2019年04月10日

俳句日記 (478)


清明下総鰻吟行

 「時は清明、下総の野に出て、印旛沼の畔に地酒を酌み、句を詠み合いながら成田のお不動さんへ足を伸ばし、名物の鰻を食す会」を催した。酒呑洞のこういうバカバカしい催しに付き合ってくれたのは地元住人の徳永木葉、嵐田双歩、廣田可升の三人と、江戸川在の吟行好きの田中白山の四人。
 素晴らしい日和。満開の桜が盛大に花吹雪を舞わせ、桃や木蓮、海棠も派手な花びらをふさふさと咲かせている。地際には菜の花をはじめ、踊り子草、白い五弁花のダビデの星、菫などがここを先途と咲き競う。それらが春の陽光にきらきら輝いて、まさに田園の饗宴。さすがの不良五老も感嘆措く能わずの様子であった。さあ最初の目的地は駅から村道を10分ほどの酒蔵「飯沼本家」。ここの「甲子正宗」の美味いことを知ったのが、この吟行を思い立つきっかけだったのである。
 南酒々井駅を出た途端に連句を開始。水牛の発句「清明の下総の野に若返る」に木葉が「そぞろ歩きに待つ生一本」と付け、双歩が「竹の秋蔵の白壁はがれいて」と第三を詠んで、半歌仙『清明野遊びの巻』はスタート。
 飯沼本家の茶屋で昼食の饂飩をすすり「甲子」を一杯やりながら、可升が手回し良く予約してくれたジャンボタクシーで、「佐倉義民伝」の宗吾霊廟、「甚兵衛の渡し」近くの水神社の菜の花畑、古民家や武家屋敷を移築展示する「房総のむら」を回り、成田山新勝寺に参拝、参道の老舗鰻屋「菊屋」で大きな蒲焼の乗った鰻重、肝焼、鯉こく、川海老唐揚、胡瓜新香などで地元の銘酒「不動」と「長命泉」純米を心ゆくまで酌み交わした。連句もすいすいと半歌仙を巻き上げ、誰からともなく出た「もう一丁」の掛け声に、オモテ六句だけの「裏白」まで巻いてしまった。発句通りに5人ともすっかり若返る清遊だった。

下総鰻吟行連句 「清明野遊び」の巻

清明の下総の野に若返る       大澤 水牛
 そぞろ歩きに待つ生一本       徳永 木葉
竹の秋蔵の白壁はがれいて       嵐田 双歩
 ダビデの星の地際飾れり          水牛
まがり家の煙突照らす三日月     廣田 可升
 稲庭うどん秋寂の里        田中 白山
かづら橋下見ぬやうにおずおずと      木葉
 鳶の親子がぴいひょろ笑ふ        水牛
あれあしこ鎮守の森に筵旗         可升
 球春愛でて長嶋茂雄           双歩
青空にしだれ桜と紫木蓮          白山
 お手々つないでふらここに乗る      可升
宗吾さまついて行きますどこまでも     水牛
 ターザン月下にジェーンを呼ばふ     木葉
大部屋に暮して長ききりぎりす       可升
 まくら得意の噺家のいて         木葉
新しき年へ誘ふ花ふぶき          双歩
 成田不動に祈る萬歳           白山

連句裏白「春灯」の巻

八ッ口に手をさしいれて春灯        木葉
 うなぎの肝に明日を託す         双歩
単身の最終便や夏の月           可升
  へちまぶらぶら誰か来ないか       水牛
一輪の花活けられて奥座敷         白山
  渦状星雲うず巻く思ひ          可升
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2019年04月07日

俳句日記 (477)


番町喜楽会第160回(4月)例会のことども

 番町喜楽会の第160回例会が4月6日(土)午後6時、九段下の千代田区立生涯学習会館で開かれた。日中は24℃になったかと思えば夜には10℃に冷え込むという、実に不安定な気候に体調を崩す人が多い。その上、三月四月の年度替わりということもあって、あれこれお付き合いもあるのだろう、例会参加者は14人と小ぶりだった。
 今回兼題は「花疲れ」と「海胆」、雑詠含め投句は5句。投句者20人、投句総数100句。選句は出席者6句、欠席者5句で行った。選句結果は、最高点が6点で「潮の香をあげて目刺の反り返る 春陽子」、次席5点は「心地よくワインに溶ける花疲れ 満智」「国訛り添へて焼き海胆売られをり 水馬」「海女舟の夫の引き綱海胆揚がる 木葉」「ぶらんこを漕ぎ東京へ飛んで行く 而云」の4句、三席4点は「花疲れバスを待つ人みな無口 迷哲」「雲丹飯に萩の有磯の香りかな 水牛」の2句だった。これに入選の3点「花疲れ旅の土産の絵蝋燭 水馬」「気が付けば太鼓持ち役花疲れ 斗詩子」「流水に身を委ねゆく落椿 迷哲」3句が続いた。
 上記の他、水牛が良いと思った句は以下の通り。
  其処等中ライトアップや花疲れ   双歩
 なんとかの一つ覚えの「ライトアップ」、全くうんざり。現代の悪しき風習をえぐってくれて、まことに小気味よい。現代風刺句として結構だと思う。
  リアス線直通列車ウニ弁当     迷哲
 ようやく全線開通、三陸海岸の春景色が浮かぶ。
  肩掛けでしのいで行きし春の雨   水兎
 「傘持ってらっしゃい」と言うのに「大丈夫」と。春の雨の感じと元気なオバサマの姿が浮かんでくる。
  居続けの鶫の孤独春の庭      てる夫
 鶫は渡り鳥なのに、北へ帰らず日本に居続ける横着者もいるようだ。古典落語の名作に「居残り佐平次」という噺があるが、それを思い出して、面白いなあと思った。ちょんちょこ立ち回っていても、そこにはやはり春の愁いもあるのだ。
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2019年04月05日

俳句日記 (476)


難解季語 (15)

せいめい(清明)

 二十四節気の一つで、春分の十五日後、旧暦三月の月初、新暦では四月五日頃になる。清明とは「清浄明潔」の略で、春先の生き生きとした、しかも初々しく清らかな気分を表したものである。平成もどんづまりの三十一年の清明は今日四月五日。
 この頃にはそれまでの北風や北西風が替わり、梅を咲かせる東風から、桜の花を咲かせる東南の風になる。気温もぐんと上がる。この東南風を「桜東風(さくらごち)」と言って、人々は本格的な春の到来を喜ぶ。
 節気の十五日間を三分割して五日ごとの季節変化をきめ細かく示すのが七十二候。清明節の七十二候は、中国から奈良時代に伝わった当初のものだと「桐始華(きりはじめて花咲く)」「田鼠化為鶉(でんそけしてうずらとなる)」「虹始見(にじはじめてあらわる)」の三つだった。しかし、日本の季節に合わないので、清明節初候は「玄鳥至(つばめいたる)」に、次候は「鴻雁北(こうがんきたす)」に、三候は元のまま「虹始見」として暦に載せた。いずれも四月初めから中旬の感じを表している。
 中国では陽気満つる清明の日に家族親戚打ち揃って墓詣りをし、先祖供養をすると同時に一族郎党の懇親を深める飲食をする習いがあった。今ではかなり廃れてしまったようだが、これが大昔琉球王国に伝わり、沖縄県になった今も「清明祭」「御清明(ウシーミー)」として残っている。本州でのお彼岸の墓参とも似通う習俗である。
 清明は言葉の響きも良いし、字の見てくれも良いのだが、なんとなく古臭い感じがする。それが立春、春分、立夏などと比べて日常使われない原因となったのか、従って季語としても置き忘られた感じになっている。

  清明の雨に光れる瑠璃瓦      古賀まり子
  上海を出て清明の野に遊ぶ     三宅清三郎
  清明の明け方冷ゆる鞍馬かな    森田 公司

  清明の野に酌む純米大吟醸     酒呑洞水牛
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2019年04月03日

俳句日記 (475)


難解季語 (14)

かんしょく(寒食)

 これは今ではもう全く通じない季語と言っていいだろう。「寒餅」という未だ生き残っている言葉につられて、寒中に食べるものと受け取る人が多いかも知れないが、全然違って、「火を入れない物を食べて過ごす日」のことである。中国の故事から出た仲春の季語なのである。
 春秋時代(前770-前403)の大国晋の文公(前697-前628)が公子時代に内乱で国を追われ19年間も流遇生活を送っていた時に、片時も傍を離れず公子を守った介之推(かい・しすい)という忠臣がいた。文公は秦の穆公の援助で故郷に帰り晋を立て直し、王位につくことができた。しかし、いろいろな行き違いから介之推を手厚く遇することが出来なかった。それを哀しんだ之推は老母と共に故郷の山に隠遁した。後悔した文公は、懸命に帰参を促したが之推は肯んじない。ついに文公は山に火をかけて之推の下山を迫ったところ、之推は老母共々木に身体を縛り、焼死してしまった。文公は自分の愚かで軽率な行為を深く恥じ、この日を「一切火を用いない日」と定め、国中に徹底させた。以後、この日は煮炊きを慎み、冷たいものを食べる「寒食」が習いとなった。冬至から105日後、清明節の前日、現在のカレンダーで言うと4月5日前後、春もようやくたけなわという頃合いである。
 この故事はともかく、この季節、中国大陸の山西省から河北、河南の地は強風の吹き荒れる日がしばしばある。防火意識を高めようとの当時の為政者の思惑から出た習俗かも知れない。また、風が治まるとぽかぽかと、緑が芽吹くのどかな日和で、清明の野遊びや先祖の墓詣りをする習慣があった。そういう時は前以てこしらえた弁当などを食べて静かに優雅に過ごす。いずれにせよこの頃、煮炊きをしない一日があったのではないか。
 そういった古代中国の習慣が何故日本に伝わって子々孫々受け継がれ、ついには俳句の季語に残るまでになったのか。その辺の事情は全く分からない。分からないままに「寒食」は未だに大きな「歳時記」にはちゃんと載っている。そして大家とされる俳人たちがそれを律儀に詠んでいるのが面白い。
  寒食や竈をめぐるあぶら虫       炭  太祇
  寒食や冷飯腹のすいて鳴る       村上 鬼城
  寒食や凡夫の立てる膝がしら      飯田 蛇笏

  寒食や電子レンジのチンと鳴る     酒呑洞水牛
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2019年04月01日

俳句日記 (474)


新元号はレイワ

 四月一日、新元号「令和」が発表された。五月一日、皇太子浩宮殿下が新天皇に即位すると同時に「令和元年」が始まる。
 慣れてしまえば良いのかも知れないが、どうもこの新元号は響きが良くない。それに「平成」をはさんで「昭和」「令和」ではどうもくっつき過ぎる。連歌・連句では「打越」として誡められるような感じだ。
 「レイ」は零、霊、冷などという字が思い浮かぶ。「令」には「良い」「りっぱな」といった意味があるが、真っ先に浮かぶのは命令、法令、律令などといった法律法規、教訓めいた固い感じの言葉である。もっとも「其身正不令行」(其の身正しければ令せずして行わる。『論語』子路篇)という言葉もあるから、「モリカケ事件」を反省したソーリダイジンが自らの戒めとして選んだのかも知れない。
 まあとにかく、令和という年号は学者有識者ウン十人を集めて知恵を出し合って決めたものだというから、理屈はいくらでも付けられるのだろう。出典は『万葉集』巻五の梅の花を詠んだ三十二首の「序」だと言う。これまでの年号が中国の古典から引いたものばかりなので「今回は日本の古典から」というのは結構なことだが、それにしては引用した元の文章にちょっと引っ掛かる。これはお花見の座興で詠み合った歌合わせの、凝りに凝った美文調の序文なのである。
 天平二年(730年)正月十三日、大宰帥(だざいのそつ・福岡の太宰府長官)大伴旅人(おおとものたびと、天智四年─天平三年、665年─731年)が、自邸に山上憶良をはじめ仲間や部下を大勢招いて「梅見の宴」を開いた。太宰帥は西国を統べる重要ポストであり、大陸文化を受け入れる窓口の責任者という要職であった。これを無事勤め上げた旅人は翌年、当時の奈良朝廷最高位の従二位大納言に昇進し都に戻ったが、間もなく七月に六十七歳で没した。息子が万葉集の編集者の一人とも見做されている大伴家持である。
 実力者主催の宴会はさぞかし豪勢なものだったろう。主人の旅人は『わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも』と上品におとなしく詠んでいる。仲間や部下たちが梅見で一杯とわいわいがやがや楽しんでいるのを、いかにも満足そうに眺めている気分が伝わって来る。筑前守山上憶良は『春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ』という単身赴任者みたいな歌を詠んでいる。『梅の花夢に語らくみやびたる花と吾思ふ酒に浮べこそ』というのや、『年のはに春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ』『梅の花手折りかざして遊べども飽足らぬ日は今日にしありけり』という楽しい歌もある。
 奈良時代は桜より梅が尊ばれ、「お花見」と言えば桜ではなく梅見であった。この三十二首を読むと、まさに現今の会社あげてのお花見宴会と変らぬ雰囲気だったことがうかがわれる。
 年号をこういうくだけた歌と文章から引いたことが悪いというわけではない。むしろ好ましい事で大歓迎だ。それをしかつめらしく、これでもかとばかりに厳かに取り繕って発表する官房長官が滑稽で、「出典をちゃんと読んで理解しているのですか」と聞きたくなった。
  レイワとは四月馬鹿かと思ひけり   酒呑洞水牛
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2019年03月31日

俳句日記 (473)


鍵屋

 3月30日(土)、日経俳句会創設者故村田英尾先生の高尾の墓にお参りし、小金井公園の桜まつりに出かけた。吟行幹事の堤てる夫日経俳句会幹事長を先頭に、中央線沿線の行楽地に詳しい杉山三薬さんの引率で、墓参から花見昼食、「江戸東京たてもの園」見学、小金井駅近くの割烹での懇親会を楽しんだ。
 前の晩の予報は「雨時に雷、最高気温10℃以下」という、花見には絶望的なものだった。しかし、朝10時にJR高尾駅に集合した時には、寒いことは寒いが雨は降らず、時折薄日の射す極めて平穏な曇り空。参加者は堤、杉山両幹事と嵐田双歩、今泉而云、澤井二堂、田中白山、中村迷哲、野田冷峰に水牛。これに近所に用事があって午後の花見から参加の向井ゆりさんの総勢10人。
 英尾先生の眠る都立八王子霊園は高尾駅北口からバスで10分ほどの丘陵にあり、都心より平均気温で2,3℃は低いだろう。そのせいか、ソメイヨシノはまだ三分咲きだった。先生が亡くなったのが平成17年3月2日、その翌年から毎春ここにお参りしているから、これで13回目の墓参。墓を洗い、花を捧げ線香を焚き皆で祈って、またバスで高尾駅へ。そこから武蔵小金井駅まで戻り、またバスに乗り小金井橋へ。
 駅やコンビニで弁当、カップ酒など買い込んで、小金井橋から玉川上水沿いの桜並木通りを歩く。ここの桜はヤマザクラとオオシマザクラで風情がある。しかし、すぐ近くまで迫っている住宅街住民から落葉や日照問題などについての苦情が来るのか、かなり枝が切り詰められ、老樹はいずれも勢いを失っている。「桜切るバカ」と言われるが、住民パワーには勝てないのだろう。
 上水もあちこちに調整池が整備されたせいで、昔と比べ水量がぐんと減り、川底をちょろちょろ流れる貧相な小川に成り下がっている。「これじゃ太宰は飛び込んでもおでこを擦りむくのがせいぜいだ」と誰かが言う。それでも水はとてもきれいで、少し深くなった所には大きな真鯉や緋鯉が群れていた。
 小金井公園のソメイヨシノはほぼ満開。大勢の市民が花の下にシートを敷いて、弁当や重箱を開いて楽しんでいる。我々もその中に溶け込んで、買って来た弁当を食べ、ワンカップを飲んだ。少々寒いがこれも風流、「まさに花冷えだ」と粋がっている。ここのお花見は上野山あたりと違って、赤ん坊や小さな子ども連れの「家族花見」の多いのが面白い。中には犬まで一緒だ。公園にはあちこちに食べ物を売るテント屋台があり、「お湯割り焼酎一杯ヒャクエーンッ」なんて大声を挙げている。
 燃料を詰め込んで元気になった一同、江戸東京たてもの園散策に腰を上げた。両国の江戸東京博物館の分館として、平成5年(1993年)に小金井公園の一角7ヘクタールに開かれた建物公園。二・二六事件で凶弾に倒れた蔵相高橋是清の私邸をはじめ、江戸から昭和戦前時代の建築物を移築してある。
 中でも懐かしかったのが、下谷二丁目の言問通りにあった居酒屋「鍵屋」が昔の姿のままで眼前に現れたことだ。この建物は江戸末期のものである。昭和36年に入社した頃から40年代半ば頃まで賑わった下谷名物の居酒屋で、先輩たちによく連れて行ってもらった。振舞い酒に馴れて銀座赤坂辺の高級バーなどに行く経済部、工業部などと違って自前で飲む我々社会部記者連は、こうした安くて旨い店を探したものだった。入口を入った土間に鉤の手のカウンターがあり丸い腰掛が十くらい。左手奥は狭い小上がりで、どちらもいつも一杯だった。立って吞んで居る奴も居た。
 鍵屋は言問通りの拡幅工事か何かで閉店、その後、鶯谷駅近くの根岸三丁目の裏通りの踊りの師匠か何かの古い家を買い取って、元の鍵屋の店内の雰囲気を再現し営業している。料理も酒も下谷時代と同じで、先代の息子夫婦(と言ってももう七十代半ばとおぼしい)がやっている。ここもとても良い店で、数年前に水兎さん、馬淵さん(日経俳句会購読会員)などを誘って出かけた。その後も何度か行くが混んでいて五回に三回は入れないから、だんだん足が遠退いている。
 久しぶりに鍵屋を見たら、俄にガソリンが切れかかっていることに気づいた。幹事を促し武蔵小金井駅近くの割烹「一駒」に上がって、群馬の酒「龍泉」(これは純米というのに妙に甘い)と「八海山」にありついた。そう言えば「鍵屋」の酒は春から夏は「櫻正宗」、秋冬は「菊正宗」、年中通してあるのが「大関」、確かこの三つしか無かった。未だ「地酒」などがバカにされていた時代だったなあ、などと昔の事が次々に浮かんできた。
 「4月3日までに吟行句五句、メール送信して下さーい」。てる夫幹事の声が響く。
  咲きつぎし玉川上水山桜
  呼売りのお湯割焼酎花の冷え
  花の下知らず一万四千歩
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2019年03月27日

俳句日記 (472)


難解季語 (13)

つちふる(霾)

 「つちふる」とは春に日本海を越えて大陸から飛んで来る黄砂である。漢字で書けば「霾」。この字は音読すれば「ばい」であり、古代中国の詩歌集『詩経』には「終風且霾」(終りの風にかつまたつちふる)という句がある。春三月から五月にかけて、中国北西部やモンゴルの沙漠地帯では土埃が大風に吹き上げられて空一面がもうもうとなる。こういう奇っ怪な現象を起こすものは妖怪に違いないというわけで、古代中国人は雨冠にタヌキという字を組合せて命名した。
 要するにこれは中国奥地で強風によって高く舞い上がった黄砂が、偏西風に乗って北京をはじめ中国の都市部はもとより日本にも降り注ぐ季節的現象である。春に特有の現象で、昔の日本人も中国大陸からの土埃であることは認識していたようで、「霾」という難しい漢字に「つちふる」という読みを宛てたほか、「胡沙」とか「蒙古風」、「つちかぜ」などと呼んだ。また「霾」と書いて「よな」「よなぼこり」という読み方をすることもある。「よな」とは火山灰を指す古い日本語である。火山国日本ではしょっちゅう噴火があり、火山灰の降ることはしばしばあったから、中国から飛んで来る黄砂も火山灰の一種と見なして「よな」と言ったようである。黄砂が日光をさえぎり、どんよりと曇ってしまうのを「霾天(ばいてん)」とか「よなぐもり」とも言う。その色を強調して黄塵と詠むこともある。
 黄砂は中国本土で猛威を振い、それこそ眼も開けていられないほどになることもあるようだが、さすがに日本海を越えて日本にやって来る頃には大分薄まり、日本海側の地方で時に草木の葉や屋根にうっすらと土ぼこりが付着する程度で済んでいる。そのせいか昔の日本人は黄砂に対して鬱陶しさは感じるものの、「ああ嫌だ」というのではなく、春到来の告知現象としてとらえる趣きが強かった。
 「つちふる」という季語は今でもそうした詩的感興を以て詠まれることが多いが、近ごろのように単純な砂埃だけではなく、中国大陸沿海部に林立する工場の煙突が吐き出す大量の煤塵が含まれているとなるとそうそう呑気ではいられない。中国では増産第一の気風がいまだに強く、環境破壊の元凶となる煤煙などの排出規制や管理が極めて杜撰で、いわば垂れ流し状態。北京、上海あたりは息をするのも苦しいほどになっているようだ。PM2・5という微小煤塵が黄砂に混じって偏西風に乗り、朝鮮半島や日本にも降って来る。従って現代の「霾天」は、昔のように「これも春の景物」と大らかに受け止めることが難しくなった。
  真円き夕日霾なかに落つ        中村 汀女
  二荒山墨絵ぼかしに霾れり       松崎鉄之介
  つちふるや大和の寺の太柱       大峯あきら
  霾ぐもり大鉄橋は中空に        山崎 星童
  騎馬族の裔とし眺むつちぐもり     竹中 弘明

  花粉症に往復びんた霾ぐもり      酒呑洞水牛
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2019年03月25日

俳句日記 (471)



難解季語 (12)

たねもの(種物)・ものだね(物種)

 「たねもの」と言うと、現代の、特に都会に住む人たちは蕎麦や饂飩の「かけ」に天麩羅が乗っていたり玉子でとじてあったり、何かタネが添えられ趣向が凝らされているものを思いつく。しかし、俳句で言う「種物」や「物種」は野菜や草花の種のことなのである。彼岸を過ぎると、物種を蒔く頃合いとなる。
 戦前はもちろんのこと、戦後も昭和時代までは、この言葉は通用していた。しかし、日本が農業国から工業国に移行するに従って、だんだんと使われなくなり、具の入った蕎麦うどんか、おでんのタネなどと受け取られてしまうようになった。ただし、「種」という言葉が「物事の始まり」「根本」「最も大切な物」であるということは、「命あっての物種」とか「話の種」といった言い方に生き残っている。
 今では野菜や草花の種は園芸会社が作って袋詰めにしたものをホームセンターや花屋で買うのが普通だが、昭和末頃までは田舎はもとより大都市郊外にも種屋があちこちにあった。大概は乾物屋や雑貨屋を兼ねており、近隣の農家が採取した種を、品種名のスタンプを捺した茶色の紙袋に小分けして売っていた。
  海沿ひの村の種屋の燕の子    水牛
という句は平成の初めに安房の千倉に遊んだ時に、「タネあります」という懐かしい看板の掛かった万屋の軒に燕の巣があって、賑やかに鳴きわめいていた情景を詠んだものだが、とにかくのんびりした感じだった。
 近ごろは大きな種苗会社が優良選抜種子を大規模生産し、通販でも売り出すようになっている。それによって各地方の特色ある野菜や花の種は追いやられ、全国画一的なものになってしまい、村の種屋は次々に姿を消してしまった。
 農家にとって種は命から二番目に大切なものである。元々は「種」とだけ言えばそれは稲のタネ(籾)を指した。「種蒔」というのも、籾を苗代に蒔くことであった。それと区別するために、野菜や花のタネは「種物・物種」と言うようになった。稲以外の穀類、野菜、花種を蒔くのを俳句では「物種蒔く」あるいは具体的に「胡瓜蒔く」「朝顔蒔く」などと言った。
 現代は狩猟民族の裔であるヨーロッパ人とその流れを汲むアメリカ人が支配する世の中だが、徐々に中国やロシアなどの農耕民族が勢力を増し、遊牧民族のアラブ人たちも発言力を高め、これら諸国が隙あらば欧米主力国に取って代わろうとする勢いである。れっきとした農耕民族でありながら「種物」の意味も忘れてしまった日本人。覇権を争う切札となるIT、AIなどといった先端分野でも遅れを取っているという。これからどのような道のりを辿って行くのだろうか。何か素晴らしい物種が蒔かれているのだろうか。
  物種の袋ぬらしつ春の雨       与謝 蕪村
  狭き町の両側に在り種物屋      高浜 虚子
  ものの種にぎればいのちひしめける  日野 草城

  物種を蒔いてとんとん叩き祈る    酒呑洞水牛
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2019年03月23日

俳句日記 (470)


難解季語 (11)

りゅうてんにのぼる(龍天に登る)

 この訳の分からない季語は二十四節気や七十二候とは関係無く、中国の古典にある言葉を面白がった俳人が俳句に取り入れたものである。後漢の中葉、西暦一〇〇年前後に編纂された『説文解字(せつもんかいじ)』という中国最古の字典の「龍」の項に「龍は鱗虫の長(中略)春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」とある。ここから出た言葉で、龍という空想の動物が勢いよく天に駆け上って行く時候を言う。つまり、万物が生成躍動する時期であり、そうした勢いの良い雰囲気を表した言葉である。
 『説文解字』という字典が出来たのは、後漢の初代光武帝か二代目明帝が、現在の福岡県あたりを支配していた王に「漢倭奴国王」の金印を下賜した頃であろう。邪馬台国女王卑弥呼が権勢を振るった時代より百年ばかり前のことである。邪馬台国が九州にあったのか大和なのか、卑弥呼がこの金印を持っていた倭奴国王の子孫なのか、全てがよく分かっていないのだが、とにかく卑弥呼が進貢した魏という国が成立するずっと以前に、こういう字典が編纂されていたのだから、古代中国というのはすごいものだ。
 この後漢という帝国は、王莽の乱で滅びた前漢の権威を回復し国力をつけ、儒教を尊び学問を奨励するなど、一応は大漢帝国を旧に復したのだが、中国全土に威令が行き届いていたのは初代光武帝から四代くらいまでの百年ほどだった。後の百年は閨閥と宦官支配の乱脈政治が続き、『説文解字』が完成した頃には、しっかりしているのは中央の洛陽周辺だけで、地方は軍閥や盗賊の親分連中が勝手気ままに振る舞う世の中になっていた。やがては黄巾の乱が起こり、『三国志』で有名な魏呉蜀の三国時代に移って行く。
 こんな時代だから、龍が天に登ったり、雀が海に飛び込んで蛤になったり、その蛤が巨大になって蜃気楼を出現せしめたり、といった怪異談が続々と生まれるようにもなった。何か変なことがあると、それは何物かの祟りといった話が出来上がる。自然災害が天の神様の思し召しによるものだという考えが定着したのもこの時代だと言われている。
 こうした思想が先進国文化として飛鳥・奈良時代に続々と入ってきて、日本人の心に棲み着いた。そして日本の気候風土や日本人の気質とぶつかったり折り合ったりしながら、いろいろな解釈が付け加わっていった。それらが私たち現代日本人のものの考え方にも影響を及ぼしている。龍は天に登ったり、淵に潜ったりしながら、我々にいろいろなことを考えさせるのである。
 夏井いつきというユニークな俳人が『絶滅寸前季語辞典』という面白い本の中で、「龍天に登る」について実にいいことを書いている。「あり得ない季語から、リアルな作品はいくらでも生まれる。(中略)龍がフィクションの生き物であるなんぞは問題にすらなり得ない。作品そのものが、どんなフィクションの感動を手渡してくれるか、それが文学にかかわる者の唯一の関心事なのだ」と。
 のどかな春の日に、目をつぶって龍が天に登っていく情景を描いてみよう。しばし幻想世界に心を遊ばせ、目を開いて世の中を見渡し、五・七・五を紡ぎ出す。自分でも思ってもみなかった句が生まれてくるかも知れない。

  龍天に登ると見えて沖暗し     伊藤 松宇
  龍天に昇りぬ髪の静電気      吉瀬  博
  龍天に昇る月夜の蘇鉄かな     五島 高資
  龍天に昇るや不夜の摩天楼     内田 庵茂
  龍天に登る体力テスト表      鈴木みのり

  昇天の龍を仰ぎてもう二合     酒呑洞水牛
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2019年03月21日

俳句日記 (469)


日経俳句会第177回例会
「春雨」と「雀の子」

 3月20日(水)夜、鎌倉橋交差点そばのビルの8階で日経俳句会第177回が開かれた。3月は人事異動や子供や孫の入学、卒業といろいろな行事が重なって句会に来られなくなったり、天候不順による体調不良を起こす人もあるのだろう、出席者が17人と少なく、投句参加が19人に上った。
 兼題は「春雨」と「雀の子」で、これに雑詠を含め投句は3句、投句総数113句、選句6句で句会を進めた結果、最高点は9点で入会したての旛山芳之さんの「雛納め三人娘に会へぬまま」の1句だった。次席8点は「身体じゅう口に親待つ雀の子 庄一郎」と「クレソンの沢潤すや雪解水 迷哲」の2句、三席7点は「何事も一拍遅れ雀の子 万歩」の一句だった。以下6点が4句、5点2句、4点7句、3点13句、2点18句、1点26句と続いた。
 この日、水牛の選んだ6句は以下の通り。
  春雨を溜めて小枝の雫かな         てる夫
 美しい句だ。音も無く降る春雨。それが小枝の先に水滴となって、大きく膨らむと落下する。枝先には芽吹き間近の緑がかった芽がぽちんと見える。そうした景色を見つめる作者の心はゆったりと落ち着いている。句会でも大いに人気を集め6点を獲得した。
  春の雨来るらし鶫せはしなし        百子
 北へ帰る日が間近に迫ったツグミ。長距離飛行に備えて体力をつけようと懸命に餌をついばんでいる。ちょんちょんちょんと跳ね回り地面をつつき、周囲を見回し、また、ちょんちょんと。本当に忙しないねえ、でも雨が来る前にせいぜい食べておかないと・・。
  卒業式飛べよ飛べ飛べ雀の子        早苗
 小学校の卒業式の感じである。起立し、礼をして、卒業証書を受け取る時はいっぱしの顔つきをしているが、まだまだ嘴は黄色い。さあ、みんな元気に飛んで行け−。大胆な、「飛べ」のリフレインが効いている。
  鐘を撞く自動装置や寺の春         百子
 我が家の菩提寺も、坊主が居ないのに鐘が音を出し始めたのでびっくりした。省力化がこんな所にも及んでいるのだ。見つけた句材がいい。
  クレソンの沢潤すや雪解水         迷哲
 帰化植物のオランダガラシ。今は日本中の清流に自生している。春早くから芽生え、春の到来をいち早く告げる。新鮮さを感じさせてくれる句だ。
  北窓を開けて小蝿に出会ひけり       青水
 「北窓開く」という絶滅危惧季語とも言える季語を用いたのが手柄。仲春、長いこと閉じていた北窓を開き、二階や屋根裏部屋の風通しをする。おやおやもう小蝿がという一寸した驚き。これは嫌なイエバエではなく、ショウジョウバエなどの類の小蝿であろう。
 この夜の水牛句は「降れよ降れ花粉流せよ春の雨」という半ばヤケッパチになっているのが3点、「春雨や紺屋へ嫁ぎゆく高尾」が2点獲得した。紺屋高尾が年季が明けて約束通り貧乏長屋に嫁いだのが3月15日だったと言われているのを詠んだものだが、「近ごろこういう句が珍しくなったんで、いいなと思ったよ」と而云が褒めてくれた。
posted by 水牛 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする