2018年08月13日

俳句日記 (417)


雲の峰と雷電 (7)
大酒吞み

 雷電は身長6尺5寸(1.97m)、体重45貫(168kg)という、当時としては並外れた体格と抜群の運動神経を備え、まさに力士になるのが運命づけられていたような逸材だった。成人男性は五尺(約1.5m)が普通、5尺5寸(1.65m)あると大男と言われていた時代である。力士も大方は5尺8寸から6尺せいぜい、つまり1.7〜1.8mだった。そこに2mの巨漢が現れたのだ。
 当時も2mを越す巨人力士が居ることはいた。大相撲史上最も背が高い力士は長崎県平戸市出身の生月鯨太左衛門(文政10年・1827〜嘉永3年・1850)で7尺6寸(2.28m)、次いで島根県安来市出身の釈迦ヶ岳雲右衛門(寛延2年・1749〜安永4年・1775)と肥後熊本出身の大空武左衛門(寛政8年・1796〜天保3年・1832)の7尺5寸(2.25m)。深川の富岡八幡宮には釈迦ヶ岳の十三回忌法要を機に、実弟でやはり大関だった稲妻(真鶴)咲右衛門が建てた「等身碑」と、昭和になって作られた背高力士12人の四股名と身長を示した「巨人力士碑」がある。
 ただ、これらの巨人力士は大関を張った釈迦ヶ岳を除けば、ほとんどは成績が上がらず、土俵入りをするだけで相撲を取ることの無い「看板大関」というのが多かった。いずれも病的な体付きで、大空武左衛門36歳、釈迦ヶ岳26歳、生月24歳と早世している。そうした中で、雷電は「大きくて、強くて、健康的で明るく、頭が良かった」から、断然の人気者になった。
 江戸、大坂の本場所はもちろんのことだが、地方巡業も雷電一行が加わると大入満員になった。興行を司る勧進元はもとより他の部屋の親方・力士たちも、雷電と一緒だと実入りが増えるから大歓迎した。行く先々の旦那方や歓楽の巷でも雷電はもてもてだった。しかもいくら吞んでも平気という大酒吞みで、酒にまつわるエピソードが沢山ある。
 雷電には「張り手、閂(かんぬき)、鯖折(さばおり)」を禁じ手とされたという伝説があるが、それほど相手から恐れられ、取組む前から圧倒していた。とにかく21年間の本場所の成績は254勝10敗2分14預5無勝負41休。「預かり」と「無勝負」は先に書いたように、抱え主である各藩のメンツをたてるために行司、検査役、さらには勧進元まで巻き込んでの政治的配慮。「休み」は当時、正当な理由があれば「無勝負」扱いだったから、結局、雷電の勝率は9割6分という空前絶後の成績である。とは云っても、雷電も兎に角10番は負けている。そのほとんどが、前の晩に大酒を吞んでの二日酔いが原因と云われている。いずれも、全く気を抜いたとしか思えない、一気の寄りや喉輪攻めや奇策によって、呆気なく負けたようである。
 10敗の中でも最大の番狂わせと言われたのが寛政12年(1800)十月場所の初日、幕下三枚目(現在の十両三枚目)鯱和三郎(しゃちほこ・わさぶろう)との取組だった。雷電のような人気力士でしかも一門の総帥を務めている身には、初日は兎角鬼門であった。前の日まで抱え主や贔屓筋、関係各所への挨拶やそれに伴う宴席で疲れがたまっている。巡業の日程のずれから、帰京して翌日が初日ということもある。しばしば初日を休んでいるのも、そういうことがあったためである。
 そんなこともあって、雷電に限らず大関の初日の取組は、座元が気を利かせて軽い相手を選んだ。何しろ雷電はそこまで新記録の四十四連勝中であった。誰もが雷電の勝ちを信じて疑わなかった。
 当時の仕切には制限時間が無いから、両者立ち合う気迫が漲り、呼吸が合うまで、何十回も仕切を繰り返す。どうせ勝ち負けは分かっている、退屈した客がぞろぞろ帰り始めた。当の雷電も「おい、いい加減にせい」という気分になっていたに違いない。ようやく息が合い、行司が軍配を引いて両者立ち上がった。鯱はぶちかますと見せかけて、さっと雷電の後ろに回り込み、あっと云う間に向こう正面に送り出した。雷電の完全な油断だった。
 鯱は幕内と十両を行ったり来たりの力士で、結局は最高位が前頭三枚目で終わったのだから、雷電の連勝を44で止めたという事だけで相撲史に名を刻んだ。鯱の所属する久留米藩は松江藩を凌ぐ相撲好きで、初代横綱小野川(この時期には引退し親方になっていた)以下、錚々たる顔ぶれが揃い、この場所の東方の幕内はほとんど久留米藩の抱え力士で占めていた。しかし、小野川以下、雷電には一辺も勝ったことがない。何としてでも雷電をやっつけたい。それには警戒されない鯱のような力士が油断を突くのが一番と秘策を練っていたようだ。
 とにかく、雷電はこの後また38連勝したのだから、なんともはや痛恨の1敗であった。たまたまこの取組を俳諧の大立者宗匠の大伴大江丸が見ており、「負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠んだ。大江丸も雷電フアンだったようだ。
  吞みすぎを誡めつつも新走り
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2018年08月11日

俳句日記 (416)


雲の峰と雷電 (6)

 東京を中心に南は鹿児島、北は函館まで新幹線が走っている。在来のJR線や私鉄各線は、まあこんな山の中までと思うような所にまで入り込んでいる。遠隔地には空路で行ける。21世紀の私たちは旅をするのがとても楽になった。しかし、その半面、日本の内航海運はすっかり日陰に追いやられた。
 明治16年(1883年)、16歳の正岡升少年(後年の子規)は郷里伊予松山の三津浜から便船で神戸に行き、まだ全通はしていなかった東海道線の列車と途中便船を乗り継いで東京にやって来た。全国津々浦々から青雲の志を抱いて上京する青年達は、海路や河川の舟運を利用した。現代の我々がすっかり忘れてしまっている「海の道」「川の道」が、明治時代までは厳然として在った。雷電日記を見ると人々の生活に船路が生きていたことが分かる。
 「寛政三亥年(1791)春 二月十八日出立仕り甲州通り府中在の稲毛村と申す所にて晴天五日間の興行仕り候 廿七日相済まし廿八日出立仕り川舟に乗り下り川崎宿へつく 品川御殿山下にて晴天十日の稽古相撲仕り候 (中略)此の相撲もはんぢやう致し申し候 此給金六両二分も取り申し候 花(祝儀)も五両ばかりも之有り候 花はみな女郎屋へ参り候 それより上総国きさらずと申す所へ参り五日興行仕り候 此所にても給金四両ばかりも取り申し候 四月三日初日にて十五日相済み申し候 十五日 押送舟(東京湾近辺の魚を日本橋魚河岸へ急送する快速船)を廿五貫文出し 柏戸、芦渡(二人とも雷電の弟子で松江藩お抱え)私三人舟に乗り候ひて、未中刻(午後二時頃)舟を出し仕り、二里ばかりも沖へ出でし候所、漁船参り、此の魚を江戸へつみ候と申す事に候ニ付き、船頭船賃は取る事無用にして此の魚を積ませ下され候と申す事につき魚を積ませ、品川沖へ戌刻(午後7時)ころに参り・・・戌中刻(午後8時)ころ(品川の)宿へ参り申し候」
 日記によると、雷電一行(一番弟子の柏戸はじめ幕下の芦渡その他取的や他部屋の力士、行司、呼出、小者など含めて恐らく20人くらいか)は旧暦2月18日、甲州街道を江戸から西へ約30キロの府中へ向かい、そこから南下して多摩川を越え稲毛村(現・東京都稲城市)で5日間の興行(巡業花相撲)をした。その後には品川での巡業が控えている。
 巡業には褌、化粧回し、紋付袴、着替えなどを入れた明荷(葛籠)をはじめ、幔幕その他相撲の道具などさまざまの物があって、大変な大荷物である。陸路は大八車に積んで人足や取的が運ぶのだが、これが大変な労力と金銭を要した。そのため、巡業では川や海に近い所では舟運を利用した。今回も稲城市から川崎まで多摩川の舟運を利用した。川崎から品川は2里少々(約9km)だから、この方がずっと楽だ。
 品川御殿山での花相撲は連日大入り満員で、雷電の給金は六両二分と花代(ご祝儀)が五両余りと予想外の収入だった。当時の一両が今日の円でどのくらいになるかは、計算が非常に難しい。米価換算では一両30万円から40万円、衣料品その他消費者物価によると80万円から100万円という換算も成り立つ。雷電が故郷の長野県東御市に現存する家を建てるのに掛けた費用が50両ということから計算すれば一両は40万円くらいか。とにかく10日間の興行の給金が250万円から600万円というのだから悪くない。御祝儀の2,3百万円で弟子や取り巻き連中を従え品川宿名物の遊郭で豪勢に遊んだという。
 この後、雷電一行は品川から舟で東京湾を渡り木更津で晴天5日の巡業相撲。その帰り、木更津から品川へ押送舟(おしょくりぶね)を雇った。これは東京湾、相模灘などで獲った魚を日本橋魚河岸へ急送する舟で、帆をかけた上に4人から8人の水夫が艪を漕ぐ快速船である。相模湾で獲れた堅魚を押送舟で日本橋まで半日で運んだ。木更津にもこの舟の仕立場があったのだろう、雷電一行はこれを雇って品川まで一気に走らせた。ところが途中で漁船に出会い、獲った魚を品川まで運んでくれと頼まれた。本来この押送舟は雷電一行の貸切だったのだが、船賃は受け取らないということで魚を積み込んで、一緒に品川に帰った。こんな風に舟運は日本人の暮らしと文化の伝播に深く結びついていた。
  多摩川を梨の花愛で下りけり
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2018年08月07日

俳句日記 (415)


雲の峰と雷電(5)

 雷電の江戸大相撲のデビューは寛政2年(1790)11月、満24歳になってからだった。天才と言われたにしては甚だ遅い本場所登場だが、これは抱え主の雲州公松平治郷の都合によるものだった。藩主がお国入りで松江に帰る時には随行しなければならないから、江戸の本場所には出られないのだ。しかし雷電は上京した17歳の頃から江戸でも近在でも、花相撲と呼ばれていた巡業場所に出て、その実力を示していたからデビュー早々、番付は関脇だった。
 その折の日記にはこう書いてある。「寛政二戌年秋 江戸大相撲相勤申し候 場所は本所回向院に御座候 相撲はんぢやう(繁盛) 小の川もなげ候 晴天十日の内 友鵆 小の川弐人とは勝負無しに御座候 極月十二日相済み申し候」
 この頃の相撲は雨や雪や勧進元などの都合でしばしば休みが挟まるので、十日間の興行が千秋楽を迎えたのは12月12日、ほぼ一ヵ月かかっている。ここに出て来る「小の川」は雷電の師匠である谷風梶之助のライバル横綱小野川喜三郎、友鵆(友千鳥)はその当時前頭四枚目で、どちらも筑後・久留米藩のお抱え力士である。この二人との勝負は「勝ち負け無し」(預かり)で、他の取組は全て勝ち、このデビュー場所は「八勝二預かり」の優勝相当(当時は優勝制度が無かった)の華々しい成績だった。
 しかし、疑問が残るのが、雷電が日記ではっきりと「小の川もなげ候」と書いておきながら、「勝負無しに御座候」と含みを持たせた書き方をしていることだ。これについて小島貞二の書いたものなどを見ると、雷電は小野川を寄り立て土俵際で投げを打っての完勝だったらしい。しかし、抱え主である久留米藩側から「小野川の打っちゃりが効いている」と猛烈な抗議があって、検査役が「預かり」の判定を下したのだという。友鵆との一番もやはり久留米藩側からの執ような抗議で「預かり」の判定。
 同じようなことは松江藩もやっている。これは雷電が引退後、松江藩相撲頭取に就任してからのことだが、同藩には雷電の後を継ぐ剛の者が居らず、ようやく玉垣額之助というのが関脇まで上がって来た。藩としては玉垣をなんとしても大関にしたい。そこで雷電に「弱い相手と取り組ませるよう相撲会所に働きかけよ」と命が下った。雷電貫禄に物言わせ相撲会所に圧力をかけたのだろう、文化8年(1811)11月場所の関脇玉垣は十日間で三役とは当たらず、幕内8人、幕下(現在の十両)1人と対戦、5勝1敗1預かり2無勝負1日休みという成績。なんとこれで玉垣は大関に推挙されてしまう。翌年4月、玉垣は新大関で本場所に臨むが初日、二日目は休場(恐らく分の悪い相手だったのだろう。当時は何らかの理由を挙げて休場届けを出せば「無勝負」扱い)、三日目からは幕下二人と幕内一人に勝って三連勝。その場所は天候異変や諸々の事情が重なって五日間で打ち切りとなったから、玉垣は三勝二休みで新大関の面目を保った。しかし場所後、相撲頭取雷電宛てに「引退願」を出して廃業してしまった。
 とにかくこの当時の大相撲は大名同士の意地の張り合い、親方や胴元、有力贔屓筋の思惑が絡み合い、かなりいい加減な勝負がまかり通っていたようだ。そのせいで、この当時の記録を見ると「分け」「預り」「無勝負」というのが盛んに出て来る。「分け」は真剣に渡り合い双方力を出し尽くしての「引き分け」である。だが、「預かり」と「無勝負」というのが曲者である。際どい勝負になると抱え主双方から強烈な物言いがつく。困った検査役は取りあえず、「この勝負は(検査役の)預かり」としたり、「無勝負=引き分け」としたようである。
 江戸時代はインチキでいい加減なやり方がまかり通っていたものだなあと呆れていたら、何と今日のスポーツ世界も同じようなものらしい。日大のアメリカンフットボール・チームの監督とコーチが自軍の若手選手に相手チームの有力選手を怪我させるよう指示していた事件や、日本ボクシング連盟の「終身会長」の地元選手には審判が有利な判定をすることが"慣行"になっているといったスキャンダルが、次々に噴き出している。「清潔感みなぎる」ことが売り物の高校野球甲子園大会も、都道府県代表チームと言いながら、監督も選手も全国からカネで集められた顔ぶればかりといった問題等々、人間のやることはいつの時代も同じようであるらしい。
  川風に櫓太鼓と鰻の香
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2018年08月03日

俳句日記 (414)


雲の峰と雷電(4)

 「雷電日記」というものがあると聞いたのは私が中学生の頃、つまり1950年から52年頃のことだったと先に述べたが、無論その当時は大した関心も寄せなかった。生意気盛りも手伝って、相撲取がまともに日記を付けるなんて考えられない、偉人伝によくある大げさに褒めそやす話の類だと聞き流した。
 それがとんでもない間違いだと知ったのは、平成22年10月23日、奥の細道を訪ねる日経俳句会の吟行会で秋田県象潟へ行き、郷土資料館で雷電日記を見た時だった。そこには雷電が目の当たりにした惨状や、地元の人たちの話す地震発生直後の状況を、生き生きとした筆致で書き留めてあった。
 芭蕉が「松島は笑ふがごとし、象潟はうらむがごとし」と書いたように、両者対象的な風情ではあるものの、両方とも海中に小島を点々と浮かべる景勝地だった。ところが文化元年(1804)6月4日夜、出羽を襲ったマグニチュード7.1の巨大地震でこの辺の海岸一帯が1.3mから2mも隆起し、浅い潟湖だった象潟は陸地になってしまった。無論、私たちが訪ねた象潟は完全な陸地で、海底だったところは田圃になり、島はあちこちに点在する小山になっていた。
 この大地震で象潟一帯から山形県酒田市あたりにかけての被害は想像を絶するものだったらしい。雷電は二ヵ月後に現地を訪れたのだが、その時もまだ地震が破壊した状況はほとんどそのままだった。それにしても雷電はよく書き留めておいたものだと感心する。私事には一切触れようとしない男が、巡業先で遭遇した出来事については、自分の見たことだけでなく、周囲の人たちから実体験を聞き出して書き綴っている。雷電という人はこの「日記」が主人の松江藩主松平治郷(不昧)はじめ関係者の目に触れることを意識して綴ったに違いない。ともあれ雷電日記の「象潟地震」のくだりを抜き書きしよう。
 「八月五日出立仕り候(文化元年八月五日、秋田市八橋の興行を終えて出立)、出羽鶴岡へ参り候ところ、道中にて、六合(由利本荘市)より本庄塩越通り致し候ところ、先ず六合より壁こわれ、家つぶれ、石ノ地蔵こわれ、石塔たヲれ、塩越(象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺、杉の木地下へ入り込み、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水有り、塩参り節(上げ潮時)ハくびまでも之有り候。其の形九十九島有ると申す事に御座候、大じしんヨリ下ヨリあがり、をか(陸)となり申し候。其の地に少しの舟入り候みなとも有り、これもをかとなり申し候。
 (大地震の発生は)六月四日夜四ツ時(午後十時)の事に御座候。地われて、水わき出る事甚だ急なり。年寄り子供甚だ難渋の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通リ残り無くいたみ申し候。酒田にて蔵三千いたみ申し候と申す事に候。酒田町中割れ、北側三尺ばかり高くなり申し候との事に候。長鳥山(鳥海山)其の夜峯焼け出し岩くづれ下ル事甚だしきなり。
 七日(八月七日) 鶴岡へ着き仕り候。十日初日、廿日相済まし申し候(以下略)」
 簡にして要を得た書き方で象潟大地震の惨状を述べている。これは単に読み書きの出来る相撲取の日記ではなく、ジャーナリストの記録と言っても良い。
  雷電一行啞然残暑の地震跡
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2018年07月31日

俳句日記 (413)


雲の峰と雷電(3)

 今の力士は最低学歴でも中学まで9年間の学校教育を受けている。高卒、大卒の力士も多い。読み書きに不自由は無いはずなのに、新聞を読む者は少なく、ちゃんとした本を読むのはさらに稀で、大概はマンガかスマホゲームだという。もっとも、日本国を取り仕切っているような言動の副総理財務大臣だって読書といえばマンガばかりというから、相撲取の読書放れをとやかくは言えない。
 兎に角、まともな本を読まないとは言っても、力士も財務大臣も字は読める。「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだりすることが時々はあるようだが、まあ国会答弁で事務方の書いた答弁書などを読み上げているから、まずまず読み書きは出来るようだ。
 しかし、雷電が活躍していた江戸後期、読み書きが出来る相撲取は皆無と言ってよかった。自分の四股名が書かれた番付を読めない力士が多かったのだ。無理も無い。大概の相撲取は貧農の倅か、その日暮らしの日傭い稼ぎの息子で、寺子屋など縁遠い育ちである。たまたま体力と抜群の運動神経に恵まれていたために拾われたのだ。弟子入りしてからは稽古と、親方や先輩力士に言いつけられた仕事で日が暮れる。読み書きを習う機会に恵まれないままに大人になり、幕下、幕内、小結、関脇、大関と出世街道を歩んで行ったとしても、文盲のままである。
 その点、雷電は違った。太郎吉と名乗った少年時代、土地相撲の勧進元で寺子屋もやっていた庄屋の上原源五右衛門(源吾右衛門とも)に見出され、住み込みの門弟になって相撲の稽古とともに読み書き算盤をみっちり仕込まれた。生来利発だったのだろう、それを認めた源五右衛門は太郎吉を近所の寺の和尚の下に通わせて四書五経をみっちり仕込んでもらった。だから、江戸相撲の親方浦風に連れられて江戸に上った17歳の太郎吉は、田舎相撲では既に負け無しの力を備えていた上に、読み書き算盤はもとより漢籍も読める、当時の田舎出の若者としては考えられないようなタレントになっていた。
 腕力知力が優れていただけではなく、雷電は生来真面目な性格だったようで、江戸に出て以来、死ぬまで日記をつけていた。雷電がつけていた日記は現役時代の「諸国相撲和(控)帳」と、引退後、出雲・松江藩の相撲頭取になってからの「萬御用覚帳」だが、一般には併せて「雷電日記」と呼ばれている。その原本は長野県東御市の雷電生家の関家に保存されているそうだが、私は見たことが無い。雷電日記について聞いたのは中学生の頃、相撲狂の亡父が「酒井の殿サンから聞いたのだが、雷電は総身に知恵が回る相撲取で若い頃から死ぬまで日記をつけていたんだそうだ」というのが始めてだった。酒井の殿サンというのは旧姫路藩の最後の藩主の跡取りの酒井忠正で、実際には廃藩置県以後の生まれだから殿様ではないが、やはり相撲キチガイで戦前は伯爵・貴族院議員で戦後は初代横綱審議委員会委員長になった人である。地位とお金にあかして相撲関連の資料やグッズを1万点以上も集め、それを元に国技館の横に相撲博物館を拵えて初代館長におさまった。この人が書いた「日本相撲史」上下巻は相撲の歴史を研究する人のバイブルで、この中にも「雷電日記」の記述がある。
 近年、と言ってももうかれこれ20年前になるが、力士出身の文筆家小島貞二が雷電生家にあった日記を借り受け、学者の助けを借りて現代語に訳した『雷電日記』(ベースボールマガジン社・1999年2月)を著した。これによって相撲フアンの間に雷電人気が一層高まった。水牛ももっぱらこれを参考にしている。
 日記の最初は寛政元年(1789)六月、雷電数え年23歳、江戸本場所デビュー一年前である。原文は活字になっても少々読みにくいので、適当に送り仮名をつけたり、文字を変えたり、必要最小限の補足を書いたりした、冒頭の一文は以下の通り。
 「六月、江戸表を出立仕り甲州街道を経て楫鹿沢(鰍沢)と申す所にて相撲七日興行仕り候。相撲相済み候て、それより川舟に乗り(富士川を下り)岩淵と申す所に付く。東海道を通り大阪表にまかり越し、八月まで逗留仕り候。八月一日、大阪表を出立仕り候ひて、御国表(島根県松江市)に同六日着き仕り候。同二十三日、御奉行田村弥市様のもとに(伺い)、御切米八石に三人扶持下し置かれ候」
 雷電が八石三人扶持で雲州藩のお抱え力士、つまり士族になった瞬間である。雷電は日記の中で、自分の結婚のことはもとより親や愛娘の死ですら書かず、もっぱら本場所、巡業の結果を淡淡と記しているだけなのだが、さすがに己の一人前の力士のスタートだけは書き留めておきたかったようだ。
 雷電の受けた「切米八石に三人扶持」というのはどの程度の年収か。「切米」とか「何人扶持」と言うのは、何石取りといった「知行取」の上級武士でなく、米の現物支給(それを時の米相場で換算し現金支給となる場合が多い)の下級武士の俸禄である。一人扶持は一日五合計算で一年分は約一石八斗だから三人扶持だとざっと五石強、切米は春夏冬に支給されるボーナスでこれが年間八石。ということは雷電の年収は米十三石。当時の米価は一石一両から一両二分くらいだったから、単純に米価で換算すると雷電の年俸は五百万円くらいということになる。もっともこれは単純に当時と今日の米価から換算したもので、衣料品はじめ生活必需品全般を以て精緻に計算すれば当時の一両は現在の百万円相当と見做せるかも知れない。とにかく、満22歳の青年としては高給取になったわけだ。
  風雲児秋の出雲の初土俵
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2018年07月24日

俳句日記 (412)


雲の峰と雷電(2)

 現在の日本相撲協会の動きを見ていると、失礼ながら、やはり総身に知恵が回りかねる人たちの団体だなあと思うことがある。しかし、文部科学省の指導監督下に、相撲興行を通じて相撲の指導・普及並びに相撲を通じて日本の伝統文化の継承、普及を図る公益財団法人という立派な組織である。
 これに対して雷電の活躍していた江戸時代後期の相撲興行の組織形態は今日とは比較にならないぐずぐずなものであった。相撲興行は幕府の許可を得た寺社が社殿改築の資金を広く集めるためという形を取り、勧進元というプロモーター兼プロデューサー(概ねはテキ屋の大親分)が寺社やパトロンとなる大店、有力力士を抱える大名家、相撲部屋の親方や大関など幹部力士を語らって本場所を運営していた。地方巡業も江戸本場所の形式を踏襲して、その地域の寺社や顔役に運営を委ねていた。
 江戸の本場所は安永、天明頃(一七七二〜一七八九)には本所回向院で開催することがほぼ定まっていた。ただ、この当時は今日のように国技館があるわけではなく、回向院の境内に仮設の木造三層建ての葦簀とムシロの小屋掛け。一場所十日間だが、屋根が無いから雨の日は中止である。降り続いたりすると二ヵ月、時には三ヵ月に及ぶこともある。
 そうなると、大関などの幹部力士や親方は一苦労する。何しろ弟子達や一門の人間を食わせなければならず、「抱え主」である大名への御機嫌伺いなどにも忙しい。親方や大関は中小企業の社長とも言うべき立場にある。本場所が長引くと年間スケジュールで決めている地方巡業との差し繰りが出来なくなってしまう。当時の江戸相撲の記録に有力力士の「全休」が目立つのは、そうしたスケジュール調整ができなかったという事情もある。横綱稀勢の里の八場所連続休場とは意味合いが異なる。
 もう一つ問題を複雑にしていたのは、「抱え」制度である。そもそも力士は奈良平安時代から存在し、出雲国、陸奥国など各国の領主が力の強い者を力士として抱え、朝廷が毎年七月に召集する相撲之節会で勝負した。旧暦7月は秋なので、俳句では「相撲」が秋の季語になっているのはここから来ている。そして、鎌倉時代になると武士が相撲を競うようになり、また相撲の強い者が武士に取り立てられるようになった。戦国時代から江戸時代にもその伝統が受け継がれ、大名は強い力士を「抱え力士」として武士に取り立てた。一方、その温床ともなった「土地相撲」というものがあり、その地域の祭や四季折々に勧進相撲を行っていた。その土地相撲に出る相撲取を束ね相撲部屋を組織していたのが親方衆である。
 本場所興行を開催する勧進元は、土地相撲の親方や有力力士を抱える大名家に掛け合って出場力士を集め、番付編成した。ということは、力士側からすると勧進元とは一場所ごとの契約で、終身雇用ではない。実際には一度本場所に出場すれば余程の問題が無い限り、毎場所出られたのだが、何とか身分的な安定が得られればそれに越した事は無い。
 一方、この頃は大名家同士の相撲試合が盛んになり、また十一代将軍家斉、十二代家慶が大の相撲好きで、江戸の大相撲をそっくり江戸城の吹上御苑に呼び寄せ「上覧相撲」を始めたことも手伝って、大名家は競って有力力士を抱えるようになった。雷電は本場所デビュー前に出雲国松江藩松平治郷(不昧)に召し抱えられた。雷電を仕込んだ初代横綱の谷風梶之助は讃岐国高松藩、谷風と並ぶ初代横綱小野川喜三郎は筑後国久留米藩のお抱え力士だった。
 このように強い力士は大概、大名のお抱えとなり苗字帯刀を許される武士になった。そして番付の出身地の欄には、本当の生まれ故郷ではなく、抱えられた藩の国名が付けられた。雷電の場合は信濃ではなく、出雲あるいは雲州である。強豪力士は藩名を輝かすスターだった。藩主の宴席に侍り、催事に顔を出し、藩主のお国入り(江戸勤番が解けて国元へ帰ること)には付き従って、国元で相撲興行を催したりする。そういう時には、江戸の本場所は「休み」にせざるを得ない。
 さらに、雷電が本場所デビュー(寛政2年11月場所、8勝2預かりの優勝)の翌年の寛政3年(1791)4月場所は初日から三連勝したところで中断、本場所は棚上げにされたまま、6月11日に初めての上覧相撲が行われた。雷電は関脇。結び前の一番で同じく関脇の陣幕と対戦した。ところが雷電は立つや一気に喉輪で攻められ、あっけなく土俵を割って、公式戦で初めての黒星を喫した。これは本場所ではないが、将軍の御前試合ということで力士本人はもとより抱え主の大名も力瘤が入るものだった。若い雷電は恐らく気負いすぎて固くなってしまったのではないか。その後、陣幕とは本場所で二回戦っているが二回ともちゃんと勝っている。
 上覧相撲は家斉時代に五回、家慶時代に二回行われた。雷電は初回に続き寛政6年の第二回、享和2年(1802)の第三回に出場し(第四回は引退後の文政6年で弟子の大関稲妻が出場)、いずれも大関として結び相撲を勝って締め括っている。特に第三回では「幕下(今の十両)力士五人掛」を上覧に供した。次々に出て来る五人の力士を投げ飛ばす豪快なアトラクションである。
 こんな風に雷電は天下無敵の大関として江戸はもとより全国的な知名度抜群の力士になった。その知名度を生かして、郷里の信州はじめ全国各地をきめ細かに巡業した。そして、その一部始終をきめ細かく「日記」に書き留めたのだから驚いてしまう。訪れた先々での興行の様子ばかりで無く、その土地の風物、遭遇した事件、事故などについて生き生きと描写しており、官製の記録や学者などが書いた物には無い、文献としても貴重なものである。次回はこれをちょっと読んでみようか。
  開け広げ涼風入れて日記書く
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2018年07月23日

俳句日記 (411)


雲の峰と雷電(1)

 つい先日の句会に「雷電の墓に詣でり雲の峰 木葉」という句が出されて、いたく感じ入り、NPO法人双牛舎のブログ「みんなの俳句」に取り上げた。江戸後期、17,8歳で信濃の片田舎から上京し相撲取りになり、天賦の体力、知力を生かして20年以上も最高位の大関を務め、本場所の成績254勝10敗、勝率96.2%という、今日に到るも誰も破れない圧倒的な記録を生み出し、絶対的な強さを見せつけた力士である。
 子供の頃から相撲が大好き、今は人ごみが億劫になって本場所にはほとんど足を運ばず、もっぱらテレビ桟敷になっている水牛だが、傍からはバカみたいと言われるほどじっくり見て居る。昨日終わった名古屋場所は予想の通り目も当てられない結果に終り、ああ情けない情けないと思っているところに、この雷電が浮かんで来て、両者の懸隔のあまりの酷さに唸ったのであった。
 雷電為右衛門は明和4年(1767)1月、信濃国小県郡大石村(現東御市)の百姓の息子に生まれ、幼名太郎吉。子供の頃から図体が大きく力が強く、13歳で小諸の城下町の米つき奉公に出た時には大人をしのぐ背丈になっていた。近隣の庄屋で相撲好きの上原源五右衛門に目をかけられ、ここに住み込んで相撲の手ほどきと読み書き算盤を仕込まれた。北信巡業の際に上原家を頼りにしていた江戸相撲の親方浦風林右衛門が太郎吉に目を止め、天明4年(1784)、太郎吉を江戸に連れ帰った。「負くまじき相撲を寝ものがたり哉」と詠んだ相撲好きだったと思われる蕪村が死んだ一年後のことであった。
 浦風は太郎吉を当時の角界第一人者谷風梶之助の内弟子とし、じっくり育てた。4年後の天明8年(1788)、実力の備わった太郎吉は松江藩のお抱え力士に採用され、「雷電」の四股名を与えられ、華々しくデビューしたものの、藩主のお国入り随行などで江戸の本場所にはなかなか出場できなかった。寛政2年(1790)11月場所、関脇付け出しで本場所初登場、晴天十日興行で8勝2預かり(勝負無し)で優勝相当の成績。以後、快進撃が始まった。文化8年(1811)2月場所、腰の調子が悪く全休、引退を表明。松江藩の相撲頭取に任命された。44歳だった。
 こんなスーパーヒーローを望むのは無理としても、もうちょっと何とかならないのかなあと思った。そんな中で、暗闇にぽっと灯火が光ったように見えたのが、千秋楽の御嶽海を苦闘の末に破った豊山である。これがものになるかなと、少し楽しみが湧いた。
  名古屋場所鯱も夏負けしたりけり
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2018年07月20日

俳句日記 (410)


どうするどうする

 水牛菜園の最盛期である。毎日、胡瓜が20数本、茄子6個か7個、大玉トマト3個、いんげん20数本、三尺ささげ20数本、オクラ5、6本、ゴーヤ4、5個。
 「いったいどうするつもりなの。もう、胡瓜なんか見るのも嫌、どうするつもり」と山の神は悲鳴を上げる。隣近所はもちろん、下町のタカハラ米店、ニイクラ酒店と配達している。しかしながら、下町商店街に無料配布するということは、取りも直さず山の神の仲良しである八百屋の正チャンの営業を妨害することになる。だからあまり大ぴらには出来ない。句会がある日は持って行ってスイートさんに押し付けたりしているが、それくらいでは到底はけない。
 「冷蔵庫の野菜室は1階のも2階のも満杯よ」と言う。「しょうがない、塩漬けにするか」「去年と同じじゃない。おととしもそうだった。その前の年も・・。そうして結局は捨てるンだから」。はいはい、分かっています。分かってはいてもそうせざるを得ないのが、夏場の園芸家の苦労。
 実は本日が今年3回目の胡瓜の塩漬け作りなのだ。前2回もそうだが、毎日穫れる胡瓜をせっせと食べて、人様に貰っていただいて、それでも積み上がるのが1週間か十日ばかりで5、60本になる。これを塩漬けにする。したはいいが、塩漬け胡瓜はこの炎暑だから、数日でカビが浮いてくる。そうすると全てを取り出して、残った漬け汁を大鍋に入れて煮沸する。それを冷まして、洗った塩漬け胡瓜を漬けダルに入れて漬け汁を注いで、また重石をかける。五日もするとまたカビが浮いて来る。また同じことを繰り返す。9月にかけてこれを七、八回繰り返す。すると、カビの方が呆れかえってしまうのか、もう生えなくなってしまう。その頃、塩漬け胡瓜はぺったんこの、いわゆる「板漬け胡瓜」になっている。こうなるともう腐らない。というより、腐りきってしまったのかも知れない。これを刻んで、おかかをまぶして七味を振り、醤油をたらりとかけて、茶漬けの具にすると実に旨い。
 だが、水牛が毎朝茶漬けに食う古漬け胡瓜の分量はたかがしれている。沢山、冷蔵庫に残っているところに、今年産が加わるという事態になる。「あなたは、捨てるために、こうしたものを拵えているの」と、山の神は言う。大昔、大学で冷たいドイツ人女性教授が詰問したのと同じ口調である。
 「うん、途中で味噌漬けやモロミ漬けにもするから、なんとかはけるよ。カショウやオオシマベンなんかは美味しいと言ってたから」などと、もごもご言いながら、50本漬けたのであった。
  猛暑酷暑得たりやおうと茄子胡瓜
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2018年07月16日

俳句日記 (409)


案の定

 無理を続けていると大相撲はダメになってしまう、相撲協会は、せめて酷暑の中の名古屋場所を昔通りの「準本場所」にする英断を下すべきだと言い続けてきた。水牛がそんなゴマメの歯ぎしりをしたところで、儲けの源泉をおめおめ断ち切るようなことはしないだろうが、無理し続けた咎めが遂に今場所はっきりと出た。これは今場所に留まらず、長く尾を引くことになるだろう。大相撲衰退の第一歩をしるしたのが、平成30年名古屋場所ということになるであろう。
 横綱稀勢の里が休場することは予想がついていた。左肩の負傷の治り具合どうのこうのと言うより、問題は精神状態にある。自信を持って土俵に上がる気構えが出来るかどうかで、今場所前、テレビが断片的に写す稽古場の表情、物腰からだけでも、とても無理という印象を受けた。この「心構えをつくる」ことがある程度出来れば、秋場所復帰は可能だが、それが中途半端のまま出て来ると、前半で幾つも取りこぼし、「休場・引退」になる。
 今場所、再起の場所と目されていた白鵬が途中休場となったのには驚いた。もっとも初日から、解説者は「力強い」とか「さすがは」とか言っていたが、どう見ても「くたぶれている」ことがはっきりうかがえた。支度部屋で落ちていたビニール袋で滑って足を挫いたなどというのが、そもそも衰えの証拠である。これに続いて横綱鶴竜も休場。これは精一杯やってきたことは認めるが、まあ三場所連続優勝など見込める力士ではない。大事に相撲を取っていてくれればいいものを、なまじっか三連続優勝の芽が出て来たなどと本人も色気づいたのか、早速無理をして身体を痛めてしまった。
 これで横綱不在場所になってしまい、後は新大関栃ノ心が頼りの場所になった。しかし、栃ノ心は水牛に言わせればこれまでが出来すぎ。あんな強引な力任せの相撲がいつまでも続くはずがない。いつかは必ず大怪我をすると、この前も書いた。案の定、小結松鳳山が吊られまいとしっかり腰を落として踏ん張っているのを外四ツから強引にごぼう抜きにした。こういう無理相撲は必ず後に響く。恐れた通り、六日目、けれんみの無い、ある意味では安心出来る相手の玉鷲に雑な相撲を取って引っ繰り返された拍子に足の親指を折って、あえなく休場となった。
 かくて名古屋場所は、哀れ、上から4人の人気力士が休場。七日目からは「大関です」と言うも恥ずかしい豪栄道と高安が交代で結びの一番を務める、まさに本場所とは言えない場所になってしまった。
 それにも拘わらず『満員御礼』の垂れ幕が下がっている。前売りで全部売れてしまっているからのようだ。
 結局、今場所は関脇御嶽海が優勝するのだろう。相撲協会はもちろん、NHKや新聞はこれを次の大関、大相撲のホープとしてヨイショするのだろう。しかし、この稽古をほとんどまともにやらず、天性の勘と技術だけで相撲を取って、気分が乗らなきゃ大事な取組をもあっさり落とすお天気屋が、今後の大相撲を担う第一人者になれる筈がない。
 期待の遠藤は相撲が小さくて名関脇といったところがせいぜいか。逸ノ城は体調管理が出来ないのか、大事なところで夏バテになったりしている。見どころがあると思い応援している輝は、まだまだ相撲が甘い。このままでは三役がせいぜいだ。
 こうして見ると、今の大相撲には時代を力強く背負う力士が居ない。白鵬はもう過去の人、鶴竜もそろそろ終り、稀勢はほぼ絶望、高安、豪栄道には望みを掛ける方が無理。しばらくはどんぐりの背くらべ、毎場所上位力士がごろごろ転がる、素人目には面白いが、味の薄い場所が続きそうだ。
  名古屋場所力士ごろごろ暑気中り
  
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2018年07月06日

俳句日記 (408)


加齢現象

 脳味噌が衰えている。80歳を過ぎて一年少々、認識力、判断力、記憶力が確実に落ちている。「日に日に」とまでは言わないが「月ごとに」くらいのスピードで衰弱が進んでいる。これに身体機能の衰え、視力聴力の低下が重なるから、失敗が多くなる。失敗するたびに「ああ情けない」と自分自身に対して怒る。自分自身を叱るだけなら、むしろそれは結構なこととも言えるのだが、時としてそれが外部に向かう。何かの拍子に他人の失敗を発見すると、ここぞとばかりにあげつらい、批判したりするのだ。これは、自らが失敗しがちになっていることを覚っているからこそ、その負い目をカバーするために他人の落ち度をことさらに騒ぎ立てるのだろう。こうなると、典型的な「嫌な老人」である。
 先日は俳句会の会報編集の総点検をしていて、字句の間違いや書き忘れなど、細かなミスが続出の原稿が送られて来て、向かっ腹を立てた。これまた典型的な「加齢現象」の現れと後から悟ったのだが、いきなり叱責のメールを、編集実務に当たってくれている後輩たちにぶつけてしまったのだ。ぶつけられた人たちにしてみれば、ボランティアでこうした辛気臭い仕事をやっているのに、頭ごなしにまるで腑抜け扱いのような文句を云われたらむっとするだろう。しかし、"メール発信汗の如し"、もう取り返しがつかない。
 今日は印刷会社への送金手続きでミスをやらかした。俳句会会員の句を取り上げてコメントを付し、「みんなの俳句」というブログで発信している。毎年この時期に前年一年間の掲載記事をまとめた本をNPO法人双牛舎から発行している。その第10集の印刷代金を印刷会社に振り込むために、銀行のATMに行った。しかし、そこのATMは手元が薄暗く、視力が落ちている身にとっては非常に辛い。ようやく操作手順を進めて払い込み先の金融機関名、支店名、口座番号を打ち込む処まで来た。しかし、請求書の欄外に小さく書かれている口座番号数字がはっきり読み取れない。請求書の小さな文字を灯りにかざして読んだりしているうちに、ATM画面の変な項目をタッチしてしまったのだろう、それまで打ち込んだものが全て消えて、最初の画面に戻っちゃった。
 怒りをぐっとこらえて、もう一度最初から辛抱強くやり直した。今度はうまく行った。万々歳。ところが、帰宅して改めて請求書とATMのご利用明細を比べ眺めたら、なんと、振り込んだ金額ははだかの印刷代金だった。本当はこれに消費税が加算された「合計請求代金」を振り込まねばならなかったのだ。「こんな、カーボン紙の薄れた文字では読めないじゃないか」と無性に腹が立った。しかし、自分の視力の衰えを自覚して、薄暗いATMの前に立ったら、まず最初に老眼鏡をかけるべきだったのだ。それをなおざりにした自分を忘れて、「こんな分かりにくい請求書を送りつけやがって」と相手をなじっている。
 このところ、そういうことが重なって、「いよいよ水牛も衰牛になり果てたか」と落ち込んでいる。
  誹るほど誹られてをり戻り梅雨
posted by 水牛 at 23:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする