2019年06月16日

俳句日記 (498)

難解季語 (23)

めしざる(飯笊)

 先日この欄に「蠅帳」のことを書いているうちに、そう言えば昔の台所には飯笊というものもぶら下がっていたなと思い出した。
 「飯笊」も夏場の台所用品として重要なものだったのだが、今や『広辞苑』を引いても出て来ない。冷蔵庫の無い時代、朝炊いた飯は夜、仕事から帰って来ると、酸っぱいような臭いがすることがある。これを「飯が饐(す)える」と言い、「饐飯(すえめし)」と言った。これまた今どきの辞書には無い。
 米飯は日本人の主食であり、「米の飯が食える身分になれば一人前」と人の軽重を量る尺度にもされた。「一宿一飯の恩義」という言葉が生きていた時代が長く続いた。それほど貴重な米を少しでも無駄にしたくないと、昔の人は真面目に考えた。
 だから、ちょっと臭う程度の饐飯は、水で洗って、漬物や佃煮を載せて茶漬けのようにして食べた。これを「水飯(すいはん)」という。宮崎県を代表に全国各地に冷や飯に味噌汁仕立てのつゆをかけた「冷や汁」という食物があるが、これも水飯の変形と言えよう。また、必ずしも饐えた飯でなくとも、夏場の食欲不振対策として、冷や飯、時には温かい御飯を冷水で洗って水飯をこしらえることもした。
 とにかく、「御飯を捨てるなんてバチが当たる」と信じられていた時代だから、水で洗っても臭いが取れないほど完全に饐えてしまっても、まだ捨てない。さすがに食べるのは諦めて、饐飯を徹底的に腐らせてしまい、水を振りかけながら篦で潰す。こうすると良い糊になり、最後には不思議に悪臭も消えてしまう。これを水で薄め漉して、布地の洗い張りの時の糊付けに用いるのだ。
 しかし、貴重な食べ物である米の飯を糊などにするのはもったいない。なんとか飯が饐えるのを遅らせようと考え出したのが「飯笊」である。
 竹を割って細いひごを作り、磨いて、きれいな笊を拵える。身と蓋と大きさの違う笊二つで一組になる。吊り紐のついた身の方に残り飯を入れ、蓋笊をかぶせ、台所の日の当たらない風通しの良い所に吊す。こうすれば真夏でも一昼夜は保つ。
 昭和戦前はもちろんのこと、昭和四〇年代まで日本人は米飯をよく食べた。しかし、三度三度飯を炊く家は滅多に無かった。朝炊く家はそれを昼も夜も食べる。夜炊く家は翌朝と昼に食べた。そこでこうした飯笊とか蠅帳の出番が回って来ることになる。
 「もう三日も御飯食べてない」「それほどお金に困ってるようには見えないけど」「パンとうどんとピザばかり食べてた」という馬鹿話があるくらい、近ごろは米飯の消費量が落ち込んでいるようだ。「飯笊」という季語の出番が少なくなってしまったのも無理はない。
  飯笊を衣桁のはしに草の宿       高田 蝶衣
  めし笊のあはれ古びし世帯かな     野村 喜舟
  すいはんに浅づけゆかし二日酔     三浦 樗良
  水飯や目まひ止みたる四ッ下り     正岡 子規
  饐えし飯の糊が匂へる浴衣かな     青木 月斗

  花入れになる飯笊のよき老後      酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 12:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月13日

俳句日記 (497)


難解季語 (22)

はいちょう(蠅帳)

 昭和四〇年代まではどこの家にも必ずあった夏場の必需家具である。大きさはいろいろだが、小型の物は縦横高さ四〇センチほどの箱で、オモテ側は引き違いの戸、側面には格子がはまり、それぞれに細かな金網または蚊帳の布が張ってある。風通しよく、しかも蠅が入らない食物貯蔵箱である。これを茶の間や台所に置いて、常備菜や漬物、残り御飯などを入れた。冷蔵庫の無い時代には夏場に無くてはならない用具であった。
 家庭だけではなく、下町の飯屋などにも大型の蠅帳が帳場の脇に据えてあった。そこに焼魚、煮魚、煮物など、その日の「おかず」が並んでいる。客は蠅帳の網戸を開けて欲しいおかずを取り、盆に載せ、温かい飯と汁を盛ってもらって、帳場で勘定を払い、飯台に持って行き食べるという具合だった。
 何しろ昔は蠅が多かった。六月の梅雨の晴れ間など、家の内外にわんわん飛び回っていた。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読む熟語があったほどで、どうやらこれも今では「平仮名で書きなさい」と言われそうだ。
 とにかく蠅は食品はもとより、魚肉、獣肉、人畜の排泄物、死骸が大好きで、そういうものに群がり集まる。うるさいだけでなく、病原菌をまき散らすから放っておくわけにはいかない。家庭では「蠅叩き」を常備し、食品店、魚屋などは粘着剤を塗った「蠅取リボン」を店中に吊した。魚や佃煮、芋やコンニャクの煮しめなどが盛られた大皿のすぐ上には、蠅がへばりついて真っ黒になった蠅取リボンがぶらぶら揺れていた。今どきの衛生観念が異常なほど発達した若いお母さんだったら、卒倒するに違いない風景である。
 昔は「夏負け」という体力消耗から病気になり、命を失う人が多かった。夏負けで病原菌に冒されればそれこそイチコロである。「食あたり」が最も恐れられていた一方、とかく栄養不良の食生活を送っていたから、少しでも食が細ると「夏痩せ」し、病気にかかりやすくなるから、せっせと食べなさいと言われる。そういった夏場の暮らしに蠅帳は命綱とも言うべきものだった。
 下水道整備によって汲取式便所が無くなり、「おわいやさん」と呼ばれていた便所汲取業者が姿を消した。これによってウジムシと蠅の発生が激減した。それに加え、家庭用電気冷蔵庫の普及によって、今では蠅叩きも蠅取紙も蠅帳も死語になった。

  蠅帳といふわびしくて親しきもの   富安 風生
  蠅帳や隅にころげて茹玉子      草間 時彦
  蠅帳のこころもとなく古りにけり   細川 加賀

  蠅帳に焦げしうるめを見つけたる   酒呑洞水牛
  蠅帳の埃かぶりて古物市
posted by 水牛 at 11:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月08日

俳句日記 (496)


水牛洞謹製梅酒・梅干(3)

 採った梅の実は仕分けしなければいけない。まずは虫食いや傷のついたものをはねる。丁寧に採ったから傷物は少ないが、農薬をかけていないせいで虫食いが結構ある。アブラムシのついたのは果皮が黒っぽいシミになっている。これは品質には問題無いが、見てくれが悪いから梅干にはならない。実の中に入り込んで食害する虫もいる。これが入り込んだ実には果皮にヤニが浮いているから分かる。こういうのを捨てながら、大粒の梅干用と小粒や形の良くないのを梅酒用に分けて行く。その結果梅干用が13キロ、梅酒用が6キロ、廃棄処分が1キロだった。これに、我が家でしぶとく実った2キロがある。これは大粒の純良品である。都合、令和元年漬け込み量は梅干15キロ、梅酒6キロの合計21キロということになった。
 梅干用のは一昼夜水に浸けてアク抜きをする。梅酒用は洗って大笊に広げて一日乾かす。
 準備万端整って、いよいよ漬け込み開始。まずは梅干。梅5キロを漬けられる大きなホーロー桶を三個並べ、それぞれに梅を入れては塩をまぶし、また梅を入れては塩をかぶせ、梅5キロに対して2キロの塩を入れ、陶器の押し蓋をのせて、脇から焼酎をお玉杓子で二杯注ぎ入れる。カビが生えませんようにとのお呪いと、梅酢がよく上がるようにとの呼び水である。そして6キロと2キロの重石を載せた。次に梅酒。梅酒漬け用の大きなガラス瓶を二個用意し、それぞれに3キロの梅の実と2キロの氷砂糖を交互に入れ、35度焼酎二升(3.6リットル)を注ぎ込む。
 あとは梅干は明日か明後日、一旦全て取り出して漬け直す「漬け返し」をし、二週間後くらいに塩揉みしてアク抜きした赤紫蘇を入れる。そして七月下旬に漬かった梅を土用干しする。これが第二の山場となる。梅酒の方は殆ど手間要らずで、時々瓶を揺するだけでいい。
 昨七日から地元の洲崎神社の例大祭が始まり、町には祭り囃子が流れている。一家の健康と梅干梅酒がうまく漬かりますようにとお参りに行ってきた。

  梅漬けて氏神祭へ参りけり     酒呑洞 水牛
posted by 水牛 at 23:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月07日

俳句日記 (495)


水牛洞謹製梅酒・梅干(2)

 懇意にしているタカハラ米屋に初生りの胡瓜を持って行って、世間話のついでに「今年は梅が採れなくて、長年続けてきた梅漬けが途切れるのも癪だから、これから買いに行く」と言ったら、お上さんが「そんな、ウチのを採って下さいよ」と言う。
 タカハラさんはこの近辺の草分けで、店の脇を流れる滝野川という小川に水車を据えて、戦前はゴットンゴットン米を搗いていた。そこに鶴亀橋という粗末な木橋が掛かっていたが、私の祖父と父が大正末に始めた横浜ガーデンという園芸会社への入口として「ガーデン橋」というコンクリート製に掛け替えた。つまり、タカハラ米店までが下町商店街、ガーデン橋から上が植物園と小動物園を併設した横浜ガーデン区域となっていた。タカハラ米店と我が家とはその頃からの付き合いである。
 滝野川は30年ほど前、横浜市営地下鉄が開通するのと前後して埋め立てられ、「せせらぎ緑道」という遊歩道兼地下鉄駅に通じる通勤通学路になった。タカハラの梅の木はその緑道に大枝を差し伸ばす大木である。天辺は、昔米屋の傍らやっていた質屋時代の土蔵の屋根を越すほどに伸びている。その枝に梅の実がびっしり付いている。
 「こりゃ大変だぞ。熟れた実がぼたぼた落ちて通行人の頭や衣服にぶつかったりすると事だな」
 「そうなんですよ。去年も大分枝を切ったつもりなんですがね、またこんなになっちゃって」と、お上さんは恨めしそうに梅の木を見上げる。
 二階まで届く大脚立と大ノコギリを持って乗り込んだ。手近の枝の実をもいでは下でお上さんが受ける米袋に投げ込む。そうしながら大枝を切る。かれこれ二時間の奮闘で梅の木は高さ二メートルほどになり、枝も透いて形が良くなった。梅の実がしこたま採れた。
 「これでまあ3年は保つな。そこから先はワタシャ生きてるかどうか分からんからな」
 「ご冗談を。とにかく、ほんとに助かりました」
 夕暮れ方、米の配達を済ませたタカハラの主人が大きな米袋にほぼ一杯の梅の実を持って来た。
 「ウチはほんの少し漬けるだけなので、どうぞ貰って下さい」と言う。計ってみたら、なんと20キロもある。これはいつもの年よりも多い分量である。嬉しいけれど、いささか途方に暮れる。
  梅の実を選り分けている芒種かな   酒呑洞 水牛
posted by 水牛 at 23:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月06日

俳句日記 (494)


水牛洞謹製梅酒・梅干(1)

 梅酒と梅干を30年以上作り続けている。亡父は酒が一滴も飲めない体質だったが、どういうわけか梅酒を作っていた。我が家の新年のお屠蘇は自家製の梅酒と決まっており、酒が飲めない父もこの梅酒は小さな盃に一杯だけ飲んでいた。梅干は好物だったからよく漬けていた。というわけで物心つく頃から梅酒の美味しさを知っていたのだが、新聞記者になって忙しい日々を送る若いうちは梅酒、梅干などには目もくれなかったし、海外生活が長かったから梅を漬ける習慣などは全く身についていなかった。それが、五十の声を聞くようになって突然、やり始めたのだから、やはり子どもの頃、両親がせっせと梅漬けしていた姿が脳の隅っこに焼きついていたのだろう。
 梅干作りの肝心要は、原料である梅の実の熟し具合を見極める事が第一。そして、漬け込む容器と塩加減と重石と、漬け込んでから一週後の「漬け返し」である。さらに、七月末の「土用干し」を律儀にやれば万全である。
 まず梅の実だが、基本的に梅酒用はまだ見るからに硬そうな青梅が良く、ほんの少し青から黄緑がかってきた頃合いが梅干向きである。次に容器選び。大昔は木の樽か甕に漬けていた。しかし、シロウトには樽はダメである。雑菌がはびこってカビが生え、すべておじゃんになってしまう。陶器の甕も顕微鏡的な微細な穴があり、そこにカビの原因が浸み込んでいる恐れがあるので熱湯消毒か焼酎洗いをする必要がある。これが意外に面倒である。そこである年からホーロー容器にした。これは梅干漬けには最適である。
 塩加減は漬ける梅の重量の20%の粗塩と決めている。梅が10キロなら粗塩2キロである。「塩分控え目」が流行り言葉になって、デパートの食品売場には「塩分5%梅干」などというのが売られている。料理の先生がテレビでまことしやかに「塩分5%」で梅漬けを教えたりしている。すべてウソである。温暖湿潤の日本で「塩分5%の梅干」は絶対に出来ない。必ず腐敗してしまう。重量比10%の塩で漬けてもカビが浮いてくる。これを防ぐには5キロの梅に対して35度焼酎を300ミリリットルくらい振りかけて漬け込めば何とか漬かる。
 重石は最初は梅の実の1.5倍を掛け、水が上がって来たら同量に減らす。この途中、漬けて一週間たった頃、一旦、梅を全て取り出し、また漬け直す「漬け返し」をする。こうすることで、重石がかからなかった梅も圧され、翌日、さらに梅酢が上がってくる。こうなればしめたものだ。
 江戸時代から昭和時代まで、梅干の塩分は30%から35%だった。天然の塩は空気中の湿気を吸って液状化してしまう。そこで昔の人は塩の貯蔵や遠方に運ぶ方法として、魚、肉、野菜などに塩を浸み込ませることを考え出した。「塩漬け」である。これは魚介、野菜の貯蔵法にもなる。それで塩鮭、ヘシコ、塩辛、しょっつる、野沢菜塩漬、沢庵漬などが生まれた。その代表選手が梅干である。つまり、梅干はおかずの役割と共に、調味料としての役割も担っていたのだ。
 漬物や塩干物に「塩分供給」の役目が無くなり、嗜好品になってしまった今日、急に「塩分控え目」が言われるようになった。しかし元来、強烈な塩分によって引き出されていた「旨味」が、薄塩では出ない。そこで化学製品の「旨味調味料」を添加したりする。腐敗を抑えていた塩分が減ったために、防腐剤が添加される。それやこれやで、塩分を控えたことによるメリットよりも、その数倍も害悪を及ぼす添加物まみれの食品が横行することになった。
 「塩分5%」「3%」などと書かれた梅干は決して食べてはいけない。元々は30%以上の強塩水に漬けた梅をタンクで脱塩し、それに人工調味料や蜂蜜などを加え、防腐剤をまぶしたシロモノなのだ。見てくれは素晴らしい。特大南高梅などと銘打って、赤ん坊の握り拳ほどもあろうかという巨大な梅干。口に含めばしっとりと、塩味も甘みもほのかで、いかにも上品だ。しかしこれは最早、自然の食べ物ではない。人工的なケーキと同じ、薬品まみれの食物である。
 梅酒も同じである。水牛梅酒は「梅1.5キロ、氷砂糖1キロ、35度焼酎1.8リットル」で、これ以外何の混ぜ物は無い。テレビや新聞で大宣伝している梅酒はこんなに沢山の梅の実を使っていない。さらに添加物の疑いも濃厚である。
 というわけで、「水牛洞謹製」の梅干、梅酒は見栄えは良くないが味はいいから、結構な人気である。先日など、双牛舎ブログ「みんなの俳句」に『梅漬ける一言居士の鼻眼鏡』という句が出た。作者の賢一さんも水牛梅干のフアンで、「もらうからには退屈な梅干談義も我慢しようか」というクチである。
 今年も梅漬けの時期になった。しかし、昨年、我が家の梅の木はアブラムシ退治を兼ねて大剪定したために、今年は漬けるほどの梅の実が採れない。はてさて困った。
  両腕に引っ掻き傷の梅実取り    酒呑洞 水牛
posted by 水牛 at 20:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月05日

俳句日記 (493)

難解季語 (21)

ぼうしゅ(芒種)

 二十四節気の一つで、旧暦五月の節。立夏から三十日後、芒種の十五日後が夏至ということになる。現在のカレンダーに当てはめると六月六日頃になる。
 「芒種」とは禾(のぎ)のある草のことで、代表的な作物が稲。その稲の苗を植え付ける「田植」という一年で最も大切な行事、農作業が始まる時期を示している。農業が国の基本であった時代には「芒種」は重要な日として誰もが知っていたが、今では「ぼうしゅ」と聞かされて即座に「芒種」という字を思い浮かべられる人はほとんど居ないだろう。
 「芒種」もまた立派な季語なのだが、この十五日前の「小満」と並んで、二十四節気の中では最も人気の無い季語に落ちぶれてしまい、近ごろは芒種を詠んだ句に全くお目に掛からなくなった。入梅も間近で、連日曇りがちの天気。何とも気分が優れない日々が続き、「芒種」と聞いてもさしたる感興を催さないのもむべなるかなということであろう。
 しかし、「芒種」という少々固い響きの季語を据えると、何となくこの頃の空気を感じ取ることが出来、これに何を取り合わせてもそれらしい句になる。こういう季語を発掘して詠むのも亦楽しからずやである。まさに「季語と遊ぶ」気分になる。

  ささやくは芒種の庭の番鳩(つがいばと)  石原 八束
  芒種なり水盤に粟蒔くとせむ        草間 時彦
  朝粥や芒種の雨がみづうみに        秋山 幹生

  梅漬けの桶や重石や芒種かな        酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 18:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月02日

俳句日記 (492)


番町喜楽会第162回例会
「入梅」と「水馬」を詠む

 6月1日(土)夜、九段下の生涯学習館で番町喜楽会の6月例会が開かれた。この会も発足後既に丸16年、会を重ねて162回になる。姉妹句会の流溪句会と喜楽会を吸収合併し、日経俳句会からも希望者を受け入れ「番町喜楽会」という会名にして新たなスタートを切ったのが平成23年(2011)3月11日。奇しくも東日本大震災当日、子規の故郷松山の吟行で松山城に登った日だった。そこからも既に丸8年たっている。今や常連メンバー21人を擁する堂々たる句会になっている。日経俳句会、酔吟会などと比べて「若い会」という印象が濃かったのだが、やはりこのところめっきり「老練ぶり」が目立つようになってきた。そろそろ本気になって若手をリクルートする必要が出てきたようだ。
 第162回例会は出席14人、投句参加6人で、「入梅」と「水馬」の兼題に当季雑詠を加え投句総数は98句だった。選句6句で句会を行った結果は、なんと投句総数の約7割68句に点が入るという大乱戦となった。それらの中で3点以上を獲得した句は、
 ゆるやかに脱ぎすててあり蛇の衣    玉田春陽子
 ミッキーの傘が先頭梅雨に入る     須藤 光迷
 畝合を泳ぐ合鴨梅雨に入る       谷川 水馬
 金色の鯉の背を越す水馬        須藤 光迷
 田圃たんぼ越後くまなく梅雨に入る   堤 てる夫
 入梅や独鈷の帯の締まる音       廣田 可升
 あめんぼう流され前へ前へ行く     田中 白山
 あめんぼのレガッタ始まる水たまり   前島 幻水
 朝焼を見て満ち足りし二度寝かな    嵐田 双歩
 原っぱの大樹に集ふ夏帽子       塩田 命水
の、わずか10句だった。いつもは高点句が15句近く並ぶのだが、今回は極端に票が割れた。
 さて水牛句だが、さんざんであった。もともと、夏風邪をこじらせて気管支炎になり、酒を飲む気にならないという稀有な事態に陥った1週間で、幹事から「句が届きませんがどうしたのか」とメールが届いて、大慌てで30分で作ったドロナワだから無理もなかった。5月というのに30℃を超えるキチガイ天気に、蒲団をはいではまた風邪をぶり返す、ヤケッパチ気分を5句並べて送ったら、案の定みんな2点、1点だった。
  梅雨入などどこかに飛んで炎天下   (0)
  水馬急な猛暑に立ち止まる      (1)
  苦しげに毛玉吐く猫暑し暑し     (1)
  物忘れぐんと進みし猛暑かな     (2)
  チキンカレー極辛にする猛暑かな   (2)
やはりお座なりな作句態度にお灸が据えられた。
posted by 水牛 at 20:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月30日

俳句日記 (491)

難解季語 (20)

さなぶり(早苗饗)

 田植えを終えた後、田の神を送り、作業した人たちをねぎらう饗応の宴を「さなぶり」と言う。全国各地の農村の初夏の一大行事だったのだが、近ごろは殆ど廃れてしまい、農村地帯でさえ若い人たちには通じにくい言葉になっているとのことである。。
 農業国家であり米が主食の日本では、年中行事はすべて稲の成育に従って組み立てられていたと言ってもいい。凍てついた田を早春に掘り返す「耕し」から始まって、苗代作り、種蒔き(籾蒔き)と続き、やがて五月中旬から六月初旬にかけて、育った稲の苗を田に植えて行く。これが農作業で最も大事な「田植え」である。
 日本列島は北から南へ長いから、田植えの時期も沖縄の三月下旬から関東東北の六月中旬まで地域によって差があるが、とにかく初夏の代表的な景物であることに間違いない。
 田植えは村中総出で行った。何軒かで組を作り、順繰りに人海戦術で植えて行く。だから田植えが無事に済めば、手伝ってくれた人たち全員を招いて盛大に御馳走する。もちろん、宴は田の神様に無事に田植えを終えたことを感謝し、祈りを捧げる事から始まる。昔は田植えを始める前の日あたりに、田の神を勧請する「さおり」という儀式をやっていたらしいが、これは今では殆ど行われない。
 「さ」というのは「稲」を意味するという説と、「田の神」を意味するという説がある。「さおり」は「さ降り」で田の神様がその田圃に降りて無事に田植えが済むように見守って下さること。そして、無事に田植えが済んだら神送りの宴で「さのぼり(さ上り)」なさるというわけである。この「さのぼり」がいつの間にか「さなぶり」と変化して「早苗饗」という漢字が当てられるようになった。
 とにもかくにも稲の苗を植えた後は、風水害、旱魃、冷害、病害虫の発生など、農民は気を揉み続ける。潅漑設備が行き渡り、農薬が大量撒布されるようになった今でさえ、時として自然の猛威に叩かれる。便利なものが一切無かった昔は、全てが神頼みだった。
 今では田植えも田植機がやってくれる。実際に田植えの田圃に出る人は苗を機械に積む人、田植機を運転する人、何かの用事のための介添え役の三人で十分だという。姐さん被りに襷掛けの早乙女が十数人横一列に並び、指令役のおっさんが掛け声をかけ、太鼓を叩き、のど自慢が田植唄を唄い、そのリズムに合わせて後ずさりしながら苗を植えて行く田植え風景など、とんと見なくなった。
 無理も無い。わずか二、三人の田植えでは、早苗饗も威勢が上がらず、すっかり廃れてしまった。それに変わって、稲作地帯では観光イベントとして「田植え体験ツアー」が盛んになり、体験田植えを終えると地場産の食材と地酒の宴会が催される。これもまあ一種の早苗饗であろう。
  早苗饗のあいやあいやと津軽唄    成田 千空
  早苗饗の膳の下より小猫かな     橋本 鶏二
  さなぶりに灯してありぬ牛小屋も   鏑木登代子

  さなぶりをなつかしみをり五月空   酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 01:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月26日

俳句日記 (490)

でたらめ場所

 大相撲夏場所が終わった。気っ風のいい平幕朝乃山が優勝し、千秋楽にはトランプ米大統領がやって来て白頭鷲のついたアメリカ杯を手づから優勝力士に授けるというパフォーマンスなど話題豊富な夏場所にはなったが、肝心の取組内容は開いた口が塞がらない粗末なものであった。
 そもそも平幕優勝というのが異例なのである。上位力士が互いに食い合う隙間を縫って、平幕力士がするするとその座を占めるということはこれまでも時々あった。しかし、今回は横綱、大関がだらしなくて、自ら転んでしまっての結果なのだからシラケてしまう。それが証拠に、平幕8枚目の朝乃山が、なんと十四日目に優勝を決めてしまったのだ。千秋楽まで、好調平幕力士がトップの横綱なり大関なりと同点で進み、千秋楽で優勝候補の横綱が破れた結果、平幕力士に優勝杯が転げ込むというのなら、手に汗握るといった雰囲気になる。
 ところがどうだ。今場所は千秋楽三役揃い踏みの前に行われた朝乃山と御嶽海の取組で、朝乃山はあっさり御嶽海に負けてしまった。それでももう優勝が決まっているから平然たるものだ。その後の「これより三役」の三番などは全く興味の薄い取組になってしまった。
 東京五輪の時に土俵入りを勤め、その後は引退、親方になりたいという横綱白鵬には既に昔日の勢いは無く、ただただ延命を図って、ちょっと調子を崩せば休場。今場所もそうだった。一人横綱の鶴竜はそれなりに頑張ったが、やはり弱っており、終盤崩れ始めた。場所をつまらなくした元凶は三人の大関。高安と豪栄道はよくもまあ恥ずかしげもなく毎場所ごろごろ負け続けるのだろう。今場所も揃って9勝6敗である。新大関として大いに期待された貴景勝は我武者羅相撲の咎めで怪我して早々休場である。正直言って、これら三人の大関には全く期待していない。
 これからは、今日賜杯を抱えた朝乃山が気を引き締めてしっかり上に昇って行くことと、大怪我から立ち直って力をつけてきた竜電が楽しみである。そして、今後どうなるかがまだもう一つはっきりしないが、豊山と照ノ富士である。
 朝乃山と同期デビューで一足先に入幕しながら十両に落ちてしまった豊山が今場所ようやく勝ち越した。5枚目でようやく8勝7敗だから、来場所も十両だが、来場所好成績で再入幕すれば、今度こそ期待出来そうだ。
 一方の照ノ富士。これがデビューした時、伝説の怪力士雷電為右衛門は恐らくこんなタイプの力士だったのではないかと思い、それ以来贔屓にしてきた。照ノ富士は恵まれた体躯と怪力を武器に初土俵後六年で大関になった。しかし、スイスイと出世したせいもあろう、若さに物を言わせ力任せに取る相撲で、無理な相撲が祟って両膝を痛めてしまい、糖尿病まで患って大関陥落、以後は休場休場の連続でなんと序二段まで落ちてしまった。元大関が序二段まで落ちたのは大相撲史上初のことである。ようやく相撲が取れるまでに怪我が回復し、序二段を全勝でなんなく通過、この五月場所は三段目東49枚目で6勝1敗の好成績で終えた。返す返すも惜しかったのは八日目の取組で土俵際「勝った」と思い込んで力を抜いた瞬間、まだ残っていた相手に回り込まれ寄り切られてしまう痛恨のポカをやらかした。これが無ければ七戦全勝で次の名古屋場所は幕下昇進が確実だったのだが、49枚目で6勝1敗では難しいかも知れない。
 それはともかく照ノ富士の両膝は徐々に良くなっているようで、このままで行けば来年初場所には十両に返り咲いて、再び関取として大髻を結えるようになれるかも知れない。
 なんだかんだと悪口を言いながらも相撲は面白い。野球やサッカーやテニスなど問題ではない。最も面白いスポーツだと思う。それが今の幕ノ内の取組を見るにつけ、悪態をつきたくなってしまうのである。しばらくは、こうして下で苦労している力士たちに視線を這わせて楽しんで行くとしよう。
  夏場所を締める異国の大統領
posted by 水牛 at 22:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

俳句日記 (489)


難解季語 (19)

しょうまん(小満)

 二十四節気の一つで、旧暦四月の中(ちゅう)。二十四節気は一年をほぼ十五日ずつに区切って、その時期の季節的特徴を表す名前を付けた指標である。この内、各月の始めに置いて季節の指標となるものを「節」、その月の真ん中あたりに置いて当月のシンボルを示したものを「中」と名づけている。例えば、二月の節は「立春」、二月の中は「雨水」(雪溶けて雨水となる)という具合である。
 「小満」は「立夏」の十五日後で、太陽暦では五月二十一日頃である。草木が茂り始め、陽気がみなぎる時節を言う。文化五年に刊行された『改正月令博物筌』(かいせいがつりょうはくぶつせん)という、その後の歳時記の手本になった書物には「四月節(立夏のこと)より十六日目を小満と云 萬物次第に長じて満つるの義なり」と書かれている。さらに、「小満の日を麥生日(ばくしょうび)といふ 晴天なれば麥大いに熟す」と述べている。麦の収穫時期であることを告げているのだ。
 二十四節気はすべて季語とされているのだが、人気のあるのが立春、立冬など季節を立てるものを筆頭に、春分、秋分、夏至、冬至や大暑、大寒などである。それらに続いて「啓蟄」「清明」「寒露」などが続く。さしづめ、この「小満」などは人気の無い方の部類であろう。今売られている歳時記の中には載せていないものすらある。
 「小満や一升瓶に赤まむし 斉藤美規」という面白い句がある。田植前の田圃の畦には蛙や虫を狙って蛇が出没する。マムシも出て来る。蝮を焼酎漬にした蝮酒は百薬の長として珍重される。草刈りなどしていてうっかり噛まれると死の苦しみをするほどの毒を持っているが、うまく生け捕りに出来たら儲けもの。早速、一升瓶に入れ、蝮が水面に首を出せるくらいに水を注ぎ込み、逃げ出さぬよう、空気だけは通うように口に布を当てて封じる。蝮は何も食わずに二、三ヵ月生きているが、やがて死ぬ。そうしたら壜の中の水を何度も入れ換えて排泄物などをすっかり洗い流し、そこに焼酎を一杯入れて、冷暗所に貯蔵する。そうやって一年もたつと琥珀色の蝮酒が出来上がる。
 この句は田圃で実際に蝮を捕まえて一升瓶に漬けたという話ではなく、小満の頃の街の蛇屋のショウウインドウかも知れない。とにかく、「小満」という難しい季語に「赤まむし」を取り合わせたのが傑作である。

 小満やどの田も水を湛へをり     小島雷法子
 小満のみるみる涙湧く子かな     山西 雅子

 小満の日も黙々と草むしり      酒呑洞水牛
posted by 水牛 at 13:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする