2020年05月14日

俳句日記 (602)


山椒鰊

 庭の山椒が芽吹いて一ヵ月たち、木の芽が沢山生えそろうと「鰊の山椒漬」作りに掛かる。福島県の会津地方の郷土料理である。もう50年以上前に取材で会津若松を訪れた時に、地元の人に案内された料理屋で食前の酒肴に出され、その滋味に感じ入った。東京辺りではお目にかかれない食べ物なので、その後すっかり忘れていたのだが、一昨年の夏、横浜駅地下街の生鮮市場の魚屋で「身欠鰊(みがきにしん)」を見つけて、突然、この山椒漬を思い出した。早速買って来て、庭の木の芽を摘み、昔の味を思い出しながら、適当に醤油、酒、味醂、酢を混ぜて漬け込んだ。まあまあそれなりのモノが出来たが、ちょっと鰊がゴワゴワしていて、生臭い。
 グーグルで「身欠き鰊 山椒漬け」と入れてみたら、ワッと出て来た。会津若松の料理屋のレシピまで出て来た。それによると、身欠き鰊を米の研ぎ汁に一昼夜浸けておき、ふやけたものを取り出してウロコなどを丁寧にこそげ落とし、よく洗う下ごしらえが生臭さを取る秘訣だということを知った。
 二回目、三回目と丁寧なやり方で拵えているうちに段々とよくなっていく。ただ、クックパッドや料理屋のレシピの漬け汁は醤油1,酢1,酒0.3、みりん0.3という比率が多いのだが、水牛流は醤油1、酢0.8、酒とみりん各0.2の割合に、ちょっと辛口にしている。
 これで作った山椒鰊を去年のいつだったか、番町連句会という連句の座に持って行き、連句の付け合いの合間の一献に「美味いだろ、旨いだろ」と食べるのを強要した。「不味い」と言う度胸のある人は居なくて、「美味しいですよ」と、それなりに捌けた。しかしかなり残った。そうしたら「私が頂いて行きます」と心優しい可升が仕舞ってくれた。だから水牛製山椒鰊の評価は未だ判然としないのだが、相変わらず、木の芽の季節になると作る。
 漬け込んで三日目くらいから食べられるが一週間漬けたものが一番美味いようだ。その後、冷蔵庫に入れて二週間まで美味しく食べられる。冷酒にも熱燗にも合う。茶漬けの友としても絶好である。
 会津は四囲山の国。夏暑く、冬は雪と冷えに閉じ込められる厳しい土地である。昔は川魚以外は魚など全く食べられなかった。それが江戸末期以降、北海道で大量に取れた鰊が干されて身欠き鰊となり、この山国にも運ばれるようになった。天恵の身欠き鰊を醤油と酢と、周りにいくらでもある山椒の葉とで漬け込み、貴重な蛋白源の保存食とするのは山国の民ならではの知恵であった。
  酒冷やす山椒鰊の漬かりごろ   酒呑洞
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2020年05月13日

俳句にならない日記(23)


コロナの打撃(2)

 「コロナコロナ」で首相はじめこの国を率いる人たちが「自粛」ばかり言い募ると、日本国中が萎えてしまって、コロナ禍による死者、重病人など直接的被害よりももっとひどい後遺症を日本全体に残すのではないか。そのあたりの事についてリーダーたちは十二分に思い致すべきだという文章を5月初めに「コロナの打撃」と題して書いた。それが現実のものになって現れ始めた。
 第一は、安倍政権の「コロナ対策」が中途半端であるために、種々の支援策が十分な効果を発揮しないまま、国家の借金として積み重なるという経済財政面のマイナスが明らかになったこと。第二はコロナ禍をきっかけに湧き上がってきた人心荒廃である。特にこの後者の国民の精神的動揺が怖い。
 5月6日が緊急事態宣言解除の日だったが、安倍首相はその直前にそれを5月31日まで延長した。「感染者数の減少程度が思っていたより少ない」現状で外出自粛を解除したりすれば、第二波の感染拡大の危険が考えられる、というのがその理由であった。その効果が現れたのか、5月に入ってから新たな感染者数がぐんと減っている。5月11日の新規感染者は東京15人、北海道10人、神奈川7人など10都道府県で合計43人に止まった。5月に入って感染者が10人以下に止まっている県が35県、ここ一週間感染者ゼロの県が24県である。明らかに新型コロナウイルスは終息に向かっているように見える。
 これがアベさんやコイケさんが金切り声を上げて外出自粛を求めた効果なのかどうか。それは判然としない。というのは、「外出が必要緊急」の人たちや、「自粛なんてクソクラエ」という人たちがいて、外出自粛の実行率は7割方だから、“効果度”を判定するのが不可能なのだ。せいぜい「ある程度は効果があった」と言えるくらいである。もう一つは、相変わらずわが国の検査体制が不備で、感染検査が十分に行われないために、感染者数が増えないという現実。もう一つはコロナウイルスという生き物(?)の活動に波があるのではないかということだ。ウイルスのぱっと火が付いた途端に燃え広がり、その後一旦治まり、また再び燃え広がるという、野火のような動きが、100年前のスペイン風邪の時にも見られたようだし、近年のインフルエンザやSARZなどでも見られた。
 というわけで、5月に入っての沈静化を見て「これで鎮まる」と見るのは、韓国で第二波の流行の兆しが現れているのを引き合いに出すまでもなく、早計であろう。第二波が来て治まり、第三波が来て治まりという具合に、押し寄せる波がだんだん小さくなりながら2年くらいで静かになるのではないか。
 というわけで、無闇矢鱈に蟄居謹慎していたからといってコロナに罹る恐れが全く無いというわけではない。しかし、馬鹿にして高を括った行動をとるのは愚の骨頂である。という程度の認識で良いのではないか。
 専門家会議という日本の医学界の最高権威とされる人たちを集めた会議ですら、コロナウイルスのことはよく分からないのである。その責任者が「実際の感染者は(発表されている人数の)10倍あるのか、それ以上なのか分からない」と国会で答弁するのが「実情」なのである。そういうウイルスに、「訳が分からないから、万全の態勢で臨む」とシャカリキになって圧伏しようとするのは、暗闇で刀を振りまわすようなものである。怪物の正体をぶった切れずに、無辜の多くを傷つけてしまう。トランプ政権やそれに追随するを可とする安倍政権はまさにそうした姿勢である。暗闇に放つ鉄砲の後遺症は恐ろしいものとなろう。
 2月から始まったコロナ騒動、三ヵ月たったところで感染者が⒈万6千人、死者660人。全人口1億2600万人からすれば大したことではないという見方もある。
 「外出自粛」「営業自粛」とがなりたて、国民全体を逼塞させ、経済活動を止めてしまう。その結果として、倒産破産、失業、引きこもり、精神不安定、家庭内暴力、犯罪の多発といったもろもろの悪を引き起こす。それによる被害者は到底⒈万6千人では収まらず、死者660人の数倍を持って打ち返して来るのではなかろうか。
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2020年05月03日

俳句日記 (601)


銘茶「巣籠」

 昨日5月2日、「そうだ今日は八十八夜だ」と気が付いた。実際は今年の八十八夜は閏年の関係で5月1日だったのだが、まあそれはそれとして「夏も近づく八十八夜・・あれに見えるは茶摘みじゃないか、我が家の茶葉でお茶を作ろう」と思い至った。
 我が庭のぐるりの生垣にはいろいろな木が植わっているが、茶の木が十本ほどある。亡父が植えたものや、私が昔、静岡県牧ノ原や埼玉県狭山の茶園で貰った苗木や拾って来た茶の実を蒔いたのが育った木である。古いのはもう60年、新しいのでも20年は経っている。毎年刈り込んでいるから腰の高さくらいだが、全て老木といっていい。牧ノ原の茶園でその昔聞いたやり方で、10数年前に新芽を摘んで蒸篭で蒸して揉んで乾かす製茶をやったことがあるが、美味くも何とも無いものしか出来ずで、それっきりになっていた。蒸し方と揉み方が足りなかったようである。
 今年の八十八夜は思っても見なかった「外出自粛要請」。へそ曲がりの水牛はそうなると無性に外出したくなるのだが、店が全部閉まっている横浜駅周辺や伊勢佐木町に行ってもつまらない。美術館も博物館も動物園も閉園だ。しょうがないから家庭菜園の作業なのだが、胡瓜も茄子もトマトもシシトウも植えてしまった。繁り過ぎたイロハモミジの枝下ろしも終えた。それで製茶に再挑戦することにした。
 まず、門に近い所の三本の木の新芽を摘んだ。「一芯二葉」という、新芽とそれを囲む黄緑の若葉二枚だけを摘まむ。これだけを集めて作ったお茶は最高級の玉露になる。三本の木から摘んだ一芯二葉が大きな笊一杯になった。これをさっと洗って、キッチンペーパーで包み叩いて水気を取る。本来は茶葉は洗わない方がいいとも言われるが、大陸から飛んで来たバイ菌やPCなんとかがついているといけないのでさっと洗った。
 これを耐熱皿に盛って、電子レンジの600Wで2分チンする。湯気の立っている茶葉を揉む。物凄く熱い。掌が火傷しそうだ。我慢して揉み、それをほぐし、また電子レンジに掛ける。今度は1分。また湯気の立っているのを揉む。熱くてたまらない。純綿の軍手があったのを思い出して取り出し、それをよく洗って、これも電子レンジで乾かしてはめた。これで湯気の立つ茶葉を揉んでも平気になった。揉んではチン、揉んではチンを4回繰り返したら素晴らしい香気が立ち昇って来た。「茶の香り」が台所から居間まで漂う。十数年前に試みた製茶は蒸篭でただ一回蒸したのを揉んで乾かしただけだったので、茶葉の持つ香気や味わいが十分に染み出なかったのだと分かった。電子レンジ応用法はクックパッドで知ったのである。実に素晴らしい方法だ。
 しかし4回では、まだ茶葉は水分を含んでいる。さらに揉んでチンすること二回。やや湿り気を帯びてはいるが、捩れた煎茶の形になっている。これを笊に拡げて、一晩乾かした。
 3日朝。茶葉はほぼ乾いていた。大笊一杯の茶葉が今や小さな茶筒一本分くらいになっている。良いお茶が高いのがしみじみ分かった。一保堂のおばさん「高い」なんて言ってゴメンナサイ。
 とにかく出来たてを早速煎じてみる。淡い黄緑色、香りがとてもいい。含んでみると味は薄めだが上品な味わい。鼻へ抜ける香気がなんとも言えない。採点が辛い山の神も「まあまあね」と言う。二煎目、今度は3分ほど待つ。すると実に深い味わいのお茶になった。まだ摘んでない木が6,7本ある。明日から本腰を入れて茶摘み、製茶に取り組もう。
  チンしては揉んでまたチン自家製茶
  茶づくりも外出自粛の余徳なり      酒呑洞  (20.05.03.)
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2020年05月01日

俳句にならない日記 (22)


コロナの打撃

 「コロナコロナとあんまり騒ぐな。騒ぎすぎが輪に輪をかけて、パニックを引き起こす」と言い続けてきたのだが、周りは「また水牛がいいかげんなことを言う」といった顔をする。そうこうするうちに「緊急事態宣言」の「外出自粛」要請時限の5月6日が近づいてきた。と思ったら、「まだまだ終息とは言えないから」と、4日に安倍首相が記者会見(この人ほど記者会見で自己宣伝するのが好きな人も珍しい)して、「緊急事態」をさらに一ヵ月延ばすのだという。
 コロナウイルス感染者は徐々に減少傾向を見せているが、「終息か」と見られていた北海道で流行の第二波とも見られる新規感染者増大が報告されるなど、まだまだ予断を許さない状況だ。ウイルスというヤツは現代医学で解明できていなくて、そのはびこり方について確信を持って言える人は誰も居ないようなのだ。医学界の最高権威と言われる政府の専門家会議のメンバーも、みんな漠然とした推測を述べているに過ぎない。
 今回のコロナウイルス騒ぎで分かったことは、日本を始め世界の医学・疫学の水準は私たちが信頼し切っていたのがとんでもない誤りで、実際は大したものでは無いということであった。一旦疫病が流行すると、名医と言われる人たちも呆然としてしまうのである。その「専門家」と言われる人たちが群盲象を撫でるような感じであれこれ述べるのを聞いた首相が、「人との接触を8割減らして下さい」「外出せずに家に籠もっていて下さい」というのが病魔を避ける最大の方法というのである。これでは護摩を焚いたりお経を上げてお籠もりした奈良・平安時代と全く変わらない。時は今、端午の節句。菖蒲の葉っぱとヨモギの葉っぱを束にして沸かした風呂にでもゆっくり浸かっていた方がいいようだ。
 日本国民全員が自宅にじっと籠もって、2,3週間外部との接触を断つことが出来れば、ウイルスの「人から人への感染」はかなり防げるだろう。しかし、全国民が2,3週間、外部との接触を一切断つことなど出来ようはずが無いということを考えるべきではないか。「専門家会議」は5月1日の会議で「人と人の接触8割削減が十分に達成されていない」などと述べ立てたが、そんなことは最初から分かっている。日常生活に不可欠な商店は開く、銀行郵便局、区役所は開いていますというのでは「遮断」とは程遠い。また、そういう商店や機関は開いていてもらわなければ困る。政府だって地方公共団体だって、一般企業だって全てテレワークで済むはずが無い。という具合で、「外出自粛要請」はかなり中途半端なものとなるのは仕方の無いことなのだ。そうした状況下で感染者累計⒈万5千人なら可とせねばなるまい。感染したからと言って全てが死ぬわけではない。新型コロナによる日本国内の死者はまだ500人に達していない。1億2千7百万人の中の500人である。コロナコロナと騒ぎ立てることによって、他に多大なる犠牲を強いて、日本という国全体を弱らせて、結果的に何万人も殺すことになってしまうことを考えた方がいい。
 人通りの途絶えた繁華街の映像がテレビニュースやネットに流れることによるショックで、多くの人に「コロナ対策」の意識を植え付け、手洗いやうがいの励行、暴飲暴食を慎む自制心を促す効果はあるだろう。しかしこれとてかなり精神的領域の防護手段であり、とてもAI時代の方策とは言えない。さはさりながら、一人一人が「不要不急の外出」は控えて、「コロナをなだめすかし」ながら暮らして行けばいいのだ。それを科学の衣を着せて、あたかも特効薬的な対策として「三密を避けよ」などと言う。実際的な効果と精神的効果とがごちゃまぜになった形でコロナ対策が行われ、その結果、平常の生活や経済活動が大きく損なわれる。それによる損失と打撃は計り知れないものがある。
 安倍政権は自分のせいで起こったものではないコロナ禍に対する手当は、「全世帯二枚ずつマスク配布」はじめ、「全国民に10万円」などかなり気前がいい。企業に対するコロナ禍による損失の補助にも熱心だ。安倍首相によって取り立てられた黒田日銀総裁はもとよりこれに呼応して、ついに4月27日、「日銀による国債の無制限買い取り」を打ち出した。既に「マイナス金利」までやってしまっている日銀としては、これしか手段が無いのである。
 こんな風にして、世の中全てが「コロナ」を中心に回っている。コロナ被害は防げたものの、日本国中至る所に癒しがたい傷を遺してしまうことになるのではないか。その方がよっぽど怖い。(20.05.01.)
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2020年04月28日

俳句日記 (600)


難解季語 (67)

海市(かいし)

 蜃気楼(しんきろう)と言えば大概の人が知っているだろうが、「海市」が分かる人は少ない。海上にぼーっと楼閣や街並みが現れる天然現象である。
 地表あるいは水面上の気温が場所によって異なったり、あるいは水面や地面と少し上空との間に温度差があると、空気の密度が違ってくるために光の屈折が変り、地上の物体が空中に浮かんで見えたり、地面に反射して見えたり、遠方の物体が近くに見えたりする。
 天気が良く、風のない日によく現れる。昔の中国人は、この現象を海中に棲む蜃という大蛤が吐き出す息(気)が空中に楼台を現すのだと考えて、蜃気楼と名付けた。特に海の上に浮かぶ街を「海市(かいし)」と呼んだ。
 日本では富山湾、オホーツク海沿岸地方で見られるのが有名だ。富山湾の蜃気楼は春になり雪解け水が海面を覆い、その上に陸地から暖かい空気が流れ込んで気温の逆転層ができるために起る。春によく起る現象なので、春の季語になった。
 蜃気楼ほど大規模ではないが、「逃げ水」というのも蜃気楼の一種である。草原や沙漠などで遠くに水面が広がっているように見え、近づくと消えてしまう幻の水。オーストラリアの内陸部では今でもしょっちゅう見られ、人里離れた所で自動車が故障し、喉の渇きに堪えかねたドライバーがふらふらと逃げ水を追いかけて、死んでしまう事故がしばしば起っている。
 日本の場合は逃げ水を追いかけてもそれほど大事には至らず、『東路にありといふなる逃げ水の逃げ隠れても世を過ごすかな』(夫木和歌集)と、ロマンチックな歌題になるくらいである。「逃げ水」も春の季語。ちかごろでは舗装道路が陽射しに焼けて、前方に水溜まりがあるように見え、近づくとまた遠のいて見える情景で、若いひとたちにも理解されている。ゆらゆら立ち昇っているのは「陽炎(かげろう)」で、これにも「野馬(やば)」という別名があり、やはり春の季語になっている。

  酔うて漂う深夜の海市誰彼失せ       楠本 憲吉
  海市見せむとかどはかされし子もありき   小林 貴子
  海市からとしか思へぬ郵便物        仲  寒蝉
  海市ともコロナ籠りの妄想とも       酒呑洞
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2020年04月22日

俳句日記 (599)


メール句会が続く

 日経俳句会の令和2年度4月例会(通算188回)は3月に続きメール句会となった。新型コロナウィルスの感染者が急速に増加し、「不要不急の外出は自粛」「三密を避けよ」などとわめかれては逼塞も已むを得ない。
 「已む」で思い出したが、昨年4月30日、皇居宮殿松の間で行われた平成天皇退位礼式典で「国民代表の辞」を読み上げた安倍首相が「天皇皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません」と言ってしまったというのだ。この耳で聞いたのではないのだが、「AERA」2019年5月29日号に報じられて話題になった。原稿を書いた官僚が優秀過ぎて「願って已ません」と漢字で書いてしまったのを、我らが首相は読み間違えてしまったのだろうと同誌は推測していた。
 そのソーリダイジンが全国民に「外出自粛」を言った舌の根も乾かぬうちに、ソーリダイジン夫人が大分に団体旅行である。首相は「参拝だけで観光はしていない」などと訳の分からない釈明をしたが、これが通るのなら、老いの唯一の楽しみである俳句会くらいやらせて下さいよと言いたくもなる。しかし、心底真面目にして善良なるわが句友たちは「大勢が集まっての句会は自粛した方がいいでしょう」と拳々服膺の姿勢である。「新型コロナウイルス感染拡大」の声に怯える大勢を前にしては、「罹るやつは罹る」と嘯いている水牛が一人息巻いても、最早狂瀾を既倒に廻らすことは不可能である。
あまりやる気も起こらず、
 閉ぢこもりガラス戸越しの朧月
 町に活気入学児童はしゃぎ声
 見る人の無き夜桜や冷えまさる
の三句を投句した。いずれも、この数日間の嘱目句である。推敲もろくにしていない。
 そうしたら何と、「夜桜」の句が7点獲得して第一席となった。わが書斎から見える、下の小公園のオオシマザクラが満開なのに誰一人見る人もいない様子を詠んだものだ。閉ぢこもりの朧月は同じ時に詠んだ句で、これにも2点入った。入学児童の句はその数日前、近くの小学校であった寂しい入学式だが、子供たちが屈託無く至極元気だったので、少し明るい気持になったのを詠んだ。しかしこれは零点だった。「町に活気新入生のはしゃぎ声」とすべきだった。
 水牛の選んだ5句は、
マスクして帰宅を急ぐ道おぼろ   二堂
人類は何処へも行けず朧月     双歩
吾子は今つくり笑顔で入学す    実千代
母子草ほかに九種の咲く更地    綾子
年寄りの庭にはびこる犬ふぐり   てる夫
 いずれも水牛句よりずっといいようだ。
(2020.04.22.)
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2020年04月12日

俳句にならない日記 (21)


ガタガタすんじゃねーよ

S.T.大兄
 メール有難うございました。仰有るように、コロナウイルス騒ぎにはうんざりします。しかし、確かに重大事ではありますが、政府も都もマスコミも世間も、少しヒステリックになっているようです。
 もともと風呂に入らない、手は洗わない、うがいなぞしたことが無いという欧米で、ひとたび伝染病が流行りだしたら爆発的に広がるのは当たり前です。だからトランプやフランスの大統領がわめくのも無理はないのですが、日本の首相や都知事がこれほど悲壮な顔であれこれ叫び立てるのは、自分の顔を売るためと、都合の悪い話題(モリトモ問題、アキレ夫人のお花見問題等々)をはぐらかす目的があるからでしょう。
 東京でこれほど感染者が増え始めたのは、五輪開催強行のために、これまで検査を控えていたのを、延期となって一挙に検査体制を強化したからに違いないと思っています。ですから、これから二週間くらいで、さらにこの四、五倍には増えるでしょう。けれども、そうなったとて、東京都の感染者総数は四月半ば頃で2千人といったところじゃないでしょうか。1千200万人のうちの2千人なら、がたがた震えることはないと思います。
 しかし、外出自粛をあれほどわめかれて、めぼしい所はみんな閉店では、出かける気にもなれず、家に籠もって酒ばかり飲んでいます。まあ、あと一ヵ月もすれば世の中、ウイルス慣れして来るでしょう。そうしたら、新緑を愛でながら久しぶりにお目にかかって一杯やりましょう。
 20.03.29. 水牛

 これは3月29日に世田谷区在住の友人S.T.さんに出したメールだが、どんぴしゃり、本日12日、東京都のコロナウイルス感染者が2千人になった。競馬新聞が「本紙大当たり」とはしゃぎ立てるように、予想が当たったことを自慢するつもりは毛頭無い。厚労省のやっていることを見ていて、検査件数を徐々に増やすに連れ、このくらいの割合で判明感染者が増えて行くだろうから、安倍政権が休校や外出自粛などの最初の期限と設定した4月12日頃の都内の感染者は2千人くらいになるだろうと推測しただけである。
 これからもっと増えて行くに違いない。「自粛明け」というゴールデンウイーク明け頃には、感染者数は都内で1万人、全国で2万5千人といったところまで膨らんで、「自粛期間の再延長」ということになるかも知れない。そうなっても1億2千万人の2万5千人である。感染者が全員死ぬわけではない。せいぜい2千人といったところだろう。癌で死ぬのもコロナで死ぬのも大して変わりはない。交通事故や火事でもそのくらいは死んでいる。
 「第二次大戦後、最大の国難」などと大げさな言い方を聞いていると、一日も早くこの人が政権の座を降りて呉れたら、日本はだいぶ良くなるはずだと思う。「出勤者を7割減らせ」と言うに至っては、いよいよ頭がおかしくなったかと思う。そんなことをしても、ウイルスははびこる。感染者は増え続ける。それよりも外出自粛要請とか困窮家庭に30万円支給とか全世帯にマスク2枚配布とか、猿知恵としか思えない無駄な財政出動を行い国家の懐をさらに疲弊させ、日本の経済活動を鈍らせることの方がよほど怖い。
 ウイルスには未解明の部分が多すぎる。極めて乱暴な言い方だが、不幸にも感染し肺炎など発病した人には出来るだけの手当を施して、後は天命を待つしか方法は無いと割り切った方がいい。我々庶民はもちろん用心して、アベさんなどに言われずとも不要不急の外出を控える。そうしてじっとウイルスをやり過ごす。日ごろ、あれもやりたい、これもやらねばと思いながらそのままにしておいた物事をやるチャンスだ。それらを仕遂げればすっとして、必ず寿命が延びる。
 香港型インフルエンザやSARZやエボラ出血熱等々、これまでのウイルス病も全て、堪え忍んでいるうちに抗体ができて、ある程度効果的な薬も生まれ、何よりもウイルス自体が大人しくなって、やがて落ち着いた。今回の新型コロナウイルスも同じような経過を辿るに違いない。ここ1,2ヵ月は大変だろうが、そのうちには落ち着く。
 賢しらに「7割出勤停止」などと、企業活動をストップさせるような妄言の方がよほど世の中を悪くしてしまう。政権べったりのNHKの人気番組チコちゃんにすら笑われてしまうのではないか。(2020.4.12.)
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俳句日記 (598)


鉢植えの植え替え

 4月11日の明け方の横浜地方は8℃まで下がったようだが、昨日植えた胡瓜と茄子の苗は何とも無く朝日を浴びていた。ひとまずほっとした。植えてから二週間程度、5℃以下の低温や遅霜に遭わなければ大丈夫だ。週間天気予報によれば、15日あたりに最低気温6℃になるというのだが、何とかそれを乗り切ってくれよと祈る。
 今日からは庭のあちこちに置いてある植木鉢の植え替えを始める。俳句の会の吟行に出かけた先で拾ったり摘まんだりして来た木の実を蒔いたり、折り取った枝を挿し木したものが、我が家の鉢植えの殆どを占めている。だから、それぞれに思い出がある。
 まず最初は蘇鉄。これはちょうど9年前の2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災の発生した時に松山吟行に出かけていて、三津という港町の一茶が訪れた俳諧寺を見学した折、境内に繁っていた大きな蘇鉄の実が真っ赤に熟れていたのを五つ六つ拾って来たのを蒔いた。二本芽生えたのを大事に育てていたが、一本は二年後に頓死してしまった。残る一本が元気よく育ち、10枚ほど葉を生やして、堂々たる姿になっている。直径18センチ6号鉢では窮屈そうなので、一回り大きな鉢に植え替えた。三年ほったらかしにしておいたものだから、鉢の中で根がとぐろを巻いていた。もう少しで根詰まりを起こして枯れてしまうところだった。これはもう我が家の宝物である。
 次は葉山の陶芸師匠高田三平氏の庭に繁る椿と巨大輪紫陽花。どちらも七,八年前に枝を切ってもらったのを挿し木したものだ。これも15センチの5号鉢に植えてあったのを6号鉢にしてやった。次いで、散歩の途中で植木屋が剪定していたシマトネリコのクズ枝を貰って来て挿したものを植え替える。これも8号鉢にどっしりと坐り、立派な観葉植物になった。
 実生(タネを蒔いて生えた木)の万両も移し替えた。これは一昨年、平成30年1月6日に日経俳句会・番町喜楽会合同の「山手七福神吟行」の途次、白金・妙円寺境内に素晴らしい万両がルビー色の大粒の実を付けていたのを10粒ばかり頂いて来たのを蒔いたものだ。それを目ざとく察知した水兎さんが「横浜から飛んで来た鳥が万両ついばんだ」と言い、可升さんが「好日や手に万両の実のぬくみ」と詠んで、この日の句会の最高点を取った。一つの植木鉢に10粒ほどを蒔いたのだが、6本生えて、5センチほどに育っている。これを丁寧にほぐして一本ずつにして小鉢に植えた。
 ハセガワザクロも3鉢植え替えた。これは10年ほど前、アルバイト先で仲良しになった恵チャンの案内で行った上野のアメ横のハセガワさんという果物屋でもらったソフトボールほどもある大きなザクロの実を蒔いたものだ。たまたま、山の神に「今日、アメ横探検に行くよ」と言ったら、小学校時代の同級生のハセガワさんの果物屋があるはずだというので訪ねた店だった。「へー、イナチャン(山の神の旧姓からの呼び名)のご主人、そうですか、懐かしいな」と言って、その大石榴をプレゼントしてくれたのだ。中東から輸入した「本場のザクロ」ということだった。去年、恵チャンから「ハセガワさん死ンじゃったのかな、あの果物屋、しばらく息子みたいのがやってたけどついに閉店しちゃったよ」というメールが届いた。「ハセガワさん、ザクロ、無事に育ってますよ」なんてつぶやきながら植え替えている。
 こんな具合に一つ一つ思い出が詰まっているから、植え替えもなかなか時間がかかる。10鉢仕上げて、本日は打ち止め。まだ20いくつ残っている。
  うららかや伊予の蘇鉄の葉をひろげ   酒呑洞
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2020年04月11日

俳句日記 (597)


胡瓜と茄子の苗を植えた

 外出自粛要請なんかクソクラエなどと強がったところで、博物館も美術館も動物園も休み。横浜駅周辺やみなとみらいの繁華街に出かけても、デパートや有名店はみな臨時休業。出かけても全然面白くないのだ。
 そこで家庭菜園の手入れをすることにした。冬の間にある程度耕してあるから、畑そのものはあまり手入れの必要はないが、あちこちに雑草がはびこりだしたから、それを取るだけでもかなりの手間がかかる。庭木の枝が混み合ったのを透かす仕事もある。植木鉢の観葉植物の植え替えも必要だ。やるべき事は山ほどある。
 そこへ、生協に注文しておいた胡瓜と茄子の苗が届いた。どちらも3本。ようやく本葉が二枚出そろったばかりという、何とも小っちゃくて頼りない苗である。
 とにかく届いてしまったものをそのままにしては置けない。早速、畑に6個所植え穴を掘り堆肥などを入れて、植えて、添え竹を立てた。根方には銀紙を貼った丸いビニールシートを敷いて、重石を載せた。これは保温と反射光による防虫効果と、半ノラ猫のキタ子が根元を掘り返さぬようにとの用心である。
 これで一安心。ところが、夜になったら急に冷え込んできた。なんと言ってもまだ4月10日だからなあ、苗を植えるには少し早すぎたかなあと、急に心配になった。毎年、ゴールデンウイークに入ったところで植えるようにしているのだが、今年はいつになく春が暖かく、地球温暖化益々、という感じだったので例年より二週間も早めたのである。
 植えたばかりで遅霜に遭えば、小さくてひ弱な苗はひとたまりも無い。さりとてもうどうしようもないのだが、夜中になって庭に出た。立待月が明るく輝いている。夜気いよいよ冷たい。こういう晴れ上がった夜は放射冷却というやつで夜明けの降霜が気遣われる。
 まあそうなったらなったで、しょうがないわなと月を拝み、風呂に入って寝る。

  茄子胡瓜植えて気づかふ別れ霜   酒呑洞
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2020年04月06日

俳句日記 (596)


コロナ騒ぎ、ついに「緊急事態宣言」

 横浜で生まれ育ったハマッコは必ず「横浜市歌」が歌える。東京都歌や千葉市歌となると、そんなものがあるのかどうかさえ分からない人の方が多いのではなかろうか。その点がヨコハマの余所と違うところである。83歳の私も歌詞をそらで言えるし、公園ではしゃぐ小学生も知っている。そして余程の偏屈でも無い限り、大概のハマッコがこの歌を好いている。森林太郎(鴎外)作詩の横浜市歌は明治42年(1909年)7月1日に行われた横浜開港50周年記念大祝賀会式典で発表された。もう110年も前だから、かなり古風な詩だが、中々の味わいである。

  わが日の本は島国よ
  朝日かがよう海に
  連なりそばだつ島々なれば
  あらゆる国より舟こそ通へ

 これが一番で、次はフシががらりと変わる二番、

  されば港の数多かれど
  この横浜にまさるあらめや
  むかし思へば苫屋の煙
  ちらりほらりと立てりしところ

 歌っている大人も子供も「この横浜にまさるあらめや」のところでぐっと来る。そしてまた元のフシに戻って三番。

  今は百舟百千舟
  泊るところぞ見よや
  果なく栄えて行くらん御代を
  飾る宝も入り来る港

 と歌い終わって、皆々胸を張り、すっとするのだ。
 それなのに何たること。今日、横浜市内の小学校で一斉に行われた入学式で、この横浜市歌が歌われなかった。新入生も父母も教師も皆マスク。来賓祝辞は無し、唾の飛ぶ合唱は中止というわけだ。ローカル放送のテレビ神奈川のニュースでも若い女性アナウンサーが寂しそうに報じていた。
 そうだよなあ、御代を飾る宝どころか、ウイルス満載のクルーズ船が入り来たったんだもんなあ。そこから日本全国コロナ騒ぎが始まったんだからなあ。
 さあいよいよ明日7日、安倍首相がコロナ蔓延防止のための「緊急事態宣言」を発令する。アベさんも、小池都知事も尻馬の黒岩知事も、我がちに“ウイルス撲滅十字軍”の聖なる騎士の如き顔つきで、拳を振り上げる。「自分の責任ではない」ことが一〇〇%断言できる唯一のものがこのコロナ騒動だから、政治家は皆威勢がいい。「頑張ってます」「やっています」をアピールする絶好のチャンスだ。どっちみち自分の懐が痛むわけじゃないし、ツケは後の世代が払うのだから、「一家に30万円」「困っている中小事業主には無担保返済期限無しの融資」等々、なんと気前のいいこと。
  ウイルスに果なく沈み行く御代や   酒呑洞
posted by 水牛 at 21:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする