2019年02月26日

俳句日記 (458)


難解季語 (2)

くわとく(桑解く)・しもくすべ(霜くすべ)

 蚕の餌となる桑は伸ばし放題にすればかなりの大木になるが、葉を摘むには人の背丈ほどに切り詰めて、根際からたくさんの枝(幹)が生えるようにした方が都合が良い、しかしそうした桑の木は真冬の強風や降雪に折れたり、傷んだりしてしまうから、晩秋に縄で枝を括る。春になってそれをほどき、枝を広げて芽吹きを促す。こうしていよいよ養蚕作業が始まる。
 シルクロードという言葉があるように、絹(その材料が生糸を採る蚕の繭)は中国の特産品で、中国からヨーロッパに至る絹輸出ルートが大昔に開けていた。日本にも奈良時代に絹や生糸、そして養蚕技術が伝えられた。しかし、中国の生糸の産出量は清朝末期の混乱で一挙に減少した。その時、日本の生糸が欧米商人の目に止まった。安政6年(1859)6月2日に横浜が開港されたが、早くも28日には横浜からイギリス向けに生糸が船積みされた。以後、第二次大戦中を除いて、昭和30年代初めまで、生糸は日本の外貨稼ぎの有力商品だった。明治から昭和初期まで、日本の輸出総額の5割から7割を生糸が占めていた。生糸で稼いだ外貨で欧米から機械や各種原材料を輸入し、それで拵えた雑貨や軽工業製品を輸出することによって、わが国はだんだんと力をつけていった。つまり、養蚕業が無ければ今の日本は無いと言ってもいい。
 養蚕はほぼ全国的に行われたが、生糸生産高が最も多かったのは群馬県、次いで長野、福島、埼玉、山梨だった。これら養蚕地帯で取れた生糸は八王子に集められ、現在の国道16号線を通って横浜港に運ばれた。
 生糸はこのように戦前の日本を豊かにしてくれた立役者だが、養蚕業は非常にデリケートで難しく、手間がかかった。「桑解く」で春先の作業が始まり、晩春、いよいよ蚕が卵から孵ると、出始めたばかりの柔らかい桑の葉を食べる。この頃、しばしば遅霜が降りて、桑の葉が真っ黒になって枯れてしまう。ことに最大の養蚕地帯である群馬長野では遅霜が頻繁に襲った。そうなると餌が無くなり、その年最初の蚕(春蚕・はるご)は全滅だ。養蚕農家にとって遅霜は死活問題である。そこで霜が降りそうな晴れた日の夕方から晩方、籾殻や杉の青い葉や松葉、一気に燃えない生木などをぶすぶす燻し、桑畑全体を煙で覆うようにして霜害を防いだ。これが「霜くすべ」である。
 「桑解く」も「霜くすべ」も昭和30年代までは関東甲信の田舎に行けばよく見られた光景で、春らしさを伝える季語だった。しかし、今や養蚕業は群馬県の一部などにごく少数残るだけで、ほとんど姿を消してしまい、この二つの季語も分かる人が年を追って少なくなって行く。この二つだけではない。養蚕は重要な産業だっただけに、米作りと並んで沢山の季語が生まれた。「蚕飼(こがい)」「毛蚕(けご・孵ったばかりの蚕)」「飼屋」「桑摘」「種紙(たねがみ・蚕が卵を産み付けた台紙)」などを始め数多い。

  桑解けば雪嶺春をかがやかす     西島 麦南
  道ばたに蚕の神や桑を解く      西本 一都
  解く桑におのが横づら打たれけり   武田無涯子
  桑へ星とびつくごとし霜くすべ    近藤喜太郎
  波うつて八ヶ岳立つ霜くすべ     澤田 緑生
  霜くすべ終へたる父の朝寝かな    皆川 盤水
posted by 水牛 at 20:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月24日

俳句日記 (457)


難解季語 (1)
 俳句の季語には時々首を傾げるようなものが出て来る。多くは漢語由来のものだが、中には江戸時代には盛んに使われていたが今では通じにくくなってしまった言葉、俗語、隠語など下世話な言葉、方言や地方の風俗習慣、動植物、食物などもある。近ごろでは外来語や流行語まで取り入れられるようになった。
 そういう「難解季語」をこれから目に付いた順にぽつぽつ取り上げて、よしなしごとを書き連ねてゆこう。

りょうしょう(料峭)
 これは今どきの世間一般の人の九割方が「何ですかそれは」と聞き返すだろう。しかし、「謹啓」「拝啓」で始まる手紙を書いていた人なら大概知っている。丁度今頃、早春に出す手紙の冒頭には、「謹啓 春寒料峭の候貴台御一統御健勝にて・・」と書く決まり文句の一つだったからである。
 わが国初めての本格的辞書として明治22年に出版された大槻文彦著『言海』にも「れうせう(料峭)春風ノ肌寒キ状ニイフ語」とちゃんと載っている。
 「料」は米をマス(斗)で「はかる」という意味から出て「おしはかる(推量)」「きりもりする」「かて(糧)」「手当」などの意味が加わり、「なでふれる」といった意味でも使われるようになった。「峭」は削り取られた(肖)「山」という字で、「険しい」「厳しい」ということを意味する。従って「料峭」は「きびしさを計る、感じる」ことで、いつの間にか早春の風が肌寒く感じられる状態を言う言葉になった。
 「いつの間にか」と書いたが、この言葉が使われ始めたのは随分古く、六世紀末の隋唐時代には中国の詩文には盛んに使われ、日本にも入ってきた。北宋の詩人蘇軾(蘇東坡・1036-1101)の「定風波」という題の詞(小唄)にこんな一節がある。
  料峭春風飲酒醒 (肌を撫でる風が厳しくて酔いが醒め)
  微冷      (冷えて来ちゃったよ)
  山頭斜照相迎  (けれど山頂の夕日が迎えてくれるじゃないか)
  回首向来蕭瑟處 (振り返れば俄雨にやられた来た道の寂しいこと)
  帰去      (さあ帰ろう)
  也無風雨也無晴 (風雨だろうが晴だろうが、問題じゃないさ)
 蘇軾という人は北宋第一の政治家で詩人で書家であったが、実権派の王安石との政争に敗れて左遷され、長いこと地方官として流遇の身にあった。これも元豊5年(1082)湖北省黄州の知事時代、田野散策中に俄雨に降り込められた後に詠んだものだ。
 まあとにかく、こうした「料峭」の詩や詞が日本で人気を呼び、平安時代以降、日本の詩歌にこの言葉がどっかりと坐り、昭和時代までインテリの手紙の中にも生き続けたのである。そして昭和時代初年に破調、無季俳句、社会的・時事的句材を取り込む新傾向俳句などが盛んになった時、どういうわけかこうした古臭い、硬質な言葉が持て囃されるようになった。それが今日まで延々と続いて、この難解季語は生き長らえている。
 幾つかの歳時記を当たってみた結果、「料峭」の句には以下のようなものがある。
  料峭や熊手にかかる松ぼくり     富安 風生
  料峭や家焼けて門残りたる      宮下 翠舟
  春料峭浪立ちあがるとき緑      岡田 日郎
  料峭の火の子人の子みな空に     中川 宋淵
  料峭と濤に日わたる漁港かな     三宅 一鳴

 料峭や畝に三筋の野菜の芽     水牛
posted by 水牛 at 00:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

俳句日記 (456)


日経俳句会第176回が開かれた

 2月20日(水)夜、日経俳句会が開かれた。回を重ねて176回。さしたる宣伝もしないのにじわじわと会員が増えて、今回も活きのいい現役が二人加入し59人になった。本日の句会にも20人が出席、19人が投句参加し、一人三句投句だから117句が集まった。
 例会の開かれる二ヵ月ほど前に水牛が兼題を二題ずつ出している。これと雑詠一句の計三句を句会の一週前までに幹事に送り、それを元に幹事が作った選句表を参加者にメール送信し、あらかじめそこから5句なり6句なりを選んで、句会に出席、披講する方式を採用している。そもそもは句会に出て短冊に書いて投句し、出席者がC記・選句・披講する伝統的な方式で行っていたのだが、人数が多くなってとてもそんな優雅な方式は無理ということになり、メールを駆使した新時代方式になった。それも数年前に投句数をそれまでの5句から3句にした。これでなんとかスムーズに句会が出来ている。
 兼題も百数十回も回を重ねると、どうしても以前に出した季語を繰り返すことになってしまう。新奇な季語となるとどうも作りにくいものになったりする。今回の兼題は「春浅し」と「バレンタインデー」。「春浅し」はまだしも、「バレンタインデー」は詠みにくかったようで、この兼題に寄せられた投句は40句あったが、あまり良い句が無かった。どうもチョコレート屋の商魂がちらついて、詩的感興が強く湧いて来ないせいであろうか。
 「春浅し」はさすがに伝統的な季語だけあって、少々昔風な古臭い句も見受けられたものの、なかなか良い作品が目に付いた。「雑詠」は毎回面白い句がいくつか出るのだが、今回はもう一つというものばかりだった。
 そうした中から水牛の選んだ6句は以下の通り。

  浅春の石打ち当てし鍬の先         而云
 これは「耕し」「春耕」を詠んだもの。きのう今日、すなわち「雨水」の頃の感じを良く表した佳句。冬場放置されて固くなった土を掘り起こし柔らかくして種蒔きの準備をする。鍬の先に小石が当たって金属的な音がした。まだ冷たい空気を切り裂くように、鋭く響いた。
  汚れ猫尾垂れて行きぬ春浅し        早苗
 云うまでもなく恋の猫であろう。それも恋の闘争に敗れ、尾羽打ち枯らした雄猫。もう意地も張りも失せ、すごすごと早朝の庭先を横切って行く。可哀想だが、滑稽味が漂い、実に面白い。
  丹頂の子別れ近し浅き春          木葉
 昨年春に生まれ夏に巣立った雛は、年が明ければもう身体は親と全く同じ大きさ。しかし、相変わらず甘えっ子で、母親を追って餌をねだる。母親は新しい恋の季節を迎え、いつまでもまとわりつかれるのが迷惑と、「早く独り立ちしなさい」と邪険に突っつく。毎年2月、釧路湿原に繰り広げられる光景。まだまだ零下の寒さだが、春はもうそこまで来ている。
  バレンタインデーたった一つを待つじいじ  実千代
 もうバレンタインの日などとは縁遠くなったオジイチャンにも、毎年、たった一人だけ、可愛い孫娘がチョコを届けてくれるのだ。本日のバレンタイン句の中の秀逸。似た情景を詠んだ『バレンタインチョコにお手紙「じいじすき」』というのがあったが、それはまさに「言い過ぎ」の句でくどさがあり、しかも「」書きなど論外。
  語りたき本ありバレンタインの日      綾子
 「本の日」の聖人は確かサン・ジョルディではなかったかと思うが、バレンタインの日も何となくこんな感じになる。ひそかに思いを寄せる人と、自分の好きな本の話が出来たらなあと願う。
  目薬の頰を流るる余寒なほ         定利
 余寒の雰囲気をよく伝えた好句。しかし、叙述に難がある。「余寒」というのは「なほ寒さがつづいています」という意味の言葉なのだから、これに「なほ」をくっつけてはおかしい。「なほ」は止めて「かな」ときっちり止める形にすれば良い句になる。
posted by 水牛 at 01:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月19日

俳句日記 (455)


今日は「雨水」

 2月19日は暦の二十四節気の「雨水(うすい)」。これまでの雪も雨に変わる、つまり春めいた気温になる頃合いを言う。天気予報が発達していなかった昔、農家は暦で「雨水」とあるのを目安に春の農作業を本格化し始めた。
 我が家の前庭の通路は芝生にしてある。と言っても怠け癖で放ったらかし、枯芝があまりにも見苦しいし、そろそろ新芽が出て来るから、重い腰を上げて芝刈りをした。長さ10メートル強、幅は広い所で2メートル、一番狭い所で50センチ。全体としては狭いような広いような面積だが、電動芝刈器といっても我が家にあるのは手で芝生の上を滑らせるバリカン式の小型だから、かなりの手間がかかる。
 もともと芝生など考えもしなかったのだが、15,6年前、まだ玄太という犬が元気でいたころ、散歩の途中のウンをスコップで掬っていた時に、すぐ傍のアスファルトの隙間に沿って高麗芝が線状に生えていたのを抜いて来て、居間の前の通路に面白がって植えた。それが徐々に、じわじわと広がって、ついにこんな立派な芝生の道になったのである。もうバリカン式の芝刈器では手に負えないほどに広がっている。植物の成長力には感心する。
 とにかく2時間ほどで刈り終え、凸凹を埋める目土(めつち)を篩掛けして作業終了。好い塩梅に雨がぱらぱらと降って来た。まさに雨水である。
 二十四節気というのは、太陽年(一年)を太陽の黄経に従って24等分(ほぼ15日)し、季節を表す名称をつけたものだ。奈良時代に中国から日本に伝わった。何故こんなものが必要になったかと云えば、昔の暦が月の運行を基にした太陰暦だったから、太陽年とズレが生じ、季節が合わなくなってしまうので、それを補完するために考え出されたものである。
 月は新月(無月の真っ暗闇)から満月を経てまた新月に帰るまで、29日半の運行である。古代の人はこの月の満ち欠けによる29日または30日を「ひと月」としてカレンダー(太陰暦)を作った。しかし、春夏秋冬の季節は太陽の運行によって巡る。太陽の一年はほぼ365日で、太陰暦の一年より約11日長い。ということは、月の満ち欠けを基準にした太陰暦に頼っていると、三年たつと季節が一ヵ月狂ってしまう。そのまま放っておけば18年たつと正月が真夏にやって来る。
 これでは生活に不便だし、何よりも暦は「農耕」の指針となるものだから、何とか修正する必要に迫られた。そこでほぼ三年に一度、「閏月」という特別の月を追加し、その年は一年13ヵ月として季節のズレを調整した。それと同時に、太陽の運行に従って一年を15日ずつ区切り、「今年の立春はいついつ、夏至は何月何日」というように記して農事をはじめ生活指針とするようにした。こうして出来たのが「太陰太陽暦」で、日本では奈良時代から明治5年まで使われてきた。
 現在は太陽の運行を基準とする太陽暦だから、1月、2月・・の月名と季節のズレはほぼ無くなったが、二十四節気は昔からの習慣と云うべきか、相変わらずカレンダーにしっかり書き込まれ、季節を感じるよすがとなっている。
 そして本日2月19日は立春(2月4日)に次ぐ二十四節気二番目の「雨水」。なんとなく春らしさが濃厚になる時期を示している。今日はその通り、横浜は日中13℃になり、冬支度で芝刈りをしていたら汗ばむほどであった。これから三月の「啓蟄」「春分」、四月の「清明」「穀雨」となって春が本格化する。
  芝刈って雨水の雨の程の良さ
posted by 水牛 at 21:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月18日

俳句日記 (454)


日経俳句会のこと

 日経俳句会は日経新聞社員のクラブ活動の一つとして平成16年(2004)7月、既存の「銀鴎会」と「水木会」という二つの句会を母体に生まれた。日経診療所顧問で俳人の村田英尾先生を主宰に仰ぎ、水牛が世話人(幹事長)として会員30数名でスタートした。
 英尾先生は大正10年(1921)生まれの戦前派。太平洋戦争の激しくなった頃に東大医学部に入り、沖中内科の俊秀として戦後の昭和21年に実施された第1回医師国家試験にトップの成績で合格したという伝説の持主である。学生時代から俳句が好きで山口邨の弟子だったのだが、沖中教授に「お前は俳句などにうつつを抜かしていいと思っているのか」とどやされて、ぷっつり止めたという、これまた伝説の持主でもある。生まれついての温厚なお人柄で、人を押し退けて先頭を走ることが苦手な質だった。それやこれやあって、地方の病院回りや筑波大学教授、大妻女子大学教授などを経巡って、日経診療所長として悠々然たる晩年を送られた。その所長も後進に譲って顧問になった平成10年(1998)春、「水牛さん、私も本格的に俳句を再開しようと思うので、句会を立ち上げてくれませんか」とおっしゃる。こうして始まったのが「銀鴎会」だった。日経の現役、OBを中心に英尾先生と水牛の友人を語らって、銀座の交詢社の会議室を借りて句会が始まった。
 平成13年暮れ、英尾先生が「診療所に来る人たちに俳句をやりたいという人がかなりいます。しかし、いきなり銀鴎会では敷居が高すぎる。私も手伝いますから水牛さんが手ほどきする句会を作って下さいな」とおっしゃる。ということで生まれたのが「水木会」である。ずぶの素人ばかりでどうなることかと思ったが、たちまち上達し銀鴎会の人たちに負けない句を詠むようになった。
 銀鴎会も水木会も英尾先生の主宰、顔ぶれも日経現役OBとその友人知己であり、吟行会は両者合同。これはいっそのこと合併した方がいいということになった。こうして2004年夏に二つを一緒にして「日経俳句会」が正式に誕生、会の公式機関誌『日経俳句会報』の発刊準備を進めていた2005年3月2日、英尾先生が急逝された。
 この後、日経俳句会は「主宰」を置かず、幹事団による集団合議制で会を運営し、何か問題が発生すれば毎月の例会に計って決めて行くということで進んできた。現在は会員59名を擁するしっかりとした句会になっている。
 会員が多くなり句会開催に種々の問題が生じた。現役世代も多いから例会の開催時間が夜間になるため、句会は2時間程度に収める必要がある。ということで、「事前投句・事前選句」を行い、句会当日は「選句披講」から始め、合評会を眼目とする句会と決めた。投句数も当初の5句から近年は3句にしている。
 最近の句会は1月16日に「新年一般」と「雑詠」で行われた第175回。以下のような佳句が寄せられた。
  また元の二人に戻り七日粥     嵐田 双歩
  天皇の声震わせて去年今年     植村 博明
  妻癒ゆる日を願ひけり大旦     大沢 反平
  命名の筆の硬さよ初硯       高井 百子
  端然と坐るが如く独楽回る     石 昌魚
  福顔の巫女より受ける破魔矢かな  大熊 万歩
  交叉点見下ろす眼光初烏      中嶋 阿猿
  断捨離の部屋隅々に初明り     野田 冷峰
  余生と言ひ晩年と言ひ雑煮喰ふ   廣上 正市
  十客の朱きお椀に集ふ春      池村実千代
  夢破るお掃除ルンバ寝正月     谷川 水馬
  赤き実の垣根に見ゆる三日かな   今泉 而云
  築地からどこへ越したの嫁が君   加藤 明生
  賀状読む友が周りに居る心地    澤井 二堂
  三が日巡査はすっくと交番に    鈴木 好夫
  門松の鋭く立ちて株下落      徳永 木葉
posted by 水牛 at 22:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月17日

俳句日記 (453)


いいぞ! ナナ子

 2月17日(日)、今年初めての中央競馬GTレース(最上級レース)が東京競馬場(府中)で行われた。これにデビュー4年目の女性騎手藤田菜七子(21)が登場、にわかに盛り上がった。フェブラリーステークスはGTとは言っても芝が枯れていてまともな馬が出て来ない冬場に呼び物をこさえようと、競馬会が砂馬場(ダートコース)の王者決定戦としてしつらえた競走である。夏のダービー、オークス、暮れの有馬記念など、芝の大レースとは違って地味である。だから、このレースには例年なら入場者は4万人台なのが、今日はなんと6万人を超える人が詰めかけた。
 これまでに日本の中央競馬には女性騎手が5,6人いたが、いずれも物にならないまま消えてしまった。それが、菜七子はデビュー3年で50勝を挙げ、今日、中央競馬会始まって以来初めて女性騎手でGTレース出場ということになったから、物凄い人気になったのだ。
 ナナコの騎乗馬はコパノキッキングという4才去勢馬。これまで4連勝しているとは言っても1400mしか走ったことがない。距離が200m延びてどうか。それに6連勝中の本命馬インティや6才牡の実力馬ゴールドドリーム、5才牡のサンライズノヴァ、サンライズソア、4才牡で実績のあるオメガパヒュームといった錚々たるメンバーに入ってはどうしても格下の感じが否めない。にもかかわらず4番人気になったのはナナコ人気の然らしむる所。水牛ももちろん、コパノとゴールド、オメガ、それに気になるユラノトという牡5才の組み合わせで買った。
 レースは逃げると思ったサンライズソアが、ポンと出たのにどういうわけか控えてしまって、本命のインティを楽々と逃がし、そのペースでレースが運んだ。初めての距離延長を考えたナナコはスタート直後手綱をぐっと引き絞って控え、後方待機して力を温存、ビリで進んで最後の直線に勝負を賭けた。しかし、逃げ馬の、それも実力のあるインティにマイペースで逃げられては、最後方から直線だけで勝負するのは無理。とても届かない。それでもナナコとコパは頑張って、どん尻から他馬をごぼう抜きにして、なんとか5着(入賞)にまで来た。インティを軽視していたから馬券は外したが、この奮闘には感激した。
 まあGT初挑戦のナナコを慮った馬主と厩舎が、「運が良ければ4,5着」をねらって「後方待機・直線勝負」を指示したのかも知れない。しかし、それを実行して期待通りの成績を収めたのは偉い。これまで水牛にはナナコを、タレント気取りの女騎手と軽んじる気持があったのだが、今日のレースですっかり見直した。ナナコは日本の競馬界に現れた本格的な女性ジョッキーの嚆矢と言っても良さそうだ。
  早春の府中を疾駆美人騎手
posted by 水牛 at 20:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

俳句日記 (452)


酔吟会のこと

 酔吟会という句会は日経社会部のOB連中が作った句会で、平成8年(1996年)に発足した。大留黃鶴さんという昭和5年生まれの先輩が元の社会部長で俳句のたしなみがある原文鶴さんを担ぎ、私と二年先輩の廣田耕書さんを番頭役にして12名で立ち上げた。と言っても、句会の場所が黃鶴さんの幼馴染みがやっていた四谷の碁会所で、碁を打ちながら酒を飲み、そのついでに句会もやろうという、その名も「酔吟会」。真面目な俳人が怒り出すようないい加減な俳句会であった。
 原宗匠が兼題を出し、一同5句ずつ作って出席し、短冊に書いて投句、それを皆でC記し、選句、披講、合評会へという伝統的な方式で句会を行った。二ヵ月に一回句会を開き、春秋二回日帰り、時には一泊二日の吟行を繰り広げた。元々筆達者な連中だから、見よう見まねで詠んでいた俳句も間もなく形がついてきた。しかし、口八丁の社会部の猛者連だから、実に騒々しい句会だった。みんな自分の句が一番だと思っているから、点が入らないとあからさまにふくれっ面になる。高点句をあしざまに罵る。罵られた方も黙ってはいない。二三倍の音量でやり返す。これに、句会前の碁の勝ち負けを巡るあれこれが重なるから、ますますひどいことになり、しまいには「何を、もう一度言ってみろ」「ああ、何度でも言ってやるわ」「うーむ、我慢ならん、もうお前とは金輪際口をきかん」「ああそれはこっちのセリフだ」という具合で、合評会もへったくれも無くなってしまうことも再三だった。それが二ヵ月後には、絶対に口を利かないはずの二人がまたにこやかに碁盤を囲んでいる。そんな具合の句会であった。
 しかし、定期開催場所の碁会所が閉店することになり、平成11年から日経本社(大手町旧社屋)社友室を土曜日午後に開けてもらい、以後10年間ここを根城とした。平成21年5月に皇居堀端に面した所に日経新本社が落成、旧社屋が取り壊されることになり、本社側の配慮で鎌倉河岸の日経広告研究所会議室を使用することになって今日に至っている。それと同時に酔吟会は伝統ある名称を残したまま日経俳句会の分科会となり、それまでの「社会部OBの句会」から広く一般に会員を募るオープンな句会に生まれ変わった。
 今では発足当初の破天荒な句会とは打って変わり、極めて大人しい、オーソドックスな句会になっている。メンバーも発足当初の12名の内、原宗匠、大留幹事長以下6人が鬼籍に入り、引退した人もあって、発足時メンバーで残っているのは片野涸魚、大沢反平、今泉而云に水牛のわずか4人になってしまった。その替わり、新進気鋭が続々参加し、20数人の生き生きとした句会に生まれ変わっている。酔吟会の良いところは、出席して短冊に作品を書いて投句し、それを出席者がC記し、選句、披講、合評するという伝統的な句会の方式を守っていることである。日経俳句会、番町喜楽会が参加者多数で投句総数が膨らんだ結果、「事前投句・選句」方式を取っているのと対照的に、土曜の昼下がりに悠々と句会の雰囲気を楽しめるところがいい。また、会発足以来の「二ヵ月に一回」開催というインターバルを守っているところも、ゆったり感をもたらす所以のようだ。
 1月12日(土)午後1時に今年初めての酔吟会が開かれた。兼題は「新年一般」、雑詠を含めて投句5句、選句7句での初句会。多彩な句が次々に披露された。人気を呼んだ句には次のようなものがあった。
 乗り過ごすこともめでたや初電車   嵐田 双歩
 ほぐしたる初髪ピンのあまたかな   星川 水兎
 頑張らない一年の計初雀       久保田 操
 松明けぬ豆腐屋店をたたみしと    須藤 光迷
 五色豆色それぞれの淑気かな     玉田春陽子
 廃れしは車の鼻の注連飾       徳永 木葉
 悪筆の元気ですかと問ふ賀状     廣田 可升
 ひよどりも烏も鳴かず雪催      大澤 水牛
 冬蠅や図書館ひとりシルバー席    岡田 鷹洋
 初夢やあの世この世を行き来して   片野 涸魚
 用水の微かに流る根白草       高井 百子
 元旦や患者ラッシュの当番医     堤 てる夫
 デパートで妻の転びし二日かな    今泉 而云
 おみくじの打ち捨てられて冬桜    大沢 反平
 浅漬けの紅大根添へ七日粥      大平 睦子
 書初めに一路邁進卒寿の書      工藤 静舟
 寝正月畝の潰れしコーデュロイ    谷川 水馬
 秩父路の狼吠えよ寒満月       野田 冷峰
 新春や時計の針を戻せたら      藤野十三妹
posted by 水牛 at 23:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月09日

俳句日記 (451)


難解季語

 NHKは毎週土曜日の午前11時頃から「ラジオ文芸選評」という番組を放送している。毎週交代で、俳句、短歌などを一般から募集し、プロの俳人、歌人が選び、選評を述べる。真面目でしかもほのぼのとした雰囲気の、とても良い番組だ。NHKが僅かに残している良心的番組の一つである。
 2019年2月9日は「俳句」。選者は西村和子という『若葉』から出た70歳くらいの元気なオバアチャン俳人で、きびきびした物言いが面白い。この日の兼題は「冴返る」で、いつものように入選作品を手際良く論評していく。
 私は何かしながら付けっぱなしのラジオを聞いているので、もしかしたら聞き違いかも知れないのだが、ふと聞き咎めた。冴返るの説明をしながら、「三寒四温という言葉もあるように、ちょっと暖かい日があるとまた寒さが戻るといった、そんな感じで・・・」というようなことを述べていたのだ。
 こういうベテランの俳人でも間違いを起こすんだなあ、季語というものはこわいなあと思った。「冴返る」は早春の季語だが、「三寒四温」はれっきとした冬の季語なのだ。
 三寒四温とは昔日本が中国東北地方や朝鮮半島を膝下に組み敷いて、盛んに進出していた頃、その方面の冬期の気象変化を言う言葉を季語に取り立てたものである。字の通り、三日寒い日が続くと四日暖かい日が続く。こうして厳冬に突入して行くという様子を示す現地語なのだが、「日本でも本格的な冬への移り変わりは似たような塩梅になる」ということで、大正から昭和初めに盛んに用いられるようになった。しかし、戦後、満州も朝鮮も日本の手を離れ、「三寒四温」という季語もいつの間にか忘れ去られたようになった。
 ところが、この十数年、「三寒四温」を春の季語と勘違いしたような句が目に付くようになった。「三日寒いとその後に四日暖かい日が続き、だんだん春の陽気が定着する」という解釈で、むしろこの方が、日本内地の春にぴったりな感じである。このままもう10年も経過すると、「三寒四温」は「春の季語」ということになってしまうかも知れない。
 季語も時代とともに古びたり、意味合いが変わるものが出て来る。そういった場合、やはり古格を守って、季語の持つ「本意」を大切にするか、時代と共に変わる解釈を容認すべきか。絶滅に瀕した季語をしっかり守るべきか、それともそういうものはさっさと捨てて、現代カタカナ語やローマ字略語などをどんどん取り入れていくべきか。
 一方で、俳句というものに「べき論」は似合わない、成り行きに任せた方がいいという考え方もあろう。とにかくいきなり一刀両断、結論を出すのは乱暴だ。さりとて、放置しておけば勝手な解釈がはびこり、最後には「何でもいいや」と収拾がつかなくなるだろう。はてさて・・。
  目貼剥げば亀の鳴くなり目借時
posted by 水牛 at 15:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月03日

俳句日記 (450)


番町喜楽会のこと

 「俳句日記」という小見出しを掲げて居りながら、自分の関わっている句会についてまともに取り上げたことがなかった。『水牛のつぶやき』というタイトルでよしなしごとを書き綴るコラムなので、皆の名前が出て来る句会のことを取り上げるのにためらいがあったのだ。しかし、「俳句日記」である以上、そして、いずれも私が立ち上げた句会なのだから、その動きを書き記すのは当然のことなのだと、20年近くたって気がつくお粗末さである。
 まずは番町喜楽会。これは水牛が関わる句会の中では一番新しいものだが、つい昨夜今年度の初句会が行われたものだから最初に取り上げることになった。
 平成15年(2003年)1月11日、水牛が相棒の今泉而云を語らい、上智大学独文科で一緒だった仲間3人を誘って発足したのが「番町句会」。句会の場所が而云と水牛が立ち上げた俳句振興NPO法人双牛舎の事務所のある番町ハイムだったところから名づけた句会である。
 この句会は、通常の句会が一段落した後、互選で最高点を取った句を発句にして連句会を開くのが特色だった。俳句会と連句の会を連続して行うユニークな会で、噂を聞いて山口詩朗(故人)や高井百子さんらが加入し、会員が徐々に増えていった。
 平成18年には而云が日経を辞めて第二の職場とした流通経済大学の教授連中と語らって立ち上げた「流溪句会」が誕生、番町句会と交流しているうちに、平成20年春に合併することになった。一方、新聞社時代の仲間須藤光迷が仕事上で知り合ったTDKという会社関係の人たちを糾合した喜楽会が生まれ、これにも顔を出すよう頼まれて出ているうちに、「これも一緒にしよう」ということになって、平成23年3月、「番町喜楽会」が発足した。その後、高井百子さんが教授を勤める産能大学の同僚や、日経俳句会からの流入もあって、「番町喜楽会」は30人を越す大句会になった。毎月、九段下の千代田区立生涯学習センターの会議室で賑やかな句会を繰り広げている。
 2月2日(土)午後6時に開かれた第158回例会。毎回、水牛が兼題を出しているが、今回は「建国記念日」と「下萌」。二つとも難しい題だが、なかなか良い句が集まった。互選で高点を取った句は:
  地の起伏あらはにみせて野火走り    春陽子
  眼の底は海の深さよ金目鯛       而云
  国旗掲ぐ門なき町や建国日       可升
  ともかくも休みのうれし建国日     幻水
  下萌に測量杭の容赦なく        春陽子
などであった。
posted by 水牛 at 23:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月31日

俳句日記 (449)


この国はどうなって行くのか

 何が驚いたかと云って、厚生労働省の統計調査のデタラメぶりである。開かれたばかりの国会でも盛んに取り上げられ、安倍内閣の責任が追及されているが、行政府の総元締めのソーリダイジン・アベチャンは「重大な責任を痛感しております」と表面神妙に振る舞いながら、全く責任を取ろうとしない。
 統計というものは国家運営上最も大事なものである。この数字を元に国家予算に始まって、もろもろの政策を決める。たとえば景気動向を見る上で重要な消費者物価指数は小売物価統計調査と家計調査を元に算定するのだが、もしこの調査統計数字がいい加減だったら、国の打ち出す経済政策が狂ってしまう。統計に基づいて自国の国力を算定し、敵国と目す国の国力と比べ、勝算ありとなれば戦争を起こすこともあるのだ。徒や疎かに出来ないのが統計数字である。
 今回問題になっている厚生労働省の毎月勤労統計の狂いが国民及び国の今後の政策遂行にどれほどのダメージを与えるものなのかは現時点でははっきりしない。それをはっきりさせることも勿論大切だが、それよりもっと大事なのは、何故こんな事が起こったのかをはっきりさせることである。日本の官僚組織は世界で最も優れたものと云われてきた。マスコミ人の端くれとして多くの官僚と付き合ってきた水牛もそう思っていた。もっとも私の現役時代は三十年も前に終止符を打っているから、それと今を比べるのは乱暴なのかも知れないが、とにかく、中央官庁には昔も今もエリート中のエリートが集まっている。それらがまとめて発表する統計数字がデタラメだったなどということを聞かされると、心底ガッカリしてしまうのだ。
 政府の冒した罪は一片の統計数字の誤りなどというものではなく、政府のやっていることに信頼が置けないという意識を国民に植え付けてしまったことなのだ。こうなるとアベノミクスは成功したか失敗だったかなどを論じることすらバカバカしくなってしまう。「すべてがいいかげん」と思わざるを得ない事態となっては、現政府に何かを望むということすら無駄だと思わざるを得ない。これは虚無へと通じる道であり、恐ろしいことである。
 とにかく、こんなことを思い暗澹としていたら、中国の女流画家王小燕さんから「久しぶりに日本に来ました。会いましょう」と云って来た。お父さんの中国の人間国宝で文人書画家王子武さんともども親しく付き合ってきた仲だが、もう七,八年会っていない。全く久しぶりの昼食会だった。席上積もる話の中で、最近の日本の政治のだらしなさ、先行きの不透明感などをぼやいたら、「そんなことないよ、日本は大丈夫。東京オリンピックの後も東京の不動産価格は下がらないよ」と極めて即物的かつ肯定的コメントが返ってきた。こんな問題多々の日本も、傍から見ると恵まれた国と映るようなのだ。
 「そうかなあ、確かに悲観しててもしょうがないかもね」と答えて、心なしか少し気が晴れた。
 つまづいて手摺にすがる雪催
posted by 水牛 at 21:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする