむるところなのかも知れない。
 しかし、高度成長に一歩踏み出した1960年代、ガラリと変わった。スーパーマーケットとそれに続くコンビニの出現であった。追い掛けて、家電製品の大量現金販売店が出現した。これによって、小売商店による「通い帳・掛売り方式」はあっという間に姿を消した。何しろ、掛け売り時代の販売価格とスーパーに並ぶ商品の正札を比べれば、その勝敗は小学生にも分かる。
 その結果、「掛乞・掛取」は姿を消し、死語となり、季語としての命脈も尽きた。それに変わって、今やいくらでも買いたい物が買える「リボ払い」などという借金や、「最初は金利ゼロ」という甘言を弄してのローンが輩出し、掛乞のように派手でなく人目には触れにくいが、もっとずっと陰惨な債鬼の跳梁する世の中になった。
 額寄せ掛乞対策小晦日   酒呑洞
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2019年12月26日

俳句日記 (563)


今どきの若い者は

 男性のボケの徴候の一つが、「今どきの若い者は」と言い出すことだと言われている。「俺たちの若い頃は」と続き、実際には出来もしなかったことを止めどなく語り出す。
 こういう物の言い方をする女性はあまり居ない。やはり女は現実主義者であり、手元にいくら残っているかで人生の幸福度を測ったりするのが多いから、くだらぬ昔語りに時を費やすようなバカらしいことは、あまりしたがらないのであろう。孫だって可愛ければそれでいいのである。「おばあちゃん」と擦り寄って来るのがお小遣いねだりと察しがついても、それで自分の心を癒してくれるのなら、うんと可愛いのである。そのバカ孫の行く末の幸いを祈りはするものの、オジイサンのように、孫の一挙手一投足を見つめてあれこれ思い煩ったりはしない。
 12月19日正午、水道橋駅から後楽園の東京ドームシティへのエスカレーターを登ったら、若者たちの長蛇の列にぶつかった。この地上二階部分は広場になっていて、後楽園遊園地の乗物乗り場やビッグドーム(後楽園球場)の入口がある。ここを突っ切って、地下鉄後楽園駅近くにある「らくーあ」という温泉を備えたスポーツジムのビルの九階にある料理屋「春風萬里」で、二ヵ月に一度、俳句勉強会があって、そこの講師を頼まれている。そこへ行く途中である。
 ビッグドームは野球の無い日は貸し会場になっていろいろな催しをやっている。その都度行列ができるのだが、今日は平日だからそうしたイベントも夕方からのはずである。正午に行列が出来るのはどうしたことなのだろう。それもなまじっかな人数では無い。三人から四人の横列縦隊がロープに従って、ヤマタノオロチのように幾重にも折れ曲がって続いている。数千人の規模だ。
 「この行列は何ですか」と、ロープの内側の二十歳代前半と見られる男女に聞いた。「ウーパー云々」「え?」「ウーバーワールドっ」、「え?」「バンドっ」。
 要領を得ないまま俳句勉強会にやって来て、行列のことを話し、ウーバー何とかについて、分かりますかと聞いた。一座の中の人が早速スマホを操作して、「ああ、ウーバーワールドという人気バンドの公演が夕方からドームであるようです」「それがどうして今から行列作ってるんです。当日券ですか」「そうかも知れないけど、恐らく公式グッズの売り出しじゃないでしょうか」
 なんと、人気バンドの名前や写真を染め抜いたTシャツやら何やらカニやらを「公式グッズ」と銘打って、特定場所で売るのだという。それを目がけて何千人もが押しかけるのが、こうしたイベントの付き物になっているのだそうだ。
 冷たい雨の中を傘も差さずに長時間、長蛇の列を作って待つ。実に平和で、こよなく豊かで、恵まれた風景である。列を作る若者たちは、どれもこれも背丈はすくすく伸びて顔色良く、何の屈託もない。難しいことは決して考えない、幸せどっぷりの間延びした顔である。中学上級生から大学生とおぼしき男女の大群。この子たちは適当に異性交遊はやっているらしく、今や社会人になって異性を知らないのが少数派とも聞かされた。そのくせ結婚はしない。従って出生数が年々減って、ついに今年は86万人になってしまったという。ピーク時の三分の一である。死亡は137万6千人とまずまずの数字だから、なんと日本の人口は一年で51万人以上も減った(12月24日、厚生労働省発表「人口動態調査」)。鳥取県が丸ごと消えてしまったようなものだと書いている新聞もあった。
 このままでは働き手が減るのはもちろん、国を守る兵隊さんのなり手がいない。今だって、半島のあのとんでもない国が攻め寄せて来たら三日とたたぬうちに占領されてしまうと言われている。ウーバーなんとかのグッズ買い行列も愛敬があっていいが、それだけじゃなんとも心細い。背筋がゾクゾクしてきた。
 帰って来て山の神にそんなことを語ったら、「早く寝なさい。風邪声よ、またぶり返すわよ」と言われた。
  踏み外し猫踏んじゃった年の暮   酒呑洞
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2019年12月23日

俳句日記 (562)

難解季語 (51)

鎌鼬(かまいたち)

 「突然皮膚が裂けて、鋭利な刃物で切られたような傷ができること。冬の信越地方に多く発生した。昔の人は鼬に似た妖獣の仕業と信じたのでこう呼ばれる。原因は不明だが、気象現象のはずみで空気中に真空状態が生じ、その境目に触れると起きるともいわれる」(角川学芸出版「合本俳句歳時記」第四版)。丁寧な解説で、「カマイタチ」という面妖な現象について、なるほどそういう不思議なことが起こるのかと納得する。
 暖冬化の影響か、近ごろは東北信越地方でもカマイタチ現象は少なくなったようで、そうした怪異譚をさっぱり聞かなくなった。しかし、昭和三十年代初め頃までは東京近辺の関東南部も冬場はかなり冷え込み、霜柱が立ち、軒には氷柱(つらら)が垂れ下がった。その頃は、関東でも鎌鼬現象があった。現にこの私がそれを体験している。もちろん袈裟懸けにばっさりやられたというような大げさなものではなく、右手の甲がなんの前触れも無く避けて血が噴き出したのである。昭和25年(1950年)12月も押し詰まった早朝だった。
 戦災によって家業の横浜ガーデンという園芸センターの温室や小動物園などの施設が潰滅、戦後復旧できず倒産してしまった。豊かだった家産も見る間に食いつぶし、病弱の父は敗戦・破産のショックで家族を養う働きがままならない。母が馴れない内職に精出しても多寡が知れている。私が中学1,2年のこの頃、我が家は極貧生活を余儀なくされた。姉は高等女学校を卒業するやすぐに就職、高校生の兄は学業そっちのけで横浜港の進駐軍施設に働きに出た。私も新聞配達になった。
 東横線反町駅周辺の二百七十軒ほどが私に割り当てられた担当地区だった。今は朝刊が四十ページもあるから、そんなに沢山の軒数は持てないだろうが、当時は朝刊が四ページ、戦時中途絶えていた夕刊がようやく復活したばかりで、二ページのぺらぺらだったから、これほど多くても運べたのである。
 ただし、今と違って新聞販売店は朝毎読、東京、日経とあらゆる新聞を扱う「合売制」だったから、受持ちの一軒目から三百軒近くまで配達する順番に従って、各家の取る新聞を組んで行く必要があった。Aさんちは朝日、Bさんちは読売、Cさんちは毎日と日経、Dさんちは東京タイムズと税のしるべ、というように組み合わせながら、配る順番に重ねて行くのだ。この組立て作業が大変で、朝四時半頃に販売店に新聞が到着するのを今か今かと待って、必死に取りかかる。馴れた人はものの十五分くらいで終えて、さっさと配達に出発する。こちらは順路帳という横長の帳面を繰りながら、えーとAさんアッサーヒ、Bさんヨーミ、Cさんマイニーチ・・とやっているから、小一時間かかってしまう。五時過ぎようやくまとめ上げて、右肩から左脇の下に帯芯で作った平たい抱え紐で二百七十軒分の新聞を抱え、やっこらさっと駆け出す。12月の五時過ぎはまだ真っ暗。今と違って街灯はほとんど無い。真っ暗闇を、栄養不良のやせっぽちの中一少年が紙の束を抱えてよたよたしているのはさぞかし珍妙だっただろう。
 もちろん泣きたくなることは山ほどあった。当時は野良犬が無闇に多かったのと、放し飼いの家が多かったことである。何度も何度も噛み付かれた。それよりももっと辛かったのは配り間違いによる、配達した新聞の回収である。
 Aさんの家は朝日、Bさんは読売と配る順序に従って重ねたものを脇に抱え、一軒ずつ小走りに走りながら配達して行くのだが、ある家にうっかり二軒分の新聞を配達してしまうと、次の家から順序が狂ってしまう。朝日を取っている家に毎日が、読売の家に朝日が配達されてしまうことになる。当時の新聞は紙質が悪く薄っぺらで、しかも四ページ、新聞によってはぺらぺらの二ページもある。シモヤケの手指ではつい二軒分を間違えて入れてしまうことがあった。
 途中で、おかしいと気がつく。さあ大変だ。逆戻りして配った新聞を取り戻し、配り直さねばならない。しかし戦後間もなくでちゃんとした門に郵便受けのある家は少なく、多くは玄関あるいは居間の雨戸の隙間に新聞をすっと差し込んでいく。屋内に差し込んでしまったものを返してもらうには、その家の人を起こさねばならない。五時や六時ではまだ寝ている家も多い。戸板をおずおず叩いては滅茶苦茶に怒鳴られるのだった。
 そんな厳寒の早朝、素手で新聞を捌いていた右手甲にびりっと痛みが走った。斜めに血が噴き出していた。新聞を汚してはいけないから、腰の手拭いを取って引き裂き、ぐるぐる巻にした。血は間もなく止まり、家に帰って見ると手の甲斜めに刃物で切ったような傷があった。赤チンを付けて包帯を巻き、二三日したら傷跡は塞がっていた。どうしてこんな傷を負ったのか、実に不思議だった。
 そんなことも間々あったが、三百軒近く配り終える頃、東の空が明るくなり、お日様が上がって来る。白い息をはあはあ吐きながら、熱々の雑炊を楽しみにたどる家路は本当に気持が良かった。
 
  三人の一人こけたり鎌鼬     池内たけし

  鎌鼬などものかはと駆け出せり  酒呑洞
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2019年12月20日

俳句日記 (561)


日経俳句会合同句会が開かれた
「日経俳句会賞」の贈賞式も

 12月18日(水)日経俳句会の下期合同句会(通算29回)が千代田区内神田の日経広告研究所会議室で開かれた。毎月の例会の五割増しの30人が出席し、兼題「北風」と雑詠含め43人から寄せられた129句を巡って賑やかに合評が繰り広げられた。
 久しく鳴かず飛ばずだった水牛だが、「急くほどに事のすすまぬ師走かな」で最高の7点を獲得した。しかし、出しておきながら大した句ではないと思っていたのだが、大勢の句会ではこういう句に点が集まる。同点首位の廣田可升さんの「一匹の逝きて二人の年の暮」の方が断然優れている。
 次席6点は「落葉掃く老女の丸き背に一葉(操)」、「煤払い積もれる嘘に頰被り(三薬)」、「小春日や紙の鼠に置く目鼻(光迷)」、「まな板の傷も古びし年の暮(水兎)」の雑詠4句が入った。「紙の鼠」「まな板の傷」もなかなかの句だと感じ入った。
 合同句会の後で行われた忘年懇親会の席上、恒例の「日経俳句会賞」の贈賞式が開かれた。受賞作品は次の通り。
「日経俳句会賞英尾賞」
 ちちははに詫びたきあまた冬銀河     廣田 可升
「日経俳句会賞」
 菊人形大坂なおみの高島田        中沢 豆乳
 聖樹下にギフトを置いて親となる     鈴木 好夫
 ページ繰る小さき風あり夏木立      水口 弥生
 一年が散らかっている十二月       嵐田 双歩

 これまた恒例で、今泉而云と並んで受賞作品についての講評を述べた。
「冬銀河」
 「孝行のしたい時分に親はなし」という有名な川柳があります。この句はその続編のような感じもしますが、諧謔味よりも、もっとずっと根源的な、親・子・孫へと連綿と伝わる肉親愛というものを感じます。

「菊人形」
 句会でこの句を見た時、ちょっとやり過ぎだなあと思って採らなかったのです。しかし、合評会で皆さんの句評を聞いているうちに、私はもう少し素直にならなければいけないなと反省しました。この句は私にとって、そういう句です。作者によると、確かに「高島田は作った」のだそうですが、そういう操作は十分許されます。令和元年を記す良い句です。

「聖樹下に」
 「聖樹下に」という堅苦しい言葉が非常な効果を発揮しています。何の事は無い、子が寝静まった夜中、クリスマスツリーの下にプレゼントを置いたという情景なんですが、「親となる」という下五で、親の自己満足から、本当に「家族だなあ」という気分になったという感じが伝わってきます。

「ページ繰る風」
 繊細な叙景句で、私の大好きな句です。夏木立と言ってもこれは真夏の緑蔭ではなく、初夏の感じがします。芭蕉には「先づたのむ椎の木もあり夏木立」という名句があります。これは強い日射しから守ってくれる夏木立ですが、水口さんの夏木立は日差しはそれほど激烈ではなく、むしろ爽やかな風を送ってくれる木立の趣です。読んでいる私も昼寝に誘われてしまいそうです。

「散らかっている十二月」
 ユーモアとウイットに富んだ句で、さすがは手だれの双歩さんという感じです。作者もそうなのかも知れませんが、私なぞ年がら年中、新聞雑誌でこれは面白いというのを破り取って、積んであります。年末になるとそういうのがうずたかく積もって、雪崩を起こします。この句はそういう、目の前の乱雑さだけでなく、あれもしなきゃ、これも片付いていないという焦燥感も伺えます。
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2019年12月17日

俳句日記 (560)


 風邪引いた

 風邪を引いた瞬間など分かるはずは無いと思っていたが、82歳6ヵ月にして初めて察知した。12月12日の夕方である。この日は晴天、いわゆる小春日で日中の横浜の我が庭の寒暖計は21℃まで上がった。
 菜園の3本の茄子が花を付けなくなり、実も太らなくなったので、これはいよいよ撤収すべきと作業を始めた。茄子は毎年ゴールデンウイークに苗を植え、せいぜい8月一杯で葉が枯れて来て花も咲かなくなり、終になってしまうのが常だった。それが今年は何としたことか、8月になっても元気が残っている。そこで枝を適当に切り詰め、根元に追肥を施したら、新しい枝が伸びて花咲かせ、「嫁に食わすな」と言われる秋茄子がどんどん穫れるようになった。下の八百屋のショーちゃんにあれこれ買いに行った山の神が「茄子と菜っ葉は要らないの、家で穫れるから」、「コンチクショー、夜中に引っこ抜きに行くぞ−」と遣り取りがあったくらいである。
 実に重宝した茄子に「ご苦労さん」と言いながら引っこ抜き、ついでに周囲のほとんど枯れた雑草を落葉と一緒に掻き集め、裏庭の堆肥の山に積んだ。そろそろ暮れかけた午後4時過ぎ、突然クシャミが出た。それも立て続けに3発。なんだかあたりが急に冷え込んだような感じで、ゾクゾクして来た。鼻水が出る。これはまずい、やられた。この瞬間に風邪が発病したのだと悟った。
 急いで家に入り、ツムラの香蘇散を飲んだ。そして、いつものような夜更かしをせずに、11時には寝床に入った。
 翌13日朝、さっぱり良くなっていない。いつもなら効く香蘇散が効いていない。それでもまだ身体は言う事をきくので、薬箱にあったコンタックというのを飲んで、やたらに鼻をかみながらあれこれやった。晩食は熱燗が妙薬とばかりにぐいぐいやり、ついに純米酒の四合瓶を空にし、晩食後に書斎でパソコンに向かいなかがら、銘酒「松の司」の残り一合半ほどを空けてしまった。酔いで温まったのか、風邪熱でほてるのか、判然としない状態になってベッドに入った。
 14日朝。ますますひどくなっていた。寝ていても水洟がトクトクと流れ出る。頭は痛い。えらく汗を掻く。粥を食べて、コンタック飲んで、一日寝ていた。
 15日朝、ふらふら起き出してベーコンエッグとトーストを食べる。気分は大分良くなったが、相変わらず水っ洟が垂れ流し状態。寝床の中でまどろんだり目覚めたりしながら過ごす。変な夢を見ては目を覚まし、またうつらうつらする。少し寝るとぐっしょり汗を掻き、パジャマを替える。もう替えるパジャマが無くなって、16日朝を迎えた。気分が大分良くなったので、昼頃起き上がり、近所の赤尾内科に行く。丁寧に診察してくれて、「インフルじゃないようです。ただの風邪で、それも峠を越えています。薬を処方しますから、それを飲んで後2日は無理をせずにしていれば治ります」と言われた。
 なるほど、本日17日朝になったら、咳は少し残っているが熱も無く、水っ洟も治まった。
 治った証拠は酒が飲みたくなったことである。14日夜は飲みたくなくなって、以後、三日飲酒ゼロ。これは珍事である。今夜は新倉酒店のオヤジが運んで来た水戸の酒「副将軍」特別本醸造。4日ぶりに含んだ酒は、一口目は糠臭い感じがしたが、すぐに消えて、実に美味い。あれよと三合。これで、明日は晴れて年末合同句会に行けそうである。
  奇っ怪な句のつぎつぎと風邪頭     酒呑洞
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2019年12月14日

俳句日記 (559)


難解季語 (50)

日向ぼこ(ひなたぼこ)

 暖房が行き届いた住居に暮らすようになって、大人も子供も「日向ぼこ」の心地良さ、楽しさを忘れたようである。今どきの小学生に「日向ぼっこしよう」と言っても、通じないかも知れない。
 恵まれて来ると、「寒い寒い所から飛ぶようにして帰った我が家の温もりの心地良さ」、「北風を遮る崖下の日溜まりで日向ぼこする極楽」といった、自然と共に暮らす喜びを失ってしまう。昭和時代の半ばと比べたら、現在の私たちは当時では想像もつかない物質的豊かさを手にしている。しかし、自然と共に暮らすことを失った「快適生活」が良いのか悪いのか、幸せななのか、そうでもないのか。判断の難しいところだ。
 昭和25年(1950年)の12月、中学1年の私は校庭南側の崖の中腹にあるお稲荷さんの壊れかけた社の傍に、つまらない授業を抜け出しては仲間を集めて日向ぼっこしていた。前の日に横浜の繁華街伊勢佐木町から野毛の商店街を流してGI(進駐軍兵士)から貰い集めたチョコやビスケットやチーズを分け合いながら食べていた。「ラッキーストライク」「キャメル」といった洋モクを燻らせて香りに酔いしれた。其処は崖崩れを防ぐための幅1メートルほどの狭い平らな帯のような場所で、周りには灌木や篠竹が生えて、上(校庭)からも下の道路からも見えにくくなっている。授業をさぼって屯するには格好の秘密基地だった。
 横浜は昭和20年5月29日の米軍機による空襲で焼け野原になった。昭和25年は、ようやく簡易木造住宅が建ち並んだ頃だった。しかし下町の焼失校舎の復旧が進まず、焼け残った私たちの校舎には近隣の焼け出された学校の生徒たちも収容され、なんと私の通っていた中学は一学年11組にふくらみ、1クラスに60人も詰め込まれた。机が足りない。小さな机に、どこかから都合したリンゴ箱などを二つ並べて、ぎゅう詰め学級である。無論先生も足りない。数人が抜け出そうと、先生も分からないのか、分かっても見ぬふりだったのか、という状況だった。
 かくて、この崖の中腹はサボり学生の溜まり場となり、7,8メートルの間隔を置いて不良グループの巣が出来た。拾い集めて来た材木やトタンなどで「陣地」を構築した。たまたま隣との間に10メートルほどの間隔が空いたりすると、間に新規グループが割り込む。そうすると両隣の組が、普段はあまり仲良くもなく喧嘩もしないという関係だったのが、にわかに協力して新規参入を追い払う。猛烈な殴り合い、取っ組み合いになる。私は喧嘩はからきし弱かったので、腕力のあるのを二、三人GI物資で抱え込み、島を守っていた。群れと群れとの戦いは、1対1で取っ組み合っていたのでは埒が開かない。犠牲も大きい。そこで強い手下の二人か三人に分担攻撃方法を授けて、敵の首領に一気にかからせる。主力を欠いた我が方は防御が手薄になるが、しょうがない自分が撲られ役になって出来る限り堪え忍ぶ。どんなに強い敵の首領も二人あるいは三人で同時に掛からせれば必ず倒せる。首領を倒せば後はたやすい。倒された首領は実際は私よりずっと強いのだが猫のようになる。手下だった連中は、左右どちらかの組に吸収されたり、土性骨の坐った奴は一匹狼になって去って行く。
 時々こうした武者震いする事件もあったが、おおむねは実にのんびりした別天地だった。ここでの「日向ぼこ」の心地良さを今でも時々夢に見る。
 大学を卒業して晴れて一流新聞社(実際は潰れそうだった)に入社してからは、そういう埒もない少年時代を過ごしたことなどおくびにも出さず、しごく真面目に過ごして定年になった。そして今や、無茶苦茶な少年青年時代を懐かしみ、小春日の散歩を楽しみ、家の近くの小公園で地元のジイサンバアサンの仲間入りである。ここの常連の最高齢は91歳のジイサンとバアサンで、どちらもすこぶる元気である。
 賑やかなベンチの向こうのベンチには、たった一人で日向ぼこしているオバアサンが居る。「ねえ、○○さん、こっちにいらっしゃいよ」と親切で小まめなバアチャンが言うと、「そっとしておいた方がいいわよ」という冷静な若バアサンもいる。こういう場合、ジイサンはあまり意見を述べない。高齢社会は既に女性主導の社会になっている。
 それやこれやしているうちに、顔馴染みのオバアチャンの姿が見えなくなった。こうしていつの間にか、日向ぼこから一人ずつ消えて行くのである。
  きのふまでそこにゐたのよ日向ぼこ   酒呑洞
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2019年12月11日

俳句日記 (558)


難解季語 (49)

池普請(いけぶしん)

 晩秋から初冬の雨続きが治まり、遠くの高山がすっかり雪に覆われると、大川も小川も水かさがぐんと減って来る。池に流れ込む水量も減って来る。そうした仲冬の日和を選んで、「池普請」「川普請」が行われる。池の水を抜いたり、川を堰止めたりして、底に溜まった木の葉や塵芥や泥を取り除くのだ。同時に繁り過ぎた蓮や水草を間引く。
 こうすると池が生き返り、其処に住む虫たちや魚、亀、スッポンなども元気になる。護岸の杭を打ち直したり泥を掻き出したりする土木工事なので「普請」と言うようになったのだが、昔はどこの町村でも住民が総出で行った。この時、太った鯉や鮒、鰻などを捕獲する村の養魚業の収穫も兼ねた。これが鮒や鯉や雑魚の甘露煮、雀焼き(串焼き)、佃煮となり、正月のお節料理にもなる。
 江戸時代の江戸の町々には神田川、玉川(多摩川)から引いた用水によって「水道」が張り巡らされていた。清潔な水道を維持するためには川浚い、即ち「川普請」が欠かせなかった。松尾芭蕉は江戸へ出て来て、宗匠として飯が食えるようになるまでは、現在の文京区関口の椿山荘の真下を流れる神田川の堰での川普請の元締役を務めていた。
 今や水道は川水を直接供給することなく、浄水場で濾過・消毒した水を用いる。さらに、町内各所に必ずあった防火用水の役目も担う大小の池は片端から埋め立てられてしまった。こうして首都圏では池普請・川普請というものが行われなくなり、人々の頭の中の辞書から池普請という言葉が消えてしまった。
 しかし、昔からの名園が残っている。都内にも、小石川後楽園、駒込の六義園、深川の清澄庭園などは池を中心とした回遊式庭園である。こうした名園の池では今でも定期的に池普請が行われている。
 小型の池ならば、いっぺんに水を抜き、魚を掬い上げて水槽に入れておき、掃除を終えて水を入れて、魚を放つと終り。大きな池の場合はあらかじめ決められた区分ごとに水を堰き止めて、底を浚って水を入れ、次に移るという大仕事になる。
 都会の庭園の大規模な池普請は、請負った造園会社が学生アルバイトなどを駆りあつめてやっているようだ。さる句会に「自撮りしてバイト学生池普請 綾子」という句が出た。学生たちは珍しいバイトに面白がってはしゃいでいるのだろう。現代の池普請の情景を活写した句だと感心した。
 田園地帯には潅漑用の溜池がある。これは高低差を利用して田畑に水を供給するために、大概は山裾の小高い丘に設置されている。従って、雨期に山から水と共に流れ込む木の葉や枯れ枝、小石などが溜まりやすい。これも池普請ではあるが、かなりの作業量になり、村中総出の大事業となる。
  なかぞらへ鯉投げあぐる池普請    飴山  實
  杭を打つほかに大ぜい池普請     木下 洛水

  寝入りばなの亀起こされて池普請   酒呑洞
posted by 水牛 at 12:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする